歴史の部屋

海軍もこの制度に関与 (原資料277枚目)

 海軍は、その捕えた捕虜と抑留した一般人抑留者とを、すべて陸軍に引き渡し、これに抑留と管理をさせるようになっていたが、多くの場合には、このことが行なわれず、または長い間遅れた。また、ある地域では、海軍が占領地域の行政管轄権を行使した。たとえば、ボルネオ島、セレベス諸島、モルッカ諸島、チモール島、バリ島を通る線より東にある他の諸島などの島々を海軍は占領した。海軍が占領したこれらの地域では、海軍大臣が捕虜と一般人抑留者を管理し、これらの地域における戦争法規の実施は、嶋田と岡の指揮のもとに、海軍の責任となった。


日本内地におけるこの制度の運営

 日本国内に抑留された捕虜は、その他の地域の捕虜と同じように、陸軍省のもとにあった。しかし、内務省が日本国内の警察を担当しており、従って同省が日本内地の一般人抑留者に関する一切の事項を管理するのが正当であると考えられたといわれている。1941年10月18日から1942年2月17日まで、及び1942年11月25日から1943年1月6日まで、東条が内務大臣をつとめたことをここに記しておこう。東条は、『内務省の下に非戦闘員を扱う別個の機関がありました。その名前を何と言ったか承知しておりません』と述べた。

 国防と軍事行政上の目的で、日本は八つの軍管区にわかれていた。各軍管区は一つの軍が受け持っていた。この軍の司令官は、その軍管区の軍事行政官でもあり、その軍管区内のすべての捕虜収容所の管理もしていた。東部地区は京浜地区を含み、第十二方面軍が受け持っていた。土肥原は、1943年5月1日から1944年3月22日まで、また再び1945年8月25日から1945年9月2日の降伏の時まで、この軍を指揮し、この地区を管理した。中国軍管区は広島地区と本州の西端までを含み、第二総軍が守備していた。1945年4月7日から1945年9月2日の降伏まで、畑はこの軍団を指揮した。


台湾、朝鮮、樺太におけるこの制度の運営

 台湾、朝鮮、樺太のような、作戦行動地域にはいっていない日本の海外領土では、一般人抑留者は拓務省の管理のもとにあった。しかし、これらの領土内の捕虜は、他の地域の捕虜と同じように、陸軍省の管理のもとに置かれていた。拓務省は1929年6月10日の勅令で設置された。この勅令は、同省が朝鮮総督府、台湾総督府、関東州庁及び南洋庁に関するあらゆる事項を管理することを定めた。日本政府の重要戦時再編成を行なうために、同省は1943年に廃止され、その職務は内務省と大東亜省とに分割移管された。1941年10月18日から1941年12月2日まで、東郷は拓務大臣であった。


占領地におけるこの制度の運営

 大東亜省は1942年11月1日に勅令によって創設された。この勅令は、次のように定めている。『大東亜大臣は大東亜地域(内地、朝鮮、台湾及び樺太を除く)に関する諸般の政務の施行(純外交を除く)を管理す。大東亜大臣は関東局及び南洋庁に関する事務を統理す。大東亜省に左の四局を置く。総務局、満州事務局、支那事務局、南方事務局。』この省は、朝鮮、台湾及び樺太以外の日本の武力下に陥り、または陥るかもしれないすべての地域を統轄するために組織されたのであった。勅令はさらに『大東亜省において陸海軍に策応協力するため大東亜地域内占領地行政に関連する事務を行なうものとす』と定めた。最初の大臣は青木で、重光がそのあとを継いだ。重光は1944年7月20日に同省の大臣となり、1945年4月7日に東郷とかわるまで在任した。東郷は1945年8月16日まで在任した。


占領地におけるこの制度を運営した被告

 梅津は1939年9月7日に関東軍司令官となり、1944年7月18日まで在任した。かれは満州国の事実上の統治者であったし、満州における捕虜と一般人抑留者の待遇について、直接に責任を負っていた。畑は1941年3月1日から1944年11月22日まで日本の支那派遣軍の総司令官であった。1943年3月11日に、木村は陸軍次官を辞任した。かれは1944年8月30日に日本のビルマ方面軍司令官に任命され、降伏の時まで在任した。ビルマにおける在任中に、かれは陸軍次官として在任中に立案に助力した諸方針を実行に移した。かれはまずラングーンにその司令部を設置した。そのときに、同方面のシーポウ、モクソクウィン保安林、ヘンザダ、オングン墓地、サラワディ及びラングーンの憲兵隊刑務所で残虐行為が行なわれた。1945年4月の末に、木村は司令部をモールメインに移した。その後に、モールメインやその付近で残虐行為が行なわれた。木村の司令部から10マイル離れた一村落カラゴンの全住民は、1945年7月7日に、かれの指揮下にある現地将校の命令によって虐殺された。木村が到着してから後に、モールメインで虐殺が行なわれ、憲兵隊はビルマ人に対していっそう非人道的となり、タボイの収容所にいた抑留者は、食物を与えられなかったり、殴打されたりした。

 武藤は1942年3月20日から1942年4月12日まで南方地域の視察旅行を行ない、台湾、サイゴン、バンコック、ラングーン、シンガポール、パレンバン、ジャワ、マニラ、その他の地を訪れた。かれは東京に帰り、1942年4月20日に近衛師団長に任命され、北部スマトラに駐屯した。1944年10月12日に、フィリッピンに転任するまで、かれは司令部をメダンに置き、北部スマトラの日本軍の司令官をしていた。かれは右の司令官として在任中、かつて東京で陸軍省軍務局長として提唱した政策を実行に移した。かれの軍隊が占拠していた北部スマトラでは、この戦争で、最も不名誉な残虐行為が犯された。捕虜と一般人抑留者は食物を与えられず、放置され、拷問され、殺され、またその他の方法で、虐待された。また、一般住民が虐殺された。戦争法規は無視された。武藤は1944年10月12日に転任して、山下大将の指揮するフィリッピンの第十四方面軍の参謀長になってからも、戦争法規を無視していることを示した。山下大将の参謀長としての任務に就くために、武藤は1944年10月12日の夜、フィリッピンのフォート・マッキンレーに到着した。1945年9月の日本の降伏まで、かれはその任にあった。その参謀長時代に、山下と武藤の指揮下にある軍隊によって、バタンガスにおける虐殺やマニラにおける虐殺とその他の残虐行為を含めて、フィリッピンの一般住民に対する虐殺、拷問その他の残虐行為が連続的に行なわれた。これらの行為は、同じ特徴をもち、8年前に、武藤が松井の部下であったときに、南京で行なわれたやり方に従ったものであった。この期間に、捕虜と一般人抑留者は、食物を与えられなかったり、拷問されたり、殺害されたりした。

 土肥原は、1944年3月22日から、シンガポールの第七方面軍を指揮し、1945年4月7日に、板垣にあとを譲って教育総監となるまで在任した。かれの指揮していた間、捕虜は普通の犯罪人のように取り扱われ、食物を与えられなかったり、拷問されたり、またその他の方法で虐待されたりした。板垣がシンガポールの第七方面軍の指揮をとるに至った後も、同軍の管轄下にあった捕虜の状態は少しも改善されなかった。かれが指揮にあたっていた1945年の6月と7月に、連合軍航空機搭乗員が26名も、アウトラム・ロード刑務所から連れ出されて殺害された。

連合国の抗議 (原資料284枚目)

 太平洋戦争中に、戦争法規の違反に対して、連合国と利益保護国のなした公式非公式の抗議と警告は、無視されたか、そうでなければ、その回答の際に、違反行為の行なわれたことが否定されるか、虚偽の説明がなされるかであった。

 東京でとられた手続は、われわれに次のように説明された。連合国と利益保護国からの正式な抗議は、規則的に外務省に渡された。それから、外務省はこれらの抗議の写しを日本政府の関係各省と部局に回付した。陸軍省と俘虜情報局の所管事項に関するすべての抗議は、まず陸軍省の大臣官房に届けられた。官房は抗議を軍務局の軍務課に回送した。1939年9月30日から1942年4月20日まで、武藤はこの局の局長であった。佐藤は1938年7月15日から軍務課の課長であり、1942年に武藤にかわって軍務局長になった。1944年12月14日まで、かれは軍務局長を勤めた。軍務課は、俘虜管理部または俘虜情報局のような軍務局の関係各部局と、その抗議について協議した。それから、抗議は二週間ごとの陸軍省の局長会議で取り上げられて討議されたが、その会議には、通常陸軍大臣と陸軍次官が出席した。これらの会議で、抗議に対して回答をするかどうか、どのような性質の回答をするかが決定された。俘虜情報局長官を兼ねていた俘虜管理部長は、これらの討議に出席し、重要問題に関する命令は、陸軍大臣と次官から直接に受けた。抗議の写しとそれに対してなされる回答の写しを、綴り込みに入れるために、かれは俘虜情報局に提供した。抗議の写しが陸軍大臣または俘虜情報局にあてられていた場合でも、そうするのが慣行であった。

 公式の抗議に加えて、ラジオ放送が連合国放送局から定期的に行なわれていた。それは日本の軍隊によって犯されている残虐行為とその他の戦争法規の違反を詳細に挙げ、これらの違反行為の責任を負わされるようになることを日本政府に警告したものであった。これらの放送は日本外務省によって受信され、関係各省、部局及び職員に配付された。内大臣木戸は、1942年3月19日の日記に、『宮相来室イーデンの議会における皇軍香港において暴行云々の演説につき話あり懇談す』と記入している。

 提出された正式の抗議はあまりに多かったので、ここで詳細に述べることはできない。概して、これらの抗議は、われわれがすでに言及した戦争法規の違反にも、また他の多くのことにも関係したものであったといって差し支えない。どの場合にも、完全な調査のできるような、明確で詳細な事実が挙げられていた。ラジオを通じて行なわれた抗議と警告についても、同じようにいって差し支えない。

 われわれはここで、単に例証としいて、これらの抗議と警告のあるものについて、言及することにする。早くも1942年2月14日に、スイス政府を通じて、合衆国政府は次のような覚書を提出した。フィリッピンの占領地域における日本官憲は、虐待と侮辱を伴う極端に厳格苛酷な規律に、アメリカの一般人を服従させているという報告を合衆国政府が受け取っていること、事態を改善するために、また、合衆国領土内において日本の国民に与えられているのと同様な寛大な待遇を、フィリッピンにおけるアメリカ人にも与えるために、迅速な措置がすでにとられたという保証をアメリカ政府は希望するというのであった。1942年2月24日に、外務大臣東郷は回答して、『フィリッピンにおけるアメリカ市民に対して日本国官憲が適用している諸条件は、1929年のジュネーヴ条約の予期するところよりも良好である』と述べた。この言明は虚偽であった。かれはアメリカ市民がよくない待遇を受けていることを否定し、『アメリカ政府の懸念は出所不明の報道に基づいており、また正確な事実を挙げていないのであるから、何の根拠もない』と述べた。

 1942年12月12日に、合衆国政府はもう一つの正式抗議を提出した。それには、1929年のジュネーヴ俘虜条約の条項をアメリカ人捕虜に適用し、また一般人抑留者には適用できる限り適用するという日本政府の約束に違反して、甚だしい虐待がアメリカの一般人と捕虜に加えられていることを合衆国政府は知っているというのであった。日本がその約束を果たさなかったこと、日本の官憲が積極的に虐待するばかりでなく、生活必需品をこれらのアメリカ市民に供給しないことによって、同条約の原則に違反したことを明らかであることを合衆国は述べた。それについて、合衆国は強硬な抗議を提出し、アメリカの捕虜と一般人抑留者に対するこの非人道的で非文明的な取り扱いが、直ちに調査されるべき事項としいて取り上げられること、その責任者が直ちに処罰されること、また捕虜と一般人抑留者の虐待をやめるという誓約が与えられることを期待すると述べた。この抗議を裏書きするために、日付とその他の事実の示して、明確な事例が挙げてあった。この抗議に対して、1943年5月28日になるまで、回答が与えられなかった。この日になって、外務大臣重光は、目下調査が行なわれており、『やがて』調査の結果が判明したら通知すると回答した。

 この間に、1943年4月5日、合衆国政府は、ドウリットル飛行隊員の虐待に対して、もう一つの抗議を提出した。合衆国政府は次のように警告した。『アメリカ政府はまた日本政府に対して、アメリカ人捕虜に関する保証にさらに違反する場合、または、文明諸国によって容認され、実行されている戦争法規に違反して、アメリカ人捕虜に対してさらに犯罪的野蛮行為が加えられた場合は、そのいずれに対しても、現在進んでいる作戦が、動かすことのできない、しかも避けられない結末に達したときに、このような非文明的で非人道的な行為に責任のある日本政府の職員に対して、アメリカ政府はかれらにしかるべき処罰を加えることを厳粛に警告する』と。

 1942年12月12日の合衆国からの抗議に対して、1944年4月24日に、外務大臣重光が遂に回答するまでの間に、合衆国によって多数の明確な抗議がかれに提出された。右の回答で、かれが指摘したのは、1943年5月28日の覚書でかれの言及した調査が完了したこと、それについての報告があることであった。かれは合衆国が『事実を歪曲誇張』していると非難して、抗議を受け入れず、このいわゆる調査によって明らかになった事実と称するものを長々と列挙した。合衆国は、1945年3月1日に、次のような覚書で、この非難に答えた。『米国政府はその真実性を非難する日本国政府の陳述を承認することを得ず。日本及び日本占領地域における米国民に対し日本官憲によりて与えられたる待遇に関する本国政府の抗議は、日本政府によりてかくのごとく専断的方法によりて否認しえざる記録的証拠に基づくものなり。1944年4月24日付日本政府の回答に含まれ居る陳述は、米国政府の承知する事実より遠ざかり居ること甚だしく、日本政府はあえてその現地出先官憲の捏造せる報告により誤まられ、1942年12月12日付米国政府通牒中において抗議し居る事実につき、独自の調査をなさざりしものなりと結論せざるをえず。よって、米国政府は本件回答を不満足なものと認め、日本政府が責任を免るるものにあらざることをあくまで主張すべし。』

 イギリスの抗議も、合衆国政府からの抗議と同じように取り扱われた。一つの例として、ラングーン刑務所における捕虜の取り扱いに関する抗議と回答がある。1942年7月8日に、イギリス政府は外務大臣東郷あての抗議を提出させた。その中には、東京で発行されている新聞、ジャパン・タイムス・アンド・アドヴァタイザーに、公衆が面白がって見ているところで、ラングーンの街路を掃除しているイギリス人の捕虜の写真が掲載されたと述べてあった。この抗議は、1942年8月1日に、再び提出された。1942年9月15日に、イギリス政府はさらに、ラングーン刑務所における捕虜は不十分な給食を受けていること、刑務所の床の上に敷物なしで寝かされていること、及びかれらの靴が没収されたことを抗議した。東条は1942年9月1日から1942年9月17日まで外務大臣を兼任し、この職に就いている間に、前述の抗議にかれの注意を喚起する覚書を受け取った。1943年2月9日、東条にかわって外務大臣になっていた外務大臣谷は、『軍官憲において詳細取り調べたるところ貴翰に述べられたるがごとき事例はこれなく』と回答した。

