歴史の部屋

南部仏印の占領 (原資料88枚目)

 1941年7月19日に、大島はリッベントロップに対して、ヴィシーのフランス政府に対する日本の最後通牒の覚書を手交した。この覚書は、『南方への進撃』の第一歩として、仏印に軍事基地を確保するために、最後通牒が送られたのであると説明した。この『南方への進撃』というのは、シンガポールとオランダ領東インドに対する攻撃を意味していた。かれはドイツ政府に対して、ヴィシー政府が最後通牒を受諾し、日本政府の要求に応ずるように勧告してもらいたいと要請した。豊田は7月20日に、東京駐在のドイツ大使に、内閣の更迭は7月2日の御前会議の政策決定に影響を与えるものではないと知らせた。ヴィシー・フランスは暴力に服するよりほかに途がなくなったといって、最後通牒の条項をドイツに報告した後、日本の最後通牒を受諾し、日本の要求に同意した。協定に従って、南部仏印を占領し、サイゴン付近に8ヵ所の航空基地とサイゴン及びカムラン湾とに海軍基地を建設するために、4万の兵が7月24日に出港した。正式の協定は、7月28日に承認され、その翌日に調印された。東条、武藤、鈴木及び岡は、7月28日の枢密院会議に列席し、内閣を代表して、この協定を説明した。この協定は、6月25日の連絡会議の決定に基づいて、7月2日の御前会議できめられた措置の一つであること、内閣と参謀総長及び軍令部総長は一致しており、内閣の政略に従って適切な措置を

アメリカ合衆国とのその後の会談 (原資料89枚目)

 大使野村は、1941年7月3日と7月19日に、外務大臣あての電報で、南方への進出が始まったときに、合衆国政府が日本と合衆国との外交関係を断絶するかもしれない危険があると警告した。7月23日に、アメリカの国務長官代理ウェルズ氏は、ヴィシー・フランスに対する要求の意味について、野村に尋ねた。日本は妨害されずに原料の供給を受けること、軍事的包囲に対する保障を設けておくことを必要とすると野村が説明したのに対して、かれはそれに答えて、日本政府とアメリカ政府の間で討議されてきた協定は、仏印の占領よりもはるかに大きな経済的保障を日本に与えるものであると述べた。かれはつけ加えて、合衆国政府はこの占領を、日本が『南方地域に対する拡大及び征服政策に乗り出す前の最後の処置を講じている』との通告であるとみなしていること、日本大使との会談をこれ以上続ける根拠を国務長官は見出すことができないと述べるように訓令を受けていると述べた。その翌日に、合衆国の国務省は、新聞に対して声明を発表した。その声明というのは、日本政府が仏印において今までとってきたところの、また現在とっているところの手段によって、日本政府は武力または武力の威嚇によって対外進出の目的を遂行するという決意を明らかに示していること、仏印に隣接する地域の征服に用いるために、軍事基地を獲得しようとする要望以外に、仏印を占領することを正当とするような理由はないように見えるということを述べたものであった。

 合衆国大統領は、1941年7月24日に、仏印を中立地帯とみなし、日本には日本が求めている食糧とその他の原料を確実に手に入れる充分な機会を与えるということを日本政府に提案した。しかし、この提案は拒絶された。7月25日に、大統領は、合衆国における日本及び中国の一切の資産を凍結する指令を出した。仏印に対する日本の行動は、戦争の大きな危険をつくり出しているものと考えられた。そのために、脅威を受けている諸国は、自国の安全がまったくくつがえされるのを防ぐ措置をとらなければならなかった。1941年7月26日に、日本の外務大臣豊田は、仏印に対する日本の行動は、中日事変を完遂するために必要なものであると説明した。また、仏印を包囲しようという企てについて、日本は報告を受けていると称した。その包囲は、中日事変を完遂するためにぜひとも必要なこの地域に対する脅威であるというのであった。このような仏印包囲の企てについて、またはそれに関する報告について、どのような証拠もわれわれに提出されていない。日本の南部仏印への進駐の理由は、オランダ領東インド攻撃の準備として、シンガポール攻撃の基地を手に入れたいということにあったという証拠は決定的である。これらの基地は、フィリッピンに対しても脅威を与えた。シンガポールが実際に攻撃されたときには、サイゴンからの軍隊と南部仏印の基地からの飛行機とが攻撃に参加した。イギリスとオランダも、それぞれ7月26日と28日に、同様の凍結令を発した。凍結令が合衆国政府によって発せられた後、8月8日に、野村はアメリカの国務省に対して、国交調整に到達する方法を討議するために、両政府の責任ある首脳者が会見するということが可能であるかどうか尋ねた。国務長官は、かれと野村との非公式会談を中絶させるに至った経過を簡単に繰り返して述べた後に、見解の調節を可能にするような方向に向かって、日本の政策を立てる方法を見出すことができるかどうかは、日本政府の決定にまたなければならない問題であると述べた。

