歴史の部屋

日ソ中立条約 (原資料38枚目)

 重要な問題は、シンガポール攻撃の時機であった。ドイツ側はそれを直ちに詰めることを主張した。しかし、近衛内閣の政策は、初めから、シンガポールとオランダ領東インドを攻撃している間、日本の後方を守るために、ソビエット連邦との不可侵条約を考えていた。この政策の樹立については、松岡は1940年7月19日の会議で協力した。ヒットラーは、大島とその他の者も出席していた1941年3月27日の松岡との会談の際に、攻撃を開始するために、現在ほどよい時機はまたと来ないと主張した。松岡は、これに答えてこの攻撃をしないならば、日本は千載一遇の好機を失うという感情を日本人はもっているから、攻撃することは、単に時間の問題にすぎないといった。ソビエット連邦との不可侵条約の交渉についても、松岡は話をした。その翌日に、リッベントロップは、日本は直ちにシンガポールを攻撃すべきであり、もしソビエット連邦が干渉するならば、ドイツは直ちにソビエット連邦を攻撃すると述べて、松岡にソビエット連邦との条約締結を思い止まらせようとした。その次の日にも、リッベントロップはこの保証をくりかえした。松岡はベルリンからの帰途にモスコーを訪問する意図を変えなかった。そして、1941年4月13日に、ソビエット連邦と条約を締結した。

仏印 (原資料39枚目)

 フランス及びタイとの協定を正式に締結するために、松岡は日本に帰った。この協定は、かれがベルリンに向かって出発する前に取り極め、ベルリン訪問中に、それに対する支持を得ておいたものであった。

 フランスが降伏して後間もなく、1940年6月に、中国向け物資の輸送禁止が確実に守られるようにするために、仏印に軍事使節団がはいるのを許すようにという日本の要求に、フランスは無理に同意させられた。この軍事使節団は、1940年6月29日に、ハノイに着いた。

 日本の内閣は、その外交政策を決定していたので、外務大臣松岡は、1940年8月1日に、この政策を実施する措置をとった。かれはフランス大使を招き、仏印に関して、フランスにとってはほとんど最後通牒に異ならないものを手交した。また、同盟と日本の仏印侵入に対してドイツの承認を得ることとについて、かれはドイツ大使と話し合った。

 松岡はフランス大使に自分の意見を告げた後に、日本は軍事使節団の仏印入国許可を感謝しているが、近衛内閣としては、フランスが日本軍の北部仏印進駐を許し、中国国民政府に対する行動のために、同地に航空基地を建設する権利を与えることを望んでいると告げた。フランス大使は、この要求は、日本が中国に対して宣戦布告をしていないのに、フランスにそれをするように要求するに等しいものであると指摘した。松岡は、この要求は必要から生じたものであって、それが容れられない限り、フランスの中立が侵されることになるかもしれないと答えた。松岡はフランス大使に対して、もしこの要求が容れられるならば、日本はフランスの領土保全を尊重し、できる限り早く、仏印から撤兵すると保証した。

 松岡はフランスに対する自分の要求をドイツ大使に知らせ、もしドイツ政府がこの措置に反対せず、その勢力を用いて、フランス政府が要求を容れるようにしてくれるならば、感謝すると述べた。フランス大使は、1940年8月9日に、日本の要求をはっきりさせること、仏印におけるフランスの領土権を保証することを求めた。松岡は、1940年8月15日に、ヴィシーのフランス政府を動かすことによって、日本の要求を支持するように、ドイツ政府に対して、重ねて要請した。その日に、日本の要求を容れる決定がこれ以上遅れるならば、軍事行動をとるといって、かれはフランスを威嚇した。8月20日と25日に、松岡とアンリーの間で、さらに交渉があった後、8月25日に、アンリーは日本外務省に対して、フランスは日本の要求に従うことに決定したと通知した。交換文書から成るいわゆる松岡・アンリー協定は、1940年8月30日に調印された。

 松岡・アンリー協定によれば、仏印の進駐は、もっぱら中国に対する行動のためであると述べられているので、臨時的のものであるはずであったし、またトンキン州に限られることになっていた。さらに、日本は極東におけるフランスの権益を尊重すること、特に仏印の領土保全と仏印連邦の全地域におけるフランスの主権を尊重することになっていた。

 航空基地の建設と日本軍のトンキン州進駐とに関する取極めは、ハノイにある日本軍事使節団長と仏印総督との間の交渉に任された。仏印提督は、日本軍事使節団長西原の要求になかなか応じなかった。1940年9月4日に、西原はその使節団をハノイから引き揚げ、南支派遣日本軍を仏印国境を越えて進駐させる命令を出すといって威嚇した。1940年9月4日に、協定が調印されたが、一部の細目は後に解決すべきものとして残された。1940年9月6日に、中国にあった日本陸軍の一部隊が国境を越えて仏印にはいった。この行動は間違って生じたものであるといわれ、交渉が続けられた。

 1940年9月19日に、アメリカ大使は松岡を訪問した。そして、外務大臣に対して、日本のフランスに対する要求は仏印の現状(「現状」に小さな丸印で傍点あり)の重大なる侵害であり、日本の内閣の声明に反するものと合衆国政府は認めると通告した。しかし、すでにドイツ政府と了解が成立しており、三国条約は数日中に調印される予定であったために、大使の抗議は無視された。

 外務次官は、9月19日に、フランス大使に対して、9月23日までに、西原と仏印総督との間に協定が成立しない限り、日本陸軍はその日に国境を越えて仏印にはいると通告した。日本軍事使節団は、9月22日に、予定の侵入の準備として、仏印を引き揚げて乗船した。日本陸軍は、その日の午後2時30分に、仏印進駐を開始した。現実の侵入に直面して、総督は、日本の要求を受諾するほかはなくなり、1940年9月24日に、トンキン州の軍事占領、仏印内における航空基地の建設及び軍事使節の供与に関する協定に調印した。トンキン州の占領は急速に進み、航空基地が建設された。

オランダ領東インドとの関係 (原資料42枚目)

 日本の政策と行動は、アメリカの制裁と経済的制限を引き起こしたので、戦争必需品を、特に石油を、日本はオランダ領東インドから手に入れなければならないと決定した。

 1940年1月12日に、日本はオランダに対して、1935年8月の司法的解決、仲裁裁判及び調停に関する条約は、1940年8月で満了すると通告した。この条約によれば、締約国はその間の紛争をすべて平和的方法によって解決する義務があり、紛争解決のために、すでに常設委員会が設置されていた。

 外務省は1940年3月に、戦争のための日本の経済的準備の研究をした。同省が到達した結論は、中日戦争の当初から、合衆国は九国条約の遵守を主張しているから、もし日本の侵略が続けば、その輸出禁止を日本向けの重要軍需品に拡大するかも知れないということであった。戦争物資の供給について、日本を合衆国に依存しないようにするための方法手段が審議された。提唱された対策は、他の国に供給源を求めること、日本と満州国と中国の間の『緊密な関係』を強化すること、東南アジアの諸国を日本の経済的支配の下に置くことであった。

 ヘーグ駐在の日本公使は、オランダ外務大臣に対して、ある種の要求を行なう通牒を2月2日に手交していた。そのとき行なわれたおもな要求は、オランダとオランダ領東インドから日本への輸出に対する制限と、日本からオランダ領東インドへの輸入に対する制限とを撤廃すること、オランダ領東インドへの入国に関する法律を改正すること、オランダ領東インドにおける日本の投資のための便宜を拡張すること、オランダ領東インドにおけるすべての反日的出版物の検閲を行なうことであった。これらの要求に対する回答がまだ考慮中である間に、ドイツはオランダに侵入した。

 1940年4月15日に、外務大臣有田は新聞に対して声明を行なった。この中でかれは日本は南洋諸地方なかんずくオランダ領東インドと経済的に有無相通の緊密な関係にあり、もし、欧州戦禍が波及しオランダ領東インドの現状が乱されるようなことになるならば、日本は深い関心をもつものであり、東アジアの平和が乱されるであろうと指摘した。その翌日に、ヘーグ駐在の日本公使は、オランダの外務大臣を訪問して、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)維持に関する、日本の関心について説明した。オランダの外務大臣は、オランダ政府は現在においてオランダ領東インド保護を何国にも依頼しておらず、またこれを他国に依頼しようとするものでもなく、何国よりの保護の申入れ若しくは干渉があってもすべて拒否する決意であると回答した。合衆国国務長官ハル氏は、有田の新聞声明に応えて、4月17日に、オランダ領東インドの国内問題に対する干渉、または、全太平洋地域のどこであっても、平和的手段以外の方法による現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)の変更は、平和に対する脅威となるであろうと有田に通告した。

