歴史の部屋

捕虜と抑留者の不法使役、飢餓及び冷遇 (原資料242枚目)

 陸軍省軍務局の俘虜管理部長上村中将は、連合国との間に、捕虜と一般人抑留者に対して、ジュネーヴ条約の規定を適用することが協定されてから、わずか数週間後、1942年4月2日に、台湾軍参謀長に通告して、『俘虜を生産事業に利用企図のもとに計画を進められつつあり』と述べ、台湾でこの目的のために利用できる人数を至急通報するように要請した。

 1942年5月6日に、陸軍次官は捕虜の使役に関する方針を台湾軍参謀長に通告した。かれは次のように決定されたといった。『俘虜はこれを我が生産拡充並びに軍事上の労務に利用することを得。白人俘虜は逐次朝鮮、台湾及び満州に収容す。台湾に収容する俘虜は優秀技術者及び上級将校(大佐以上)を含ましむ。我が生産拡充において使用に適せざるものは、現地において、速やかに開設さるべき俘虜収容所に収容さるべし』と。1942年6月5日に、上村中将は台湾軍参謀長に次のように指令した。『俘虜たる将校及び准士官の労役に関しては、1903年の規則に禁ぜられあるところなるも、一人といえども無為徒食を許さざる我が国現下の実情に鑑み、労務に就かしめたき中央の方針なるにつき、然るべく指導あいなりたし』と。これらの訓令はすべての他の陸軍の関係部隊にも送られた。この指令のもとは内閣にあった。というのは、1942年5月30日に、総理大臣東条は、捕虜収容所を管轄下にもつ師団長に訓示を与え、その中で、『我が国現下の情勢は、一人として無為徒食するものあるを許さないのであります。俘虜もまたこの趣旨に鑑み大いにこれを活用せらるるよう注意を望みます』といったからである。1942年6月25日に、東条は新任の捕虜収容所長に訓示を与えた。いわく、『そもそも我が国は俘虜に対する観念上、その取り扱いにおいても欧米各国と自ずからあい異なるものあり、諸官は俘虜の処理にあたりては、もとより諸条規に遵由し、これが適正を期せざるべからずといえども・・・・彼らをして一日といえども無為徒食せしむることなく、その労力特技を我が生産拡充に活用する等、総力を挙げて大東亜戦争遂行に資せんことを努むべし』と。傷病捕虜や栄養不良になっていた者に、病気や栄養不良や疲労で死ぬまで、軍事的な作業に無理に働かせるために、絶えず酷使したり、殴打したり、突いたりしたのは、少なくともある程度まで、これらの訓示の適用に由来している。1942年6月26日にも、東条はこれらの訓示を新任の捕虜収容所長の一団に対して与え、さらに1942年7月7日にも、同様な他の一団に対して与えた。

 戦争遂行に役立たせるために、捕虜を使役する東条の計画を内閣が支持したことは、内務省警保局外事課発行の『外事月報』1942年9月号によって示されている。日本における労務不足のために、企画院では、陸軍省軍務局俘虜管理部の同意を得て、1942年8月15日に会議を開いたが、この会議で、捕虜を日本に移し、国家総動員計画の産業における労務の不足を緩和するために、かれらを使役することに決定したことをこの月報は示していた。この月報によると、俘虜を鉱業、荷役及び国防土木建築作業に使役することが決定されていた。厚生省及び陸軍と協力して、地方長官が捕虜とその使役との監督の任にあたるものとすることについて、完全な計画が協定されていた。閣僚とともに、星野と鈴木がこの決定に加わった。星野は、経済企画に長い経験があるというので、東条によって内閣書記官長に選ばれ、鈴木と協力して、このような仕事を主として努力する任務を与えられた。鈴木は東条によって企画庁の総裁として選任されていた。星野は1941年10月18日に内閣書記官長となり、1944年7月19日に東条内閣が瓦解するまで在任した。鈴木は1939年5月30日に企画院参与となり、星野が1941年4月4日に企画院総裁及び国務大臣を免ぜられたときに、その後任となり、第三次近衛内閣と東条内閣との国務大臣及び企画院総裁として、1944年7月19日に東条内閣が総辞職するまで、引き続いて在任した。

民族的必要に対する考慮

食糧と被服 (原資料244枚目)

 1942年の初めに、捕虜と一般人抑留者に対する食糧と衣料の支給に関しては、捕虜の国民的風習と民族的習慣を考慮に入れると日本政府は約束した。これは全然実行されなかった。この約束をした当時に、実施されていた諸規則によると、収容所長が捕虜や抑留者に糧食や被服を支給するにあたっては、陸軍の給与に関する基本給与一覧表に従わなければならなかった。これらの所長は、収容者に対する給与量を定める権限が与えられていたが、この決定は、一覧表に規定されている範囲内で行なうように指令されていた。食事に関する限り、これらの規則は、他の食糧が収容所の近くにあった場合にでも、捕虜と抑留者に充分な食物を与えることを禁じていると解釈されていた。この規定は、収容者が栄養不良で多数死亡しつつあったときでさえも守られた。食事に関する違った国民的風習や習慣のために、捕虜や抑留者が給与食では生存できないということが、管理当事者に間もなくわかってきたにかかわらず、給与一覧表によって規定された食糧の量と種類は、戦争中に規定量が減らされたほかは、実質的には変更されなかった。1942年10月29日には、『内地重工業労働者の米麦消費量等を較量し』、将校または文官であった捕虜と抑留者に対する配給は、一日420グラムを超えないように減らせという命令が全収容所長に発せられた。1944年1月には、米の配給量がさらに最高一日390グラムに減らされた。収容者が栄養不良になり始めると、かれらは病気にかかりやすくなり、また強制された重労働ですぐに疲労した。それにもかかわらず、収容所長は、働かざる者は食うべからずという東条の訓示を励行し、配給量をさらに減らした。そして、ある場合には、病気や負傷のために働けなくなった者には、これをまったく与えなかった。

 規則によれば、捕虜と一般人抑留者は、かれらが前に着ていたものを、すなわち、かれらが捕虜となったり、抑留されたりしたときに着ていたものを着ることに定められていた。この規則が収容所長によって励行された結果として、多くの収容所では、収容者が戦争の終わらないうちにぼろをまとっていた。捕虜と抑留者が前に着ていた衣服が使用に堪えなくなった場合には、収容所長はある種類の被服を貸与することが規則で許されていたことは事実であるが、これはまれな場合にしか行なわれなかったようである。