 ビルマとタイにおけるイギリスの捕虜の取り扱いに関するイギリス政府の抗議も、同様に取り扱われた。イギリス政府は、重光に提出した1944年7月4日付の覚書で、日本官憲の印刷した葉書によって、約二万のイギリスの捕虜がモールメイン付近に通告なしに移されたことが判明したと述べた。その覚書は、捕虜が受けている不良な状態や虐待に対しても抗議した。重光は、1944年8月26日に、『1944年7月4日に、ビルマにあったイギリス及び連合国俘虜の大多数は、タイ及びマレー俘虜収容所所属のものであって、ビルマに臨時に移動させられていたものである』と答えた。ビルマ及びシャムで労働している捕虜の健康に関するイギリス政府からの他の抗議に対して、重光は1944年10月3日に回答した。その回答で、『帝国政府は俘虜の保健及び衛生に関し深甚なる注意を払い居り各地における俘虜収容所にては毎月健康診断を行ない疾病の早期治療をなす等の措置を講じ居れり。』とかれは述べた。それについで、泰緬鉄道における捕虜に与えられていたとかれが主張するところの医療について、詳細に述べた。かれの述べた事実は全然偽りであった。というのは、捕虜は医療を受けていなかったし、脚気、コレラ、マラリア、その他の熱帯病で、何千人となく死んでいたからである。1944年9月12日に洛陽丸が南支那海で雷撃されて沈んだときに、真相が判明した。千三百人の捕虜が標識をつけてない日本の捕虜輸送船に乗っていた。日本側は、日本人の生存者は救い上げたけれども、捕虜はその運命のままに故意に放任した。約百人のオーストラリアと連合王国の生存者が後に救助され、オーストラリアとイギリスに連れて行かれた。これらの捕虜からわかったことであるが、シンガポールとジャワにいた捕虜で使える者は、ことごとく、1942年の初期に、泰緬鉄道工事に働くために、ビルマとタイに移送されたのであった。かれらの輸送された際の状況と、また鉄道建設工事中の恐るべき状況とについて、われわれはすでに叙述した。イギリスの抗議をさらに繰り返した1944年12月4日付のイギリス政府からの覚書によって、救助されたこれらの捕虜から判明した事実について、重光は知らされた。重光にかわって外務大臣となった東郷は、遂に回答をしないわけにはいかなくなって、1945年5月15日に、これらの抗議に対する時期遅れの回答をした。『消化器病等の猖獗甚だしく日本軍衛生機関の主力を集中して努力せるもこれを充分に防止し得ざりし』状態であったことは遺憾であるとかれは述べた。ビルマで日本の軍隊が残虐行為を行なったことをかれは否定し、すでにわれわれが述べたように、イギリスの捕虜をモールメインで列をつくって歩かせたことに対する抗議については、かかる事実の『発生したることなし』という日本のきまり文句の回答をした。

 これらの公式の抗議を無視する態度に加えて、ラジオを通じてなされた多数の抗議や警告も、日本外務省によって規則的に記録され、各省に配付されていたにもかかわらず、まったく顧みられなかった。バターンの行進の詳細と結果を述べた合衆国政府の報告は、1944年1月24日に、イギリス放送協会の放送網を通じて放送され、日本の外務省で記録された。1944年1月29日にも、カリフォルニヤ州サンフランシスコのKWID放送局は、白堊館秘書官スティーフン・アーリー氏の、日本側は合衆国とフィリッピンの捕虜に対して、食糧や物品を合衆国政府が送ることを、どうしても許可しないという発表を放送した。アーリーは、『日本の手中にあるわれわれの捕虜には、もはや救恤品を送れる見込みがなくなった。よって慎重に調査され、また確証のある事実に関して、報告を発表するときが来た』と述べた。この放送は、日本の外務省で記録された。KWID局は、また1944年1月29日に、合衆国国務長官コーデル・ハルとイギリス外務大臣アントニー・イーデンの声明を放送した。ハル氏は、日本の手中にある捕虜の取り扱いに言及し、『残忍非道の行為に関する報告によれば、アメリカ人及びフィリッピン人に対して、かような思いも及ばない残虐行為を加えたこれらの者どもの行為を叙述するためには、世にありとあらゆる悪鬼の代表的な者どもを集め、その凶暴な性質にさらにあらゆる血なまぐさい行為をつけ加えることが必要であろう』と述べた。このような烈しい言葉は、本裁判所に提出された証拠によって充分に正当化されている。イーデン氏は下院において、イギリスの抗議が日本側から得た結果は不満足である。日本人は単に国際法ばかりでなく、あらゆる人間らしい、見苦しくない、文明人の行為に違反していると述べた。この戦争で、日本軍の犯した残虐行為の記録は、将来忘れられるものではないと、かれは日本政府に警告した。ハル氏は、合衆国政府は、捕虜に対する日本側の取り扱いに関して、集められる限りの事実はすべて集めつつあり、日本当局の責任者の充分な処罰を求めるつもりであるといって、その声明を結んだ。マッカーサー大将の総司令部は、太平洋地域の大部分とともに、フィリッピン諸島をも管轄していたところの、シンガポールの第七方面軍の総司令官に対して、1944年10月22日に警告を発した。マッカーサー大将は、捕虜と一般人抑留者に対して、正当な待遇を与えなかったら、そのいずれの場合についても、敵軍の指揮者に直接の責任を負わせると警告した。戦争法規に基づいて、捕虜としての品位、名誉及び保護を要求する権利があるものとみずから信じていたにもかかわらず、フィリッピンで降伏したアメリカ人とフィリッピン人は、軍人の名誉という最も神聖な掟に背いて名誉を毀損され、残忍行為さえ受けたということについて、否定することのできない証拠が手にはいっている、とかれは述べた。これらの放送は、すべて日本の外務省で記録され、日本の各省の間に広く配付された。

捕虜と一般人抑留者に対する虐待の黙認と隠蔽 (原資料294枚目)

 日本政府は捕虜と一般人抑留者の虐待に関して、罪のある者を処罰しなかったり、処罰を怠ったり、または違反に対してとるに足らない不充分な刑罰を科することによって、捕虜と一般人抑留者の虐待を黙認した。日本政府はまた次のようにして、捕虜と一般人抑留者の虐待と殺害を蔽い隠そうとした。すなわち、利益保護国の代表が収容所を訪問することを禁じたこと、このような訪問で許されたものに制限を加えたこと、捕えた捕虜と抑留した一般人の完全な名簿を利益保護国に送ることを拒否したこと、捕虜と一般人抑留者に関する報道を検閲したこと、並びに日本の降伏の際に、罪があることを示す一切の文書の焼却を命令したことである。

 次に述べるのは、捕虜虐待に関して科せられた不充分な刑の宣告の実例である。むち打ちに対して科した罰は、譴責、数日間の謹慎、または数日間の任務の加重であった。捕虜拷問の罪のあった一監視員は、譴責された。しばしば捕虜に私的制裁を加えた罪のあった一監視員は、譴責を受けた。数名の監視員は、捕虜に私的制裁を加えたことで有罪と判定されたが、加えられた最も厳重な処罰は免職であった。東京の陸軍刑務所に対する空襲の際に、62人の連合軍飛行機搭乗員を、生きながら焼いたことについて責任のあった将校に対して、加えられた刑罰は譴責であった。これらの例は、捕虜の虐待が行なわれているということを、陸軍省が知っていた証拠である。加えられた処罰がとるに足りない性質のものであったのは、黙認を意味する。

 日本政府は、連合国に指名された利益保護国の代表の訪問を拒否することによって、積極的に、捕虜と一般人抑留者が加えられていた虐待を隠した。東京駐箚スイス公使は、早くも1942年2月12日に、外務大臣東郷に書簡を送って、その中で、次のことを述べた。『合衆国政府は、一時的に抑留、収容または宣誓の上解放されている日本国臣民を訪問することについて利益保護国代表よりの要請があれば、それに便宜を与える用意があることを本使は閣下に通報するの光栄を有する。収容者の訪問に関する限り、本公使館の任務を閣下がある程度まで容易にせられるならば、本使は閣下に深く感謝する。』と。1942年2月17日に、かれはさらに外務大臣東郷に書簡を送り、その中で、次のように述べた。『米国政府は、米国における日本利益代表スペイン国大使館に対し、俘虜及び抑留者収容所を訪問し得る旨を通報いたしそうろう、米国政府はジュネーヴ俘虜条約に基づき、帝国及び日本軍隊の占領地域においてスイス国代表の俘虜及び抑留者収容所訪問許可かた要請いたしおりそうろう』と。これらの要請を繰り返したほかの書簡を、1942年3月及び6月に、かれは東郷に送った。1942年6月に、同公使は、イギリスとその自治領の国民で、捕虜または抑留者として抑留されている者を訪問する同様の許可を要請した。これらの要請に対して、やっと1942年7月30日に、東郷は書簡で次のように回答した。『帝国政府はフィリッピン諸島、香港、マレー及び蘭領東インド諸島を含む占領地における利益代表を認めざる建前なるをもって、前記地方における閣下の代表者による米人俘虜及び抑留者の訪問は考慮する能わざるも、支那占拠地においては、関係当局は上海に限りこれを許可することを考慮し得る旨回答申し上げそうろう。』合衆国とイギリスの政府は直ちに抗議し、あらためてその要請を出した。スイス公使と東郷の後任になった外務大臣谷との間の往復文書は、占領地域と日本の海外領地とに抑留されている捕虜と抑留者の訪問許可を拒否する、この方針が続けられていたことを反映している。しかし、スイス公使は依然として強硬に許可を求めた。すでに外務大臣になっていた重光は、1943年4月22日に、スイス公使に口上書を送り、その中で次のように述べた。『外務大臣が1942年7月30日付をもってスイス公使宛て申進し置きたる通り帝国政府は占領地における俘虜及び抑留者収容所の訪問は考慮し難し』と。スイス公使は外務大臣東郷から、利益保護国の代表者は上海の収容所を訪問することを許されるという通告を受けていたが、東郷がスイス公使に対して述べたいわゆる『関係当局』が訪問許可を与えることを拒否し、また東京の東条内閣から許可が来なかったので、訪問は行なわれなかった。スイス公使の1943年5月12日付の書簡によって重光はこのことを承知していた。捕虜と一般人抑留者を訪問する許可を得るための、スイス政府のこれらの執拗な、反復的な要請に応じて、日本内地で、少数の選ばれた収容所が訪問のために用意された上で、訪問を許可された。スイス公使は、1943年6月2日に、日本におけるその他の収容所と占領地の収容所との訪問の許可を重光に要請し、かつ日本ですでに訪問された収容所の二回目の訪問がいつできるかと尋ねた。外務大臣重光は、1943年7月23日に回答し、次のように述べた。『占領地域に存在する俘虜収容所の訪問については、許可し得べき時機到来せば、これを通報いたすべくそうろう。また日本本土に存在する俘虜収容所にして未だ訪問せられざる分は、時機を見て逐次許可せらるべくそうろう。しかして既に訪問せられたる分の再応の訪問を周期的にあらかじめ許可することを許容し難きも、さらにこれが訪問を希望せらるる場合はその都度の願い出をまって詮議いたすべくそうろう。』しかし、これらの願い出には、考慮が払われなかった。そして、1944年2月12日に、スイス公使は重光に、1943年8月から1944年2月までの間に申し入れた収容所訪問に関する要請に対して、回答がないことを抗議した。この抗議は、1944年3月30日の重光あての書簡で繰り返された。その中で、スイス公使は次のように述べた。『本使が日本における外国利益代表としての本使の活動に満足していないことは、貴大臣も御承知の通りである。労力に相応した結果を得ていないのである。本使はこれを、本使の活動と、当方に利益を委託した諸政府の要請によって本使の本国政府が提出した要請との統計の示すところによって、具体的に知ることができる。本使は差し当たり俘虜収容所を訪問したいという本使の要請だけについて申し述べたい。二ヶ年以上にわたる本使の要請を回顧すると、本使は1942年2月1日から1944年3月15日までに文書で134回の申入れを行なったことがわかるのである。これらの134通の書簡は、外務省から正に24通の回答を得た。これらの回答の大部分は、否定的であるか、または関係当局の決定を本使に送付するものであった。本使が九ヶ月の間に受け取った回答は三通である。』やっと1944年11月13日になって、占領地における捕虜と一般人抑留者を訪問する許可を与えられる時機が来たということを、かれは重光の下にある外務省から通告された。それでも、その訪問は、マニラ、昭南及びバンコックに限られていた。1944年11月17日に、東京のスイス公使にあてた書簡の中で、重光は同公使に対して、占領地域における捕虜収容所の訪問は、相互的条件で、軍事行動を妨げない限り許されると通告した。スイス公使は、1945年1月13日付の書簡で、これらの訪問はいつ始めてよいかと重光に尋ねた。重光の後任として外務大臣となった東郷は、占領地の収容所の訪問に関する多数の緊急な要請に対して、1945年4月7日になって初めて回答した。この回答で、日本は『遅滞なく』タイ国における訪問の準備を行なうと東郷は述べた。戦争の全期間を通じて、何かと口実を用いて、訪問は決して自由に許されなかった。

 利益保護国の代表者が収容所を訪問することを許された少数の場合には、収容所は訪問のために用意され、また訪問は厳重に監督された。太平洋戦争の初期に、東条内閣によって出された規則は、次のことを規定していた。すなわち、捕虜との面会が許可された場合には、面会の時間及び場所と会談内容の範囲とに制限を加えること、面会中は監視員が立ち会うことであった。これらの規則は、利益保護国の抗議が繰り返されたにもかかわらず、実施された。1943年4月22日付のスイス公使あての書簡で、重光は、『利益保護国代表と俘虜との面会にあたり監視者を立ち会わしめざることは帝国において実施し難し』といった。スイス公使はこれに抗議し、重光は1943年6月24日に回答して、次のようにいった。『本邦俘虜取扱細則第13条は、捕虜の面会に際しては監視員を立ち会わせるものとすると規定しており、同条による我が方の捕虜取扱はこれを変更することができないことを取りあえず通告する。』1943年の春に、日本の本山の捕虜収容所が訪問を受けた後、捕虜に課せられていた労働条件について、あえて苦情を述べたこの収容所の先任捕虜は拷問された。日本人監視員の前で、かれは5時間もひざまずかされた。この収容所が再び訪問を受けた際には、この先任捕虜は監禁され、代表者がかれとの面会を要求したにもかかわらず、この代表者と話すことを許されなかった。

 抑留されている捕虜と一般人抑留者の名簿を利益保護国に送ることを拒否することによって、捕虜と一般人抑留者の運命はさらに隠された。このような名簿を提供することを拒否した一例は、ウェーキ島の占領後に抑留された捕虜と一般人抑留者の場合である。スイス公使は、1942年5月27日に、ウェーキ島で捕えられた捕虜及び一般人抑留者の氏名と、その現在の居所とを知らせるように、東郷に要請した。1942年10月6日に、スイス公使は、外務大臣――そのときは谷であった――に対して、ウェーキ島の占領の当時に、そこにいた約四百名のアメリカの一般人に関して、合衆国政府はいまだに報告を受けていないと通告した。1943年4月8日に、スイス公使は、未だ名簿が提供されていなかったので、外務大臣谷に対して、合衆国政府は残りの四百人の氏名と居所を知らされることを強く要求していると通告した。外務大臣谷は、1943年4月19日に、提供できるすべての情報はすでに与えてあると回答した。1943年8月21日に、スイス公使は、新外務大臣重光に対して、ウェーキ島が日本軍に占領されたときに、そこにいたはずであるが、日本が赤十字国際委員会に送付した名簿に指名が載っていなかった432人のアメリカの一般人の名簿を提出し、これらの一般人に関する情報を要請した。1945年5月15日に、スイス公使は、外務大臣――このときは東郷であった――に対して、ウェーキ島の残りの432人の一般人に関する情報を求める要請について、何の回答も受けていないと通告した。その情報は、日本の降伏後まで得られなかった。実際のことは、これらの不幸な人々は、ことごとく、1943年10月に、日本の海軍によって殺害されたのであった。

 新聞報道と郵便物は、特に検閲されていた。疑いもなく、これは捕虜が受けていた虐待が漏れることを防ぐためであった。東条が陸軍大臣であったときに、陸軍省報道部によって、1943年12月20日に出された検閲に関する規則は、他のこととともに、次のことを規定した。『我が公正なる態度を歪曲報道して敵の悪宣伝に好餌を与え累を抑留同胞に及ぼさざるごとく留意す、これがため左に該当する報道――写真、絵画等を含む――は禁止す、俘虜優遇または虐待の印象を与うるもの、収容所内等における設備、給与、衛生その他生活状態等に関する具体的事項、俘虜の所在に関し左記以外を明示するもの。』そのあとには、東京、朝鮮、ボルネオ等12の一般的な地名が挙げられていた。捕虜が出すことを許されていた手紙は、ほとんど禁止といってよいほど制限されていた。ある収容所の捕虜は、たとえばシンガポールにいた捕虜などは、監視員から、収容所の状態が良好であると報告しなければ、かれらの葉書は送り出されないといい聞かされた。これが通例であったようである。

