歴史の部屋

アメリカ合衆国との交渉の再開 (原資料115枚目)

 東条が東郷を外務大臣に選んだのは、主として合衆国との交渉を行なわせるためであった。大使野村は心苦しさを感じ、職を解かれることを希望した。10月23日の東郷に対する通信の中で、かれは次のように述べた。『小生は前内閣の退場に殉ずべきものと確信す。元来国務長官は小生の誠実を認めつつ、東京に対してはインフルエンスなきものと認定しあり、既に死馬の骨となりたるこの身、本省においても何ら御異存なきことと拝察す。この上自分を欺き他人を欺くがごときごまかし的存在たるは心苦し。』11月2日に、東郷は野村に対して、次のように訓令した。『日米国交調整に関する根本方針を慎重審議中なりしが、右は来たる5日御前会議において決定を見る予定にしてその結果は直ちに貴大使に訓電すべきところ、政府は右をもって国交調整の最後的試みを行なう次第にして、交渉開始の上は諸般の情勢上極めて急速に妥結を要する儀なるにつき、右厳に貴大使に限りお含みおきありたし。』

 11月4日に、東郷は再び野村に訓電した。熟議に熟議を重ねた結果、ついに内閣と軍部の一致の意見に基づいて、日米交渉を再開するための対案を提出することができるようになったとかれはいった。しかし、つけ加えて、これが交渉の最後の努力であること、この骰子(さいころ)の一擲(いってき。一投げ)に国土の運命を賭することが決定されたこと、もし急速に妥結に至らないときは、会談は決裂し、両国の関係は混沌の縁に臨むであろうといった。日本は最後のできる限りの譲歩をしているのであるとかれは述べた。訓令には野村が取捨選択する余地はないから、交渉を行なうにあたっては、それを文字通り守らなければならないと野村に訓令した。それから、野村は重要な地位にあり、内閣は野村が『我が国運進展のため何事か有効なることをなし』得るであろうと大きな希望をかけているといって、かれは野村にその使命の重大なことを強調した。この点で、かれは野村に対して、篤と了承し、沈着をもってその任務を継続する決意をするように促した。

 東郷は、11月4日に野村にあてた一連の電報によって、決定されていた対案を伝えた。この提案は、翌朝に開催される予定の御前会議で、なお承認されなければならないが、その確認がえられたならば、直ちに野村に通知するから、野村がその通知を受け取ったら、すぐに対案を提出することを希望すると東郷はいった。この提案は『甲案』と呼ばれ、9月25日の日本政府の提案の修正案という形をとり、東郷から野村にあてた電報の中で『最後案』と呼ばれていた。この提案は、日本軍がだんだんに撤退することを定めていた。最初の撤退は仏印からであり、中国国民政府との講和条約が調印されたならば、そのときに行なわれることになっていた。講和条約の調印とともに、条約に明示される指定地域を除いて、中国から撤兵し、これらの指定地域からの撤兵は、適当期間の後に行なわれることになっていた。これらの地域における軍隊の駐屯の期間に関して、東郷は、『「適当期間」につき米国当局より質問ありたる場合は、おおむね25年を目途とするものなる旨をもって漠然と応酬するものとす』と野村に告げた。三国条約に関しては、この条約に定められているように、日本は合衆国を攻撃しないという保証を与えないというのが日本政府の決意であって、この決意をこの提案は繰り返して述べた。しかし、日本政府は、条約上の日本政府の義務に関しては、他の枢軸国から独立して、独自の解釈をするというのであった。通商無差別問題については、全世界に適用されるという条件つきで、日本はこの原則の適用に同意するというのであった。他の事項については、アメリカと了解に達することができるかもしれないが、中国に軍隊を駐屯させるという要求に関しては、日本は譲歩することができないということを東郷は明らかにした。日本が中国で4年以上にわたって払った犠牲と国内情勢とは、この点に関して、譲歩を許さないというのであった。いいかえれば、日本はアメリカに対して、中国への侵入を容認すること、中国を日本に隷属させたままにしておくことを要求したのである。『甲案』に関して合意に達することができなかったならば、その代わりに提出すべきものとして、『乙案』も野村にあてて送られた。これについては、追って取り上げることにする。

 東郷は11月4日の電報で、交渉の重大性にかんがみ、また野村からの任を解いてもらいたいという要請にかんがみて、交渉にあたってかれを援助するために、大使来栖を特使として派遣するが、かれは新しい訓令を携えてはいないと通告した。23日の後に(a few days later。2,3日の後に)、東郷はドイツ大使に対して、来栖には日本政府の断固たる態度について訓令してあり、かれには越えてはならない明確な期限が与えてあるともらした。来栖が到着した上は、直ちに合衆国大統領に会見することができるように、手配することを野村は訓令された。

