歴史の部屋

内閣企画庁

 林が総理大臣であったときで、陸軍の五ヵ年計画がつくられる直前の、1937年5月14日に、内閣企画庁が設立された。それは過去において国策事項を審議していた内閣調査局を廃し、これに代わったものであった。その前身と同じく、企画庁は内閣自身の一部局であり、国策事項に関する決定を容易にすることを第一の任務としていた。その職員は150人で、技術専門家を含んでいた。内閣の上級職員は、その参与に任命された。企画庁の設置に関する勅令は、企画庁は内閣総理大臣の管理のもとに属し、重要国策とその運用に関して意見を具申すると規定した。その通常の任務は、各省間に調整が行なわれ、軋轢が避けられるように、総理大臣に進言することであった。

 勅令の中に挙げられている企画庁の他の任務は、経済と産業の拡充の期間において、企画庁が演ずることになっていたおもな役割を示している。企画庁は、各省大臣から内閣に提案された諸政策を審査し、それらに関して適切な意見を具申することになっていた。そして、政府の各省によって提出された諸計画を統合調整する目的で、その相対的重要性を判定することになっていた。これらの事項に関する企画庁の決定は公表されず、総理大臣に対する進言の形で提出されることになっていた。企画庁は予算案に関する意見も具申することになっていた。

 企画院《企画庁は1937年10月から企画院となる》の運営方法は、被告星野によって説明された。1940年7月に、かれは同院の総裁になった。企画院は、次の年次に対して各自の要求の概算を提出した他の各省と協力して、その計画を樹てた。企画院のおもな任務は、日本本土の経済を計画することであったが、これには、必然的に、日本の支配下にあった大陸の各地における、特に満州国における、産業の開発の知識を必要とした。それで、企画院の計画案の中には、満州国における責任ある日本官吏との協定によって、満州国に対する計画が含まれていた。企画院の任務は、なかんずく、各省がそれぞれの必要をなるべく完全に満たすようにはからうことであった。

 1937年6月10日、第一次近衛内閣が就任してから二三日(第一次近衛内閣は6月4日成立。この「ニ三日」は二十三日ではなく、ニ、三日の意。英文はa few days after)の後に、外務大臣広田は、企画庁総裁の兼任を命じられた。


中国の戦争が五ヵ年計画に与えた影響

 林内閣の在任中に、そして陸軍の五ヵ年計画が完成する前に、産業拡充の新政策を実行に移すために、重要な措置がとられた。1937年3月中に、精鋼(finished steel 仕上げ鋼)の国内生産を増加するために、五ヵ年計画が始められた。

 1937年4月に、日本の船舶『解体、建造』補充計画の第4期が実施された。1932年以来、補助金制度によって、日本は約48隻の快速貨物船を建造した。このために、世界中で、船齢5ヵ年以内の船舶のトン数の比率が日本は最も高くなった。新計画は、トン数と速力について指定された最低限度の標準をもつ客船と貨客船の建造に対して、補助金を与えることを規定した。補助金の率は、ある場合には、建造費の半分に達した。

 1937年5月1日に、陸軍の満州における諸計画が法制化された。その同じ日に、満州国の一つの法律が制定され、それによって、戦争準備のために最も重要と認められるものを生産する全産業について、国家に完全な統制権が与えられた。

 日本自身についての計画は、さほど捗っていなかった。1937年7月7日、盧溝橋事件が起こったときに、五ヵ年計画の検討は一時延期された。その後の数ヵ月の間、日本政府の注意は、中国における戦争に直接必要な諸事項に集中された。

 重要産業についての計画の概要を述べた陸軍の最初の計画は、第一次近衛内閣に承認を求めるために提出された。この計画案を実行に移すための陸軍の詳細な計画の要約は、1937年7月13日、戦闘が始まってから6日の後に、企画庁総裁広田に届けられた。軍需品、航空機、その他の戦争資材の生産に関する第3の計画は、戦争開始のわずか2週間前につくられた。

 この第3の計画は、陸軍の需要を満たすには不適当であったので、一時放棄された。そして、重要産業についての計画は、軍事的消費にあてられる物資を、できる限り最大量に生産することができるように変更された。国家非常時という刺激のもとに、産業の拡充は、1937年7月から1938年12月の間に、計画されていた程度以上に、だんだんに発展した。