補給問題 (原資料91枚目)

 1941年7月の末に、ドイツのロシアに対する進撃が緩慢になってきたということを大島は知った。この情報は、日本の大本営を相当に憂慮させた。なぜならば、蓄えられた日本の手持ちの戦争資材は、ソビエット連邦、合衆国及びイギリスに対して、同時に戦争を行なうには、不充分であることがわかっていたからである。もし日本がアメリカ合衆国を攻撃したならば、ソビエット連邦は、その領土内で合衆国に軍事基地を提供することによって、合衆国に援助を与えるのではないかとおそれられた。この可能性については、1941年8月の初旬に、日本の外務大臣とソビエット大使との間で論議された。

 1941年7月の末に、合衆国に対する日本の政策について相談するために、天皇は海軍軍令部総長を呼んだ。軍令部総長の永野は天皇に対して、自分は三国同盟に反対しているということ、それが存続している間は、日本とアメリカ合衆国との国交を調整することは不可能であると信ずるということを告げた。もし国交を調整することができず、日本が石油の供給を断たれたならば、アメリカ合衆国との戦争の場合に、日本の石油貯蔵量はわずか1年半しか間に合わないというのであった。作戦行動で先手を打つほかに、途はないということであった。天皇は永野に大勝利を得ることができるかどうかと尋ねた。永野は日本が勝てるかどうかさえ覚束ないと答えた。

 絶望的な戦争を行なわなければならないということについて、天皇は憂慮していることを木戸に話した。しかし、木戸は、軍令部総長の意見はあまりに単純であるといって、天皇を安心させた。アメリカ合衆国と日本との友好関係を回復する方法が、日本にないわけではないとかれはいった。しかし、軍令部総長の提出した問題に慎重な考慮を払うように、総理大臣に要求しようと述べた。木戸と近衛は、1941年8月の2日と7日に、これらの問題について考慮した。木戸は日記の中で、攻撃を行なうことに反対する海軍の議論において、海軍側の挙げた諸点の大要をしるしている。戦争が長引いた場合に、石油の貯蔵量を補充するために、樺太とオランダ領東インドから、石油を手に入れることを海軍は期待していた。ところが、ソビエット連邦は合衆国と連合する可能性があり、従って、樺太から石油を獲得することがさまたげられるわけであった。オランダ領東インドの油田施設を無傷で占領することを当てにしたり、ソビエット領土を基地とする飛行機によって哨戒されている可能性もあり、潜水艦の跳梁している海域で、長距離の輸送を行なうことを当てにしたりすると、それに伴い危険率は、まったく大きすぎるものであった。陸軍は海軍に同意せず、蓄えられた油の手持ちは、勝利を保証するのに充分であると主張した。近衛と木戸は、事態が重大であり、直ちに陸海軍の意見を一致させることが必要であるということに意見が一致した。

アメリカ合衆国とのその後の会談 (原資料93枚目)

 1941年7月25日のアメリカの凍結令に続いて、7月26日に、大使野村は、国交の調製に努力するために、両政府の首脳者が会見してはどうかという提案をしたが、8月7日に、政府の命令に従って、この提案を再び申し入れた。これは合衆国政府によって歓迎された。そこで、8月17日に、一方で、日本の陸海軍の首脳者が、合衆国との戦争の場合に、日本の海軍に補給すべき石油の問題を考究していたときに、大統領は野村の提案に回答を与えた。ハル氏の述べた原則によって示された線に沿って、日本政府が平和的な方針に進みうる立場にあるならば、合衆国政府は喜んで非公式会談を再開し、両政府の首脳者が意見の交換を行なうべき適当な時期と場所を取り極めるために努力すると大統領はいった。大統領は会談が中断された事情に言及し、会見の準備を進める前に、日本が現在の態度と計画に関する明確な声明を出すならば、好都合であろうといった。さらに、大統領は野村に対して、完全に率直な態度で臨まない限り、目的に役立たないであろうと述べた。武力または威嚇による軍事的支配の政策に従って、日本がこれ以上何かの措置をとるならば、アメリカ合衆国は、合衆国とその国民との権利、利益、安全及び保障を擁護するために、直ちに措置をとるほかはなくなるというのであった。

 総力戦研究所は、合衆国との交渉の問題を研究していたが、1941年8月上旬に、次のような解決法を提案した。『アメリカの申入れに対しては、日本の立場につき明瞭なる言質を与えず、外交交渉により遷延策を採り、この間戦備の充実を期す。』