 1940年5月9日に、ドイツはオランダに侵入した。2日後に、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)に関する4月15日のかれの声明を有田は再確認した。この声明には、かれが東京駐在のオランダ公使に対して、オランダ領東インドに対する干渉を受諾しないというオランダ政府の決意を再確認するように要請したということが含まれていた。この声明には、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)維持に関して、日本が引き続き関心をもっていることについて、合衆国、イギリス、フランス、ドイツ及びイタリアの各政府に通告がしてあると述べてあった。

 その翌日に、合衆国国務長官ハル氏は声明を出し、その中で、最近の数週間の間に、合衆国、イギリス及び日本を含めて、多くの国の政府が、公式の言明において、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を引き続いて尊重するという態度を明らかにしたこと、これは1922年に文書によって正式に行なわれた確固たる公約と一致するものであること、及び、これらの政府はその公約を引き続いて守るものと自分は考えていることを述べた。イギリス大使は5月13日に有田を訪問し、イギリス政府はオランダ領東インドに干渉する意向をもたず、同地にあるオランダ軍は現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を維持するに充分なものと信ずるという趣旨のイギリスの声明を手交した。オランダ公使は5月15日に有田を訪問し、オランダ政府は、イギリス、合衆国及びフランスがオランダ領東インドに干渉する意思をもたないものと信ずると有田に通告した。フランス大使は5月16日に有田を訪問し、フランス政府はオランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を維持することに賛成であると述べた。

 フランス大使が有田を訪問しフランスの誓約を手交して、これによってオランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を維持することについてのすべての関係連合国と中立国からの誓約が完全に揃ったその翌日に、ワシントンにおいて、日本大使はハル氏を訪問した。同大使が西半球におけるあるオランダ領土の地位について質問した後に、ハル氏は言葉をはさんで、オランダ領東インドに関する諸問題と、日本が同地にもっていると考えている特殊な権利とについて、米内内閣がしきりに討議を重ねているということを報道する資料が、東京からの新聞通信を通して来ていることを指摘した。合衆国、イギリス及びフランスは、オランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)を尊重するという誓約を最近に重ねて行なったが、日本との了解を維持しようと努力したにかかわらず、まだ誓約が行なわれていないという意味の通報が絶えず東京から来ていると述べた。大使はハル氏に対して、米内内閣は列国の声明後の事態にまったく満足しており、日本政府はオランダ領東インドに対して行動を起こす意思はないと保証した。

 1940年5月16日に、オランダ公使は、有田に対して、オランダ領東インドは日本に必要な石油、錫、ゴム、その他の原料の輸出にどんな制限も設ける意思はなく、また日本との一般的経済関係を維持することを望んでいると保証した。5月20日に、東京駐在のオランダ公使に手交した通牒の中で、有田はこの保証に言及し、同公使に対して、日本がオランダ領東インド総督に望むところは、付属表に列挙された品目の量を、将来どのような状況(「状況」に小さな丸で傍点あり)が起こっても、それに関係なく、毎年日本に輸出するという明確な保証を与えられることであると告げた。オランダはこの要求を6月6日に拒絶し、両国間の経済関係は、1937年4月のいわゆるハート・石沢協定(石沢・ハルト協定)に従うものであるという事実、またさらに、日本が最近にオランダ領東インドの現状(「現状」に小さな丸で傍点あり)尊重の誓約を重ねて行なった事実に注意を促した。

 ベルリンでは、日本大使は有田の訓令によって、ベルリンのドイツ外務省を訪れ、オランダ領東インドの地位に関して、ドイツの立場を言明することを求めた。リッベントロップは東京駐在のドイツ大使に対して、ドイツはオランダ領東インドに関心をもっていないこと、オランダ領東インドに関する日本の憂慮を完全に理解していることを有田に保証するように訓令した。さらに、同大使に対して、ドイツは他の諸国の政策と異なって、常に日本との友好政策を続けてきたこと、この政策は東アジアにおける日本の利益に有利なものであると信じていることを、有田との会見で述べるように訓令した。ドイツ大使は、5月22日に、訓令通りに、有田に対して、関心をもっていないということ言明を伝えた。それに対して、有田は感謝の意を表明した。その翌日、日本の新聞はこの言明を大々的に報道し、ドイツの態度を他の諸国の態度と対照し、ドイツの言明は、オランダ領東インドに関して、望むままに行動する自由を日本に与えるものであると主張した。この主張をしてもまったく差し支えなかったことは、その後の出来事によって証明された。6月24日に、小磯はドイツ大使に対して、日本は仏印とオランダ領東インドに植民地を得たいと熱望していると告げた。

 日本は、1940年5月22日に、オランダ領東インドに対して無関心であるというドイツの声明を受け取ったので、1940年7月16日に、東京駐在オランダ公使に対して、経済交渉のために、バタヴィアへ代表団を派遣するという日本側の意向を通告した。代表団が日本から出発する前に、米内内閣は辞職した。第二次近衛内閣は7月22日に就任した。近衛、陸軍大臣東条、外務大臣松岡及び海軍大臣が就任する前の7月19日に、これらの人々によって決定された外交政策の根本原則は、7月27日の連絡会議で、正式に採択された。このようにして採択された政策は、他のこととともに、重要資源を獲得するために、オランダ領東インドに対する外交政策を強化することを要求していた。そこで、近衛内閣はバタヴィアへ経済使節団を派遣する手配を進めた。

 オランダに対してなすべき二者択一的な要求の草案が作成されつつあった間に、経済使節団の団長の人選が論議されていた。海軍には、オランダ領東インドに対して、攻撃をする準備がなかった。1940年8月10日に、軍令部総長伏見宮が天皇に対してなした言明によって、このことは確認されている。その言明というのは、海軍は当時オランダとシンガポールに対して武力を行使することを避けたい希望であること、戦争の決定が行なわれてから準備を完了するために、少なくとも8ヵ月を要するから、戦争になるのは遅れるほどよいということであった。オランダ領東インドに対して、どのような攻撃をするにしても、海上輸送によって遠征しなければならないから、今では、海軍の援助がぜひとも必要であった。オランダ側に提出されるべき二者択一的な要求の草案は、東インドにおける入国、企業及び投資の問題について、内閣は率直にその見解を表明するに決したと述べ、東亜新秩序建設に専心している日本帝国の要求に対して、オランダ政府が同意するように要請し、日本、満州国、中国を中心とし、南太平洋にまで及ぶところの、共栄圏の経済的自給力を急速に確立するのが必要であると日本は主張した。第一の提案は、他のこととともに、オランダ領東インドは、共栄圏の一員として、日本に優先的待遇を与え、日本が東インドのある種の天然資源を利用開発するのを許すことを求めた。第二の提案は、オランダ領東インドがヨーロッパとの連係を断ち、共栄圏の一員としての立場をとり、インドネシア人のある程度の自治を許し、共栄圏を守るために、日本と共同防衛協定を結ぶことを求めた。物資の輸出に対する制限、特に日本向けのものに対する制限は、すべて廃止されなければならなかった。これらの要求は、どのような独立国でも強要された場合のほかは、許容するようなものではない。

 代表団が1940年9月にバタヴィアに到着したときに、冷たく迎えられた。団長の小林は、1940年9月13日に、松岡に対して、東インドの総督は事態の重大さと日本の威圧的態度とを感じていないと報告した。かれは交渉が無駄であると考えたので、それを打ち切ることを進言した。しかし、1940年9月3日に、松岡は小林の補佐役である総領事斎藤に対して、交渉は政治的問題に局限されるべきでなく、同時に石油鉱区を獲得することに向けられなければならないと訓令した。この獲得は、内閣が代表団をバタヴィアへ派遣した主要な目的の一つであるからというのであった。9月18日に、小林は松岡に対して、交渉を石油鉱区獲得の援助として続けることを報告したが、そのときまで東京で行なわれていたこの問題に関する交渉をバタヴィアへ移すことを進言した。

