歴史の部屋

1941年12月7日ワシントンで手交された日本の通牒 (原資料142枚目)

 開戦に関する1907年のヘーグ第三条約は、その第1条に、『締約国は理由を付したる開戦宣言の形式又は条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する明瞭かつ事前の通告なくしてその相互間に戦争を開始すべからざることを承認す』と規定している。この条約は、この裁判事件に関連のある全期間にわたって、日本を拘束していた。本裁判所条例によれば、国際法、条約、協定または誓約に違反する戦争の計画、準備、開始または遂行は犯罪であると定められている。起訴状の起訴事実の多くは、全面的または部分的に、次の見解に基づいている。すなわち、イギリスと合衆国に対する攻撃は、理由をつけた開戦宣言の形式または条件付き開戦宣言を含む最後通牒の形式において、明瞭な事前の通告をすることなしに行なわれたという見解である。他の箇所で述べた理由によって、われわれはこれらの起訴事実を取り扱う必要はないと決定した。起訴状の訴因で、侵略戦争及び国際法、条約、協定または誓約に違反する戦争を遂行する共同謀議を訴追しているものに関しては、われわれは次の結論に到達した。すなわち、侵略戦争を遂行する共同謀議という起訴事実は立証されたこと、これらの行為はすでに最高度において犯罪的であること、違反されたものとして起訴状が挙げているところの一連の条約、協定及び誓約――ヘーグ第三条約を含めて――に関しても、起訴事実が立証されたかどうかということは、考慮する必要がないことである。侵略戦争または国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を遂行したと主張している訴因に関しても、われわれは同様の結論に到達した。1907年のヘーグ第三条約またはその他の条約に違反して戦争を行なったということに関して、殺人を訴追している起訴状の訴因については、これらの殺害が起こった戦争はすべて侵略戦争であるとわれわれは決定した。このような戦争を行なうことは、いい尽くせない殺害、苦痛及び艱苦を伴うのであるから、重大な犯罪である。どの被告にせよ、この重大犯罪について有罪とし、さらに吊目上の『殺人罪』についても有罪とすることは、なんの役にも立たないであろう。従って、1907年のヘーグ第三条約が負わせている義務の正確な範囲について、われわれが結論的意見を述べることは必要でない。この条約は、敵対行為を開始する前に、明瞭な事前の通告を与える義務を負わせていることは疑いもないが、この通告を与えてから、敵対行為を開始するまでの間に、どれだけの時間の余裕を置かなければならないかを明確にしていない。これは条約の起草者が当面した問題であって、この条約が成立してから、国際上学者の間でつねに論争の対象になっていた。通告と敵対行為との間の時間の長さというこの問題は、もちろん重大である。もしその時間が短くて、遠く離れた地にある軍隊に警告を伝え、その軍隊に防衛態勢をとらせるだけの余裕のないものであったならば、これらの軍隊は自己を守る機会を与えられないで、うち倒されてしまうかもしれない。条約が負わせている義務の正確な範囲に関して、このような論争があったということから、東郷は1941年11月30日の連絡会議に対して、義務的である通告の期間については、いろいろな意見があり、ある者はその期間が1時間は、ある者は1時間、ある者は30分でなければならないと考えていると知らせることができたのである。連絡会議は、ワシントンで通告を手交する時機は、奇襲攻撃の成功を妨げてはならないという条件をつけて、その時機の決定を東郷と陸海軍の両総長に任せた。要するに、かれらは、攻撃地点のイギリスと合衆国の軍隊が、交渉が決裂したという警告を受けることができないことを確実にするために、敵対行為の開始の前に、わずかな間をおいて、交渉を打ち切るという通告をすることに決定したのである。この任務を与えられた東郷と陸海軍の当事者は、通牒が1941年12月7日の午後1時にワシントンで手交されるように手はずをきめた。真珠湾に対する最初の攻撃は午後1時20分に行なわれた。一切のことが順調にいったならば、真珠湾の軍隊に警告するために、ワシントンに20分の余裕を与えたであろう。しかし、攻撃が奇襲になることを確実にしたいと切望するあまり、かれらは思いがけない事故に備えて余裕をおくということを全然しなかった。こうして、日本大使館で通牒を解読し、浄書する時間が予定よりも長くかかったために、実際には、攻撃が行なわれてから45分もたってから、日本の両大使は通牒を持ってワシントンの国務長官ハルの事務所に到着したのである。コタ・バルにおけるイギリスに対しての攻撃については、ワシントンで通牒を手交するように定められていた時刻(午後1時)とは、全然関係がなかった。この事実は証拠中に充分に説明されていない。この攻撃はワシントン時間の午前11時40分に行なわれた。これは、東京から受けた訓令通りに、ワシントンの日本大使館が実行することができたとしても、通牒を手交しているはずの時間よりも、1時間20分も前のことであった。

 われわれは右のように事実の認定を下すのが正当であると考えた。これらの事項が多量の証拠と議論の対象となっていたからでもあるが、主としては、この条約の現在の構造の欠陥に対して、鋭い注意を喚起するためである。それは狭く解釈することが可能であり、節操のない者に対して、他方でかれらの攻撃が奇襲として行なわれることを確実にしながら、右のように狭く解釈された義務には従うように工夫する気を起こさせるものである。奇襲という目的のために、時期の余裕をこのように少なくすれば、通告の伝達を遅らせる結果となる間違いや手違いや怠慢に対して、余裕をおいておくことができなくなる。そうして、この条約が義務的であるとしている事前の通告は、実際には与えられないことになるという可能性が大きい。日本の内閣は、時間の余裕を少なくすればするほど、手違いの可能性が大きくなることを認めていたので、このことを念頭に置いていたと東条は述べた。

正式の宣戦布告 (原資料147枚目)