 1941年8月27日に、近衛は大統領あてに書簡を送り、その中で、両国間の関係が悪化した原因は、主として両国間に意思の疎通を欠いたことによると信じていること、素直に双方の見解を披歴するために、直接大統領と会見したいと思っていることを述べた。協定を正式に交渉する前に、まず会見して、一切の重要問題を大所高所から討議することをかれは提案した。それと同時に、日本政府の言明も大統領に提出された。この言明の中で、日本政府は、意見を交換しようという招請を歓迎し、日本は平和に対し用意があり、太平洋の平和を確保するために犠牲を払うことを誇りとするといった。日本の仏印における行動は、中日事変の解決を早め、太平洋の平和に対する一切の脅威を除き、日本が必需物資の公平な供給を受けられるようにするためであると述べてあった。また、日本は他国に脅威を与える意図はもっておらず、中日事変が解決されるか、東アジアに公正な平和が確立されるならば、直ちに軍隊を仏印から撤収する用意があること、仏印における日本の行動は、その近接地域に対する軍事的進出の準備ではないことが述べてあった。続いて、合衆国政府が従来長い間遵奉してきた基本的原則に適合する提案だけに、日本政府は喜んで討議を限定すると述べた。なぜならば、日本政府が長く抱いていた国是も、その点では、完全に一致しているからであるというのであった。

 仏印に関して、日本が言明したことは虚偽であった。1941年7月に、南部仏印に軍隊を駐屯させ、基地を占拠した日本の動機は、日本が企てていたマレーとオランダ領東インドに対する攻撃のために、基地と発進地を獲得したいという欲望であったことを、われわれはもう知っている。これはいわゆる『支那事変』となんの関係もなかった。われわれが今では知っているように、日本の提案していたのは、日本の中国に対する要求が満たされるか、東アジアに『公正なる平和』が確立されるまで、マレーとオランダ領東インドを攻撃するために、この基地を日本が保有するということであった。しかも、この基地はフィリッピンと海上交通路に対する脅威にもなるものであった。右の平和の確立というのは、それをきめる基準がほかに全然提案されなかったのであるから、日本が単独できめることになるのであった。弁護側は、この言明を基礎として、ハル氏の述べた四原則を実施することについて、それは日本が同意していたにひとしいものであるといった。この言明から、かりに日本が何か右の趣旨の明瞭な申し出をしたことを読み取ることができるとしても、その当時に、日本の指導者は、このような申し出を守る意思をもっていなかったということが今では立証されている。

 1941年9月3日に、大統領は近衛の書簡と日本政府の言明に対して回答した。近衛が太平洋における平和を希望すると述べたこと、日本政府が長く抱いていた国是は、合衆国政府が長く遵奉してきた原則と一致するものであると日本政府が言明したことを了承して、大統領は満足に思うといった。しかし、提案された線に沿って、近衛と大統領との協力が成功を収めるのに対して、障害となり得ると思われる観念を日本のある方面で支持している兆候を認めないわけにはいかないと述べた。従って、提案された会談の成功を確実にするための用心として、両者が意見の一致を求めようとしている根本的な問題について、予備討議を直ちに始めることが、非常に望ましいと提案した。これらの根本問題に関して、日本政府の態度を示すように、大統領は要請した。

 その間、8月から後、日本の参謀本部は交渉の即時中止と敵対行為の開始を主張していた。近衛はこれに反対し、陸海軍両大臣やその他の者と会談を重ねて、この方針に対応しようとつとめた。

 1941年9月5日に、近衛は大統領の書簡を受け取ると、直ちに閣議を開いた。東条は提案された近衛と大統領との会談に反対した。かれが反対した理由は、すべての本質的な問題に関して、一致を見た上でなければ、大統領が近衛との会見を欲しない旨を表明したからであると本裁判所でかれは証言した。天皇は近衛に、合衆国とイギリスに対する戦争に際してとるべき戦略について、多くの質問をした。これらの質問に答えさせるために、参謀総長と軍令部総長を呼び出すように、近衛は天皇に進言し、木戸はこの進言を支持した。

1941年9月6日の御前会議 (原資料97枚目)

 1941年9月6日に、東条、鈴木、武藤、岡その他が出席して、御前会議が開かれた。この会議は、日本は南方へ進出すること、合衆国及びイギリスと交渉して、日本の要求が容れられるように努力すること、しかし、もしこれらの要求が10月の初めまでに達成されない場合には、開戦の決意をすることを決定した。日本が達成しようとよっした要求も、その会議で次のように決定された。『対米(英)交渉において帝国の達成すべき最小限度の要求事項並びにこれに関連し帝国の約諾し得る限度。第一、対米(英)交渉において帝国の達成すべき要求事項。

