歴史の部屋

政策実施の措置 (原資料10枚目)

 1940年10月25日の政策研究において、近衛内閣は、汪精衛の指導下にあった中国の傀儡中央政府を承認すること、その政府と日本政府との関係を調整するために、それと基本条約を交渉することを決定した。この条約は11月30日に調印された。そして、傀儡政府に対する新しい大使は、長期戦の一手段として内閣は傀儡中央政府を認めたのであるから、この点を念頭に置いて、陸海軍と最大限度まで協力しなければならないと訓令された。

 企画院総裁及び元満州国の総務庁長として、星野は、日華基本条約の調印の際に、日本、満州国及び中国によって発表すべき共同宣言の交渉を積極的に指導していた。木村は1940年11月7日に、日満共同経済委員会の委員に任命された。日満華共同宣言は、11月8日に最後的な形式で仮調印され、1940年11月30日に、日華条約の調印が発表されたときに公けにされた。この共同宣言は、三国が軍事的と経済的の基礎において協力し、アジアの新秩序建設のために必要なあらゆる措置をとると述べていた。

 星野は、日本経済を新経済ブロックの線に沿うようにするための再編成について説明した。11月に、内閣は各産業の会社を産業別の連合会に結合する計画を決定したが、これは内閣から任命され、商工大臣の監督下に置かれた会長を通じて統制するためであると星野はいった。計画を実施するために法令が公布され、その後に計画の修正はほとんどなかったとかれは述べた。この計画の結果として、1940年に、少なくとも212を下らない大会社の合併が行なわれ、これに伴った資本金は23億円に上った。1941年の上半期には、30億円を伴う172の大会社の合併が行なわれた。

 三国条約に関する審議の際に、枢密院顧問官たちは、この条約の調印の後に起こるものとかれらが予想していた戦争に対して、日本の準備を整えておくためにとるべきいくつかの措置を指摘した。枢密院会議の直後に、星野は日本の財政機構を強化する措置をとり始めた。1940年10月19日に、『銀行等資金融通令』と称する勅令が公布された。その目的は、政府の指令に従って、すべての金融機関がその投資政策を調整することを要求し、政府の指令の結果として、金融機関がこうむった損害を補償することを定めることによって、財政に対する政府の統制を強化することにあった。同じ日に、会社経理統制の勅令が公布された。これによって、国家総動員法の目的を達成するために、金融機関は資金を保有することを要求された。

大政翼賛会 (原資料12枚目)

 1940年9月26日の会議で、三国条約が審議されたときに、枢密顧問官を憂慮させたことの一つは、いろいろな困苦に対して、日本国民が示すものと予期される反響であった。かれらは現にそれらの困苦をこうむっており、また合衆国は経済制裁を課するものと予想されるので、条約調印の結果として、それらの困苦は増大することになるのであった。この問題に対する近衛の答えは、1940年10月10日の大政翼賛会の結成であった。木戸と近衛は、1940年5月、米内内閣が瓦解する前に、大きな総括的な政党を組織することを論議したが、その実施を延期していた。この会の準備委員会に対して、橋本は政治団体の組織に関するかれの長い経験をもって寄与し、星野は同委員会の委員として援助した。大政翼賛会の条項は、この会が日本全国の各県、各郡、各市及び各家庭にまで広げられねばならないという明らかな意図のもとに、細かにつくられた。この会は、ヨーロッパの全体主義国家に倣って日本を一国一党国家にかえるために企てられたものであった。他の政党は廃止することになっていた。総理大臣がこの会の長となり、その一党の統領になることになっていた。この会の目的は、八紘一宇(「八紘一宇」に傍点あり)の目的を実現し、日本を光輝ある世界の指導者とするについて、天皇を助けるために、物心一如の国家体制を確立することにあるとして、婉曲に示された。

橋本及び白鳥、戦争政策の支持を民衆に要望 (原資料13枚目)

 大政翼賛会には、いくつかの付属団体があった。橋本はこの会の常任総務の一人であった。かれは極端な国家主義団体の赤誠会を結成した。結成のための旅行中、1940年11月7日に、かれは次のように赤誠会に対する命令を発した。『断乎起つべし。時迫る。あらゆる方法、講演会、座談会、ポスター等をもって即時強烈な国民運動を巻き起こし、あわせて国内親英米分子の大掃蕩戦を展開し、南進の気運を全国的に盛り上がらしむるよう運動すべし。』京都において1941年1月2日に、五千人以上の出席者があった同会の集会で、かれは演説を行なった。『兵に拝む』と題する人気を博した演説の中で行なったと同じように、この演説においても、橋本はイギリスとアメリカの打倒を唱道した。ここにおいても、かれは再び『南進』を主張した。