医療品 (原資料246枚目)

 日本陸海軍は、その規則によって、一年間の使用に充分な薬品と医療器具の補給量を持ち合わせ、また貯蔵していなければならなかった。多くの場合、これは赤十字の薬品と医療品を没収することによって行なわれたが、この医療品は、大部分が日本の軍隊や収容者の監視員のためのものとして貯蔵され、または使用された。捕虜と一般人抑留者は、これらの倉庫からの薬品や医療品をまれにしか供給されなかった。降伏のときに、これらの医療品が捕虜収容所や一般人抑留所の内部やその付近で、多量に貯蔵されているのが発見されたが、そこでは、医療品の不足のために、捕虜や抑留者が恐ろしい率で死んでいたのであった。

 土肥原やその他の司令官のもとで、本州の東部軍管区の参謀として勤務した鈴木薫二は、本裁判所で証言した。管下の収容所長や抑留所の監視員に対して、捕虜に渡すために送られた赤十字の救恤品小包を没収することを、許可したことを鈴木は認めた。このようなことは、日本内地とその海外領地や占領地にあった収容所と抑留所において、普通の慣行であったことが証拠によって示されている。部下の監視員が捕虜を殴ったり、他の方法で虐待していたことを知っていたことも、鈴木は付随的に認めた。

 捕虜と一般人抑留者に対して、医療品を充分に支給しなかったか、まったっく支給しなかったことは、すべての戦争地域に共通のことであり、数千の捕虜と抑留者を死に至らせた一つの原因であった。

宿舎 (原資料247枚目)

 規則には、陸軍の建物、寺院及びその他の現に存在する建物を捕虜や抑留者の収容所として使用することが規定されていた。規則には、また、戦時生産に捕虜と一般人抑留者を使用する雇用者は、かれらの必要とする宿舎を供与することが規定されていた。それにもかかわらず、供与された宿舎は、多くの場合に、雨露を凌ぐ設備として不充分であるか、非衛生的であるか、またはその両者であった。タイのカンブリ収容所の日本軍副官は、20ばかりの一群の空小屋で、病気の捕虜のために病院を開いたが、それは少し前に引払ったばかりの日本の騎兵連隊が馬小屋として使っていたものであった。太平洋諸島と泰緬鉄道沿線の収容所の大部分では、使うことのできる家といえば、アタップの葉ぶきで、土間の小屋だけであった。これらの収容所は、そこに住むことになっていた捕虜の労働によって建てられ、小屋ができ上がるまで、捕虜は雨ざらしの野天生活をさせられるのが普通の慣行であった。しかし、ある場合には、伝染病の発生で空き家になっていたアタップの葉ぶきの小屋に移され、それによって建築の労働を免れた。これは泰緬鉄道建設工事の60キロ・キャンプで起こったことである。そこでは、少し前まで、コレラで病死したビルマ人労働者がはいっていた小屋に、オーストラリア人約800人が宿泊させられたのである。1944年8月に、モルッカ諸島のラハットでは、以前にジャワ人作業隊の宿舎であったものが、捕虜の収容所に改造された。オランダ人とイギリス人の捕虜が収容所に到着してみると、そこはジャワ人の死体でいっぱいになっていた。イギリス人捕虜一千人とアメリカ人捕虜一千人を、朝鮮の3つの神学校に収容することを板垣が計画していると通告されたときに、木村は陸軍次官として、収容予定の建物は、捕虜にとっては、よすぎるのではないかと尋ねた。


労役

 日本政府の方針は、捕虜と一般人抑留者を作戦に直接関係のある仕事に使うことであった。作戦地域で、かれらは軍用飛行場、道路、鉄道、船渠及びその他の軍用工作物の建設に使われ、また、軍用物資を積んだり、卸したりする荷役人夫として使われた。日本の海外領地と内地とで、右の作業のほかに、鉱山、軍需及び航空機の工場、その他作戦に直接関係をもった作業につくことを強制された。捕虜と一般人抑留者が留置されていた収容所は、通例かれらの安全を無視して、作業所の近くに置かれていた。その結果として、作業をしているときも、していないときも、かれらは空襲の危険に不必要にさらされていた。ある場合には、関係軍用施設または工場に対する連合軍の空爆を妨げるために、故意に収容所をそのような場所に置いたという証拠がある。

原住民の労働 (原資料249枚目)

 戦争遂行に直接役立つ仕事に、捕虜と一般人抑留者を使用するという方針を決定し、この方針を実行に移す制度を確立した上で、日本側はさらに一歩を進め、占領地の原住民から労働者を徴用することによって、右の人的資源を補充した。この労働者の徴用は、虚偽の約束や暴力によって達成された。徴用されると、労働者は収容所に送られ、そこに監禁された。これらの徴用された労働者と、捕虜及び一般人抑留者との間に、ほとんど、またはまったく区別が設けられなかったようである。かれらは、すべて、体力の続く限り使われることになっている奴隷労働者と見なされていた。この理由で、本章において、『一般人抑留者』という言葉を使用するときは、われわれはいつでもこれらの徴用された労働者をも含めたのである。これらの徴用された労働者は、このように異常な、密集した生活状態に適用される衛生の原則いついて一般に無知であり、かれらを捕えた日本人によって強制された監禁と労役との非衛生的な状態から来る疾病に、いっそう容易に倒れた。このような事実によって、かれらの運命はいっそう悪いものにされていた。