 三国条約は調印され、トンキン州の占領は、仏印における軍事基地の獲得とともに、1940年9月下旬に保証された。1940年の9月と10月に採択された計画によると、仏印とタイに基地を獲得することによって、シンガポールに対する攻撃を実施すること、バタヴィアにおける経済交渉の継続によって、オランダ側に安全感を懐かせると同時に、原住民の間の独立運動をひそかに扇動し、オランダ領東インドに侵入するための軍事的資料を手に入れることが決定された。さらに、シンガポールに対して奇襲を行なうこと、その攻撃の進行中に、オランダ領東インドの原住民に呼びかけて、オランダからの独立を宣言し、日本軍がシンガポールからオランダ領東インド占領のために進撃するにしたがって、それを無瑕で引き渡すようにすることが決定された。東インドの原住民に反乱を起こさせる呼び掛けは、オランダ領東インドの油井または他の資源が一つでも破壊されたならば、主要なオランダ人官吏は侵入した日本軍によって殺されるという警告を含むことになっていた。この計画は、オランダ領東インドにおいて、新しい政府を組織するという条項を含んでいた。その目的とするところは、軍事同盟の仮装の下に、この政府と保護条約を結び、新しい政府内で、日本人の軍事及び経済顧問を有力な地位に任命することを規定しようということであった。新しい政府は、日本人が多数を占める日本人と原住民の委員会によって組織されることになっており、オランダ領東インドは、新しい政府が樹立されるまで、この委員会によって統治されることになっていた。

 三国条約の調印と仏印への侵入は、バタヴィアのオランダ側代表に重大な不安を起こさせ、かれらは交渉を続けることを躊躇した。日本の代表団は、この条約はオランダ政府を目標とするものではないこと、オランダ領東インドと日本との間の友好的な政治的と経済的の関係を助長するために、日本は交渉を続けたい希望であることをかれらに保証した。オランダ側代表団は、日本がオランダ領東インドに対してなんら敵意をもたず、指導権を主張しないという了解の上で、交渉を続けることに同意し、日本代表団に対して、議題の表を提出するように要請した。この保証が与えられた当日に、小林は松岡に対して、時を移さず、オランダ領東インドを共栄圏内に収めるべきこと、このことに留意して、この行動の準備をして、宣伝と人員養成のための経費を予算に計上すべきことを進言した。この新しい方針は、政策と経費に充分精通した人物が小林と交代することを必要とした。右の保証を与えた2日後に、小林はかれの東京への召還を発表した。

 ベルリン駐在の日本大使は、ドイツ政府に対して、南方と南洋への日本の進出に対するドイツの援助の代償として、極東とオランダ領東インドからの重要戦争資材をドイツ政府に供給するために、日本は輸入代理者となる用意があると通告した。ドイツ政府はこの申出を受諾し、1940年10月4日に、オランダ領東インドにおいて獲得すべき錫、ゴム、ヒマシ油及び香料の前払いとして、為替手形をタイシに送った。購入を行なうために、完全な実行協定がつくられた。この協定はオランダ領東インドに対する政策をさらに修正することを必要とした。1940年10月25日に、ドイツとの協定に対応するために、内閣はその政策を修正した。日本政府のドイツに対する義務は、枢軸諸国との協力のために、東インドと緊密な経済関係を樹立し、その豊富な天然資源を開発利用することによって、東インドを直ちに大東亜経済圏の中に入れることを要すると決定された。政策を実施する計画の一切の細目が協定された。これらの細目は、他のこととともに、オランダ領東インドはヨーロッパ及びアメリカとの経済的関係を断絶すること、オランダ領東インドの重要戦争資材の生産と輸出は、日本側の支配の下に置かれること、オランダ領東インドの全経済問題の整理と処理は、日蘭委員会のもとに置かれることであった。これらの目的が達成されたならば、日本は東インドの経済を支配することになったであろう。

 この当時に、なんら外交官としての職に就いていなかった大島は、1940年10月27日に、読売新聞のために論文を書き、その中で、枢軸と協力すべき日本の義務に注意を喚起し、三国条約は新しい義務を負わせたものであると指摘した。日本人はこの事実を認識すべきであり、ドイツ及びイタリアとの協力のために、日本、仏印、中国、インド、オランダ領東インド、南洋諸島等の間に、相互の融和と繁栄のために、緊密な関係を樹立すべきであるとかれは勧告した。日本がさらに侵略するのを防ごうとして、その当時強化されつつあったアメリカの重要軍需品輸出禁止に言及し、アメリカは世界の仲裁者ではないといい、もしアメリカがその膨大な天然資源を新秩序の建設を助けるために用いるならば、世界平和に対して、確かに偉大な貢献をすることになると述べた。

 オランダ代表団は、1940年10月7日に、周到な詳細な石油事情に関する覚書を日本側に渡していた。その中で、全般的事態と他の諸国からの要求とを考慮して、日本に供給する用意のある各種石油製品の分量を列挙し、さらに、石油の調査と開発のために、日本に提供することのできるオランダ領東インドの地域を詳細に述べた。日本代表団は、1940年10月21日に、オランダ側が供給すると提案した石油の分量では満足でないことを回答し、また提案に対する全般的不満を表明した。同代表団は、私企業のために保留されている油田地帯だけでなく、政府用の保留地域をも調査し、開発する権利を得ることを日本は希望していると述べた。

 総領事斎藤は、1940年10月25日に、松岡に提案を説明するにあたって、企業家の立場からすれば、提案は至極もっともであるが、軍事的立場からは、これについて、さらに考慮を払わなければならないと述べた。石油を試掘する計画はオランダに対する軍事行動の基地としての地域を調査するために利用しなければならず、そのためには、労働者に仮装した兵士とともに、相当数の飛行機をこれらの地域に送りこまなければならないとかれは指摘した。また、軍部によって戦略上重要であると考えられている地域について、指示を要請した。

 1940年10月29日に、日本代表団はオランダの提案を受諾すると称した。しかし、この提案とその受諾は、ボルネオ、セレべス、オランダ領ニューギニア、アラウ群島及びスホウテン群島におけるある広範な地域を、日本が油田の調査と開発を行ない得る範囲として、日本に与えるものと了解すると述べた。かれらはスマトラの諸地域も希望していること、及び日本の企業がオランダの石油会社の投資に参加したいと希望していることをつけ加えた。オランダ側は、この受諾は、オランダの提案をはるかに超えたもので、交渉を断絶させるものであるとの立場をとった。しかし、近衛内閣は、1940年9月と10月の政策決定を実施する計画を完了していた。オランダに対して、武力を用いる準備はまだ完了していなかった。交渉に新しい声明を注ぎこむために、かれらは特別使節が任命されようとしていると発表した。この使節は、1940年11月28日に任命された。それは、吉澤であった。かれは貴族院議員であり、前に犬養内閣の外務大臣であった。

 吉澤はバタヴィアに行き、1941年1月6日に、1940年10月の政策決定の線に沿った新しい提案を出した。この提案の前文に、日本とオランダ領東インドとの間には、ある相互依存関係が存在し、オランダ領東インドは天然資源に富み、人口が希薄で、未開発であり、日本はその天然資源の開発に参加し、オランダ領東インドとの貿易と経済関係を促進することを熱心に希望していると述べてあった。提案の詳細は、入国法の修正、日本人に対する鉱業権と漁業権の付与、日本とオランダ領東インドとの間の航空路の開設、日本の船舶に対する各種の制限の撤廃、輸入と輸出の制限の解除、オランダ領東インドにおける日本国民に対して製造工業権と企業権の付与を要求したものである。これらの提案は、もし受諾されたならば、オランダ領東インドを日本の経済的支配下に置くものであった。もし受諾されたならば、戦争をせずに、日本は東南アジアにおける侵略的目的の少なくとも相当な部分を達成したであろう。

 吉澤は松岡に対して、ドイツがオランダに侵入した後、オランダ政府がロンドンに移ってから、オランダ領東インドはイギリスと合衆国にますます依存するようになったために、かれの提案に対する好意的な回答は期待していないと報告した。地中海戦域におけるイタリア陸軍の敗北、合衆国の日本に対する強硬な態度、及びオランダ領東インド防衛の強化は、オランダに新しい自信を与えたこと、及びオランダ領東インドを共栄圏に包含するには、断固たる手段が必要であることをかれは述べた。