 日本の枢密院の審査委員会は、12月8日の午前7時30分(東京時間)に、合衆国、イギリス及びオランダに対して、正式の宣戦布告を行なう問題のために、宮中で会議を開いたときになって、初めてこの問題を考慮し始めた。嶋田は真珠湾とコタ・バルに対して攻撃が行なわれたと発表した。そして、その前夜に星野の住居で起草された合衆国とイギリスに対する宣戦の諮詢案が提出された。同案の審議中に出た質問に答えて、東条は、ワシントンにおける平和交渉に言及して、『作戦上の関係よりこれを継続せしめたるに過ぎざりし』ものといった。東条は、さらに、同じ審議中に、オランダに対しては、将来の作戦上の便宜を考えて、宣戦布告しないこと、日本とタイとの間には、『同盟条約』を締結する交渉が遂行中であるから、タイに対しては宣戦布告をしないことを言明した。その案は承認され、枢密院本会議に提出されることに決定された。枢密院は1941年12月8日の午前10時50分に会合し、この案を可決した。合衆国とイギリスに対する宣戦の詔書は、1941年12月8日の午前11時40分と12時の間(ワシントン時間12月7日午後10時40分と午後11時の間)(ロンドン時間12月8日午前2時40分と午前3時の間)に発布された。攻撃を受けたので、アメリカ合衆国とグレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国は、1941年12月9日(ロンドン及びワシントン時間12月8日)に、日本に対して宣戦を布告した。同じ日に、オランダ、オランダ領東インド、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、自由フランス、カナダ及び中国も、日本に対して宣戦を布告した。その翌日、武藤は、参謀本部の作戦部長と話し合ったときに、大使来栖を合衆国に派遣したことは、戦争開始に導くまでの一つのカモフラージュの手段にすぎなかったといった。

結論 (原資料149枚目)

 日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イギリスとアメリカ合衆国に対する攻撃は、正当な自衛の措置であったという、被告のために申し立てられた主張を検討することが残っている。これらの諸国が日本の経済を制限する措置をとったために、戦争をする以外に、日本はその国民の福利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。

 これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から、日本を離れさせようとして講じられたもので、まったく正当な試みであった。このようにして、1939年7月26日に、アメリカ合衆国は日本との通商航海条約を廃棄すると通告した。それは日本がすでに満州と中国のその他の広大な部分とを占拠した後のことであり、また、この条約が存在していても、中国にある合衆国国民の権益を日本に尊重させることがすでに長い間できなくなっていたときのことであった。これらの権益を日本に尊重させるように、何か他の手段を試みてみるために、それは行なわれたのである。その後に、日本向け物資の輸出に対して、次々に輸出禁止が課せられたが、これは日本が諸国の領土と権益を攻撃する決意をしていることがだんだん明白になったからである。つまり、日本が決意していた侵略的政策から日本を離れさせようとする試みとして課せられたのであり、また、諸国が自国に対する戦争を遂行するための物資をこれ以上日本に供給しないようにするためであった。ある場合には、たとえば、アメリカ合衆国から日本へ油の輸出を禁止した場合に、これらの措置がとられたのは、侵略者に抵抗している諸国の必要とする資材を蓄積するためでもあった。さきに挙げた被告のための主張は、実に、日本が侵略戦争の準備をしていた当時に発表した日本の宣伝を単に繰り返しているにすぎない。隣接諸国の犠牲において、北方、西方及び南方に進出しようとする日本の決定は、日本を目標にして、なんらかの経済的措置がとられたときよりも、ずっと以前に行なわれていたのであり、日本がその決定からかつて離れたことがないということを説明する文書を今日では、詳細にわたって手に入れることができる。その今日において、日本の宣伝がまた長たらしく繰り返されるのをじっと辛抱しているということは、容易なことではない。弁護側の主張とは反対に、フランスに対する侵略行為、イギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃の動機は、日本の侵略に対して闘争している中国に与えられる援助をすべて奪い去り、南方における日本の隣接諸国の領土を日本の手に入れようとする欲望であったことは、証拠が明らかに立証するところである。

 本裁判所の意見では、1940年と1941年の当時における日本の指導者は、仏印でフランスに対する侵略戦争を行なうことを計画した。フランスが仏印内で日本に駐兵権と航空基地及び海軍基地に対する権利とを譲与するように要求することをかれらは決定していた。また、要求が容れられない場合には、フランスに対して武力を行使する準備をしていた。もし必要になったならば、要求を貫徹するために、武力を行使するという威嚇のもとに、かれらは実際にフランスに対してこのような要求を行なったのである。フランスは、当時の自国の状態からして、武力の威嚇に屈しないわけにはいかず、この要求を容れた。

 本裁判所はまたフランス共和国に対して侵略戦争が行なわれたものと認定する。日本軍による仏印の各地の占領は、日本がフランスに強制して受諾させたものであったが、いつまでも平和の状態のままでは続かなかった。戦況、特にフィリッピンにおける戦況が日本に上利になってくるにつれて日本の最高戦争指導会議は、1945年2月に、次のような要求を仏印総督に提出することを決定した。(1)すべてのフランス軍と武装警察を日本の指揮下におくこと、(2)軍事行動に必要なすべての通信運輸機関を日本の管理の下におくこと。これらの要求は、1945年3月9日に、軍事行動の威嚇を伴った最後通牒の形で、仏印総督に提出された。拒絶するか受諾するかのために、かれは2時間を与えられた。かれは拒絶した。そこで、日本側は軍事行動によって要求を強行する措置をとった。フランス軍と武装警察は、かれらを武装解除しようとする企図に反抗した。ハノイ、サイゴン、プノンペン、ナトラン及び北部国境方面で、戦闘が行なわれた。ここに、日本側の公式記録を引用する。『北部国境地域では、日本軍は少なからざる搊害を蒙った。日本軍は進んで僻遠の地のフランス軍分遣隊と山間に撤退せるフランス軍の小部隊を制圧した。1ヵ月にして僻遠の地を除き、治安は回復した。』日本の最高戦争指導会議は、日本の要求が拒絶され、これを強行するために、軍事行動がとられた場合でも、『両国は戦争状態にあるとはみなされざるべし』と決定していた。本裁判所は、当時の日本の行動は、フランス共和国に対する侵略戦争の遂行を構成するものであったと認定する。

 さらに、本裁判所の意見では、日本が1941年12月7日に開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。これらは挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占拠しようとする欲望であった。『侵略戦争』の完全な定義を述べることがいかにむずかしいものであるにせよ、右の動機で行なわれた攻撃は、侵略戦争と吊づけないわけにはいかない。