捕虜と一般人抑留者に対する宣誓署名の強制

 捕虜と一般人抑留者に対して、必要な監視員の数を減らすために、1943年の初期に、戦争法規に反する規則が陸軍省から出された。これには、『俘虜を収容したるときは速やかに逃走せざる旨を宣誓せしむべし。前項の宣誓に応ぜざる者は逃走の意思あるものと見なし、これを厳重に取り締まるものとす』と規定されていた。この『厳重に取り締まる』ことは、実際には、要求されている宣誓を行なうまでは、給養を減らされて独房に入れられるか、拷問されるという意味であった。1942年8月に、シンガポールでは、要求された宣誓を拒否した1万6千人の捕虜は、無理に宣誓させるために、営舎の中庭に追いこまれ、そこに4日の間食物も便所設備もなく放って置かれた。その結果として生じた状態は、あまりに不快極まるもので、説明にたえない。宣誓の署名を拒否した香港の捕虜のある者は、食物なしに監獄に収容され、一日中ひざまずかされた。かれらは動くと殴打された。サンダカンの収容所で、部下とともに署名を拒否した先任の捕虜は、直ちに取り押さえられ、殴打された。銃殺隊が整列した。部下が署名することを承諾したので、やっとかれは死を免れた。バタヴィアとジャワの収容所の捕虜は、宣誓に署名するまで殴打され、食物を与えられなかった。四国の善通寺収容所では、41人の捕虜が宣誓を拒否したために、1942年6月14日から1942年9月23日まで閉じこめられ、最後には、どこまでも拒むならば、殺してしまうと威嚇された。すでに述べたように、捕虜に関する規則は、われわれが引用した他の規則によって、一般人抑留者にも適用された。この強制によって得た宣誓を励行させるために、右の規則は、さらに、『宣誓解放を受けたるものその宣誓に背きたるときは、死刑又は無期若しくは7年以上の懲役若しくは禁錮に処す。前項の者兵器を執り抗敵したるときは死刑に処す』と規定していた。規則には、さらに、『その他の宣誓に背きたる者は10年以下の懲役又は禁錮に処す』と規定されていた。この後の規定は、この規則の別の条項によって説明されている。それは次の通りである。『俘虜収容所長俘虜を派遣(すなわち、捕虜を収容所から使役または作業所に送ること)するにあたりては、その有する技能の外特にその性質、思想、経歴等につき周密なる調査、観察をなし、逃走及び不慮の災害等の予防に努め、かつ派遣に先立ち所要事項に関し厳粛なる宣誓をなさしむるものとす』と。板垣は朝鮮軍司令官として、1942年9月4日付の報告で、陸軍大臣東条に、自分の管轄内にある将校と准士官を含めて、一切の捕虜を労働につかせる考えであると知らせた。かれの言葉によれば、『俘虜は一人といえども無為徒食せしむべからず』というのであった。かれの定めた規則の一つは、次のようであるとかれは述べた。『俘虜による破壊を警戒すること緊要なり、これがため要すれば宣誓をなさしめ厳重なる罰則を設くるを可とす』と。1942年9月1日に、台湾軍司令官から、東条は次の報告を受けた。『富集団(「富」という名字の所長のいる収容所のことか)より移管せる俘虜パーシバル中将以下339名、陸軍少将または海軍少将6、准将27、陸軍大佐または海軍大佐25、陸軍または海軍中佐以下将校130、下士官210、文官6は、1942年8月31日台湾俘虜収容所に収容せり。当初パーシバル中将以下宣誓を拒否したるが、結局3名(准将1、海軍大佐1、海軍機関中尉1)を除く他の全員署名す』と。

 捕虜と一般人抑留者に、逃走しないこと、その他の日本政府の規則や命令に違反しないことを強制的に宣誓させるために、日本政府が定め、かつ実施したこの一連の規則は、一般の戦争法規に違反したものである。この規則は、戦争法規を無視し、違反した日本政府の方針の一部として考え出され、制定され、維持された。

過度かつ不法な処罰科せらる (原資料253枚目)

 捕虜収容所と一般人抑留所の所長に対する訓示の中で、東条は部下の統制を強化し、捕虜の監督を厳重にせよと述べ、『厳格なる紀律に服せしむるを要す』といった。1942年5月30日に、善通寺の師団長に対する訓示の中で、この命令を繰り返して、かれは次のようにいった。『俘虜は人道に反しない限り厳重に取り締まり、いやしくも誤まれる人道主義に陥り、または収容久しきにわたる結果情実に陥るがごときことないよう注意を要します』と。

 1929年のジュネーヴ俘虜条約は、捕虜が捕虜である間に犯した違反行為に対する処罰に関して、次のように規定している。『一切の体刑、日光により照明せられざる場所における一切の監禁及び一般に一切の残酷なる罰を禁ず』。また、『同様に個人の行為につき団体的の罰を課することを禁止す』。捕虜に加えられる処罰に対する他の重要な制限も含まれている。それらはすべて捕虜に対する人道的な取り扱いを保障するためにつくられたものである。これらの制限の一つは、この条約の規定で、逃走とその企てを取り扱っているものに含まれている。この規定は、次の通りである。『逃走したる俘虜にしてその軍に達する前またはこれを捕えたる軍の占領したる地域を離るるに先だち再び捕えられたる者は懲罰のみに付せらるべし。逃走の企てまたはその成就後において逃走に協同せる逃走者の同僚はその理由により懲罰のみに付せらるべし。拘留は俘虜に課せらるべき最も重き即決罰とす。同一罰の期間は30日を超過することを得ず。』この場合に、懲罰と即決罰とは同義語として用いられた。さらに、次のことも規定されている。『逃走の企ては再犯の場合といえども俘虜が該企て中人または財物に対して犯せる重罪または軽罪につき裁判所に訴えられたる場合において刑の加重情状として考慮せられざるべし。』

 日本がこの条約を確実に了解していたことは、1934年に、その批准に対してなされた反対によって示されている。この条約のもとでは、『俘虜に対しては、日本兵に対するごとき懲罰を科することを得ず、従って日本軍人を同様に取り扱うには、日本陸海軍の懲罰令の修正を必要とし、かかる修正は軍紀の見地より望ましからず』と日本はいった。条約の批准に対する反対は、実のところは、捕虜を虐待する軍部の方針を妨げるような明確な誓約を避けたいと、軍部が希望していたということである。

 太平洋戦争の初期に、そして、日本政府が条約の規定を、連合軍捕虜と一般人抑留者とに適用するという約束を与えた後に、その約束に反する法令や規則が設けられた。1943年に、次の規則が公布された。『俘虜不従順の行為あるときは監禁、制縛その他懲戒上必要なる処分をこれに加うることを得』。この規則に基づいて、拷問及び集団的処罰とともに、体刑が行なわれた。最も軽微な違反のために、またはまったく違反がないのに、体刑を科するということは、捕虜と一般人抑留者の収容所が存在したすべての地域で、共通な慣行であった。この罰の最も軽い形式は、犠牲者を殴打することと蹴ることであった。意識を失った者は、冷水または他の方法で回復させられ、回復すれば、またこのやり方が繰り返された。この処罰の結果として、数千名が死亡した。ある場合には、飢餓と病気による衰弱によって、死が早められた。しばしば用いられた他の残酷な処罰の方法は、次のものであった。長時間にわたって、帽子も他の日除けもなしに、熱帯の炎天下に犠牲者をさらしたままにしておくこと、ときには腕が関節からはずれることもあるような方法で、犠牲者を吊るすこと、害虫に襲われるようなところに、犠牲者を縛りつけておくこと、何日間も食物なしに、犠牲者を狭い拘禁所の中に閉じこめておくこと、何週間も食物も明かりも新鮮な空気もない地下の独房に、犠牲者を閉じこめておくこと、長い間鋭い角のある物の上に、犠牲者を無理に窮屈な姿勢でひざまずかせること。

