歴史の部屋

捕虜飛行士の殺害 (原資料185枚目)

 日本の指導者は、日本の諸都市に対して航空戦が行なわれる可能性をおそれた。1929年のジュネーヴの俘虜の取扱いに関する条約の批准に反対するにあたって、日本の軍部によって挙げられた理由の一つは、次の通りであった。この条約の批准によって、搭乗員はその使命を完了してから、日本領土上に着陸することができ、かつ捕虜として取り扱われるであろうということを知っていて安心できるので、日本を空襲する敵の飛行機の航続距離が、2倍になるであろうということであった。

 日本が空襲されるであろうという恐怖は、1942年4月18日に、ドゥーリットル大佐の指揮するアメリカの飛行機が、東京とその他の日本の都市を爆撃したときに現実となった。これが日本が空爆を受けた最初であり、東条の言葉によれば、日本人にとって一つの『衝動』であった。日本の参謀総長杉山は、日本を爆撃したすべての飛行士に対して、死刑を要求した。この空襲以前には、死刑を科することのできる日本政府の法律または規則が存在していなかったけれども、ドゥーリットル飛行士に死刑を科することができるように、空襲の当時にまで遡って効力をもつ規則を発布するように、総理大臣東条は命令した。将来の空襲を阻止する手段として、東条はこの処置をとったことを後に認めた。

 1942年8月13日付のこれらの規則は、日本、満州国または日本の作戦区域を『空襲し、支那派遣軍の権内に入りたる敵航空機搭乗員』に適用された。このようにして、これらの規則は直接的に、かつ遡及的に、中国においてすでに日本側の手中にあった合衆国の航空機搭乗員を目標としたものであった。

 犯罪となる空襲は、次のようなものであった。

 (1)普通人民に対するもの。

 (2)軍事的性質を有しない私有財産に対するもの。

 (3)軍事的目標以外に対するもの。

 (4)『戦時国際法の違反。』

 規定された刑罰は、死刑または10年もしくはそれ以上の禁錮であった。

 右の犯罪の1、2及び3に定められた行為は、日本人自身が中国で普通に行なっていたようなものであった。1939年7月に、中支那派遣軍参謀長は、陸軍大臣板垣に対して、中国人を恐怖させるために、無差別爆撃の方針を採用していると報告したことが思い出されるであろう。第4の戦時国際法の違反は、このような規則を必要とするものではなかった。その違背は、どんな場合でも、罰することができた。しかし、もちろん、それは適当な裁判を行なった後のことであり、国際法によって許された刑罰の範囲内でのことであった。

 中国に不時着したドゥーリットル飛行隊のうちの2機の搭乗員は、畑の指揮する日本の占領軍によって、捕虜にされた。その搭乗員であった8人の飛行士は、普通の犯罪者として取り扱われ、手錠をはめられ、また縛られた。1機の搭乗員は、上海に連れて行かれ、他の1機の搭乗員は、南京に連れて行かれ、それぞれその場所で拷問にかけられながら訊問された。1942年4月25日に、これらの搭乗員は東京に連れて行かれ、東京の憲兵隊本部の中にはいるまで目隠しされ、手錠をはめられたままであった。それから、かれらは独房に入れられた。そして、そこから連れ出されて、18日の間、再び拷問にかけられながら訊問された。この期間の終わりには、飛行士たちはそれ以上の拷問を避けるために、自分ではその内容のわからない日本語で書かれた陳述書に署名した。

 飛行士たちは1942年6月17日に上海に帰されたが、そこで投獄され、食物を与えられず、またほかの方法で虐待された。1942年7月28日に、陸軍次官木村は、当時中国における全日本軍の最高指揮官であった畑に対して、東条の命令を伝達した。東条の命令は、飛行士たちを新しい規則に基づいて罰しなければならないという趣旨のものであった。参謀総長の命令に従って、畑はこれらの飛行士を裁判に付することを命じた。この『裁判』では、飛行士の一部は健康を害したために審理に参加することができず、訴追事項は翻訳されず、かれらは自分自身を弁護する機会を与えられなかった。裁判は単なる真似事にすぎなかった。この裁判は1942年8月20日に行なわれ、飛行士のすべては死刑の宣告を受けた。東京における再審において、また東条の勧告に基づいて、宣告のうちの5つは終身禁固に減じられ、残りの3つの死刑宣告は承認された。1942年10月10日に畑は刑の執行を命じ、かれの処置を参謀総長に報告した。死刑の宣告は命令通り実行された。

 このようにして、日本側の手に入った連合国飛行士を殺害する方針が始められた。これは日本内地ばかりでなく、太平洋戦争のそれ以後を通じて、占領地域でも行なわれた。普通のやり方は、捕虜飛行士を殺す前に食物を与えず、また拷問することであった。形ばかりの裁判でさえも、しばしば省かれた。かれらが殺される前に軍法会議が行なわれた場合でも、その軍法会議は、単なる形式であったようである。

 一つの例証として、1945年7月18日に、大阪において、この規則に違反したものとして訴追された2名のアメリカのB29の飛行士の事件を、われわれは挙げておく。裁判に先だって、かれらの事件の一将校によって調査された。この将校は、この任務を遂行するために任命されたものである。かれは死刑を勧告した。この勧告は、中部軍管区司令官と当時広島の第二総軍司令官であった畑とによって承認された。陸軍の諸指揮官の承認を得て、調査官の勧告は最後の裁決を得るために陸軍省に送られた。そして、その裁決が得られた。裁判にあたっては、調査官の報告及び勧告と、畑大将及びその他の承認とは、検事によって軍法会議で読み上げられ、検事はこれらの文書に基づいて死刑を求刑した。被告には2、3の型通りの質問がなされ、死刑が宣告された。かれらはその日に処刑された。

 1945年5月以前に、東海軍管区では、11人の連合国の飛行士が裁判を受けた。かれらの利益は保護されず、死刑の宣告を受け、処刑された。しかし、この手続きは、捕えられた連合国飛行士を殺すことを不必要に遅らせることになると憲兵司令官は考えた。その結果として、1945年6月に、かれは日本の各軍管区の憲兵隊司令官に書簡を送って、捕えられた連合国飛行士の処分の遅延について不服を述べ、かれらを即刻処断することは、軍法会議では不可能であることを述べ、軍管区における憲兵隊は、軍管区司令官の承認を経て、軍法会議を省くようにすることを勧告した。この書簡が届いてから、東海軍管区で、27名の連合国飛行士が裁判を受けないで殺された。畑が軍政権を行使していた中部軍管区では、軍法会議その他によって裁判されることなしに、43名の連合国飛行士が殺された。福岡では、1945年6月20日に、裁判を受けないで、8人を連合国飛行士が殺され、1945年8月12日には、さらに8人が同じ方法で殺され、それから3日後の1945年8月15日には、8人から成る3番目の一団が殺された。これによって、福岡では、この手続きを勧告した前述の書簡が、憲兵司令官によって東京から発送された後に、合計24人の連合国飛行士が、裁判を受けないで殺されたことになる。

 日本の東海、中部及び西部軍管区における連合国飛行士の殺害は、射撃隊によって行なわれた。東京を含む東部軍管区では、いっそう非人道的な方法が用いられた。この地区で捕えられた連合江飛行士は、かれらが規則を破ったかどうかを決定するためのいわゆる調査が終わるまで、憲兵隊司令部の留置場に拘禁された。この調査というのは、拷問を伴う訊問のことであった。それは犠牲者を強制して、かれが規則によって死刑に処せられることになるような事実を自白させようとして行なわれたものである。拷問、飢餓及び医療の不足の結果として、少なくとも17名の飛行士がこの留置場で死亡した。この拷問から生き残った者は、さらに恐ろしい死の犠牲になった。東京陸軍刑務所は、代々木陸軍練兵場の一端になった。この刑務所は、軍律違反者を収容するための兵舎であって、刑に服している日本兵が監禁されていた。刑務所の敷地は小さく、およそ高さ12フィートの煉瓦塀によって囲まれていた。刑務所の建物は木造で、必要な通路と中庭を除いて、煉瓦塀内の敷地の全部を占めるほどに密集して建てられていた。一棟の監房は、高さ7フィートの板塀によって隔離されていた。1945年4月25日に、5人の連合国飛行士がこの監房に入れられた。5月9日に、さらに29人が加わった。5月10日には、他の28人がそこに拘禁された。1945年5月25日の夜に、東京は激しい爆撃を受けた。その晩には、62人の連合国飛行士がこの監房に監禁されていた。刑務所内の他の建物には、464人の日本陸軍の囚徒が監禁されていた。刑務所の木造の建物とその周囲の非情の燃えやすい住宅に、焼夷弾が命中に、火事になった。刑務所は完全に焼失した。そして、火事の後に、62人の連合国飛行士がすべて死んでいたことが判明した。464人の日本人または監視のうちのだれ一人として、同様な運命に陥った者がないということは、意味深長なことである。連合国飛行士の運命が故意に計画されたものであるということは、証拠が示している。

 占領地区では、捕えられた飛行士を殺害する方法の一つは、刀で斬首することであって、これは日本の将校の手で行なわれた。捕えられた飛行士は、このような方法で、次の場所で殺された。マレーのシンガポール(1945年6月―7月)、ボルネオのサマリンダ(1945年1月)、スマトラのパレンバン(1942年3月)、ジャワのバタヴィア(1942年4月)、セレベスのメナド(1945年6月)、セレベスのトモホン(1944年9月)、セレベスのトリトリ(1944年10月)、セレベスのケンダリ(1944年11月)(1945年1月)(1945年2月)、タラウド諸島のベオ(1945年3月)、タラウド諸島のライニス(1945年1月)、セレベスのシンカン(1945年7月)、アンボン島のカララ(1944年8月)、ニューギニア(1944年10月)、ニューブリテンのトタビル(1944年11月)、ポートン島(1943年12月)、クェゼリン島(1942年10月)及びフィリッピンのセブ市(1945年3月)。