 この期間中、橋本は著述に従事していた。1940年12月20日に、かれは『革新の必然性』を出版し、1941年1月30日に、『世界再建の道』を出版し、『第二の開闢』の第14版を出した。『革新の必然性』の中で、年末に際して『大警鐘を乱打する』ときがきたということを述べた後に、かれは、イギリスがドイツ及びイタリアと戦争している今こそ、アジアと太平洋における新秩序建設に対するイギリスの反対を排除するために、同国を攻撃すべき好機であり、またイギリスの配属に続いては、合衆国に対しても攻撃しなければならないといった。かれの『第二の開闢』は、『橋本欣五郎の宣言』を含んでいた。世界は歴史的転換期に直面しており、『八紘一宇(「八紘一宇」に傍点あり)』を国是とする日本は、光輝ある世界の指導者になるために、飛躍的一歩を踏み出し、国民の全能力を挙げて、天皇に絶対的に従うことによって、本然の性格を直ちに発揮しなければならないというのがこの宣言の趣旨であった。日本のアジア大陸における発展と南方に対する進出とを妨害しているイギリスと合衆国を打倒することができるように、日本は戦争準備を完成すべきであるとかれはいった。『世界再建の道』の中では、全体主義的政府に対する支持と独裁者の手段に対する称賛とを誇示し、日本における5・15事件及び2・26事件とその他の陰謀に参加したとともに、満州事変、日本の連盟脱退、ワシントン海軍軍縮条約の廃棄に参加したことを認めた。

 1940年8月28日に、外務省外交顧問になるまで、白鳥はイタリア駐在大使の地位を保ち、全体主義的な線に沿って、政府を改造すること、アングロ・サクソンに同情をもっていると思われていた者を外務省から追放することに協力した。この期間を通じて、提案されていた三国条約を支持するために、かれは広い範囲にわたって講演と著述を行なった。1940年11月に、かれは、三国条約を支持するために、頒布の目的で、講演と雑誌論文のいくつかを集めて一冊の本に収めて出版した。1939年11月に出版された『欧州大戦と日本の態度』の中で、ヨーロッパ戦争は、極東における日本の目的を確立することを助けるように、展開させることができるとかれは述べた。1939年12月の『日独伊同盟の必然性』の中で、ドイツとイタリアの目的は、世界を比較的少数の国家集団に分け、各集団をそれに属する一国に支配させるにあること、アジアの新秩序を建設するために、すなわち、東アジアを支配するために、日本はドイツとイタリアが払っている努力に参加しなければならないことを述べた。1940年6月の『大戦の帰趨』の中では、ヨーロッパ戦争の口火は、まず中日事変によって切られたのであるから、日本はその戦争に実際には巻きこまれているのであるといった。ヨーロッパの新秩序の建設に反対しているドイツとイタリアの敵は、また日本の敵でもあるのではないかという意味深長な質問をかれは呈した。1940年6月の『不介入方針を検討す』の中では、日本は満州事変が起こってから、新秩序建設に主要な役割を果たしてきたのであるから、民主主義的資本主義を基礎とする旧秩序を破壊し、全体主義的な原則に基づいて新秩序を確立しようとしている枢軸諸国に速やかに援助を与えるべきであるといった。この援助はアメリカの艦隊を太平洋において牽制するという形をとるべきであると述べ、日本のとり得る代償として、オランダ領東インドと極東及び太平洋におけるイギリスの植民地とがあるといった。

 三国条約の調印の後においても、白鳥は著述を続けた。1940年9月29日の『日独伊同盟成る』の中で、後世の歴史家は、おそらくこの条約を『世界新秩序条約』と呼ぶであろうとかれはいった。というのは、それはアングロ・サクソン民族対チュートン民族、黄色人種対白色人種という人種的の闘争を象徴するばかりでなく、現状を打破し、新世界を規定した積極的な計画を含んでいるからというのであった。1940年12月に出版された『三国条約と明日の世界』の中では、全体主義運動は世界に燎原の火のように拡がっており、明日の世界には、世界と人間に対する他のどのような概念も存在する余地が残されていないとかれは述べた。日本は、日本国民の不変の信念として君主と臣民を有機的な一体とする原理を具現した純粋無雑の全体主義的政府を、その存在の全期間を通じて保持してきたとかれは言った。また、満州事変は、民主主義諸国が長い間負わせてきた条件に今まで抑圧されていた国民の健康な本能の爆発であったとかれはいった。さらに、八紘一宇(「八紘一宇」に傍点あり)の真の精神を再検討することと、その精神に立ち返ることをかれは求めた。中日戦争は根本的に日本と民主主義諸国との闘争であると指摘し、東洋における戦争と西洋における戦争は、事実において一つの戦争であると述べた。