 しかし、この期間に、企画院は当面の問題を最初に取り扱わねばならなかったが、戦争のための大規模な計画という元来の目的は、決して見失われなかった。1938年の初めには、この年だけに限られた一年間の措置として、動員計画が復活された。その年の2月に通過した国家総動員法は、戦争準備のための広汎な措置を、あらかじめ議会に提出して、その協賛を得ることなしに、日本政府が取りうるようにした。1938年6月に、政府部内には、日本の財政的な困難が五ヵ年計画の成功を危うくするのではないかという憂慮の声が起こった。

 1939年1月に、企画院は一つの新しい総括的な計画を出した。これはそれまでの18ヵ月間の戦争で得た経験に基づいたものであり、かつその後に続く数年のために新目標を設定したものである。平沼内閣の承認を得たこの計画は、根本的には、陸軍省が1937年度の計画にあたって主張した最初の計画そのものであった。

盧溝橋事件は陸軍の扇動によるものであった

 盧溝橋の事件は、華北を日本の統治下に置こうとする陸軍の画策が極点に達したものである。1935年5月には、満州国の場合と同様に、軍部がさきに立って華北を処理すべきであるとする関東軍内の分子の決意について、木戸は記していた。同年の12月に、関東軍は、中国の本土への同軍の進出を予期して立てられた宣伝計画を、陸軍省に送付した。翌月に、陸軍の対華北計画の実施にあたって、岡田内閣の外務大臣として、広田は軍と外交上で協力する方針を立てた。中国における戦争のこの段階の発端となった戦闘は、満州の占領をもたらした奉天事件(←現在、「奉天事件」という名称は、張作霖爆殺事件の別称となっている。しかし、かつては柳条湖事件の別称だったようであり、ここでも満州事変の発端となった柳条湖事件を指している)のように、陸軍自身の発意で企画され、扇動され、実行されたのである。

 戦闘が始まる1ヵ月足らず前に、東条中将は、戦争か平和かの問題を陸軍参謀本部につきつけた。関東軍の参謀長として、中国政府の軍隊に対して攻勢に出る機が熟しており、またこのような軍事行動は、ソビエット連邦に対する戦争開始に先立って行われなければならないと、かれは信じていた。日本の兵力でこのような挙に出ることができるかどうかということは、参謀本部が決定すべきさらに大きな戦略上の問題であった。

 この決定は重大問題であった。というのは、陸軍省が当時なお立案中であった経済的と軍事的の長期の計画は、中国における紛糾に直ちに巻きこまれることを全然考慮に入れていなかったからである。このこみ入った事態のすべての要因は、それ以前の15ヵ月の間、陸軍次官の職にあった梅津中将には、わかっていたに相違ない。最初に起こった戦闘を全面的攻勢という程度にまで拡大させたやり方は、参謀本部がすでに中国と戦争をすることにきめていたことを示すものである。

 1937年7月7日の夜に、盧溝橋にいた日本の駐屯軍は異例な演習を行ない、一人の日本兵が行方不明になったと称して、その捜索を行なうために、宛平城に入ることを要求した。日本側の苦情についてまだ交渉が行なわれている間に、戦闘が勃発した。そして、1937年7月8日の午後に、日本側は同城の降伏を要求する最後通牒を発した。それに続いて起こった戦闘で、日本軍は相当の死傷者を出した。1937年7月10日に、日本司令官の提案に基づいて、停戦が協定された。

 この事件はそれで終結したと見て差し支えなかった。しかし、それは日本側の意向ではなかった。最初の衝突が起こってから24時間内に、関東軍の大部隊が戦闘の行なわれた現場に集中し始めた。増援部隊が華北に到着すると、中国軍の撤収を求める新しい要求が出された。1937年7月13日に、参謀本部は、もし中国軍が華北に派遣されるならば、事態に対応するために、断固とした行動をとると決意した。日本側の新しい要求が履行されなかったので、翌日盧溝橋で再び戦闘が始められた。


第一次近衛内閣、陸軍の対中国戦争方針を採用

 中国との戦争は、陸軍が攻撃の時機と場所を選んだのではあったが、日本の国策の結果として予知されていたものであった。1936年2月、林が総理大臣であったときに、華北をソビエットに対する緩衝国として設定し、またそれを日満経済ブロックに包含することが決定されていた。こうして、盧溝橋における最初の攻撃があってから数ヵ月のうちに、1936年8月11日に五相会議で承認された言葉をかりて言えば、『アジア大陸における確固たる地歩』を獲得し、また『東亜の安定勢力となる』ために、政府と陸軍は協力したのである。

