歴史の部屋

1935年にロンドン会議から脱退

 1935年12月7日に、ワシントン条約とロンドン条約に従って招集された海軍会議がロンドンで開かれ、ワシントン条約に調印した5ヵ国の代表が出席した。アメリカ代表は、現存の比率に従って、各艦種について、一般的に2割の量的縮減を行なうことを提案し、また質的制限に関して、特に備砲の口径の制限に関して、討議する用意があった。これに答えて、日本の首席全権永野は、日本の世論はもうワシントン条約を支持していないことを繰り返し、日本は依然として共通最大限を主張していることを再び確言した。アメリカ代表は、現存条約が各締約国の平等な安全を規定しているのに反して、総括的対等は太平洋における日本の地位の圧倒的な優勢を意味することになるであろう、と指摘した。それであるから、もし日本がその要求の貫徹を固執するならば、建艦競争を惹き起こすばかりであろう。日本の代表は、これらの反対に答えるために、実質的なことは何も試みないで、日本の見解では、合衆国の海軍力が優勢である限り、日本の存立そのものを脅かすものであると述べただけであった。

 ワシントン条約の規定は、新しい協定に達することができるまで存続しなければならないというアメリカの提案にもかかわらず、また、質的制限について協定に達しようとするイギリスの試みにもかかわらず、対等の問題が第一に決定されなければならないという主張を日本は固執した。従って、1936年1月15日で、共通最大限の原則が総会議で討議された。この提案に対しては、どの代表も支持しようと言わなかったので、日本代表は正式に会議から脱退した。

 このようにして、1934年と1935年に、すなわち、岡田が総理大臣であり広田が外務大臣であったときに、海軍の再軍備への障害が取りのぞかれた。1936年8月に、合衆国艦隊に対抗して、西太平洋の制海権を確保するに足る海軍を整備することを五相会議は決定した。そうすることによって、現存の条約による方式を廃棄すれば、建艦競争を引き起こすばかりであるというアメリカの憂慮を裏書きした。


広田内閣時代の海軍拡張

 1936年12月に、つまりワシントン条約が満了する月に、海軍軍務局長は――公表されないことになっていた演説で――日本海軍の軍備資材は日をおって急速に進歩していると報告することができた。海軍中将豊田は、列席者に対して、この新しい建艦計画は多額の資金の支出を必要とするであろうと警告した。細目は報告しないけれども、その目的のための予算を惜しんではならないとかれは述べた。日本海軍の将来の建艦計画をあまり早く他の諸国に知らせることは、日本にとって不利であるとされた。

 広田内閣によって建てられた新計画は、翌年にその成果をもたらした。1937年度において、日本海軍の建艦の数字は、1931年から1945年までの間で、最大の増加を示したからである。

 しかし、西太平洋の制海権を確保するには、海軍は艦船のほかに根拠地を必要とした。西太平洋の中央部の全地域にわたる日本の南洋委任統治諸島――マリアナ、マーシャル、カロリンの諸群島――は、1937年1月20日から海軍の管轄下に入った。


委任統治諸島の歴史

 ヴェルサイユ条約の規定によって、国際連盟から、日本は広い地域に散在するこれらの三群島の委任を受け、これらの行政をパラオに本庁を置いた南洋庁を通じて行なった。連盟規約によって、受任国は陸海軍根拠地の建設を防止する任務を課せられていた。1922年2月11日に、ワシントンで調印された太平洋諸島嶼に関する条約によって、日本は合衆国に対して、これと同じ義務を約束した。

 日本の南洋委任統治諸島への航路は、日本郵船株式会社によって運営されていたが、1933年以来、この会社は南洋諸島向けの船には外人船客を乗せない方針をとった。斎藤の『海軍』内閣の在任していた1933年3月28日に、この会社は、そのホノルル支店に宛てて、外人の船室申込みは拒絶すること、執拗に申込みする者には、日本の関係当局の許可があったときだけ乗船させることを通知した。


1936年前における委任統治諸島の要塞化

 委任統治領に海軍の施設を建設する工事は、1932年か1933年に始められ、これらの工事が始められたのは、外人拒絶の方針と同じ時期であった形跡がある。少なくとも1935年には、マリアナ群島のサイパン島に滑走路と海軍航空機基地が建造中であった。マリアナ群島で一番大きいこの島は、アメリカ領グアムの北方約200マイルのところにある。

 1935年の後半期には、外人の南洋諸島の旅行に加えられた制限をさらに強化する手段がとられた。1935年10月14日に、右の日本の汽船会社は、そのホノルル支店に対して、この地域への航路に船客を引き受けないようにあらゆる努力が払われていることを再び通知した。どのような特別の場合でも、乗船を希望する船客について、充分に詳細に報告を南洋庁に提出しなければならず、南洋庁は必ず外務省と海軍省に協議した上で決定することになっていた。

 実際の経験からすると、たいていの場合に、申込みは拒絶されるものと思われた。

 1935年の10月と11月に、これら指令がさらに繰り返して発せられた。南洋航路に関する一切の問題は、すべて日本人係員だけで取り扱うように、また通信は必ず日本語で書くように指令された。船室申込みの拒絶は、設備が悪いことと出帆日が不規則であることを理由とすることになっていた。特定の場合の許可は、海軍大臣と外務大臣広田との所管であった。

広田内閣時代における委任統治諸島の機密の保持

 広田内閣が成立してから3ヵ月を経た1936年6月に、アメリカの国務長官は、グルーに対して、委任統治諸島における港の拡張または防御施設に関して、重大な疑惑の念が抱かれていると通知した。開港場でないアラスカの諸港に日本船は出入りを許されていることが指摘された。そして、アメリカ大使は、合衆国の駆逐艦が南洋委任統治諸島を訪問するについて、許可を求めるようにとの訓令を受けた。自分の発意であるとして、グルーは広田自身に対してその要請をした。総理大臣は、好意はもっているが、その問題については、何もわからないと称した。後になって、グルーに対して、決定は拓務大臣と海軍大臣の所管であるということが告げられた。日本と合衆国は、1922年に、それぞれの委任統治諸島に寄港する際は、相互に通常の礼譲を尽くすということを協定したにかかわらず、許可は与えられなかった。