 交渉の継続中に、日本の戦争準備と戦略的活動を暴露するおそれのある新聞報道や言論に対して、内閣はさらに新しい検閲規則を課した。

 東郷が野村に通告したように、1941年11月5日に、御前会議が開かれた。東条、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、武藤、岡及び星野が出席した。合衆国、イギリス及びオランダに対してとるべき方針が決定された。日米交渉を再開して、『甲』及び『乙』と呼ばれた2つの択一的な提案を合衆国に提出することが決定された。これらはその前日に野村にあてて送られた提案であった。さらに、11月25日またはそれ以前に、合衆国によって、これらの提案のどちらも受諾されなかったならば、日本政府は、合衆国とイギリスに対して、開戦する意向であることをドイツをイタリアの政府に通報し、これらの政府に参戦と単独不講和を要請することが決定された。この決定は、アメリカ政府が日本の提案のうちのどちらかに同意したならば、イギリスとの協定を得るために、アメリカ政府を利用することを予期していた。

 11月5日の会議の直後に、東郷は野村に対して、これらの提案が会議で承認されたこと、野村は前日の訓令の中で述べられた趣旨を体して、折衝を開始すべきことを訓電した。どの協定にせよ、その調印のための取極めは11月25日までに完了しなければならなかったが、他方において、野村に対しては、日本側が協定に達するために期限をつけているとか、提案が最後通牒の性質のものであるとかという印象を与えることを避けるように、訓令が与えられていた。

 御前会議では、さらに、タイと交渉して、日本軍隊にタイの領土を通過させるようにすることが決定された。日本はタイの主権と領土保全との尊重を確約することになっていた。ビルマまたはマレーの一部を日本はタイに与えることを考慮するという好餌を示すことになっていた。オランダ領東インドに関しては、日本の企図を隠すために、日本にとってなくてはならない物資を獲得するという問題について、交渉が開始されることになっていた。フィリッピンは占領後独立させること、オランダ領東インドの一部も同様に独立させ、残部は日本が確保することになっていた。

 会議の直後に東条は木戸を訪問し、右に述べた諸決定と南方軍の編成と野村を援けるために来栖をワシントンに派遣するという決定とを知らせた。1941年11月5日に、東郷はさらに野村に対して、11月25日をアメリカとの協定の調印の最後の日と確定するという電報を送った。

海軍の攻撃命令 (原資料121枚目)

 日本の連合艦隊司令長官山本は、11月3日に、東京において海軍軍令部総長永野を訪問し、数ヵ月間にわたって準備されていた連合艦隊作戦命令の最終案に対して、かれの承認を与えた。この命令は、10月4日に初めて計画された方法で、シンガポールを攻撃することと、オランダ領東インドに対する包囲態勢を完了することによって、南方への進出を実行することを定めていた。また、数ヵ月前に、大島がリッベントロップに対して、準備中であると語ったフィリッピン諸島に対する攻撃も定めていた。これらの攻撃は、合衆国太平洋艦隊を全滅させるための真珠湾攻撃によって、援護されることになっていた。イギリスとアメリカは、香港と上海に対する攻撃によって、中国から駆逐されることになっており、またその他の付随的な作戦も含まれていた。この命令には、『帝国が米国、英国及び蘭国に対し開戦を予期し諸般の作戦準備を完成するに決したる場合は、開戦(sic)(sicとは、ラテン語で「原文のまま」という意味である。英文を参照するとこのsicは「開戦」についての説明であるようである。この部分、開戦する予定のおおよその日にちとともに「開戦準備」を命ずるという意味と思われ、特に「原文ママ」という注釈をつける必要はないように思われる。意味が不明である)概定期日(Y日)とともに「第一開戦準備」を下令す』と書いてあった。続いて、この命令は、Y日の下令とともに、各艦隊部隊は特令なくして編成戦備を整え、各艦隊部隊指揮官の所定によって、待機地点に進出し、攻撃の準備の下に待機するように命令してあった。さらに、『開戦時機(X日)は大命によってこれを示す。これは数日前に発令す。X日○○、○○時以後開戦状態に入り、各部隊は予定に基づき作戦を開始す』と定めてあった。11月5日の御前会議を終えた後に、海軍軍令部総長はこの命令を発するように山本に命じた。そして、それはその日に発令された。

1941年11月7日に提出された『甲』案 (原資料122枚目)