 連合国飛行士を殺害する他の一つの方法は、1944年12月に、中国の漢口で用いられた。その少し前に不時着して捕えられた3人のアメリカ飛行士は、町を行進させられ、民衆から嘲弄と殴打と拷問を受けた。かれらが殴打と拷問によって弱ったときに、ガソリンがふりかけられ、生きながら焼き殺された。この残虐行為に対する許可は、日本の第三十四軍司令官によって与えられた。

 日本人の残酷さは、ニューブリテン島のラバウルで捕えられた一人の連合軍飛行士の取り扱い方によって、さらに例証されている。動けば釣り針が肉の中に食いこむように、釣り針のついた綱でかれは縛られた。かれは遂に栄養不良と赤痢で死んだ。

虐殺 (原資料192枚目)

 捕虜、一般人抑留者、病人と負傷者、病院の患者と医務職員、一般住民の虐殺は、太平洋戦争中珍しくなかった。捕虜と一般人抑留者は、ある場合には、捕えられてから間もなく虐殺された。

 ボルネオのバリックパパンにおける虐殺は、次のような状況のもとで起こった。1942年1月20日に、日本側によって、2人のオランダの捕虜将校がバリックパパンに行き、最後通牒をオランダの指揮官に手交することを命じられた。この最後通牒は、バリックパパンを現状のままで明け渡すことを要求したものである。命令に従わなかった場合には、すべてのヨーロッパ人は殺されることになっていた。最後通牒は、日本の一少将と他の5人の日本将校の面前で、これをバリックパパンの司令官に手交することになっていたオランダ将校に対して読み上げられた。回答はバリックパパンの指揮官から日本側に送られた。バリックパパンの指揮官は、オランダ当局者から破壊に関して必要な命令を受けているので、破壊を実行しなければならないという趣旨のものであった。

 日本軍がバリックパパンに近づくと、油田に火がつけられた。80人から100人のバリックパパンの白人住民の虐殺の有様が、目撃者の宣誓口供書によって本裁判所に対して述べられた。これらの住民は、1942年2月24日に、残酷な方法で死刑に処せられた。後に述べてあるように、ある者が刀で腕や足を斬りとられて殺されてから、かれらは海の中に追いこまれ、それから射殺されたのである。

 これに関連して、本裁判において、1940年10月4日付の『対南方策試案』を含む『極秘』と記された外務省の文書が提出されたことに留意するのは興味のあることである。この案の中には、オランダ領東インドに関して次のように述べられている。

 『重要資源を破壊したる場合は、資源関係者全員及び政府当路者10名を責任者として厳罰に処す。』

 オランダ領東インドの油田を原状のままで手に入れることは、日本にとって、死活に関する重大事であった。石油問題は、南方に進出するにあたっての決定的な要素であり、日本政府は、戦争の場合に、油田に火がつけられはしないかと非常に憂慮していた。1941年3月29日に、松岡はこの憂慮をフォン・リッベントロップに対して表明し、次のように述べた。

 『もし何とかして避け得るならばオランダ領東インドには手を出したくない。何となれば日本軍が該地を攻撃する時は、油田地帯は放火せられるであろうから。その場合、1ヶ年ないし2ヶ年後になって、やっと操業を再開することができるであろう』と。

 このことにかんがみ、また日本政府がすべての有害な文書の破棄を公式に命令した事実を念頭に置けば、この外務省の草案は特別な意義をもつものである。前に外務省の高官であった山本は、この案はある下級事務官によってつくられたものにすぎないといったが、それにもかかわらず、『試案』の中で計画されていたことの大部分が、なにゆえ実際に起こったかという理由をきかれたときに、かれは冷然として、『これらの事務官は非常によい研究家であった』と答えた。

 これらの事実をすべて総合してみると、その結果として、1940年10月4日の草案の中で提案された計画は、政府の政策として受け入れられたという推論を正当とする。さらにブロラでも男子の虐殺が起こったが、それはジャワのチェップーにおける油田の破壊に関連していたようであるから、なおさらそうである。この地の女子は殺されなかったが、すべて指揮官の面前で何回となく強姦された。

 このような虐殺の例は、次の場所で起こった。中国の香港(1941年12月)、マレーのイポー(1941年12月)、マレーのペリットスロングとマウルの間(1942年1月)、マレーのパリットスロング(1942年1月)、マレーのカトンガ(1942年1月)、マレーのアレキサンダー病院(1942年1月)、マレーのシンガポール(1942年2月―3月)、マレーのバンジャン(1942年2月)、マレーのマウル(1942年2月)、タイのジャンポン・ジョブ(1941年12月)、ボルネオのロンナワ(1942年8月)、ボルネオのタラカン(1942年1月)、オランダ領東インドのバンカ島(1942年2月)、スマトラのコタラジャ(1942年3月)、ジャワのレンバン(REMBANG)(1942年3月)、ジャワのレンバン(LEMBANG)(1942年3月)、ジャワのスバン(1942年3月)、ジャワのチャタール・パス(1942年3月)、ジャワのバンドン(1942年3月)、モルッカ諸島のアンボン島のラハ(1942年2月)、オランダ領チモールのオカベチ(1942年2月)、オランダ領チモールのウサバ・ベサール(1942年4月)、ポルトガル領チモールのタツ・メタ(1942年2月)、イギリス領ニューギニアのミルン湾(1942年8月)、イギリス領ニューギニアのブナ(1942年8月)、ニューブリテンのトル(1942年2月)、タラワ島(1942年10月)、フィリッピンのオドネル兵営(1942年4月)、及びフィリッピン、マニラのサンタ・クルス(1942年4月)。仏印においても、自由フランスの諸組織に対する敵対行為の際に、同様な方法で、虐殺が行なわれた。捕虜と抑留された一般人は、次のような場所で虐殺された。ランソン(1945年3月)、ダン・ラップ(1945年3月)、タケック(1945年3月)、トン(1945年3月)、タン・キ(1945年3月)、ラウス(1945年3月)、ドン・ダン(1945年3月)、ハギャン(1945年3月)、トンキン(1945年3月)。

 ソビエット連邦の市民は、1945年8月9日に、満州のハイラルで虐殺された。これは関東軍司令官の要求によって行なわれた。殺人を行なった者は少しも犯罪に問われなかった。しかも、殺人の理由として挙げられたのは、日本軍に対して、かれらが諜報または妨害行為を行なうかもしれないというのであった。

 日本軍が領土を占領し、戦闘が終わったときに、一般住民を恐怖させ、かれらを日本の支配に服させるための一手段として、虐殺がほしいままに行なわれた。この種の虐殺は、次に挙げる場所の一般住民に対して行なわれた。ビルマのシャニワ(1945年)、ビルマのタラワデ(1945年5月)、ビルマのオングン(1945年5月)、ビルマのエバイン(1945年6月)、ビルマのカラゴン(1945年7月)、マンタナニ島(1944年2月)、スルッグ島(1943年10月)、ウダール島(1944年の初期)、ディナワン島(1944年7月)、ボルネオのポンティアナック(1943年10月―1944年6月)、ボルネオのシンカ・ワン(1944年8月)、ジャワのブイテンツォルグ(1943年)、ジャワ(『コー』事件)(1943年7月―1944年3月)、ポルトガル領チモールのラウテム(1943年1月)、モア島(1944年9月)、セマタ島(1944年9月)、ポルトガル領チモールのアイレウ(1942年9月)、ナウル島(1943年3月)、フィリッピンのホープヴェイル(1943年12月)、フィリッピンのアラミノス(1944年3月)、フィリッピンのサンカルロス(1943年2月)、フィリッピンのバリオ・アンガッド(1944年11月)、フィリッピンののパロ・ビーチ(1943年7月)、フィリッピンのティグブアン(1943年8月)、フィリッピンのカルバヨグ(1943年7月)、フィリッピンのラナオ―ピラヤン(1944年6月)、フィリッピンのボゴ(1944年10月)、フィリッピンのバリオ・ウマゴス(1944年10月)、フィリッピンのリパ飛行場(1944年)、フィリッピンのサンタ・カタリナ(1944年8月)、フィリッピンのピラールのシティオ・カヌグカイ(1944年12月)。捕虜と一般人抑留者または占領中に徴発された労働者の虐殺は、かれらが飢餓に陥るか、病気になるか、またはその他の原因で身体がきかなくなって、もう役に立たなくなったために、または、ほかの理由で日本占領軍の重荷になったために行なわれた。このような虐殺は、次の場所で行なわれた。シャムのチャイモガ作業所(1944年2月)、ビルマのシポー(1945年1月)、アンダマン諸島のポート・ブレアー(1945年8月)、スマトラのコタ・チャネ(1943年5月)、スマトラのシボルガ(1942年4月)、ジャワのジョンバン(1942年4月)、アンボン島のアンボイナ(1943年7月)、イギリス領ニューギニアのウイワク(1944年5月)、ニューギニアのアイタぺ(1943年10月)、ニューギニアのブット(1944年6月)、ニューブリテンのラバウル(1943年1月)、ブーゲンヴィル(1944年8月)、ウェーキ島(1943年10月)、泰緬鉄道建設工事の現場に沿った各作業所(1943年―1944年)。ある場合には規則に対する一般的な違反をやめさせるために行なわれた虐殺もあった。たとえば、密売買を防ぐために、海南島の作業所で行なわれたもの(1943年5月)、ラジオの非合法的な使用を防ぐために、仏印のサイゴンで行なわれたもの(1943年12月)、一般人が食物を与えたために、そして捕虜がこれを受け取ったために、アンボン島のアンボイナで一般人と捕虜が殺されたもの(1943年7月)。すでに述べたもののほかにも、虐殺や殺人が行なわれた。たとえば、アメリカ人の捕虜が斬首された新田丸船上の事件(1941年12月)、2人のアメリカ人捕虜の殺害を含むニューギニアの事件(1944年10月)。この後の場合には、責任者の日本将校は、『私は一名のアメリカ人の捕虜をもらって、これを殺すことができるかどうか尋ねた』といった。日本の第三十六師団長は、直ちにこの要請を許し、殺すために2名の捕虜を引き渡した。かれらは目隠しされ、縛られ、銃剣で背部を刺され、それからシャベルで首を斬られた。