総力戦研究所 (原資料17枚目)

 ある枢密顧問官は、三国同盟に関する審議のときに、戦争の場合における事態に対処するための準備について質問した。国策研究会(「国策研究会」に傍点あり)は、重大な政治問題の解決にあたって、政府を助ける調査と諮問の機関として、1936年以来存在していたが、その主要な価値は、財閥を軍備に結びつける媒介をつとめたことであった。総力戦研究所は、1940年9月30日の勅令によって、公式な政府の機関または委員会として組織された。勅令は、この研究所が内閣総理大臣のもとにあって、総力戦の遂行のために、官吏とその他の者を教育し、訓練するとともに、国家総力戦に関して、基本的な研究と調査をつかさどるものであると規定していた。星野は10月1日に研究所の所長事務取扱になり、かれのあとを襲って、陸海軍の高級将官が所長になり、1945年の4月まで、研究所の仕事は続けられた。鈴木は研究所の参与の一人であった。政府の各省がこの研究所に代表者を送っていた。政府の多くの部局とともに、台湾総督府、南満州鉄道、財閥諸会社及び横浜正金銀行も、この研究所に職員として代表者を送っていた。研究生は国内の諸活動の各分野から選ばれた。講義があり、研究または演習が行なわれた。研究所は、総力戦を計画するために役立つ重要な課題についての調査報告を作成した。

 日本が全東アジアの指導的地位に達するように、今までより多くの人力を準備するために、日本人の出産率の増加を奨励する運動が、1941年1月22日に、内閣によって採択された。星野がこの計画を提案し、内閣によって採用され、内務大臣平沼と陸軍大臣東条は、この措置を熱心に支持した。この計画によれば、早期の結婚を奨励するために、新婚者に資金を支給し、結婚年齢を引き下げ、産児制限を禁止し、子供の多い家族には物資に関する優先権を与え、出産率を高めるために、特別な機関を設けることになっていた。その目的は、東アジアに対する日本の指導的立場を確保し、東アジアに日本の計画を発展させるについて、労働と兵役に充てる人力を供給するために、人口を増加することであった。定められた目標は、1950年までに、日本の人口を一億にすることであった。この計画は適当な法令によって実施された。

三国条約に基づく協力 (原資料18枚目)

 この条約に基づくドイツ及びイタリアとの活発な協力は、この条約が調印されてから間もなく始まった。大島は、1940年10月27日に掲載された一新聞記事の中で、三国条約が締結され、世界新秩序建設という日本の目標が明示されたということはまことに感激にたえないが、国民は時を移さずこの目標の達成のために、不動の決意をもって準備しなければならないと書いた。大東亜及び南方地域における新秩序建設の機会を失わないように、ドイツ及びイタリアとの経済的及び軍事的の相互協力が速やかに完成されなければならないとかれは説いた。

 この条約の三締約国は、1940年12月20日に、条約によって規定されていた委員会を結成することを協定した。この協定は、一般委員会と二箇の専門委員会、すなわち軍事及び経済委員会を設置し、これを三国の各首府にそれぞれ独立して組織すべきこととしていた。陸軍省軍務局長としての武藤と、海軍省軍務局長になっていた岡とは、東京における軍事専門委員会に委員として任命された。

 この協定が成立した日に、大島はドイツ駐在大使に任命され、ベルリンにおける一般委員会の委員になった。陸軍と海軍は、大島が三国同盟の強力な支持者として認められており、その任命はドイツ及びイタリアとの協力を促進すると思われたので、大島を大使に任命することを主張した。1月15日の大島の渡独壮行会におけるあいさつの中で、松岡は、大島はドイツの首脳者間に、絶大な個人的信用を築いているので、かれらとは膝を交えて版すことができるから、かれが大使としてドイツに帰ることは、衷心から喜びとするところであること、三国条約の実際的活用は、大島の手腕にまつところが多いことを述べた。

 大島がドイツに到着した後にドイツを訪問することを、松岡は計画した。かれの目的は、条約に基づく協力を促進すること、中日戦争の解決に対するドイツの援助を確保すること、及び南進の行なわれている間、ソビエット連邦を中立に立たせるために、三国条約に企図されているように、ソビエット連邦との不可侵条約を交渉することであった。追って取り上げるが仏印とタイの間の国境紛争の仲介がドイツへの出発を遅らせた。1941年3月に、かれはベルリンに到着し、リッベントロップ及びヒットラーと会談を行なった後、モスコーに向かい、そこで、1941年4月13日に、日ソ不可侵条約を締結した。この条約の批准は、1941年5月20日に、東京で交換された。われわれが示したように、またわれわれが他の箇所で論じたように、この条約は、日本がソビエットを犠牲にして自国の拡大をはかるという目的を放棄したことを意味するものではなかった。この条約は、便宜上生まれたものであった。それは時機の選択の問題であった。中国における戦争が進行中であり、イギリス、オランダ、場合によってはアメリカとの戦争も考慮されていたので、ソビエット連邦と直ちに戦争することを避けるために、あらゆる努力をすることが必要であったのである。