 オランダ側代表は、1941年2月3日に、吉澤の提案に答えて、友好的精神をもってすべての中立国との経済関係を改善し、貿易を増進することによって、オランダ領東インドの原住民の福祉と進歩をはかることがオランダの第一に考慮していることであり、オランダ領東インドの利益は、外国との経済関係を厳格な無差別主義の基礎の上に維持することを要求するものであると述べた。また、戦争中は、オランダの敵国が直接または間接の利益を受けないことを確実にするために、貿易とその他の経済活動を制限することが必要であると指摘した。次に、日本とオランダ領東インドとの間に、相互依存関係があるとの主張に対しては、事実の証明するところでないとし、強硬に反対した。

 吉澤の提案に対するオランダ側の回答は、さらに交渉を続ける途をあけていたが、オランダ側は、1941年1月21日に松岡が議会で行なった演説についても、オランダ領東インドに対する日本の軍事行動の準備を示すものと思われた仏印とタイにおける諸事件についても知っており、従って、会談を続けることについては、疑惑を懐いていた。かれらは、日本の代表団に対して、日本の南部仏印占領は、オランダ領東インドに対して、きわめて重大な軍事的脅威となるものであって、経済交渉で成立するどのような協定も、これを無効にするであろうと勧告した。

 松岡は、1941年1月21日の演説で、オランダ領東インドと仏印は、地理的な理由だけから見ても日本と密接不可分な関係になければならないと述べていた。これまで、この関係を妨げてきた事態を改めなければならないとかれは言明し、バタヴィアにおける交渉は、その目的のために行なわれていると指摘した。吉澤は、その提案が拒絶されたことを松岡の演説の責に帰し、松岡に苦情を述べて、攻撃準備の期間中、交渉を首尾よく続けなければならないのならば、東京の当局者は、もっとその目的に役立つような態度を保つ必要があると警告した。

 オランダ側は警告を与えられていた。1941年2月13日に、吉澤は、オランダ側は合衆国とイギリスから積極的な援助を予期しており、日本よりも合衆国に依存することを好んでいる旨を松岡に知らせた。バタヴィアにおける交渉の打切りは、単に時期の問題であり、東インド問題を解決するために、日本のとるべき唯一の手段は、武力であるとかれは進言した。1941年3月28日に、近衛は吉澤に対して、交渉の失敗は日本の感情を傷つけること、ヨーロッパの情勢が急激に変化しているので、オランダ側の態度にかかわらず、日本側はバタヴィアに留まって事態の発展を待つべきであることを訓令した。この訓令は守られ、交渉が続けられた。

 日本代表団は、1941年5月14日に、その提案をオランダ側が拒絶したのに答えて、修正した提案を行なったが、1月16日の提案の前文で表明された見解は、日本政府の堅持するところであることを明らかにしておきたいと述べた。オランダ側代表団は、仏印とタイとの紛争のその後における発展を知るとともに、日ソ不可侵条約の調印も知っていたので、1941年6月6日の修正された提案は、オランダの経済政策の基本的な原則と相容れないものであるとして、これを拒絶した。かれらは、東インドから日本に輸出された原料がドイツに再輸出されないことも要求した。

 その翌日、吉澤は、オランダがかれら代表団の引き揚げを要求するおそれがあるので、交渉から手を引く権限を緊急のこととして要求した。オランダ側の回答の条件を『不当』と称して、松岡は交渉の打切りを許した。1941年6月17日に、吉澤はオランダ領東インド総督との会見を求めた。オランダの態度の緩和を得ようとして、最後の無益な試みを行なった後に、交渉の打切りを声明するために発表する共同コミュニケの草案をかれは提出した。国外と国内における日本の『面目』を立てるためにつくられたこのコミュニケは、双方の代表団によって小さな変更が施された後に、承認された。それには、次のような言明が含まれていた。『本交渉の打切りが、オランダ領東インド・日本間の正常関係に何等の変化を与えるものでないことは、付言を要しない。』

三国条約後の準備 (原資料60枚目)

 枢密院の審査委員会における三国条約に関する討議の際に、東条は、内閣がこの条約の締結の結果として起こる合衆国との戦争の可能性を考慮したことを述べ、その場合に対処するために慎重な計画が立てられていることを明らかにした。1940年9月の御前会議と枢密院審査委員会における討議によって、海軍は日本とアメリカとの戦争が避けられないものと考え、石油の戦時予備貯蔵量の補充に関して、充分な策が講じられていないことのほかは、完全にその準備をしているということが明らかにされた。星野は、企画院では、石油を含む重要戦争資材を蓄積することによって、合衆国との戦争について、慎重に計画を立てていること、貯蔵量は即戦即決には充分であると考えるということを述べた。さらに、もし戦争が長引けば、その供給はオランダ領東インドとその他の地域から補充することができるとかれは考えた。枢密顧問官は、三国条約を締結すれば、おそらく合衆国との戦争になるであろうということを知っていた。そして、条約に関する報告の際に、それに必要なあらゆる準備が行なわれるべきことを進言した。

 これに続いて、合衆国、イギリス及びその他の諸国との戦争の広範な準備が行なわれた。中国の傀儡中央政府が承認され、日満華経済ブロックが強化された。これらは、アメリカの軍需品輸出禁止に対処して、日本の経済的地位を改善するためであった。この輸出禁止は、陸軍大臣畑とその他の者が、かれらのいわゆる時代後れな九国条約によって、日本の作戦行動が阻止されることはないと公けに宣言した後に行なわれたものであった。星野の指揮する企画院は、重要資材を蓄積するために、再び努力し始めた。すでに述べたように、近衛の大政翼賛会は、日本の指導者が避けられないものと主張した合衆国及びイギリスとの戦争の困苦に対して、国民の忍耐力を強くするために、星野、木戸及び橋本の助力によって組織された。領土と天然資源とを獲得するために、侵略戦争の遂行を普及させる目的で、著述と講演による宣伝が広く行なわれた。橋本、白鳥及び大島は、この宣伝工作に大いに貢献した。総力戦研究所という形で、軍事上の企画機関が組織され、星野を初代の所長とし、鈴木を参与の一人として運営された。枢軸諸国が乗り出した冒険を行なうについて、これらの諸国間の協力を促進するために、大島がドイツに送られた。

合衆国及びイギリスとの関係 (原資料61枚目)

 1940年10月に、近衛は新聞に対して声明を発し、その中で、日本の指導者が考えていた共栄圏を、すなわち、婉曲に表現された日本の東アジア征服を、合衆国とイギリスとソビエット連邦に認めさせるために、政府は外交的に工作していると述べた。もし合衆国が日本の真意を理解しようとしないならば、イギリスとともに、合衆国は戦争をしなければならないようになるであろうとかれはほのめかした。この声明のために、合衆国政府は、その輸出禁止を屑鉄と屑鋼にまで拡大し、その防衛準備を強化した。ワシントンの日本大使館は、輸出禁止の範囲の拡大が単に合衆国の防衛に対する関心だけから行われたということは、日本政府として認めがたいと苦情を述べた。合衆国政府は、九国条約とその他の日本側の義務にもかかわらず、アメリカの通商は、ほとんど満州と華北から駆逐され、今では日本がアメリカの企業を上海からも追い出そうと企てているようだと答えた。

 合衆国政府は、日本の南方進出と三国条約の締結、それに引き続いて行なわれた近衛の警告について、憂慮していた。合衆国大統領は、議会における演説で、合衆国の安全がこれほど重大な脅威を受けたことは今までにないと断言した。1941年1月15日に、国務長官は、下院の外交委員会に対して、西太平洋の全地域で自己の支配的な地位を確立しようとする広い、野心的な計画によって、日本が最初から動かされていたことは明白であること、世界の全人口のほとんど2分の1を含む地域の支配者になろうとして、日本の指導者は武力によってこの地位を獲得し、維持する決意を公然と宣言したことを述べた。少なくともハワイの西方から南洋とインドにまで及ぶところの、太平洋の全地域の占領に向かって、日本の軍部の指導者が乗り出そうとしていたことは、合衆国政府に明らかであった。

 ハワイの真珠湾を基地とする合衆国の太平洋艦隊は、南方に向かって軍事行動を起こそうとする近衛内閣の政策の実行に対して、最も大きな障害の一つをなしていた。日本の指導者の多くは、シンガポールの増強のために、この艦隊が用いられることをおそれ、これを防ぐために、シンガポールに対して、直ちに攻撃することを主張した。しかし、日本の海軍は、石油とその他の重要物資を蓄積すること、シンガポールの攻撃を行なう前に、それらの物資を補充する準備を充分にすることを要求していた。1940年8月に、この準備のためには、少なくとも8ヵ月を要すると海軍は見積もった。三国条約の調印の前に行なわれた御前会議と枢密院での討議の際に、海軍はその要求を主張した。