 日本軍の撤退または連合軍の攻撃を予期して行なわれた虐殺もあった。このような状況のもとで、多数の捕虜が虐殺されたのは、連合軍によって解放されないようにするためであったらしいけれども、それは捕虜だけに限られていなかった。一般人抑留者と一般住民もこのような状況のもとで虐殺された。この種の虐殺は次の場所で起こった。中国のハイラル(1945年8月)、ニコバル諸島のマラッカ(1945年7月)、イギリス領ボルネオのサンダカン(1945年6月―7月)、イギリス領ボルネオのラナウ(1945年8月)、イギリス領ボルネオのクワラ・ベラット(1945年6月)、イギリス領ボルネオのミリ(1945年6月)、イギリス領ボルネオのラブアン(1945年6月)、ポルトガル領チモールのラエルッタ(1945年9月)、バラー島(1943年1月)、オセアン島(1943年9月)、フィリッピンのプエルト・プリンセッサ(1944年12月)、フィリッピンのイリサン地区(1945年4月)、フィリッピンのカランビヤ(1945年2月)、フィリッピンのパングフロ(1945年2月)、フィリッピンのタペル(1945年7月)、フィリッピンのバリオ・ディンウィディ(1945年8月)。この種の虐殺は、フィリッピンのバタンガス州で非常に数が多かった。わけても、次の場所で行なわれた。バリオ・サン・インドレス(1945年1月)、バウアン(1945年2月)、サント・トマス(1945年2月)、リッパ(1945年2月と3月)、タール(1945年2月)、タナウアン(1945年2月)、ロサリオ(1945年3月)。マニラが開放されるであろうということが明らかになると、この種の虐殺は、強姦と放火とともに、全市で行なわれた。

 海上における捕虜の虐殺については、われわれはまだ触れていない。これについては、後に論ずることになっている。また、『死の行進』中に起こった虐殺にも、まだ触れていない。これらについても、やはり後に述べることにする。すでに述べた虐殺は別として、多くの個人的な殺人が行なわれた。多くのものは、強姦、掠奪及び放火のようなほかの犯罪と関連して行なわれ、さらに他のものは、一見したところ、犯行者の残酷な本能を満たすよりほかに何の目的もなく行なわれた。
 虐殺のあるものについては、さらに叙述することが必要である。ジュネーヴ条約の標識を明らかにつけ、この条約と一般戦争法規とのもとに保護される資格をもった軍病院の患者と医務職員の虐殺については、特にそうである。香港における虐殺の際には、日本軍はセント・スティーヴンス・カレッヂにあった軍病院に入り、病人や負傷者を寝台の中で銃剣で刺し、勤務中の看護婦を強姦し、殺害した。マレーの西北ジョホールの戦い(1942年1月)の際には、病人と負傷者を運んでいる患者輸送車隊が日本兵によって捕えられた。その人員と負傷者は患者輸送車から降ろされ、射撃されたり、銃剣で刺されたり、油をかけられて生きながら焼かれたりして殺された。マレーのカトンガでは(1942年1月)、患者輸送車隊が日本の機銃手に射たれた。隊員と負傷者は輸送隊から引き出され、数珠つなぎにされ、背部から射たれた。マレーのシンガポールにあるアレキサンドラ病院は、1942年2月13日に日本軍に占領された。日本軍は病院の一階を通り過ぎ、その階にいた者を一人残らず銃剣で刺した。手術室では、一人の兵士がクロロホルムをかけられて、手術を受けている最中であったが、日本軍はそこにはいって、患者、外科医及び麻酔剤係りを銃剣で刺した。それから、かれらは二階と建物の他の部分に行き、患者と医務職員を連れだして、これを虐殺した。1942年3月に、日本軍がジャワのスバンにはいったときに、かれらは一人の看護婦とその受け持ち患者を軍病院から連れ出し、一般住民の婦人、子供と一緒に虐殺した。これらの虐殺は、軍病院、その職員及び患者に与えられるべき取り扱いに関する戦争法規を無視したもので、戦争法規に対する日本の兵士と将校の態度を例証するものである。

 これらの虐殺の大部分には、方法の類似しているところがある。犠牲者はまず縛られ、ついで銃撃されるか、銃剣で刺されるか、刀で首を斬られた。大概の倍には、犠牲者は銃撃され、ついで日本兵によって銃剣で刺された。これらの日本兵は、負傷者の間を回って、生き残った者を殺して歩いたのである。水の方に背を向けて、海岸か断崖の端に集められ、そこで殺された例も若干あった。

 ある場所では、さらに恐ろしい方法が用いられた。マニラ・ドイツ・クラブとフォート・サンチャゴでは、犠牲者は一つの建物の中に集められた。その建物に火がつけられ、逃れようと試みた者が火炎の中から現われると、銃撃されるか銃剣で刺された。

 1945年2月にマニラのドイツ・クラブで行なわれた残虐行為に関する証拠で、そのとき行なわれていた爆撃と砲撃から避難した者がクラブの中に待避していたことが明らかにされた。日本兵は可燃物の障害物でクラブを囲み、この障害物の上にガソリンをかけて放火した。そこで、燃え上がる障害物を突き抜けて、避難者は逃げようと試みるほかなかった。かれらの大部分は、待ちかまえていた日本の兵隊によって、銃剣で刺され、銃撃された。婦人のある者は強姦され、その幼児は腕に抱かれたまま銃剣で刺された。婦人を強姦した後に、日本軍はかれらの髪にガソリンをかけ、これに火をつけた。婦人のうちのある者は、日本の兵隊によって、乳首を斬りとられた。

 マニラのセント・ポール・カレッヂでは、次のようなやり方で虐殺が行なわれた。約250人の人々が建物の中に入れられ、扉と窓は堅く閉められ、閂をかけられた。このようにして、押しこめられている間に、吊り下げられた3つのシャンデリアは燈火管制用の紙で包まれ、紐または針金がこれらの包みの中から建物の外に引いてあるのが目についた。後になって、日本人はビスケットや飴や酒の類を持ちこみ、それらを部屋の中央に置き、そこに捕えられている者に対して、かれらのいる場所におれば安全であるといい、持ちこまれた飲食物は食べてもよいと告げた。そこで、かれらは置いてある食物の所へいった。すると、たちまち3つの爆発が起こった。蔽われたシャンデリアは、爆薬を仕かけられていた。多くの者は床に投げ出され、そこに恐怖が起こった。建物の外側にいた日本人は、建物の中に機関銃を射ちこみ始め、樹榴弾を投げた。爆発は窓と一部の壁を吹き飛ばした。逃げられる者は、そこから逃げようと努めた。かれらのうちの多くは、逃げようとしているときに殺された。

 フィリッピンのパラワン島のプエルト・プリンセサ湾の北方にある捕虜収容所において、アメリカ人捕虜の、特に残酷な、あらかじめ計画された虐殺が起こった。この収容所には、およそ150名の捕虜がいた。かれらを捕まえた者から、日本が戦争に勝ったならば、アメリカに帰されるであろうが、もし日本が敗けたならば、殺されるであろうとかれらは聞かされていた。虐殺の前に、アメリカの航空機によって、その島はある程度に空襲されていた。収容所の中には、浅い、軽い掩蓋をもった防空壕がいくつか掘ってあった。1944年12月14日の午後2時ごろに、捕虜たちはこれらの壕にはいるように命令された。小銃と機関銃で武装した日本の兵士が収容所の周囲に配置された。捕虜が全部壕にはいると、ガソリンがかれらの上にバケツでふりかけられ、次いで火のついた松明(タイマツ)が投げこまれた。やがて爆発が起こった。あまりにひどく火傷を負わなかった捕虜は、逃げようとしてもがいた。これらの者は、その目的で配置された小銃や機関銃の射撃によって殺された。或る場合には、かれらは銃剣で刺されて殺された。150人のうちで、わずか5名がこの恐ろしい経験から生き残った。生き残った者は、泳いで湾の中に出て、日暮れとともに、そこから密林の中に逃げこみ、遂にフィリッピンの遊撃隊に加わった。

 集団的に溺死させる手段は、アンダマン島のポート・ブレアー(1945年8月)で用いられた。そのときは、一般人抑留者は船に乗せられ、海に連れ出された上で、水の中に突き落とされた。漢口で用いられたのと同様な、溺死と射殺とを組み合わせた方法がコタ・ラジャ(1942年3月)で用いられた。そのときは、オランダの捕虜が帆船に分乗させられ、海上に曳航され、射撃され、そして海中に投げこまれた。ボルネオのタラカン(1942年1月)では、オランダの捕虜が日本の軽巡洋艦に乗せられ、これらの捕虜によって日本のある駆逐艦が射撃を受けた場所に連れて行かれ、首を斬られ、そして海に投げこまれた。

虐殺は命令によって行なわれた (原資料205枚目)

 証拠によれば、これらの虐殺の大部分は、将校によって命令され、ある場合には高級将官によって命ぜられ、多くの場合には、将校が実際にその遂行の際に監視、指揮または実際の殺害を行なったことが示されている。フィリッピン人を殺害するように指示を与えた日本側の命令書が押収された。1944年12月と1945年2月との間に、マニラ海軍防衛隊によって発せられた命令の綴り込みが押収された。それには、次の命令がはいっていた。『敵侵入せば、爆破焼却の機を誤らざるごとく注意せよ。比島人を殺すには極力一箇所にまとめ、爆薬と労力を省くごとく処分せよ。』日本兵の日記が押収されたが、それらは、日記の所有者たちが虐殺せよという命令を受け、その命令に従って、その通りにしたことを示している。押収された陸軍部隊の戦闘報告と憲兵の警察事務報告との中には、行なわれた虐殺に関して、使用した弾薬の数や殺害された犠牲者の数も記入して、上官にあてた報告がはいっていた。日本国内と占領地域の多数の収容所にいた捕虜は、日本人、台湾人、朝鮮人の守衛からして、もし連合軍がその土地に侵入したり、日本が戦いに敗れたりした場合には殺されると聞かされたと証言している。これらの脅迫が実行に移された例については、すでに言及した。少なくとも一つの収容所では、捕虜を殺すようにとの上司からの命令の証拠文書が発見された。台湾の一収容所で押収された日誌には、捕虜に対する『非常手段』に関して基隆要塞地区司令部の第十一憲兵部隊参謀長が照会したのに対して、回答が送られたことを示す記事がはいっていた。この『非常手段』を実行するに際してとるべき方法は、次のように、詳細に述べてあった。『各個撃破式によるか集団式によるか、何れにせよ大兵爆破、毒煙、毒物、溺殺、斬首等当時の状況により処断す。何れの場合にありても一兵も脱逸せしめず殲滅し、痕跡を留めざるを本旨とす。』この全員虐殺は、他のこととともに、『所内を脱逸し、敵戦力となる』すべての場合に行なうように命ぜられていた。