一、支那事変に関する事項

 米英は帝国の支那事変処理に容喙し又はこれを妨害せざること

 (イ) 帝国の日支基本条約及び日満支三国共同宣言に準拠し、事変を解決せんとする企図を妨害せざること

 (ロ) ビルマ公路を閉鎖し、米英両国が蒋政権に対し軍事的並びに経済的援助をなさざること・・・

二、帝国国防上の安全を確保すべき事項

 米英は極東において帝国の国防を脅威するがごとき行動に出でざること

 (イ) 日仏間の約定に基づく日仏間特殊関係を容認すること

 (ロ) タイ、蘭印、支那及び極東ソ領内に軍事的権益を設定せざること

 (ハ) 極東における兵備を現状以上に増強せざること

三、帝国の所要物資獲得に関する事項

 米英は帝国の所要物資獲得に協力すること

 (イ) 帝国との通商を回復し、かつ南西太平洋における両国領土より帝国の自存上緊要なる物資を帝国に供給すること

 (ロ) 帝国とタイ及び仏印との間の経済提携につき友好的に協力すること

第二、帝国の約諾し得る限度。

 第一に示す帝国の要求が応諾せらるるにおいては、

一、帝国は仏印を基地として、支那を除くその近接地域に武力進出をなさざること

二、帝国は公正なる極東平和確立後、仏領インドシナより撤兵する用意あること

三、帝国は比島の中立を保障する用意あること。』

 この決定には、一つの基本的な欠点がある。日本が中国の傀儡政府との協定によってすでになしとげていたように、日本自身の目的のために、中国の経済を自由に支配し続けること、長い間日本の侵略の犠牲となっていた中国の正当な政府に対して、アメリカとイギリスは当然に軍事的と経済的の支持を与える権利があったのに、これをやめることという提案がそれである。もしこれが『対米英交渉において達成すべき最小限度の要求』であることを日本が明らかにしていたならば、これらの交渉はそこで行きづまりになったであろうといっても、いい過ぎではない。この『最小限度の要求』は、ハル氏が述べた四原則と根本的に相容れないものであった。しかも、その四原則の遵守を、交渉の全期間を通じて、ハル氏は強調していたのであった。

戦争準備の続行 (原資料99枚目)

 この御前会議の直後に、参謀総長はその作戦部長に対して、戦争のためのかれの計画と準備をいっそう強化するように命令した。陸軍省と参謀本部との関係を定める慣行によって、陸軍大臣東条、陸軍次官木村、陸軍省軍務局長武藤及び海軍省軍務局長岡は、この準備が行なわれつつあったことを知っていて、それに協力したに違いない。

 真珠湾攻撃のための訓練とマレー、フィリッピン、オランダ領東インド及びボルネオに対する上陸作戦のために中国の沿岸で行なわれていた訓練は、終わりに近づきつつあった。支那方面艦隊司令長官の海軍大臣嶋田は、9月1日に、東京の近くの横須賀鎮守府の司令長官に転任し、また海軍将官会議の一員に任命された。作戦の詳細な計画を定めるために、1941年9月2日から13日までの間に、東京の海軍大学校で、最後の『図上演習』または海軍参謀会議が行なわれ、多数の海軍の高級将校が参加した。解決すべき問題は2つあった。第一には、航空母艦で真珠湾を攻撃する詳細な計画を立てる問題、第二には、マレー、ビルマ、オランダ領東インド、フィリッピン、ソロモン及び中部太平洋諸島を占領する作戦の予定を立てる問題であった。これらの問題を解決するものとして案出されたものが、後に発せられた機密連合艦隊命令作第一号の基礎となったのであった。

 外務大臣豊田は、諜報活動に従事していたかれの部下のハワイ総領事から、ハワイ近海におけるアメリカ艦隊に関して、秘密の報告を送らせるために、9月24日に暗号を作成した。

 攻撃のための国内的準備は、急速な歩調で続けられた。東条は準備に関する調査を行ない、9月11日に、この調査について木戸に報告した。内閣は、軍需品増産のために、鈴木の企画院と厚生省が共同で作成した『労務動員案』を採用した。教育総監は、上陸作戦と連合軍飛行機の識別とに関する訓練用の典範を出した。東条の陸軍省は、シンガポールとハワイに対する作戦地図を作成した。内閣印刷局は、フィリッピン、マレー及びオランダ領東インドで使用するために、ペソ、ドル及びギルダーの占領用の通貨の印刷を続けた。

アメリカ合衆国との会談の継続 (原資料101枚目)