 近衛内閣が採用した一般計画は、海軍の要求を考慮に入れて、合衆国政府と不侵略条約の締結を交渉することによって、合衆国太平洋艦隊の脅威を除こうと試みることを定めていた。このような条約の一部として、日本はフィリッピンとグアムの安全を保証し、アメリカ合衆国は共栄圏を承認するということが提案されていた。もし交渉が失敗したときは、奇襲攻撃を行なうことができるように、交渉の継続中に、合衆国軍に対する攻撃の準備が進められることになっていた。

 合衆国と日本が平和状態にあるときに行なう奇襲攻撃によって、真珠湾に停泊している太平洋艦隊を全滅させる計画がつくられ、研究のために、連合艦隊司令長官のもとに提出された。かれはこの計画を承認し、早くも1941年1月に、それを大本営に送った。この計画は、真珠湾にある合衆国太平洋艦隊に対して、空中攻撃を加えるために、機動部隊の編成を必要とした。この機動部隊は、発見されることを避けて奇襲を完全にするために、商船にはほとんど用いられない北方の航路をとることになっていた。空中攻撃と並行して、空襲から逃れようとする艦船を撃滅するために、潜水艦の使用が計画された。浅海魚雷と小型潜航艇を案出し、製造するとともに、距離は長いが、いっそう安全な北方公路による進路が用いられるように海上給油方法を完成することなど、多くのこまかい事項を解決しなければならなかった。もし真珠湾攻撃が成功し、合衆国艦隊を壊滅させる結果になったならば、合衆国が反撃を準備し、それを開始する前に、太平洋とインド洋のあらゆる重点地点を占拠することができると日本の指導者は考えた。そのときには、長期化した消耗の激しい戦争に合衆国があきて、それまでに占領した領土における日本の優越権を認めるような和平を交渉するようになるだろうと希望された。

 外務大臣松岡は、1941年1月に、交渉を行なうために野村を合衆国駐在大使に任命することによって、内閣の計画を実施する第一歩を踏み出した。野村が日本を出発する直前の1月22日に、松岡は野村に訓令を与えた。その訓令というのは、日本は共栄圏の建設に対するアメリカとイギリスの妨害によって、やむを得ず三国条約に調印したこと、この条約は単に防衛的なものではあるが、合衆国が締約国のうちの一国を攻撃した場合には他の二国が直ちに軍事的援助を与えることが規定してあること、日本はこの同盟を忠実に守るであろうということを、野村が合衆国大統領とその部下に理解させなければならないというのであった。さらに、合衆国は東アジアにおける日本の目的を妨害することをやめ、共栄圏の建設について日本と協力し、その代償として、この共栄圏の建設から生じる利益にあずかる機会を与えられることの方がよいであろうということを合衆国政府に勧めるように、松岡は野村に訓令した。

 事態の重大なこと、了解に到達するために、迅速な交渉を必要とすることを合衆国政府に認めさせることを目的として、宣伝工作が直ちに始められた。南方に対する攻撃のために、カムラン湾とサイゴンの周辺に基地を獲得することを内閣は決定し、ドイツ政府に対して、仏印におけるフランス軍隊の増強を阻止することを求めた。この計画は、1941年1月30日の連絡会議で承認された。合衆国政府は、1941年1月28日に、フランスのヴィシーにおけるそのオブザーヴァーから、ドイツ政府がヴィシー政府に対して増援部隊の派遣を禁止したという報告を受けて、この計画を知った。その結果として、1941年2月3日に、アメリカは多くの非鉄金属と炭酸カリを輸出禁止品目表に加えた。イーデン氏が重光に会い、極東において、1、2週間のうちに、危機が到来することが予期されているという趣旨の南京のイギリス大使からの報告について説明を求めたのは、この時であった。

 合衆国が輸出禁止の範囲を拡大したことは、議会において、松岡をいささか当惑させた。かれはさらに訓令を野村に送った。野村がワシントンに到着したときは、直ちに、日本は合衆国を攻撃しようと思ったことは全然ないこと、しかし、合衆国政府が日本に対する戦争の準備を行なっていることは、日本政府として理解できないこと、日本は中国との戦争で、一部の者の考えていると思われるほどに疲弊はしていないから、もし合衆国がこの準備を続けるならば、その結果は太平洋の平和を危うくすること、合衆国が戦争準備を続けることは得策でないことを明らかにするようにと野村に強く要求したのである。太平洋地域における危険を避けるために、両国政府が共栄圏の建設に協力する必要があることを強調するように、かれは再び野村に訓令した。

 合衆国の武器貸与法が実施されるようになった。それは枢軸に抵抗する諸国に新たな勇気を与えたから、バタヴィアにある日本の経済使節団の要求に対して、オランダの代表団は反抗力を増大するほどであった。イーデン氏は、極東に危機が迫っているという報告について、かれの質問に対する重光の回答を待っており、東京におけるアメリカ大使は、仏印におけるアメリカの通商に対する日本の妨害の停止を要求していた。松岡は重光に対して、イギリス大使の危機切迫の報告は笑うべき妄想であるとイーデン氏に告げるように訓令した。しかし、それよりわずか3日前に、松岡はドイツ大使に対して合衆国政府の行動に対するドイツ政府の態度を知るためにベルリンを訪問する計画であると知らせていた。というのは、かれが説明したように、戦争に加わった場合に、合衆国の太平洋における基地を奪うために、日本はシンガポールの攻撃を計画していたからである。野村がワシントンに到着した当時の事態は、まさにこのようであった。

 合衆国大統領は、1941年2月14日に、野村を引見した。大統領は、合衆国と日本との関係は、日本の南方進出と三国条約締結の結果として悪化しつつあるといった。日米関係の重要な部面を新任大使が合衆国国務長官とともに再検討し、腹蔵なく話し合ってみてはどうかとかれはいった。野村は大統領に対して慎重な回答をし、松岡に対して報告する際に、合衆国がヨーロッパ戦争に参加した場合に、合衆国を攻撃すべき日本の義務について、さらに明瞭な説明を求めた。3月4日に、松岡は野村に対して、その点は数次にわたってしばしば明らかにしたところであること、すなわち、合衆国がドイツに宣戦を布告した場合に、日本は参戦するということを回答した。

 シンガポールに対する攻撃の準備は、急速に進んでいた。1941年2月22日に、ベルリンにおいて、大島はリッベントロップに対して、準備は5月末までに完了すること、イギリスに対すると同様に、合衆国に対しても、念のために、戦争の準備がやはり行われていることを告げた。フィリッピンの占領がこの準備の中に含まれているとかれはいった。これらの準備にもかかわらず、2月17日の通牒で、松岡は日本政府の平和的意図をイーデン氏に保証し、日本がヨーロッパ戦争の仲介者となることを提案した。1941年2月24日に、イギリス政府はこの申入れを拒絶し、イギリスは不本意ながらヨーロッパ戦争に参加したのではあるが、合衆国から受けている援助によって、すべての敵に対抗することができること、ナチス主義がヨーロッパから完全に抹殺されるまで、戦争を続ける決意であることを述べた。

 合衆国国務長官ハルと大使野村は、1941年3月8日に会談した。野村は、日本と合衆国が戦えば、破滅的な影響をもたらすことは避けがたいから、両国が戦うことは考えられないといった。ハル氏はかれに同意したが、日本政府を支配している日本の軍部は、2、3の国が陸海軍の兵力を組織して世界の残りを全部征服しようとしている際に、合衆国が黙ってそれを見ているものと思っているのかと尋ねた。野村はこのことが自分の政府の意図であることを否認し、これ以上の軍事行動は、合衆国の輸出禁止によって、日本の政府がやむを得ずそうするのでない限り、行なわれることはないと信ずると答えた。つづいて、ハル氏は三国条約とヒットラー、松岡、その他のドイツの日本の有力な指導者の公けの宣言に言及した。これらの宣言は、この条約のもとにある諸国は、武力の行使によって、世界に新秩序を建設する決意であるという趣旨のものであった。野村は、征服のために武力を用いることが自分の政府の意図であるということを再び否定した。ハル氏はこれに答えて、中国の全土に、またタイや仏印のような南の方にまで、日本の軍隊がいる限り、そうして、これに伴って、日本の政治家の脅迫的声明が行なわれている限り、武力による世界征服を阻止することに最も重大な関心をもっている諸国には、憂慮が増大するばかりであると答えた。