 戦争の条規を直接に無視して、個人の行為に対する処罰として、特に日本側が違反者を発見することができないときに、集団的処罰が普通に用いられた。集団的処罰の通常の方法は、関係していた一団のすべての者に、掌を上にして手を膝の上に置いて正座するとか、ひざまずくとかいうような窮屈な姿勢をとらせ、何日間も、日の出から日没まで、その姿勢のままいることを強制することであった。他の方法の集団的処罰も用いられた。たとえば、マレーのハヴェロック・ロード収容所で用いられたようなもので、ここでは、銃床で殴打する日本兵に追い立てられながら、捕虜がガラスのかけらの上を素足で円形に駆けさせられた。1943年3月9日に、数々の違反行為に対して、死刑または終身刑もしくは10年以上の禁錮刑を規定した法律が出された。この法律の目新しい特徴は、各違反行為の場合に、明示された違反行為を犯す結果となった集団行動のいわゆる『首魁』には、死刑または他の厳罰を科し、関係していたかもしれない他のすべての者には、同一の罰またはそれより少し軽い罰を科することを規定していたことである。この法律に基づいて、どんな点から見ても、個人の行為にすぎなかったのに、捕虜または一般人抑留者の集団に対して、しばしば集団的処罰が加えられた。この法律は、さらに、『俘虜を監督し、看守しまたは護送する者の命令に反抗しまたはこれに服従せざる者』は死刑に処することを規定した。また、『俘虜を監督し、看守しまたは護送する者をその面前においてまたは公然の方法をもって侮辱したる者』は5年の懲役または禁錮に処すことを規定していた。これは、捕虜に関する法律を変更することによって、日本政府がジュネーヴ条約に関するその約束に違反した例であり、このような例は多数ある。

 太平洋戦争中に、すでに述べた約束に反して、日本の捕虜に関する規則は、逃走した捕虜を日本陸軍の脱走者と同じように処罰することができるように修正された。1943年3月9日の法律は、次の規定を含んでいた。『党与して逃亡したる者は首魁は死刑または無期もしくは10年以上の懲役もしくは禁錮に処しその他の者は死刑または無期または1年以上の懲役または禁錮に処す』。捕虜に強制されたところの、逃走しないという宣誓に関する規則とともに、右の規定は、すべての収容所で実施されていた逃走に関する規則であった。これらの規則は、国際法に直接違反するものであり、またわれわれがすぐ前に指摘したように、日本が適用すると約束した条約に反するものであった。逃走を企てたり、逃走して再び捕えられたりしたすべての捕虜に対しては、これらの規則に基づいて、ほとんど例外なしに、死刑が科せられた。また、これらの規則によって、捕虜の逃走を助けた仲間も処罰され、しかもしばしば死刑に処せられた。ある収容所では、捕虜はいくつかの集団にわけられ、もし一人が逃走を企てたり、逃走に成功したりした場合には、その集団に属するすべての者を殺すという慣行があった。多くの場合には、形ばかりの裁判さえも省かれた。次の収容所では、逃走を企てたために死刑が科せられたことが立証されている。中国遼寧省の奉天(1943年7月)、中国の香港(1943年7月)、マレーのシンガポール(1942年3月)、ビルマのメルグイ(1942年)、ボルネオのタラカン(1942年及び1945年)、ボルネオのポンチアナック(1942年6月)、ボルネオのバンジェルマシン(1942年7月)、ボルネオのサマリンダ(1945年1月)、スマトラのパレンバン(1942年3月)、ジャワのバタビア(1942年4月)、ジャワのジャティ・ナンゴール(1942年3月)、ジャワのバンドン(1942年4月)、ジャワのスカブミ(1942年5月)、ジャワのジョグジャカルタ(1942年5月)、ジャワのジマヒ(1942年5月)、セレベスのマカッサル(1942年9月)、モルッカ諸島のアンボイナ(1942年11月)(1945年4月)、オランダ領チモールのウサパ・ベサール(1942年2月)、フィリッピンのカバナツアン(1942年6月)、日本の本山(もとやま。神戸市東灘区)(1942年11月)、日本の福岡(1944年5月)、ウェーキ島(1943年10月)、ボルネオのラナウ(1945年8月)。

捕虜に対する侮辱 (原資料258枚目)

 日本民族の優越性をアジアの他の民族に感じさせるために、連合軍の捕虜に対して、暴行、侮辱及び公然の恥辱を加える方針を日本はとっていた。

 1942年3月4日に、陸軍次官木村は、板垣が司令官であった朝鮮軍の参謀長から、次のような電報を受け取った。『半島人の米英崇拝観念を一掃して必勝の信念を確立せしむるためすこぶる有効にして、総督府及び軍ともに熱望しあるにつき、英米俘虜各一千名を朝鮮に収容せられたく特に配慮を乞う』と。当時の朝鮮総督は南であった。1942年3月5日に、木村は白人捕虜約一千名が朝鮮釜山に送られることになっていると回答した。1942年3月23日に、板垣は陸軍大臣東条に対して、捕虜を思想宣伝方面の目的に使用する計画について報告し、次のように述べた。『米英人俘虜を鮮内に収容し、朝鮮人に対し帝国の実力を現実に認識せしむるとともに、依然朝鮮人大部の内心抱懐せる欧米崇拝観念を払拭するための思想宣伝工作の資に供せんとするにあり』と。板垣はさらに続けて、第一収容所は朝鮮京城の元岩村製糸倉庫に置くことになっているといった。かれの初めの計画は、釜山の神学校に捕虜を収容することであったが、その建物は捕虜にはよすぎると木村が反対したので、その計画が放棄されたからである。計画の主要な点として、板垣は次のことを挙げた。報告の冒頭で述べた目的を達成するために、朝鮮の主要都市で、特に民衆の心理状態がよくないところで、捕虜を種々な作業に使用すること、収容所の施設を最小限度に切り下げること、捕虜の収容、監督及び警戒に関しては、捕虜を朝鮮に送る目的に照らして、遺憾のないようにしなければならないこと。