 戦闘の第一報を受けたときに、内閣は問題の現地解決をはかることに決意したが、同地域に対して、さらに軍隊を出動させる命令は取り消さなかった。2日後の1937年7月11日に、広田と賀屋が閣僚であった内閣は、すでに引き起こされていた事態を再検討した。その後で、日本政府は華北の治安の維持を切望するものであるが、同地に派兵するために、一切の必要な措置をとることに決したという趣旨の声明を発した。日本内地における動員は中止されたが、関東軍の諸部隊はその進撃を続けることを許された。同時に、華北に新しい外交官と領事官を派遣する措置がとられた。これらの人々は、再び外務大臣広田の監督の下にはいっていたのである。この紛争を交渉に委ねることを提案した中国の新しい努力と、アメリカの斡旋の申出とは、ともに戦闘の再開に続いてなされたのであるが、いずれも顧みられなかった。直接交渉が続いて行なわれていたにもかかわらず、1937年7月17日以後に、日本内地における陸軍動員の準備は絶え間なく進行し、また政府の明確な承認を得た。

 1937年7月26日に、日本の新しい最後通牒は、北京における戦闘を引き起こした。そして、その翌日に、総理大臣近衛は、アジアに『新秩序』を建設するという、かれの内閣の決意を議会で表明した。満州占領の前に政府の代弁者等が主張したと同じように、日本は中国に領土を欲するものではないとかれは主張した。大東亜共栄圏の提唱者の言葉通りに、日本の求めているものはただ協力と相互援助――東亜の文化と繁栄に対する中国からの貢献――だけであるとかれはいった。これに加えて、いっそう意味深く、中国との懸案を局地的に解決するだけでは充分でないと考えると述べた。日本はさらに一歩進め、中国と日本との関係の基本的解決を得なければならないと断言した。

 これによって、内閣は参謀本部と同じ結論に到達したことと、日本は中国の征服という決意を翻さないことが、今や明らかになった。

戦争準備と中国征服との関係

 ここで注意すべき重要なことは、この決定は、単に基本国策をさらに推進したものではなく、前年の決定になかったことを追加したものだということである。広田を首班とした五相会議は、日本は万難を排してアジア大陸に進出すると決定していた。この進出が進むにつれて、西洋諸国を敵にまわし、またソビエット連邦との戦争をほとんど避けがたいものにしてしまうことをかれらは認識していた。海外進出論者の計画のもたらす結果に日本が対応するには、数ヵ年にわたる国家的規模の動員を行なうほかないことをかれらは認めていた。しかし、この準備計画のどの段階において、中国領土に対する新たな大規模の進攻を行なうのが最も都合がよいかは、きめていなかった。

 東条は、中国の占領は、来るべきソビエット連邦との力の試練に付随する小さい問題にすぎないと見ていた。その後の出来事から見ると、日本の内閣もまた中国の抗戦力を過小評価していたことがわかる。1937年9月になっても、外務大臣広田は、国民政府軍に対する迅速な膺懲(ようちょう、討伐して懲らしめること)の一撃というようなことをまだ口にしていた。さらに、華北全域は、戦争を遂行するための経済的と産業的の開発の計画に含まれていた。従って、国家総動員そのものを成功させるために必要であった。

 近衛の政府がなした決定の中心点は、あまり早く国際的敵意を強める危険よりは、すでに列挙された利益の方が重要だということであった。中国におけるこの戦闘の発生した事情そのものによって、中国の征服は、より大きな闘争に対する準備計画に付随するものと見られていたことがわかる。


中国における戦闘と皇道(皇道に傍点あり)及び八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の原理との関係

 これは、後年において、日本の一流の政治評論家がとった見解であって、かれらは、アジア大陸における進展を、その前に行なわれた『新秩序』の計画に、また皇道(皇道に傍点あり)と八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の原理に結びつけた。

 白鳥は、1940年12月に出版された本の中で、八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)という古典的な言葉は、東亜新秩序の建設を究極の目的とするところの、この運動の国家的標語として採用されたと述べた。満州における衝突も、中国における衝突も、『皇道』の精神を表わしたものであり、また民主主義的観念に反対したものであった。ドイツと西ヨーロッパ諸国との戦争も、本質的には同様な衝突から起こったものであるといえるであろうとかれはつけ加えた。

 松岡洋右は、1941年外務大臣であったときに、自国の発展に関して同様なことをいった。近衛とその他の政治家が絶えず否定したと同様に、日本が新しい領土の獲得や他国の搾取を望んでいたということをかれは否定した。満州事変は日本精神の発揚であり、ある意味において、アメリカとヨーロッパ諸国が日本の平和的な発展を抑圧したために起こったものであるとかれは述べた。