南方進出の準備 (原資料20枚目)

 1940年の9月と10月に、内閣が採択した方針のおもな点は、東亜共栄圏の建設を促進するために、日本、満州国及び中国から成る経済ブロックの確立であった。共栄圏の発展の第一段階は、仏印、オランダ領東インド、イギリス領ビルマ及び海峡植民地を含め、さし当たりフィリッピンとグアムを除いて、ハワイ以西の全地域へ進出することであると決定された。完全な侵略的計画が立てられた。中国に対する代償として、中国が仏印のトンキン地方に北部ビルマを併合することを許し、それによって、蒋介石大元帥との間の解決をもたらし、その軍隊を使用することが試みられることになっていた。軍事的と経済的の同盟の名目のもとに、仏印及びタイと保護条約を締結して、シンガポールに向かって前進するために、これらの両国に基地を獲得することが計画されることになっていた。しかし、日本の侵略に抵抗する準備をタイが行なうのを遅らせるために、日本とタイとの関係については、日本の軍事行動を起こす用意ができ上がるまでは、平穏なものと装うことが計画された。オランダ領東インドの諸島における油田とその他の資源の破壊を防ぐために、オランダ領東インドに対する作戦行動を開始する前に、シンガポールを占領し、シンガポールを攻囲中に、住民に独立を宣言させ、油田を占拠させ、これを日本側に無傷で引き渡させるように呼びかけることが決定された。これら地域における進出を助けるために、仏印、ビルマ及びマレーにおいて、独立運動が利用されることになっていた。軍事行動は、蒋介石大元帥との間の解決か、ドイツのイギリス侵入か、どちらが先になったとしても、それと同時に始められることになっており、どちらも起こらなかった場合には、ドイツがなんらかの実質的な軍事的成功を収めたときに、開始することになっていた。行動はドイツの軍事的計画と歩調を合わせることになっていた。

 1940年11月中に、近衛内閣は、中日戦争の解決のために、蒋介石大元帥に対して接近し始めた。松岡は蒋介石大元帥に対するかれの申出を続け、かれがベルリンで行うことになっていた会談の結果として、それが有利に進展することを期待していた。しかし、日本が中国の傀儡中央政府を承認したことは、大元帥との協定に至るすべての可能性を消滅させてしまった。


タイの要求

 ヨーロッパで戦争が起こるとともに、タイは1904年に仏印に奪われた領土の返還の要求を、仏印に提出した。1940年6月12日に、仏印とタイとの間に不可侵条約が調印された。その条項の一つは、国境紛争問題の解決のために、委員会を任命することを規定していた。1940年6月17日、フランスがドイツに休戦を求めたときに、タイは1940年6月12日の不可侵条約を批准する条件として、自己の希望に従って国境を修正することを要求した。

 1940年8月30日に、いわゆる松岡・アンリー協定が日本とフランスとの間に締結され、これによって、フランスは日本軍の北部仏印への進駐に同意した。1940年9月28日に、タイから仏印当局に覚書が送付された。この覚書の中で、タイはその要求を繰り返し、メコン河をタイと仏印との間の国境にすることを提案した。この覚書には、フランスが仏印に対する主権を放棄しない以上は、また放棄するときまでは、タイはラオスとカンボジアにおける領土の要求を強いるようなことをしないと述べられていた。10月11日に、フランスはこれらの要求を拒絶した。そこで、タイは国境に沿って軍隊の集結を開始し、フランスも同じように軍隊を集結してこれに対抗した。敵対行為が間もなく起こるかのように見えたが、日本が仏印の占領をその北部に制限したので、日本の支持がなくなったタイは、その振り上げた手を打ち下ろすことを差し控えた。
 1940年の10月の下旬に、タイと仏印との間の国境紛争に関する近衛内閣の意向を知るために、タイは使節団を日本に派遣した。1940年の9月と10月に立案された日本の計画には、日本のタイの不可侵条約に基づいて秘密委員会を設立し、これに日本とタイの軍事同盟の準備をさせ、日本がシンガポールに対する軍事行動を起こるとすぐに、この同盟条約に調印することにするという提案が含まれていた。そこで、1940年11月5日と21日の四相会議で、もしタイが日本の要求を容れるならば、タイの仏印に対する交渉を援助し、仏印をしてルアンプラバンとバクセをタイに返還させて、タイの要求を受け入れさせるということが決定された。タイの総理大臣ピブンは、日本の要求を受諾した。日本はこのようにして、紛争の係争点をあらかじめ決定しておき、後になって、その紛争の仲裁者となることを主張したのである。