 1936年7月28日に、前記の日本の汽船会社は、またまた、そのホノルル支店に対して、南洋航路の乗船申込みを引き受けてはならないと通知した。さらに、1937年4月8日付けと1939年3月13日付けの通信によって、その後もこの制限が緩和されなかったことが示されている。

 これらの事実を総合してみると、1936年8月11日の国策の決定の前にも、その後にも、受任国としての義務に違反して、日本は南洋地域で戦争準備をしていたことがわかる。外務省と海軍省は、終始これらの成行きから注意をそらすことに意を用いた。そして、外務大臣として、また総理大臣として、広田はこれらの努力に大いに関与していた。


海軍将校、南洋諸島の行政官となる

 広田内閣がまだ在任していたときの1937年1月20日に、枢密院は、海軍部内における先任順をそのままにして、現役海軍将校を南洋庁の行政官に任命することができるようにする措置を承認した。平沼が議長であったこの会議に、出席していた者の中には、広田自身も海軍大臣永野もいた。非公開のこの会議で、委任統治諸島に対する日本の関心の真の性質が明らかに述べられた。右の措置の理由として挙げられたのは、南洋群島が日本の国防上重要な地位を占めるに至ったことと、国際情勢と同群島の航路、港湾、道路、航空及び通信に関する施設にかんがみて、日本海軍の便益と軍事的事情に特別な考慮を払わなければならないことであった。


広田内閣における各被告の地位

 1936年3月9日から1937年2月1日まで、広田が総理大臣であった期間は、戦争のための積極的な計画と準備の期間であって、この計画と準備は陸海軍両省で発議され、その長期計画の遂行に他の主要な政府各省が関係するに至ったということはすでに明らかにされた。

 その当時に、最も重要な職に就いていた者の中に、1936年3月23日に陸軍次官となった梅津中将があった。1938年5月30日まで、広田、林、近衛各内閣を通じて、かれはこの職に留まっていた。広田のもとでは、かれはさらに多くの従属的な官職を兼任していた。これらの官職は、当時の陸軍の関係していた範囲を示すものとして役に立つであろう。かれは対満事務局、内閣調査局及び内閣情報部の参与であった。かれは自動車工業に関する事項の調査を任務とする委員会の一員であり、また教学刷新委員会の委員でもあった。かれは帝国議会で陸軍省の所管事項を担当していた。

 1936年8月1日に陸軍少将に任じられた木村は、整備局統制課長であった。1936年5月20日には、かれの局はすでに戦時または非常時の世論統制のための動員計画をつくっていた。武藤中佐は、1936年6月19日まで、軍務局課員であった。そして鈴木大佐は1936年8月1日まで右の局に配属されていた。

 1936年4月28日に陸軍中将に任ぜられた板垣は、1934年12月10日から関東軍参謀副長となっていた。1936年3月23日から1937年3月1日まで、かれは関東軍の参謀長であり、さらに日満経済共同委員会の委員であった。従って、広田の在任期間中、かれは満州と華北諸省における日本の軍事的と経済的の諸準備に密接な関係をもっていた。1934年7月1日以来、満州国財政部の司長であった星野は、1936年6月9日に同部の次長となった。

 嶋田海軍中将は、1935年12月2日から1937年12月1日まで、軍令部次長であった。この期間中に、海軍は1936年8月の国策決定に寄与し、委任統治諸島の支配権を獲得し、また海軍拡張の新しい政策を樹てていた。岡大佐は1936年12月1日まで軍令部の部員であり、また海軍省出仕であった。

 広田の在任期間中、賀屋は議会で大蔵省の所管事務を担当し、また対満事務局参与でもあった。1937年2月2日、広田内閣にかわって林内閣となったときに、賀屋は大蔵次官になった。

橋本と大日本青年党

 日本の国策の基礎が決定されてから数日の後、1936年8月に、橋本大佐は予備役に編入された。かれは直ちに新しい団体を設立する仕事に着手し、1936年の後半中に、演説やパンフレットによって、その団体の目的を説いた。

 橋本は皇道(皇道に傍点あり)と八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)という2つの伝統的な教えをかれの理論の基礎とした。世界統一の第一歩は、日本の国民自体を直接に天皇のもとに統一することにあるからだと橋本は説いた。革新を達成するためには、青年の血と熱が必要である。そして、大日本青年党の目的は、この必要を満たすことであった。青年は新日本の骨格となり、大和民族の精神的と物質的の全力を皇道(皇道に傍点あり)の精神に、すなわち天皇に対する忠義の精神に統一することであった。

 ここで考察している期間には、陸軍の歴史は政府の権力への反抗の歴史であったということはすでに明らかにされた。政治家や内閣の政策が陸軍の政策と衝突すると、脅迫や暗殺や叛乱によって、かれらは除かれてしまった。1936年になると、広田を総理大臣として、陸軍は在任中の内閣に対して不動の地位を確立してしまった。橋本はこの過程をさらに一歩進めて、唯一つの政党だけが、すなわち陸軍の政党だけが存在するようになる日、また陸軍の支配者がもはや民主主義的政治形態によって煩わされなくなる日に備えようとした。全体主義の直接の目標は、皇道(皇道に傍点あり)という理念のうちに象徴され、世界支配の究極の目標は、八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)という理念のうちに象徴された。

 戦争と軍の支配を支持するように日本国民の心を指導するために、すでにとられた手段を、ここで、検討してみることができよう。


学校と大学における軍事訓練の歴史

 すでに1886年に、日本の小学校、中等学校及び師範学校で軍事訓練と講義が始められていた。そして、1896年の日清戦争の後は、正規の陸軍将校が訓練を指導した。1914年―18年の戦争の後は、この問題に数年間はほとんど注意が払われなかった。しかし、1922年から後は、教育振りを監督するために、陸軍省は将校を派遣した。

