歴史の部屋

田中内閣のもとにおける陸軍の勃興

 1927年4月に、田中が総理大臣に就任したとき、対外進出論者が最初の勝利を占めた。新内閣は、満州と呼ばれる中国の一部に平和的に浸透する政策を行なうことにきめていた。しかし、中国の有力な分離論者との交渉を通じて、満州に日本の覇権を確立することを田中が提唱したのに対して、関東軍内部の諸分子は、この政策に対して焦燥を感じていた。関東軍は、南満州鉄道を含む日本の利権を保護するために、ポーツマス条約に基づいて満州に維持されていた日本の部隊であった。1928年4月に、田中の交渉相手であった張作霖元帥を関東軍の一部の者が殺害した。張作霖元帥は満州における中国軍の総司令官であった。

 この殺害に責任のある陸軍将校を処罰しようとする田中の努力に対して、参謀本部は陸軍大臣の支持のもとに反抗したのであってこの反対は見事に成功した。陸軍は政府を無視した。そして、中国側の反抗は大いに活発になった。軍の支持者の離反によって、政府は甚だしく弱体になった。

 1929年4月に、大川は満州問題を政府の手から奪う目的をもった大衆運動を開始した。参謀本部は大川の成功によって意を強くし、やがてかれと協力し始めた。この問題について世論を喚起するために、有能な宣伝家が日本の各地に送られた。

 この反対と、満州で絶え間なく起こった混乱とに直面して、田中内閣は1929年7月1日に辞職した。


濱口内閣時代の対外進出宣伝

 田中の後を承けて濱口が総理大臣になったときに、幣原男爵は外務省に復帰した、田中の就任前の諸内閣で、幣原は友好的な国際関係という自由主義的政策の代表的な主唱者であった。かれの再任は、陸軍の武力による対外進出計画に対して、一つの脅威となった。この挑戦を冒して大川は、参謀本部員の支持のもとに、その宣伝戦を続けた。満州は中国から分離され、日本の支配下に置かれなければならないとかれは主張した。このようにして、アジアに対する白色人種の支配は終わりを告げ、それに代わって、『王道』の原理の上に打ち建てられた国が創造され、日本はアジアの諸民族の指導権を握り、白色人種を駆逐するというのである。このようにして、1930年には、すでに皇道(皇道に傍点あり)は日本によるアジアの支配及び西洋との戦争の可能性を意味することになった。

 陸軍当局者は直ちに大川に追随した。満州は日本の生命線であり、日本はそこに進出し、これを経済的、産業的に開発し、ソビエット連邦に対してこれを防衛すべきであるという主張を普及するために、陸軍将校は大仕掛けの宣伝を開始した。1930年6月に、当時関東軍の一参謀であった板垣大佐は、武力によって満州に新国家を樹立することに賛成していた。かれは大川に倣って、このような発展は『王道』に適ったものであり、アジアの諸民族の解放をもたらすものであると言った。


橋本と1931年の三月事件

 1930年の通じて、濱口内閣は緊縮政策をとった。この政策は軍閥の反感を煽った。陸海軍の予算は削減された。常備軍は縮小された。海軍軍備制限条約は強い反対を押し切って批准された。少壮海軍将校や愛国諸団体の中には、かなり憤慨する者があった。1930年11月に、総理大臣は暗殺者によって致命的な傷を負わされたが、幣原男爵の自由主義的な指導のもとに、内閣はそのまま続いた。

 従って、自由主義は陸軍の憤懣のおもな対象となった。そして、1931年1月に、これを打倒しようとする陰謀が企てられた。これがいわゆる『三月事件』であって、戒厳令を布くための理由をつくり、軍部内閣の樹立に導こうという筋書をもった叛乱を引き起こすために、大川と橋本中佐によって企まれた一つの共同謀議であった。それは参謀本部の支持を受けていた。軍務局長小磯中将は共同謀議者を教唆した。新総理大臣として選ばれていた宇垣がそれを黙認することを拒絶したので、この陰謀は失敗した。

 1930年1月に、橋本はヨーロッパのいろいろな独裁制の方法についての知識と熱情をもって、トルコから日本に帰って来た。1930年9月に、かれの同僚である参謀本部の高級将校の間に、必要ならば暴力によっても国家の改革を成し遂げることを究極の目的とする一つの結社をかれは組織した。不成功に終わった1931年の三月事件は、この工作の結果であった。

 橋本の工作は、大川のそれと互いに補足し合うものであった。かれの手によって、『皇道』は同時に軍部独裁の道ともなった。軍の憤懣を買った議会を打倒しなければならないということを、かれは大川に洩らした。大川自身も既成政党を排除し、軍政によって皇威を顕揚しなければならないと宇垣に語った。これが『昭和維新』の事業となるはずであった。『昭和』は現在の天皇の治世に与えられた名称である。

 日本憲法によれば、陸海軍大臣は総理大臣と同等の立場で天皇に直接近づくことができた。参謀総長と海軍軍令部長も、直接天皇に対して責任があった。従って、皇道(皇道に傍点あり)という道は軍の道であるという主張には、歴史的に見て、正当な理由があった。

 1931年の三月事件は失敗したけれども、その後の諸事件に対する前例をつくった。陸軍は軍備縮小と自由主義の唱道者に対する民衆の憤激をかきたてた。このような不平分子の一人が、自由主義的な総理大臣であった濱口を暗殺した。ある方面では、陸海軍軍備縮小計画は、軍の問題に対する内閣の不当な干渉であると見られていた。軍国主義者は、天皇に対する忠義という愛国的な感情を、かれら自身の目的に転用することにある程度成功した。

若槻内閣と奉天事件

 1931年4月14日に、濱口の後を承けて総理大臣となった若槻のもとで、内閣と陸軍は正反対の政策をとっていた。外務大臣として留任した幣原が、満州問題の平和的解決を交渉するために、誠心誠意努力していたのに反して、陸軍は積極的に紛争をかもし出した。それが頂点に達して、1931年9月18日における奉天の攻撃となった。これは後に奉天事件として知られるに至ったものの発端であって、それが遂には満州国という別個の政府を樹立するに至った。これは後に取り扱うことにする。

 それまでの5ヵ月の間に、内閣の軍備縮小と予算節約との政策に対する反抗が強くなった。橋本とかれの率いる陸軍将校の一団は、依然として武力による満州の占領を唱えていた。この一団は、『桜会』として知られ、国家の改造を招来することを目的としていたものである。国粋主義と反ソビエット政策を標榜する黒龍会は、民衆大会を開催し始めた。大川は民衆の支持を得るための運動を続けた。かれは陸軍が全然統制することのできないものとなったと言い、内閣が陸軍の意のままに黙従するのも、単に時間の問題であろうと言った。大川と同様に、南満州鉄道株式会社の役員であった松岡洋右は、満州が戦略的にも経済的にも日本の生命線であるという、周知の議論を支持する書物を著した。

 橋本及びその桜会とともに、大川は奉天事件を扇動した。参謀本部は、土肥原大佐の勧めに従って、この計画を承認した。土肥原と板垣大佐は、ともに関東軍参謀部の部員であったが、各々この攻撃の立案と遂行にあたって重要な役割を演じた。

 田中内閣のときに参謀次長であった南中将は、若槻内閣では陸軍大臣となっていた。かれは自分の前任者である宇垣と異なって、自分が閣僚として参加していた自由主義的内閣に対抗して、かれは陸軍の立場を支持した。1931年8月4日に、部下の高級将校に向かって、かれは日本、満州、蒙古の間の緊密な関係について語り、軍縮政策を支持する人々を非難し、天皇の大目的に完全に奉仕することができるように、かれらが訓練を誠実に実行することを促した。

 陸軍中将小磯は、軍務局長として、1931年の三月事件の計画について、内々与り知っていたが、今では陸軍次官になっていた。陸軍大臣南は、陸軍の側に立って、満州の占領に関する陸軍の計画に賛成したが、内閣と天皇の見解に対しては、ある程度の敬意を払う気持ちがあった。若槻内閣は陸海軍予算を削減しようとする方針を続けていた。そして、1931年9月4日までには、この点について、陸軍大臣南と大蔵大臣井上との間に、実質的な同意が成り立っていた。この措置に賛成したことについて、南は直ちに小磯から強い非難を受けた。その結果として、南と井上との間にできた同意は無効にされた。