 今言及した御前会議の日である9月6日に、近衛はアメリカ大使に対して、会議の決定がまったく反対の性質のものであったにかかわらず、自分はハル氏と合衆国大統領が言明した四原則に完全に賛成していると述べた。その翌日に、ワシントンで、大使野村は合衆国政府に対して、日本側の新しい提案の草案を提出した。これは、大統領が9月3日の近衛あての書簡の中で述べた予備交渉を始めるについて、その基礎として意図されたもののように見受けられる。この提案の草案の趣旨は、『何ら正当の理由なくして』、日本は南方に対してこれ以上の軍事行動を行なわず、三国条約における日本の義務は、他の枢軸国政府の見解を考慮することなく、『防護と自衛の観念によって』解釈するというのであった。合衆国は中国に対して援助を与えることを中止し、日本が日本側の条件によって中国と和平を交渉することを援助し、南方地域における天然資源の獲得と開発について日本に協力することに同意し、極東と南西太平洋地域における軍事的措置を停止することになっていた。日本はかねて軍隊を仏印から撤収することを拒否していた。この提案の草案は、三国条約を遵守しようとする日本の意思を再確認したものである。なぜならば、同条約の条項によって、合衆国を攻撃するものではないという保証を与えることを日本は拒絶または回避したからである。その後の交渉によって、中国に対する和平条件は、近衛原則に基礎を置いたものであり、また日本の満州占領を中国が承認することを規定したものであることがわかった。近衛原則というのは、中国に駐屯していた日本軍によって強行されていた中国の経済的支配を日本に与えることになるものであった。

 合衆国がこの提案を受諾することは、日本政府をして、1940年

10月3日に決定した目的を確保させることになるのであった。これが日本政府の意図であったことは、豊田によって明らかにされている。1941年9月13日に、かれは野村に訓令して、日本政府はアメリカ側の四原則を、かれの言葉を用いれば、『鵜呑み』にする用意はないと言ったのである。合衆国政府は、9月3日の提案の草案は不満足なものであり、大統領にあてた1941年8月28日の近衛の書簡と日本政府の言明に矛盾するものであると考えた。

 1941年9月25日に、日本政府は東京駐在のアメリカ大使に対して、全然新しい提案の草案を提出し、速やかに回答を与えられたいと要望した。この新しい草案は、根本的な諸点に関して、日本側の態度に少しでも変更があったことを示すものではない。9月25日に、太陽大日本に発表された論文の中で、橋本は、合衆国及びイギリスと国交を調整する見込みはないこと、日本政府がとるべき適切な措置は三国条約に明らかに示されていることを言明した。これによって、ドイツ及びイタリアと共同して、直接行動をとることをかれは意味していた。情報局総裁は、三国同盟条約調印の第一周年記念に際して演説したが、その中で、この条約の真の意味は、その締結の日に出された詔勅に明らかであるといった。この条約によって、大東亜新秩序建設における日本の指導的立場は明確に承認され、国際情勢にどのような変化が起ころうとも、また日本がどんな困難に直面しようとも、この条約が日本の外交の基調を構成することには、少しも変わりがないとかれは言明した。

 敵対行為の開始について決定する時期として、9月6日の御前会議によって定められたところの、10月の初旬は急速に迫ってきていた。しかし、陸軍と海軍は、海軍が当時の手持ちの油でその使命を遂行することができるかどうかについて、依然として論争していた。東条はアメリカとの外交交渉にしびれを切らし、攻撃を遅らせてはならないと強く主張した。陸軍の首脳者は、攻撃を10月15日まで待つが、それ以上は待てないといった。近衛と木戸は、油の貯蔵量の件に関する陸海軍の不一致の問題について討議した。近衛は、この不一致が存する限り、自信がなく、もし陸軍があくまで10月15日に戦争を開始するといい張るならば、自分には辞職を考えるほかないと述べた。木戸は切に慎重な考慮を希望し、相談に鈴木を呼び入れた。

 10月2日に、ハル氏は野村に対して、交渉のすべての経緯を述べたものを手交した。それには、結論として、合衆国の努力してきたことには、ハル氏と大統領が言明した諸原則を太平洋全域に一様に適用することを定めるところの、広範な計画を合衆国は考えているということを明らかにすることにあったが、日本政府は、条件や例外によって、これらの原則の適用範囲を制限しようとする意図を示したと述べてあった。その上で、『もしこの印象が正しいとするならば、このような状況のもとに、両政府の責任ある首脳者が会見することによって、われわれが相互に考慮しているような高遠な目的の増進に寄与するところがあると日本政府は考えることができるか』とハル氏は述べた。