 1941年3月14日に、合衆国大統領は再び野村と会談した。ドイツ政府の援助によって、松岡がフランスとタイの間の国境紛争の解決に関する日本側の条件をヴィシーのフランス政府に無理に受諾させてから、それはわずかに3日後のことであった。大統領は野村に対して、スエズ運河に接近しつつあるドイツとイタリアの軍隊と、シンガポールに接近しつつある日本の軍隊との連絡をつけるために、三国条約のもとに、歩調を合わせた努力が行なわれているように思われることが、アメリカ国民を刺激していると苦情を述べた。野村は大統領に対して、日本はこれ以上南方に進出する意思はないと保証した。それについて、大統領は、日本政府が日本の意図に対するアメリカ国民の疑惑の原因を取り除くならば、日本と合衆国との武力衝突は避けることができると示唆した。

 フランスとタイの間の紛争解決に関する松岡の条件がフランスによって受け容れられた後、三国条約に基づく共同行動の問題について、ヒットラーと協議するために、松岡はベルリンに行った。かれはモスコーに立ち寄った。ソビエット連邦駐在のアメリカ大使は、1941年3月24日に、かれと会談するために招かれた。松岡はアメリカ大使に対して、どのような場合にも、日本はシンガポールも、アメリカ、イギリスまたはオランダのどの領土も攻撃するようなことはないとの保証を強調し、日本には少しも領土的野心はないと主張した。合衆国とともに、日本はフィリッピン諸島の領土保全と政治的独立の保証を行なう用意があるといった。日本は合衆国と戦争を行なわないと断言した。しかし、ベルリンに到着すると、ヒットラーに対して、政府の攻撃の意図を否定したのは、日本が突然にシンガポールに対して攻撃を加える日まで、イギリス人とアメリカ人を欺くためであったと松岡は説明した。

会議に対する合衆国の条件 (原資料71枚目)

 野村の随員の岩畔(いわくろ)大佐は、合衆国と日本との一部の民間人と協力して、日本と合衆国の協定の基礎として役立つと思われる提案の草案を作成した。この草案は、ハル氏に渡すために、国務省に提出された。1941年4月16日に、ハル氏は野村と会見し、この草案は受け取ったが、合衆国政府は同大使の正式に提示する提案しか考慮することができないと通告した。野村は、交渉の基礎として、正式に草案を提示する準備があるといった。ハル氏は野村に対して、合衆国政府が交渉を開始する前に、日本政府が、その武力征服主義と国策の手段としての武力行使とを放棄することによって、誠意のあることをアメリカ政府に確信させること、合衆国政府が宣言し、実行しており、国家間のすべての関係が当然に立脚すべき基礎を現わすものと考えているところの諸原則を日本政府が採用することが必要であることを説明した。それから、この原則は次のものであるとハル氏は述べた。(1)各国及びすべての国の領土保全と主権の尊重、(2)他国の国内問題に対する不干渉、(3)通商上の機会均等、(4)平和的手段によるほか、太平洋の現状を乱さないこと。ハル氏は、この会談は交渉の開始と考えてはならないこと、自分の述べた原則を受諾しなければ、交渉は始められないことを強調した。野村は、これ以上南方に進出しようとする意図を日本政府はもっていないと確信するが、ハル氏は言明した原則は、政府に伝えて訓令を求めると答えた。

 野村の請訓は、1941年4月18日に、日本外務省がこれを受け取り、これに対して与える回答について、近衛は木戸と天皇に相談した。通商上の機会均等の原則は、財閥に好感を与えた。その財閥は、提案草案に基づいて交渉を開始するように、内閣に強く要求していた。木戸と近衛は、合衆国と交渉を始めてもよいが、内閣はドイツ及びイタリアとの信義を守るように注意すべきであり、日本の不動の国是である共栄圏建設の計画を放棄すべきではないということに、意見が一致した。

 松岡は東京への帰りに再びモスコーに立ち寄り、そこで交渉した結果、1941年4月13日に、日ソ不可侵条約を調印するに至った。同道していた日本駐在のドイツ大使に、この条約は日本の南方進出を大いに促進するであろうとかれは説明した。

 野村の請訓に対して与える回答について、近衛は木戸や天皇と話し合った後に、松岡に対して、この問題を考慮するために、直ちに東京に帰るように打電した。1941年4月22日に、松岡は東京に到着し、合衆国政府に提出すべき提案の草案を野村に送った。

 合衆国の権益を侵害する行動は、野村に与える回答の審議中にも続いていた。中国におけるアメリカ国民とアメリカ商品の移動に対する日本の妨害は、ますます著しくなった。中国の昆明のアメリカ領事館は、3度目の爆撃を受け、大きな被害を受けた。日本海軍はエニウェトク環礁を占領し、そこに海軍基地を建設し始めた。1941年5月5日に、合衆国政府はこれらの行為に応酬して、輸出禁止品目表に、屑ゴムを含めて、追加品目を加えた。

 リッベントロップは、日本と合衆国の交渉を開始するについて、合衆国が定めた条件と、交渉を開始するという日本内閣の決定とを知った。かれは直ちに大使大島に対して、日本がそのような条件を甘受することは理解できないと述べた。大島はリッベントロップに対して、日本政府はハル氏が定めた原則を具体化するような条約を合衆国と締約する意図はもっていないと保証した。リッベントロップは、シンガポール攻撃計画を放棄したこと、ドイツ政府との信義を破ったことについて、日本の内閣を非難した。日本政府がハル原則に同意することを拒否するか、アメリカ政府が中立を続けるという誓約を与えるとの条件付きでのみ同意するか、いずれかをかれは要求した。大島はリッベントロップに同意し、自分の意見を松岡に伝達し、リッベントロップの疑惑と非難は充分根拠があると思うと述べた。内閣がリッベントロップの提案を採用するようにとかれは進言した。

 1941年5月8日に、野村は松岡に報告して、合衆国は東亜新秩序も侵略によって獲得した領土の保持も認めようとせず、ハル氏の言明した四原則の遵守をどこまでも主張していることを指摘した。

 1941年5月12日に、野村はハル氏に対して、日本側の最初の公式の提案を手交した。この草案は、あいまいで陳腐な言葉でつづられていた。その言葉は、実際には、両国政府の間に、だいたい次のような秘密の了解をすることを定めたものであった。すなわち、合衆国政府は次のことに同意する。(1)1940年11月30日の日満華共同宣言に具現されている近衛三原則に従って、日本が中国に新秩序を建設することを認めること、及び蒋介石大元帥に対して直ちに日本と和平交渉をするように勧告すること、(2)蒋大元帥が和平交渉を行なわない場合には、中国国民政府に対する援助をやめるという秘密協定を結ぶこと、(3)中国と南方地域を含む共栄圏地域への日本の進出は、平和的なものであるという了解に基づいて、日本がこの共栄圏を建設する権利をもつことを認め、日本が必要とする天然資源をこの区域で生産し、獲得することについて、協力すること、(4)平等と無差別の基礎において、日本国民の入国を許すように、移民法を改正すること、(5)両国間の正常な経済関係を回復すること、(6)日本政府の意見で、ドイツとイタリアに抗戦している連合国に与えられる援助が枢軸に対する攻撃に等しいと考えるときは、三国条約第三条に基づいて、日本は合衆国を攻撃する義務があることを了承すること、(7)連合国に援助を与えることを差し控えること。以上に対して、日本政府は次のことに同意する。(1)合衆国との正当な貿易関係を再開すること、(2)共栄圏内で入手できる物資の供給を合衆国に保証すること、(3)フィリッピン諸島が永久中立国の地位を維持するという条件で、合衆国政府と共同して、フィリッピン諸島の独立を保証すること。

 この提案の草案がハル氏に手交された日の翌日に、バタヴィアの日本代表団は、オランダ代表に対して、オランダ領東インドと日本の相互依存関係について、日本政府がさきに行なった声明を重ねて述べた修正要求を手交した。東京では、松岡がアメリカ大使に対して、自分も近衛も、日本の南方進出は平和的手段によって行なう決意であると告げたが、『事態がそれを不可能ならしめぬ限り』と意味深長な言葉をかれはつけ加えた。アメリカ大使は、松岡がどのような事態を考えているのかを尋ねた。松岡は、イギリス軍隊のマレー集結を指していると答え、これを挑発的であると述べた。