 1931年9月14日までには、蒙古と満州における陸軍の計画は、東京で知られていた。その日に、南は天皇からこれらの計画を中止しなければならないと警告された。東京における陸軍の首脳部とその他の者の会合で、この言葉をかれは伝えた。そこで、この陰謀は放棄することに決定された。南はまた関東軍司令官に書簡を送り、陰謀を放棄するように命令した。この書簡は、奉天における事件が起こった後になって、ようやく伝達された。この重要な書簡を伝達するために派遣された使者は、建川少将であった。われわれが満州事変を論ずるときにわかるように、事件がすでに起こってしまうまで、かれは故意にこの書簡の伝達を遅らせたように見受けられる。

 1931年9月19日に、すなわち奉天事件の起こった翌日に、事件は南によって内閣に報告されたが、かれはこれを正当な自衛行為であると称した。


若槻内閣時代における陸軍の権力の確立

 若槻は直ちに事態を拡大してはならないという訓令を発し、陸軍が政府の政策を完全に遂行しなかったことに対する憂慮の念を表明した。5日の後、すなわち1931年9月24日に、内閣は日本が満州に領土的野心を有するということを否定した正式の決議を可決した。

 天皇が内閣の対満政策を支持するように仕向けられたことについて、陸軍は憤激した。そして、ほとんど毎日、南はかれ自身が総理大臣に与えた保証に背いて行なわれた陸軍の進出を報告した。1931年9月22日に、かれは朝鮮軍を満州に送るという計画を提案したが、このようなことをしたことについて、首相から非難された。1931年9月30日に、南は増援部隊の派遣を要求したが、首相は再び拒絶した。内閣の決議が可決されてから1週間の後に、参謀総長は、若槻に対して、関東軍はさらに揚子江地域にまで前進することを余儀なくされるかもしれないし、関東軍はその特権に対して外部から干渉されるのを我慢しえないであろうと警告した。

 1931年10月に、新しい共同謀議が橋本とその桜会によって計画された。かれは満州事変における自分の役割を告白している。この事件は、かれの言うところによれば、「王道」に基づいた新しい国家を満州に樹立するばかりでなく、日本の政治的状態の解決を目的としたものであった。

 十月陰謀は、この後の目的を達成するために計画されたものであった。軍部のクーデターによって政党制度を破壊し、陸軍の政策に共鳴する内閣を樹立することが計画されたのである。

 陰謀は暴露され、南の命令によって、この計画は放棄された。しかし、1931年の10月と11月を通じて、満州では、内閣の方針を真っ向から破って、軍事的活動が続けられた。もし内閣が協力を拒み続けたならば、関東軍はその独立を宣言するであろうという噂が流布された。この威嚇に直面して、自由主義者中の穏健分子の抵抗が打ち破られた。

 1931年12月9日に、陸軍大臣は満州の事態について枢密院に報告した。陸軍の活動を妨げるものは、今では、それが日本と西洋諸国との関係に及ぼすかもしれない有害な影響だけに限られていた。南は、日本の公式の保証と陸軍の行動との間の食い違いは、不幸なものであるということには同意した。しかし、陸軍の軍紀事項に関しては、部外者の干渉を一切許さないという鋭い警告をかれは発した。

 3日の後に、すなわち1931年12月12日に、若槻はその内閣が陸軍を統制する能力がないということを認めて辞職した。満州事変は、これを阻止しようとする内閣の決定にもかかわらず、拡大し続けたとかれは言った。陸軍を統制することのできる連立内閣を組織する望みを捨てて、心ならずも幣原の政策を放棄するほかないと、かれはきめたのである。幣原外務大臣がどうしても譲歩しなかったので、若槻はその内閣の辞表を提出することを余儀なくされたのであった。陸軍は満州における征服戦争の目的を達成し、日本の内閣よりも強力であることを示した。

犬養内閣の時代における満州の征服

 陸軍を統制することを企てるのは、こんどは、いままで反対党であった政友会の番となった。犬養が天皇の命令を受けたとき、天皇は日本の政治が完全に陸軍によって支配されることを欲しないということを聞かされた。かれの党の内部には、新政府の内閣書記官長となった森を指導者とする強力な親軍派があった。しかし、犬養は直ちに関東軍の活動を制限し、また満州から陸軍を次第に撤兵することを蒋介石大元帥と交渉する政策をとった。

 阿部大将は新内閣の陸軍大臣として指名されていたが、多くの陸軍青年将校は、阿部がかれらの感情を知りもせず、またそれに同情ももっていないという理由で、この任命に反対していた。犬養はかれらの強要に従って、荒木中将ならば陸軍を統制することができるであろうと信じて、かれを陸軍大臣に任命した。

 満州で日本の支配のもとに新国家を建設することをすでに計画していた関東軍の司令官本庄中将は、板垣大佐を使者として東京に派遣し、陸軍大臣荒木の支持を得た。

 犬養は密かに蒋介石大元帥と交渉を開始したが、それは森と軍閥の知るところとなった。森は陸軍の憤激について犬養の子息に警告した。そして、交渉は充分の見込みがあったにもかかわらず、総理大臣はやむを得ずこれを中止した。1931年12月下旬に、すなわち内閣就任の2週間後に、御前会議が開かれ、その直後に、荒木、陸軍省及び参謀本部によって、満州における新しい攻勢が計画された。犬養は満州からの撤退を許可する勅命を拒絶された。板垣大佐は、傀儡統治者を就任させて、新国家の行政を手中に収めるという関東軍の計画をほのめかした。陸軍を統制しようとする新総理大臣の計画は、数週間のうちに挫折した。

 陸軍が計画した通りに、満州における新攻勢が始まった。他方で、東京では、軍事参議官の南は、天皇に対して、満州は日本の生命線であること、そこに新国家を建設しなければならないことを進言した。1932年2月18日に、満州国の独立が宣言され、1932年3月9日に、最初の組織法が公布され、それから3日の後に、新国家は国際的承認を要請した。1ヵ月の後、1932年4月11日には、この既成事実を遂に容認した犬養内閣は、日本による満州指導の計画を審議した。


政党政治に対する攻撃と犬養の暗殺

 1932年の最初の3ヵ月の間に、橋本と大川は、それぞれ、日本から民主政治を排除する国家改造または革新の準備をしていた。1932年1月17日に、橋本は日本の議会制度の改革を主張する新聞記事を発表した。民主政治は日本帝国の建国の原理と相容れないという論旨をかれは唱えたのである。既成政党を血祭りにあげ、明朗な新日本の建設のために、その撲滅をはかることが必要であるとかれは述べた。

 大川は新しい結社をつくろうとしていた。この結社は、日本帝国の伝説的な創始者であり、『皇道(皇道に傍点あり)』と『八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)』の伝説的な唱道者であった神武天皇にちなんで名づけられた。この新結社の目的は、日本精神を昂揚し、国家主義を発展させ、日本人に東亜の指導者になろうという志を抱かせ、既成政党を打倒し、国家主義的な線に沿って組織された政府の実現を達成し、国力の海外への進出を促進するように、日本の産業開発の統制を計画することであった。

 犬養内閣は満州問題について譲歩したけれども、閣内の自由主義分子は、大川や橋本が主張した形式の国家革新には依然として反抗した。犬養は陸軍予算の節減に賛成し、日本が満州国を承認することに反対した。かれの軍閥に対する反対は、かれの生命を危うくしているという警告を、その子息を通じて、森から何度も受けた。軍国主義者と、内閣による支配がよいとまだ信じていた人々との間の分裂は、内閣にも陸軍自体にも影響を及ぼした。武断派は陸軍大臣荒木によって指導され、『皇道(皇道に傍点あり)派』――『皇道(皇道に傍点あり)』の『原理』を支持する者――と言われるようになった。