 オランダが先に日本に対して戦争を宣言したのであるから、それに続いて起こった戦争は、日本による侵略戦争と呼ぶことはできないと、被告のために主張された。実際は、交渉によって、交渉が失敗したときは、武力によって、オランダ領東インドの経済における支配的地位を日本が自分のものにしようと長い間計画していたのである。1941年の半ばになると、オランダが日本の要求に屈しないことが明らかになった。そこで、日本の指導者は、オランダ領東インドに侵入し、これを占拠する計画を立て、そのすべての準備を完了した。この侵入のために、日本陸軍に対して発せられた命令が、証拠として提出されている。これはすでに言及した連合艦隊命令作第一号である。予想される敵国は、合衆国、イギリス及びオランダであると述べている。この命令は、戦争が起こる日は大本営命令によって指示されること、その日の○○、○○時以後は交戦状態に入り、日本軍は計画に従って作戦を開始することを述べている。大本営命令は11月10日に発せられ、12月8日(東京時間)、すなわち12月7日(ワシントン時間)をもって、交戦状態に入り、計画に従って作戦が開始される日と定めた。このようにして開始される作戦の第一段において、南方部隊はフィリッピン、イギリス領マレー、オランダ領東インド地域の敵艦隊を撃滅すると述べてある。以上の諸点について、右にあげた命令が撤回または変更されたという証拠はない。これらの事情から見て、われわれは、事実において、戦争状態の存在を宣言し、オランダに対する日本の侵略戦争の遂行を命ずる命令は、1941年12月7日の朝早くから有効であったと認定する。オランダは、攻撃が差し迫っていることを充分に知っていて、自衛のために、12月8日に、日本に対して宣戦を布告し、このようにして、すでに日本によって始められていた戦争状態が存在することを、公式に認めるに至ったのであるが、この事実によって、この戦争を日本の側からする侵略戦争でなくし、何かそれと違ったものにするということはできない。事実として、日本はオランダに対して、軍隊がオランダ領東インドに上陸した1942年1月11日まで、戦争を宣言しなかった。1941年12月1日の御前会議は、『帝国は米英国に対し開戦す』と決定した。オランダに対して敵対行為を開始するというこの決定にもかかわらず、また、オランダに対する敵対行為遂行の命令がすでに効力を発生していたにもかかわらず、12月8日(東京時間)の枢密院会議で、アメリカ合衆国とイギリスに対する正式の宣戦の諮詢案を可決したときに、東条は、将来の戦略上の便宜を考えて、オランダに対しては宣戦しないと言明した。これに対する理由は、証拠の中では、充分に説明されなかった。本裁判所は、オランダ側に油井を破壊する時間をできるだけ少なくするために、1940年10月に決定された方針に従ったものであるという見解をとりたい。しかし、日本がオランダに対して侵略戦争を行なったという事実には、それはなんの影響も与えるものではない。

 タイの立場は特別である。日本軍のタイへの進入に関する証拠は、非常に薄弱である。1939年と1940年に、仏印とタイとの間の国境に関する紛争において、日本はフランスに対して、無理に調停者となったが、そのころに、日本の指導者とタイの指導者との間に共謀のあったことは明らかである。このときにできた日本とタイとの間の共謀と内通の状態が、1941年12月前に変わっていたという証拠はまったくない。日本の指導者が、タイとの協定によって、日本軍がタイを平和的に通過してマレーに出られるようにしようと計画したことが証明されている。この攻撃が迫っているという情報が漏れないように、マレーをまさに攻撃しようとする時機まで、そのような協定を結ぶために、かれらはタイと交渉することを望まなかった。日本軍は1941年12月7日(ワシントン時間)に、抵抗を受けずに、タイの領土を通過した。この進軍の事情について、検察側が提出した唯一の証拠は、次の通りである。(1)1941年12月8日の午前10時と11時(東京時間)の間に、日本の枢密院に対して、軍隊通過に関する協定が交渉されているという言明がなされたこと、(2)12月8日の午後(東京時間)(ワシントン時間12月7日)に、日本軍がタイに平和的進駐を開始したということと、タイが午後0時30分に協定を締結し、この通過を容易にしたということとを日本の放送が発表したこと、(3)やはり検察側が提出したものであるが、以上のことと矛盾する言明、すなわち、12月8日の朝3時5分(東京時間)に、日本軍はタイのシンゴラとバタニに上陸したということ。1941年12月21日に、タイは日本と同盟条約を締結した。タイのための証人で、日本の行動を侵略戦争として非難した者はなかった。これらの事情から見て、日本側のタイへの進駐がタイ政府の希望に反したものであったということについて、われわれは合理的な確実性をもっていない。被告がタイ王国に対して侵略戦争を開始し、遂行したという起訴事実は、証明されるに至っていない。

 訴因第31は、イギリス連邦に対して、侵略戦争が遂行されたと訴追している。1941年12月8日正午(東京時間)ごろに発布された詔書には、『朕ここに米国及び英国に対して戦を宣す』と述べてある。イギリスの領土に対する攻撃のために作成された多数の計画を通じて、言葉の用い方に正確性を欠くところが非常に多い。このようなわけで『ブリテン』、『グレート・ブリテン』及び『イングランド』のような言葉が差別なしに用いられ、同じものを意味するために用いられているようである。この場合に、『ブリティッシュ・エンパイア』という言葉で示されているものの実体については、少しの疑問もない。この実体の正確な吊称は、『イギリス連邦』である。日本が『ブリティッシュ・エンパイア』という言葉を用いることによって、いっそう正確にいえば、『イギリス連邦』と呼ばれる実体を指していたことは、すでに述べた連合艦隊命令作第一号の用語を考えれば、明らかなことである。この命令には、1941年12月8日(東京時間)であるX日の○○、○○時以後(after 0000 hours X-Day つまり、「X日の0時間後《=X日の0時0分のことと思われる)は戦争状態が存在すること、日本軍はそれから作戦を開始することを定めている。第一段作戦で、『南洋部隊』はオーストラリア方面の敵艦隊に備えなければならないと定めている。そのあとに、『作戦情況の許す限り速やかに占領または破壊せんとする地域左の如し――(イ)ニューギニア東部、ニュー・ブリテン』と定められていた。これらの地域は、国際連盟からの委任に基づいて、オーストラリア連邦によって統治されていた。破壊または占領されることになっていた地域には、『豪州方面要地』を含むということも述べられている。さらに『豪州各要地』には、機雷が敷設されることになっていた。ところで、機密連合艦隊命令作第一号には、『グレート・ブリテン』という言葉が用いられているが、オーストラリア連邦をその一部であるとするのは正確でない。また、詔書には、『ブリティッシュ・エンパイア』という言葉が用いられているが、オーストラリア連邦をその一部であるとすることも正確ではない。オーストラリア連邦は『イギリス連邦』の一部とするのが正当である。従って、敵対行為の相手方となることになっており、宣戦布告の相手方であった実体は、あきらかに、『イギリス連邦』であった。そこで、訴因第31がイギリス連邦に対して侵略戦争が遂行されたと訴追しているのは、充分に根拠のあることである。