 全般的な命令は、1945年3月11日に、陸軍次官柴山によって発せられた。その命令は、次のように述べてあった。『時局いよいよ逼迫し、戦禍皇土満州等に波及せる際における俘虜の取り扱いは別紙要領により違算なきを期せられたく。』ここにのべられた別紙要領は、次の言葉で始まっていた。『方針。俘虜は極力敵手に委するを防止するものとす。これがためあらかじめ所要の俘虜につき、収容位置の移動を行なう。』このころに始まったボルネオのサンダカンとラナウの間の、ラナウ死の行進については、間もなく言及するが、これは右に引用した命令に指示された方針に従っている。

死の行進 (原資料207枚目)

 日本軍は、一地点から他の地点へ捕虜を移動するにあたって、戦争法規を守らなかった。捕虜は充分な食糧や水を与えられることもなく、また休息もなしに長途の行進を強制された。病人も負傷者も、健康な者と同様に行進させられた。このような行進から落伍した捕虜は、殴打され、虐待され、そして殺害された。多くのこのような行進について、証拠がわれわれに提出されている。

 バターンの行進は顕著な一例である。1942年4月9日、バターンでキング少将がその部隊を率いて降伏したときに、かれはかれの麾下の将兵が人道的な取り扱いを受けるであろうと、本間中将の参謀長から保証された。キング少将は、バターンから捕虜収容所へかれの部下を移動させるのに充分なトラックを破壊しないでおいた。バターンにおけるアメリカとフィリッピンの兵隊は、食糧の割り当てが定量以下であったので、病人や負傷者の数が多かった。しかし、キング少将がトラックを使用することも申し出たときに、それは拒否された。捕虜は暑熱の中を120キロメートル、すなわち75マイルもあるパンパンガのサン・フェルナンドへ通ずる街道を行進させられた。病人も負傷者も強制的に行進させられた。路傍に倒れて歩行できなくなった者は射たれ、または銃剣で刺された。他の者は列から引き出されて殴打され、虐待され、そして殺された。行進は9日の間続き、日本の監視兵は、アメリカのトラックで運ばれてきた新規の監視兵と5キロメートルごとに交代した。最初の5日の間は、捕虜はほとんど食糧や水を与えられなかった。その後は、手にはいる水はたまにあった掘り抜き井戸か、水牛用の水溜りの水だけであった。捕虜が水を飲もうとして井戸の周りに集まると、日本兵はそれに発砲した。捕虜を射ったり、銃剣で刺したりすることは普通のことであった。死骸は路傍に散乱していた。本間中将の文官顧問として、陸軍大臣東条によって1942年2月にフィリッピンへ派遣された村田は、この街道を自動車で走り、街道に非常に多くの死体を見たので、この有り様について本間中将に尋ねてみる気になった。『私はそれを見たのでただ質問したのでありまして、それを私はコムプレイン(complain)したのではありません』と村田は証言している。オドンネル収容所へ輸送されるために、捕虜はサン・フェルナンドで鉄道貨車に詰めこまれた。貨車の中は、ゆとりがなかったので立っていなければならなかった。疲労のためと換気が悪いためとで、多数の者が貨車の中で死んだ。バターンからオドンネル収容所へのこの移動において、何人死亡したかは明らかでない。証拠によれば、アメリカ人とフィリッピン人の捕虜の死亡数は、およそ八千人であったことが示されている。オドンネル収容所では、1942年4月から12月までに、二万七千五百人以上のアメリカ人とフィリッピン人が死亡したことが証拠によって示されている。

 東条は、この行進のことについて、1942年に多くの異なった筋から聞いたことを認めた。かれが受けた情報は、捕虜が暑熱のもとで長途の行進を強いられ、また多数の死亡者が出たということであったとかれは述べた。また、捕虜の不法な取り扱いに対する合衆国政府の抗議が受け取られ、死の行進があってから間もなく、陸軍省の各局長の隔週の会合で論議されたが、かれが問題を各局長の裁量に任せておいたことも、東条は認めた。フィリッピンにおける日本軍は、この事件について報告することを要求されなかったし、また1943年の初めに本間中将が日本に来たときには、この事件について話し合いもしなかったと東条は述べた。かれが1943年5月にフィリッピンを訪問したときに、初めてこの事件について尋ね、そのとき本間中将の参謀長と話し合ったが、参謀長は事件の詳細を報告したと東条は述べた。同様の残虐事件の再発を防止するために、かれが処置を講じなかったことについて、東条は次のように弁明した。『日本の建前では、現地派遣軍司令官はその与えられた任務の遂行に当たっては、いちいち東京からの命令を仰ぐことなく、相当な独断権をもってこれを遂行することになっています』と。このことは、日本の交戦方法では、このような残虐行為が起こることは予期され、または少なくとも許されていること、それらを防止することについて、政府は無関心であったことを意味するものにほかならない。

 このような残虐行為は、太平洋戦を通じて繰り返されたのであるが、それはバターンにおける本間中将の行為をとがめなかったことの結果であると解するのが適当である。

他の強行軍 (原資料210枚目)

 1942年2月に、オランダ領チモールで、港からクパン俘虜収容所への行進中に、負傷、飢餓、マラリア及び赤痢で苦しんでいた捕虜は、うしろ手に縛られて5日間歩かされ、家畜の群れのように、日本人と朝鮮人の監視員によって駆り立てられ、打ちなぐられた。1943年と1944年に、イギリス領ニューギニアのウェワク、ブット及びアイタぺの間で、インド人の捕虜たちがこれと同じような行進をさせられた。これらの行進中に、病気になり、主力から落伍した捕虜は射殺された。他のこれと同様な出来事についても証拠がある。以上述べたものは、ある場所から他の場所へ捕虜を移動するときに、苛酷な状態のもとで行ない、落伍した者はこれを殴打し、殺害することによって強行するという、日本の陸軍とその捕虜管理機関が用いたところの、当然と認められた普通のやり方を示すものである。

 ラナウ行進は、異なった種類に属する。これらの行進は、1945年の初期に始められた。そのころに、連合軍がクチンへ上陸する準備をしているということを、日本軍はおそれていた。これらの行進の目的は、捕虜が解放されることを防ぐために、かれらを移動することであった。ラナウ村はボルネオのサンダカンの西方百マイル余の密林の中で、キナバル山の東斜面にある。サンダカンからラナウへの小道は深い密林の中を通っており、狭くて車両を通すことができない。最初の三十マイルは沼沢地で、ひどいぬかるみである。次の四十マイルは高地で、小さな険しい丘の上を通っており、その次の二十マイルは一つの山の上を通っている。最後の二十六マイルは全部登り道の山道である。オーストラリア人の捕虜は、この密林の細道に沿って、次々と行進を続けて移動された。捕虜はサンダカンの収容所から出される前に、すでにマラリア、赤痢、脚気及び栄養不良で苦しんでいた。捕虜が行進に堪えられるかどうかを決定する試験は、殴打し、拷問にかけて立ち上がらせることであった。もし立ち上がれば、かれは行進に堪えるものと見なされた。捕虜は、自分のわずかばかりの食糧とともに、監視兵の食糧と弾薬をも携帯することを強制された。四十名からなる捕虜のある一団は、この行進中、3日間に6本の胡瓜をかれらの間で分け合って命を繋がなければならなかった。行進の列から落伍した者は射殺され、または銃剣で刺し殺された。行進は1945年4月の上旬まで続いた。その小道には、途中で死んだ者の死骸が散乱していた。サンダカンからこれらの行進を始めた捕虜の中で、ラナウに到達したのは、総数の3分の1以下であった。ラナウにようやく到達した者は、飢餓と拷問で死亡し、または病死し、または殺害された。サンダカンで捕虜であった二千余人の中で、生き残ったことがわかっているものは、わずか6人だけである。これらのものは、ラナウのキャンプから逃げたので、生き残ったのである。病気が重くて、サンダカンから行進を始めることのできなかった者は病死し、または監視兵によって殺害された。

泰緬鉄道 (原資料212枚目)

 一地域での長期間にわたる残虐行為の隠れもない実例は、泰緬鉄道敷設のために使われた捕虜と原地住民労働者の取り扱いに見られる。工事の前とその期間中に、ほとんど筆舌に尽くせない困難のもとで、この地域に向かう二百マイルの強行軍から始まって、捕虜は絶えず虐待、拷問及びあらゆる種類の欠乏に遇わされた。その結果として、十八ヵ月の中に、四万六千人の捕虜のうちで、一万六千人が死亡した。

 日本の大本営は、ビルマとインドにおける作戦計画を促進するために、1942年の初め、交通機関の問題を検討した。当時最も短距離で便利な交通線は、タイ国を通るものであった。ビルマのモルメインからの鉄道に、シャムのバンコックから走っている鉄道を結びつけることが決定された。連絡を要する距離は、ほぼ二百五十マイル(四百キロ)であった。こうして、ビルマにある日本軍との連絡を容易にすることになっていた。