 1932年5月に、犬養は民主主義を称揚し、ファッシズムを非難した演説を行なった。一週間の後に、かれはその官邸で暗殺された。橋本は海軍将校によって遂行されたこの陰謀の加担者であった。
 惹き起こされた事態について、近衛公爵、原田男爵及びその他の者が協議した。内大臣秘書官長木戸、陸軍次官小磯中将、軍務局の鈴木中佐がそこに出席していた。犬養の暗殺は、かれが政党政治を擁護したことに直接に起因しているということに、意見が一致した。鈴木は、もしこれに続く諸内閣が政党人を首班として組織されたならば、同様な暴力行為が起こるであろうと考え、その理由をもって、連立内閣を作ることに賛成した。


斎藤内閣時代の戦争準備

 1932年5月26日に就任した斎藤内閣は、内閣と陸軍との間の対立について妥協を成就しようと試みた。内閣は軍を統御して、そして陸軍予算の縮減を含む一般的節約を実施しようというのであった。他方で、内閣は満州国における陸軍の政策を容認し、日本の支配のもとに同国の経済的、産業的開発を促進することを決意した。荒木中将は依然として陸軍大臣であり、1932年2月に陸軍次官になった小磯中将は、その職に留任した。

 満州国に関する新内閣の政策が日本と西洋諸国との関係を悪化させることは避けられないことであった。しかし、陸軍は、また閣内の反対に束縛されないで、ソビエット連邦との戦争のために、また中国の中央政府との新たな闘争のために、準備をしていた。

 早くも1931年12月には、中国の熱河省を新国家に包含することが計画されていた。そして、1932年8月に、同地域は満州国の一部をなすものであると声明された。同じ月に小磯は関東軍参謀長になるために、東京におけるその職を去った。

 それより一月前に、すなわち1932年7月に、モスコーの日本陸軍武官は、ソビエット連邦との戦争は避けられないものであるから、この戦いに対する準備に最大の重点を置かなければならないと報告していた。国際連盟の掣肘、中国の抵抗及び合衆国の態度が、日本のアジアにおける大業の完成に対して、より一層の障害となっていることをかれは認めた。中国との、またソビエット連邦との、戦争は当然起こるにきまっており、合衆国との戦争は起こるかもしれないから、これに対して日本は用意していなければならないとかれは信じていた。

 日本の満州国承認は6ヵ月間遅らされていたが、1932年9月に、枢密院は、この措置によって生ずる国際的反響は恐れるに足りないと決した。枢密院の承認によって、関東軍が立てた傀儡政権と日本との間に、協定が結ばれた。大陸における日本の利益拡張を保証するために、これは適切な措置であると考えられた。この協定の規定によって、新国家は日本のすべての権益を保証し、関東軍が必要とする施設はすべて提供すると約束した。日本は、満州国の負担において、同国の防衛と治安維持を引き受けた。中央と地方との政府における要職は、日本人のために保留され、すべての任命は、関東軍軍司令官の承認を得て初めて行われた。

 右の協定に従って、小磯は関東軍参謀総長として、日満両国の経済的『共存共栄』の計画を立案した。両国は単一経済ブロックを形成し、産業は最も適当な土地において開発すること、陸軍は思想運動を統制し、当分の間政党の存在を許さないこと、必要な場合には断乎として、武力を用いることになっていた。

 斎藤内閣が就任して後間もなく、陸軍大臣荒木は、満州国の建設にかんがみ、国際連盟の決議と以前に日本が行なった声明とは、もう日本を拘束するものと認められないと発表した。1931年に、満州における日本の干渉をめぐる事情を調査するために、国際連盟はリットン委員会を任命した。この委員会の報告を受け取った後、満州における日本の行動と、中国の他の地域において新しい事件をつくり出しつつある活動とに対して、連盟は強い非難を表明した。日本の計画に対するこの反対にかんがみ、1933年3月17日に、斎藤内閣は連盟を脱退するという日本の意思を通告することに決定した。その措置は、それから十日後にとられた。それと同時に、太平洋における日本の委任統治諸島に、外国人を入れない措置がとられた。これによって、条約上の義務に違反し、外国の監視を逃れて、太平洋における戦争の準備をすることができた。

 その間の大陸における軍備は、直接にソビエット連邦に向けられていた。1933年4月に、軍務局の鈴木中佐は、ソビエット連邦は絶対の敵であると称した。なぜならば、ソビエット連邦は、かれの言葉によれば、日本の国体の破壊を狙っていたからである。

世論の戦争への編成替え

  荒木が陸軍の計画を示す

 政治評論家は、この期間に起こった事件は、日本の『新秩序』の基礎であると評した。橋本は、満州の征服と連盟脱退について、自分もある程度まで与って力があったことを認めた。これらのことは、かれの言うところによれば、ある程度まで、かれが1930年1月にヨーロッパから帰国したときに企てた計画の結果であった。

 大川は、日満議定書は両国の共存共栄の法的基礎を確立したものであると言った。日本国民の魂の中に、憂国の心が勃然と湧き起こったのであるとかれは言った。民主主義と共産主義は一掃され、日本において、国家主義的傾向が今までにないほど旺盛になった。

 大川はまた日本が国際連盟から脱退したことを歓迎した。かれの見解によれば、国際連盟はアングロ・サクソン優越の旧秩序を代表しているものであった。日本は一挙にして英米への依存に打ち勝ち、外交において新しい精神を発揮することに成功したのであるとかれは言った。

 1933年6月に、陸軍大臣荒木は、最も重要な意味をもった演説を行なった。形式においてその演説は愛国心に訴えた感情的なもので、非常時には陸軍を支援せよと日本国民を促すものであった。しかし、その中には、荒木が八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の伝統的目標と同一視していた東亜の武力的征服を達成しようとする不動の意図が、明確に示されていた。

 戦争への感情を醸成するために、かれは大川と橋本が広く宣伝していた政治哲学を大いに利用した。日本は無窮であり、かつ拡大発展する運命にあるとかれは言った。混沌たる中から秩序を見出し、理想的な世界を、東亜に楽土を具現するのが、日本民族の真の精神であるというのであった。

 ここに新秩序と旧秩序との間の区別がある。なぜならば、全世界は国際連盟の指導のもとに、日本の神聖な使命の達成を妨げているからであると荒木は言った。したがって、これは日本にとって非常時であった。最近に起こった事件は、国家をあげての総動員を準備しなければならないことを示しているというのであった。

 国際情勢に関するこの解釈を基礎として、荒木は国民一般の支持を求めた。かれはその聴衆に対して、満州建国は日本の民族精神を新たに覚醒させた天の啓示であるとかれは言った。奉天事件によって生まれた熱意が保持されるならば、新秩序は達成される。民族精神の復興は、日本を悩ましている国際的困難を解決するであろう。なぜならば、戦争が起こるかどうかという問題は、結局、国民の精神力によるからである。

 国民の行くべき道は『天皇の道』であり、日本の軍隊は天皇の軍隊であると荒木は言った。従って、『皇道』を宣揚しようとする使命に反対するものに対しては、どのようなものであっても、陸軍は戦うというのである。

 その後に、日本の戦争準備の基本原則となることになったところの、『国防』という言葉についても、荒木は述べた。それは、日本自身の防衛に限られているのではなく、『国の道』の、すなわち皇道(皇道に傍点あり)の護持もその中に含まれているとかれは言った。従って、『国防』とは、武力によって他の国を征服することを意味するということをかれは明確に示した。同じ期間中に、かれが書いたものの中で、荒木は蒙古に対する陸軍の計画を示し、『皇道』に対して反対する国はどんな国でも、断乎としてこれを撃砕するという日本の決意を再び断言した。

斎藤内閣時代の戦争準備、並びに天羽声明

 その後の数ヵ月の間に、荒木の方針は、一般国民の支持も、内閣の承認も得ていた。1933年9月ごろには、軍首脳者の努力によって、軍縮諸条約に対する強烈な反感がつくり上げられていた。当時の海軍の比率を、日本に有利に修正せよという国民一般の要求があった。どの内閣も、この一般国民の叫びに反対するものは、憤慨した民衆の反対に遇わなければならなかった。日本はワシントン海軍軍縮条約から脱退する意向を通告した。