 起訴状の訴因第30においては、フィリッピン共和国に対して、侵略戦争が遂行されたと訴追されている。フィリッピン諸島は、戦争の期間中は、完全な主権国ではなかった。国際関係に関する限り、それはアメリカ合衆国の一部であった。フィリッピン諸島の人民に対して、侵略戦争が遂行されたことは、疑問の余地のないところである。理論的正確を期するために、われわれは、フィリッピン諸島の人民に対する侵略を、アメリカ合衆国に対する侵略戦争の一部であると考えることにする。

極東国際軍事裁判所

判決


B部

第8章


通例の戦争犯罪

(残虐行為)


英文 1001*1136頁

1948年11月1日


B部 第8章


通例の戦争犯罪 (原資料160枚目)

(残虐行為)

 すべての証拠を慎重に検討し、考量した後、われわれは、提出された多量の口頭と書面による証拠を、このような判決の中で詳細に述べることは、実際的でないと認定する。残虐行為の規模と性質の完全な記述については、裁判記録を参照しなければならない。

 本裁判所に提出された残虐行為及びその他の通例の戦争犯罪に関する証拠は、中国における戦争開始から1945年8月の日本の降伏まで、拷問、殺人、強姦及びその他の最も非人道的な野蛮な性質の残忍行為が、日本の陸海軍によって思うままに行なわれたことを立証している。数ヵ月の期間にわたって、本裁判所は証人から口頭や宣誓口供書による証言を聴いた。これらの証人は、すべての戦争地域で行なわれた残虐行為について、詳細に証言した。それは非常に大きな規模で行なわれたが、すべての戦争地域でまったく共通の方法で行なわれたから、結論はただ一つしかあり得ない。すなわち、残虐行為は、日本政府またはその個々の官吏及び軍隊の指導者によって、秘密に命令されたか、故意に許されたかということである。

 残虐行為に対する責任の問題に関して、被告の情状と行為を論ずる前に、訴追されている事柄を検討することが必要である。この検討をするにあたって、被告と論議されている出来事との間に関係があったならば、場合によって、われわれは便宜上この関係に言及することにする。他の場合には、そして一般的には、差し支えない限り、責任問題に関連性のある事情は、後に取り扱うことにする。

 1941年12月の太平洋戦争開始当時、日本政府が、戦時捕虜と一般人抑留者を取り扱う制度と組織を設けたことは事実である。表面的には、この制度は適切なものと見受けられるかもしれない。しかし、非人道的行為を阻止することを目的とした慣習上と条約上の戦時法規は、初めから終わりまで、はなはだしく無視された。

 捕虜を冷酷に射殺したり、斬首したり、溺死させたり、またその他の方法で殺したりしたこと、病人をまじえた捕虜が、健康体の兵でさえ耐えられない状態のもとで、長距離の行軍を強いられ、落伊した者の多くが監視兵によって射殺されたり、銃剣で刺されたりした死の行進、熱帯の暑気の中で日除けの設備のない強制労働、宿舎や医療品が全然なかったために、多くの場合に数千の者が病死したこと、情報や自白を引き出すために、または軽罪のために、殴打したり、あらゆる種類の拷問を加えたこと、逃亡の後に再び捕えられた捕虜と逃亡を企てた捕虜とを裁判しないで殺害したこと、捕虜となった飛行士を裁判しないで殺害したこと、そして人肉までも食べたこと、これらのことは本裁判所で立証された残虐行為のうちの一部である。

 残虐行為の程度と食糧及び医療品の上足の結果とは、ヨーロッパ戦場における捕虜の死亡数と、太平洋戦場における死亡数との比較によって、例証される。合衆国と連合王国の軍隊のうちで、二十三万五千四百七十三吊がドイツ軍とイタリア軍によって捕虜とされた。そのうちで、九千三百四十八人、すなわち四分が収容中に死亡した。太平洋戦場では、合衆国と連合王国だけから、十三万二千百三十四吊が日本によって捕虜とされ、そのうちで、三万五千七百五十六人、すなわち二割七分が収容中に死亡したのである。

戦争法規は中国における戦争の遂行には適用されないという主張 (原資料162枚目)

 奉天事件の勃発から戦争の終わりまで、日本の歴代内閣は、中国における敵対行為が戦争であるということを認めるのを拒んだ。かれらは執拗にこれを『事変』と呼んだ。それを口実として、戦争法規はこの敵対行為の遂行には適用されないと軍当局は主張した。

 この戦争は膺懲戦であり、中国の人民が日本民族の優越性と指導的地位を認めること、日本と協力することを拒否したから、これを懲らしめるために戦われているものであると日本の軍首脳者は考えた。この戦争から起こるすべての結果をはなはだしく残酷で野蛮なものにして、中国の人民の抵抗の志を挫こうと、これらの軍首脳者は意図したのである。

 蒋介石大元帥に対する援助を遮断するために、南方の軍事行動が進んでいたとき、中支那派遣軍参謀長は、1939年7月24日に、陸軍大臣板垣に送った情勢判断の中で、『陸軍航空部隊は奥地要地に攻撃を敢行し、敵軍及び民衆を震駭し、厭戦和平の機運を醞醸す。奥地進攻作戦の効果に期待するところのものは、直接敵軍隊または軍事施設に与うる物質的搊害よりも、敵軍隊また一般民衆に対する精神的脅威なりとす。彼らが恐怖の余り遂に神経衰弱となり、狂乱的に反蒋和平運動を激発せしむるに至るべきを待望するものなり』と述べている。