 この目的のために、東条の勧めに基づいて、捕虜を使用することに決定し、当時マレーに駐屯していた南方軍に、1943年11月を完成の時期として、できる限り速やかに工事を進めるように命令が発せられた。これらの命令に従って、1942年8月以来、二団の捕虜がシンガポール地域から送られた。『A』隊と呼ばれた一団は海路によって、『F』隊と『H』隊とからなる二番目の一団は鉄道によって、バンポンに送られた。バンポンからは、予定された建設線に沿う各収容所に行軍させられた。

 『F』隊と『H』隊がシンガポールを出発する前に、捕虜の管理を担当していた日本陸軍の将官は、捕虜に対して、シンガポールの各収容所における食糧の不足と、非衛生的な状態とによって、非常に多くの捕虜が病気になり、栄養不良に苦しんでいるから、食糧事情のもっとよい山の中の、休養のための収容所に送られると告げた。それであるから、労働のための収容所へ送られる者の中に、病人も加えるように、右の将官は固執した。捕虜は鉄道貨車の中に詰めこまれ、横になるだけの余地がなく、あぐらをかいて座っていた。調理用具は代わりが支給されるから、捕虜はその調理用具を携帯する必要はないと聞かされていた。しかし、代わりの品は支給されなかった。その上に、捕虜に与えられた唯一の食物は、うすい野菜汁だけであり、鉄道旅行の最後の二十四時間は、全然食物も水も手にはいらなかった。

 四日四晩の後に、捕虜は列車から降ろされ、かれらの荷物も、かれらがどうにかして持ってきたわずかばかりの料理道具も、薬品と医療器具も引き渡すように要求された。それから、かれらは徒歩で二週間半の間に二百マイルの行軍をしなければならなかった。この行軍は、健康な兵士にも無理であったであろう。というのは、この道程は、山岳地方の密林の中の荒れた道を通っていたからである。この行軍は、雨季の雨と泥濘の中を、十五回の夜間行程でなし遂げられた。捕虜の衰弱した健康状態と、その上に病気のために歩けない約二千人の者を運ばなければならない必要とは、この行軍をほとんど人間として耐えることのできないものにした。病気になったり、あまり弱って歩けない者のうちのある者は、監視兵に殴打され、むりやりに歩かせられた。

 計画された鉄道線に沿って設けられた収容所は、人跡未踏の密林の中にあったが、屋根が全然なかった。衛生施設はほとんどなく、医療と薬品は与えられず、衣類は支給されず、食糧の割り当てはまったく不充分であった。他方で、捕虜に対する絶え間ない酷使と毎日の殴打は、増加するばかりであった死者と疾病者の数をさらにふやした。逃走しようとした者は殺された。『F』隊と『H』隊に続いて、シンガポールから他の捕虜部隊が送られ、同じ待遇を受けた。

 この建設工事に使われた捕虜の劣悪な状態について、東条は報告を受け、1943年5月に、俘虜情報局長官を調査のために派遣したと、東条は本裁判所で証言した。この調査の結果として、かれがとった処置は、捕虜を不公平に取り扱ったある中隊長を軍法会議にかけたことと、鉄道建設の司令官をその任から退かせたことだけであるとかれは認めている。しかし、他の証拠から、この指揮官は捕虜虐待のために退けられたのでないとわれわれは認定する。この計画を担当していた鉄道建設の最初の司令官は、連合軍の空襲で死んだ。この計画を担当した二番目の指揮官は、病弱のために任務を遂行することができず、また工事が大本営から見て充分な速さで捗っていなかったから、転任させられたのである。二度目の司令官の更迭を進言した視察官は、東条がいったように、俘虜情報局長官ではなく、参謀本部の交通通信を主管していた第三部長の若松であった。かれは参謀総長に対して、工事は充分な捗り方をしていないと報告し、マレーの鉄道部隊の司令官を建設工事の主任とすること、鉄道完成の予定期日を2ヵ月延長することをかれに許すべきことを進言した。

 この計画において、捕虜を管理していた者が戦争法規を一般的に無視したこと、かれらが捕虜を非人道的に取り扱っていたことから見ると、一中隊長を軍法会議にかけたということは、強制手段としてあまりに無意義な、不充分なものであって、かれらの行為をとがめないに等しいものであった。1943年において、政府と日本の大本営の主要な関心事の一つは、ビルマで進捗していた連合軍の前進を阻止するために使うのに間に合うように、この鉄道を完成しなければならないということであった。日本人と朝鮮人の監視員の手による不断の酷使、殴打、拷問及び殺害によって引き起こされた連合軍捕虜の病気、負傷及び死亡という犠牲に対して、捕虜が生活し、労働しなければならなかった不衛生な状態に対して、最小限度の生活必要品と医療すら、日本政府が与えなかったことに対して、なんらの関心も払われなかったようである。

 適当な住居がなく、病人の手当ても行き届かず、鉄道建設に関係して仕事をしていた捕虜に対する非人道的な取り扱いは、日本の捕虜取り扱いの典型であって、1943年11月までこの建設工事に従事させられた証人ワイルド大佐によって、よく描写されている。ワイルド大佐は、日本語の知識があるという理由で、捕虜と日本軍将校との間の連絡官を勤め、捕虜が入れられていた収容所の多くを訪問し、捕虜の受けた取り扱いについては、直接の知識をもっていた。次にあげるかれの証言からの抜粋は、実情をありありと説明している。

 『問 実質的におきまして、これらの捕虜収容所の間のその生活状態並びに捕虜の待遇はどうでしたか。その比較はいかがでしたでしょうか。大体実質的に似ておりましたでしょうか。

 『答え 全然同じでありました。

 『問 例としてその一つを説明してください。

 『答え 私は1943年8月3日、最初ソンクライ収容所に入所しましたときに、まずそこにある一番大きな小屋にまいりました。そこは七百人収容されておったバラックでありました。そのバラックは通常の形式につくられておりました。すなわち、真ん中に土間がありまして、その両側に、竹を割ってつくった広さ十二フィートの寝る棚がありました。屋根は非常に不完全なものでありまして、椰子の葉でできており、椰子の葉もあまりたくさんはなく、到るところ雨が漏りました。壁は全然なく、真ん中の土間のところには、常に水がちょろちょろ流れておりました。バラックの骨組みは蔦で縛られた竹でできておりました。

 『そのバラックの中には、七百名の病兵がおりました。小屋の両側の割竹の棚の上に、縦に二人ずつ寝ておりました。小屋の端から端まで、身体はお互いに接し合っておりました。非常に痩せており、ほとんど裸でありました。バラックの真ん中には、約百五十名の熱帯潰瘍患者がおりました。この潰瘍という病気に冒されますと、膝から足首まで肉がほとんど取れてしまうのであります。腐った肉の堪らない臭いがいたしました。手に入れることのできた繃帯は、巻脚絆で巻かれたバナナの葉だけでありました。そうして唯一の薬は熱湯でありました。もう少し丘の上の方には、もう一つ同じようなバラックがありました。そこには健康であると称せられる兵隊が収容されておったのであります。そうして屋根は完全であり、そのつくりも完全であるバラックがもう一つあり、これは日本人の衛兵並びに将校が住んでおりました。

 『問 寝具は供給されましたか。

 『全然ありませんでした。

 『問 では、雨除けとして、かれらは何を使ったのでありますか。

 『答え われわれが最初この収容所に来ましたときには、バラックは一つとして屋根のあるものはありませんでした。この状態が2、3週間続きました。すでに雨季にはいっておりました。ここに収容されておったものは、雨を凌ぐために、バナナの葉しかなかったのであります。もしそれだけの体力があれば、捕虜たちは一人が2、3枚のバナナの葉を切って、それで身体を覆ったのであります。

 『問 屋根の資材は入手できましたですか。

 『答え 私自身がその捕虜の指揮官となっておりました収容所、すなわち下ニキ収容所におきましては、最も重い病人が寝ていた小屋の屋根を半分ばかり覆うに足りる椰子の葉をトラックに一台ほど手に入れることができました。ニキ収容所では、椰子の葉を全然受け取りませんでしたが、腐った漏るカンバスが手にはいりました。残り四つの収容所におきましては、2、3週間たちまして、椰子の葉が手にはいりまして、バラックに屋根を葺くことができましたが、これは必要量の半分しかなかったのであります。もちろんこれは日本守衛並びに朝鮮守衛にはあてはまらないことであります。かれらは常に充分なる屋根の資材を持っておったのであります。

 『問 あなたがシンガポールを立たれてから十週間の後、すなわち1943年7月の中旬ごろにおきましては、「F」部隊の状況はいかがでしたか。

 『答え それまでに死者が千七百名、またもともとおった七千名のうち、毎日働きに出かけた人員は七百名でありました。しかし、われわれ英軍将校の考えるところによりますと、この七百名のうち、三百五十名は病室に寝かせておかなければならないような状態であったのであります』。

 この鉄道建設の説明は、それに使われた原地の徴用労働者の取り扱いにも言及しなくては、不完全であろう。

 この工事に使われた捕虜を補うために、ビルマ人、タミール人、ジャワ人、マレー人及び中国人の原地労働者が、ある場合は種々の約束によって、ある場合には強制によって、労働のために占領地域で徴募された。全部で約十五万人のこれらの労働者が鉄道工事に使われた。かれらに与えられた取り扱いと、かれらが生存していた状態とは、すでに説明したものよりも、むしろ悪いくらいであった。十五万人のうちで、少なくとも六万人は建設期間中に死亡した。

 捕虜の虐待に対して連合国の行なった抗議について、われわれは後に相当詳しく取り扱い、残虐行為について参謀本部と政府が知っていたことにも言及することにする。しかし、ここで言及しておいた方が適切なことがある。鉄道建設の計画が着手される前に、工事が恐ろしい状態のもとに行なわれることを陸軍は知らされていたこと、政府は犠牲者のことを知っておりながら、これらの状態を改めなかったことを立証する証拠のことである。

 1942年に工事が始まる前に、南方総軍司令部は捕虜が各種の熱帯病にかかる危険について知らされていたし、またときどき死亡率が報告されていた。捕虜の健康に対する危険と、食糧、住居及び医薬品の不足がわかっていたことは、南方軍総参謀長から俘虜情報局長官にあてた1944年10月6日付の報告の中で確認される。その一部には、『本作業は作戦上最も急を要し、しかも該鉄道建設予定線に沿う地域は人跡なき密林地帯にして、宿営、給養、及び衛生施設不充分にして、俘虜の平常状態と著しく異なり』と書いてある。