 かれは聴衆に対して、日本の外交は八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の大精神を全世界に宣揚する重大な役割を演じなければならないと話した。その国策を実施するにあたっては、日本は神国であり、神意に従って進まなければならないという点に留意する必要がある。これが『支那事変』の理由であって、物質的な欲望ではないと述べたのである。

 白鳥と同じ月に、新しい著書を公けにした橋本は、一層あからさまであった。かれは『支那事変』を『世界新秩序』建設の緒戦と呼ぶことができるであろうと述べ、この新秩序達成のためには、イギリスやアメリカとの妥協を許さないと述べた。かれは中日戦争を『国体の飛躍的顕現である』と形容した。

 それから、1936年8月に力説したと同様に、1940年12月にも、世界制覇の、すなわち八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の目標の達成を可能にする皇道(皇道に傍点あり)の原理に、国の総力を集中しなければならないとかれは力説した。ヨーロッパ戦争の難局を転じて、日本によって世界を『世界新秩序』に導く絶好の機会としなければならないとかれは述べた。

盧溝橋事件後における広田の外交政策

 1937年の後半期に、中国における戦争は次第に規模も大きくなり、激しさも増した。中国への進出と同時に、日本の行動の合法性を全世界に納得させようとする宣伝工作を行なうという関東軍の計画に従って、外交政策に関する各種の声明がなされた。

 外務次官堀内は、1937年9月1日に、ラジオ放送を行ない、その中で、日本は中国の領土を獲得する意思がまったくなく、単に両国の間に真の協力をもたらす状態を実現することを希望していると述べた。

 4日後の1937年9月5日に、外務大臣広田は議会において外交政策を述べるにあたって、同じ趣旨のことを敷衍した。日本政府の基本的国策は、日本、中国、満州の共存共栄のために、三国の間の関係を安定させるにあるとかれは述べた。中国は日本の真意を無視して大軍を動員したのであって、これに対して、日本が軍事行動によって対応するほかはないと述べた。自衛のために、また正義のために、日本は中国に対して決定的な一撃を加えることに決意したのであり、それによって、中国の過ちを反省させ、また中国軍の戦意を失わせようとするものであると述べた。

 しかし、1ヵ月後の1937年10月6日に、国際連盟は、日本の中国に対する軍事行動は、この衝突を引き起こした事件とはまったく均衡のとれないものであり、またそれは現存の条約による権利に基づいても、自衛権に基づいても、正当化することができないと決定した。

 この間に、広田は国策決定の中に定められた原則を続けていた。その原則というのは、西洋諸国との友好関係を維持しようと試みながらも、アジア大陸における進出の計画に対するいかなる妨害も日本は許さないというものであった。1937年7月29日に、すなわち、近衛がその内閣の対中国政策を明らかにした2日後に、予算委員会で、広田は中国との紛争に対して第三国の干渉を予期していないと述べた。この委員会に対して、もしそのような申出が第三国からあった場合には、これに対して、政府は躊躇なく、きっぱりと拒絶するとかれは保証した。

 1937年8月10日に、グルー大使は、合衆国の新しい斡旋の申入れを広田に伝達した。このときになって初めて、1937年7月16日のハル国務長官の最初の声明に対して、広田は回答をしたのであった。1937年8月13日にハルに伝達されたこの回答文で、日本内閣は、ハルが言明した世界平和維持に関する原則には賛意を表するが、これらの原則の目的は極東においては、その地域の特殊な事情に考慮を払うことによって初めて達成されると信ずると述べた。

 中国における事態を調査していた国際連盟諮問委員会の事業に参加するようにとの招請に対して、1937年9月25日に、広田は同じような言葉で回答をした。日本内閣は、中国と日本との懸案を公正に実際的に解決することは、両国自身によってのみ見出すことができると確信していると広田は述べた。

 1937年10月6日の連盟総会の決議は、中国における日本の行動がもたらした国際的忿懣の程度を示した。その際に、各連盟国は、中国の立場を弱くするようなどのような行動をもとることを差し控えることと、この国に対して積極的な援助を与えるのに、どのような措置を講じたらよいかを考慮することとが決議された。

 さらに、1922年の九国条約の規定に従って、中国に発生した困難な事態を検討するために、その条約の締約国の会議を開くことも同意された。アメリカ合衆国は、これらの認定や決議に対する全般的同意を表明した。