 日本が降伏しなければならないことが明らかになったときに、捕虜と一般人抑留者の虐待に関する一切の書類とその他の証拠を償却するか、その他の方法で破棄するために、組織的な努力が払われた。日本の陸軍大臣は、1945年8月14日に、すべての軍司令部に対して、機密書類を直ちに焼却せよという命令を発した。同じ日に、憲兵司令官は、各憲兵隊本部に対して、多量の文書を効率よく焼却する方法を詳細に述べた指令を出した。陸軍省軍務局俘虜管理部のもとにあった捕虜収容所長は、1945年8月20日に、台湾軍参謀長に同文電報を発し、その中で、『敵に任ずるを不利とする書類も、秘密書類同様、用済みの後は必ず廃棄のこと』といった。この電報は朝鮮軍、関東軍、北支方面軍、香港、奉天、ボルネオ、タイ、マレー及びジャワに送られた。この電報で捕虜収容所長は次のようにいった。『俘虜及び軍の抑留者を虐待し、あるいは甚だしく俘虜より悪感情を懐かれある職員は、この際速やかに他に転属あるいは行衛を一斉に晦(くら)ますごとく処理するを可とす。』

極東国際軍事裁判所


判決


C部

第9章


起訴状の訴因についての認定


英文 1137−1144頁

1948年11月1日


C部

第9章


起訴状の訴因についての認定 (原資料4枚目)

 起訴状の訴因第一では、全被告が、他の人々とともに、共通の計画または共同謀議の立案または実行に参画したことが訴追されている。その共通の計画の目的は、日本が東アジア、太平洋及びインド洋と、その地域内にあるか、これに接壌するすべての諸国及び諸島嶼とにおける軍事的、政治的及び経済的の支配を獲得することであり、そして、その目的のために、日本が単独または同様の目的を有する他の諸国と共同して、その目的に反対する国または国々に対して、侵略戦争を行なうことであったと主張されている。

 この共同謀議に参画したとされている人のうちのある者が行なった言明の中には、上に述べた誇大な言葉に符合するものがあることは疑いない。しかし、われわれの意見では、これらが個人の野望の発表以上のものであったということは、立証されていない。従って、これらの共同謀議者が本気で南北アメリカの支配を確保しようと決意したことがあるというようなことは、われわれは考えない。共同謀議者の願望が具体的な共通の計画として現わされた限りでは、かれらが日本の支配の下に置こうと決意した領土は、東アジア、西及び西南太平洋、及びインド洋と、これらの大洋における島々の一部とに限られていたというのがわれわれの意見である。そこで、われわれは、起訴事実が上に述べた目的に限られていたものとして、訴因第一を取り扱うことにする。

 まず第一に、われわれは、上に述べた目的をもった共同謀議の存在したことが立証されたかどうかを考慮することにする。

 すでに1928年より前に、最初の被告の一人であり、現在の精神状態を理由として本裁判から除外された大川は、日本は威嚇によって、必要とあれば、武力の行使によって、その領土をアジア大陸に拡大せよと公然と唱道していた。また、日本は東部シベリアと南洋諸島を支配しようとつとめなければならないと唱道した。自分が唱道する道は、必ず東洋と西洋との戦争をもたらすものであって、その戦争において、日本は東洋の戦士となるものであるとかれは予言した。この計画を唱道するについて、かれは日本の参謀本部の奨励と援助を受けた。この計画の目的として述べられたものこそ、実質的には、われわれの定義した共同謀議の目的であった。われわれは、事実の検討にあたって、この共同謀議の目的に関して、共同謀議者が後に行なった多くの言明に留意した。それらは、重要な点では、大川がさきに行なったこの言明と少しも違っていない。

 1927年から1929年まで、田中が総理大臣であったときすでに、軍人の一派は、大川やその他の官民の支持者とともに、日本は武力の行使によって進出しなければならないという、大川のこの政策を唱道していた。ここにおいて、共同謀議が存在した。1945年の日本の敗北まで、それは続いて存在した。田中が総理大臣であったときの当面の問題は、田中とその閣僚が希望したように、日本は――満州を手初めに――大陸における勢力拡大を平和的進出によって試みるべきか、それとも、共同謀議者が唱道したように、必要とあれば、武力の行使によって、その拡大を達成すべきかということであった。共同謀議者は、国民の支持と国民に対する支配をもつことがぜひとも必要であった。これが、武力によって自己の目的を達成することを主張した共同謀議者と、平和的手段によって、少なくとも武力を行使する時機をもっと慎重に選んで、日本の拡大をはかることを主張した政治家及び後になって官僚との、長い闘争の始まりであった。この闘争が最高潮に達するに至って、共同謀議者は日本の政府の諸機関の支配を獲得し、共同謀議の目的を達成するために計画された侵略戦争に向かって、国民の精神と物的資源を準備し、組織統制することになった。反対を押し切るために、共同謀議者はまったく非立憲的な、ときにはまったく残酷な手段を用いた。宣伝と説得が多くの者をかれらの味方に引き入れたが、内閣の承認しない、または内閣の拒否を無視したところの、国外における軍事行動、反対派の指導者の暗殺、かれらと協力しようとしない内閣を武力によって倒そうという陰謀、首都を占拠し、政府を倒そうと企てた軍事的反乱さえも、共同謀議者が結局は日本の政治組織を支配するに至るために用いた戦術の一部であった。

 共同謀議者が国内の反対を押し切るに充分な力があると考えるにつれて、そして、後になって、かれらがついにこのような反対をまったく押し切ってしまったときに、日本が極東を支配しなければならないという、かれらの究極の目的を達成するために必要な攻撃を、かれらは次から次へと遂行していった。1931年には、かれらは中国に対する侵略戦争を開始し、満州と熱河を占領した。1934年までには、かれらはすでに華北への浸透を開始し、その地方に駐兵し、かれらの目的に役立つように組織された傀儡政府を樹立していた。1937年から後には、大規模に中国に対する侵略戦争を続け、中国の大部分を侵略し、占領し、上述の形式に倣った傀儡諸政府を樹立し、日本の軍事上の必要と一般的な必要とに充てるために、中国の経済と天然資源の開発を行なった。

 その間に、ソビエット連邦に対して行なおうと企てていた侵略戦争を、すでに長期間にわたって、かれらは計画し、準備しつつあった。その意図は、都合のよい機会があったら、同国の極東諸領土を占拠することであった。かれらの東アジアの開発と西及び西南太平洋の島々に対する企図とは、脅威を受ける自国の権益と領土を保護しようとするアメリカ合衆国、イギリス、フランス及びオランダとの紛争に、かれらを引きこむであろうということも、早くから認識していた。これらの国々に対する戦争についても、かれらは計画し、準備した。

 共同謀議者は、日本とドイツ及びイタリアとの同盟をもたらした。これらの両国の政策は、かれら自身のものと同様に、侵略的であった。かれらの中国における侵略的行動のために、日本は国際連盟の非難を招き、世界の外交界で友を失っていたので、外交の分野でも軍事の分野でも、かれらは両国の支持を希望したのである。

 かれらがソビエット連邦に対して企てていた攻撃は、種々の理由のために、ときどき延期された。その理由の中には、次のものがあった。(1)意外に多量の軍需物資を吸収する中国の戦争で、日本は手いっぱいであったこと、(2)1939年に、ドイツがソビエット連邦と不可侵条約を結び、これによって、当分の間、ソビエット連邦がその西部国境に攻撃を受ける脅威を免れ、もし日本が同国を攻撃したならば、東部諸領土の防衛のために、その兵力の大部を割くことができるかもしれなくなったことである。

 ついで、1940年には、ドイツがヨーロッパ大陸で大きな軍事的成功を収めた。しばらくの間、イギリス、フランス及びオランダは、極東における自己の権益と領土に対して、充分な保護を与える力がなかった。合衆国の軍事的準備は、初期の段階にあった。共同謀議者には、かれらの目的のうちで、西南アジアと、西及び西南太平洋やインド洋における島々とを、日本が支配するようにしようとする部分を実現するために、このような好機は容易に再び来るものでないと思われた。アメリカ合衆国との長い間の交渉で、中国に対する侵略戦争の結果として手に入れた収穫の重要な部分をすこしも手放そうとしなかったが、その交渉の後、1941年12月7日に、共同謀議者は、合衆国とイギリス連邦に対して、侵略戦争を開始した。それより前に、1941年12月7日の○○、○○時から日本とオランダとの間に戦争状態が存在すると述べた命令を、かれらはすでに発していた。かれらは仏印に軍隊を無理に進駐させることによって、すでに前から、フィリッピン、マレー及びオランダ領東インドに対する攻撃の発進地を確保していた。右の進駐は、もしその便宜が拒絶されたならば、軍事行動に出るという威嚇によって得たものであった。オランダは戦争状態の存在を認めたので、また、これらの共同謀議者が長い間計画し、今やそれを実行に移そうとしていたオランダ領の極東領土への侵略という差し迫った脅威に直面したので、自衛上日本に宣戦を布告した。

 侵略戦争を遂行するための、これらの広範な諸計画と、これらの侵略戦争に対する長期の、複雑な準備及びこれらの戦争の遂行は、一人の人間の仕事ではなかった。それらは、共通の目的を達成するために、共通の計画を遂行しようとして行動した多くの指導者の仕事であった。その共通の目的は、侵略戦争を準備し、遂行することによって、日本による支配を確保しようということであって、犯罪的な目的であった。侵略戦争を遂行する共同謀議、または侵略戦争を遂行することよりも、いっそう重大な犯罪は、まことに想像することができない。なぜなら、その共同謀議は世界の人民の安全を脅かし、その遂行はこの安全を破壊するからである。このような共同謀議からおそらく生ずる結果、またその遂行から必ず生ずる結果は、数知れぬ人間の上に、死と苦悶とが襲いかかるということである。

 本裁判所は、訴因第一に付属した細目に明記されているところの、条約、協定及び誓約に違反した戦争を遂行する共同謀議が存在したかどうかを考慮する必要を認めない。侵略戦争を遂行する共同謀議は、すでに最高度において犯罪的なものであった。

 本裁判所は、すでに述べた目的に関する制限を付した上で、訴因第一に主張されている侵略戦争を遂行する犯罪的共同謀議が存在したことは立証されているものと認定する。

 全被告またはそのうちのだれかがこの共同謀議に参加したかどうかという問題は、各個人の件を取り扱うときに考慮することにする。

 この共同謀議は、多年の期間にわたって存在し、また遂行されたものである。これらの共同謀議者は、すべてが最初に参加したわけではなく、また参加した者の一部は、それが終わらないうちに、その遂行についての活動をすでにやめていた。どの時期にしても、この犯罪的共同謀議に参加した者、またはどの時期にしても、罪であることを知りながら、その遂行に加担した者は、すべて訴因第一に含まれた起訴事実について有罪である。

 訴因第一について、われわれが認定したところにかんがみて、訴因第二と第三、または第四を取り扱う必要はない。訴因第二と第三は、われわれが訴因第一について立証されていると認定した共同謀議よりも、いっそう限られた目的をもった共同謀議の立案または遂行を訴追するものであり、訴因第四は、訴因第一における共同謀議と同じものを、いっそう明細に訴追するものだからである。

 訴因第五は、訴因第一で訴追された共同謀議よりも、いっそう広範囲の、さらにいっそう誇大な目的をもった共同謀議を訴追している。われわれの意見としては、共同謀議者のうちのある者は、これらの誇大な目的の達成を明らかに希望していたけれども、訴因第五に訴追された共同謀議が立証されているという認定を正当化するには、証拠が不充分である。

 この判決の前の部分で挙げた理由によって、われわれは訴因第六ないし第二十六と、第三十七ないし第五十三とについては、なんの宣告も下す必要がないと考える。従って、残るのは訴因第二十七ないし第三十六、第五十四及び第五十五だけである。これらの訴因について、われわれはここで認定を与えることにする。

 訴因第二十七ないし第三十六は、これらの訴因に上げられた諸国に対して、侵略戦争並びに国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争を遂行したという罪を訴追している。さきほど終わった事実論において、フィリッピン国(訴因第三十)とタイ王国(訴因第三十四)を除いて、それらの国のすべてに対して、侵略戦争が行なわれたものとわれわれは認定した。フィリッピンについては、われわれがこれまで述べてきたように、この国は戦争中完全な主権国ではなかったし、国際関係に関する限り、アメリカ合衆国の一部であった。さらに、侵略戦争がフィリッピンで行なわれたことは疑う余地がないとわれわれは述べたが、理論的正確を期するために、フィリッピンにおける侵略戦争はアメリカ合衆国に対して行なわれた侵略戦争の一部であるとわれわれは考えることにする。

 訴因第二十八は、訴因第二十七に挙げられた期間よりも短い期間に、中華民国に対して、侵略戦争を行なったことを訴追している。われわれは、訴因第二十七に含まれたところの、さらに完全な起訴事実が立証されていると認めるから、訴因第二十八については、なんの宣告も下さないことにする。

 侵略戦争が立証されたのであるから、それ以外の点で、それらの戦争が国際法にも違反し、または条約、協定及び誓約にも違反した戦争であったかどうかを考慮することは、不必要である。従って、本裁判所は、侵略戦争が訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第三十六に主張されているように遂行されたということは、立証されているものと認定する。

 訴因第五十四は、通例の戦争犯罪の遂行を命令し、許可したことを訴追している。訴因第五十五は、捕虜と一般人抑留者に関する条約と戦争法規の遵守を確保し、その違反を防ぐために、充分な措置をとらなかったことを訴追している。われわれは、これらの両方の訴因に含まれた犯罪が立証されている事例があったと認定する。

 以上の認定の結果として、われわれは、個々の被告に対する起訴事実は、次の訴因だけについて、考慮しようとするものである。すなわち、第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五である。

極東国際軍事裁判所


判決



C部

第10章



判定


英文 1145−1211

1948年11月1日



C部

第10章


判定 (原資料16枚目)

 本裁判所は、これから、個々の被告の件について、判定を下すことにする。

 裁判所条例第17条は、判決にはその基礎となっている理由を付すべきことを要求している。これらの理由は、いま朗読を終わった事実の叙述と認定の記述との中に述べられている。その中で、本裁判所は、係争事項に関して、関係各被告の活動を詳細に検討した。従って、本裁判所は、これから朗読する判定の中で、これらの判定の基礎となっている多数の個々の認定を繰り返そうとするものではない。本裁判所は、各被告に関する認定については、その理由を一般的に説明することにする。これらの一般的な理由は、すでに挙げた叙述の中における個々の記述と認定とに基づいているものである。


荒木貞夫


 被告荒木貞夫は、訴因第一で、侵略戦争と国際法、条約、協定及び誓約に違反する戦争とを遂行する共同謀議について訴追されている。かれは、また、このような戦争の遂行について、訴因第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、及び第三十六でも訴追されている。訴因第五十四と第五十五では、中国において犯された戦争犯罪の責任について訴追されている。すべての重要な期間において、かれは高級の陸軍将校であった。1927年に中将、1933年に大将になった。全期間を通じて、かれは陸軍の階級組織の下で、顕著な人物であった。