 リッベントロップは、野村がアメリカ合衆国に出した提案の草案を知り、直ちに大島を詰問し、ドイツとイタリア政府に相談せずに、合衆国と交渉を始めるという決定を松岡がしたことに対して、不満の意を表明した。かれはシンガポール攻撃をこれ以上遅らせずに開始することを要求した。大島は松岡に報告して、『南方経略のこの好機とシンガポール攻撃の可能性を日本が失うがごときは、単に英米のみならず、独伊の軽侮すら招くものにあらざるや』といった。合衆国との交渉に対するドイツの指導者の不満をかれは松岡に告げ、日米交渉は、日本の外交政策が変わり、軍部の計画を破ることを意味すると考えられるから、自分は日本陸海軍当局に勝手に通知したと述べた。これが近衛と松岡との摩擦の始まりであった。

合衆国は交渉に同意――1941年5月 (原資料75枚目)

 合衆国政府は、交渉の出発点として、1941年5月12日の日本側提案の草案を受諾し、日本政府との了解ができるかどうかを調べてみることを約束した。1941年5月28日に、ハル氏と野村は会見した。会談中に、交渉がうまく行なわれることに対して、2つの大きな障害があることが明らかになった。それは、(1)三国条約に基づく日本の義務が現在もあいまいなままであること、(2)中国問題解決に対する条項であった。第一の問題については、合衆国が自衛の手段としてヨーロッパ戦争に巻きこまれるという、起こり得る事態の発生に対して、日本がその態度を明確にすることをハル氏は望んだ。第二の問題については、中国と平和条約を締結した後にも、中国に軍隊を駐屯させておくことを日本が固執しているのは、合衆国と日本との友好関係に悪作用を及ぼす要因であろうとハル氏は指摘した。日本が中国にどのくらいの軍隊を駐屯させておこうとしているのか、その配置される地域はどこであるのか、どちらも野村は言明することができなかった。

 5月31日に、ハル氏は野村に、明確な討議を行なうに先だって、ある適当な時に、提案の草案を極秘に重慶政府と話し合うつもりであると告げた。さらに、5月31日に、もう一つの合衆国の草案が野村に手交された。それには、他のこととともに、保護、自衛及び国家保全のために、ヨーロッパ戦争に巻きこまれるに至った国に対しては、三国条約の条項は適用しないことを日本が言明すべきであるという提案があった。さらに、中国に提出する条件の大要を日本はアメリカ合衆国に提出すべきであるという提案もあった。この草案には、ドイツの行動に対する合衆国の態度に関して、詳細な言明が添えられ、また、アメリカ合衆国の見解において、明らかに武力による世界征服を目標とすると思われる運動に抵抗するために、合衆国は自衛の措置をとる決意であるという声明が添えられていた。

 6月4日に、日本の大使館は、アメリカ側の提案に対して、ある種の修正を提案した。その中には、ある国が自衛の手段としてヨーロッパ戦争に巻きこまれるに至った場合には、三国条約に基づく日本の義務は適用しないという条項を、合衆国がその草案から削除するという提案があった。ハル氏はこれらの日本側の修正を審議し、6月6日に、右の修正は、アメリカ合衆国が当然含まれていると信ずる基本的な諸点から、交渉を逸脱させたものであると野村に告げた。ハル氏の見解では、これらの修正は、日本と枢軸との連携が強調されていること、日本の中国に対する関係を極東の平和に貢献するような基礎の上に置く意図を明らかに示すものが全然ないこと、平和と無差別待遇との政策に関する明確な誓約から方向を転じていることをあらわしているものであった。それにもかかわらず、1941年6月15日に、野村はハル氏に対して、すでにハル氏は反対をした提案そのものを盛った新しい草案を手交した。6月10日には、重慶は百機以上の日本の飛行機によって爆撃され、アメリカの財産が破壊された。日本政府の代弁者たちの公式声明は、アメリカ合衆国の利益に敵対する意味において、三国条約に基づく日本の義務と意図を強調した。バタヴィアにおける交渉は、明らかに失敗しそうになっていた。6月20日に、イギリスと南アメリカ向けのものを除いて、合衆国政府は一切の石油の輸送を禁ずる命令を出した。

 日本側は、5月12日の提案に対する回答を督促していた。6月21日に、ハル氏は野村と会談した。そのさいに、民主主義国を援助するという計画によって、合衆国がヨーロッパ戦争に巻きこまれるに至ったならば、日本はヒットラーの味方となって戦うということを予想しているとの了解以外には、合衆国とどのような了解にも到達することを日本軍部は認めないであろうということを示している証拠が全世界から集まっているとハル氏は述べた。その中には、日本のいろいろの指導者の公式の声明も含まれている。ついで、1941年5月12日の提案は、アメリカ政府が指示することを誓約した原則を破るものであること、提案中の中国に関する条項について、特にそうであることを述べた。それから、ハル氏は野村に対して、自分の達した結論では、交渉を進める前に、合衆国政府としては、日本政府が平和方針を進めたいと思っていることが今までよりもいっそう明白に表わされるのを待たなければならないと知らせた。日本政府がそのような態度を明らかにすることをかれは希望した。

準備の積極化 (原資料78枚目)

 1940年の9月と10月の計画は守られていた。この計画の究極の目標は、日本による東アジアの支配であった。この目標は、必要ならば、武力の行使によって到達することになっていた。この計画の実行にあたってとるべき措置の一部は、二者択一的のものであった。三国条約が締結されていて、西洋諸国に対する威嚇の手段として、利用され、また、日本が南方に進出する際に、枢軸諸国が日本に協力する保証として利用されていた。日本がこの進出を行なうにあたって、その背面の保証として、ソビエット連邦と俯瞰新条約が結ばれていた。この進出を行なうにあたって、日本の軍隊が拘束されないようにし、また中国の軍隊を使用することができるようにするために、蒋介石大元帥と和平交渉を試みたが、それは失敗した。ヨーロッパ戦争の仲介を行ない、それによって、日本の東南アジアに対する進出をイギリスに承認させ、シンガポール攻撃の必要を除こうとする試みも、同じように失敗した。合衆国との交渉によって、合衆国太平洋艦隊がこの攻撃に対して行なうかもしれない妨害を除こうとする試みも、また失敗した。油とその他の重要物資を獲得するために、バタヴィアで行なった交渉も、やはり失敗した。この交渉は、1940年6月17日に打ち切られていた。日本の軍需品の貯蔵は、使いつくされてしまう危険があった。1941年4月初めになされた大本営の決定は、変更されなかった。今や最後的準備の時が到来した。

 日本海軍は、1941年5月下旬に、真珠湾攻撃の訓練と演習を始めた。真珠湾と地形が似ている日本の鹿児島で、急降下爆撃の訓練が行なわれた。真珠湾は浅いので、1941年の初めに、浅海魚雷をつくり出すことが始まった。夏の間を通じて、海軍はこの型の魚雷をつくり出し、実験するために相当の時間を費やした。真珠湾への進路として、いっそう安全な北方航路を使うことができるようにするために、海上給油が特別訓練事項とされた。

内閣の政策と1941年6月及び7月の決定 (原資料81枚目)

 大島は、本国政府の支持に従って、1941年6月10日に、リッベントロップと会談を始めた。この会談の結果として、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃に使用するために、さらに海軍基地が南部仏印で獲得されることになった。木戸は近衛から、シンガポールを攻撃するという大本営の決定と、その決定に基づく処置について知らされた。1941年6月21日に、松岡はドイツ大使に対して、この決定を知らせ、その際に、事態は耐え得ないものになったこと、オランダ政府との交渉は再開されないことになったこと、シンガポールとオランダ領東インドを攻撃するためには、南部仏印にさらに基地が必要であることを告げた。松岡は大島に対して、ドイツ政府によって、ヴィシー・フランスの同意が得られるかどうかを問い合わせるように訓令し、もしこれが得られなければ、かれは直接にヴィシーのフランス政府とこの問題を取り上げるであろうと述べた。