 その間に、斎藤内閣は、荒木の国防の原則を、満州国に対する政策において、最も優先的な考慮事項としていた。1933年12月までに、この政策は確定されていた。両国の経済は統合され、その軍費は分担されることになっていた。満州国の外交政策は、日本のそれを模範とすることになっていた。両国の『国防力』は、日本がやがて直面するかもしれない国際危機を乗り切るために、増強されることになっていた。九国条約の『門戸開放』に関する規定は、『国防』の要求と相反しない範囲においてだけ、 これを遵守するということになっていた。

 1933年12月に、日本がソビエット連邦に対して戦端を開くべき日に備えるために、関東軍は作戦とその他の準備を行なっていた。2ヵ年の間に、外務大臣幣原の『友好』政策は完全に棄てられてしまった。

 1934年4月に、東亜に関する新しい政策が『天羽声明』として表示された。この非公式声明は、外務省の一代弁者によって新聞に発表されたもので、国際的な驚愕を惹き起こした。そして、斎藤内閣によって、直ちに否認された。しかし、これは1933年の内閣の諸決定と完全に一致したものであって、陸軍大臣荒木が10ヵ月前に言明したのとほぼ同じ政策を、荒木ほど扇動的な言辞を用いないで、繰り返したものにほかならない。

 日本は中国において特殊な地位を有しているから、日本の見解は、必ずしもあらゆる点で列国のそれと一致しないかもしれないと声明された。日本が連盟を脱退しなければならなくなったのは、この意見の対立のためであった。日本は諸国と友好関係を希望していたが、東亜の平和と秩序とを維持することに関しては、自己の責任において行動するというのであった。この責任は、日本にとって回避することのできないものであり、また中国自身を除いた他の国とは、その責任を分担することができないというのであった。それであるから、日本に対して抵抗するために、外国から援助を求めようとする中国のいかなる試みも、日本の反対を受けるというのであった。


斎藤内閣と岡田内閣の時代の広田の外交政策

 1933年9月14日に、国際的緊張が増大していたこの雰囲気の中で、広田は日本の外務大臣になった。内閣と陸軍が新秩序を計画し、準備していたときに、かれは西洋諸国の懸念を緩和し、自分の国の国策の侵略的性質を小さく見せようとした。1934年2月に、合衆国に対して、同国と日本との間には、友誼的解決が根本的に不可能な問題は存在しないと確信するとかれは保証した。

 1934年4月25日、天羽声明が発表されてから一週間の後に、広田はその意味を弱めようとした。アメリカの国務長官ハルに対して、この声明はかれの承認も受けないで行なわれたものであり、誤った印象を起こさせたと伝えた。日本は九国条約の規定の適用を排除して、中国で特殊の権益を求めるような意思は全然ないという断定的な保証をかれは与えた。それにもかかわらず、かれの政府は、この同じ条約の『門戸開放』の規定よりも、満州における日本の戦争準備の要求の方を重要視することをすでに決定していたのである。

 さらに1934年の4月と5月に、ワシントンの日本大使は同様な保証を与えた。しかし、同大使は、日本政府が中国における平和と治安の維持に特別の関心をもっているということを、たしかに認めた。ただし、ハルの直接の質問に答えて、かれは、この表現は、東洋における最高覇権を意味するとか、できるだけ速やかに通商上の優先権を掌握しようという意図さえも意味するものではないといった。

 1934年になると、どのような保証も、満州国に石油独占が制定されていたという事実を隠すことはできなかった。ハルは、日本が条約上の義務に違反して、アメリカの商社を排斥することに対して抗議した。1934年8月に、斎藤に次いで、岡田が総理大臣になった後に、外務大臣広田は、ハルの対して、満州国は独立国であって、日本は石油独占に関してはなんら責任を有しないと通告した。満州国は関東軍の支配の下にあり、また、石油独占を始めることは、斎藤内閣の『国防』政策の直接の結果であったけれども、合衆国がその後さらに発した通告は、日本に少しもその責任を認めさせることができなかった。

 広田の公言と日本の行動との間の不一致は、1934年12月になおいっそう明らかにされた。その月に、満州国に関する政策を統合するための日本政府の機関として、対満事務局がつくられた。

1935年、大陸における陸軍の進出と政府の経済的準備

 広田が日本の意図は侵略的ではないと否定している間に、陸軍はその戦争準備を促進した。1935年に、陸軍はアジア大陸における軍事的進出の準備を主唱した。他方で、1934年7月8日に就任した岡田内閣は、満州国における陸軍の経済計画を支持した。

 1934年12月に対満事務局が設置されると同時に、南大将は関東軍司令官と駐満大使に任命された。板垣少将がかれの参謀副長になった。

 板垣の助力によって、南は内蒙と華北5省に自治政府の樹立を育成する計画を立てた。これは中国国民政府に重大な損害を与えるものであり、それと同時に、一方で満州国と、他方で中国及びソビエット連邦との間に、緩衝国を設けることになるものであった。

 1935年5月に、梅津中将隷下の北支駐屯軍は、同地域の中国軍に対して、最後通牒に等しいものを発する口実をつくった。梅津の要求に力を添えるために、南は関東軍を動員した。ある部隊は、華北の非武装地帯にはいった。1935年6月に、中国側は屈服し、その軍隊と行政機関を天津地域から移した。木戸が東京で認めたように、中国に対するこの手段は、板垣とその他の者の計画に基づくもの、すなわち、かれらが満州国の場合に行なったように、外交官でなく、軍部が率先して中国の処理にあたらなければならないという計画に基づくものであった。

 同じ期間に、関東軍は張北で一つの事件をつくり上げ、土肥原少将は傀儡統治者として予定されていた者との陰謀を担当した。その目的は、新自治政府の結成にあった。外務省はこれらの出来事には介入しなかったが、広田は北京大使館から、その進行振りに関して、充分な報告を受けた。1935年10月2日に、日満経済ブロックに華北を入れ、国防を増強するために、陸軍が実質的な自治国家を樹立する企図を有しているということをかれは聞いた。また、陸軍の内蒙計画は着々と進行しており、土居原は疑いもなくそれを促進しているということも聞いた。

 弁護側の証人河辺によれば、張北事件は、1935年6月27日に、土肥原・秦徳純協定の締結によって解決された。陸軍は、今では、内蒙の半分と華北5省の相当な部分とにおける地方政権を支配していた。

 その間に、1935年7月3日、枢密院は、満州国とのいっそう緊密な経済的協力を審議するために、外務大臣広田の列席のもとに、会議を開いた。枢密院の審査委員会は、満州における軍事外交の施策は充分進められているが、経済方面において種々の施策を調整統合する組織が未だ考え出されていないと報告した。そこで、この委員会は、必要な機構を設けるべき経済共同委員会を設置する協定を結ぶことを進言した。枢密院は、日本が常に経済共同委員会における投票権の優勢を期待することができるという広田の保証を得た後に、右の措置を承認した。この新しい協定は1935年7月15日に調印された。


広田の外交政策と陸軍の企画との調整統合

 岡田内閣が倒壊する前の、最後の3ヵ月の間において、陸軍の政策と広田の外交政策は完全に統合された。1935年12月に、内蒙の地方政府が中国側から残りの地域を接収するのを援助するために、南大将は軍隊を派遣した。1935年8月1日に、梅津の後任として北支駐屯軍司令官になった多田中将は、かれの軍事的目的の達成に使用するために、同地域における鉄道をかれの支配下に置く計画を立てた。

 また同じ月に、関東軍は、華北におけるその軍事活動に即応して行なうべき宣伝計画を陸軍省に送った。中国の本土に進出すると同時に、日本の立場が合法的であることを全世界に納得させるために、宣伝を開始することになっていた。反国民党と反共産党的の扇動によって、華北の住民を中央から分離する試みもなされることになっていた。『反共』というこの標語は、1935年自治運動が初めて開始されたときに、土肥原、板垣及びその他の者によって選ばれたものであった。