 大使野村は、11月7日に、『甲案』をハル氏に提出した。11月10日に、かれは合衆国大統領に対して、この提案を説明する覚書を読み上げたが、覚書はあいまいであり、また不明確であった。野村がこの覚書を読み上げていた日に、真珠湾に対する攻撃で空母機動部隊を指揮することになっていた南雲海軍中将は、その機動部隊に対して、単冠湾(千島択捉島ヒトカップ湾)の待機地点に向かうように命令を出した。嶋田の述べたところによれば、この命令は、機動部隊の全艦船に対して、11月20日までに戦闘準備を完了し、厳重な機密保持の規定に従って、待機地点に向かうように命じたものであった。11月10日の連合艦隊命令作第三号は、12月8日を『X日』と定めた。この日こそ、○○、○○時以後は交戦状態に入るという日であった。

 11月12日に、ハル氏は野村に対して、日本の提案を研究中であり、15日に回答したいと希望していると述べた。

 合衆国政府は、交渉を行なっている間、イギリス、オランダ及び中国の各政府と密接な連絡を保っていた。ハル氏と大統領が言明した4つの基本原則に対して、もし日本政府が同意したならば、極東と太平洋地域における個々の問題に関して協定に到達する前に、これらの政府は相談を受けるという了解があった。総理大臣ウィンストン・チャーチルは、11月10日にロンドンで行なった演説中で、『太平洋において平和を維持しようとする合衆国の努力が成功するかどうかは、われわれにはわからない。しかし、もしそれが失敗すれば、私はこの機会にいっておく――そして、いっておくのが私の義務である――もし合衆国が日本との戦争に巻きこまれたならば、英国の宣戦布告は1時間以内に発せられるであろう』と言明した。その翌日に、イギリス大使は、かれの本国政府の立場を説明するために、東郷を訪れた。この会談中に、東郷は大使に対して、交渉はその最終段階にはいったこと、日本は最後的な提案を行なったこと、もし合衆国がそれを拒否したならば、これ以上会談を続ける理由はなくなることを告げた。

 連絡会議は、攻撃に関する諸問題を決定するために、ほとんど毎日続けられた。11月11日の会議は、極東におけるアメリカ、イギリス及びオランダの基地を速やかに打ち破り、日本の自給自足を確立し、同時に重慶政権の降伏を早める方針を決定した。この計画は、まずイギリスを敗り、次にアメリカの戦争を続ける意思を失わせるために、枢軸国と協力して、イギリスに力を集中するというのであった。日本の軍隊は配置につきつつあった。航空部隊は、シンガポールの攻撃のために、サイゴンに集結しつつあった。真珠湾攻撃のための機動部隊を構成する艦船は、日本の港から単冠湾の待機地点に進航しつつあった。

 11月7日に野村が提出した『最後案』すなわち『甲案』に対する回答として、ハル氏が11月15日に野村に覚書を渡したときに、合衆国政府は右の案をそれとなく拒否した。日本軍隊の撤退に関する提案は、この撤退の期限も、どの地域から撤退するかも明示していないから、不明確であり、あいまいであるとハル氏は指摘した。また、合衆国として、他の諸国も通商無差別主義の全般的適用をするということを約束することはできないといった。この覚書に対しては、なんの回答もなかった。その前日に、野村は東郷に対して、南方にせよ北方にせよ、日本の軍事行動がこれ以上進むのを阻止するために、合衆国政府は、戦争とまでは行かない範囲で、できるだけの手段を尽くす決意であること、ミュンヘンのような間違いを再び犯すつもりは毛頭ないから、この点について譲歩するくらいならば、むしろ戦争を躊躇しないであろうということを知らせた。

 ハル氏から覚書を受け取った後に、東郷は攻撃の最後的準備を始めた。かれはホノルルの日本総領事に打電して、事態は非常な危機にあるから、秘密保持にいっそうの注意をすること、しかし、碇泊中の船舶に関する報告を少なくとも週に2回行なうことを訓令した。野村は期日の延期を求めたが、それに対して、16日に、『交渉妥結の期日を定めたのであって、変更は行なわれない』と東郷は回答した。『甲』案と『乙』案を基礎として妥結を迫り、最善の努力を尽くして、急速に妥結をもたらすように、かれは野村に訓令した。それから、東郷は、戦争の原因にかかわりなく、日本が合衆国との戦争に巻きこまれた場合に、単独講和を結ばないという協定をドイツ政府と交渉することに、かれの注意を向けた。この協定は、11月21日に結ばれた。

1941年11月20日の『乙』案 (原資料125枚目)