 この印象は正しかった。すでに述べたように、日本の外務大臣であった豊田は、9月13日に、野村に対して、日本は四原則を受諾できないと伝えた。1941年10月8日に、野村は豊田に対して、アメリカ側は、両国の関係を調整する基礎となるべきものとして、四原則をどこまでも主張していること、もし近衛と大統領の間に会談が行なわれるものとすれば、これらの原則が太平洋問題に適用されるという確実な了解が必要であるとかれらは常に考えていること、そして、この問題で意見の一致をみない限り、詳細を討議することは無駄であるとかれらが信じていることを報告した。木戸と近衛は、この報告と受け取った後に、妥結の見込みが容易につかないということに意見が一致した。そして、木戸は、9月6日の決定を再検討し、日本がもっと準備を整えるまで、攻撃を延期する必要があるかもしれないと述べた。かれは中日事変の完遂が第一に考慮されなければならないといった。それによって、かれは中国の軍事的敗北を意味していた。

開戦の決定――1941年10月12日 (原資料105枚目)

 陸軍大臣東条、参謀総長及びその他の陸軍首脳者は、10月初旬に、ドイツ大使とこの問題を討議したときに、南方に進出して、東南アジアに日本の地盤を確立するために、かれらは三国条約を調印したということ、イギリスを破ることによって、自分達の目的を達成するためには、アメリカを牽制し、ソビエット連邦を除外する必要があるということを明らかにした。内閣書記官長は、1941年10月7日に、木戸と対米交渉について協議した。東条の指導のもとにある陸軍は、アメリカと交渉を続ける余地はないという意見であるが、海軍はその反対の見解をもっているとかれは報告した。近衛が東条と懇談して、海軍との了解を深めるように努力し、その上で、東条と海軍大臣を近衛及び外務大臣との会談に招き、陸海軍の協力を確保してはどうかとかれは提案した。

 近衛は東条と話し合ったが、東条の方では、アメリカとの交渉には、外交的に成功する望みがないこと、内閣は戦争をするという決心をしなければならないことを主張した。近衛は陸軍大臣東条、海軍大臣及川、外務大臣豊田及び企画院総裁鈴木に対して、戦争か平和かの問題について、最後的な協議をするために、1941年10月12日に、その私邸で会合することを求めた。会議の前に、海軍大臣は岡を近衛のところに使いにやり、海軍はアメリカと戦争する用意はないが、すでに9月6日の御前会議で戦争することに賛成したので、やれないということができなくなっていると伝言させた。従って、来たるべき会議では、海軍大臣は問題を近衛に一任するつもりであり、近衛が外交交渉を続けると裁断することを望んでいたのである。

 近衛は、いよいよ閣僚が平和か戦争かを決定しなければならなくなったといって、1941年10月12日に会議を開き、外交交渉による成功の可能性を再検討してもらいたいと述べた。東条はこれを反駁し、外交交渉を続けても、成功の望みはないといった。海軍大臣は、この問題の決定は総理大臣に一任すべきであると提案した。東条は、全閣僚が決定に対して責任があるから、総理大臣だけに一任するわけにはいかないと述べた。交渉を続けることによって必ず成功すると外務大臣が保証するならば、交渉を打ち切るという自分の決意を再考してもよいと東条はいった。外務大臣は、日本とアメリカとの間の妥結に対する障害を指摘し、その主要なものは、中国に日本軍が駐屯していることであると述べた。東条は、この点については、日本は譲ることができないこと、中日戦争で払った犠牲からして、政府は近衛原則を完全に実現することをどこまでも主張しなければならないと強く言明した。結局には、次のように決定された。(1)日本は1940年の9月と10月に採択した計画を放棄してはならないこと、(2)大本営によって定められた期限内に、合衆国との交渉が成立するかどうかを決定することに、努力を払うべきこと、(3)攻撃準備は、右の問題が肯定的な回答を得ない限り、中止してはならないこと。

 内閣書記官長は、この会議の結果を木戸に報告した。この翌日に、木戸と鈴木は会議について討議して、東条と海軍大臣の間の了解を促進するように、近衛はさらに一段と努力すべきだという結論に達した。その夜に、日米交渉の全経過について報告を聞くために、近衛は豊田を招いた。豊田は、自分の意見としては、合衆国と妥結に達するには、日本はどうしても中国から撤兵するほかないであろうと述べた。その翌朝に、すなわち1941年10月14日に、閣議に先だって、近衛は東条を招き、自分の調査によれば、合衆国との交渉を通じて日本の目的を達成する望みはないが、もし日本が『名を棄てて実を取る』ならば、まだ成功の見込みがあると告げた。東条が、南方進出の計画を放棄し、中日戦争の解決に日本の努力を集中するように、かれは説得しようとした。日本とその同盟国の明らかな弱点を指摘し、もし日本が合衆国を攻撃するならば、それはほんとうの世界戦争になると警告した。東条は、中日戦争における日本の犠牲が非常に大きいから、中国から日本軍が撤収することには、たとい自分がそのために内閣から退かなければならなくなっても、同意することはできないと答えた。そこで、近衛は東条に、その主張を閣議で繰り返してもらいたいといった。10月14日の閣議で、東条はその立場を固く守り、閣議は決定を見ないで終わった。