 1942年4月2日に、台湾軍参謀長は、捕虜を軍需生産増強のための労働としてだけではなく、『訓育指導上の資料として』使用する計画であるということを、俘虜情報局に報告した。

 このように、戦争法規に違反して、日本に都合のよい宣伝のために捕虜を利用する計画が実施された。1942年5月6日に、陸軍次官は台湾軍参謀長に対して、『白人俘虜は逐次朝鮮、台湾、満州等に収容するという通牒を出した。かれはつけ加えて、『警戒取締りのため朝鮮人及び台湾人をもって編成する特殊部隊の充当を予定す』といった。連合軍捕虜に対して侮辱を加え、公衆の好奇心にさらす計画に、朝鮮人と台湾人を参加させることによって、思想的効果を挙げることになっていた。

 1942年5月16日に、陸軍次官木村は、シンガポールに司令部を置いていた南方軍の司令官に対して、シンガポールの白人捕虜は、5月と8月の間に、台湾軍と朝鮮軍に引き渡すようにと通告した。

 白人捕虜は引き渡され、朝鮮に送られた。マレーの戦闘で捕えられた約千人の捕虜は朝鮮に到着し、京城、釜山及び仁川の市街を行進させられ、十二万の朝鮮人と五万七千の日本人の前を列をつくって歩かされた。これらの捕虜は、それまでに栄養不良になり、虐待され、放置されていたので、かれらの健康状態は、かれらを見た者に軽蔑の念を起こさせるようになっていた。板垣の参謀長は、この日本の優越性の示威に関して、自分が大成功であったと考えていることを木村に報告するにあたって、次の朝鮮人見物人の言葉を引用した。『あの力のないひょろひょろした様子を見れば、日本軍に敗れるのは無理もない。』ほかの朝鮮人見物人の次の言葉も引用した。『半島青年が皇軍の一員として捕虜の監視をしているのを見たとき、涙が出るほど嬉しかった。』板垣の参謀長は、『一般に米英崇拝思想の一掃と、時局認識の透徹を期する上において多大の効果を収めたるがごとく』という意見を述べて、報告を結んだ。

 ビルマのモールメンのような遠く離れたところでも、捕虜を列をつくって歩かせるというこの慣行が行なわれた。1944年2月に、25人の連合軍捕虜が同市の市街を列をつくって歩かせられた。かれは衰弱した状態にあった。そして、最近にアラカン戦線で捕えられたという偽りの、ビルマ語の掲示を持たされた。行進に同行した日本人将校によって、かれらは嘲笑され、軽蔑の的にされた。

制度 (原資料262枚目)

 戦争法規の実施と、捕虜及び一般人抑留者の管理とについて、太平洋戦争が起こってから、日本はある変更を加えたが、それは名目的なものにすぎず、戦争法規の実施を確実にするものではなかった。戦争法規の実施について、中日戦争の遂行にあたって、日本政府が示した態度は、太平洋戦争が始まっても、実際には変わらなかった。政府内の組織と手続きの方法とに、ある変更が加えられはしたが、戦争法規の実施を確実にするための真の努力は、少しも払われなかった。実際において、逃走の企図に関する規則に示されているように、加えられた変更は、戦争法規の重大な違反を行なうことを命ずるものであった。中日戦争の間、捕虜と一般人抑留者の管理のために、日本政府は特別な機関を一つも創設したことがなく、ヘーグ条約とジュネーヴ条約によって必要とされている捕虜情報局を全然設けていなかった。武藤は次のように述べた。『中国人で捕えられた者を俘虜として取り扱うか否かは全く問題でありました。そして1938年に遂に、中国の戦争は、実は戦争でありますが、公けには「事変」として知られていますので、中国人で捕えられた者は俘虜として取り扱われないということが決定されました』と。東条は、それが事実であること、また、太平洋戦争で敵対行為が始まってから、日本はヘーグ条約とジュネーヴ条約を遵守しなければならないと考え、この理由によって、俘虜情報局を創設させたことを陳述した。このように、太平洋戦争を遂行するにあたって、日本はヘーグ条約とジュネーヴ条約を遵守しなければならないと考えたと、東条が陳述したことは、1943年8月18日の枢密院審査委員会の会議で、かれが述べたことと照らし合わせて、解釈しなければならない。このときに、『国際法の解釈は戦争遂行の観点より独自の見解をもってすべく』とかれは述べた。捕虜と一般人抑留者の取り扱いに関する日本政府の方針は、この考えを基礎としてつくり上げられたものである。

日本、1929年のジュネーヴ条約の適用に同意 (原資料263枚目)

 1941年12月18日に、合衆国の国務長官は、スイスのアメリカ公使館に対して、次のことを日本政府に通告するように、スイス政府に要請することを指令した。すなわち、合衆国政府は、1929年7月27日に調印されたジュネーヴ俘虜条約とジュネーヴ赤十字条約との両方を遵守する意向であること、さらに、ジュネーヴ俘虜条約の規定を、同政府が抑留する一般敵国人に対しても拡張して適用する意向であること、日本政府がこれらの条約の規定を右に示したように相互的に適用することを希望すること、合衆国政府は右の点について日本政府に意思表示をしてもらいたいこと。この照会は、1941年12月27日に、スイス公使によって、日本の外務大臣東郷に伝達された。

 イギリス政府とカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの各自治領の政府も、1942年1月3日に、東京駐在のアルゼンチン大使を通じて照会をした。この照会の中で、これらの政府は、1929年のジュネーヴ俘虜条約の条項を日本に対して遵守すると述べ、日本政府が同様な声明を行なう用意があるかどうかを尋ねた。

 1942年1月5日に、アルゼンチン大使は、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドに代わって、さらに覚書を手交した。それは、捕虜に食物と衣服を支給することに関する同条約の第11条と第12条の適用について、両当事国が捕虜の国民的と民族的の慣習を考慮することを申し入れたものである。