 1943年7月には、すでに数千人の捕虜が死亡したり、病気のために働けなくなったりしていたのであるが、そのときに、外務大臣重光は抗議に回答して、捕虜は公平に取り扱われており、病人はすべて医療手当を受けているといった。それにもかかわらず、重光の回答が送られてから1ヵ月たたないうちに、タイで死亡した捕虜だけで、日本側の数字によってさえも、合計二千九百九人であった。同じ資料によれば、死亡率は1942年11月の54人から、1943年8月の800人へと、月ごとにはなはだしく増加した。

 1943年の夏に、前に述べたこの地方の視察から東京に帰ると、若松はみずから参謀総長杉山に対して、多数の脚気と赤痢患者を見たこと、食事の質は必要規準のものでなかったことを報告した。

 死亡の多くは、連合軍が食糧と薬品の規則的な補給を妨げたために起こったと主張されている。しかし、海運に対するこの妨害という理由のために、1943年2月には、かえって工事完了の期間を4ヵ月短縮するようにとの命令が与えられた。この命令以来、指揮官たちはむちゃになった。捕虜は次のように聞かされた。人間は少しも大切ではない、鉄道はどんな苦痛や死亡があっても建設しなければならない、すなわち、『鉄道の建設は、作戦目的のために要求されて居るので、遅滞なく進行されねばならぬ。しかしてイギリス人及びオーストラリア人の俘虜の生命の損失を顧みず、あらゆる犠牲を払っても一定の期間内に完成されなければならぬ』と。

 最後に、俘虜情報局がタイ俘虜収容所長から受領した月報のうちの一つに、すなわち1943年9月3日付の月報に、われわれは言及する。これには、合計四万三百十四人の捕虜のうちで、一万五千六十四人は病気であると書いてある。脚気や赤痢の患者をそのまま働くように強制する慣行から見ると、これらのものも含められたならば、病人の数ははるかに大きなものであったに違いない。

拷問とその他の非人道的取り扱い (原資料222枚目)

 捕虜と一般人抑留者を拷問するやり方は、占領地域と日本内地とを通じて、日本軍の駐屯していたほとんどすべての場所で行なわれた。太平洋戦争の全期間を通じて、日本側はこのやり方をほしいままに行なった。拷問の方法は、全地域にわたって同じように行なわれていたから、その訓練と実施に、一つの方針があったことを示している。これらの拷問のうちには、水責め、火責め、電気の衝撃、膝を拡げること、吊り下げ、鋭い道具に座らせること及びむちで打つことがあった。

 日本の憲兵隊が最も盛んにこれらの拷問を行なった。しかし、他の陸海軍部隊も、憲兵隊と同じ方法を用いた。収容所の警備員もまた同様な方法を使った。占領地域で、憲兵隊によって組織された現地の警察も、同じ拷問の方法を用いた。

 各収容所長が赴任前に東京でどのような訓令を受けたかをわれわれは示すことにする。これらの収容所長は、陸軍省軍務局の俘虜管理部から行政上の支配と監督を受けており、この管理部に月報を提出していたことも示すことにする。憲兵隊は陸軍省の管轄のもとにあった。憲兵練習所が日本で陸軍省によって維持され、運営されていた。憲兵隊と収容所警備員との行為が陸軍省の方針を反映していたということは、妥当な推論である。

 拷問が広く行なわれていたこと、用いられた方法が一様であったことを示すために、われわれはそれらの方法の簡単な要約を述べておく。

 いわゆる『水責め』は普通に用いられた。犠牲者は縛られるか、その他の方法で、仰向けに寝かされ、意識を失うまで、その口と鼻から、肺と胃の中に水を無理に流しこまれた。それから、水を押し出すために、圧力が加えられた。ときには、犠牲者の腹の上に飛び乗って、圧力を加えることもあった。一旦犠牲者を蘇生させた後に、引き続いて幾度もこの方法を繰り返すのが通例のやり方であった。この拷問は次の各地で行なわれたという証拠があった。中国では上海、北平、南京、仏印ではハノイ、サイゴン、マレーではシンガポール、ビルマではキャイクトー、タイではチュンポールン、アンダマン諸島ではポート・ブレーア、ボルネオではジェッセルトン、スマトラではメダン、タジョン・カラン、パレンバン、ジャワではバタヴィア、バンドン、スラバヤ、バイテンゾルグ、セレベスではマカッサル、ポルトガル領チモールではオッス、ディリ、フィリッピンではマニラ、ニコルス・フィールド、パロ・ビーチ、ドマゲテ、台湾では屏東収容所、そして日本では東京である。

 火責めの拷問は広く実行された。この拷問は、一般には犠牲者の身体を火のついたタバコで焼くことによって行なわれた。しかし、ときには、火のついたローソク、熱した鉄、熱した油、沸騰した湯も用いられた。多くの場合に、熱は体のうちの神経の鋭敏な箇所に、たとえば、鼻腔、耳、腹部、性器に、また女子の場合には乳房に加えられた。われわれは、次の場所で、この種の拷問が用いられた明確な事例の証拠をもっている。中国では漢口、北平、上海、ノモンハン、仏印ではハイフォン、ハノイ、ヴィン、サイゴン、マレーではシンガポール、ヴィクトリア・ポイント、イポー、クアラ。ルンプール、ビルマではキャイクトー、タイではチュンポールン、アンダマン諸島ではポート・ブレア、ニコバル諸島ではカカナ、ボルネオではジェッセルトン、スマトラではパレンバン、パカン・ブルー、ジャワではバタヴィア、バンドン、スマラン、モルッカ諸島ではアンボイナ、ポルトガル領チモールではオッス、ソロモン諸島ではブイン、フィリッピン諸島ではマニラ、イロイロ市、パロ、バターン、ドマゲテ、日本では川崎である。

 電気衝撃法もまた普通のことであった。衝撃を与えるように、犠牲者の身体の一部に電流が通じられた。接触箇所は通常神経の鋭敏な部分、たとえば、鼻、耳、性器または乳房であった。次の場所で、この拷問方法が用いられた明確な事例を証拠は示している。中国では北平、上海、仏印ではハノイ、ミトー、マレーではシンガポール、タイではチュンポールン、ジャワではバンドン、バイテンゾルグ、スマラン、フィリッピン諸島ではダヴァオである。

 いわゆる膝拡げは、しばしば用いられた拷問法であった。犠牲者はうしろ手に縛られ、ときには直径3インチもある丸棒を両膝の関節のうしろに挟んで座らせられ、腿に圧力が加えられたときに、膝の関節が引き拡げられるのである。ときには、犠牲者の腿の上に飛び乗ってすることもあった。この拷問の結果として、膝の関節がはずれ、それによって、激烈な苦痛が起きるのであった。証拠によれば、次の場所で、この拷問が用いられた明確な事例を証拠は示している。中国では上海、南京、ビルマではタヴォイ、アンダマン諸島ではポート・ブレア、ボルネオではサンダカン、スマトラではパカン・バル―、モルッカ諸島ではハルマヘラ島、ポルトガル領チモールではディリ、フィリッピン諸島ではマニラ、ニコルス・フィールド、パサイ収容所、日本では東京である。

 吊り下げもまた普通に用いられた拷問の方法であった。犠牲者の体は手首、腕、足、または首で吊り下げられ、ときには犠牲者ののどを絞めて窒息させるか、関節を脱臼させるような方法で行なわれた。この方法は、ときには、吊り下げている間にむちで打つことと併せて行われた。この拷問方法を使用した明確な事例は、次の場所で起こった。中国では上海、南京、仏印ではハノイ、マレーではシンガポール、ヴィクトリア・ポイント、イポー、クアラ・ルンプール、タイではチュンポールン、ビルマではキャイクトー、ボルネオではサンダカン、スマトラではブラスターギ、ジャワではバンドン、スラバヤ、ヴァイテンゾルグ、モルッカ諸島ではアンボイナ、ポルトガル領チモールではディリ、フィリッピン諸島ではマニラ、ニコルス・フィールド、パロ、イロイロ市、ドマゲテ、日本では東京と四日市である。

 鋭い道具に座らせることも、もう一つの拷問方法であった。多くの場合に、正方形の木塊の角が鋭い道具として用いられた。犠牲者は休むことなしに幾時間もこれらの鋭い角の上にひざまずかされ、動けばむちで打たれた。次の場所で、この方法を用いた明確な事例が起こったことがわれわれに示されている。仏印ではハノイ、マレーではシンガポール、アンダマン諸島ではポート・ブレア、モルッカ諸島ではハルマヘラ島、フィリッピン諸島ではダヴァオ、日本では福岡と大牟田である。

 手の爪や足の爪をはがすことも行なわれた。この拷問方法の実例は、次の場所で見出される。中国では上海、セレベスではメナド、フィリッピンではマニラ、イロイロ市、日本ではヤマニである。

 地下の土牢が次の場所で拷問部屋として用いられた。仏印ではハノイ、マレーではシンガポール、ジャワではバンドンである。

 むち打ちが日本人の残忍行為のうちの最も普通に行なわれたものであった。これらはすべての捕虜収容所と一般人抑留者の収容所、刑務所、憲兵隊本部で、またすべての作業分所と作業現場で、さらに捕虜輸送船の上でも、普通に用いられた。収容所長やその他の将校の承認の上で、またはしばしばその指令に基づいて、警備員が自由に思うままに行なった。収容所におけるむち打ちのために用いられる特別な道具が支給された。このうちのあるものは、野球のバットほどの大きさの棒切れであった。ときには、警備員の監視のもとに、捕虜は仲間の捕虜を殴ることを強制された。これらの殴打によって、捕虜は内部的負傷、骨折及び裂傷を受けた。多くの場合に、かれらは意識を失うまで叩かれた。そして、蘇生させられては、また叩かれた。蘇生させられるのは、さらに叩くためにほかならなかった。ある場合には、捕虜が死ぬまで殴打されたことも証拠は示している。