 1940年11月21日の四相会議の後に、松岡はドイツ大使に対して、もしタイがその領土要求を限定するならば、近衛内閣は喜んでタイと仏印との間の仲介をするであろうということをタイに提案したと通告した。もし必要があるならば、ヴィシーのフランス政府との交渉に、日本はドイツ政府の支持を要請するであろうとかれは同大使に語った。また、仏印をして日本の要求に同意させるように、仏印に対する示威行動として、巡洋艦一隻をサイゴンに派遣することになっているとも語った。この巡洋艦は、12月の中ごろに、サイゴンに到着する予定になっていた。

 紛争のいわゆる『仲介』についての日本の条件に対して、タイの総理大臣が同意したので、タイは仏印に対する軍事行動を再開し、1940年11月28日に、タイとフランスの軍隊の間に交戦が行なわれた。この交戦に乗じて、松岡はフランス大使に対して、1904年にフランスに割譲した地域を回復しようというタイの要求に関して、仲裁者になろうと通告した。大使はその翌日に回答し、ヴィシーのフランス政府は仲裁の申し出をありがたくおもうが、仏印の領土保全が尊重されることを期待するといった。

仏印とタイをシンガポール攻撃に利用する予定 (原資料25枚目)

 1941年1月23日に、ベルリンの日本大使来栖は、シンガポールへの南進は、仏印とタイの領土を通過してから、マレー半島という陸橋を利用しなくては考えられないとワイゼッカーに説明した。そのためには、日本のタイとの取極めに、イギリスが干渉することを阻止しなければならなかった。外交顧問白鳥によって指導されていた一派は、かれらが太平洋地域における要衝と考えていたシンガポールを直ちに攻撃することを要求していた。その結果として、日本軍当局と東京駐在のドイツ陸軍武官とは、1941年1月に、そのような攻撃の可能性について研究した。その到達した結論は、サイゴンを占領し、その後にマレー半島に上陸するという順序で、この攻撃は遂行されなければならないというのであった。

 1941年1月30日の連絡会議は、仏印とタイの間の紛争の調停を利用して、両国内における日本の地位を確立し、将来シンガポール攻撃に使用するために、カムラン湾に海軍基地を、サイゴン付近に航空基地を獲得することを決定した。この決定を実施するためにとられた処置については、後に取り扱うことにする。調停の真の目的は隠しておき、交渉は紛争当事国の間の平和を維持するための試みであると称することに決定された。連絡会議の後に、近衛、参謀総長及び海軍軍令部総長は、会議の決定について、天皇に報告し、その承認を得た。この決定を知っていた木戸は、その日記に、御前会議を差しおいての、このような方法は異例であるとしるした。

 ヴィシーのフランス政府が仏印に増援部隊を送ることをドイツは阻止した。そして、仏印は1941年1月31日にタイとの停戦協定に調印するほかはなかった。停戦協定の条項によると、両国の軍隊は、1月28日に占めていた線から退き、また一切の軍事行動を停止することになっていた。日本は停戦協定が守られるように監視することになっていた。この協定は、恒久的な平和条約が締結されるまで、効力を続けることになっていた。1940年の9月と10月に行なわれた最初の仏印侵入の期間中、南支那派遣軍に従って臨時の任務に就いていた佐藤は、この停戦協定の実行を監視する日本代表の一人であった。紛争解決のための協定が日本とヴィシーのフランス政府との間に成立し、フランスが日本のすべての要求に同意した3月まで、佐藤は軍務局の自己の任務にもどらなかった。

 停戦協定が調印されたので、調停の準備が進められた。1941年2月5日と6日に、日本の調停委員が任命されたが、その委員の中には、松岡、武藤及び岡がいた。交渉は2月7日に始まることになっていた。2月6日に、松岡はドイツ大使に対して、かれの内閣は調停を利用して、フランスとタイの両国にどの第三国とも戦時的または軍事的な協定を結ばないことに同意させる意向であると報告し、それをドイツ政府に通知するように依頼した。

 タイと仏印との間の紛争において、日本がこのように調停した結果は、1941年5月9日に、ヴィシー・フランスとタイとの間に平和条約がついに調印されたときに現われた。この条約には、すべてタイの主張の通りに、フランスはタイに地域を割き、国境はメコン河の中央線に沿って設定されるものと規定された。1940年11月の5日と21日の日本の四相会議で、この結果が決定されていたことをわれわれはすでに述べておいた。