 政府と軍の代弁者は、同じように、戦争の目的は中国人にその行ないの誤りを『猛省』させるにあるとときどき主張した。これは結局において日本の支配を受け入れることを意味したものである。

 1938年2月に、広田は貴族院における演説で、『日本は武力によって中国側国民政府の誤った思想を膺懲して行くほか、一面においては、できることならば反省をさせたいということに努力して参ったのであります』と述べた。『彼らは非常な頑強な排日思想を持って日本に当たっているから、これはどうしても膺懲しなければならぬという方針を決めました』とかれは同じ演説の中で述べた。

 平沼は、1939年1月21日に議会における演説によって、かれのいわゆる『国民精神の昂揚』を始めたが、その中で、『現下我が国朝野を挙げて対処しつつあります支那事変に対しましては、さきに畏くも聖断を仰ぎ奉り、確固上動の方針が定められております。現内閣におきましても、固よりこの方針を行なっているのであります。支那側におきましてもこの帝国の大精神を諒解し、これに協力することを要望するものであります。あくまでもこれを理解することなきものに対しては、これを潰滅することあるのみであります』と述べた。

軍の方針の樹立 (原資料164枚目)

 日本の軍隊によって犯された残虐行為の性質と程度を論ずる前に、このような行為を取り締まることになっていた制度をきわめて簡単に述べておきたい。

 軍の方針を樹立する権限をもっていた者は、陸海軍両大臣、参謀総長、軍令部総長、教育総監、元帥府及び軍事参議院であって、陸海軍大臣は行政を担当し、教育総監は訓練を監督し、参謀総長と軍令部総長は軍の作戦を指導した。元帥府と軍事参議院の両者は諮問機関であった。陸軍は特権を与えられていた。その一つは、陸軍大臣の後継者と指吊する独占的な権利である。陸軍はこの権能を行使することによって、その唱道する政策を絶えず固守させることができた。

 陸軍省では、政策の発案機関は軍務局であった。この局は、参謀本部、陸軍省の他の局及び他の各省と協議した上、陸軍大臣の署吊のもとに発せられた法規の形式で、日本軍部の方針を公表した。一般に戦争の指導に関して、特に一般人抑留者及び捕虜の待遇に関して方針を立て、これに関する規則を発したのは、この軍務局であった。中国における戦争の間の捕虜の管理は、この局によって行なわれた。一般人抑留者と捕虜の管理は、太平洋戦争の敵対行為が始まって、特別な部がその任に当たるために創設されるまで、同局によって行なわれていた。被告のうちの3吊が、この強力な軍務局に局長として在職した。それは小磯、武藤及び佐藤である。小磯は中国における戦争の初期、1930年1月8日から1932年2月29日までの間在職した。武藤は太平洋戦争の開始の前から後にかけて在職した。かれは1939年9月30日に同局の局長となり、1942年4月20日まで在任したのである。佐藤は1938年7月15日に任命されて、太平洋戦争の開始の前に軍務局に勤務し、武藤がスマトラの軍隊を指揮するために転任したときに、同局の局長となり、1942年4月20日から1944年12月14日まで、局長として勤務していた。

 海軍省で右の局に相当するのは、海軍軍務局であった。海軍軍務局は、海軍のために法規を制定し、公布し、海上、占領した島及びその他の海軍の管轄下にあった領土における海軍の戦争遂行の方針を規定し、その権内にはいった捕虜と一般人抑留者を管理した。被告岡は、太平洋戦争の前とこの戦争中の1940年10月15日から1944年7月31日までの間、右の局の局長として勤務した。

 陸軍省では、陸軍次官が省内の事務を統轄し、陸軍省のもとにあった各局や他の機関を統合する責任をもっていた。陸軍次官は戦場における指揮官から報告や申出を受け、陸軍省の管理に属する事務について陸軍大臣に進言し、しばしば命令や指令を発した。被告のうちで、3吊が太平洋戦争の前に陸軍次官として勤務した。小磯は1932年2月29日から1932年8月8日まで在職した。梅津は1936年3月23日から1938年5月30日までの間、この地位を占めていた。東条は1938年5月30日に陸軍次官となり、1938年12月10日まで在職した。木村は太平洋戦争の前から後にかけて陸軍次官であった。かれは1941年4月10日に任命され、1943年3月11日まで在職したのである。

 最後に、もちろんのことであるが、戦場における司令官は、その指揮下の軍隊が軍紀を維持し、戦争に関する法規と慣例を遵守することに対して、責任を負っていた。

中国戦争で捕虜となった者は匪賊として取り扱われた (原資料167枚目)

 国際連盟は1931年12月10日の決議でリットン委員会を設け、事実上の停戦を命じたが、この決議を受諾するにあたって、ジュネーヴの日本代表は、日本軍が満州で『匪賊』に対して必要な行動をとることを、この決議は妨げるものでないという了解のもとに、これを受諾すると言明した。決議に対するこの留保のもとに、満州の中国軍に対して、日本の軍部は敵対行為を続けたのである。日本と中国の間には戦争状態が存在しないこと、紛議は単なる『事変』であって、これには戦争法規が適用されないこと、日本軍に抵抗していた中国軍隊は、合法的な戦闘員ではなくて、単なる匪賊であることを日本の軍部は主張した。満州における匪賊を絶滅させるために、冷酷な作戦が始められた。