 1936年1月21日に、陸軍が華北を処理するために立案した計画の要領を、広田は中国にある日本の大使に送った。この大使は、華北5省に自治政府を次第につくり上げていくという趣旨であると訓令された。外務省は、新しい政治機構に支援と指導を与え、それによって、自己の機能を拡張し、強化しようと決心していた。満州国と同様な独立政府を華北に樹立しようという日本の意思を示すものと世界が認めるような措置は、一切とらないことになっていた。軍事機関は、計画の実施にあたって、外務省や海軍と密接な連絡を維持するようにと指示されることになっていた。自治に関する種々の問題を取り扱うための臨時組織は、北支駐屯軍司令官のもとに設置されることになっていた。
 この外務省と陸軍との間の妥協によって、第一期の軍事的準備は完了した。満州国の資源は開発の途上にあった。陸軍の常備兵力は、1930年当初の25万から、1936年当初の40万に増加した。第二期における軍事的な計画は、全国民を戦争のために総動員することになっていた。


岡田内閣時代における陸軍の権力の増大

 1934年7月8日から1936年3月8日まで、日本の総理大臣であった岡田啓介は、かれとかれの前任者斎藤の在任中、陸軍の権力は増大しつつあったと証言した。岡田の言うところによると、アジアにおける日本の勢力を拡大するにあたって、武力を行使しようとする陸軍の政策に対して、右の二つの内閣は反対する勢力であると陸軍が認めたので、両内閣とも陸軍の怨みを買った。

 陸軍部内における『過激派』の勢力と横暴は、1935年7月に、教育総監が辞職を強要されたときに明らかに示された。この処置に対する抗議として、軍務局長永田中将は、かれの事務室で、佐官級の一陸軍将校によって暗殺された。総理大臣として、岡田はこの事件を非常に遺憾としたが、この犯罪の調査には無力であった。陸軍は勝手に調査を進め、総理大臣や内閣の介入を許さなかった。

 この事件の結果として、さらにまた面倒な問題を軍部が起こすのを恐れたので、林大将は陸軍大臣として辞表を提出した。すべての将官が擁護することを同意した川島大将がかれの後任になった。川島がこの任命を受諾したのは、相当な危険を冒すものであることを、閣僚は承知していた。

1936年の2・26事件と岡田内閣の倒壊

 その後に起こった事件は、前述の危惧が根拠のないものではなかったことを証明した。というのは、1936年2月26日に、陸軍の岡田内閣に対する忿懣は、陸軍青年将校の一団による、かれ自身に対する暗殺の試みによって、最高潮に達したからである。政府に対して叛乱し、主要な官庁を占拠して、22名の将校と約1400名の兵士は、3日半にわたって、東京を恐怖に陥れた。この期間、総理大臣がその官邸に包囲されている間、政務は内務大臣によって行なわれた。大蔵大臣高橋と内大臣斎藤は、これらの暴力行為者によって暗殺された。10日の後に、軍部を統制することができないので、岡田はその内閣の辞表を提出した。


岡田の政策と失脚は陸軍の要求

の過激な性質を示している

 岡田の在職中に、日本国民を戦争準備の状態に置こうとする多くの措置が講ぜられた。広田は外務大臣として、永野はロンドン海軍会議への日本代表として、日本が1934年12月に海軍軍備の制限と縮小に関するワシントン条約を廃棄するという意思を宣言し、翌年12月にロンドン海軍会議から脱退するに至った政策について、主要な役割を演じた。同じ期間中に、委任統治諸島では、諸地点で航空基地や貯蔵施設が建設されており、同地への外人旅行者の立ち入りを阻止する周到な警戒処置がとられた。

 1935年には、また、内務省の直轄のもとに、厳重な報道検閲制度が実施され、新聞は政府によって承認された宣伝を流布するための道具以上のものではなくなった。一般の輿論発表機関の一切について、警察は検閲と取締りの広汎な処置を講じた。1935年8月に、陸軍省は学校と大学における軍事教練の情況を査閲し、その発展に貢献し、卒業生の資格について将来の軍事的価値を評価することができるための規則を発した。

 合衆国からのたびたびの抗議にもかかわらず、日本側は満州で石油の独占を確立し、同国の天然資源開発のための機械を供給した。

 少なくとも1935年10月このかた、陸軍は日本の外交政策に積極的な、また独自な立場をとってきた。というのは、現に同じ月に、当時のベルリン大使館付武官であった被告大島は、日独条約の交渉を始めており、フォン・リッベンドロップに対して、両国の間に一般的条約を締結したいという日本参謀本部の希望を表明していたからである。

 これらのすべての成行きにもかかわらず、また関東軍が華北においてその目的の実現に着々として進んでいたにもかかわらず、急進分子は満足していなかった。陸軍では、岡田内閣は海軍が軍国主義者を抑制しようとしてつくったものであると見ていた。華北における陸軍の政策に対して、正当な支持を受けていないと陸軍は考えた。暗殺や叛乱によって陸軍部内の急進分子は、かれらの進路からして、まず陸軍省自身の、より穏健な勢力を追い払い、それから内閣を追い払った。軍国主義者の圧迫に対して、内閣は実質的な抵抗はしなかったけれども、やはりそれほど過激でない政策を代表しているのであった。1936年2月27日に、すなわち東京で陸軍の叛乱が起こったその翌日に、中国の廈門の日本領事館は、この叛乱の目的は、分裂した内閣を軍部内閣によってとり代えることにあると発表した。青年将校層は、中国全土を一撃のもとに占領し、日本がアジアで唯一の強国となるように、直ちにソビエット連邦に対して戦争する準備をしようと思っていると言った。

 これは陸軍の企図であった。そうして、1936年3月9日に、広田内閣は右に述べた状況において成立したのであった。1935年11月に、白鳥がある友人に語ったように、外交官も政党も、軍国主義者を抑圧することができないなら、むしろかれらの政策を支持し、これを実現するように努力する方がよいというわけであった。


広田とその内閣

 1936年3月9日、新内閣が成立したときに、岡田内閣の閣僚は、広田自身をただ一つの意味深長な例外として、すべて更迭された。斎藤が総理であったときに、1933年9月14日、かれは外務大臣となり、30ヵ月の間、その職を占めていた。日本側のアジア大陸侵入が続くにつれて、権益に影響を受けた他の諸国、特に合衆国からの抗議はだんだん増加し、かれはこれを処理しなければならなかった。日本側が大陸における主権を奪い、九国条約の『門戸開放』の規定を至る所で破ったことは是正されなかったが、かれは西洋諸国の信用をある程度まで保持することに努めた。今では、陸軍が優勢な時代になり、他の閣僚が職を投げ出したというときに、広田は日本の総理大臣になった。1935年12月に、ロンドン海軍会議から引き揚げた日本の代表の主席であった永野が、かれの海軍大臣になった。1935年8月1日まで北支派遣軍を指揮した梅津中将が、陸軍次官になった。嶋田海軍中将は、軍令部次長として留任した。有田は広田にかわって外務大臣となり、1926年10月から枢密院副議長であった平沼男(英文ではBaron HIRANUMA。「男」とあるのは「男爵」の略である)が、同院議長の職に就いた。

 東亜に新秩序を立てるという陸軍の企図は、この内閣のもとで、日本政府の確定政策となった。

陸海軍大臣は現役将官から選ぶことを

規定した勅令

 新内閣が成立してから2ヵ月の後に、代々の政府に対する陸軍の勢力をさらに強固にした一つの処置がとられた。1936年5月18日に、海軍大臣と陸軍大臣は、中将またはそれ以上の階級をもった現役将官でなければならないという古い規則を復活する勅令を、新政府は公布したのである。このことは、間もなくいろいろな事件で証明された通り、岡田を辞職させた威嚇の方法を用いなくても、内閣を成立させたり倒したりすることのできる一つの武器を、軍当局の手に与えるものであった。