 これらの照会を受け取ると、東郷は陸軍省、内務省、拓務省の意見を求めた。その当時、東条は総理大臣兼陸軍大臣、武藤は陸軍省軍務局長であり、佐藤は軍務局にあって武藤の補佐をしており、木村は陸軍次官、嶋田は海軍大臣、岡は海軍省軍務局長であり、星野は内閣書記官長であった。

 連合国で生活している日本人の安全について、東郷は心配していた。この理由から、右の照会に対して好意的な返事をしたいと望み、そのように条約局に指示した。そのときに、数十万に上る敵国在住日本人の運命は、日本の権力内にはいる捕虜と一般人抑留者に対する日本の取り扱いによって、影響を受けるであろうとかれは指摘した。陸軍省は東郷に同意した。1942年1月23日に、木村は東郷に対して、次のように告げた。『ジュネーヴ俘虜条約は御批准あらせられざりしものなるに鑑み、右条約の遵守を声明し得ざるも、俘虜待遇上これに準じて措置することには異存なき旨通告するに止むるを適当とすべし。俘虜の食料及び衣類の補給に関しては、俘虜の国民的民族的習慣を適宜考慮することに異存なし』と。

 アメリカとイギリスの照会に対して、東郷は1942年1月29日に回答をした。合衆国政府へのかれの通牒は、次の通りである。『日本帝国政府は1929年7月27日のジュネーヴ赤十字条約の締約国として同条約を厳重に遵守し居れり。日本帝国政府は俘虜の待遇に関する1929年7月27日の国際条約を批准せず、従って何ら同条約の拘束を受けざる次第なるも、日本の権内にあるアメリカ人たる俘虜に対しては、同条約の規定を準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)すべし。』同じ日付で、イギリス、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドの各政府に宛てられた通牒は、次の通りである。『帝国政府は1929年7月27日付の俘虜の待遇に関する条約は批准し居らざるをもって何らこれに拘束せらるる所なきも、帝国の権力下にあるイギリス、カナダ、オーストラリア及びニュージーランドの俘虜に対しては右条約の規定を準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)すべく、俘虜に関する食料及び医療の支給に当たりては、相互的条件の下に俘虜の国民的及び民族的習慣を考慮すべし』と。同じ誓約は、その他の連合国にも与えられた。

 これらの規定を一般人抑留者にも拡張することには、陸軍省が同意しなかったので、抑留非戦闘員に対する俘虜条約の適用に関して、1942年1月27日に、東郷はかれの次官を通じて、陸軍省に問い合わせた。会議の後に、陸軍省は、連合国にいる日本国民を保護しようとする東郷の計画をさらに認め、1942年2月6日に、木村が東郷に次のように知らせた。『1929年のジュネーヴ俘虜条約は、日本に対し何ら拘束力を有せざるも、同条約の原則を、準用し得る範囲において、抑留非戦闘員にも準用することに異存なし、ただし本人の自由意思に反し、労役に服せしめざるを条件とす』と。

 1942年2月13日に、合衆国政府に対して、東郷は次のように通告した。『帝国政府は、本戦争中、敵国人たる抑留非戦闘員に対し、1929年7月27日の俘虜条約の規定を相互条件の下において能う限り準用すべし。ただし交戦国が本人の自由意思に反し、労役に服せしめざることを条件とす。』

 1942年1月29日に、イギリス連邦諸国にあてて、東郷が日本は捕虜に衣服と食糧を与えるにあたって、捕虜の国民的と民族的の習慣を考慮するという誓約をしたことを認めて、合衆国はこの問題について別の照会を出した。この照会は、1942年2月20日付であって、合衆国政府はジュネーヴ条約第11条と第12条に従い、捕虜についても、一般人抑留者についても、同じ規定に拘束されるものであり、従って、日本政府も、同じように、捕虜と一般人抑留者の取り扱いについて、右の規定に従うことを期待すると述べてあった。東郷は、この照会に対して、1942年3月2日に、次のように回答した。『帝国政府においても帝国の権内における米国人捕虜及び抑留非戦闘員の待遇に関し、食糧及び衣服を支給する上において、人種的、国民的風習を考慮に入るる意向にこれありそうろう』と。

 この誓約の交換によって、日本政府とその他の交戦国政府を拘束する厳粛な合意が成り立った。その合意というのは、1929年7月27日のジュネーヴ俘虜条約の規定を、捕虜にも一般人抑留者にも同じように適用すること、この条約によって要求されているように、食糧と衣服をかれらの支給する際には、かれらの国民的と民族的の習慣を考慮すること、抑留者を強制的に働かせないことであった。この合意は、相互主義の精神において、すなわち、それぞれ他方がしたことに対応して同じことをするというように、双方によって同等に、右の条約を適用すべきことを定めたものである。この合意によって定められた右の規則に対する唯一の例外は、『準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)』という留保に基づいて、正当化することができるようなものだけであった。日本の国内法と抵触するという理由で例外を設けることは、この合意が許さなかった。そのことは、解釈上で明白であり、また次のような東郷の証言によって示されている。『本件に関する米英両政府よりの照会は、事務上の手続に従って、外務省の主管局たる条約局より本件に関し決定をなす権限ある省として陸軍省に取り次がれた。これに対し外務省の受領した回答は、日本はジュネーヴ条約を準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)するということであり、右は両政府に取り次がれた。

 『検察側は右の回答により、日本は同条約を批准したと同じ程度にこれに拘束されるものとなすもののごとくであるが、余は日本は本条約を事情の許す限り適用する義務を負うものであると解した。(余は今なおかく解するものである)余は準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)とは、重大なる支障なき限り条約を適用する意味であると解した。さらに余は(これは余自身の考えであるが)条約の要件が国内法に抵触する場合には条約が優先するものであると解した。』連合国の照会に対する回答に関して、他の省との会議を司会していた条約局長が、右のことをさらに確認した。