 1925年とその後は、男子学生が確実に訓練を受けるように、陸軍省と文部省は協力した。1925年4月23日に、現役陸軍将校を学校に配属することに定められた。これらの将校は、陸軍省と文部省との間の協定によって、教育養成所やあらゆる種類の官公立の学校に、また申出があれば私立の学校にも、配属されることになった。かれらは学校当局の監督と命令に従うことになっていた。しかし、かれら自身は依然として陸軍省に属しており、陸軍省は学校における訓練の実情を査閲する権利を与えられていた。1年後の1926年9月に、陸軍省は査閲官の制度を設け、訓練の実施状況について報告させることにした。

 1926年4月に、正式の学校教育の受けなかった17歳から21歳までの青年を収容する目的で、新しい教育組織を文部省は創設した。その過程は4ヵ年間であり、一般的と職業上の価値のある学科を含んでいたが、総訓育時間数の半分は特に軍事訓練に割かれていた。これらの青年学校がつくられた月に、これらの学校で行なわれる軍事教練の査閲について、陸軍省で規則がつくられた。

 1927年までには、軍事訓練は全体の学校制度にわたって強制的になっていた。そして、1925年から1930年まで、この種の訓育に充てられた授業時間数は常に増加されていった。

 大学では、軍事学科は1925年から義務的となった。ただし、この義務制は、初めは厳格には実施されなかった。実際の軍事訓練は依然として任意制であった。しかし、講義と教練の両方に出席した大学生は、後に3年間の強制的兵役のうち2年間を免除されたので、確実に出席するようになる強い誘因があった。

 奉天事件の起こる少し前に、満州は日本の生命線であり、安定した経済秩序の建設は満州を支配することにかかっていると学生達は教えられた。満州で戦争が起こるとともに、軍事訓練過程に対して容易に消えずに残っていた反対も、軍事教育によって鼓吹された極端な国家主義の新しい精神に押されて、跡形もなくなった。1931年から後は、軍事教官は、名目上は学校や大学の当局に従属していたが、独立と支配の程度をますます高めていった。

 満州の軍事行動が収まってからは、軍事学科に充てられていた時間は、わずかばかり減少した。しかし、広田内閣が政権を握っていた1936年には、あらためてまた推進された。訓練は教練、体育及び演習からなっていた。学校で使われる教科書は、日本の軍事史を扱い、学生の間に兵役に対する熱情を養成するように考案されていた。


検閲と宣伝流布の歴史

 出版の自由は、日本では常に制限されていた。既存の法規による検閲の実施は、警保局の任務であり、この局は内務省の支配を受けていた。あらゆる形の言論発表について、警察は検閲法規を実施した。そして、政府の政策と一致しない意見の発表の統制に、特に関心をもっていた。

 演説や公開の催し物の原稿は、すべて警察の承認を得なければならなかった。警察が不都合なものと考える原稿は、すべて押さえられた。警察の命令に従わない個人や団体は、1925年の治安維持法の規定によって、すべて処罰された。さらに、極右と極左の破壊的分子を監視するために、1928年に始められた治安警察機関があった。1931年から後は、これらの『特高警察』は、時の政府の政策に反対する者と意見の公の発表とのすべてを監視した。検閲の実施は、満州で戦争が起こる前に強化されるに至った。その同じ期間に、政府に内面指導された宣伝が新聞を通じて広められた。1930年から始まって、著述家や講演家や論説記者たちは、満州の戦争を支持するように世論を指導することに一致協力した。その年の末までには、この政策に反対する者は、すべてこれを抑圧するための措置がとられた。

 1931年から後は、陸軍は独自の非公式な検閲を行なっていた。どのような著述家や出版業者でも、その仕事を陸軍が不満足であると考えた場合には、陸軍の代表者の直接訪問を受け、陸軍の不興を招いたという忠告を与えられた。このような脅迫や警告は、満州における戦争に関連して、その活動を述べた各種の愛国団体によっても発せられた。

 満州戦争の後に、政府と陸軍は、大陸における日本の地位を正当化し、国内の批判を抑圧するために、組織的な運動を始めた。軍事問題を取り扱う原稿は、内務省警保局の承認を受けてからでなくては、印刷することができなかった。1935年から後は、新聞は完全に同省の支配のもとにあった。

 陸軍の使嗾(しそう、指図して仕向けること)によって、かつ戦争の勃発を予期して、1936年に、広田内閣によって情報部が設けられた。その任務は、各省に代わって、情報の統制と宣伝の流布を調整することであった。これによって、世論を指導し、統一し、『日本の非常事態』を克服するために国民の決意を教化するという、1936年8月11日の国策決定を遂行すべき便利な手段が政府に与えられた。

1936年における橋本の政策

 橋本は、大日本青年党の設立に従事すると同時に、かれのあらゆる著述や演説で、戦争を支持するように日本の世論を指導していた。さきに五相会議が用いたよりも、もっとあからさまな言葉で、かれは南方への進出を、特にオランダ領東インドへの進出を唱道した。かれはイギリス海軍をもって自己の計画に対するおもな障害物であると認めた。そして大決心が必要であると日本に警告した。かれは日本民族の優秀な素質を称揚し、日本民族の使命は白色人種による暴政と圧迫を終わらせることであると言った。

 その後、1936年に、橋本はかれの新団体の目的を書いた宣言を発表した。この文書のうちで、『皇道』の実現について日本を妨げようとするところの、異なった主義をもつ他の諸国を征服するために、絶対的に必要な量まで日本の軍備を強化しなければならないとかれは述べた。さらに、再軍備の中核は、無敵空軍の実現でなければならないと述べた。


1937年1月の政治的危機

 その間に、すでに広田の政府が確定していた経済的と軍事的の対外進出計画は、賛否いろいろに迎えられた。そして、軍国主義者とこれに対する残存した反対論者との間に、闘争が起こっていた。広田内閣は、一方では、この内閣の官僚主義的傾向と軍部に対する不当な迎合とを非難する政友会の反対を招き、他方では、今や自分自身以外の見解の発表を許そうとしない軍閥の反対を招いていたのである。