連絡会議

 1941年1月30日に、総理大臣と参謀総長及び軍令部総長がとった措置は、太平洋戦争の終わりまで、慣例として踏襲された先例をつくった。重要な決定は、連絡会議でなされ、天皇の承認を得るために、直接にかれに報告された。その後は、御前会議は宣戦の布告のような最も重要な問題に関してだけ開かれた。従って、その後は、連絡会議は日本帝国の真の政策決定機関になった。会議の構成員は総理大臣、外務大臣、陸軍大臣、海軍大臣、内務大臣、陸軍参謀総長及び海軍軍令部総長と双方の次長、陸海軍の各軍務局長、企画院総裁、並びに内閣書記官長であった。第二次近衛内閣においては、東条、平沼、星野、武藤、企画院総裁に任命されてからの鈴木、及び海軍省軍務局長に任命されてからの岡がいつもきまってこれらの会議に出席し、政府の諸政策の作成と実行に参加した。

外交上の討議 (原資料28枚目)

 1941年2月に、イギリスの外務大臣アントニー・イーデンは、時局について懇談するために、大使重光を招致した。かれは極東における事態が極度に緊張しているという報道に言及し、日本だけが極東の紛争を調停する権利があるという松岡の声明と主張を承認し得ないといった。かれは当時フランスとタイとの間に行なわれていた調停の欺瞞的な性質をとがめた。イギリスは極東におけるその領土を防衛する意思があるとかれは言明した。重光は、緊張した事態が存するのを知らないと答えた。しかし、証拠によれば、かれは危機に瀕した事態について知っていたばかりでなく、近衛内閣が採用した諸計画と、それらを実行に移すために、その当時までにとられていた措置とについて、熟知していたことがわかる。かれは、イーデン氏の言葉をもって、日本とイギリスの関係が危機に瀕しているという前提に基づいてイギリスの立場を明白に表明したものと解すると述べた。そして、イギリスとアメリカの協力について不満を述べた後に、本国政府に完全な報告をして、訓令を求めるつもりであると述べた。

 このイーデン氏と重光との会談のうちに、1940年の9月と10月に採用された計画の第五の条項を実行するための機会を松岡は見出した。その条項というのは、適当な時期に、日本はイギリスがドイツと融和するように仲介を試み、その仲介を利用して、東南アジアと太平洋の近接地域を日本が支配することについて、イギリスの承認を得るということであった。その計画によれば、この承認の代償として、日本はオーストラリアとニュージーランドとを含むイギリス帝国の保全を約束し、またイギリスとの一般的な経済的協力を約束することになっていた。松岡はフランスとタイとの間の調停を行なっていた。そして、1941年2月10日に、かれはシンガポールに対する攻撃を準備中であるとドイツ大使に伝えた。しかし、2月13日には、重光に対して、極東において危機が切迫しているというイギリス大使の報告は、笑うべき妄想であるとイーデン氏に伝えるように訓電した。

 松岡は重光に対して、イギリス大使の報告は、日本が仏印とタイに軍事基地を獲得し、それから、ドイツがイギリスに侵入するのと相呼応して、南洋方面で、イギリスに対する行動を開始するであろうという仮定に基づいているように見受けられると告げた。松岡はこの報告の根拠を内々調べてみたが、それを見出すことができなかったので、なんの根拠に基づいて、東京における大使がこの人を驚かすような報告をしたか了解に苦しむといった。松岡の否定にもかかわらず、イギリス大使の報告の実質は、松岡が出席した1941年1月30日の連絡会議によって、実際に決定されたことであった。日本は軍事行動によってなんら益するところがないから、日本が今にも軍事行動を開始することを計画しているという新聞報道には、まったく根拠がないとイーデン氏に伝えるように、松岡は重光に訓令した。

 1941年2月15日に、松岡は東京でイギリス大使と会見し、極東において危機が切迫しているということに関する大使の情報の出所を知ろうと試みた後に、イギリスと合衆国が刺激的行動をとることを慎んでいる限り、日本はどのような事情においても、これらの諸国に疑念を感じさせるような行動を起こさないつもりであると保証した。大使は松岡が南進を阻止するつもりであるかどうかを尋ね、また、フランスとタイとの紛争の調停者としての役割に対して、日本は法外な代償を期待するものかどうかを尋ねた。松岡は最善の努力を尽くして南進を阻止するつもりであると答え、大使に対して、紛争の調停にあたって、日本の目的とするところは、ひとえに仏印とタイとの平和を回復するにあることを保証した。