 1941年11月15日に、特使来栖はワシントンに到着したが、11月20日に、かれと野村が代案であった『乙案』をハル氏に提出するまで、新しい提案をかれは何も出さなかった。この案は、東郷が11月4日に野村に送った代案であり、11月5日の御前会議で承認されたものであった。東郷は野村に対して、『甲案』によって了解に達することができないことが明らかとなるまでは、『乙案』を提出してはならないと訓令していた。この『乙案』はまったく新しい提案の草案であって、前の提案の修正というつもりのものではなかった。それは三国同盟、中国からの軍隊の撤退、または通商無差別の原則については、まったく触れていなかった。この提案が受諾された場合には、日本は南部仏印から軍隊を引き揚げること、蒋介石大元帥と講和条約の交渉が行なわれ、または太平洋における公正な平和が結ばれたときは、これらのいわゆる譲歩の代償として、合衆国は蒋介石大元帥との講和条約の交渉に介入しないこと、日本に石油を供給することを求められた。この提案は、また、オランダ領東インドの天然資源の獲得と開発に協力し、相互に通商関係を凍結令発令前に存在した状態に復帰することに協力する協定のことを定めていた。

 アメリカ政府は、アメリカの情報機関が傍受し、解読した日本側の通信の中にあった情報にかんがみて、また、南部仏印から引き揚げられる軍隊は、1日か2日で再び送り返すことのできる北部仏印と海南島に維持されることになっていたという事実にかんがみて、乙案は誠意のないものという結論に達した。南部仏印に対して獲得した地位を、すなわち、南方の諸国を脅威し、通商路を脅威する地位を、日本は維持しようと申し出たのである。この提案を受諾することは、日本がすでに行なった侵略を容認し、将来日本による制限のない征服を承認するとともに、アメリカ合衆国の原則を放棄し、中国の裏切るのにひとしいとアメリカ政府は考えた。

 11月22日の朝に、ハル氏はイギリス、オーストラリア及びオランダの大公使の会議を招集し、日本の提案に関するかれらの意見を求めた。この会議で意見が一致したことは、もし日本が誠意をもって平和を希望し、平和的政策に従う固い意思を有するならば、かれらはそれを歓迎し、日本との正常な通商関係を再開することに協力するものであるが、ワシントンにおける日本の両大使の提案と言明は、東京における日本の指導者と報道機関の言明と相反するように思われるということであった。イギリスとオランダの代表は、本国政府と相談し、その意見をハル氏に伝えることに同意した。

 1941年11月22日の午後に、ハル氏は、野村と来栖に会見した。かれは両人に対して、その日の午前に開かれた会合について知らせ、また、次の月曜日の11月26日の会議で決定が行なわれると期待しているということを知らせた。野村と来栖は、イギリスとオランダの意向はとにかく、アメリカの態度を示すように迫った。ハル氏はこれに対して、関係諸国はすべて南太平洋における緊急な問題が解決されることを熱望していること、しかし、その点から見て、最近の提案では不充分であるということを答えた。11月22日に、東郷は野村に対して、協定の締結の最終期日は11月29日であるとし、それは『その後は、情勢が自動的に進展する』からであると打電した。

 11月26日に、野村と来栖は再びハル氏と会った。ハル氏は両大使に対して、『乙案』はかれが交渉の初期に言明し、アメリカ合衆国が誓約している4つの基本的原則に違反するものであることを指摘した後に、これらの提案の採用は、太平洋における究極の平和に貢献するものでないというのがアメリカ政府の意見であると知らせた。これらの4つの基本的原則を実際に適用するについて了解に到達するために、いっそうの努力をしてはどうかとハル氏は提案した。この目的を念頭に置いて、かれは新しい提案の草案を出した。その要点は、極東において4つの基本原則の実施を定めたこと、日本軍隊の中国撤退と中国の領土保全の維持とのために、アメリカ合衆国、イギリス、中国、日本、オランダ、タイ及びソビエット連邦の間に多辺的協定を結ぼうとすることであった。

 この提案された協定は、日本とアメリカ合衆国は太平洋における恒久的平和の確立を目的として、次のことを宣言することを定めていた。(1)両国は他国の領土に対するどのような企図もないこと、(2)両国は侵略的に武力を用いないこと、(3)両国は他国の内政に干渉しないこと、(4)両国は国際紛争を平和的な手続きによって解決すること。これらのことは、ハル氏がすでに1941年4月16日に述べた4つの一般的原則であり、また、原則として同意され、実際に適用されなければならないと合衆国政府が終止主張してきたものであった。これらの原則は、1930年以前には、日本が繰り返して賛成を表明していたものであるけれども、その年から後は、実際上しばしば違反したものであった。