 武藤は岡を通じて海軍大臣に、海軍に戦争をする用意があるかどうかを言明するように説得しようとしたが、武藤は成功しなかった。1941年10月14日の夜おそく、東条は鈴木を近衛のもとに送り、海軍大臣が問題についてなんの言明もしないので、なんともしようがないということ、内閣が9月6日の御前会議の決定を実行し得ないのであるから、総辞職をするほかはないという趣旨の言い付けを伝えさせた。かれは近衛に、木戸にも伝えるように依頼した。近衛の方では、鈴木にいいつけて、木戸に伝えさせることにした。その翌朝に、鈴木は木戸にこれを伝えた。その日、あとになって、近衛は木戸を訪問し、東条と意見が一致しないので、総理大臣としてこれ以上在任するつもりはないと述べた。東条は、自分は怒りを抑えることができそうもないから、近衛とは話し合いたくないといっていた。1941年10月16日の朝に、近衛は各大臣の辞表をまとめ、自分のもそれに加えて、その日の午後おそく、木戸の反対を押し切って、天皇に提出した。

 近衛の辞表は、当時の事情をありありと物語っている。かれは次のように説明した。南方進出を遂行するために、第三次近衛内閣を組織したときには、内閣の目的は合衆国政府との交渉によって貫徹されるという固い信念をもっていた。自分の期待は今日まで実現されていないけれども、『名を棄てて実を取るというところまで譲歩すれば』、それらの目的は交渉によって貫徹されると未だ信じている。近衛はつづけて次のように言った。9月6日の御前会議の決定に従って、10月15日に合衆国と戦争を開始しなければならないと東条は要求し、その理由として、日本の要求を貫徹するには、事態はほかに方法がないというところまで来ているということを挙げた。さらに、次のように言明した。予断を許さない結果をもたらすような大戦争に国家を投げこむ責任を引き受けることは、自分としては不可能である。

1941年10月18日、東条、総理大臣となる (原資料109枚目)

 木戸は東条に対して、合衆国との戦争に突入する前に、陸軍と海軍の間に、目的の一致と協力とがあることを国民は期待する権利があると説明して、閣僚の間の調和を計るように、最後の要望を述べた。10月初旬に戦争を開始するという9月6日の決定は、間違っていたかもしれないし、また完全な同意を得るための努力として、これを再検討してもよくはないかといった。東条は木戸に同意したが、木戸が次の措置を講じ得る前に、近衛は内閣の辞表を提出した。

 木戸は直ちに天皇に会い、近衛の後継者について討議した。東条か海軍大臣が任命されるべきであると木戸は進言した。その翌朝に、重臣が会合し、他の者とともに、若槻、岡田、林、広田、阿部及び米内が出席した。木戸は東久邇宮または宇垣を近衛の後継者にするという提案に反対し、東条がよかろうといった。最も重要なことは、9月6日の決定を修正すること、陸海軍の間の不一致を解決することであるとかれはいった。広田は、東条を総理大臣とするという木戸の提案に積極的に承認を与えた者の一人であった。だれ一人として、これに反対しなかった。木戸は推薦するにあたって、天皇に対して、東条と海軍大臣の両者に特別の命令を与えるように進言した。この特別の命令について、東条と海軍大臣が天皇に引見された後に、木戸は控室でかれらと討議した。木戸はかれらに対して、協力に関して、天皇からいま言葉があったと推察するといった。かれの了解するところでは、国策を決定するについては、9月6日の決議のとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重な考究を加えることを要するというのが天皇の希望であったというのである。それから、かれは両者のそれぞれに陸海軍の協力を要求し、特に海軍大臣に対しては、その協力をいっそう密にすることを要望した命令を書面にして手交した。

 1941年10月18日に、東条は大将に昇進し、陸軍大臣を兼任できるように、総理大臣として在任中、現役に留まることを許された。かれの内閣の全期間を通じて、かれはこれらの2つの地位を双方とも占めていた。かれは軍需大臣、また少しの間文部大臣、内務大臣、外務大臣及び商工大臣をもつとめた。東条内閣の全期間を通じて、嶋田は海軍大臣をつとめた。1944年2月に、他の多くの任務に加えて、東条は参謀総長の任務につき嶋田は海軍大臣としての地位に加えて、同時に軍令部総長に就任した。木村は、軍事参議官となった1943年3月11日まで、陸軍次官として在任した。1944年8月30日に、かれはビルマの日本軍司令官に任命された。武藤は、北部スマトラの近衛師団長に任命された1942年4月20日まで、軍務局長に在任した。佐藤は、陸軍省軍務局に在職し、同局長として武藤のあとを受け継いだ。岡は、東条内閣の全期間を通じて、海軍省軍務局長に在任した。東郷は、1942年9月1日まで、外務大臣をつとめた。賀屋は、1944年2月19日まで、大蔵大臣をつとめた。鈴木は、東条内閣が辞職するまで、企画院総裁を無任所大臣に在任した。星野は、内閣の全期間を通じて、内閣書記官長であった。大島は、ドイツ駐在大使として引き続き在職した。重光は、1941年12月16日に中国の傀儡政府に対する大使に任命されるまで、イギリス駐在大使であり、1943年4月20日に東条内閣の外務大臣に任命されるまで、中国に在勤した。土肥原は、航空総監兼軍事参議官の職に留まった。のちになって、1943年5月に、かれは日本内地の東部軍司令官に任命され、1944年3月にシンガポールの第七方面軍司令官に任命されるまで、その職にあった。畑、梅津及び板垣は、中国と朝鮮の日本軍の司令官であった。