日本の国策の基準は1936年8月11日に決定された

 1936年8月11日に、総理大臣広田、外務大臣有田、陸軍大臣寺内、海軍大臣永野及び大蔵大臣馬場が出席した五相会議で、日本の国策の根本が決定された。この決議には、諸外国に対する日本の対外関係においても、戦争のための国内準備の完成においても、日本の指針となる諸原則がきわめて明瞭に述べられた。われわれはまずこの決議そのものの内容を検討し、それからこれを採用するに至った経緯を検討することにしよう。


決定された諸原則

 国策の基本原則は、日本を内外両方面で強固にし、日本帝国が『名実ともに東亜の安定勢力となりて東洋の平和を確保し、世界人類の安寧福祉に貢献』するというにあった。その次の一句は、企図されていた発展の性質について、疑念の余地を残さないものであった。国策の確立とは、『外交国防相俟って東亜大陸における(日本)帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展する』ようにすることであった。

 この決定の第二部は、この政策から生じる事態と、この事態に対応する処置とを検討することにあてられていた。

 まず第一に、この政策は東洋に権益をもっている他の諸国との間に、必ず紛議をかもすであろうということが認識された。従って、日本は『列強の覇道政策を排除し』、『共存共栄主義』に立脚した自国の政策をとるということになっていた。この方針は、一年の後に、重要産業5ヵ年計画の中で、さらに具体的に定義された。この計画では、国防上必要な産業は、『適地適業主義に則り』、つとめて大陸に進出させ、日本は『最も必要と認める資源を選び、巧みに北支の経済開発に先鞭を着け、その天然資源を確保するに務めること』とされていた。このような政策は、1922年の九国条約の規定に公然と違反するものであった。

 1936年8月に設けられた第二の原則は、第一のものに暗示されていた。『我が帝国の安泰を期し、その発展を擁護し、もって名実ともに東亜の安定勢力たるべき地位を確保するに要する国防軍備を充実す』というのである。この言葉も、1937年の陸軍の計画の中で、具体的な定義を受けることになった。

 第三の原則は、最初の二つの原則の実際の施策に対する関係を明らかにしている。日本は『満州国の健全なる発達並びに日満国防の安固を期せんがため、北方蘇国(ソ連のこと)の脅威を除去するに邁進すべきものとす』というのである。日本は『又英米に備え日満支三国の緊密なる提携を具現して我が経済的発展を策するものとす』というのであった。しかし、この目的を遂行するにあたって、日本は『列国との友好関係に常に留意するものとす』とされていた。

 これと同じ用心が第四の、つまり最後の原則に見られる。『南方海洋、殊に外南洋方面に対し、我が社会的、経済的発展を策し、努めて他国に対する刺激を避けつつ、漸進的平和手段による我が勢力の進出を計り、もって満州国の完成と相俟って国力の充実強化を期す』というのである。


1936年の決定によって要求された

戦争準備の措置

 1936年の国策決定の最後の部分には、軍部と外交機関との均衡が規定されていた。国防軍備は充実されることになっていた、兵力の程度は『蘇国の極東に使用し得る兵力に対抗する』ために必要なものとし、また日本が『蘇国に開戦初頭一撃を加え』得るように、在満鮮兵力を充実することに特に注意を払うことになっていた。海軍軍備は、合衆国海軍に対して、西太平洋の制海権を確保することができる程度に強化されることになっていた。

 日本の外交政策は、『根本国策の円満なる遂行に』あるとされていた。そして、軍当局は、外交機関の活動を有利に円満に進ませるように、これを援助する義務を与えられた。

 最後に、国内政策は根本国策に基づいて決定されることになっていた。国内世論を指導し、統一し、非常時局を切り抜けることについて、国民の覚悟を固めるための措置がとられることになっていた。国民生活の安定、国民体力の増強、『国民思想の健全化』について措置がとられることになっていた。日本の外交は刷新され、その対外情報宣伝組織が完備されることになっていた。航空輸送と海上輸送を飛躍的に発展させることになっていた。国策の遂行に必要な貿易と産業を振興し、促進するために、行政と経済の機関が創設されることになっていた。重要な資源と原料の自給自足計画の確立が促進されることになっていた。


1936年の国策決定に

表明された目標の意義

 五相会議が1936年8月11日に採択した国策の基準を述べたものは、東亜の支配権を握るばかりでなく、南方に勢力を拡げようとする日本の決意を表明していた。この南方への進出は、できれば平和のうちに成し遂げられることになっていたが、外交上の勝利を確保するためには、武力による威嚇も用いることになっていた。日本の大陸に対する計画は、ソビエット連邦との衝突をもたらすことがほとんど確実であり、また東洋に権益をもつ他の諸国との紛争も必然的に引き起こすであろうということが認識されていた。この列強のうちには、1922年の九国条約締約国のすべてを、わけてもイギリスと合衆国とを挙げなければならない。日本が『現存する列強の覇道政策』を自国の『共存共栄』主義に代えるという決意は、明らかに、九国条約の締約国としての日本の義務に違反して、満州と中国の他の地域とにおける経済と産業の強奪を、日本の指導者が決意していたということを意味したにすぎない。

 この国策は、戦争のための広汎な動員計画で支持されることによって、初めて成功し得るものであることが率直に認められた。海軍拡張の目標は、合衆国海軍に対抗して、日本が西太平洋の制海権を確保することができる程度の大きい兵力とすること、陸軍拡張の目標は、ソビエット連邦がその東部国境に展開することのできる最も強大な兵力に対して、圧倒的な一撃を加えることができる程度の強い軍隊をつくることでなければならないことに意見が一致した。これらの目標は、産業開発と自給自足のための広汎な計画の樹立を必要とすること、日本国民の生活は、すべての面で、来るべき国家的非常時において、かれらの演ずる役割に完全に備えさせるように、指導と統制を行なわなければならないことが認められた。

国策決定の起源

 日本の戦争準備の全体制の礎石となったこの根本的な国策の決定は、広田内閣が全体としてこれを発意したものではなく、陸海軍省で発意されたものである。1936年6月30日に、陸軍大臣寺内と海軍大臣永野は、会議を開いて一つの草案に同意した。この草案は、あらゆる重要な点で、1936年8月11日の五相会議で最後的に採択された要綱と一致していた。強調された点において、多少の相違があった。そして、これらの場合には、両軍部大臣のいっそう露骨な用語の方が、政策の立案者の意図を、いっそうはっきりと表していた。最後の草案では、アジアにおける強固な地歩の確保と南洋の開発とについて、曖昧に述べているが、そこを両軍部大臣は断定的に述べ、日本の指導原理は、一貫した海外発展策を遂行することによって、『皇道』の精神を実現することでなければならないといっている。

 同じ日に、すなわち1936年6月30日に、寺内と永野は、五相会議の同僚であった広田、有田及び馬場に対して、かれらの計画を提示した。大蔵大臣馬場は、列強の覇道政策をアジア大陸から駆逐しなければならないことに同意したが、日本自身としては、軍国主義的専制を行なわないことが肝要であると述べるのを適当と考えた。外務大臣有田は、当時の国際情勢では、イギリスと合衆国の好意を維持する必要があると強調した。しかし、それ以外の点では、草案にある意見は、日本の外交政策に関するかれの考えに一致するものであるとし、これに少しも反対しなかった。総理大臣広田は、提案に少しも欠点を見出せないと言った。そして、会議は具体案の立案を陸海軍に一任して閉会した。

 1936年8月7日に、五大臣は再び会議を開いて、その計画を最終的な形で承認した。その4日後に、すなわち1936年8月11日に、これらの決定は、関係五大臣がそれぞれ署名した公式文書の中にくり返して表明された。


防共協定

 1936年の6月と8月の五相会議より数ヵ月前に、広田の政府は、もう一つの陸軍の重大な計画を採択したということをここで記しておこう。1935年10月に、ベルリン大使館付の陸軍武官大島は、参謀本部の承認を得て、日独同盟のための非公式な会談を開始した。1936年の春、広田が総理大臣に就任した後に、武者小路大使はベルリンに帰り、その後はかれ自身その交渉にあたった。フォン・リッベントロップと武者小路との間の長期にわたった会談の後に、1936年10月23日、防共協定についてベルリンで話し合いが始まった。1936年11月25日に、この協定は日本の枢密院によって批准された。