 国際通商の面では、次のことが提案された。(1)いろいろな国の国民の間に、どのような差別も設けないこと、(2)国際貿易の流通に対する極端な制限を廃止すること、(3)すべての国家の国民に対して、差別なく原料入手の途を開くこと、(4)国家間の通商協定は、消費のために物資を輸入しなければならない国の住民の利益の保護を保証すること。これらの原則は、国際貿易に依存し、かつ消費物資の大きな輸入国としての日本にとって、ほとんど依存のあるはずがなく、実際のところ、さきになされた交渉の間に、その実質については、すでに意見が一致していたのである。しかし、右に述べた原則のすべてを実際に適用するということは、また別の問題であった。日本は多年中国に対して戦争を行なっていたのであり、その過程において、満州を領有し、中国のその他の広大な部分を占領し、中国の経済の大部分を支配し、これを自己の用途に流用していた。今では、南方の隣接諸国に対する一連の新しい掠奪的攻撃のために、日本は必要な基地を仏印において獲得し、一切の準備を終わり、開始するばかりの態勢にあった。これらの攻撃によって、日本はその過去の侵略によって得たものを確保し、東アジアと西太平洋及び南太平洋において支配的な地位を得るために必要とする、より以上の領土と物資を確保しようと希望した。右に述べた諸原則を実際に適用することは、日本が過去の侵略で得た成果を放棄することと、南方に対して侵略を続ける計画を断念することを意味するものであった。

 交渉のはじめから、アメリカ合衆国は、その示した原則の承認を終止主張し、これらの原則を実行に移す方法を考え出す必要について、ハルは繰り返して注意を喚起した。交渉の初期に、日本はこれらの原則に同意するという明確な宣言をすることを避けた。1941年の8月ごろ、非常な困難の後に、近衛は、日本は四原則を受諾するということをアメリカ合衆国に通告することについて、軍部の同意を得ることに成功した。われわれが知っているように、これは誠意のない見せかけにすぎなかった。これらの原則を適用する意思はなかった。日本の指導者は、これらの原則を実際に適用し、それによって過去に得たものを放棄し、将来に得られるものを断念する気には決してならなかった。これらの原則を実際に適用することは、どのような協定にも、絶対に欠くことができないということを、前からアメリカ合衆国によって警告されていたにもかかわらず、かれらは右のような考えで交渉を行なった。かれらのうちのある者は、軍事的威嚇と外交的工作によって、少なくとも日本が満州と中国で獲得した支配的地位を保持させる程度に、その原則の適用をアメリカ合衆国に緩和させようと希望したようである。かれらは、アメリカ合衆国及び西洋諸国との戦争において、日本は勝利を得ることができるかどうか確信がなかったのであり、もしこれらの諸国に、日本が満州と中国のその他の部分で獲得した地位を黙認させることができたならば、計画された南方進出をかれらは一時断念するつもりであった。かれらのうちの他の者は、諸国をそのように欺くことができるとは信じていなかった。これらの人々は、比較的楽観しているものにも、この欺瞞は不可能であることがわかるまで――これは国民の統一にも資することになるわけであるが――また日本の戦争準備が完了するまで、交渉の遷延を単に黙認していたにすぎなかった。

 ハルは、11月26日の通牒で、もしこれらの原則が承認され、かつ実施されるとするならば、ある種の措置が必要であるとして、その詳細を述べた。(1)東アジアに利害をもつすべての国の間に、不侵略条約を結ぶこと、(2)すべてこれらの諸国は、仏印との経済関係において、優先的待遇を受けないこと、(3)日本は軍隊を中国と仏印から撤退すること、(4)日本は中国の傀儡政権に対する一切の支持を撤回すること。

 これらの原則を実際に適用するというこの提案は、日本の指導者を現実に直面させた。かれらはこれらの原則を実際に適用する気は決してなかったのであり、このときにも、適用するつもりはなかった。かれらの戦争準備は、今や完了していた。真珠湾を襲うことになっていた艦隊は、この日の早朝に出航していた。かれらが全員一致で決定したことは、戦争をすること、交渉の打切りによって、警告がアメリカ合衆国とイギリスに届く前に、選択された地点において、両国の軍隊を日本の軍隊が攻撃できるように、外交上の応酬を操ることであった。

 野村と来栖は東郷に対して、かれらは完全に失敗し、完全に面目を失ったと打電した。11月27日に、日本の外務省は来栖に対して、交渉を打ち切らないように訓令した。11月28日に、東郷は野村と来栖に打電した。『両大使段々の御努力にもかかわらず米側が今次のごとき理不尽なる対案(11月26日のハル氏の提案)を提示せるはすこぶる意外かつ遺憾とするところにして我が方としては到底右を交渉の基礎とする能わず。従って今次交渉は右米案に対する帝国政府見解(両3日中に追電すべし)申入れをもって実質的には打切りとする他なき情勢なるが、先方に対しては交渉決裂の印象を与うることを避くることと致したきにつき、貴方においては目下なお請訓中なりと述べられたし』とかれはいった。1941年11月29日に、日本の外務省は来栖と野村に対して、合衆国国務省にある申入れをすること、ただし交渉の決裂と思われるようなことはいわないように注意することを訓令した。11月30日に、外務省は、ワシントンの両日本大使に対するこの警告を繰り返した。