 かれは、国内では政治的支配、国外では軍事的侵略という陸軍の政策の熱心な提唱者であった。実際において、かれは陸軍のこの運動の顕著な指導者の一人であり、またそう認められていた。いろいろな内閣の閣僚として、日本の青年の好戦的精神を鼓舞したり、戦争に備えて日本の物的資源を動員したり、演説や新聞統制を通じて、日本の国民を戦争へと扇動し、準備したりすることによって、侵略戦争の準備をする陸軍の政策を促進した。政治的な地位に就いているときも、就いていないときも、隣国を犠牲にして、日本を豊かにしようとする軍部派の政策の立案を助け、その強力な唱道者であった。満州と熱河を中国から政治的に分離させ、日本の支配する政府を樹立し、その経済を日本の支配下に置こうとして、日本の陸軍が右の地域でとった政策をかれは承認し、積極的に支持した。本裁判所は、かれが訴因第一に述べられている共同謀議の指導者の一人であったと認定し、同訴因について、かれを有罪と判定する。

 荒木は、満州で中華民国に対する侵略戦争が開始された後、1931年12月に、陸軍大臣に就任した。1934年1月まで、かれは引き続き陸軍大臣であった。その期間を通じて、満州と熱河でとられた軍事的と政治的の諸政策の進展と実行について、かれは顕著な役割を演じた。中国の領土のその部分を占領するために、相ついでとられた軍事的措置に対して、かれはできる限りの支持を与えた。1938年5月から1939年8月まで、荒木は文部大臣であり、その資格において、中国の他の部分における軍事作戦を承認し、それに協力した。中国における戦争は、1931年以後、侵略戦争であったものとわれわれは認定した。そして、この被告はその戦争の遂行に参加したものと認定する。従って、われわれは、訴因第二十七について、かれを有罪と判定する。

 訴因第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五及び第三十六に挙げられている戦争に、かれが積極的に参加したという証拠はない。われわれは、これらのすべての訴因について、かれを無罪と判定する。戦争犯罪については、かれにこのような犯罪に対して責任があるという証拠はない。従って、われわれは、訴因第五十四と第五十五について、かれを無罪とする。

土肥原賢二 (原資料20枚目)



 被告土肥原賢二は、訴因第一、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十三、第三十五、第三十六、第五十四及び第五十五で訴追されている。

 ここで取り扱っている期間の初めに、土肥原は日本陸軍の大佐であり、1941年4月には将官の階級に達していた。満州事変の前に、約18年間中国にいたことがあり、陸軍部内で中国に関する専門家と見なされるようになっていた。かれは、満州で遂行された中国に対する侵略戦争の開始及び進展と、その後における、日本に支配された満州国の建設とに、密接に関係していた。中国の他の地域でも、日本の軍部派の侵略政策がとられるにつれて、土肥原は、政治的の謀略と、武力による威嚇と、武力の行使とによって、それを進展させることに顕著な役割を演じた。

 土肥原は、東アジアと東南アジアを日本の支配下に置こうとして、軍部派の他の指導者がその計画を立案、準備及び遂行するにあたって、かれらと密接に連絡して行動した。

 中国についてのかれの特別な知識と、中国において謀略を行なうかれの能力とがもう必要でなくなったときに、現地の将官として用いられ、自分が参画していた共同謀議の目的の達成に当たった。かれは、中国に対してばかりでなく、ソビエット連邦に対しても、また、1941年から1945年まで日本が侵略戦争を行なった諸国のうち、フランス共和国を除いて、その他の諸国に対しても、侵略戦争の遂行に参加した。1938年と1939年に、ソビエット連邦に対して遂行された戦争については、土肥原は参謀本部付きの中将であり、この参謀本部はハサン湖の戦闘について最高の指揮権をもっていたものであった。ノモンハンでは、かれの指揮下にあった陸軍の諸部隊が戦闘に参加した。

 フランス共和国に対する戦争の遂行(訴因第三十三)については、この戦争の遂行の決定は、1945年2月に、最高戦争指導会議によって行なわれた。被告はこの決定に参加していなかったのであり、かれがこの戦争の遂行に参加したことを証拠は立証していない。

 われわれは、訴因第一における侵略戦争遂行の共同謀議と、第二十七、第二十九、第三十一、第三十二、第三十五及び第三十六で訴追されている侵略戦争の遂行とについて、かれを有罪と判定する。訴因第三十三については、かれは無罪である。

 土肥原は、1944年4月から1945年4月まで、第七方面軍の指揮官であった。この指揮権には、マレー、スマトラ、ジャワ及び一時はボルネオが含まれていた。かれの指揮する地区内の捕虜を、殺害と拷問から保護することに対するかれの責任の範囲については、証拠が矛盾している。少なくともかれらに食物と医薬品を供給することについて、かれは責任があった。これらの供給に関して、かれらがはなはだしく虐待されたということは、証拠によって明らかである。捕虜は食物を充分に与えられず、栄養不良と食餌の不足による病気とに基づく死亡が驚くべき率で発生した。これらの状態は、捕虜にだけあてはまったことであり、かれらを捕えた者の間には起こらなかった。弁護のために、これらの地区における日本の戦局が悪くなり、交通が絶えたので、捕虜に対するいっそうよい補給を維持することができなくなったということが主張された。証拠の示すところでは、食物と医療品とは手に入れることができたのであり、それを捕虜の恐るべき状態を緩和するために用いることができたはずである。これらの補給は、土肥原がその責任を負うべき方針に基づいて差し止められた。これらの事実の認定に基づいて、土肥原の犯罪は、訴因第五十五よりも、むしろ訴因第五十四に該当する。従って、訴因第五十四について、かれを有罪と判定し、訴因第五十五については、われわれはなんらの判定も下さない。

橋本欣五郎 (原資料23枚目)


 橋本は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で訴追されている。

 かれは陸軍将校であって、早くから共同謀議に参加した。それ以来、かれのできる限りの手段を尽くして、その目的の達成を助長した。共同謀議者のうちで、かれほど極端な見解をもっていた者はない。これらの見解を述べるにあたって、かれほど露骨であった者はない。初めには、かれは、武力で満州を占拠することによる日本の対外進出を唱えた。

 かれは、軍の独裁制による政治の熱烈な称賛者であった。かれは政党をひどくきらっていた。政党は日本の政治においてある程度の役割を演じ、共同謀議者が実行しようと決意していた征服の計画に反対していたのである。共同謀議者がついに日本における民主主義的分子の反対を弾圧し、政府に支配を握るに至った諸活動において、かれは多くの場合に、首謀者の一人であった。この支配がなければ、かれらの侵略的な計画は達成することができなかったであろう。このようにして、たとえば、かれは1931年の3月と10月の陰謀の首謀者の一人であった。これらの陰謀は、そのときの内閣をくつがえし、それに代わって共同謀議者を支持する内閣をつくろうとしたものであった。かれは1932年5月の陰謀にも加担した。その陰謀の目的と結果は、民主主義を擁護し、共同謀議者の政策に反対したところの、総理大臣犬養の暗殺であった。かれの著作と、かれが創立しまたは後援した団体の活動とが主として目標としたのは、民主主義を破壊することと、日本の対外進出の達成を目的として、戦争に訴えるのに、いっそう集うのよい政治体制を確立することであった。

 奉天事件の発生を計画し、それによって、満州を占拠する口実を陸軍に与えるようにするについても、かれはある程度の役割を演じた。満州の占拠と日本の国際連盟脱退とについて、ある程度の力があったと、かれはみずから主張した。

 共同謀議の初期の数年が過ぎてから、それを遂行する上において、かれが目立っていたのは、主として宣伝者としてであった。かれは多作の政治評論家であった。日本の隣国の領土を手に入れたいという日本国民の欲望を刺激したり、これらの領土を獲得するために、戦争を行なうように、日本の世論を煽ったり、同じような対外進出計画に専念していたドイツ及びイタリアとの同盟を唱道したり、共同謀議の目的であった領土拡大の計画を行なわないことを、諸条約によって日本が約束していたのに、その条約を非難したり、日本が武力によって、または武力を用いるという威嚇によって、これらの目的を達成することができるように、日本の軍備の大拡張を要求する扇動を熱烈に支持したりすることによって、かれは共同謀議の成功に貢献した。

 かれは共同謀議の成立について首謀者であり、その遂行に大いに貢献した。

 訴因第27については、かれは最初に武力による満州の占拠を画策した後、満州占拠の口実となるように、奉天事件を計画するについて、ある程度の役割を演じた。このように、中国に対する戦争が侵略戦争であることを充分に知っており、またこの戦争をもたらそうと共同謀議した者の一人であったから、その成功をもたらすために、かれは自分の力でできる限りのことを行なった。しばらくの間、かれは実際に現地の軍隊の指揮官であった。それによって、訴因第27で訴追されている中国に対する侵略戦争をかれは遂行した。

 訴因第29、第31、第32、第54または第55で訴追されている犯罪のどれにも、橋本を直接に結びつける証拠はない。本裁判所は、これらの訴因については、かれを無罪と判定する。

 本裁判所は、訴因第1と訴因第27について、橋本を有罪と判定する。

畑 俊六 (原資料26枚目)


 畑は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第35、第36、第54及び第55で訴追されている。

 1939年8月、阿部内閣が成立したときに、畑は陸軍大臣に就任し、1940年7月に、米内内閣が瓦解するときまで、引き続いてその職にあった。閣僚の地位にあったのは一年足らずであったが、侵略的諸計画の立案と実行に実質的な貢献をした。かれは陸軍大臣として、政府の政策に相当な影響を及ぼした。中国における戦争は、勢いを新たにして遂行され、汪精衛政府が南京に樹立され、仏印を支配する計画が進められ、オランダ領東インドに関する事項について、オランダとの交渉が行なわれた。

 畑は、東アジアと南方諸地域を日本が支配することに賛成した。この目的を達成するために、たとえば、政党を廃止し、これに代えて、大政翼賛会を設けることに賛成し、また他の高級の軍当局者と協力し、これらと協議した上で、米内内閣の瓦解を急に早め、それによって、ドイツとの完全な同盟と、日本において事実上の全体主義国家を確立することとのために道を開いた。

 その後、1941年3月から、中国における派遣軍の総司令官として、1944年11月まで、同国で引き続き戦争を遂行した。

 かれは、日本陸軍部内における現役軍人の最高地位の一つであった教育総監として、中国と西洋諸国に対して、引き続き戦争を遂行した。

 ハサン湖の敵対行為が起こったときには、畑は華中にいた。ノモンハン事件のときには、侍従武官長であり、この事件が終わる一週間と少し前に、陸軍大臣になった。本裁判所は、このいずれの戦争の遂行にも、畑は参加しなかったという意見である。


戦争犯罪

 1938年に、また1941年から1944年まで、畑が中国における派遣軍を指揮していたときに、かれの指揮下の軍隊によって、残虐行為が大規模に、しかも長期間にわたって行なわれた。畑は、これらのことを知っていながら、その発生を防止するために、なんらの措置もとらなかったか、それとも、無関心であって、捕虜と一般人を人道的に取り扱う命令が守られているかどうかを知るために、なんらの方法も講じなかったかである。どちらの場合にしても、訴因第55で訴追されているように、かれは自己の義務に違反したのである。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第35について、畑を有罪と判定する。訴因第35、第36及び第54については、かれは無罪である。

平沼騏一郎 (原資料28枚目)


 平沼は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第36、第54及び第55で訴追されている。かれが共同謀議の一員となったのは、その当所においてでないとしても、その後間もなくであった。かれは枢密顧問官であり、1936年から、1939年に総理大臣になるまで、枢密院議長であった。その後、第二次と第三次の近衛内閣で、相ついで無任所大臣と内務大臣をつとめた。

 枢密顧問官であった間、軍閥の侵略的計画を実施することに関連して、同院に提出された種々の方策をかれは支持した。総理大臣として、また大臣として、かれはこれらの計画を引き続いて支持した。

 1941年10月17日から1945年4月19日まで、被告は重臣の一人であった。西洋諸国と平和か戦争かという問題について、天皇に進言するために、1941年11月29日に開かれた重臣会議で、被告は、戦争は避けられないという意見を容認し、長期戦の可能性に対して、世論を強化することを勧告した。

 1945年4月5日に開かれた重臣会議で、被告は、講和のためのどのような申入れをすることにも強く反対し、日本は最後まで戦わなければならないと主張した。

 起訴状に挙げられた全期間において、平沼は、必要とあれば、武力よっても日本が東アジアと南方を支配するという政策の支持者であったばかりではなく、共同謀議の指導者の一人であり、その政策を推進することについて、積極的な参加者であった。この政策を実行するについて、かれは中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦諸国、オランダ、及び1939年にはソビエット連邦に対して戦争を遂行した。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第36について、被告平沼を有罪と判定する。

 訴因第33、第35、第54及び第55で訴追されている犯罪に、かれを直接に結びつける証拠はない。従って、われわれは、これらの訴因について、かれを無罪と判定する。

広田弘毅 (原資料30枚目)


 広田は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第54及び第55で起訴されている。

 広田は、1933年から、1936年3月に総理大臣になるまで、外務大臣であった。1937年2月に、かれの内閣が倒れてから4ヵ月の間、公職に就いていなかった。1938年5月まで、第一次近衛内閣において、再び外務大臣であった。それ以後は、かれと公務との関係は、ときどき重臣会議に出席し、総理大臣の任命とその他同会議に提出された重要な問題について勧告することに限られていた。

 1933年から1938年まで、広田がこれらの高い職務に就いていたときに、満州で日本が獲得したものは、その基礎が固められ、日本のために利用されつつあった。また、華北の政治経済生活は、中国の政治経済生活を日本が支配する準備として、華北を中国の他の地域から分離するために、『指導』されつつあった。1936年に、かれの内閣は、東アジアと南方地域における進出の国策を立案し、採用した。広範な影響のあるこの政策は、ついには1941年の日本と西洋諸国との間の戦争をもたらすことになった。やはり1936年に、ソビエット連邦に関する日本の侵略的政策が繰り返され、促進されて、その結果が防共協定となった。

 中国における戦争が再び始められた1937年7月7日から、広田の在任期間を通じて、中国における軍事作戦は、内閣の全面的支持を受けた。1938年の初めにも、中国に対する真の政策が明らかにされ、中国を征服して、中国国民政府を廃止し、その代わりに、日本が支配する政府を樹立するために、あらゆる労力が払われた。

 1938年の初めに、人的資源、産業資源、潜在的資源及び天然資源を動員する計画と法令が可決された。この計画は、要点ではほとんど変更されないで、その後の数年間を通じて、中日戦争を継続し、さらにいっそうの侵略戦争を遂行する準備の基礎となった。広田はこれらの計画と活動をすべて充分に知っており、そしてこれを支持した。

 広田は、非常に有能な人物であり、また強力な指導者であったらしく、このように、在任期間を通じて、軍部といろいろの内閣とによって採用され、実行された侵略的計画について、ある時には立案者であり、またある時には支持者であった。

 弁護側は、最終弁論において、広田のために、かれが平和と、紛争問題の平和的すなわち外交的交渉とを終始主張したことを裁判所が考慮するように要望した。広田は外交官としての訓練に忠実であって、紛争をまず外交機関を通じて解決するようにつとめることを終始主張したことは事実である。しかし、そうするにあたって、日本の近隣諸国の犠牲において、すでに得られたか、得られると期待されるところの、利得または期待利得のどれをも、犠牲にすることを絶対に喜ばなかったこと、もし外交交渉で日本の要求が満たされるに至らないときは、武力を行使することに終始賛成していたことは、十二分に明らかである。従って、本裁判所は、この点について申し立てられた弁護を、この被告に罪を免れさせるものとして、受理することはできない。

 従って、本裁判所は、少なくとも1933年から、広田は侵略戦争を遂行する共通の計画または共同謀議に参加したと認定する。外務大臣として、かれは中国に対する戦争の遂行にも参加した。

 訴因第29、第31及び第32についていえば、重臣の一人として1941年における広田の態度と進言は、かれが西洋諸国に対する敵対行為の開始に反対していたことと、よく首尾一貫している。かれは1938年以後は公職に就かず、これらの訴因で述べられている戦争の指導については、どのような役割も演じなかった。提出された証拠は、これらの訴因について、かれの有罪を立証しないと本裁判所は認定する。