 1937年1月20日に、政友会の党大会は、広田内閣の外交と行政の政策を批判する宣言を発表した。この党は、議会制度を強化し、一切の政府施策を綿密に検討する意図を表明した。わけても、軍国主義者が独善と優越感の性質をもっていることを認め、これを攻撃した。軍部が国家機能の全分野に干渉しようと欲していると断言し、もしこの弊害の昂進を許すならば、民意の暢達(ちょうたつ、のびのびしているさま)は阻止され、立憲政治は名ばかりとなり、寡頭専制をもたらすであろうと述べた。

 陸軍当局は、この挑戦を直ちに取り上げ、さきに橋本が使ったのにも劣らないような、途方もない言葉で声明を出した。皇道(皇道に傍点あり)と八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)という一対の題目が陸軍当局の回答の基礎となっていた。

 政党はみずから省みるところなく、軍当局の攻撃ばかりに終始していると非難された。政党の政策は、日本国民を島国日本に閉じこめるものである以上、国民を満足させることはできないと言われた。政党の政策は、日本が東亜の安定力となることができないということを意味するものである。それは庶政一新計画の終わりであるというのであった。この声明書は、現在の状態の議会を廃止し、また国体を明徴にし、産業を振興し、国防を充実し、国民生活を安定し、重要問題を着々と解決していくような憲法政治の形態に復帰することを勧告した。

 要するに広田のもとで陸軍のすでに達成した一切のものが、今や危うくなっていることを陸軍は認めたのである。


広田内閣の倒壊と宇垣の組閣の失敗

 2日後の1937年1月22日に、陸軍大臣寺内は、一部閣僚の見解が陸軍の見解と根本的に異なっていると称して、広田内閣から辞任した。当時の事情の下では、就任してから、全力を尽くしてきた軍紀粛清、国防充実、庶政一新は、絶対に遂行できないとかれは信じたのである。

 陸軍大臣の辞任の言葉は、明らかに、広田内閣では、他のどの将官も陸軍大臣の職を受諾しないであろうということを意味していた。従って、後任を求めることは、直ちに断念された。1937年1月24日に、新内閣を組織すべき天皇の命令が宇垣大将に与えられたが、大将は結局においてこれを辞退しなければならないことになった。辞退する前に、かれはあくまで陸軍大臣を求めようと試み、そのために少なくとも4日を費やしたが、成功しないで終わった。

 多年の慣行によって、新しい陸軍大臣の人選は、辞任した陸軍大臣、参謀総長、教育総監から成る三長官会議によって定まることになっていた。1937年1月25日に、辞任した陸軍大臣寺内大将に対して、宇垣は後任者を推薦するように依頼した。宇垣に対して、陸軍はあえて宇垣の組閣を阻止するものではないと寺内は言ったが、しかし、軍の維持と統制に関連して、宇垣自身の立場を再考慮するよう求めた。翌日、教育総監杉山大将が宇垣を訪問して、陸軍内の情勢を述べ、重ねて宇垣が組閣の企てを思い止まるよう努力した。その日の午後、三長官が会合し、3名の将官の名前を申し出たが、これらの将官はすべて陸軍大臣就任を辞退した。そこで、三長官はそれ以外の有資格者である将官たちもこの地位を拒絶するであろうときめ、寺内はその旨を宇垣に通告した。これらのことは、すべて陸軍次官梅津中将から在郷軍人会に通知された。かれは説明して、宇垣大将は陸軍の信頼を得ていないので、何人も宇垣内閣の陸軍大臣として陸軍統制の重責に任じることができないと考えられると言った。

 2日後になっても、宇垣はなお希望を捨てていなかった。1937年1月27日に、梅津は組閣の行きづまりを批評し、宇垣が穏やかに天皇の命令を辞するようにとの希望を表明する談話を発表した。宇垣はそうしないわけにはいかなくなって、実際にそうした。そこで、天皇の命令は林大将に与えられた。広田内閣は1937年2月1日に辞職し、翌日林が就任した。

 日本の政治の諸方面に対する軍人の支配が増大してきたことに対して、1937年1月20日に行なった政友会の抗議は、この恐るべき事態の推移を阻止しようとして、日本の政党が行なったほとんど最後の真剣な試みであった。しかし、それはなんの役にも立たなかった。軍部が進んで協力しなければ、内閣は存続することができず、また新しい内閣をつくることもできないということを軍部が証明する好機を与えたにすぎなかった。それによって、自己の意に適う内閣でなければ、日本の政府に協力を拒むことができるほど強力になったと軍部が今や感じていることも、示されることになった。

林内閣と第一次近衛内閣の構成

 この力の試練に勝利を博した後に、陸軍は着々としてその産業計画の歩を進めた。林が総理大臣として在任していた4ヵ月の間で、注目しなければならないことは、陸軍が1936年に立てた計画が着々として成果を収めたということだけである。広田自身は辞職した。しかし、宇垣の危機の間、陸軍の立場を支持した梅津中将は陸軍次官として留任した。広田内閣で、議会における大蔵省所管事項を担当していた賀屋は、こんどは大蔵次官になった。嶋田海軍中将は依然として軍令部次長であった。

 自由主義派の一部残存者は依然有力な地位に止まっていたに相違ない。なぜならば、1937年3月17日に、橋本が再び政治家攻撃を始めたからである。帝国議会の中には、現状維持を支持し、軍部の政治に対する関与の非難を事としている自由主義者がいるとかれは言った。これを指さして、国民の間に反軍思想を広め、軍の政治革新運動を妨害するための巧妙な計略であるとかれは称した。国防の見地からすれば、政治に関与することは軍部の義務であるとかれは言ったのである。

 総理大臣林は、1935年7月には、すでに陸軍の人気を失っていて、陸軍大臣として辞表を提出するほかはないと感じていた。林内閣の成立をもたらした危機から4ヵ月を経て、かれは職を去り、かわって近衛公が首相になった。この時もまた、陸軍の計画の発展が少しでも止まったり、変わったりすることはなかった。梅津と嶋田はまたまたその職に留まった。広田は再び外務大臣の地位に就いた。この地位は、さきにかれがみずから総理大臣になるまで、斎藤と岡田の両内閣で占めていたものである。賀屋は大蔵大臣となり、それによって、経済産業計画と金融統制との多忙な分野で、最も高い地位に到達した。平沼男爵は、林と近衛の両内閣で、引き続いて枢密院議長であった。