 11月19日に、木戸は事態について天皇と話し合った。かれは次のことを天皇に進言した。単に交渉の期限が切れたからという理由で、戦争が始められたならば、天皇に対して不当な非難がなされるかもしれないこと、従って、天皇が戦争の開始を承認する前に、重臣を参加させた御前会議をもう一度召集するように総理大臣に命令すること。その後に行なわれた11月26日の木戸と天皇の会談で、現状に鑑みて、戦争に関する御前会議をいま一度開催することに2人は決定した。その結果として、11月29日の朝に、その日の後刻行なわれることになっていた天皇との会合の準備として、重臣会議が召集された。この午前中の会議には、東条、鈴木、嶋田、東郷及び木村が出席した。東条は合衆国との戦争が避けがたいことを説明した。休憩の後に、重臣と東条とは天皇に会い、天皇は順々に各人の意見を聴いた。この討議は、東条が述べたように、戦争は避けられないという説に基づいて行なわれた。広田と近衛とを除いて、平沼とその他の重臣は、この仮定に基づいて進言することだけで満足していた。

1941年11月30日の連絡会議 (原資料133枚目)

 11月30日に開かれた連絡会議は、連合国に対する攻撃の最後的な詳細について、意見の一致を見た会議であった。東条、嶋田、東郷、賀屋、鈴木、武藤、岡及び星野が出席した。真珠湾攻撃計画が忌憚なく論議された。合衆国政府への通牒の形式と内容について、意見の一致を見た。この通牒は、26日のハル氏の提案の草案をしりぞけ、またワシントンにおける交渉の決裂を意味するものであった。宣戦布告は不必要ということに一致した。通牒手交の時刻が討議された。交渉決裂の意味を含んだ通牒の手交と実際の真珠湾攻撃との間に、経過すべき時間については、いろいろの説が立てられていると東条はいった。ある者は一時間半の時間の余裕をおくべきであると考え、その他1時間、30分などという時間が提案されているといった。通牒手交の時刻によって、その攻撃における奇襲の要素がだめにされてはならないということについては、全員が一致した。最後に、通牒の手交と攻撃の開始との間の時間の余裕を決定することは、海軍軍令部に一任することに決し、海軍軍令部は、その作戦行動の行なわれる時機を予測した上で、合衆国に通告してもよい時刻を連絡会議に知らせることになっていたと武藤はいった。

1941年12月1日の御前会議 (原資料133枚目)

 11月30日の連絡会議で行なわれた諸決定を承認するための御前会議は、12月1日に開かれた。東条、東郷、嶋田、賀屋、鈴木、星野、武藤及び岡が他の者とともに出席した。東条が議長となり、会議の目的を説明し、その後に、各大臣及び参謀総長、軍令部総長がそれぞれその責任上の立場から問題を討議した。問題は合衆国、イギリス及びオランダと戦争をするか平和を保つかということであった。決定は戦争ということになった。その決定の記録は、『11月5日決定の帝国国策遂行要領に基づく対米交渉遂に成立するに至らず。帝国は米英蘭に対し開戦す』となっている。木戸はその日記に、『二時御前会議開催せられ、遂に対米開戦の御決定ありたり。四時半首相来室宣戦詔書につき協議す』としるしている。その翌日、すなわち12月2日に、大本営は12月8日をX日と指定する命令を発したが、われわれが知っているように、1941年11月10日の連合艦隊命令作第三号によって、この日はすでに確定されていたのである。

 1941年11月22日に、山本海軍大将は、広島湾におけるその旗艦から、当時単冠(「ヒトカップ」と振り仮名あり)湾に集合中の機動部隊に命令を発した。この命令は、機動部隊が11月26日単冠湾を出発し、北緯40度西経170度の地点に向かって、12月3日に到着する様に厳密に進めという趣旨のものであった。燃料の補給は、その地点で、できるだけ速やかに行なうこととなっていた。11月26日の朝に、機動部隊は単冠湾を出港し、燃料補給の地点へ向かった。この機動部隊は、戦艦、駆逐艦、その他の艦船とともに、日本の6隻の大型航空母艦によって編成されていた。南雲海軍中将は、『真珠湾を攻撃せよ』という簡単な命令を発した。それ以上のものは不必要であった。というのは、すでに11月23日に、かれは攻撃について詳細な命令を発していたからである。