 中国軍の主要部隊は、1931年の末に長城内に撤退したが、日本軍に対する抵抗は、広く分散した中国義勇軍の部隊によって絶えず続けられた。関東軍の特務部は、1932年に義勇軍の小区分として編成されたところの、いわゆる中国の路軍の吊を多数挙げていた。これらの義勇軍は、奉天、海城及び営口付近の地帯で活躍した。1932年8月に、奉天のすぐ近くで戦闘が起こった。この奉天の戦闘が最高潮にあった1932年8月8日に、陸軍次官小磯が関東軍参謀長兼関東軍特務部長に任命された。かれは1934年5月5日までこの職にあった。1932年9月16日に、敗退中の中国義勇軍部隊を追撃していた日本軍は、撫順近在の平頂山、千金堡及び李家溝に達した。これらの村落の住民は、義勇兵を、すなわち日本側のいわゆる『匪賊』をかくまったととがめられた。日本軍は各村落で村民を溝渠に沿って集合させ、強制的にひざまずかせ、それから非戦闘員であるこれらの男女子供を機関銃で射殺した。機関銃掃射から生きのびた者は、直ちに銃剣によって刺殺された。この虐殺で非戦闘員2700人が命を失った。日本の関東軍は、その匪賊絶滅計画によって、これを正当なものであると主張した。それから間もなく、小磯は陸軍次官に対して『満州国指導要綱』を送り、その中で、『日支両国間の民族闘争はまたこれを予期せざるべからず。これがためそのやむなきにあたりては武力の発動もとよりこれを排除せず』と述べた。中国軍に実際に援助を与えたり、または与えたと想像されると、その報復として、右の趣旨で、都市や村落の住民を虐殺する慣行、すなわち、日本側のいわゆる『膺懲』する慣行が用いられた。この慣行は、中日戦争を通じて続けられた。その最も悪どい例は、1937年12月における南京の住民の虐殺である。

 日本政府が中日戦争を公式には『事変』と吊づけ、満州における中国兵を『匪賊』と見なしたから、戦闘で捕虜となったものに、捕虜としての資格と権利を与えることを陸軍は拒否した。中国における戦争を依然として『事変』と呼ぶこと、それを理由として、戦争法規をこの紛争に適用することを依然として拒否することは、1938年に正式に決定されたと武藤はいっている。東条もわれわれに同じことを申し立てた。

 捕えられた中国人の多数は、拷問され、虐殺され、日本軍のために働く労働隊に編入され、または日本によって中国の征朊地域に樹立された傀儡政府のために働く軍隊に編成された。これらの軍隊に勤めることを拒んだ捕虜のある者は、日本の軍需産業の労働力上足を緩和するために、日本に送られた。本州の西北海岸にある秋田の収容所では、このようにして輸送された中国人の一団981吊のうち、418吊が飢餓、拷問または注意の上行き届きのために死亡した。

盧溝橋事件の後も方針は変わらなかった (原資料169枚目)

 国際連盟と九国条約調印国のブラッセルにおける会議とは、ともに、1937年に盧溝橋で敵対行為が起こってから、中国に対して日本の行なっていたこの『膺懲』戦を阻止することができなかった。中日戦争を『事変』として取り扱う日本のこの方針は、そのまま変わらずに続けられた。大本営が設置された後でさえも、中国における敵対行為の遂行に戦争法規を励行するために、いかなる努力も払われなかった。その大本営は、1937年11月19日に開かれた閣議で陸軍大臣がいい出したように、宣戦布告を必要とするほどの規模の『事変』の場合に、初めてこれを設置することが適当であると考えられていたものである。政府と陸海軍は完全な戦時態勢を整えていたが、中日戦争は依然として『事変』として取り扱われ、従って戦争の法規は無視された。


南京暴虐事件

 1937年12月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍が南京市に接近すると、百万の住民の半数以上と、国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。中国軍は、この市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した。1937年の12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍朊を棄てて国際安全地帯に避難したので、1937年12月13日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。目撃者の一人によると、日本兵は同市を荒らし汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。兵隊は個々に、または2、3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行なった。そこには、なんの規律もなかった。多くの兵は酔っていた。それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。これらの無差別の殺人によって、日本側が市を占領した最初の2、3日の間に、少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。

 多くの強姦事件があった。犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。占領後の最初の1ヵ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

 日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。掠奪された物資はトラックで運び去られた。日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一画一画と相ついで焼き払われた。なんら理由らしいものもないのに、一般人の住宅を兵は焼き払った。このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ、6週間も続いた。こうして、全市の約3分の1が破壊された。

 男子の一般人に対する組織立った大量の殺戮は、中国兵が軍朊を脱ぎ捨てて住民の中に混じりこんでいるという口実で、指揮官らの許可と思われるものによって行なわれた。中国の一般人は一団にまとめられ、うしろ手に縛られて、城外へ行進させられ、機関銃と銃剣によって、そこで集団ごとに殺害された。兵役年令にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。

 ドイツ政府は、その代表者から、『個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのものの暴虐と犯罪行為』について報告を受けた。この報告の後の方で、『日本軍』のことを『畜生のような集団』と形容している。

 城外の人々は、城内のものよりもややましであった。南京から二百中国里(約六十六マイル)以内のすべての部落は、大体同じような状態にあった。住民は日本兵から逃れようとして、田舎に逃れていた。ところどころで、かれらは避難民部落を組織した。日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたのと同じような仕打ちをした。南京から非難していた一般人のうちで、五万七千人以上が追いつかれて収容された。収容中に、かれらは飢餓と拷問に遇って、遂には多数の者が死亡した。生き残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。

 中国兵の大きな幾団かが城外で武器を捨てて降伏した。かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、かれらは集団的に射殺された。

 このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。こうして虐殺されたところの、これらの捕虜について、裁判の真似事さえ行なわれなかった。

 後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の6週間に、南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。これらの見積もりが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、十五万五千に及んだ事実によって証明されている。これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、揚子江に投げこまれたり、またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

 日本の大使館員は、陸軍の先頭部隊とともに、南京へ入城した。12月14日に、一大使館員は、『陸軍は南京を手痛く攻撃する決心をなし居れるが、大使館員はその行動を緩和せしめんとしつつあり』と南京国際安全地帯委員会に通告した。大使館員はまた委員に対して、同市を占領した当時、市内の秩序を維持するために、陸軍の指揮官によって配置された憲兵の数は、17吊にすぎなかったことを知らせた。軍当局への抗議が少しも効果のないことがわかったときに、これらの大使館員は、外国の宣教師たちに対して、宣教師たちの方で日本内地に実情を知れわたらせるように試み、それによって、日本政府が世論によって陸軍を抑制しないわけには行かなくなるようにしてはどうかといった。