林内閣時代の華北に対する新経済政策

 林内閣は、就任してから3週間の後に、すなわち1937年2月20日に、華北に対する新しい基本政策を承認した。それは1936年8月11日の五相会議の決定を再確認し、補足したものであった。華北の処理について、日本の主眼とするところは、華北を反ソビエット緩衝国として建設すること、物資の、特に軍需産業用の物資の、供給源を確保することであるということが、今やはっきり述べられた。

 林内閣の在任期間中に、すなわち1937年4月16日に、華北に対する日本の政策が重ねて述べられた。この新しい計画は、前のものを強調したにすぎないものであったが、日本と中国の双方の民間資本の投資を奨励することによって、経済的浸透を成就するということをはっきり述べている。この計画によって、鉄や石炭のような重要鉱物資源が確実に利用できることになっていた。交通機関、電力源及びその他の工業上の施設の建設が速やかに完成されることになっていた。しかし、不必要に外国の疑惑を招かないように、厳重に注意することになっていた。


広田内閣と林内閣の時代の、満州の経済上と産業上の開発における陸軍の役割

 1937年1月に、関東軍は満州国の経済上と産業上の開発のための五ヶ年計画をつくった。満州で戦争が起こってから、関東軍は同国の公益事業と金融機関の支配権を着々として握りつつあった。1931年から1936年までの5ヵ年間に、原料を調査したり、新たに工場をつくったり、交通を改良したりするような事業は、純粋に軍事的な施策と並んで進められていた。1935年には、すでに日満経済共同委員会が設立されていた。同年11月には、円ブロックの確立によって、両国の通貨の統合が成就されていた。1936年6月10日には、満州国の原住民のすべての権利を日本国民に与える新しい条約が調印されていた。かれらを保護するために、特別な法律がつくられることになっていた。かれらは満州国の裁判管轄権に服せず、またいくらかの課税を免除されていた。

 日本人の移民の数は急速に増加し、当時39万人を超えていた。かれらのうちの多くは、必要なときは兵隊にすることもできる者であった。これらの新しく来た者に良い土地を与えるように、原住民は名ばかりの買入れ価格で所有地を奪われた。1936年12月に、日本の内閣の政策に従って、優先産業に対して簡易に資金を与えるために、満州国興業銀行が創立された。

 これらの出来事のすべてにわたって、日本内地の軍当局は、関東軍を通じて、支配力を及ぼしていた。1936年6月10日の条約の条項に基づいて、日本国民に影響のあるすべての法令は、関東軍司令官の承認を必要とした。その上に、関東軍司令官は、その部下を通じて、満州国の内政を完全に支配した。

 1936年3月23日から1937年3月1日まで、板垣中将は関東軍参謀長であり、この地位に伴って、同時に経済共同委員会の一員であった。かれが公言した政策は、日本が必要とする政治的と経済的の条件を満州国に実現すること、両国の軍事上の計画と準備を統合すること、それと同時に、満州国自体の繁栄を促進することであった。関東軍司令官植田大将の名において、かれは満州国の内政について最高の権力を行使した。

 満州国総務庁長の地位も、やはり、日本人が占めていた。その地位は、国内政策を決定するについて、鍵となる重要な地位であった。すべての官吏の任命は、かれの指示によって行なわれ、ただ参謀長としての板垣の承認を受けることを条件としただけであった。その当時に、満州国の財政部次長として、6ヵ月の経験をもっていた星野は、1936年12月16日に、国務院総務庁長となった。かれは日本で経済専門家と見られており、満州国の経済開発を促進することを任務としていた。この任務を遂行するにあたって、かれは関東軍司令官と絶えず連絡を保っていた。


満州国五ヵ年計画

 1936年と1937年における陸軍の計画の直接の目的は、満州事変の成果を確保し、発展させることであった。この五ヵ年計画は、無計画な開発をやめて、具体的な調和のとれた計画を立てることを目的としていた。満州国の財政部やその他の部の代表者とともに、星野はこの計画の立案に加わった。板垣もまたこの仕事に携わった。最後の決定権は、関東軍司令官植田大将にあった。1937年2月17日に、満州国政府は広報を出し、この新計画の実施とともに、満州国は画期的な建設工作期にはいろうとしていると発表した。

 満州国の計画は、軍が日本自体のためにつくった諸計画に非常によく似ていたから、双方を産業上と経済上の開発に関する単一の計画と考えることもできる。

1937年5月29日の重要産業五ヵ年計画

 林内閣が在任していた1937年5月29日に、1936年8月11日の国策の基準の決定中に定められた目標の達成に向かって、最初の重要な処置がとられた。その日に、軍は『重要産業五ヵ年計画要綱』と題された文書を出した。この計画は、だいたい1941年までに、計画的に重要産業の振興をはかり、その年までに、日満及び華北は、重要資源の自給できる一箇の圏を構成するように立案されていた。このようにして、日本の東アジアにおける指導的地位が確保されることになっていた。

 この五ヵ年の間に、13の産業が優先産業として選ばれた――兵器、航空機、自動車、工作機械、鉄鋼、液体燃料、石炭、一般機械、アルミニウム、マグネシウム、電力、鉄道車両がそれである。これらを選んだ根拠は、これらが戦時に重要だからであった。この一般計画のわくの中で、陸軍は別に兵器及び飛行機工業について計画をつくることになっていた。既存の資本主義生産組織に対して、急激な変革は行なわないが、金融と物価との統制、重要でない産業からの労働力の転換、対外決済の統制によって、その計画の進捗をはかることとなっていた。五ヵ年の期間が終わったときに、進捗状況を検討することになっていた。


大陸資源開発の決定

 重要産業五ヵ年計画には、拡充すべき産業として選ばれたものは、日本自身と満州国との双方に配置し、この目的のために、両国は一環とみなされるということが明示されていた。さらに、(英訳された言葉によると)『巧みに』日本は華北で率先して、その天然資源の開発に努めることになっていた。