 精神的拷問は普通一般に用いられた。この拷問方法の実例は、ドゥーリットル飛行隊員が受けた取り扱いに見出すことができる。いろいろな種類の拷問にかけられてから、かれらは一人ずつ出され、目隠しをされて、相当の距離を歩かせられた。犠牲者は人声と行進する足音とを聞かされ、それから、あたかも銃殺隊として整列しているかのように、分隊が停止して銃を下ろす音を聞かされた。それから日本将校が犠牲者の前に来て、『われわれは旭日章をもった武士道の騎士である。われわれは日没時に死刑を行なわない。日の出にやる』といった。それから、犠牲者はその監房につれ帰され、もし日の出までに自白しなければ、処刑されると聞かされたのである。

 1944年12月5日に、東京のスイス公使館は、イギリス政府の抗議文を外務大臣重光に伝達した。この抗議文で、1943年8月6日に、ビルマにおける日本の林師団によって発行された『俘虜訊問要領』と題する小冊子が押収されたことを重光は知らされた。この抗議文は、その小冊子からの直接引用を重光に示した。それは次のようであった。『非難罵詈又は拷問を用いる場合は嘘偽りの申立て及び愚弄を招く結果となるべきをもって注意を要す。普通採らるべき方法次のごとし。(イ)足蹴、殴打、及び肉体的苦痛に関連あるものすべてを含む拷問、本方法は最も拙劣なるものなるをもって他の方法に効果なき場合に限り用うべきものとす。』(この部分は、押収された冊子では、特に印しがつけてあった。)『暴行拷問を用うる時は訊問係将校を替うべし。しかして交替せる将校が同情的に訊問せば好結果を得べし。(ロ)威嚇。(1)来たるべき肉体的不快、例えば拷問、殺害、飢餓、単独幽閉、睡眠妨害を暗示すること。(2)来たるべき精神的不快を暗示すること、例えば手紙を送ることを許されざること、他の俘虜と同様の取り扱いを与えられざること、俘虜交換の場合最後まで残置せらるること等』である。抗議文はさらに続けて、『連合王国政府は前述の件につき日本政府の注意を喚起せられたき旨要請越せり。同政府は、日本帝国官憲が拷問を用い居ることを日本政府が最近強く否定せることを想起するものなり。1944年7月1日付重光大臣発スイス公使宛書簡参照あいなりたく』と述べた。連合国捕虜を拷問するこの慣行を阻止するために、なんらかの措置がとられたことを示す証拠をわれわれはもたない。しかし、他方で、この慣行は日本の降伏のときまで続き、降伏のときには、その犯人を助けてその罪に対する正しい処罰を免れさせる命令が発せられた。罪を立証するような証拠文書をすべて破棄せよと命令した上に、1945年8月20日に、次のような命令が軍務局俘虜管理部の俘虜収容所長によって発せられた。『俘虜及び軍の抑留者を虐待しあるいははなはだしく俘虜より悪感情を懐かれある職員はこの際速やかに他に転属あるいは行衛一切を晦すごとく処理するを可とす。』この命令は、台湾、朝鮮、満州、華北、香港、ボルネオ、タイ、マレー及びジャワにおけるものを含めて、各収容所に送られた。

生体解剖と人肉嗜食 (原資料229枚目)

 生体解剖は、日本の軍医によって、その手中にある捕虜に対して行なわれた。また、軍医でない日本人によって、捕虜の手足を切断するという事例もあった。これから述べる事例のほかに、手足を切断された別の捕虜の死体が、死亡前に切断の行なわれたことを示すような状態で発見された。

 カンドクで、『健康な負傷していない』と称される捕虜が、次のような取り扱いを受けた証拠があった。『この男は光機関事務所の外にある木に縛りつけられた。一人の日本軍医と四人の日本見習軍医がかれの周りに立っていた。かれらはまず最初に指の爪をはぎ取り、それから胸を切り開いて心臓を取り去った。これに対して、軍医は実験をして見せた。』

 多分将校と思われる日本人の押収された日記に、ガダルカナルにおける一つの事件が記されてある。『9月26日――昨夜ジャングル内に逃げ込んだ二人の俘虜を発見、逮捕し、警備中隊をして警備せしめた。かれらが再び逃亡するのを防ぐために、かれらの足に拳銃数発発射したが、命中させるのはむずかしかった。二人の俘虜は、ヤマジ軍医によってまだ生きているうちに解剖され、かれらの肝臓が取り出された。そして初めて私は人間の内臓を見た。これは非常に参考になった。』

 生存中の捕虜の身体切断の事件がフィリッピンのカナンガイで証言されている。しかも、この場合には、軍医でなく、日本の兵科将校によって行なわれたのである。『・・・・24歳ぐらいの一人の若い婦人(・・・・)が叢に隠れているところを捕えられた。この巡察隊全部を指揮していた将校は、彼の女の衣服をはぎ取り、その間二人の兵が彼の女を抑えていた。それからその将校は彼の女を小さな壁のない草葺の小屋へ連れて行き・・・・そしてそこでその将校は佩刀を用いて彼の女の乳房や子宮を切った。兵隊たちはその将校がこんなことをしている間、彼の女を抑えていた。最初その女は悲鳴を挙げていたが、遂に静かになり、沈黙して横たわった。それから日本兵は、その草葺小屋に火を放った・・・・』

 マニラでは、一人の目撃者が、自分の召使いが柱に縛られたいきさつを説明した。縛ってから、日本兵はかれの生殖器を切り取り、断ち切った陰茎をかれの口中に押しこんだ。

 日本兵の手中にあった捕虜の身体切断に関する他の事例は、ボルネオのバリックパパンで起こった。この事件は、目撃者によって、次のように語られた。『私は制服を着た内務監督官と制服の警視を見ました。日本の士官がその内務監督官会話を始めました・・・・。私は、その士官が会話中、手でもって内務監督官の頬を殴打し、またさらに剣鞘でかれの身体を殴打して虐待するのを見ました・・・・最初に(オランダ人)内務監督官と会話を始めた士官が、その剣を抜いて内務監督官の両腕を両肘の少し上部から切り落とし、その後また両脚を膝の高さのところから切り落としました。さらに内務監督官は椰子の木へ連れて行かれ、それにしかと縛りつけられて、さらに銃剣をもって刺し殺されました・・・・この後に、同じ士官は制服を着た警視の方へ行きました・・・・かれは殴られ、手と剣鞘で殴打されました。そのあとで、その(日本人)士官は警視の腕を肘の下部のところで切り落とし、その脚を膝のところで切り落としました。私は警視がいま一度「女王陛下万歳」と叫ぶのを聞きました。銃剣で刺され、かつ蹴られて、警視はなおも立ち上がらせられました。しかしてその脚の切り残りで立って、警視は銃剣で刺し殺されました。』

 太平洋戦争の末期になって、日本の陸海軍は人間の肉を食べるほどまでに落ちこみ、不法に殺害した連合国捕虜の体の一部を食べた。日本陸軍は慣行に気がついていなかったのでもなく、またそれをいけないとさえいわなかった。訊問に際して、ある日本人捕虜は、『1944年12月10日、第十八軍司令部から、部隊は連合軍の屍肉を食うことは許可するも、友軍の屍肉は食ってはならぬとの命令が出た』と語った。この陳述は、一少将が所持しているのを押収した軍規に関する備忘録によって確認された。この備忘録には、次のような一節がある。『なお刑法には規定なきも、人肉(敵を除く)たることを知りつつ、これを食したる者は、人道上の最重犯として、死刑と定む。』

 ときには、この敵の肉を食することは、将校宿舎における祝宴のようなものとして行なわれた。陸軍の将官や海軍の少将の階級をもつ将校でさえも、これに加わった。殺害された捕虜の肉またはそれによってつくられたスープが、日本の下士官兵の食事に出された。証拠によれば、この人肉嗜食はほかに食物がある際に行なわれたことが示されている。すなわち、このような場合には、必要に迫られてではなく、みずから好んで、この恐ろしい慣行にふけったのである。

捕虜輸送船に対する攻撃 (原資料233枚目)

 捕虜の海上輸送にあたって、日本の行なった慣行は、同様に不法で非人道的な陸上輸送の方法と一致するものであった。捕虜は、衛生設備の不完全で、換気の不充分な船倉や石炭庫に詰めこまれ、医療手当は全然施されなかった。長い航海中、かれらは強制的に甲板の下の船倉に留められ、わずかな配給量の食物と水によって、命を繋ぐよりほかはなかった。これらの捕虜輸送船は標識を掲げていなかったので、連合軍の攻撃を受け、数千人の捕虜が死んだ。

 場所を節約するためにとられた方法は、一般に次の通りであった。すなわち、空いている石炭庫または船倉に、木製の台が、すなわち間に合わせの寝棚がつくられたが、その上下の距離は3フィートであった。これらの寝棚の上で、捕虜に与えられた広さは、15人について6フィート平方であった。全航海の間、かれらはあぐらをかいて座っているよりほかに仕方がなかった。また、適当な衛生設備を除くことによっても、場所の節約が行なわれた。用意された衛生設備は、綱の先にとりつけられたバケツまたは箱であって、それが船倉または石炭庫内に上から下ろされ、それから同じようにして引き上げられ、中の排泄物が船外へ棄てられた。これらの容器から滴れ落ちてくるものによって、あらゆる点で非衛生的な状態は、いっそう非衛生的になった。多数の捕虜は、乗船の当時に赤痢にかかっていたが、かれらの排泄物は、木製の寝棚の隙間を通して、そのまま下の寝棚の捕虜の上に落ちた。食物の調理に必要な場所を節約するために、料理してない食物や、出帆前に料理されたものが捕虜に与えられた。同じ理由によって、積みこまれた飲料水も不充分であった。この恐ろしい状態に置かれていた上に、捕虜は甲板に出ることを許されなかった。捕虜の海上輸送に関するこの方法は、太平洋戦争の全期間を通じて、一般に用いられた。日本の船腹の不足の為に、このような方法は、やむを得なかったものとして弁護されている。これは有効な弁護ではない。というのは、もし戦争法規によって規定された状態で捕虜を移動することができなければ、日本政府は捕虜を移動する権利がなかったからである。