 訴因第33と第35については、ハサン湖における、または1945年の仏印における軍事作戦に、広田が参加し、またはこれを支持したという証拠はない。

 戦争犯罪については、訴因第54に主張されているような犯罪の遂行を、広田が命令し、授権し、または許可したという証拠はない。

 訴因第55については、かれをそのような犯罪に結びつける唯一の証拠は、1937年12月と1938年1月及び2月の南京における残虐行為に関するものである。かれは外務大臣として、日本軍の南京入城直後に、これらの残虐行為に関する報告を受け取った。弁護側の証拠によれば、これらの報告は信用され、この問題は陸軍省に照会されたということである。陸軍省から、残虐行為を中止させるという保証が受け取られた。この保証が与えられた後も、残虐行為の報告は、少なくとも1ヵ月の間、引き続いてはいってきた。本裁判所の意見では、残虐行為をやめさせるために、直ちに措置を講ずることを閣議で主張せず、また同じ結果をもたらすために、かれがとることができた他のどのような措置もとらなかったということで、広田は自己の義務に怠慢であった。何百という殺人、婦人に対する暴行、その他の残虐行為が、毎日行なわれていたのに、右の保証が実行されていなかったことを知っていた。しかも、かれはその保証にたよるだけで満足していた。かれの不作為は、犯罪的な過失に達するものであった。

 本裁判所は、訴因第1、第27及び第55について、広田を有罪と判定する。訴因第29、第31、第32、第33、第35及び第54については、かれは無罪である。

星野直樹 (原資料34枚目)


 星野は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第54及び第55で訴追されている。

 被告星野は、1932年に満州へ行くまで、日本の大蔵省に勤務していた。かれは満州国財政部と満州国総務庁の高級官吏になるために、日本の政府によって満州へ派遣された。1936年までに、かれは満州国財政部次長と満州国国務院総務庁長になっていた。これらの地位において、かれは満州国の経済に深く勢力を及ぼすことができたし、満州国の商工業の発展を日本が支配するように、この勢力を実際に用いた。かれは、満州国の事実上の支配者であった関東軍司令官と、緊密に協力して活動した。名目上はともあれ、実際には、かれは、満州国の資源を日本の軍事上の目的に役立たせることを目標とする経済政策をとっていた関東軍の職員であった。

 名目上は満州国政府の官吏であり、8年間そうであったが、日本へ呼びもどされた。この地位において、当時中国において遂行されつつあった侵略戦争の継続と、東アジアに属地をもつ他の諸国を目標として当時企てられていた侵略戦争とに対して、日本の用意を整えるために、当時とられていた特別な措置について、かれは指導者であった。

 かれが内閣を去った1941年4月から、戦争準備に関連するかれの公けの任務は減ったが、全然なくなったわけではなかった。

 被告東条が1941年10月に総理大臣として就任すると、星野は内閣書記官長になり、やがて企画院参与になった。このときから、かれは、1941年12月に日本が攻撃した諸国に対して、すでに決定され、今や間もなく遂行されることになっていた侵略戦争のためのすべての準備に、密接な関係があった。

 1932年から1941年までの全期間を通じて、かれは起訴状の訴因第1に挙げられている共同謀議で活躍した一員であり、従って、この訴因について、有罪と判定される。かれは侵略戦争遂行の共同謀議をしたばかりでなく、かれの次々に占めた公的地位において、訴因第27、第29、第31及び第32に述べられている侵略戦争の遂行に直接参加した。これらの訴因全部についても、かれは有罪と判定される。

 かれは、訴因第33と第35で訴追されている戦争に参加したということは立証されていないので、これらについては、無罪と判定される。

 かれを訴因第54と第55で訴追されている犯罪に結びつける証拠はないので、これらについても、かれは無罪と判定される。

板垣征四郎 (原資料36枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第36、第54及び第55で訴追されている。

 1931年になると、当時大佐で関東軍参謀部にいた板垣は、日本が武力によって満州を占拠するということを、その当時は直接の目的としていた共同謀議に参加していた。かれはこの目的を支持する扇動を行ない、軍事行動の口実として、いわゆる『満州事変』を引き起こすことに協力し、この軍事行動を防止しようとするいくつかの企てを抑圧し、この軍事行動を承認し、指導した。

 次に、虚偽の満州国独立運動を助長し、その結果として傀儡満州国が樹立されるに至った陰謀において、かれは主要な役割を演じた。

 かれは1934年12月に関東軍参謀副長となり、それから後は、内蒙古と華北で傀儡政権を樹立することに活躍した。かれは、ソビエット連邦の領土に対する脅威となるように、日本の軍事占領を外蒙古にまで拡大したいと思っていた。かれは、日本の華北侵略の口実とするために、『反共』という言葉をつくり出した者の一人であった。

 1937年7月に、盧溝橋で戦闘が起こったときに、かれは日本から中国に派遣され、師団長として戦闘に参加した。かれは中国で侵略地域が拡がることに賛成した。

 1938年5月に、かれは近衛内閣の陸軍大臣となった。かれのもとで、中国に対する攻撃は激しくなり、拡大した。中国の国民政府を打倒し、その代わりに、傀儡政権を樹立しようと試みることを決定した重要な閣議にかれは参加した。ついで、汪精衛の傀儡政権の樹立をもたらした準備工作について、かれは大いに責任があった。日本のために、中国の占領地域を開発する取極めにかれは参加した。

 平沼内閣の陸軍大臣として、かれは再び中国に対する戦争の遂行と日本の軍備拡張とについて責任があった。閣内では、かれは日本、ドイツ、イタリア間の無制限軍事同盟の強力な主唱者であった。

 陸軍大臣として、かれは、ハサン湖におけるソビエット連邦に対する武力の行使について、策略によって天皇の同意を得ようとした。その後、五相会議で、かれはこのような武力行使の承認を得た。ノモンハンにおける戦闘中も、かれはまだ陸軍大臣であった。

 かれは、東アジアと南方における日本のいわゆる『新秩序』の声明の強力な支持者であった。新秩序を建設しようとする企ては、これらの地域のそれぞれの属地を防衛しようとするソビエット連邦、フランス及びイギリスとの戦争を引き起こす結果となるに違いないということを、かれは認識していた。

 1939年9月から1941年7月まで、支那派遣軍の参謀長として、かれは中国に対する戦争を遂行した。

 1941年7月から1945年4月まで、かれは朝鮮軍の司令官であった。

 1945年4月から降伏の日まで、かれはシンガポールに司令部のあった第七方面軍を指揮した。かれの指揮する軍隊は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを防衛した。

 かれは、中国、アメリカ合衆国、イギリス連邦、オランダ及びソビエット連邦に対して侵略戦争を遂行する共同謀議を行ない、これらの戦争が侵略戦争であることを知りながら、その遂行に積極的で重要な役割を演じた。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第35及び第36について、板垣を有罪と判定する。訴因第33については、かれは無罪である。


戦争犯罪

 1945年4月から降伏まで、板垣が指揮していた地域は、ジャワ、スマトラ、マレー、アンダマン及びニコバル諸島、ボルネオを包含していた。右の期間中、何千という捕虜と抑留者がこれらの地域の収容所に収容されていた。

 かれが提出した証言によれば、これらの収容所は、シンガポールにあるものを除いて、かれの直接の指揮下にはなかったが、かれはこれらの収容所に食糧、医薬品及び医療設備を供給する責任をもっていた。

 この期間中、これらの収容所における状態は、言葉でいえないほど悪かった。食糧、医薬品及び医療設備の供給は、はなはだしく不充分であった。栄養不足による病気がはびこり、その結果として、毎日多くの者が死亡した。降伏の日まで生き残った者は、哀れな状態にあった。降伏後に、収容所が視察されたときは監視員の間には、そのような状態は見られなかった。

 捕虜と抑留者とのこの残虐な取り扱いに対する板垣の弁解は、日本の船舶に対する連合国の攻撃によって、これらの地域への補給物資の輸送がはなはだ困難になったこと、手もとにあった補給物資で、かれはできるだけのことをしたということである。しかし、降伏後には、食糧と医薬品の補給は、板垣の軍隊によってシンガポール、ボルネオ、ジャワ及びスマトラの収容所の使用に当てることができた。板垣のための証拠及び弁護として申し立てられた説明では、日本側は長期戦を予想し、補給品を使わないで保存していたというのである。このことは、板垣が捕虜と抑留者をはなはだしく非人道的に取り扱ったのは、当時の一般的な事情からすれば、正当な理由があったと主張するに等しい。本裁判所は、躊躇なく、この弁護を却下する。板垣は、何千という捕虜と抑留者への補給について責任があったのであるから、その補給が将来維持できないとわかったならば、戦争法規に基づくかれの義務としては、手もとにある補給品を分配し、その間に、上官に対して、将来捕虜と抑留者を扶養するために、必要とあれば、連合国に連絡して、手配をしなければならないと通告することであった。かれのとった方針によって、かれは、自分が適当に扶養すべき義務のあった何千という人々の死亡または苦痛に対して責任がある。

 本裁判所は、訴因第54について、板垣を有罪と判定する。土肥原の場合と同じく、本裁判所は、訴因第55については、判定を行なわない。

賀屋興宣 (原資料41枚目)


 被告賀屋は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で訴追されている。

 賀屋は文官であった。

 1936年に、かれは対満事務局参与に任命され、1937年2月に、大蔵次官になった。1937年6月に、第一次近衛内閣の大蔵大臣に任命され、1938年5月まで、この地位を占めていた。1938年7月に、大蔵省顧問になった。1939年7月に興亜委員会の委員に、またその年の8月に、北支那開発会社の総裁に任命され、1941年10月に東条内閣の大蔵大臣になるまで、その地位に留まっていた。1944年2月に、大蔵大臣を辞職したが、再び大蔵省顧問になった。

 これらの地位において、かれは、日本の侵略的な諸政策の樹立と、それらの政策の遂行のための日本の財政上、経済上、産業上の準備とに参加した。

 この期間を通じて、特に第一次近衛内閣と東条内閣との大蔵大臣として、また北支那開発会社総裁として、かれは、中国における侵略戦争と西洋諸国に対する侵略戦争との準備と遂行とに積極的に従事した。かれは、訴因第1に主張されている共同謀議の積極的な一員であり、この訴因について、有罪と判定される。

 賀屋は、かれは占めたいろいろの地位において、起訴状の訴因第27、第29、第31及び第32に主張されている侵略戦争の遂行に、主要な役割を果たした。従って、これらの訴因について、かれは有罪と判定される。

 戦争犯罪に対して、賀屋に責任があることを、証拠は示していない。従って、訴因第54及び第55については、かれは無罪と判定される。

木戸幸一 (原資料43枚目)


 被告木戸幸一は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第36、第54、及び第55で訴追されている。

 1930年から1936年まで、木戸は内大臣の秘書官長として、宮中の職員であった。この期間中、かれは満州における軍事上と政治上の企ての真の性質を知っていた。しかし、このときには、軍部とその支持者によって始められた共同謀議には、かれは関係がなかった。

 1937年に、木戸は文部大臣として第一次近衛内閣に加わり、また一時厚生大臣であった。1939年に、平沼が総理大臣になると、木戸は内務大臣に任命され、1939年8月まで、引き続いて閣僚であった。1937年から1939年までのこの期間に、木戸は共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために、一意専心努力した。中国における戦争は、その第二の段階にはいっていた。木戸はこの戦争の遂行に熱意をもち、中国と妥協することによって、戦争を早く終わらせようとする参謀本部の努力に対して、反抗さえしたほどであった。かれは中国の完全な軍事的と政治的の支配に懸命であった。

 このようにして、木戸は、中国における共同謀議者の計画を支持したばかりではなく、文部大臣として、日本における強い好戦的精神の発展に力を尽くした。

 1939年8月から、1940年6月に内大臣になるまで、木戸は近衛とともに、近衛を総裁とし、木戸を副総裁とする単一政党によって、既成政党に代える計画を進めることに活動した。この一党制度は、日本に全体主義的な制度を与え、それによって、共同謀議者の計画に対する政治的な抵抗を除くものと期待された。

 内大臣として木戸は、共同謀議を進めるのに、特に有利な地位にあった。かれのおもな任務は、天皇に進言することであった。かれは政治上の出来事に密接な接触を保っており、これに最も関係の深い人々と政治的にも個人的にも親密な間柄にあった。かれの地位は、非常に勢力のあるものであった。かれはこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、政治的策略によって共同謀議の目的を促進するようにも用いた。中国及び全東アジアとともに、南方の諸地域の支配を含むところの、これらの目的にかれも共鳴していた。

 西洋諸国に対する戦争開始のときが近づくにつれて、完全な成功については、海軍部内で疑念が抱かれていたために、木戸はある程度の躊躇を示した。このように気おくれしている状態でも、木戸は中国に対する侵略戦争の遂行を決意していたし、もう確信が薄らいでいたにもかかわらず、イギリスとオランダに対して、また必要となれば、アメリカ合衆国に対して企てられていた戦争に、力を尽くした。海軍の疑念が除かれると、木戸の疑念も除かれたようである。かれは再び共同謀議の全目的の達成をはかり始めた。そのときまで、西洋諸国と直ちに戦争することをあくまで主張していた東条を、総理大臣の地位に就かせることに、かれは主として力があった。その他の方法でも、かれはその地位を利用して、このような戦争を支持し、またはそれを阻止するおそれのある行動を故意に避けた。最後のときにも、またもっと有効であったはずの初期においても、かれは天皇に対して、戦争に反対の態度をとるように進言することをしなかった。

 検察側は、訴因第33、第35と第36で述べられている戦争に対して、木戸の有罪を示す証拠を提出していない。

 戦争犯罪に関しては、南京において残虐行為が行われた際に、木戸は閣僚であった。それを防止しなかったことに対する責任をかれに負わせるには、証拠が充分でない。1941年の西洋諸国に対する戦争中とその後には、木戸の地位は、犯された残虐行為に対して、かれに責任があるとすることのできないようなものであった。

 訴因第1、第27、第29、第31及び第32における起訴事実について、木戸は有罪と判定され、訴因第33、第35、第37、第54及び第55については、無罪と判定される。

木村兵太郎 (原資料46枚目)


 木村は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で起訴されている。

 陸軍将校である木村は、審理の対象となっている期間の大部分を通じて、陸軍省で行政的な事務に携わっていたが、最後には、1941年4月に陸軍次官になった。その後、企画院参与と総力戦研究所顧問に任命された。1943年3月に、陸軍次官の任を解かれ、1944年8月に、ビルマ方面軍司令官になり、1945年に日本が降伏するまで、この任にあった。

 陸軍次官として勤務していた間、かれはほとんど毎日陸軍大臣とその他の大臣、次官及び局長と接触して、合衆国との重大な交渉の間における政府の決定と措置のすべてを知る地位にあり、実際にいつも充分に知らされていた。太平洋戦争と中国における敵対行為との計画と準備とについて、かれは完全な知識をもっていた。全期間を通じて、かれは侵略的な計画に全幅の支持を与え、かれの広い経験に基づいて時々進言を行なって、陸軍大臣及び他の省と提携し、協力した。

 指導者ではなかったが、かれは、かれ自身によって発意されたか、参謀本部または他の機関によって提案され、かれによって承認され、支持された政策の樹立と進展に参加した。このようにして、侵略戦争を遂行する共同謀議において、かれは重要な協力者または共犯者であった。

 共同謀議者の一人としてのかれの活動と相伴って、1939年と1940年には師団長として、次には関東軍参謀長として、後には陸軍次官として、かれは中国における戦争と太平洋戦争との遂行に目立った役割を果たした。太平洋戦争の不法性について、完全な知識をもっていながら、1944年8月に、かれはビルマ方面軍の司令官となり、降伏の時まで、引き続いてその地位にあった。