東条のもとで行なわれた戦争準備 (原資料113枚目)

 東条は1940年9月と10月に決定された計画を実行に移した。降伏後の訊問で、かれに対して、『貴方は9月6日(1941年)の御前会議以後の政策は一方において平和のための交渉をなし、他方において戦争の準備をなすものであったと説明しました。貴方はその政策を続けましたか』と尋ねられた。東条は、『そうです。私は総理大臣としてその仕事を引き受けました』と答えた。

 東条内閣が組織された後、特にオランダ領東インド諸島において、これらの諸島の採油施設の選挙の準備として、日本の海外機関が改善され、拡張された。1936年から存在していた国策研究会は、日本政府が占領を予期していた南方諸地域の当地計画を立案するために、『統治対策委員会』を任命した。その第一次報告は、1941年10月に、総理大臣としての東条に提出された。陸軍と拓務省は、この計画を採用した。侵入用の地図がさらに作成された。陸軍と海軍は、協同作戦のための計画と規則とを出し始め、後にシンガポールに司令部を置くことになった南方総軍の組織が完了され、その司令官が選ばれた。その最初の司令部はサイゴンに設置された。香港を攻撃するために、広東付近で訓練を受けていた軍団は、この攻撃のために、激しい準備を行なっていた。軍団に属していた者の押収された日記によると、その軍団は12月初旬に訓練を完了するものと予期されていた。

 嶋田と岡は、真珠湾攻撃の計画に関係していた。この計画に関して、海軍大学校で討議が行なわれた。連合艦隊司令長官山本は、合衆国の太平洋艦隊が真珠湾に停泊しているところを攻撃することを提案した。他の者は待機戦術を主張した。この戦術は、アメリカ艦隊が太平洋の日本領の要塞化された島々の間に前進しようと試みたならば、その場合に、初めて攻撃を行なうべきであるというのであった。山本は辞職をするといって威かし、かれの計画を採用させた。最後的な計画は、1941年11月1日までに完成された。これらの計画は、真珠湾、シンガポール、その他の各地のアメリカ、イギリス及びオランダの領地に対する攻撃について定めていた。

 組閣して後直ちに、東条は木戸の勧告に基づいて行動しはじめた。これは天皇によって承認されたもので、『内外の情勢をさらに広く深く検討』することという勧告であった。こうして検討されることになっていた題目の表が10月の半ば過ぎにでき上がった。その表は、『国策遂行要領につき再検討すべき要目』という表題がつけられていた。それは次のような題目を含んでいた。『欧州戦局の見透しいかん』、『対米英蘭戦争における初期及び数年にわたる作戦的見透しいかん』、『今秋南方に対し開戦するものとして、北方にいかなる関連的現象生ずるや』、『対米英蘭開戦に関し、独伊にいかなる協力を約諾せしめ得るや』、『対米交渉を続行して、9月6日御前会議決定の我が最小限度要求を至って短期間に貫徹し得る見込みありや。』

 上記の諸要目は、研究のために各省や各部局に割り当てられ、一連の連絡会議において、政府は大本営とそれらに関して協議した。これらの連絡会議は、東郷がワシントンの野村に説明したように、『国策の根本方針を審議するため』に、ほとんど毎日開かれた。これらの会議には、東条、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡が常例的に出席した。前に満州国傀儡政府の総務長官として東条と協力したことがあり、また日本の企画院の総裁であった星野は、経済企画についての長い経験のために、東条によって内閣書記官長に選ばれ、東条が企画院総裁に選んだ鈴木と協力して、このような活動にその主力を注ぐように東条から委任された。星野はこれらの会議の幹事もつとめた。鈴木は会議と内大臣木戸との間の連絡係をつとめた。武藤は陸軍省軍務局長として、岡は海軍省軍務局長として、それぞれ本省と参謀本部及び軍令部との連絡係をつとめた。

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