アメリカ合衆国との交渉の打切り (原資料135枚目)

 ワシントンでは、平和交渉が続けられていた。大統領ローズヴェルト、国務長官ハルと野村、来栖の両大使は、1941年11月27日の午後2時30分から、およそ1時間にわたって会談した。この会見の後に、来栖は東京の外務省の一員と電話で話をしようとした。この話の中で、来栖は会話の暗号については何も知らないようで、しかも太平洋方面における連合国の属領に対する攻撃を偽装するために、ワシントンにおける交渉を利用するという東条内閣の計画については、驚くほど知っていたことを示している。攻撃が差し迫っていること、どんな犠牲を払っても、かれが交渉を続けるように期待されていること、つまり、『・・・・期日を経過し』たにもかかわらず、交渉継続の外見を保つべきことを注意された。合衆国に『不必要に疑惑を増さ』せないようにすることになっていた。

 1941年12月7日午前10時(ワシントン時間12月6日午後8時)ごろに、野村と来栖にあてて、合衆国政府に手交されるべき覚書を伝える東郷の電報がワシントンに着きはじめた。それは11月26日の合衆国提案の草案に答えるもので、交渉決裂の意味を含んだものであった。それはいくつかに分けられて打電された。その一部で、東郷は野村に対して、『右覚書を米側に提示する時期について、追って別に電報すべきも、右別電接到の上は、訓令次第何時にても米側に手交し得るよう万端の手配を了しおかれたし』と知らせた。

 大統領ローズヴェルトは、日本政府と平和的解決に到達しようとする最後の努力として、日本の天皇に親電を送った。この親電は、天皇にこれを手交せよという訓令とともに、東京のアメリカ大使グルー氏に送られた。この親電は正午に東京に着いた。その内容は、午後のうちに、日本の当局者に知られていたにもかかわらず、グルー氏には、その晩の9時になるまで伝達されなかった。親電を解読すると、直ちにグルー氏は1941年12月8日の午前0時15分に外務大臣東郷を訪問し、その親電を手交するために、天皇に面会したいと要請した。しかし、東郷はグルー氏に対して、自分がその親電を天皇に手交すると告げた。グルー氏は午前0時30分(ワシントン時間1941年12月7日午前10時30分)に辞去した。この時には、両国はすでに戦争していた。というのは、前に言及した海軍の作戦命令は、12月8日○○、○○時(東京時間)を『開戦状態に入る』時機と定めていたからである。コタ・バル攻撃は午前1時25分に、真珠湾攻撃は午前3時20分(双方とも東京時間)に始まった。天皇にあてた大統領の親電をグルー氏に伝達することが遅れたことについては、本裁判所に対して、満足すべき説明は全然与えられなかった。この親電は、何かの効果があったかもしれないが、かりにあったとしても理由のわからないこの遅延のために、その効果をもたらすことができなかった。

真珠湾 (原資料137枚目)

 日本の機動部隊は、その作戦命令を予定通りに遂行するために、行動を起こしていた。グルー氏が東郷に別れてから1時間の後に、すなわち、1941年12月8日午前1時30分(真珠湾時間12月7日午前6時)(ワシントン時間12月7日午前11時30分)に、真珠湾に第一次の攻撃を加えることになっていた飛行機は、真珠湾から北約230マイルの地点で、航空母艦の甲板から飛び立った。ワシントンの大使野村は、国務長官ハルに、1941年12月8日午前3時(ワシントン時間12月7日午前1時)に面会したいと申し込んでいたが、後程電話をして、面会を1941年12月8日午前3時45分(ワシントン時間12月7日午後1時45分)に延ばすことを求めた。野村がハルを訪問する前、1941年12月8日午前3時20分(真珠湾時間12月7日午前7時50分)(ワシントン時間12月7日午後1時20分)に、真珠湾に対する最初の襲撃が行なわれた。野村と来栖の両大使は、1941年12月8日午前4時5分(ワシントン時間12月7日午後2時5分)に、国務長官ハルの事務所に到着した。これは真珠湾に第一次攻撃が実際に加えられてから45分の後であった。そして、両大使がハル氏に引見されたのは、攻撃が始まってからすでに1時間を経過した後のことであった。日本の大使は、1941年12月8日午前3時(ワシントン時間12月7日午後1時)に、この通牒を手交するように訓令を受けていたのであるが、解読と浄書に困難があったために遅れたことは申し訳ないと述べた。国務長官は、なぜワシントン時間の午後1時という特定の時間に通牒を手交するように命ぜられたのかと尋ねた。大使は理由は知らないが、そう訓令されたのであると答えた。1941年12月8日(ワシントン時間12月7日)に、東郷が野村に次のような訓令を打電したことは事実である。『貴地時間7日午後1時を期し合衆国政府に貴使より当回答を提出あいなりたし。』真珠湾に対する第二次攻撃は、午前4時10分から午前4時45分(真珠湾時間午前8時40分から午前9時15分)まで、水平爆撃機によって加えられ、第三次攻撃は、午前4時45分から午前5時15分(真珠湾時間午前9時15分から午前9時45分)まで、急降下爆撃機によって加えられた。