 すでに満州国五ヵ年計画によって、同国の資源をどのように利用することになっているかが示されていた。兵器、航空機、自動車及び車両生産のための軍需工業を確立することになっていた。鉄、石炭、液体燃料及び電力を含めて、基礎重要産業を開発することになっていた。軍需品として必要な農産物の生産の増強に努めることになっていた。鉄道と港湾には、この産業開発計画に必要な施設を設けることになっていた。

 この計画全体の目的は、戦時に必要となるかもしれない満州の資源を開発すること、この国の産業開発の強固な基礎を築くこと、右の開発を、日本に欠けている物資を日本に供給すると同時に、満州国の自給自足を確立するように秩序立てることであった。


戦争産業と戦争資材の生産とに関する細目的計画

 1937年6月4日、近衛が林にかわって総理大臣になったときに、陸軍の計画は依然として継続され、中断されることがなかった。

 1937年6月10日に、陸軍は重要産業五ヵ年計画実施に関する政策大綱試案をつくった。この大綱は、1941年までに、重要資源の自給自足を確立するという目標の達成を忠実にはかっていた。指定された13の工業は、それぞれ別個に考慮されていたが、ある基本原則は、各工業別の計画に共通であった。各工業を政府の統制と不断の監督のもとに置くために、厳格な措置をとることになっていた。政府の統制の実施を助ける機関として特殊法人を設立し、許可制をとることになっていた。免税によって、補助金によって、さらに営業損失に対する政府の補償によって、生産を確保することになっていた。

 3週間の後に、すなわち1937年6月23日に、陸軍省は『軍需物資生産五箇年計画概要』という第3番目の計画をつくった。最初の2つの計画は、一般的に戦争産業の拡充を取り扱っていたのに反して、この第3番目のものは、右の大規模な拡充計画における陸軍自身の役割に関するものであった。それは、軍事的な対外進出と支配を、戦力に必要な諸産業の自給自足の達成に同調させることを目的としたものであった。たとえば兵器工業のような、ある種の産業が第一にこの計画の中にはいった。その他のもので、陸軍の当面の必要に縁の遠い産業、たとえば電力供給のような産業は、重要産業計画の中に入れる方が適当であった。さらにその他の、たとえば自動車、飛行機及び工作機械工業のようなものは、ひとしくそれぞれの計画の中にはいっていた。しかし、この計画の各部門は、すべて分離することのできない関係にあった。

1936年の決定と1937年の計画との関係

 1937年の5月と6月に、陸軍がつくったこれらの3つの計画の中には、1936年8月11日の国策の基準の決定の際に、五省大臣が定めた諸原則が具体化されていた。これらのどちらの場合にも、その根本目標は、アジア大陸に確固とした地歩を確立することと、軍事力によって東アジアを支配することであった。

 1937年5月29日に出され、経済的自給自足を達成するように立案された重要産業計画の目的は、『東亜指導の実力を確保する飛躍的発展』であった。1937年6月10日に、陸軍が出したさらに詳細な計画も、同じことを目的としたものであった。『万難を排して達成』しなければならない日本の国運の『画期的発展に備えるため』に、1941年までに、自給自足を達成することになっていた。戦争資材を取り扱った第3の計画では、それらの目標が繰り返され、また詳細に述べられた。1941年までに、『速やかに軍需品製造工業を画期的拡充』することになっていたばかりでなく、『軍政的処理を統合帰一することにより』、日本の経済の運営を『合理的に開展(原文のまま)』する必要があった。平時体制から戦時体制への急速な転換に対して、特別な注意を払うことになっていた。

 これらの陸軍省の計画が作成され、発表された期間中、梅津中将は陸軍次官であった。1936年3月23日に、すなわち、広田が総理大臣になってから2週間の後に、また同年の重要な五相会議の3ヵ月前に、かれはすでにこの職に就いていた。宇垣を広田の後継者として承認することを陸軍が拒んだときに、梅津は重要な役割を演じた。1938年5月30日まで、林と近衛のもとで、かれは陸軍次官の職に留まっていた。


計画は陸軍のソビエット連邦攻撃の意図を示している

 1937年の陸軍の計画は、全然または主として、中国の征服を目標としたものではなかった。弁護側の証人岡田は、これらの計画はソビエットの5ヵ年計画に対抗して作成されたものであり、また日本の国力がソビエット連邦の国力にくらべて優勢であるようにするためであったと述べた。日本はソビエット連邦の国力と武力の飛躍的な発展に対抗する措置をとらなければならない立場に置かれていたとかれは述べた。

 それにもかかわらず、この計画は、岡田の述べたように、防御的な性質のものではなかった。重要産業に関する計画でも、戦争資材の生産を取り扱った計画でも、『国防力』の充実ということを目標としていた。それには、日本の軍備の完成が伴わなければならなかった。陸軍大臣荒木が『国防』という言葉を定義したのは1933年6月であったが、そのとき以来、この言葉は常に武力によってアジア大陸に進出することを意味していた。1937年の諸計画自身の中に、右の結果を達成しようとする陸軍の意図が明確に示されていた。

 しかし、ソビエット連邦を日本のアジア政策に対する避けることのできない敵であると陸軍が見ていたことは、疑いがない。モスコー駐在の陸軍武官は、すでに1932年7月に、そう述べていた。参謀本部の鈴木中佐は、1933年4月に、それを繰り返した。関東軍は一貫してこのような戦争の準備を続けていた。そして、国境の戦闘で、ロシア軍に対する自分の力を試していた。『反共産主義』が華北と内蒙への日本の侵入の標語であった。1936年8月11日の国策の基準の決定の中で、軍備拡張の程度は、ソビエット連邦が東部国境に動員できる全兵力に対して、これに対抗するのに必要な程度とすると五相会議は決定した。1936年10月の防共協定は、このような衝突への道を進めたものであった。