 かれは多くの場合に捕虜を作業に使用することを承認したが、その作業は、戦争法規によって禁止されている作業と、何千という捕虜の最大の艱難と死亡をもたらした状態における作業とであって、この点で、かれは戦争法規の違反に積極的な形で参加した一人である。後者の場合の一例は、泰緬鉄道の建設における捕虜の使用であって、これに対する命令は、木村によって承認され、伝達されたものである。

 さらに、すべての戦争地域で、日本軍がどんな程度の残虐行為を行なったかを知っていながら、1944年8月に、木村はビルマ方面軍の指揮を引き継いだ。かれがラングーンの司令部に到着した日から、後に司令部がモールメインに移されたときまで、残虐行為は少しも衰えることのない程度で、引き続いて行なわれた。かれの指揮の下にある軍隊が残虐行為を行なうのを防ぐために、かれは懲戒措置または他の手段を全然とらなかった。

 木村の弁護として、かれがビルマに到着したときに、かれはその部隊に対して、正しい軍人らしい行動をとり、捕虜を虐待することを慎むように命令したということが主張された。多くの場合に、かれの司令部から数マイル以内のところで、大規模に行なわれた捕虜虐待の性質と範囲にかんがみて、本裁判所は木村が戦争法規を実施すべきかれの義務に怠慢であったと判定する。このような事情のもとにおける軍の司令官の義務は、たとい型通りの命令が実際出されたとしても、そのような命令を出すだけで果たされるものではない。かれの義務は、その後戦争犯罪が行なわれるのを防ぐような措置をとり、そのような命令を発すること、その命令が実行されていることをみずから確かめることである。これをかれは怠った。このようにして、戦争法規の違反を防ぐために、充分な措置をとるべき法律上の義務を、かれは故意に無視したのである。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及びだい55について、木村を有罪と判定する。

小磯国昭 (原資料49枚目)


 小磯は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第36、第54及び第55で訴追されている。

 かれは1931年に共同謀議に参加した。それは、かれが三月事件に指導者の一人として参加したからである。この事件の目的は、濱口内閣を倒し、満州の占領に都合のよい内閣を就任させることであった。その後、1932年8月に、関東軍参謀長に任命されてから、かれは日本の対外進出計画の進展に指導的な役割を演じた。

 1932年8月から1934年3月まで、関東軍参謀長として、日本政府によって採用された共同謀議者の方針による満州国の政治的と経済的の組織のために陸軍省を通じて政府に提出された提案と計画をかれは作成し、またはこれに同意した。かれの弁護として、提案と計画を東京に送付するについては、単に参謀長としてそうしたのであって、このような措置は、かれ一個人の同意を意味したものではないということが主張された。日本の侵略的計画をかれが知っていたことにかんがみて、本裁判所は、この抗弁を容認することができない。これらの計画を促進するために、政治的と経済的の事項について進言したことによって、かれは一参謀長としての通常の義務の範囲を越えたのである。

 かれがChief-of-WSとして在任してる間に、熱河に対する軍事的侵入と満州における新しい戦闘が起こった。(While he was Chief-of-WS, there also occurred the military invasion of Jehol and renewed fighting in Manchuria. という文章の訳文の一部が欠落しているので、訳して補った。Chief-of-WSが何を意味するのか不明なので、そのままにした。)

 その後、平沼内閣と米内内閣の拓務大臣として、小磯は、中国における戦争の指導と、仏印占領の開始と、オランダ領東インドから譲歩を得るための、ついにはこれを経済的に支配するための交渉とを支持し、これに参加した。

 同じ期間に、かれは日本が『すべての方向』に進出するという計画を唱道した。

 1944年7月に、小磯は朝鮮総督の任を解かれて、総理大臣になった。この資格において、かれは西洋諸国に対する戦争の遂行を主張し、また指導した。日本が戦争に敗北したことが明らかになった1945年4月に、かれは総理大臣を辞して、鈴木内閣成立の途を開いた。

 ノモンハンにおける戦闘を組織するとか、指導するとかによって、かれがこの戦闘になんらかの役割を演じたという証拠はない。


戦争犯罪

 小磯が1944年に総理大臣になったときには、各戦争地域で日本軍が犯しつつあった残虐行為とその他の戦争犯罪はよく知れ渡っていたのであるから、これらの悪評が広まっていたことによってか、各省間の通信からして、小磯のような地位にいた者が充分に知っていなかったということは、ありそうもないことである。この事柄は、1944年10月に、小磯が出席した最高戦争指導会議の会合で、外務大臣が、敵側の情報から得た最新の情報によると、日本の捕虜に対する取り扱いは『大いに改善の余地がある』と報ぜられていると報告した事実によって、疑いの余地のないものとなっている。(The matter is put beyond doubt by the fact that in October 1944 the Foreign Minister reported to a meeting of the Supreme Council for the direction of War, which KOISO attended, that according to recent information from enemy sources, it was reported that the Japanese treatment of prisoners of war "left much to be desired". という文章の訳文の一部が欠落しているので、訳して補った)外務大臣は、さらに、日本の国際的な評判と将来の国交という観点から、これは重要な事項であると述べた。かれは、これらの事項が充分に協議されるように、主管当局者に指令を発することを要求した。その後、小磯は、総理大臣といて6ヵ月間在任したが、その間に、日本の捕虜と抑留者の取り扱いには、なんらの改善も見られなかった。これは、かれがその義務を故意に無視したことに相当する。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第55について、小磯を有罪と判定する。訴因第36及び第54については、かれは無罪である。

松井石根 (原資料52枚目)


 被告松井は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第35、第36、第54及び第55で訴追されている。

 松井は日本陸軍の高級将校であり、1933年に大将の階級に進んだ。かれは陸軍において広い経験をもっており、そのうちには、関東軍と参謀本部における勤務が含まれていた。共同謀議を考え出して、それを実行した者と緊密に連絡していたことからして、共同謀議者の目的と政策について、知っていたはずであるとも考えられるが、裁判所に提出された証言は、かれが共同謀議者であったという認定を正当化するものではない。

 1937年と1938年の中国におけるかれの軍務は、それ自体としては、侵略戦争の遂行と見なすことはできない。訴因第27について有罪と判定することを正当化するためには、検察側の義務として、松井がその戦争の犯罪的性質を知っていたという推論を正当化する証拠を提出しなければならなかった。このことは行なわれなかった。

 1935年に、松井は退役したが、1937年に、上海派遣軍を指揮するために、現役に復帰した。ついで、上海派遣軍と第十軍とを含む中支那方面軍司令官に任命された。これらの軍隊を率いて、かれは1937年12月13日に南京市を攻略した。

 南京が落ちる前に、中国軍は撤退し、占領されたのは無抵抗の都市であった。それに続いて起こったのは、無力の市民に対して、日本の陸軍が犯した最も恐ろしい残虐行為の長期にわたる連続であった。日本軍人によって、大量の虐殺、個人に対する殺害、強姦、掠奪及び放火が行なわれた。残虐行為が広く行なわれたことは、日本人証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性のある中立的証人の反対の証言は、圧倒的に有力である。この犯罪の修羅の騒ぎは、1937年12月13日に、この都市が占拠されたときに始まり、1938年2月の初めまでやまなかった。この6、7週間の期間において、何千という婦人が強姦され、十万以上の人々が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした。これらの恐ろしい出来事が最高潮にあったときに、すなわち12月17日に、松井は同市に入城し、5日ないし7日の間滞在した。自分自身の観察と幕僚の報告とによって、かれはどのようなことが起こっていたかを知っていたはずである。憲兵隊と領事館員から、自分の軍隊の非行がある程度あったと聞いたことをかれは認めている。南京における日本の外交代表者に対して、これらの残虐行為に関する日々の報告が提出され、かれらはこれを東京に報告した。本裁判所は、何が起こっていたかを松井が知っていたという充分な証拠があると認める。これらの恐ろしい出来事を緩和するために、かれは何もしなかったか、何かしたにしても、効果のあることは何もしなかった。同市の占領の前に、かれは自分の軍隊に対して、行動を厳正にせよという命令を確かに出し、その後さらに同じ趣旨の命令を出した。現在わかっているように、またかれが知っていたはずであるように、これらの命令はなんの効果もなかった。かれのために、当時かれは病気であったということが申し立てられた。かれの病気は、かれの指揮下の作戦行動を指導できないというほどのものでもなく、またこれらの残虐行為が起こっている間に、何日も同市を訪問できないというほどのものでもなかった。これらの出来事に対して責任を有する軍隊を、かれは指揮していた。これらの出来事をかれは知っていた。かれは自分の軍隊を統制し、南京の不幸な市民を保護する義務をもっていたとともに、その権限をももっていた。この義務の履行を怠ったことについて、かれは犯罪的責任があると認めなければならない。

 本裁判所は、被告松井を訴因第55について有罪、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第35、第36及び第54について無罪と判定する。

南次郎 (原資料55枚目)


 南は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54、及び第55で訴追されている。

 1931年には、南は陸軍大将であり、4月から12月まで陸軍大臣であった。すでに奉天事件以前に、軍国主義と、日本の対外進出と、満州を『日本の生命線』とすることを唱道する共同謀議者と、かれは関係をもっていた。事件が起こりそうであるということを、かれは前もって知らされていた。それを防止するように、かれは命令された。かれはそれを防止する充分な手段をとらなかった。事件が起こったときに、かれは陸軍の行動を『正当な自衛』と称した。内閣は直ちに事件を拡大してはならないと決定し、南は内閣の政策を実行することに同意したが、作戦地域は日一日と拡大し、南は陸軍を抑制する充分な手段をとらなかった。閣議で、かれは陸軍のとった手段を支持した。日本が中国でとった行動に、国際連盟が反対するならば、日本は連盟から脱退すべきだとかれは早くから唱えた。内閣は満州を占領したり、軍政をしいたりすべきではないと決定した。陸軍がこれらの措置を両方とも実行する手段をとりつつあることを南は知っていたが、それをやめさせるために、なにもしなかった。陸軍を統制する手段をとって、総理大臣と外務大臣を支持することをかれがしなかったので、内閣は瓦解するに至った。その後、日本は満州と蒙古の防衛を引き受けるべきであるとかれは唱えた。満州に新しい国家が建設されなければならないと、かれはすでに唱えていた。

 1934年12月から1936年3月まで、かれは関東軍司令官であり、満州の征服を完了し、日本のために中国のこの部分を開発利用することを助けた。軍事行動の威嚇のもとに、華北と内蒙古に傀儡政権を樹立することに対して、かれは責任があった。

 ソビエット連邦に対する攻撃の基地として、満州を開発したことについても、このような攻撃の計画についても、かれは一部分責任があった。

 1936年に、かれは朝鮮総督となり、1938年には、かれが『聖戦』と呼んだ中国に対する戦争の遂行と、中国国民政府の打倒とを支持した。

 本裁判所は、訴因第1と第27について、南を有罪と判定する。訴因第29、第31、第32、第54及び第55に含まれている起訴事実については、かれは無罪である。

武藤章 (原資料57枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第36、第54及び第55で起訴されている。

 かれは軍人であって、陸軍省軍務局長の重要な職に就くまでは、高等政策の立案に関係のある職務にはついていなかった。その上に、軍務局長になる前の時期において、単独または他の者とともに、かれが高等政策の立案に影響を与えようと試みたという証拠はない。

 軍務局長になったときに、かれは共同謀議に加わった。この職とともに、1939年9月から1942年4月まで、かれはほかの多数の職を兼ねていた。この期間において、共同謀議者による侵略戦争の計画、準備及び遂行は、その絶頂に達した。これらの一切の活動において、かれは首謀者の役割を演じた。

 かれが軍務局長になったときに、ノモンハンの戦闘は終わっていた。この戦争の遂行には、かれは関係がなかった。

 1945年3月に、日本が仏印でフランスを攻撃したときに、かれはフィリッピンにおける参謀長であった。この戦争をすることには、かれは関係がなかった。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、武藤を有罪と判定する。訴因第33及び第36については、かれは無罪である。


戦争犯罪

 武藤は、1937年1月から1938年7月まで、松井の参謀将校であった。南京とその周辺で、驚くべき残虐行為が松井の軍隊によって犯されたのは、この期間においてであった。多くの週間にわたって、これらの残虐行為が行なわれていたことを、松井が知っていたと同じように、武藤も知っていたことについて、われわれはなんら疑問ももっていない。かれの上官は、これらの行為をやめさせる充分な手段をとらなかった。われわれの意見では、武藤は、下僚の地位にいたので、それをやめさせる手段をとることができなかったのである。この恐ろしい事件については、武藤は責任がない。

 1942年4月から1944年10月まで、武藤は北部スマトラで近衛第二師団を指揮した。この期間において、かれの軍隊が占領していた地域で、残虐行為が広く行なわれた。これについては、武藤は責任者の一人である。捕虜と一般人抑留者は食物を充分に与えられず放置され、拷問され、殺害され、一般住民は虐殺された。

 1944年10月に、フィリッピンにおいて、武藤は山下の参謀長になった。降伏まで、かれはその職に就いていた。このときには、かれの地位は、いわゆる『南京暴虐事件』のときに、かれが占めていた地位とは、まったく異なっていた。このときには、かれは方針を左右する地位にあった。この参謀長の職に就いていた期間において、日本軍は連続的に虐殺、拷問、その他の残虐行為を一般住民に対して行なった。捕虜と一般人抑留者は、食物を充分に与えられず、拷問され、殺害された。戦争法規に対するこれらのはなはだしい違反について、武藤は責任者の一人である。われわれは、これらの出来事について、まったく知らなかったというかれの弁護を却下する。これはまったく信じられないことである。本裁判所は、訴因第54と第55について、武藤を有罪と判定する。

岡敬純 (原資料60枚目)


 岡は、起訴状の訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で訴追されている。

 岡は日本海軍の将校であった。1940年10月に、海軍少将に進級し、海軍省軍務局長になった。

 1940年10月から1044年7月まで、軍務局長としての職にあった間、岡は共同謀議の積極的な一員であった。この職において、かれは、日本の政策の大部分を決定した連絡会議の有力な一員であった。中国と西洋諸国に対する侵略戦争を遂行する政策の樹立と実行に、かれは参加した。


戦争犯罪

 岡のいた海軍省は、捕虜の福祉に関係していたので海軍の兵員が捕虜に対して戦争犯罪を犯しつつあったことを、かれは知っていたか、知っているべきであったということを示すような、いくらかの証拠はある。しかし、刑事事件において、有罪と判定することを正当化する証拠の標準には、それは達していない。

 本裁判所は、訴因第54と第55について、岡を無罪と判定し、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、有罪と判定する。

大島浩 (原資料61枚目)


 大島は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で起訴されている。

 大島は陸軍の将校であったが、ここで取り扱っている期間中、外交の分野で勤務していた。最初はベルリンの日本大使館付陸軍武官であり、後には大使の地位に進んだ。1939年から約1年間は、外交官としての地位をもたなかったが、その後大使としてベルリンに帰り、日本の降伏まで、そこに留まった。

 大島は、ヒットラー政権の成功を信じていた者であって、最初にベルリン在勤を命じられたときから、日本の軍部の計画を促進するために、全力を尽くした。日本をドイツとの全面的軍事同盟に引き入れようとつとめて、ときには大使を差しおいて、フォン・リッベントロップと直接に折衝した。大使に任命されると、西洋諸国に対抗して、日本をドイツ及びイタリア側に立たせ、こうして広田政策を実行に移す途を開くところの条約を、むりやりに日本に受諾させようとする努力を続けた。軍部派の侵略政策を促進するために、いく度も、かれの外務大臣の政策に反対し、またこれを無視する政策をとった。

 独・ソ中立条約は、一時かれの企てを阻止した。そこで、かれは東京に帰り、新聞や雑誌の論説によって、またドイツの大使と緊密に協力することによって、戦争を主唱する者を支援した。

 大島は主要な共同謀議者の一人であり、終始一貫して、おもな共同謀議の目的を支持し、助長した。中国における戦争または太平洋戦争の指導には、かれは参加しなかったし、捕虜に関する任務または責任を伴うような地位には、一度も就いたことがなかった。