 この合意ができたときには、東条内閣の閣僚は、われわれの解釈したように、連合国に了解させようと考えていたにもかかわらず、かれらはこの合意を守らなかった。それどころか、この合意は、日本人が連合国の手によって捕虜となるか、抑留されるかした場合に、かれらが必ずよい取り扱いを受けるようにする手段として使われた。連合国の照会に対してなすべき回答について、東郷が陸軍次官木村の意見を求めたときに、木村はこれに答えて、日本は俘虜条約を遵守すると『通告するを適当とすべし』と述べたが、この言葉の前に、天皇がこの条約を批准していない事実にかんがみ、これを遵守する意思を声明することはできないと述べた。その後の日本の政府は、この条約を実行しなかった。というのは、国務大臣たちは、連合国に対するこれらの誓約を、捕虜と抑留者の利益のために、新たな追加的義務を果たす約束であると考えたにもかかわらず、捕虜と抑留者を担当している部下に対して、この新しい約束を実行に移すように、新たな命令や指示を全然出しておらず、この約束の実行を確実にする組織もまったく設けなかったからである。かれらはこの合意を履行する努力をしないで、その犯罪的な不履行をつとめて連合国側にさとらせまいとした。そのために、捕虜と抑留者の収容所を視察することを拒否したり、捕虜または抑留者が出そうとする手紙の長さ、内容、数を制限したり、これらの捕虜と抑留者に関する一切の報道を押さえたり、捕虜や抑留者の取り扱いに関して、自分たちにあてられた抗議や照会に回答を怠り、または虚偽の回答をしたりした。

 捕虜と一般人抑留者の取り扱いに関する各種の条約の効果と、その点についての交戦国の義務とについては、この判決の初めの部分で、すでに言及しておいた。ジュネーヴ俘虜条約を『準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)』的に遵守するという日本政府の誓約または約束については、それをどう考えようとも、すべての文明国が承認した戦争に関する慣習法規によれば、捕虜と一般人抑留者には、すべて人道的な取り扱いを与えなければならないということは、動かすことのできない事実である。本判決のこの部分で挙げられている日本軍の甚だしく非人道的な取り扱いこそは、特に非難すべきものであり、犯罪的なものである。このように非人道的行為な罪を犯した者は、自己または自己の政府がある特定の条約の拘束を受けていないという口実によって、罰を免れることはできない。法の一般原則は、上記の諸条約には関係なく存在している。条約は単に既存の法を再確認し、それを適用するための、詳細な規定を定めるものにすぎない。

 条約を『準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)』的に遵守するという日本政府の約束の効力について、弁護人は、他のこととともに、立証された多くの場合における食糧と医療品の不足は、連合国の攻勢によって生じた輸送手段の混乱と欠如に基づくものであったと申し立てた。この議論は、これを狭く適用した場合には、何かの価値があるかもしれない。しかし、捕虜と抑留者に配布するために、連合国が必要品を送ろうと日本政府に申し入れたのに、この申入れを日本政府が拒絶したという証拠がある以上は、右の議論は効果を失うものである。

 『準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)』という条件の正確な定義を述べる必要はない。なぜならば、弁護段階のいずれにおいても、この言葉によって、日本軍の残虐行為とその他の甚だしい非人道的行為が正当化されるというようなことは、少しも言われたことがなく、暗示されたことさえもなかったからである。また、これらの言葉によって、すでに明白に立証されている掠奪、強奪、放火が正当化できると主張されたこともなかったからである。これらの点については、証言を行なった被告も、大部分は、供述された諸事件についてまったく知らなかったと申し立てたにすぎなかった。

 この条件に何らかの解釈を加えて、残虐行為を正当化しようとすることは、『準用(「準用」に小さな丸で傍点あり)』という言葉を挿入することによって、基本原則として人道的な取り扱いを定めている条約に従うような風を装い、この仮面のもとに、甚だしい野蛮行為をしても、日本軍は罰を受けずにすむであろうと主張するのと、少しも異ならないであろう。このような主張は、もとより容認することができない。

捕虜虐待は一つの方針 (原資料271枚目)

 日本政府は、陸戦の法規慣例に関する1907年のヘーグ第四条約に調印し、これを批准した。これは捕虜の人道的取り扱いを規定し、戦争の背信的な非人道的な遂行を不法とするものであった。1929年にジュネーヴで調印したジュネーヴ俘虜条約を日本政府が批准もせず、実施もしなかった理由は、日本の軍人の基本的訓練の中に見出すことができる。起訴状に含まれている期間の初めより遥かに前から、日本の青年は、『大君の辺にこそ死なめ』と教えられていた。これは荒木が演説や宣伝映画の中で繰り返している教訓である。さらに、もう一つの教訓は、敵に降伏するのは恥辱であるという言葉であった。

 これらの二つの教訓の結合した効果は、降伏した連合国軍人に対する軽蔑の精神を日本の軍人に教えこんだことであった。この精神は、戦争の条規を無視して、かれらが捕虜を虐待したことに現われている。この精神から、やむを得ず降伏するときまで堂々と勇敢に戦った軍人と、戦わないで降伏した軍人との間に、かれらは少しも区別をしなかった。どんな状況であろうとも、降伏した敵の軍人はすべて汚名を着せられ、それを捕えた者の情けによるほかは、生きる権利がないと見なされることになっていた。

 1929年のジュネーヴ条約を批准し、実施することは、右の軍部の見解を放棄することになると考えられた。この条約は、1929年にジュネーヴで日本の全権によって調印されていた。しかし、1934年にこの条約の批准が問題になったときに、日本の陸軍も海軍も批准反対の要請をした。その当時には、すでにかれらは充分に批准を阻止し得る政治力をもっていた。批准を拒否する理由の一部として、この条約によって課せられる義務は一方的であること、この条約は日本に新しい追加的な負担を課すること、しかも、日本軍人は一人として絶対に的に降伏する者はないのであるから、日本はこれを批准しても、何も得るところがないことをかれらは挙げた。

 これに関連して、東条が捕虜収容所長に訓令を与え、次のように言ったことは、興味がある。『そもそも我が国は俘虜に対する観念上その取扱いにおいても欧米各国とは自ずから相異なるものあり』と。


日本の目的は日本国民の保護であった

 俘虜情報局を設置するという決定は、1941年12月12日に外務省から陸軍省に伝達されたジュネーヴの国際赤十字社からの照会によって、促されたものであった。国際赤十字社は日本外務省に電報をうち、その中で、戦争が太平洋に拡大した事実にかんがみ、国際赤十字社の委員会は、交戦国に俘虜中央情報局の機能を自由に利用できるようにしたことを告げ、日本政府は、ジュネーヴの中央局を通じて、捕虜に関する情報の表を、また、できる限り、一般人抑留者に関する情報の表を交換する意向があるかどうかを尋ねた。陸軍省の関係官によって会議が重ねられ、1941年12月28日に、陸軍次官木村は外務大臣東郷に対して、陸軍省は情報交換の用意があるが、『1929年の俘虜条約の含まるる規定を、「事実上適用するの用意あることを宣言する」に非ずして、「情報伝達の便宜上利用する」趣旨とすること』を通告した。1942年1月12日までに、国際赤十字社は、日本と合衆国から、情報伝達を行なう用意があることを言明した回答を受け取った。