広田のもとにおける経済上と産業上の戦争準備

 国策の基準が再び確定される前と後に広田内閣がとった処置は、その決定に示された原則に緊密に即応していた。満州と華北に対する日本の支配力を強固にすることは、大いに進捗した。関東軍は満州自体で支配力を揮っていたが、日本内地の政府当局は、名目上独立した衛星国を建設し、その国策を日本が左右し、その天然資源を日本が自由に開発することができることをはかっていた。1936年6月10日に調印された日満協定は、この目的が実際上達成されたことを示した。

 2日の後に、合衆国の国務長官コーデル・ハルは、日本外務省の代表者に対して、第一に東亜の、次いで日本が適当と認める他の地域の、絶対的な経済的制覇を日本は求めているという印象がつくり出されていると知らせた。これは、終局においては、政治的と軍事的の支配をも意味するものであるとハルは述べた。

 1936年8月11日に、日本の国策の基本を決定したその同じ会議で、『第二次北支処理要綱』も承認された。その主要な目的は、防共親日満の地帯を建設し、そこで日本が戦争準備計画に必要な資源を獲得し、かつ、ソビエット連邦との戦争に備えて、その交通施設を改善することであった。

 大陸で陸軍が新しい資源と産業拡充の新しい進路とを確保しつつあった間に、日本では新しい戦争経済を発展させる処置が講じられつつあった。1936年2月の陸軍の叛乱中に、大蔵大臣高橋が暗殺され、それに続いて広田内閣が組織されたことは、日本政府の財政政策上の一転換期を画したものである。政治的目的のために、経済の国家統制を強調する一連の財政的措置に、日本はいまや着手したのである。この新しい政策は、産業拡充の全面的計画に適合するように計画されていた。このときから、莫大な歳出予算に応ずるために、政府の国債発行高は絶えず増加し、健全財政の原則はほとんど考慮されなかった。1937年の1月に、外国為替を必要とする取引は、政府の許可を受けなければならなくなり、在外資産からの支払いは、実際上戦争産業に必要な物資の購入に限定された。

 1936年5月29日に、『国防と国産工業を整えるために』、自動車生産工業を確立するという明確な目的で、法律が制定された。それまでは、自動車工業は事実上存在していなかったばかりでなく、経済上健全な企業ではなかった。それであるのに、この工業の発達は、政府の厳重な統制のもとに、今や国家の助成金や大幅な免税の恩典によって、奨励されることになった。

 日本の商船隊も、政府の補助金によって、急速に増加されつつあった。広田の在任中に、第三次の『解体、建造』計画が開始された。前年度の計画と合わせて、この計画は総トン数、10万トンを新造した。それによって、1936年末には、日本はその所有総トン数に比して、世界の諸国中で、最も近代的な商船隊を所有するに至った。

戦時における世論統制の計画

 1936年5月20日に、陸軍省は戦争の開始前とその初期の情報と宣伝の活動に関する総動員計画の一部を作成した。この計画は、もし戦争がさし迫った場合には、政府の啓蒙宣伝方針を実施するために、情報局を設置することを規定した。その活動範囲と運営方法は、詳細にわたって規定されていた。その任務は、公衆に対するあらゆる種類の通信を指導し、統制すること、政府によって承認された方針を促進するために、あらゆる言論機関を利用することであった。


海軍の諸準備

 広田が総理大臣であったときに、戦争準備のための国家総動員を促進させるについて、海軍は陸軍に劣らず積極的であった。陸海軍両大臣は、国策の基準を記述したものをつくり、これを五相会議で支持するについて、協力して行動した。五相会議で国策を新たに述べることを主唱したのは、実に当時の海軍大臣永野大将であった。そして、かれの語ったところから推測すれば、1936年8月11日に最後的に採用された具体案は、海軍省で起草されたものと思われる。

 この年は、日本海軍が海軍軍備を制限する一切の義務を免れた年であった。というのは、ワシントン条約は1936年12月31日に期限が満了したからである。

 日本の従来の対外発展計画については、日本海軍は直接の関心をほとんどもっていなかった。ここに初めて、合衆国艦隊に対抗して、、日本海軍は西太平洋の制海権を確保するという大役を振り当てられた。このようにして、日本が決定した海軍軍備拡張の政策は、1930年以来、ますます大きな支持を受けた。それであるから、ここで、国際協定によって海軍軍備を制限する方式を、日本が廃棄した手段を回顧することは、戦争の準備の問題にとって所を得たものである。


海軍軍縮諸条約に基づく日本の権利義務

 合衆国、イギリス、日本、フランス及びイタリアは、1922年2月6日に、ワシントンで調印された海軍軍備制限に関する条約の締約国であった。この条約の第4条と第7条には、それぞれ各締約国が保有することのできる主力艦と航空母艦の合計トン数が規定されていたが、この制限は、関係各国の防御上の必要に基づいていた。右の両艦種について、日本が許された最大保有量はアメリカまたはイギリスに対して6割であった。右の両艦種とその他の艦艇に搭載して差し支えない砲の口径にも、制限が加えられた。すなわち、主力艦の場合は16インチ、航空母艦の場合は8インチであった。この条約は1936年12月31日になって満了すること、また、締約国のうちの一国がこの条約を廃棄するという意思を通告してから2年を経過するまで、引き続いてその効力を有することになっていた。このような通告があってから1年以内に、すべての締約国は会議を開くことになっていた。

 合衆国、イギリス及び日本は、インドとイギリス帝国自治領とともに、1930年4月22日にロンドンで調印された海軍軍備制限及び縮小に関する条約の締約国でもあった。この条約は、ワシントン条約を廃棄したものではなく、ワシントン条約のわくのうちで、それ以上の縮小と制限を規定したものであった。航空母艦及び潜水艦の最大排水量とこれに搭載される砲との制限について、規定が設けられた。主力艦及び航空母艦以外で、各締約国の保有することのできる水上艦船の合計トン数を示す詳細な表も定められた。日本が保有し得る限度は、アメリカやイギリスに許されたものの約7割であった。第3の重要な規定は、各軍艦の起工と竣工ごとに、これに関する一定の情報を、各締約国は他の各締約国に通告しなければならないことであった。その上に、協定は一定の主力艦の廃棄にも及んでいた。この規定は、明らかに日本に有利なものであった。航空母艦に関する規定は、ワシントン条約と同じ期間効力をもつことになっていた。しかし、その他の諸点では、この条約は、1936年12月31日に確定的に満了することになっていた。締約国の間で、1935年中に再び会議を開くことになっていた。

 ロンドン条約が日本に与えた利益を評価するには、1930年中海軍大臣であった財部の見解に重きを置かなければならない。財部の言うところによれば、日本海軍は仮想敵国の維持する海軍力の7割を保有することがぜひとも必要であると考えられていたので、主力艦の保有量に関して、日本はワシントン会議でこの比率を維持しようとした。この目的は最後に断念され、日本は6割の比率に同意した。しかし、日本は他の2つの主要な目的を達することができた。すなわち、8インチ砲搭載巡洋艦7割と、潜水艦の現有勢力の保有とであった。ロンドン会議では、第3の主要な目的を、すなわち総括トン数で7割を達しようとして、あらゆる努力をし、遂に成功した。

 ロンドン条約の規定に基づいて、8インチ砲搭載の巡洋艦については、日本の保有量は合衆国に比べて7割から6割に低下したことは事実であるが、それほど強力でない艦船について、日本の保有量の比率が増加されたことによって、それは償われた。この条約は何といっても合衆国との友好関係を念としたものであり、日本は合衆国との軍備競争によって苦境に陥る可能性を免れたと財部は言った。総理大臣濱口も、これと同じ気持ちを表し、この条約のある部分はまったく満足なものとはいえないことを認めながら、いずれにしても、1936年以後になれば、日本は自由に艦船を建造することができるということを指摘した。