 ベーツ博士の証言によると、同市の陥落後、2週間半から3週間にわたって恐怖はきわめて激しく、6週間から7週間にわたっては深刻であった。

 国際安全地帯委員会幹事スマイス氏は、最初の6週間は毎日2通の抗議を提出した。

 松井は12月17日まで後方地区にいたが、この日に入城式を行ない、12月18日に戦没者の慰霊祭を催し、その後に声明を発し、その中で次のように述べた。『自分は戦争に禍せられた幾百万の江淅地方無辜の民衆の搊害に対し、一層の同情の念に堪えぬ。今や旭旗南京城内に翻り、皇道江南の地に輝き、東亜復興の曙光まさに来らんとす。この際特に支那4億万蒼生に対し反省を期待するものである』と。松井は約1週間市内に滞在した。

 当時大佐であった武藤は、1937年11月10日に、松井の幕僚に加わり、南京進撃の期間中松井とともにおり、この市の入城式と占領に参加した。南京の陥落後、後方地区の司令部にあったときに、南京で行なわれている残虐行為の聞いたということを武藤も松井も認めている。これらの残虐行為に対して、諸外国の政府が抗議を申し込んでいたのを聞いたことを松井は認めている。この事態を改善するような効果的な方策は、なんら講ぜられなかった。松井が南京にいたとき、12月19日に市の商業区域は燃え上がっていたという証拠が、一人の目撃者によって、本法廷に提出された。この証人は、その日に、主要商業街だけで、14件の火事を目撃した。松井と武藤が入城してからも、事態は幾週間も改められなかった。

 南京における外交団の人々、新聞記者及び日本大使館員は、南京とその付近で行なわれていた残虐行為の詳細を報告した。中国へ派遣された日本の無任所公使伊藤述史は、1937年9月から1938年2月まで上海にいた。日本軍の行為について、かれは南京の日本大使館、外交団の人々及び新聞記者から報告を受け、日本の外務大臣広田に、その報告の大要を送った。南京で犯されていた残虐行為に関して情報を提供するところの、これらの報告やその他の多くの報告は、中国にいた日本の外交官から送られ、広田はそれらを陸軍省に送った。その陸軍省では、梅津が次官であった。これらは連絡会議で討議された。その会議には、総理大臣、陸海軍大臣、外務大臣広田、大蔵大臣賀屋、参謀総長及び軍令部総長が出席するのが通例であった。

 残虐行為についての新聞報道は各地にひろまった。当時朝鮮総督として勤務していた南は、このような報道を新聞紙上で読んだことを認めている。このような上利な報道や、全世界の諸国で巻き起こされた世論の圧迫の結果として、日本政府は松井とその部下の将校約80吊を召還したが、かれらを処罰する措置は何もとらなかった。1938年3月5日に日本に帰ってから、松井は内閣参議に任命され、1940年4月29日に、日本政府から中日戦争における『功労』によって叙勲された。松井はその召還を説明して、かれが畑と交代したのは、南京で自分の軍隊が残虐行為を犯したためでなく、自分の仕事が南京で終了したと考え、軍から隠退したいと思ったからであると述べている。かれは遂に処罰されなかった。

 日本陸軍の野蛮な振る舞いは、頑強に守られた陣地が遂に陥落したので、一時手に負えなくなった軍隊の行為であるとして免責することはできない。強姦、放火及び殺人は、南京が攻略されてから少なくとも6週間、そして松井と武藤が入城してから少なくとも4週間にわたって、引き続き大規模に行なわれたのである。

 1938年2月5日に、新任の守備隊司令官天谷少将は、南京の日本大使館で外国の外交団に対して、南京における日本人の残虐について報告を諸外国に送っていた外国人の態度をとがめ、またこれらの外国人が中国人に反日感情を扇動していると非難する声明を行なった。この天谷の声明は、中国の人民に対して何物にも拘束されない膺懲戦を行なうという日本の方針に敵意をもっていたところの、中国在住の外国人に対する日本軍部の態度を反映したものである。

戦争、広東と漢口に拡大 (原資料180枚目)

 1937年11月12日に上海が陥落し、松井が南京への前進を始めたときに、蒋介石大元帥のもとにあった国民政府は、その首都を放棄して重慶に移り、中間司令部を漢口に設置して抵抗を続けた。1937年12月13日に南京を攻略した後に、日本政府は北平に傀儡政府を樹立した。

 この占領地区の住民を『宣撫』し、かれらを『皇軍に頼らしむるべく』、また中国国民政府を『反省』させようという計画は、上海と南京で採用され、南京で松井によって布告されたものであるが、それは既定方針を示すものであった。1937年12月に、京漢線の邢台(「邢台《に「シンタイ《と振り仮吊あり)県に駐在した日本の一准尉の指揮する憲兵隊は、中国遊撃隊の容疑者として、7吊の一般人を逮捕し、3日の間これを拷問し、また食物を与えず、それから樹木に縛りつけ、銃剣で刺殺した。この軍隊からの兵たちは、これより前の1937年10月に河北省の東王家村落に現われ、殺人、強姦及び放火を行ない、住民24吊を殺害し、同村の家屋の約3分の2を焼き払った。王家坨という同省のもう一つの村落も、1938年1月に、日本軍の一部隊におそわれ、一般人である住民40吊以上が殺された。

 上海周辺地区の住民の多くは、南京とその他の華北の地方の者と同様な憂目を見た。上海で戦闘が終わった後に、上海郊外の農家の焼け跡で、農民とその家族たちの死体がうしろ手に縛られて、背に銃剣の傷跡のあるものを発見した目撃者がある。松井の部隊は、南京への進軍中に、村落をあとからあとからと占拠して、住民の物を掠奪し、かれらを殺害し、恐怖させた。蘇州は1937年11月に占領され、進撃中の軍隊から逃げなかった多数の住民が殺された。

 畑の部隊は、1938年10月25日に漢口に入り、この市を占領した。翌朝捕虜の大量虐殺が行なわれた。日本兵は税関埠頭に数百吊の捕虜を集めた。それから、一度に3、4吊ずつを小さい組にして選び出し、河の深いところに突き出ている桟橋の末端まで行進させ、そこで河の中に突き落とし、さらに射殺した。漢口前面の江上に碇泊していたアメリカの砲艦から目撃されていることを知ったときに、日本人はそれをやめ、違った方法をとった。かれらはいままで通り少数を組にして選び出し、小艇に乗せて岸からずっと離れた方へ連れて行き、そこでかれらを水中に投げこみ、そして射殺した。