 1941年2月20日に、マレーにおけるイギリス駐屯軍の増強に関して、松岡はイギリス大使に苦情を申し入れた。また、アメリカ大使に対して、イギリスはマレーにおける駐屯軍を増強することによって、攻勢的な行動をとりつつあるといって松岡は苦情を述べた。アメリカ大使は、明らかに守勢的な措置と攻勢的なものであると日本が解釈し、そう特徴づけることは、自分には意外に思われると回答した。かれはそれから、日本が恵州、海南島、新南群島を相ついで占領したことに言及し、仏印における軍隊の集結と南進の意図を公言したことにも言及した。イギリスも合衆国も、これらの事実をもって、日本の平和的意図を示しているものと解釈することはほとんどできないとかれはいった。

 1941年2月17日に、松岡はイーデン氏に対して通牒を送った。極東において危機が切迫しているという報道をかれは否定した。三国条約の第一の目的は、第三国の参戦を阻止することによって、ヨーロッパ戦争の範囲を局限し、それによって、戦争の速やかな終結をもたらすことにあるとかれは主張した。これが三国条約の唯一の目的であり、この条約は日本の外交方針の根幹をなしているとかれはイギリス政府に保証した。太平洋と南洋方面における仮想された緊急事態に対して、イギリスとアメリカの政府が準備を企図しているから、自分は心配しないわけにはいかないと述べ、もし合衆国がその活動を西半球内に限定したならば、事態の緩和は実に著しいものがあるであろうと述べた。ついで、かれの最も念願するのは常に世界平和であり、中国とヨーロッパの戦争を速やかに終結させることを中心から希望するといった。ヨーロッパの戦争の解決のために、日本が仲介者として起つことをかれは示唆した。

 イギリス政府は、1941年2月24日の松岡の仲介の申出に回答した。太平洋と南洋におけるイギリスと合衆国の準備は、まったく防衛的なものであり、両国は日本に対して攻勢的な行為に出る意思はないということを日本政府に保証した後に、イギリス政府は、ヨーロッパ戦争の仲介の申出を拒絶した。イギリス政府は、ヨーロッパにおける敵対行為が開始される前に、それを回避しようとあらゆる努力を払ったが、このような敵対行為に入ることを余儀なくされた以上は、これを勝利によって終わらせる以外には、なにも考えていないと述べた。

 チャーチル氏は、この回答が日本政府に送られた日に、重光と会談し、戦争の継続に対するイギリスの決意を強調した。かれは、日英同盟の締結当時以来友好的であったイギリスと日本の関係が、悪化しつつあることについて、遺憾の意を表明した。もし両国間に衝突が起こったならば、悲劇であろうということ、シンガポールの周辺に建造中の防御施設は、単に保護のためであるということを述べ、ヨーロッパ戦争において勝利をうる確信を表明し、松岡が述べたようなこの戦争の仲介の問題は起こらないであろうとかれはいった。重光は松岡が仲介を示唆したことを否定し、松岡は単に平和を希望する日本の精神を強調しようとしただけであると述べた。日本に抗戦する重慶政府に対して、イギリスが援助を与えていることについて、かれは遺憾の意を表明した。

 1941年2月27日に、チャーチル氏にあてた申入れの中で、三国条約に基づく日本の意図について、松岡は自分の説明を再確認し、日本はイギリスを攻撃する意図がまったくないことを再び保証した。2月17日のイーデン氏にあてた通牒が仲介の申出と解釈されたことについて、かれは驚いたと称しながらも、その考えに反対するものではないことをほのめかした。

シンガポール攻撃の準備 (原資料33枚目)

 イギリスとアメリカの協力を破り、ヨーロッパ戦争の仲介によって、東南アジアへの日本の進出をイギリスに容認させようという試みが失敗したために、日本の指導者は、それに代わる計画として、シンガポールを攻撃し、同じ目的を武力を使って達しようとする計画をとらなくてはならないようになった。この攻撃のための準備は、急速な歩調で進行した。コタ・バルにおける上陸作戦の資料を集めるために、1941年1月には、航空写真撮影が行なわれた。日本の水路部は、1941年7月に、その地域をさらに測図することを完了した。1941年10月初旬に、地図は海軍軍令部によって完成され、印刷された。

 陸軍省は大蔵省と協力して、早くも1941年1月に、日本軍が南方進出にあたって占領することを予期していた地域で使用するために、軍票の準備を開始した。特別の通貨が印刷され、敵の領土の占領につれて陸軍が引き出せるように、日本銀行に預けられた。このようにして準備された軍票は、マレー、ボルネオ及びタイで使用するのに適したドル、オランダ領東インドで使用するためのギルダー、フィリッピンのためのペソであった。従って、1941年1月には、陸軍省も大蔵省も、この通貨が準備されたこれらの地域を日本軍が占領することを企図していたものである。