俘虜情報局の設置

 俘虜情報局は、1941年12月27日に、勅令によって設置された。この局は次の問題の調査をつかさどった。すなわち、捕虜の留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院及び死亡である。さらに、各捕虜の銘々票の作成補修、捕虜に関する通信の処理、捕虜に関する情報収集の任務も与えられた。この勅令は、右の局に長官一人、事務官四人を置くことを定めた。この俘虜情報局は、陸軍大臣の監督と支配のもとに置かれ、陸軍省軍務局に属する一部局として組織され、時期は異なるが、武藤と佐藤の軍務局における支配と監督のもとにはいった。俘虜情報局の職員は、すべて陸軍大臣の推薦によって任命された。東条は上村中将をこの局の初代の長官に任命した。


俘虜管理部の設置

 1942年3月31日に、『俘虜取り扱いに関する規定』が発せられ、これによって、陸軍大臣としての東条の監督と支配のもとに、陸軍省の軍務局内に、『俘虜管理部』と呼ばれたものが設置された。軍務局長としての武藤を通じて、東条はこの支配と監督を行なった。この規定は、右の部には、陸軍大臣の推薦に基づいて任命される部長一名と、その他の職員を置くと定めた。東条は初代の部長として上村中将を任命し、これによって、俘虜情報局と俘虜管理部の運営を一人に兼ねさせた。俘虜情報局は、木村がいったように、情報と記録の役所にすぎないもので、1929年の俘虜条約の規定を、情報入手の目的で利用するためにつくられた。それは捕虜と一般人抑留者に対する支配や監督の権能をもっていなかった。これに反して、俘虜管理部は、『俘虜及び戦地における抑留者の取り扱いに関する一切の事務を行なう』権限を与えられていた。


軍務局、支配権を保持

 武藤のもとに、後には佐藤のもとにあった陸軍省の軍務局は、太平洋戦争の間、戦争法規の実施のために設けられた組織の支配権を保持していた。俘虜情報局を設置する勅令は、『長官はその所管事務につき陸海軍の関係部隊に通報を求むることを得』と定めたが、上村中将とその後の長官は、すべての照会とその他の通信を、軍務局長の手を通じて送らなければならなかった。軍務局長の承認がなければ、かれらはどんな行動をとる権能もなかった。

 東条によれば、捕虜と一般人抑留者に関する一切の命令と指示は、陸軍大臣によって発せられた。また、これらの命令や指示は、軍務局長が参謀本部やその他の関係政府機関と協議した後、軍務局が起草したとかれはいっている。

 後に間もなく論ずるように、陸軍省内では、局長会議が二週間ごとに開かれ、これには陸軍大臣と陸軍次官が出席した。東条と木村は、この会議には、たいてい出席した。木村は1941年4月10日から1943年3月11日まで陸軍次官であった。捕虜と一般人抑留者に関する事項は、この会議で討議され、東条と木村も時々出席していた。命令や規則が立案され、捕虜と一般人抑留者との取り扱いに関係した一切の政府機関に送られた。


収容所とその管理

 捕虜収容所は、1941年12月23日に、勅令と陸軍省が出した規則によって承認された。この規則は、捕虜収容所は軍司令官または衛戍司令官が管理し、陸軍大臣がこれを全般的に統轄すると定めた。しかし、すでに述べたように、これらの収容所がすべて軍司令官のもとに置かれていたわけではなかった。海軍の管轄下の地域では、右に相当する階級と権限をもつ海軍将校によって、収容所は管理された。

 一般人抑留者の収容所は、1943年11月7日に、陸軍省が出した規程によって承認された。この規程は次のように定めた。『軍司令官――軍司令官に準ずる者を含む、以下同じ――戦地において敵国人または第三国人を抑留したるときはなるべく速やかに軍抑留所を設置するものとす。軍抑留所はこれを設置したる軍司令官これを管理す。』

 一般人抑留者の管理について定めた一般規程が出されたが、それは捕虜の管理を定めた規程と実質的に異なるものではなかった。一般人抑留者だけに適用される特殊規程が出されている場合を除いて、捕虜に適用される規程は、すべて一般人抑留者にも適用されることになっていた。この規程は、『軍抑留所はこれを設置したる軍司令官これを管理す』ということも定めた。

 以下の被告は、太平洋戦争中に、軍隊指揮官として抑留所を管理した。土肥原は日本で東部軍管区司令官として、またシンガポールで第七方面軍司令官として、畑は中国で全日本派遣軍司令官として、また日本の本州中部と西部で軍管区司令官として、板垣は朝鮮軍司令官として、またシンガポールで第七方面軍司令官として、木村はビルマで軍司令官として、武藤は北部スマトラで日本軍司令官として、佐藤は仏印で軍司令官として、梅津は満州で関東軍司令官として。

 この規程は、次のように定めた。『軍司令官または衛戍司令官は必要あるときは部下を派遣し俘虜または一般抑留者収容所の事務を補助せしむることを得。前項の規定により派遣せられたる者は所長の指揮監督を承くるものとす。』捕虜と一般人抑留者の収容所を管理するために、特別の監督者または所長が選ばれて、東京で訓練を受けた。かれらは慎重で詳細な指示を受けた。この指示は、総理大臣東条みずからの訓示によって完了した。それが終わってから、これらの収容所長は、捕虜と一般人の抑留者収容所の設けられているところの、あらゆる場所に日本から派遣され、陸軍と海軍の指揮官の指揮のもとに、これらの収容所を管理し、運営した。これらの収容所長は、規則によって、陸軍省軍務局の中の俘虜管理部に、月報を出さなければならなかった。これらの報告は、陸軍省の二週間ごとの局長会議で討議された。この会議には、陸軍大臣と陸軍次官が出席するのが通例であった。これらの報告の中には、栄養不良とその他の原因に基づいて、収容所内における高い死亡率に関する統計がはいっていた。この点は特に自分の注意を引いたと東条は述べた。収容所長からの月報の要約は、俘虜管理部と同じ長官のもとにある俘虜情報局の事務所に保管された。

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