 総理大臣濱口、海軍大臣財部及び濱口内閣はこの条約を支持したけれども、その批准を見るまでには、相当な反対があった。1930年8月18日から9月26日までの間に、枢密院の審査委員会が13回にわたって開かれ、そのたびに激論が闘わされた。内閣と枢密院との間の意見の対立は、公然と現れてきた。かつ、永野が次長であった海軍軍令部と内閣との間にも、意見の対立があった。濱口は、海軍首脳部の進言を無視したと責められたときに、穏やかに、軍部の見解には考慮を払ったが、条約締結に関する事項は、内閣が決定しなければならないと答えた。討議が進むにつれて、世界各国との友好関係を信頼している者と、中国と日本との間の問題に干渉する合衆国またはその他の諸国に対抗するにあたって、衝突の現場で日本が優越した力をもつために、充分な軍備を有すべきだと主張する者との間に、はっきり対立のあることがわかってきた。後者の見解は、日本の兵制は日本の特色であること、合衆国は中国と蒙古から日本の勢力を駆逐しようとするであろうということ、それであるから、兵力を整備しなければならないということを述べたある顧問官によって、よく言い表されている。日本が世界で占めている重要な地位は、まったく日本の兵力の賜ものであると言った顧問官が2人あった。

 1930年10月1日に、ロンドン条約は枢密院によって批准された。そのときに濱口と財部は、前記のかれらの見解を表明した。一般の大きな関心と憶測と不安とが引き起こされた。平沼は枢密院副議長として、どの会議にも出席していた。

海軍条約に対する反対の増大した時代

 1930年にロンドン条約の批准に反対した少数派は、時が経つにつれて、多数派となった。そして、斎藤と岡田の両『海軍』内閣時代には、条約上の制限に対する反対が力を得てきた。

 1933年9月15日、斎藤が総理大臣であったときに、グルー大使はワシントンに対して、ロンドン条約によって課せられた制限に対する反対が増大しつつあることを報告した。グルー大使は、ロンドン条約の批准以来、特に過去12ヵ月の間に、日本の海軍首脳部は、1935年に開かれることになっている会議で、日本は対等を、さもなければ、少なくとも相対的トン数の大幅な増加を要求しなければならないと主張していると述べた。ロンドン条約に関係のあるあらゆることに対して、かれらは忿懣と軽蔑の感情をかもし出した。濱口と犬養が暗殺されたり、他の政治家が脅迫されたりした原因の一部は、かれらがロンドン条約を支持したことにあった。財部を初めとして、その他の海軍高級将校が退役したのは、かれらがこの条約を支持したためであると言われていた。

 グルーは、現在の日本の世論はどのような形式の軍備制限にも甚だしく反対していること、条約の限度まで建艦するという合衆国の新しい政策は、すでに興奮している感情にますます油を注ぐことになったことを強調した。日本の海軍首脳部は、今では、不相応に貧弱な資力で建艦競争を始めるか、かれら自身がかもし出した世論にあえて逆らうかという板挟みに陥った。

 このときに、斎藤内閣は18ヵ月在任していた。この内閣でも、前内閣でも陸軍大臣であった荒木は、この問題を慎重に取り扱い、ワシントン条約とロンドン条約は、国費を節約し、再軍備の競争と新兵器の発達を阻止したことを認めた。しかし、日本がこれらの条約の規定は時代後れのものと考えていること、次の会議で比率の修正を要求するであろうということをかれは明らかにした。

 グルーの報告が書かれた前日に、広田は日本の外務大臣と軍事参議官になった。《英語原文をそのまま》(←この部分は『「軍事参議官になった」というのは事実と異なるが、英文がそうなっていいるので、そのまま訳す』という意味と思われる。軍事参議官は陸海軍大臣等が就任した職種のようで、外務大臣が就任することはなさそうである)それからちょうど1年余り経って、1934年9月17日に、広田はグルーに対して、日本はワシントン条約の廃棄を1934年12月31日以前に通告することに確定したと知らせた。その間に、天羽声明が発表され、斎藤内閣は辞職し、岡田内閣がこれに代わった。


1934年の共通最大限主義

 1930年のロンドン条約は、新条約を作成するために、1935年に各締約国が会合することを規定していた。1933年の7月か、あるいは8月に、斎藤内閣時代の海軍軍令部次長であった海軍中将高橋は、率直に『われわれは対等要求の貫徹の覚悟をもって会議に臨むつもりである。われわれの要求が容れられないときは、引き揚げてくる』と言った。

 1934年10月に、予備交渉のために、日本代表がイギリス及びアメリカの代表とロンドンで会合したとき、日本代表のとった立場がこれであった。日本代表は、平等の安全をもたらすためには、共通最大限を設け、その範囲内で、各国とも建艦して差し支えないが、どの一国でも、これを超過してはならないことにするほかないと確信すると言った。かれらは協定によってこの共通最大限をできるだけ低く定めることを望んだ。特に航空母艦、主力艦及び8インチ砲巡洋艦を全廃するか、さもなければ、その保有量を最小限度に制限することをかれらは望んだ。これらの艦種は、その固有の性質上、攻撃的であるとかれらは見ていた。他方で潜水艦は比較的耐波性がなく、かつ他の艦種に比べて航続力が小さいので、本質的には防御的兵器であると見ていた。もし潜水艦を商船攻撃に使用することを禁ずるロンドン条約の規定が一般的にされたならば、潜水艦の攻撃的性質は消滅するであろうとかれらは考えた。

 この提案は、合衆国の海軍力に比して、日本のそれを増強するように計画されたものであった。1933年に、合衆国は新しい海軍政策を実施し、ワシントン条約とロンドン条約で規定された制限を目標として建艦するが、それでも、この制限よりも相当低い程度に止めることにした。比較的低い共通最大限度まで一般的縮減を行なおうという提案によれば、定められた限度よりも大きい海軍を有する主要な海軍国は、多くの艦船を廃棄するか、沈没させなければならないことになったであろう。それであるから、日本案の実際的な効果は、結局においてアメリカ艦隊の一部分とその新しい建艦計画の成果を全部犠牲にすることになり、しかも日本側では、これに相当する犠牲を全然払わなくてもよいということになったであろう。

 また、すでに述べたように、ロンドン条約の規定に基づいて、日本は8インチ巡洋艦の相当量をやや犠牲にした代わりに、総括トン数で比率を増加する主張を貫徹していた。ワシントン条約の規定はまだ有効で、日本の主力艦と航空母艦の相対的保有量を低い水準に限定していた。従って、日本が全廃を勧告したいと思っていた三艦種は、日本が相対的に最も劣勢な艦種であった。

 最後に、1930年以来、潜水艦の役割について、日本がその見解を変えたことは明白であった。条約の批准に激しく反対したある枢密顧問官は、その反対に際して、合衆国が一番恐れているのは潜水艦であるから、日本が潜水艦を保有する限り、合衆国は決して恐れるに足りないと言った。海軍大臣財部は、日本政府が潜水艦の現有勢力を保有することに成功したことを特に指摘した。これは日本の海軍政策の三大原則の一つとなっていた。

 1934年10月、ロンドンで会談が行なわれているときに、日本政府は世論の指導に関する公式の声明を発表した。これには、日本が国際連盟で経験したところから見て、公正な主張がいつでも国際会議で認められるとは限らないことがわかると述べてあった。日本の海軍力の維持は東亜の平和の基礎であるから、海軍の消長は日本の国運の将来を左右する。それであるから、日本国民は外国の宣伝の術策に乗せられないようにしなければならない。たとい日本の主張が容れられず、協定が不成立に終わる場合にも、これは必ずしも建艦競争が始まることを意味するものでなく、また万一このような競争が始まったとしても、当局は自主的方法によって日本の地位を維持することができることを確信すると述べた。

 予備会談は、何の協定にも達しないで、1934年12月19日に終わった。その同じ日に、日本の枢密院は、ワシントン条約を廃棄する日本政府の決定を満場一致で可決し、1934年12月29日に、合衆国に対して日本の意思を通達した。これに先立って、日本は一方的行為に伴う困惑を避けるために、イギリスに対して、同一の行動に出るように説得しようと試みたが、不成功に終わった。


Copyright (C)masaki nakamura All Rights Reserved.