コタ・バル (原資料139枚目)

 東京において、グルー氏が東郷と別れてから45分の後に、すなわち、1941年12月8日の午前1時25分(コタ・バル時間12月7日午後11時45分)(ワシントン時間12月7日午前11時25分)に、イギリス領マレーの東岸にあるバダンとサバック海岸の防衛部隊は、沖合に艦船が停泊していると報告した。このバダン海岸とサバック海岸との接続点であるクアラ・パーマットは、コタ・バル飛行場の北東約1マイル半のところに位置している。東条は、これらの艦船は仏印のサイゴンから出航したものであるといった。1941年12月8日の午前1時40分(コタ・バル時間12月7日午前0時)(ワシントン時間12月7日午前11時40分)に、これらの艦船は海岸の砲撃を開始した。これは来栖と野村が日本の通牒を持ってハル氏を訪問するように、最初から予定されていた時間よりも1時間20分早く、また両者がハル長官の事務所に実際に到着したときよりも2時間25分早かった。1941年12月8日の午前2時5分(コタ・バル時間12月8日午前0時25分)ごろに、日本軍の第一攻撃部隊は、バダン海岸とサバックの海岸の接続地点に上陸した。海岸防備の第一線を確保して、日本軍は、イギリス領マレー半島に対する上陸作戦の第二段階を開始した。この第二段階は、シンゴラとパタニにおける上陸作戦であって、これらの町は、イギリス領マレーとタイとの国境のすぐ北にあり、従ってタイの領土内にあった。この第二の上陸は、1941年12月8日の午前3時5分(コタ・バル時間12月8日午前1時5分)(ワシントン時間12月7日午後1時5分)に始まった。日本の艦船は軍隊をシンゴラとパタニで下船させていること、シンゴラの飛行場は日本の上陸部隊によって占拠されていることが空中偵察によってわかった。コタ・バルに対して側面攻撃を行なうために、日本軍はその後に、ペダン・ブサールとクローでマレーとタイの国境を越えた。

 日本の飛行機は、1941年12月8日の午前6時10分(シンガポール時間12月8日午前4時30分)(ワシントン時間12月7日午後4時10分)にイギリス領マレーのシンガポール市に対して空襲を行なった。これらの攻撃機は、東条によれば、仏印の基地から、また沖合の航空母艦から来たものであった。爆弾がセレタールとテンガとの飛行場にも、シンガポール市にも投下された。

フィリッピン、ウェーク及びグアム (原資料140枚目)

 グアム島に対する最初の攻撃は、1941年12月8日の午前8時5分(ワシントン時間12月7日午後6時5分)に行なわれた。そのときに、日本の爆撃機8機が雲の中から現われて、海底電信局とパン・アメリカン航空会社の敷地との付近に爆弾を投下した。

 1941年12月8日(ウェーク及びワシントン時間12月7日)の未明に、ウェーク島に対する攻撃が日本の飛行機の爆撃によって開始された。

 フィリッピンも1941年12月8日(ワシントン時間12月7日)の朝に最初の攻撃を受けた。ミンダナオ島のダヴァオ市とルソン島のクラーク飛行場とに対して、日本軍の猛爆撃が行なわれた。


香港

 香港は最初の攻撃を1941年12月8日の午前9時(香港時間12月8日午前8時)(ワシントン時間12月7日午後7時)に受けた。イギリスに対してはまだ宣戦は布告されていなかったが、1941年12月8日の午前8時45分ごろに、香港の当局者によって、東京放送局からの暗号の放送が聴き取られた。この放送は、イギリスと合衆国に対する戦争が差し迫っていることを日本国民に警告するものであった。この警告は、香港の防衛当事者に、予期される攻撃に対してある程度の準備をする余裕を与えた。


上海

 上海に対する3度目の侵入は、12月8日(ワシントン時間12月7日)の未明に、日本の巡察隊が蘇州河のガーデン・ブリッジを渡り、軍用電話線を架設しながら進んで行くのが認められたときから始まった。かれらはなんの抵抗にも会わずに、バンドを容易に接収することができた。1941年12月8日の午前7時(上海時間12月8日午前3時)(ワシントン時間12月7日午後2時)までに、かれらはそれを完全に占拠していた。

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