 大島の特別な弁護は、かれのドイツにおける行動については、かれが外交官の特権によって保護されており、訴追を免除されるというのである。外交官の特権は、法律上の責任の免除を意味するものではなく、単に大使の駐在する国の裁判所による裁判の免除を意味するだけである。いずれにしても、この特権は、管轄権をもつ裁判所に対して、国際法に違反する犯罪として訴追されたものには、まったく関係がない。本裁判所は、この特別な弁護を却下する。

 本裁判所は、訴因第1について、大島を有罪と判定する。訴因第27、第29、第31、第32、第54及び第55については、かれは無罪である。

佐藤賢了 (原資料63枚目)


 被告佐藤賢了は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で訴追されている。

 1937年に当時軍務局の局員であった佐藤は、陸軍中佐の階級に昇進した。その年に、かれは企画庁の調査官に任命された。その後は、軍務局における任務に加えて、ほかの任務ももっていた。すなわち、一時事務官として勤務した企画庁ばかりでなく、中国における日本の戦争と他の諸国に対して日本が企図していた戦争とに、多かれ少なかれ関係のある他の機関においても、任務をもっていたのである。

 近衛内閣は、1938年2月に総動員法を議会に提出した。佐藤は『説明員』として用いられ、この法案を支持する演説を議会で行なった。

 1941年2月に、佐藤は軍務局軍務課長に任命された。1941年10月に、陸軍少将に進級した。1942年4月に、日本陸軍において、はなはだ重要な地位である軍務局長になった。1944年まで、かれはこの地位に留まった。同時に、主として政府の他の省と関係をもっていたいろいろの職を兼ね、これらの省の業務と陸軍省の業務との連絡の任にあたっていた。

 このようにして、1941年になって初めて、佐藤は、その地位自体からして、政策の樹立を左右し得るような地位に就いたのであって、それ以前に、政策の立案に影響を与えようとする策謀にふけったという証拠は提出されていない。決定的な問題は、そのときまでに、日本の企図が犯罪的であったということをかれが知るようになっていたかどうかということである。なぜなら、その後は、自分のできる限り、かれはこれらの企図の進展を遂行を促進したからである。

 このことは、1938年8月に佐藤が行なった演説によって、合理的な疑問の余地のないものとなっている。かれは中国における戦争について陸軍の関係を述べている。日本が中国に対する戦争の解決の基礎とする用意のあった詳細な条件、しかも中国には決して示されなかったものと、かれはよく知っていたことを現わしている。これらの条件が一見して明らかに含んでいたものは、中国の正当な政府を廃止すること、このころまでには、その資源の大部分が日本の利益になるようにあ開発されていた満州国という傀儡国家を承認すること、日本の利益になるように中国経済を組織統制すること、これらの不法な利得が失われないことを保証するために、日本軍隊を中国に駐屯させることである。華北は完全に日本の支配下に置かれることになっており、その資源は国防のために、すなわち、日本の軍事的準備を助けるために、開発されることになっているとかれは述べている。日本はソビエット連邦と戦争を行なうであろうと予言したが、日本はその軍備と生産が拡充されたときに、時機を選ぶであろうといっている。

 弁護側では、中国における日本の行動は、中国における日本の正当な権益を確実に保護したいという希望に基づいたものであるとわれわれに信じさせようとしているが、この演説によると、佐藤はそうは信じていなかったことがわかる。それどころか、中国に対する日本の攻撃の動機は、隣国の富を手に収めることであるということを知っていた。われわれの意見では、そのように犯罪であることを知っていた佐藤は、1941年から後は、明らかに共同謀議の一員であったのである。

 その後、政府における重要な職において、また軍の指揮官として、かれは訴因第27、第29、第31及び第32で訴追されている侵略戦争を遂行した。


戦争犯罪

 日本の軍隊の行動に対する多くの抗議について、佐藤が知っていたことは、疑いがない。なぜなら、これらの抗議は、かれの局に送られ、陸軍省の局長の2週間ごとの会合で論議されたからである。これらの会合を主宰した者は東条であって、かれこそ、これらの抗議に関して、措置をとるかとらないかを決定したのであり、かれの部下であった佐藤は、自分の上官の決定に反対して、みずから進んで予防的措置をとることはできなかった。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、佐藤を有罪と判定する。訴因第54及び第55については、かれは無罪である。

重光葵 (原資料66枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第35、第54及び第55で訴追されている。

 訴因第1については、かれが1931年と1932年に中国駐在公使であったとき、対満事務局参与であったとき、1936年から1938年までソビエット連邦駐在大使であったとき、1938年から1941年までイギリス駐在大使であったとき、並びに1942年と1943年に中国駐在大使であったときの、かれの行動が訴追されている。対満事務局参与として、政策の樹立に、かれがなにかの役割を演じたという証拠はない。そのほかについては、公使及び大使として、重光はこれらの官職の正当な任務を越えたことは一度もなかったと、われわれは認定する。上に述べた年の間、かれは共同謀議者の一人ではなかった。実際において、かれは、外務省に対して共同謀議者の政策に反対する進言をくり返し与えていたのである。

 かれが外務大臣になった1943年までには、一定の侵略戦争を遂行するという共同謀議者の政策はすでに定まっており、かつ実行されつつあった。その後は、この政策がそれ以上に樹立されたことも、発展させられたこともなかった。

 本裁判所は、訴因第1について、重光を無罪と判定する。

 1943年に、日本は太平洋における戦争を行なっていた。日本に関する限り、この戦争が侵略戦争であることを、かれは充分に知っていた。なぜなら、かれはこの戦争を引き起こした共同謀議者の政策を知っており、実にしばしばこの政策を実行に移すべきではないと進言していたからである。それにもかかわらず、今や、1945年4月13日に辞職するまで、かれはこの戦争の遂行に主要な役割を演じたのである。

 本裁判所は、訴因第27、第29、第31、第32及び第33について、重光を有罪と判定する。訴因第35については、かれは無罪である。


戦争犯罪

 重光が外務大臣であった1943年4月から1945年4月までの期間を通じて、利益保護国は日本の外務省に対して、連合国から受け取った抗議を次々に伝達した。これらは、責任ある国家機関によって利益保護国に送られた重大な抗議であって、多くの場合に、きわめて詳細な具体的事実が添えてあった。抗議の内容となっている問題は、次の通りであった。

 (1)捕虜の非人道的な取り扱い、(2)利益保護国に対して、少数の例外を除いては、すべての捕虜収容所の視察を許可することを拒絶したこと、(3)利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを拒絶したこと、(4)捕虜の氏名と抑留地に関する情報の提供を怠ったこと。これらの抗議は、まず外務省で処理された。必要な場合には、他の省に送られ、外務大臣がこれに回答することのできるような資料が求められた。

 日本の外務省と利益保護国との間の長い期間にわたる往復文書を読んで、だれしも疑わないでおられないことは、日本の軍部がこれらの抗議に対する満足な回答を外務省に提供しなかったのには、悪質の理由があったのではないかということ、または少なくとも、問題にされているような行動をした軍部ではなく、その他の機関によって、独立の調査を行なうべきであったのではないかということである。抗議に次ぐ抗議は、未回答のままであったか、遅延の理由を説明しないで、何ヵ月も遅れてようやく回答されたかであった。利益保護国による次々の督促も、顧みられなかった。回答された抗議は、例外なしに、苦情をいうべきことは何もないと否定された。

 ところで、責任のある人々によって行なわれ、そのときの事情と具体的事実とを添えられた苦情が、ことごとく不当なものであるということは、ほとんどあり得ないことであった。その上に、収容所の視察の許可を軍部が拒絶したこと、利益保護国の代表者に対して、日本人立会人の臨席なしには、捕虜と面会するのを許可することを軍部が拒絶したこと、自己の手中にある捕虜について、詳細な事項を知らせるのを怠ったことは、軍部が何か隠すべきことをもっていたという疑いを起こさせるものであった。

 重光は、かれの承知していたこれらの事情からして、捕虜の取り扱いが正当に行なわれていないという疑いを起こしたものとわれわれが認定しても、かれに対して不当なことにはならない。実際のところ、ある証人は、かれのために、この趣旨の証言をしたのである。ところが、閣僚として、捕虜の福祉について、かれは全般的な責任を負っていたにもかかわらず、問題を調査させる充分な措置をとらなかった。かれは責任が果たされていないのではないかと疑っていたのであるから、この責任を解除されるために、問題を強く押し進め、必要ならば、辞職するというところまで行くべきであった。

 重光が戦争犯罪または人道に対する罪の遂行を命令し、授権し、または許可したという証拠はない。裁判所は、訴因第54については、重光を無罪と判定する。

 裁判所は、訴因第55について、重光を有罪と判定する。

 刑の軽減として、われわれは次のことを考慮に入れる。重光は、共同謀議の成立には、少しも関係していなかったこと、1943年4月に外務大臣になるまで、かれは侵略戦争を遂行しなかったのであって、この時期には、すでに日本がその将来に致命的な影響を及ぼす戦争に深く巻きこまれていたこと、戦争犯罪の問題については、かれが外務大臣であったときには、軍部が完全に日本を支配していたので、軍部を非難するには、どのような日本人にとっても、大きな決意が必要であったであろうということである。

嶋田繁太郎 (原資料71枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第54及び第55で訴追されている。

 1941年10月まで、嶋田は、自己の任務をそのままに遂行する海軍将校の役割を行なっていたにすぎなかったのであり、そのときまでは、共同謀議に参加していなかった。

 1941年10月には、海軍大臣に選ばれる資格のある高級海軍将校であった。東条内閣でかれは海軍大臣になり、1944年8月までその職にあった。また、1944年2月から8月までの6ヵ月の間、海軍軍令部総長であった。

 東条内閣の成立から、1941年12月7日に日本が西洋諸国を攻撃するまで、この攻撃を計画し開始するについて、かれは共同謀議者によってなされたすべての決定に参加した。この行動をとった理由として、凍結令が日本の首を絞めつつあり、日本の戦闘能力を徐々に弱めることになるものであったこと、日本に対する経済的と軍事的の『包囲』があったこと、アメリカ合衆国が交渉において非同情的で非妥協的であったこと、連合国によって中国に与えられた援助が日本で悪感情を引き起こしていたことをかれは挙げた。この弁護が感情に入れていないことは、かれが戦いによって持ち続けようと決意していた利得は、かれの知っていた通り、日本が多年の侵略戦争で手に入れた利得であったという事実である。本裁判所は、この弁護をすでに充分に検討し、これを却下した。

 宣戦が布告された後、この戦争の遂行にあたって、かれは主要な役割を演じた。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、嶋田を有罪と判定する。


戦争犯罪

 最も恥ずべき捕虜の虐殺と殺害のうちには、日本海軍の人員によって、太平洋諸島において、また雷撃された艦船の生存者に対して行なわれたものがある。直接に責任のあった者には、将官もいたし、それ以上の階級にもわたっていた。

 しかし、嶋田がこれらの事項に対して責任があるということ、かれが戦争犯罪の遂行を命令し、授権し、または許可したということ、または、これらの犯罪が行なわれていたことを知りながら、将来においてその遂行を防止するに充分な手段をとらなかったということを認定するのが正当であるとするには、証拠が不充分である。

 本裁判所は、訴因第54と第55について、嶋田を無罪と判定する。

白鳥敏夫 (原資料73枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32で起訴されている。

 1914年に、かれは日本の外交官になった。かれが最初に名を現わしたのは、外務省の情報部長としてであって、1930年10月から1933年6月まで、その職にあった。この地位にあって、かれは世界の報道機関に対して、日本の満州占領を弁護した。かれがそうするように命令されたことが疑いもないが、その当時でも、その後でも、被告の活動の特徴は、そのときの任務が何であるにせよ、かれはそれを果たすだけでは満足しなかったということである。こうして、早くから、かれは政策問題に関する意見を発表していた。その意見は、上層部で考慮を受けていた。かれは早くから日本は国際連盟から脱退すべきであると唱えた。かれは満州に傀儡政権を樹立することを支持した。共同謀議の目的に対するかれの支持は、この時期から始まっている。この支持は、長年にわたって、またかれのできる限りの手段によって、かれが引き続いて与えたものである。

 1933年6月から1937年4月まで、かれはスエーデン駐在公使であった。かれの手紙のあるものは、この当時のかれの見解を示している。かれの意見によれば、ロシアの勢力は、必要ならば武力によって、またロシアが強くなって攻撃ができなくなる前に、極東から駆逐しなければならないというのであった。さらに、日本の利益に害があると思われるような外国の勢力は、中国から除かねばならぬということ、日本の外交官は、軍国主義者の政策を支持すべきであるということがかれの意見であった。かれはみずから侵略戦争を衷心から可とする者であることを示した。

 日本に帰って、かれは日本が全体主義的政府をつくるべきこと、日本、ドイツ及びイタリアは対外進出政策をとるべきことを唱える論説を発表した。

 日本、ドイツ及びイタリア間の同盟の交渉が開始されてから、1938年9月に、かれはローマ駐在大使に任命された。この交渉において、右の諸国間の一般的軍事同盟を固執した共同謀議者を支持して、かれは当時ベルリン駐在大使であった被告大島と協力した。いっそう制限された条約だけを希望した外務大臣の訓令に従うことを、かれは拒絶することまでした。かれと大島は、共同謀議者の希望が容れられなければ、辞職すると威嚇した。

 日本があまり長く時間を延ばして、ドイツがソビエット連邦と不可侵条約を結んだときに、日本の世論は一般にこれを防共協定の違反と見なしたために、この交渉は行きづまった。白鳥は日本に帰って、宣伝を行なった。その宣伝の意図は、ドイツの行動の申し訳を行ない、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟をもたらす準備をすることであり、この同盟をかれは依然として日本の対外進出主義的な目標を支えるために必要であると考えていた。かれはいろいろな機会に、その宣伝で、共同謀議者の目的のすべてを唱道した。すなわち、日本は中国を攻撃すべきこと、日本はロシアを攻撃すべきこと、日本はドイツ及びイタリアと同盟すべきこと、日本は西洋諸国に対して断固たる行動をとるべきこと、日本は『新秩序』を建設すべきこと、日本はヨーロッパ戦争によって与えられた南方進出の機会をとらえるべきこと、日本はシンガポールを攻撃すべきこと、その他である。この宣伝は、かれが外務省の顧問であった1940年8月から1941年7月まで続けられた。

 1941年4月に、かれは病気になり、その年の7月に、外務省顧問の職を辞した。その後は、いろいろの出来事で重要な役割を演じなかった。本裁判所は、訴因第1について白鳥を有罪と判定する。

 かれが侵略戦争を遂行したと認定することを正当化するような地位を、かれは占めたことがない。本裁判所は、訴因第27、第29、第31及び第32について、白鳥を無罪と判定する。

鈴木貞一 (原資料76枚目)


 鈴木貞一は、起訴状の訴因第1、第27、第29、第31、第32、第35、第36、第54及び第55で訴追されている。

 鈴木は軍人であった。1932年に、陸軍中佐及び陸軍軍務局の職員として、かれは共同謀議の積極的な一員であった。1932年5月における総理大臣犬養の暗殺の後、かれは、新しい内閣が政党の指導のもとに組織されたならば、同じような暴力行為が起こるであろうといい、連立内閣を組織することに賛成した。かれの目的は、中国に対する共同謀議者の企てを支持すると思われる内閣を立てることであった。

 軍務局に勤務中、ソビエット連邦が日本の絶対の敵であると主張し、この国に対して侵略戦争を遂行するために当時行なわれていた準備に協力した。

 ハサン湖におけるソビエット連邦に対する戦争の遂行に、鈴木が参加したという証拠はなく、ノモンハンにおけるソビエット連邦または蒙古人民共和国に対する戦争の遂行に、かれが参加したという証拠もない。

 1937年11月に、鈴木は陸軍少将になった。かれは興亜院の組織者の一人であり、その政治及び行政部門の長であった。この地位で、かれは日本によって占領された中国の諸地域の開発利用を積極的に促進した。