 この輸送方法は、1942年8月に、イギリス人捕虜の最初の一団を泰緬鉄道で労働させるために、シンガポールからモールメンに移動したときに用いられた。また、1942年1月に、1235人のアメリカ人捕虜と一般人抑留者を横浜と上海へ移すために、『新田丸』がウェーキ島に寄港したときにも、再びこの方法が用いられた。他の場合と同様に、この場合にも、捕虜と抑留者は乗船の際に日本兵の列の間を通らされ、殴られたり蹴られたりしなければならなかった。この航海に関連して、当時捕虜輸送船の上で実施されていた『俘虜規定』に、初めてわれわれは注意を引かれた。この規定は、他のこととともに、次のことを規定していた。『左に掲ぐる命令に従わざる俘虜は、即時死刑に処すものとす。(a)命令及び指示に服せざる者、(b)敵意ある挙動及び反抗の兆候ある者、・・・・(a)許可なくして談話し、大声を発する者、(e)命令なくして歩行移動する者、・・・・(1)命令なくして梯子を登る者、・・・・大日本帝国海軍は諸子の全部を死刑に処せんとするものに非ず。日本海軍の一切の規則を遵守し、日本の「大東亜新秩序」の建設に協力する者は優遇せられるべし』と。ある航海では、捕虜は寝棚の設備のない石炭庫に詰めこまれ、立つ余地のある限り、無理に石炭のまわりに並ばせられた。他の航海では、非常に燃えやすい積荷が、捕虜と一緒に船倉一ぱいに詰めこまれた。捕虜輸送船に乗せられるだけ詰めこむという、この方法は、いろいろの明白な不快や健康上の危険を捕虜にもたらした上に、沈没のときには、脱出をほとんど不可能にした。

 連合軍は日本の捕虜輸送船と他の船舶との区別をつけることができなかったので、捕虜輸送船は、他の日本船と同様に、しばしば連合軍によって攻撃された。その結果として、多数の船が沈没し、数千の連合国の捕虜が死んだ。これらの攻撃が行なわれたとき、ある場合には、捕虜の脱走を防ぐために昇降口を密閉し、もしこの昇降口を押し開けて、沈没する船から逃れようとする捕虜があるときは、これを射殺せよという命令を与えて、小銃と機銃をもった日本兵を配置するということが慣行であった。このことは『リスボン丸』で起こった。この船は、イギリスの捕虜を乗せて香港を出発し、その航海中、1942年10月に撃沈されたのである。その他の場合には、船が沈没した後、捕虜が水中にいる間に、射殺されたり、他の方法で殺害されたりした。これは『鴨緑丸』の場合に行なわれた。この船はアメリカの捕虜を乗せ、マニラからの航海中、1944年12月に撃沈された。1944年6月に、マラッカ海峡で、『ヴァン・ワリック号』が沈没したときにも、同じことを起こった。1944年9月に、多数のアンボン人捕虜と徴用されたインドネシア人労働者を乗せた『順洋丸』が、スマトラ東海岸沖で沈没したときにも、このことが再び起こった。

 これらの航海で、多数の捕虜が窒息、疾病及び飢餓のために死んだ。生き残った者も、航海中の艱苦のために非常に衰弱していたので、目的地の着いてから、労働することができなかった。このようにして、捕虜の労働能力が損なわれたために、陸軍省は1942年12月10日付の『陸亜密電1504号』を出すようになった。この通牒には、次のようなことが述べてあった。『最近日本内地に俘虜を輸送するにあたり、途中の取り扱い適当ならざるものあり、ために患者死亡者多発し、直ちに労役に使用し得ざるもの少なからざる状況なり。』それについで、必ず捕虜が労働できる状態で目的地に着くようにするために、訓令が与えられた。しかし、この通牒が出ても、海上輸送中の捕虜の状態は、実質的には改善されなかったので、1944年3月3日に、東条のもとにおける陸軍次官富永は、『関係部隊』に通牒を発したが、その中でたのこととともに、かれは次のように述べた。『俘虜管理に関しては、従来労務利用を重視来たれり。右は戦力増強に直接寄与するところありたるも、一般不慮の衛生状態は良好とはいい難く、高度の死亡率については注意を要す。輓近(ばんきん。ちかごろ)敵宣伝戦の激化に鑑み、現状をもって放置せんか、世界の輿論また不測の展開を示すことなきを保し難しかくては我が道義戦遂行に支障を生ずるのみならず、我が戦力増強労務に対する俘虜の徹底的利用にあたりても先ず衛生状態を良好ならしむること絶対必要なり。追って俘虜の海上輸送にあたりては船腹の利用に努むつはもちろんなるも、この際における俘虜の取り扱いについては昭和17年陸亜密電第1504号趣旨をさらに徹底せしめられたく申し添う。』閣僚と多数の政府当局者は、以上のような方法が捕虜に及ぼす影響を知っていた。かれらがとったような是正手段は、まったく不充分なものであり、しかも、その目指すところは、捕虜輸送に関する戦争法規の実行を保証することではなく、戦争遂行に使うために、捕虜の労働する能力を保存することであった。

潜水艦戦 (原資料237枚目)

 1943年と1944年に、日本海軍によって、非人道的で非合法的な海上戦闘が行なわれた。雷撃を受けた船の乗客と乗組員のうちの生存者は殺害された。

 大島大使は、戦争遂行に関して、ドイツの外務大臣と協議する権能を東条内閣から与えられていた。専門的問題は合同委員会の委員によって直接協議されることになっていたが、方針の問題については、もっぱら大島とドイツ外務大臣リッベントロップとの間で協議することが、最も重要であるという意見を大島は明白に述べた。1942年1月3日に、大島はヒットラーと会談した。ヒットラーは、当時連合国の船舶に対して行ないつつあったかれの潜水艦戦の方針を説明し、かつ、合衆国はきわめて急速に艦船を建造するかもしれないが、海上勤務に適する要員の訓練は長時日を要するから、合衆国のおもな問題は要員の不足であると述べた。大多数の海員が魚雷攻撃によって失われたという話が広く流布されて、乗組員を新規に補充するのに合衆国が苦しむようにするために、ドイツの潜水艦に対して、魚雷を発射した後、水面に浮かび上がって、救命艇を掃射せよという命令を出した、とヒットラーは説明した。ヒットラーに答えて、かれの説明した方針に大島は賛成であり、日本もこの潜水艦戦遂行方法に従うであろうと述べた。1943年3月20日に、トラックの第一潜水部隊の指揮官の発した命令には、次の命令が含まれていた。『敵船団に対しては、各潜水艦連係し攻撃を集中してこれを殲滅す。敵船舶及び載貨の撃沈に止まらず、敵船舶要員の徹底的撃滅を併せ実施するとともに、情況の許す限り船員の一部を捕捉し、敵情獲得に努む』と。

 この非人道的な海上戦闘を行なえという命令は、日本海軍の潜水艦長によって実行された。1943年12月13日から1944年10月29日までの間に、日本の潜水艦は、イギリス、アメリカ及びオランダの商船8隻をインド洋で、アメリカ船1隻を太平洋で撃沈したときには、魚雷を発射した後に、水面に浮かび上がり、船長を艦内に連れて行こうと試み、または実際に連れて行き、それから救命艇の破壊と生存者の殺害を行なった。

 連合国政府によって繰り返し抗議が行なわれた。これらの抗議には、正確な撃沈の日付及び位置と、雷撃された船舶の乗客及び乗組員に加えられた残虐行為の詳細が述べられていた。これらの抗議に対しては、なんら満足な回答がなされなかった。そして、船舶の撃沈は続けられ、その生存者の取り扱いは改められなかった。

 1944年3月9日に、イギリス商船『バハール号』が砲撃によって撃沈されたときに、日本海軍がとった行動は、これを例証するものである。115人の生存者は、巡洋艦『利根』によって収容された。その日、後になって、『利根』はこの撃沈と捕獲を旗艦『青葉』に報告した。『青葉』からは直ちに『利根』に対して、生存者を殺害せよという命令が信号された。2人の婦人と1人の中国人を含めて、15人を一般人収容所に入れ、残り100人を殺害することが、後になって決定された。『利根』の艦長の命令によって、これら100人の生存者は『利根』の艦上で殺害された。

 アメリカ船『ジーン・ニコレット号』の生存者の虐殺は、日本海軍の用いた方法のもう一つの例である。この船は、1944年7月に、オーストラリアからセーロンへ向けての航行中に陸地から600マイルばかりのところで、夜間に日本の潜水艦の雷撃を受けた。この船の乗組員は約100人であったが、そのうちの約90人が潜水艦に収容された。この船は撃沈され、その救命艇も砲火によって粉砕されたが、全部は沈没しなかった。生存者はいずれもうしろ手に縛られた。幾人かの高級船員は艦内に連れこまれたが、かれらがどうなったかは、本裁判所にはわかっていない。その他の者は、潜水艦が生存者を捜しながら航行している間、前甲板に座らせられていた。その間に、ある者は波にさらわれ、他の者は木か金属の棍棒で殴打され、時計や指輪のような私有物を強奪された。それから、かれらは日本兵の列の間を一人ずつ艦尾の方へ歩かせられ、日本兵は、捕虜が列の間を通るときに、これを殴打した。捕虜がこの列の間を通らされるのが全部すまないうちに、潜水艦は潜水してしまい、甲板上に残っていたこれらの生存者は、死を待つよりほかなかった。しかし、中には泳いで助かった者もいた。これらの者とこれらの者の助けによって浮かび続けた同僚とは、翌日飛行機によって発見された。この飛行機は救助船をかれらの漂流地点に導いた。こうして、22名の者がこの恐ろしい経験から生き残った。そのうちのある者から、本裁判所は、日本海軍の非人道的な行為に関する証言を聞いた。

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