 右の3つの陸軍の計画のうちの最後のものがつくられる前、1937年6月9日に、陸軍がソビエット連邦に対して戦争を開始しようとしていたことを証明する新しい証拠があった。1937年3月1日に、板垣の後任として関東軍の参謀長になった東条中将は、この目標を延期する方がよいと考え、そのように参謀本部に意見を具申した。当時の中国の情勢とソビエット連邦に対する作戦準備とを考慮した上で、もし日本の武力がこれを許すならば、関東軍の背後を脅かすものと日本側で考えている中国国民政府軍に対して、まず一撃を加えなければならないとかれは確信していたのである。1ヵ月の後、盧溝橋事件が起こったときに、陸軍は日本の軍事力が右の措置をとるに充分であると考えたことが明らかになった。

陸軍の計画は西洋諸国をも目標とした

 しかし、陸軍の1937年の計画は、ソビエット連邦だけを目標としたものではなかった。なぜならば、東アジアの征服を成就するにあたって、日本が西洋諸国の敵意を招くであろうということは、長い間認められていたからである。日本の関心は、アジア大陸だけに限られていたものでもなかった。1924年と1925年に、すでに大川は東インド諸島の占領を主張しており、また東洋と西洋との戦争を予言し、その戦争で日本は東洋の戦士となるであろうと言った。1929年7月に、白人種を駆逐して、アジア諸国民を解放することをかれは待望していた。1933年3月における日本の国際連盟からの脱退は、アングロ・サクソンの支配からの解放の先がけであるとかれは言った。1933年6月に、荒木は日本国民に対して、国際連盟の指導の下に、全世界は日本がその使命を果たすことに反対したと言った。かれは来るべき非常時について説いた。それ以来ずっと、これが評論家や企画立案者の論題となっていた。

 1933年9月になると、どのような形式であろうと、国際協定による軍備制限には、日本の世論は甚だしく反対していた。同じ年の12月に、斎藤内閣は、九国条約に基づく日本の義務が大陸に対する日本の目標の障害となることがあってはならないと決定した。1934年と1935年に、外務大臣広田は、一方では、満州国にある西洋諸国の既得権益を次第に侵害しながら、他方では、いろいろと安心させるような言明をして、西洋諸国の忿懣を和らげるという先例をつくった。

 これは1936年8月11日に五相会議で採択された方針であった。大陸から西洋諸国の軍事的支配を排除すること、日本は漸進的な平和的な手段で南方に発展するが、同時にこれらの諸国との友好関係を保っていくように努めることになっていた。

 しかしながら、穏やかな回答を与えておくという政策は、西洋諸国との公然の衝突を延ばすこと以上の結果を生ずるかもしれないということは、考えられていなかった。合衆国に対抗して、西太平洋の制海権を確保することができるように、海軍軍備を強化しなければならないと五相会議は決定した。同じ期間に、橋本は南方へ、殊にオランダ領東インドへ進出することを公然と主張した。かれはイギリス海軍がこの計画にとっておもな障害であると認め、また無敵空軍の建設を中核とする軍備の拡張を要求した。

 この目標は、1937年6月23日の戦争資材計画の中で、陸軍によって承認された。その計画は、陸海軍航空機の数を非常に大きく増加することを定め、また1942年を所要の戦時能力に達する第一年と定めた。

 1週間の後に、すなわち1937年7月1日に、橋本は別の論説を発表した。その中で、各国は空軍の拡張に狂奔していると日本国民に警告した。もう一度、ソ連邦に対して用いられるかもしれないばかりでなく、日本の軍備の根幹となるかもしれない無敵空軍の必要をかれは力説した。

 1937年の5月と6月の陸軍の諸計画は、1936年の国策決定に類似していた。この計画の基調は、あらゆる困難を排して、海外発展という目標を達成しなければならないということであった。時期の熟さないうちに、西洋諸国を刺激して戦争を起こすつもりはなかったが、これらの諸国が右の困難の一となっていたことは、明らかに認められていた。このような困難が戦争に訴えなければ打開できなくなる日に備えて、陸軍の五ヵ年計画の中に、時宜に適した規定を陸軍は設けていた。

 その間に、条約上の制限や陸軍の大陸計画に加わるということに煩わされないで、海軍は孜々(しし、熱心に励むさま)として太平洋においての戦争の準備をしていた。

1937年中の海軍の準備並びに委任統治諸島における準備

 1937年には、日本の海軍力と海軍建艦数字とのあらゆる部面において、大きく急激な増加を見た。重巡洋艦3隻と新航空母艦1隻とが就役した――これは1932年以来最初の新造巡洋艦であり、1933年以来最初の新造航空母艦であった。その年のうちに、海軍兵員数は2割5分以上増加した。今までにない大きさと火力を有する新主力艦の建造が始められた。数年の間比較的に変動のなかった重巡洋艦の総排水量は、二万五千五百トン増加した。同様に大いに増加した駆逐艦の勢力は別として、最も顕著な増加を見たのは、ロンドン海軍会議で日本代表が特に攻撃的な武器と称した種類の艦種そのものであった。

 この期間を通じて、嶋田中将が海軍軍令部次長であった。ロンドン海軍会議が開催される数日前の1935年12月2日に、岡田内閣のもとに、かれは就任したのであった。1937年11月30日まで、広田、林、近衛の各内閣を通じて、3人の海軍大臣のもとに、かれは引き続き勤務した。この期間中に、日本は海軍軍備縮小の国際協定から脱退し、合衆国の太平洋艦隊に匹敵する海軍をつくり上げようと計画し、急速な、しかし大規模な建艦計画を実施し始めた。

 この期間中に、また、海軍は日本の南洋委任統治諸島の管轄を委ねられたが、秘密のうちに、条約義務に違反して、これらの諸島の要塞化と海軍基地としての施設とに取り掛かった。マリアナ諸島のサイパンにおける海軍航空基地の建設は、少なくとも1935年以来始まっていた。1937年中に、10インチ砲が送られ、格納された。海軍の監督のもとに、地下燃料庫を設ける工事も始められた。1937年か、あるいはそれより前に、これらの工事はカロリン諸島にまで及んだ。なぜなら、この年に、パラオ諸島のペリリュー島に滑走路が建設されつつあったからである。そして、一千マイル東方で、トラック環礁の諸島に、軍事施設が構築されつつあった。