 総力戦研究所は、1941年の初期において、『総力戦的内外状勢判断』、『帝国並びに列国の国力に関する総力戦的研究』、『大東亜建設計画案』、『総力戦計画第一期』というような題目に関する調査報告をつくった。

 大島は、再びドイツ駐在大使としての任務につくために、ベルリンに帰った。1941年2月22日に、かれはドイツ外務省のワイツゼッカーに対して、シンガポールは海陸からの攻撃によって攻略されなければならないと告げ、2月27日には、リッベントロップに対して、シンガポール攻撃の準備は、5月末までに完了するであろうと語り、香港とフィリッピンの占領は、いつでも必要に応ずるように準備ができているとつけ加えた。1941年3月28日に、リッベントロップは松岡に対して、シンガポールの占領はぜひとも必要であること、フィリッピンは同時に占領することができることを話した。松岡はリッベントロップに同意し、もし日本がシンガポールを占領するという冒険をしなかったら、三等国になってしまうであろうと思うといった。

その他の準備 (原資料36枚目)

 日本の大本営は、松岡のドイツ訪問の間に、シンガポール攻撃の準備を続けた。参謀総長と軍令部総長は、1941年3月下旬に、ドイツ大使に対して、シンガポール攻撃の準備を強力に行なっていると知らせた。白鳥はドイツ大使とこの攻撃のための戦略について話し合った。かれの意見は、海軍による正面攻撃は行なうべきでなく、マレー半島に基地を設け、そこから、日本の空軍が、ドイツの急降下爆撃機の援助を受け、半島南下攻撃の準備として、シンガポールを爆撃すべきであるというのであった。1941年3月29日、松岡はゲーリング元帥と会談したときに、日本がドイツに供給すべきゴムの量を増加する代償として、ドイツ空軍の援助を受ける手配をした。

 日本においては、戦争のための経済的措置が加速度的に進められつつあった。重要な問題は石油であった。というのは、合衆国がその輸出禁止を強化しつつあったし、またバタヴィアにおけるオランダ領東インドとの交渉が少しも捗っていなかったからである。企画院の星野は、オランダ領東インドの石油を獲得することができるまで、陸海軍は充分な石油を貯蔵していると見ていた。しかし、日本の生産高はわずか30万トンであり、その年消費高は200万トンであるから、余裕は乏しいとかれは信じていた。この事実のために、オランダ領東インドの石油資源を無瑕で占領する周到な計画が必要になった。この周到な計画の必要によって、1941年4月に、大本営は近衛に対して、星野のかわりに、陸海軍が全幅の信頼を置いている軍人の鈴木を任命することを申し出た。近衛はこの問題を木戸と話し合い、4月4日に星野は貴族院議員に任ぜられ、鈴木が企画院総裁兼無任所大臣に任命された。

 日本の指導者は、今では、日本、仏印、タイの間の緊密な関係を強化すること、バタヴィアでオランダと経済交渉を続けること、他の諸国との正常な経済関係を維持すること、しかし、帝国の自存が合衆国、イギリス、オランダの輸出禁止によって脅威を受けた場合には、日本の重要戦争資材の貯えの消耗を防ぐために、直ちに武力に訴えることを決定した。木村は4月10日に陸軍次官に任命され、9日後に陸軍軍需審議会会長になった。これらの任命によって、かれは日満共同経済委員会をやめることが必要になった。

 世界の諸地方での作戦行動のために、兵要地誌資料が集められていた。オランダ領東インドにおける諜報活動は、だんだん激しく行なわれていた。シンガポールとともに、ジャワ、スマトラ、バリ、その他の地点に対する作戦行動が計画されていた。委任統治諸島は要塞化され、南洋方面の作戦計画は完成に近づいていた。ビルマとマレーで使うための資料が集められていた。南方諸地域の占領の際に使うために、軍票を印刷する仕事が続けられた。

 松岡は、1941年4月4日にヒットラーと会談した際に、三国条約に基づいて設置された軍事専門委員会を通じて、潜水艦戦に関する最近の技術的改良と発明を含めて、一切の利用し得る情報を日本に与えるようにヒットラーに要求した。日本の海軍がシンガポール攻撃を決定した場合には、この情報を必要とするであろうとかれは説明した。松岡はつけ加えて、合衆国との戦争は、晩かれ早かれ避けられないものであり、日本はちょうどよい瞬間に決定的打撃を与える準備を整えておくことを望んでいると述べた。しかし、秘密が漏れてはならないから、シンガポール攻撃の協定が成立したことは、日本向けの電報の中では決していわないようにと松岡はヒットラーに注意した。シンガポール攻撃計画の援助に関するベルリンでの松岡の会談に、大使大島は参加した。

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