 軍部による日本の支配を完全にし、南方への進出を実行するために、第二次近衛内閣が組織されたときに、鈴木は無任所大臣になり、総力戦研究所の参与の一人になった。星野の代わりに、鈴木を近衛は企画院の総裁とした。1944年7月19日に東条内閣が瓦解するまで、鈴木はこの地位に留まった。

 企画院総裁及び無任所大臣として、鈴木は、実際上日本の政策をつくり出す機関であった連絡会議に常例的に出席した。連合国に対する侵略戦争の開始と遂行を引き起こした重要な会議の大部分に、鈴木は出席した。これらの会議で、かれは積極的に共同謀議を支持した。

 被告が残虐行為の犯行に責任があったという証拠はない。

 われわれは、訴因第1、第27、第29、第31及び第32で訴追されているように、鈴木を有罪と判定し、訴因第35、第36、第54及び第55については、無罪と判定する。

東郷茂徳 (原資料78枚目)


 被告東郷は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第36、第54及び第55で起訴されている。

 東郷に対して訴追されている犯罪とかれとのおもな関係は、1941年10月から、1942年9月にかれが辞職するまで、東条内閣の外務大臣として、その後再び、1945年の鈴木内閣の外務大臣としてである。かれが辞職してから再び任命されるまでの中間には、かれは公生活になんらの役割を演じなかった。

 かれの第一回の任命の日から、太平洋戦争の勃発まで、かれはその戦争の計画と準備に参加した。かれは閣議や会議に出席し、採用された一切の決定に同意した。

 外務大臣として、戦争勃発直前の合衆国との交渉において、かれは指導的な役割を演じ、戦争を主張した者の計画に力を尽くした。この交渉で用いられた欺瞞については、すでに論じた。

 太平洋戦争の勃発後、その指導について、また中国における戦争の遂行について、かれは他の閣僚と協力した。

 日本は包囲され、経済的に首を絞められていたという、被告のすべてに共通な弁護については、すでに他の箇所で論じたが、それに加えて、東郷が特に主張したことは、合衆国との交渉を成立させるために、あらゆる努力を払うであろうという保証のもとに、東条内閣に加わったということである。さらに、就任した日から陸軍に反対し、かれが交渉を継続するに必要な譲歩を陸軍からかち得たとかれは述べている。しかし、交渉が失敗に終わり、戦争が避けられなくなったときに、かれは反対して辞職しようとはせず、むしろ、そのまま職に留まって、その戦争を支持した。それ以外のことをすることは卑怯であったとかれはいった。しかし、かれのその後の行動は、この抗弁をまったく無効にするものである。1942年9月に、占領諸国の取り扱いについて起こった閣内の紛争のために、かれは辞職した。われわれは、かれの行動と誠意を判断するにあたって、一つの場合についても、他の場合についても、同じ考慮に従うつもりである。

 訴因第36で主張されている犯罪的行為のどれかが東郷にあったという証拠はない。この訴因に関係のあるかれの唯一の役割は、満州と外蒙古との国境を確定したところの、ソビエット連邦と日本との戦後協定を調印したことであった。


戦争犯罪

 1942年に辞職するまで、東郷は戦争法規が遵守されることにつとめたように見える。かれは自分のところにきた抗議を調査のために回付し、数個の場合には、改善の措置がとられた。かれは辞職したときには、日本軍によって犯された残虐行為は、かれがそれを知っていたという推論を許すほどに、知れ渡ってはいなかった。

 1945年の春、かれが再び外務大臣になったときは、抗議が山積していたが、かれはそれを関係当局に回付した。本裁判所の意見では、戦争犯罪に関して、東郷が義務を怠ったということについて、充分な証拠はない。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、東郷を有罪と判定する。訴因第36、第54及び第55については、かれは無罪である。

東条英機 (原資料81枚目)


 被告は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第33、第36、第54及び第55で訴追されている。

 東条は1937年6月に関東軍参謀長となり、それ以後は、共同謀議者の活動のほとんどすべてにおいて、首謀者の一人として、かれらと結託していた。

 かれはソビエット連邦に対する攻撃を計画し、準備した。ソビエット連邦に対して企てられた攻撃において、日本陸軍をその背後の不安から解放するために、中国に対してさらに攻撃を加えることをかれは勧めた。この攻撃のための基地として、満州を組織することをかれは助けた。それ以後、どの時期においても、もし好機が訪れたならば、そのような攻撃を開始するという意図を、かれは一度も捨てたことがなかった。

 1938年5月に、かれは陸軍次官になるために、現地から呼びもどされた。この職務のほかに、かれは多数の任務をもち、これによって、戦争に対する日本の国民と経済の動員の、ほとんどすべての部面において、重要な役割を演じた。このときも、かれは中国との妥協による和平の提案に反対した。

 1940年7月に、かれは陸軍大臣になった。それ以後におけるかれの経歴の大部分は、日本の近隣諸国に対する侵略戦争を計画し、遂行するために、共同謀議者が相次いでとった手段の歴史である。というのは、これらの計画を立てたり、これらの戦争を行なったりするにあたって、かれは首謀者の一人だったからである。かれは巧みに、断固として、ねばり強く、共同謀議の目的を唱道し、促進した。

 1941年10月に、かれは総理大臣になり、1944年7月まで、その職に就いていた。

 陸軍大臣及び総理大臣として、中国国民政府を征服し、日本のために中国の資源を開発し、中国に対する戦争の成果を日本に確保するために、中国に日本軍を駐屯させるという政策を、終始一貫して支持した。

 1941年12月7日の攻撃に先だつ交渉において、かれが断固としてとった態度は、中国に対する侵略の成果を日本に保持させ、日本による東アジアと南方地域の支配を確立するのに役立つような条件を、日本は確保しなければならないというのであった。かれの大きな勢力は、ことごとくこの政策の支持に注ぎこまれた。この政策を支持するために、戦争を行なうという決定を成立させるにあたって、かれが演じた指導的役割の重要さは、どのように大きく評価しても、大き過ぎるということはない。日本の近隣諸国に対する犯罪的攻撃に対して、かれは主要な責任を負っている。

 この裁判において、かれはこれらの攻撃が正当な自衛の措置であったと主張し、厚かましくもそのすべてを弁護した。この抗弁については、われわれはすでに充分に論じつくした。それはまったく根拠のないものである。

 訴因第36については、訴因第36で訴追されている1939年の戦争に対して、東条に責任を負わせるような公職を、かれが占めていたという証拠はない。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31、第32及び第33について、東条を有罪と判定し、訴因第36について、無罪と判定する。


戦争犯罪

 東条は、戦争地域内における捕虜及び一般人抑留者の保護と、かれらの対する宿舎、食物、医薬品及び医療設備の提供とを担当していた陸軍省の最高首脳者であった。さらに何よりも、捕虜及び一般抑留者の保護に対して、継続的責任を負っていた政府の最高首脳者であった。

 捕虜及び抑留者の野蛮な取り扱いは、東条によくわかっていた。かれは、違反者を処罰し、将来同じような犯罪が侵されるのを防止する充分な手段をとらなかった。バターン死の行進に対するかれの態度は、これらの捕虜に対するかれの行為を明らかにするかぎを与えるものである。1942年には、かれはこの行進の状態についていくらか知っており、これらの状態の結果として、多数の捕虜が死亡したことを知っていた。この事件について、かれは報告を求めなかった。1943年に、フィリッピンにいたとき、かれはこの行進について形式的な調査をしたが、なんの措置もとらなかった。処罰された者は一人もなかった。かれの説明では、現地の日本軍の指揮官は、与えられた任務の遂行について、東京から一々具体的な命令を受ける必要はないというのである。このようにして、日本政府の最高首脳者は、日本政府に課せられていたところの、戦争法規の遵守を励行するという義務の履行を意識的に故意に拒んだのである。

 もう一つの著しい例を挙げるならば、戦略目的のために企てられた泰緬鉄道の敷設に捕虜を使用すべきであるとかれは勧告した。捕虜の宿舎と食物を与えるために、または、この苦しい気候の中で病気になった者を手当てするために、かれは適当な手配をしなかった。かれはこの工事に使われている捕虜の悪い状態を知って、調査のために将校を送った。この鉄道の沿線の多くの収容所において、その調査官が発見したに違いない恐るべき状態をわれわれは知っている。この調査の結果としてとられた唯一の措置は、捕虜の虐待に対して、一中隊長を裁判することだけであった。状態を改善するためには、何もなされなかった。栄養不足による病気と飢餓によって、この工事が終わるまで、捕虜は引き続いて死んでいった。

 捕虜収容所における栄養不良とその他の原因による高い死亡率に関する統計は、東条の主宰する会議で討議された。東条内閣が倒れた1944年における捕虜の恐るべき状態と、食糧及び医薬品の欠乏のために死亡した捕虜の膨大な数とは、東条が捕虜の保護のために適当な措置をとらなかったことに対して、決定的な証拠である。

 われわれは、中国人捕虜に対する日本陸軍の態度について、すでに述べた。日本政府は、この『事変』を戦争とは認めていなかったから、戦争法規はこの戦いには適用されないこと、捕えられた中国人は、捕虜の身分と権利を与えられる資格がないと主張された。東条はこの恐るべき態度を知っており、しかもそれに反対しなかった。

 働かざる捕虜は食うべからずという指令について、かれは責任がある。病人や負傷者がむりやりに働かされたり、その結果として、苦痛と死亡を生じたりするようになったのは、大部分において、東条がこの指令の実行をくり返し主張したためであるということを、われわれは少しも疑わない。

 捕虜の虐待が外国に知られるのを防ぐためにとられた措置については、われわれはすでに充分に述べた。これらの措置に対して、東条は責任がある。

 本裁判所は、訴因第54について、東条を有罪と判定する。われわれは訴因第55については、いかなる判定も下さない。

梅津美治郎 (原資料86枚目)


 被告梅津は、訴因第1、第27、第29、第31、第32、第36、第54及び第55で訴追されている。

 梅津は陸軍の将校であった。1934年から1936年まで、かれが華北における日本軍の指揮をとっていた間、中国の北部諸省に対して日本の侵略を続け、親日地方政権を立てまた武力を用いるという威嚇のもとに、1935年6月の何応欽=梅津協定を結ぶように中国側を強制した。これはしばらくの間中国の正当政府の権力に制限を加えるものであった。

 1936年3月から1938年5月まで、梅津は陸軍次官であった。この期間に、1936年の国策の諸計画と1937年の重要産業についての計画が決定された。これらは陸軍の計画であり、太平洋戦争の主要な原因の一つであった。

 1937年1月に、新しい内閣を組織せよという天皇の命令が陸軍大将宇垣に与えられたときに、陸軍が宇垣を広田の後継者として承諾するのを拒絶したことについて、梅津は重要な役割を演じた。この反対のために、宇垣は内閣を組織することができなかった。

 1937年7月に、盧溝橋において、中国における戦闘が再び起こったときに、この被告は、戦争を続けるという共同謀議者の計画を知っており、またそれを是認した。梅津は、内閣企画庁の一員であるとともに、共同謀議者の侵略的な計画の立案と、これらの計画の実行に必要な準備とに大いに寄与したところの、その他の多数の部局や委員会の一員でもあった。

 1937年12月に、関東軍参謀長として東条は、梅津にあてて、ソビエット連邦に対する攻撃の準備の諸計画を、またその後に、関東軍を増強する諸計画と内蒙古における施設についての諸計画を送った。これらの計画は、ソビエット連邦に対する戦争の準備についても、中国に対する戦争に関しても、欠くことのできない重要なものであると東条は述べていた。

 1939年から1944年まで、梅津が関東軍司令官であった間、かれは引き続いて満州の経済を日本の役に立つように指導した。その期間に、ソビエットの領土の占領計画がつくられ、占領されることになっていたソビエット地域の軍政に関する計画も立てられ、さらに、南方の占領地域における軍政を研究するために将校が同地域に送られた。この研究の目的は、こうして手に入れた資料をソビエット領土で利用するためであった。

 被告が共同謀議の一員であったという証拠は、圧倒的に有力である。

 訴因第36についていえば、ノモンハンにおける戦闘は、かれが関東軍の指揮をとる前に始まっていた。戦闘が終わるわずか数日前に、かれは司令官になった。

 1944年7月から降伏まで、梅津は参謀総長であった。これによって、かれは中国と西洋諸国に対する戦争の遂行に主要な役割を演じた。


戦争犯罪

 梅津が残虐行為の遂行に対して責任があったということの、充分な証拠はない。

 本裁判所は、訴因第1、第27、第29、第31及び第32について、梅津を有罪と判定する。訴因第36、第54及び第55については、かれは無罪である。

「極東国際軍事裁判の判決」の中には、刑の宣告に当たる部分が見当たらない。各被告に対する有罪無罪の判定の部分の次は、資料集に続いている。そこで、今日は別の資料である速記録から、有罪無罪の判定に続く裁判長の言葉と刑の宣告の部分を文字起こししたい。一番下にリンクをはった資料の118枚目である。字が非常に小さいので、判読に骨が折れる。


―――――――――


 本官が朗読した判決は、裁判所条例に基づき、本裁判所の判決である。

 インド代表判事は、多数意見による判決に反対し、この反対に対する理由書を提出した。

 フランス及びオランダ代表判事は、多数意見による判決の一部について反対し、この反対に対する理由書を提出した。

 フィリッピン代表判事は、多数意見に同意して、別個の意見を提出した。

 大体において、事実については、本官は多数と意見をともにする。しかし反対意見を表明することなく、裁判所条例と本裁判所の管轄権を支持する理由と、刑を決定するに当たって本官に影響を与えたいくらかの一般的な考慮とを簡単に述べたものを提出した。

 これらの文書は記録に止め、また最高司令官、弁護人、及びその他の関係者に配付される。弁護人はこれらの別個の意見を法廷で朗読することを申請した。しかし本裁判所はこの問題をすでに考慮し、法廷では朗読しないことに決定していた。

 本裁判所はこの決定を変更しない。

 被告は被告席から退席し、それから起訴状の表題に出ている名前の順序で、刑の宣告を受けるために一人々々再び入廷する。

 病気のため本日出廷していない3人の被告は、出廷している被告の刑の宣告が終わった後に、欠席のまま刑の宣告を受ける。

 出廷している被告が、今述べた順序で入廷することができるように、15分間休廷する。


(午後3時30分休廷)

―――――――――――

(午後3時55分開廷)

○法廷執行官 ただいまより極東国際軍事裁判を執行します。

○裁判長 極東国際軍事裁判所は、本件の起訴状について有罪の判定を受けた被告に対して、裁判所条例第15条チ号に従って、ここに刑を宣告する。

被告 荒木貞夫

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 土肥原賢二

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 橋本欣五郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 畑俊六

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 平沼騏一郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 広田弘毅

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 星野直樹

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 板垣征四郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 木戸幸一

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 木村兵太郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 小磯国昭

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 松井石根

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 南次郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 武藤章

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 岡敬純

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 大島浩

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 佐藤賢了

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 重光葵

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を7年の禁錮刑に処する。

 これは罪状認否の日から起算する。

被告 島田繁太郎

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 鈴木貞一

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を終身の禁錮刑に処する。

被告 東郷茂徳

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を20年の禁錮刑に処する。

 これは罪状認否の日から起算する。

被告 東条英機

被告が有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告を絞首刑に処する。

被告 賀屋興宣

被告 白鳥敏夫

被告 梅津美治郎

被告らが有罪の判定を受けた起訴状中の訴因に基づいて、極東国際軍事裁判所は、被告らを終身の禁錮刑に処する。

 これをもって閉廷する。

(昭和23年11月12日午後4時12分閉廷)





出典:JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A08071311400、A級極東国際軍事裁判速記録(和文)・昭和23.11.4〜昭和23.11.12(判決)(国立公文書館) http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A08071311400?TYPE=jpeg

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