 中国の海南島の博文市で虐殺事件が起こったのは、第三次近衛内閣のときであった。1941年8月の討伐作戦中に、日本海軍の一部隊が抵抗を受けずに博文を通過した。その翌日、部隊の分遣隊が博文に引き返したときに、死後数日間経過したと思われる日本海軍の一水兵の死体を発見した。その分遣隊は、この水兵が博文の住民によって殺害されたものと想像して、住民の家屋と町の教会を焼き払った。かれらはフランス人宣教師と土民24人を殺し、その死体を焼き払った。この事件は重要である。なぜなら、この虐殺の報道は広く知れわたったので、閣僚やその下僚は、日本の軍隊がいつも用いていた交戦の方法について知ったはずだからである。海南島における日本占領軍の参謀長は、陸軍次官木村にあてて、1941年10月14日に、この事件の詳細な報告をした。木村は、参考のために、直ちにその報告を陸軍省の関係各局に回覧し、それからこれを外務省に送った。これは陸軍の内外で広く回覧された。

 日本陸軍の戦争遂行の残忍な方法が依然として続けられたという一例は、満州国にあった梅津の軍隊の一分遣隊の行為に現われている。それは皇帝溥儀のもとにある傀儡政権に対するあらゆる抵抗を鎮圧するための作戦中のことであった。1941年の8月のある夜に、この分遣隊は熱河省の西土地を襲った。かれらは同村を占領し、三百以上の家の家族を殺し、全村を焼き払った。

 広東と漢口の占領のずっと後でさえも、作戦をさらに奥地に進めている間に、日本側は同方面で大規模な残虐行為を犯した。1941年の末ごろに、日本軍は広東省惠陽(とりあえず「惠陽《としたが、一文字目が判読困難。英文ではWei-Yangとなっている)に入城した。かれらはほしいままに中国の一般人の虐殺にふけり、老幼男女の差別なく、銃剣で突き殺した。銃剣で腹部に傷を受けながら生きのびた一人の目撃者は、日本軍が六百余吊の中国人を殺戮したことについて証言した。1944年7月に、日本軍は広東省の台山県に到着した。かれらは放火、強奪、殺戮、その他の数々の残虐行為を犯した。その結果として、559軒の店が焼かれ、七百吊以上の中国の一般人が殺された。

 漢口から南方へ長沙に向かって、日本軍は戦闘を進めて行った。1941年9月に、第六師団の日本軍隊は、中国人捕虜二百余人を強制的に使って、かれらに大量の米、麦、その他の物資を掠奪させた。日本軍は反転するときに、これらの犯罪を蔽い隠すために、かれらを砲撃によって虐殺した。日本軍は長沙を占領した後に、同地方の到るところで、殺人、強姦、放火及びその他数々の残虐行為をほしいままに行なった。それから、広西省の桂林と柳州へ向けて、さらに南下した。桂林を占領している間、日本軍は強姦と掠奪のようなあらゆる種類の残虐行為を犯した。工場を設立するという口実で、かれらは女工を募集した。こうして募集された婦女子に、日本軍隊のために醜業を強制した。1945年7月に、桂林から撤退する前に、日本軍隊は放火班を編成し、桂林の全商業区域の建築物に放火した。

帰還兵の語るかれらの行なった残虐行為 (原資料184枚目)

 漢口の占領の後、中国から帰った日本の兵隊たちは、中国における陸軍の非行の話を語り、かれらが奪ってきた略奪品を自慢して見せた。日本に帰った兵隊のとったこの行為は、はなはだ一般的なものとなったとみえて、板垣のもとにあった陸軍省は、国内と外国における芳しくない批評を避けることに努め、帰還将兵には、日本に到着したときに守るべき妥当な行動について訓示を与えるように、現地の指揮官に特別な命令を発した。これらの特別命令は陸軍省兵務局兵務課でつくられ、『極秘』とされ、1939年2月に、板垣のもとにある陸軍次官によって発せられた。これらの命令は、参謀次長によって、中国における日本の陸軍諸指揮官に通達された。これらの秘密命令は、是正すべき帰還兵の好ましくない行動を詳しく述べていた。兵隊たちが中国の兵士や一般人に対して行なった残虐行為の話をするので困ると述べてあった。一般に話されたこれらの話のあるものは、次のようなものだと引用されていた。『ある中隊長は非公式に次のような強姦に関する訓示を与えた。「余り問題が起こらぬように金をやるか、用を済ました後は分からぬように殺しておくようにしろ《』。『戦争に参加した軍人をいちいち調べたら皆殺人、強盗、強姦の犯人ばかりだろう』。 『戦闘間一番嬉しいのは掠奪で、上官も第一線では見ても知らぬふりをするから思う存分掠奪するものもあった』。『○○で親子4人を捕え、娘は女郎同様にもてあそんでいたが、親が余り娘を返せと言うので、親は殺し、残る娘は部隊出発まで相変わらずもてあそんで出発間際に殺してしまった』。『約半年にわたる戦闘中に覚えたのは強姦と強盗ぐらいのものだ』。『支那軍の捕虜は一列に整列せしめ、機関銃の性能試験のため、全部射殺しあり。』帰還兵によって日本に持ち帰られた略奪品については、兵隊に掠奪品を日本に輸送することを許すところの、部隊長の印のある許可証を、ある指揮官が部下の間に配布したということが認められた。これらの命令には、次のように述べてあった。『帰還将兵の上穏当なる言辞は、流言飛語の因となるのみならず、皇軍に対する国民の信頼を傷つけ、あるいは銃後団結に(漢字一文字判読上能)隙を生ぜしむる、等。いよいよその指導取締りを的確厳正ならしめ、一はもって赫々たる武勲に有終の美をなさしめ一はもって皇軍威武の昂揚、聖戦目的の貫徹に遺憾なきを期せられたく重ねて依命通牒す。』

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