 早くも1941年6月6日に、大島は近衛に対して、ドイツ政府がソビエット連邦を攻撃することを決定したと知らせた。この情報は、日本の指導者たちを相当に狼狽させた。南方に対する攻撃を延期して、極東におけるソビエットの領土を占領し、それによって、樺太から石油を獲得するために、ヨーロッパ戦争でイタリアが演じた役割に倣い、独ソ戦の適当な機会に、ソビエット連邦の後方を攻撃する方がよいと考える者があった。その中には、松岡も含まれていた。他方では、南方進出を遂行するという9月―10月の最初の計画を放棄してはならないと主張するものもあった。その中には、近衛や木戸が含まれていた。ドイツは6月22日にソビエット連邦を攻撃した。木戸の進言に基づいて、天皇は松岡に対して、近衛の意思に従うように指示し、木戸と平沼もこの勧告をくりかえした。

 平沼、東条、武藤、岡、その他の者が出席した1941年6月25日の連絡会議は、日本は仏印とタイに対する措置を促進することを決定した。バタヴィアにおける交渉の失敗に鑑みて、このことは必要であった。南部仏印に官軍と航空の基地を急速に設置し、もしフランス側が日本の要求に応じない場合には、武力を用いることになっていた。フランスとの交渉を始める前に、所要の軍隊を派遣する準備が整えられることになっていた。これらの基地は、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃のために必要であった。近衛と参謀総長、軍令部総長は、これらの決定を天皇に報告した。

 連絡会議の決定は、既定の政策が変更されてはならないことについて、平沼、東条、武藤及び岡が近衛に同意したことを示している。1941年6月28日に、東条は天皇に報告した。その日、後になって、東条は木戸に対して、陸軍の計画は、さしあたって、関東軍に『冷静慎重』な態度を取らせ、独ソ戦に対して中立を保つこと、大本営の会合を毎日宮中で開く手はずを整えて、これを強化することであると話した。6月23日に、鈴木は大本営を強化する手段を提案していた。木戸はかれに同意したが、元帥府と相談すべきであると勧告した。土肥原は元帥府の一人であり、6月30日の元帥府の会合に出席した。そのときの会合には、東条がかれの陸軍次官木村とともに出席して、急速に進展しつつある情勢に関して、かれの意見を表明した。このようにして、松岡の計画によって、陸軍の戦略がくつがえされるのを防止するために、陸軍は全力を集中した。松岡の計画というのは、南進を延期して、直ちにソビエット連邦を攻撃しようというのであって、この計画の概要は、1941年6月22日に、松岡が天皇に説明しておいたものであった。松岡の態度によって引き起こされた紛糾と、かれの辞職の必要とが論議されつつあった。

 1941年6月25日の連絡会議に続いて、7月2日に開かれた御前会議は、最終的にこの問題を解決した。東条、鈴木、平沼及び岡が、他の者とともに、この会議に出席した。この会議は、情勢の変化にかかわらず、東アジアと東南アジアを征服する計画を日本は堅持し、南方進出の歩を進め、同時に独ソ戦の有利な事態を利用して、ソビエット連邦を攻撃する準備を整えておくことを決定した。シンガポールと真珠湾に対する最後的準備が完了されつつあり、また、南部仏印とタイで日本軍が攻撃のための配置につきつつある間、必要な外交交渉が続けられることになっていた。日本は独ソ戦に中立を保ちながら、他方では、ソビエット連邦に対する攻撃を秘密に準備することになっていた。この攻撃は、有効な抵抗をすることができないと思われるほど、ソビエット連邦が戦争で弱くなったことがわかった場合に、開始されることになっていた。東条はこの計画の強硬な唱道者であり、『ソビエット連邦が熟柿のように地上に落ちるばかりになった時期に、これを攻撃すれば、日本の威信は大いに揚がるであろう』と述べた。

 参謀本部は、南方地域で遂行されることになっていた軍事行動の最後的な作戦計画を進めるように命令された。後にフィリッピンとマレー半島の上陸作戦を行なった軍隊は、中国の沿岸、海南島及び仏印の沿岸で、上陸作戦の演習を始め、他の部隊は台湾で訓練を受けた。香港を攻撃することになっていた部隊は、中国の広東付近の駐屯地で夜間演習とトーチカ強襲の猛烈な訓練を受けた。攻撃することになっていた地域の地勢と気候に似通った場所が演習地域に選ばれた。訓練は夏中を通じて、実際に攻撃が行なわれるまで続いた。嶋田大将は、この訓練が行われていた間、支那方面艦隊の司令長官であった。

 仏印に対する作戦のために、日本陸軍の3箇師団が準備された。日本政府が南部仏印を占領し、そこに軍事基地を建設するのをヴィシーのフランス政府が許すように、日本政府は要求することを計画した。この措置はリッベントロップから大島に提案したものであって、リッベントロップはドイツがこの要求をするのは得策でないと考えていたのである。日本側の計画は、最後通牒の形で要求を行ない、もし要求が容れられないときは、これに続いて侵入することになっていた。この要求は1941年7月5日になされることになっていたが、イギリス大使とアメリカ大使からの問い合わせがあったことによって、この計画が外部にもれたことが分かった。木戸はその日記に、右の事実にかんがみ、この最後通牒に対抗するために、イギリスとアメリカが何かの手を打つとすれば、どのような手を打つかを見届けるために、最後通牒の手交を5日間延期することに決定されたと記録している。アメリカ大使と、イギリス大使に対しては、南部仏印に侵入する意図がまったくないといわれた。

 1941年7月12日に、松岡はヴィシー・フランス駐在の日本大使に対して、7月20日またはそれ以前に、最後通牒を手交して回答を要求するように訓令した。その翌日に、近衛はペタン元帥あての個人的書簡で、もし日本陸軍が仏印を基地とし、その沿岸に海軍基地を建設することを許されるならば、日本は仏印におけるフランスの主権を尊重すると同元帥に対して保証した。どのような策略を用いるかについて、近衛と松岡の意見が一致しなかったために、最後通牒に対する回答が受け取られる前に、第二次近衛内閣は辞職した。

第三次近衛内閣 (原資料85枚目)

 1941年7月2日の御前会議の後、松岡はその決定に容易に承服せず、それに完全に従って行動しなかった。

 武藤と岡は、それぞれ陸海軍の軍務局長として、追加提案をすることによって、アメリカとの交渉の継続を確保する方策を立てた。松岡がこの武藤・岡案の適用に協力することを条件として、外務大臣として松岡が留任することに近衛は同意した。松岡はこの案には異存がないけれども、同時に1941年6月21日に野村になされたハル氏の声明を国辱であるとし、これをしりぞけることを固く主張した。この声明というのは、交渉を始める前に、合衆国としては、日本政府が平和方針を進めることを望んでいるということを、今までよりももっと明らかに示すのを待たなければならないとハル氏が述べた声明のことである。ハル氏の声明を明確にしりぞけた上で、初めて武藤・岡案を提出すべきである、と松岡は提案した。この措置によって、合衆国がこれ以上交渉することを拒絶するに至るのを近衛はおそれて、交渉打切りの危険を少なくするために、武藤と岡によって起草された対案を、ハル氏の声明を拒否する訓令とともに、松岡から野村に送るようにと主張した。松岡は近衛の勧告を無視し、かれ自身の意見に従って、野村に訓令を発し、それによって、内閣の危機を早めた。木戸はこの危機を知ると、1941年7月2日の御前会議の決定を実行に移すために、近衛内閣を存続させることを決意し、もし内閣が総辞職したならば、近衛に再び組閣の命令を下すという計画について、皇族及び天皇と協議した。松岡の辞職を要求することを木戸は進言した。近衛はこの進言をしりぞけた。というのは、松岡の強制的辞職は、アメリカ側の指し金であると暗示することによって、松岡一派がそれを政治的に利用するのをおそれたからである。そこで、1941年7月16日に、近衛内閣は総辞職し、天皇は木戸に対して、元総理大臣であったものからなる重臣達を枢密院議長とともに召集し、近衛の後継者を推薦するように命じた。

 1941年7月17日に、木戸は重臣とともに、近衛の辞職の声明について協議した。若槻、阿部、岡田、林、米内及び広田が出席した。近衛なら政界の各方面を軍部支持に統一することができるという意見が述べられ、天皇に近衛を推薦することに会議は全員一致した。天皇は近衛を呼び、新しい内閣を組織するように命じた。第三次近衛内閣は、7月18日に成立した。豊田が外務大臣となり、東条は陸軍大臣に留任し、平沼は無任所大臣となり、鈴木は企画院総裁と無任所大臣に留任した。木村は陸軍次官に留任した。武藤と岡はその職に留まった。新しい外務大臣は、内閣更迭の結果として、政策に変更が生ずることは少しもないと言明した。

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