海軍備砲口径の国際的制限に対する同意の拒絶

 1936年1月15日に、日本がロンドン海軍会議から脱退した後にも、西洋諸国は、海軍再軍備競争のもたらす弊害を軽減する希望を捨てなかった。

 合衆国、イギリス、フランス及びイタリアは、1936年3月25日に、新しい条約を結んだ。この条約は、近く満了する2つの条約の規定のあるものを更新し、または修正した形で残した。新条約の規定によれば、主力艦の備砲の口径の制限は16インチから14インチに引き下げることになっていた。ただし、1937年4月1日より前に、非締約国との間に、この趣旨の一般的協定に達することを条件としていた。この規定を効力あるものにすることが日本の権力内にあったにもかかわらず、そうしてもらいたいという英国の要請は、林内閣の外務大臣によって明確に拒絶された。

 1937年6月4日、第一次近衛内閣が成立した日に、合衆国はこの制限を実施したいという真剣な希望を表明し、日本に対して必要な約束を得たいと直接に懇請した。その当時建造中であった合衆国の主力艦に14インチ砲を搭載するか、16インチ砲を搭載するかは、日本の回答によって決せられるであろうと説明された。2週間の後、1937年6月18日に、外務大臣広田は日本の拒絶をグルー大使に伝達し、日本の代表がロンドンで表明した見解を日本は堅持するものであることを繰り返した。

 このようにして、陸軍が大規模な軍事的準備計画をつくっていたちょうどその数ヵ月の間に、戦争準備を着々と進めて行こうとする日本の意図について、新しい証拠が与えられた。これらの準備は、主として西洋諸国を目標としたものであった。

陸軍の1937年度計画の目的に関する佐藤の演説

 いままでに考慮された証拠は、1937年度において、日本の戦争準備と日本陸軍の計画とが目的としたものを明白に証明している。その顕著な確証は、1942年3月11日に、当時の陸軍省軍務局長であった佐藤少将が行なった演説の非常に詳細な新聞報道によって与えられている。この演説を、かれは陸軍記念日の記念講演として行なったのである。弁護側はこれを単なる戦時宣伝であると称したが、その報道の正確さについては、異論がなかった。

 『昭和11年陸軍で樹てた国防政策は満州事変の成果を確保増進するためには、軍備と生産力の画期的拡充の必要を痛感した。しかして、欧州列強の軍備拡張、再軍備が昭和16年ないし同17年に出来上がるので、その頃国際危機が来ることを予想し、昭和17年度までには、ぜひとも軍備と生産力の大拡充を終わらねばならぬと考え、軍備は昭和12年度より同17年度に至る六箇年計画、生産力は昭和12年度より同16年度に至る五箇年計画をもって大拡充することとした。』

 この演説には、追って再び言及することにする。なぜならば、その中で、陸軍の究極の目的がどのように終始一貫して考慮されていたか、またどのように陸軍の努力が成功を収めたかについて、佐藤は再検討しているからである。しかし、まず、経済と産業を拡充する予定期間に、日本の政府の政策と計画を統合し、指導するために設けられた新しい機構を考察しなければならない。


1937年度計画が日本の産業拡充計画に与えた影響

 陸軍は、その1937年度の五ヵ年計画で、他のすべての考慮を、『国防力』を達成するという考慮に従属させた。戦争産業の急速な拡充が成就されることになっていた。その拡充は、平時体制から戦時体制への転換を容易にするために、最大の注意が払われるように計画され、指導されることになっていた。これらの目的のためには、他方で、産業の統制を軍部の監督のもとに一元化することが必要であった。しかし、このような体制は、産業人の協力がなくては効果がないということが認められた。

 従って、陸軍は、その1937年6月23日の軍需物資計画で、政府と陸軍の統制に応じ得るような新しい産業階層の設定と、企業家及びその使用人の双方に対する好条件の維持とを結合することを目的とした。労働時間は延長されないことになっていた。新しい機械と技術が時代後れの生産手段にとって代わることになっていた。企業家に資本または経営上の損失を被らせるような危険に対しては、適当な注意が払われることになっていた。これらの予防策がとられた上、統制をある程度強化すれば、拡充と転換という軍部の目標の達成を容易にすることになるのであった。

 産業の統制を強化するために計画された特定の方策は、みな今までより大きい企業体を組織することを主眼としていた。産業の合併と企業の合同とに対して指導が与えられ、それらに対して、一般的な統制を行なう特別の機関が徐々に設立されることになっていた。有機的な生産ブロックが結成され、相互依存的な生産者の諸集団を結合することになっていた。小工業者の全生産能力が戦時の諸目的に利用されるように、軍事的見地から、かれらの組合が組織されることになっていた。

 1937年度の諸計画は、産業政策上、今までとまったく変わったことをしようとするものではなかった。というのは、第一歩はすでにずっと以前に踏み出されていたからである。1929年に、商工省の産業合理化特別委員会がつくられていた。その翌年に、生産過程を単純にし、浪費を除くために、正常な措置を講ずる一つの局がつくられた。1931年に通過した重要産業統制法は、計画統制経済に向かっての第一歩であった。その効果は、大工業者の力を強くし、中小経営者を自己防衛のために団結することを余儀なくさせた。中小経営者が組合を結成するというこの傾向は、1931年に、そして再び1932年に、法律によって奨励された。

 1936年には、さらに徹底的な措置がとられていた。重要産業統制法の修正は、大資本産業の間に、カルテルの結成を実施させた。生産者と製造業者の間に結ばれた協定を法制化することによって、独占事業体の結成が奨励された。それと同時に、小製造業者の間にも、組合に対する金融上の便宜を増すことによって、同様のことが行なわれた。

 それにもかかわらず、1937年度の諸計画は一つの時期を画するものであった。ここに初めて、総合的で長期な規模の上に企画が行なわれ、また初めて企画の目的が軍の要求に直接に結びつけられ、従属させられたのである。

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