ブラッセル会議並びに戦争準備態勢の一部としての条約義務の違反

 1937年10月中に、広田、賀屋及び木戸が閣僚となっていた内閣は、ブラッセルで開かれることになっていた九国会議に参加するようにとの招請を拒絶した。内閣は、この決定を伝達するにあたって、中国における日本の行動は防御的性質のものであると主張し、連盟総会の非友好的な認定と決議に対する多大の遺憾の意を表明した。内閣の見解によれば、紛争の解決は、日本との協力が必要であることを中国が認識することにあるのであって、この必要を充分に理解することによって、初めて他の諸国は極東の安定に有効な貢献をなし得るというのであった。

 中国においてとった行動に関して、日本がどのような弁明をしようとも、事態を率直に論議することを拒否したのは、九国条約締約国としての義務に反するものであった。しかし、これは日本の従来の声明とまったく一致するものであった。というのは、条約義務の違反と否認は、それ以前から、戦争準備の一般計画の一部になっていたからである。

 1933年における日本の連盟脱退は、このような不利な認定によって促進されたものであった――その際には、満州事変に関してであった。連盟に対して、脱退の意図を通告するにあたって、日本は連盟が極東の事態の現実を把握することができず、それによって東アジアの安定を害していると非難した。日本のスポークスマンは、『現実に平和を確保するよりは、適用不能なる方式の尊重をもって一層重要なりとした』構成員が大多数を占めている団体に対しては、日本はもう協力することができないと述べたのである。

 その年の間に、斎藤内閣の海軍大臣は、海軍軍備制限条約に対する日本の態度を説明することを求められた。その説明をするにあたって、かれは現在の比率に対する日本の不満を強調し、もし国際情勢に変化が起こった場合には、『ある国家が、かつて調印した条約で永久に満足していなければならないという理由は全然ない。ひたすら人類の福祉を顧慮すればこそ、われわれはロンドン海軍条約に調印したのであって、無条件に調印したわけではない。ワシントン条約について言えば、これは12年前に調印されたものであって、われわれの考えるところでは、国際情勢がその間にまったく変化しているから、もはやわが帝国の安全を保障するに適切なものではない』と述べた。

 1934年に、ロンドンで海軍軍縮会議の予備会談が開かれたときに、岡田内閣は国内の世論の指導に関する声明を発した。それには、『公正なる主張も国際会議においては必ずしも常に容認せらるるものにあらざることは、既に満州問題に関連し国際連盟を脱退せる帝国の経験せる処なり』と述べてあった。たとい協定が不成立に終わっても、日本は何も恐れることはないとつけ加えてあった。その翌年の1935年に、日本の『正当なる主張』が否認されたので、日本は国際協約によって軍備を制限する方式を放棄するに至った。条約が満了した後の最初の年である1937年に、日本の海軍戦争準備計画は明確な形をとった。

 1934年12月中に、ジョン・サイモン卿は、軍縮予備会談における日本代表松平に対して、九国条約の締約国として、イギリスは中国に関して権利と義務をもっていることを指摘し、この国の独立に関する日本の政策はこの後どうなるかということを尋ねた。満足な、または明確な回答は得られなかった。しかし、1936年の国策決定と1937年の陸軍の五ヵ年計画とによって、その立場が明らかにされた。日本は大陸にその確固とした地位を獲得し、華北の資源を『巧みに』利用することになっていた。中国における戦争は、この政策の結果であった。

盧溝橋事件後の満州国における産業計画

 1937年の後半に、日本の国策と計画の多くの面が満州に関する各種の措置の中に示された。この国の資源を開発し、重工業の建設を促進する手段がとられた。これらの手段は、概ね陸軍の五ヵ年計画の線に沿ったものであり、政府の統制に応ずる、より大きな産業単位をつくることを含んでいた。

 この政策は、これまた、九国条約の規定に基づく西洋諸国の権利に対するいっそうの侵害を惹き起こした。日本は満州国産業の発展を完全に支配していたが、この両国は互いに完全に独立しているという擬制に対して、まだある程度の敬意が払われていた。この仕組みによって、西洋諸国が抗議した条約義務の不履行に対する責任を日本は否認し得るからであった。

 1937年8月3日に、両国の政府は、両国合弁の株式会社を設立する協定を結んだ。その目的は、満州国に対する日本人の移民を助成し、この国の国土を開発することにあった。1937年10月22日に、すなわち外務大臣広田が企画院総裁の兼職を解かれる3日前に、満州国の新しい産業上の措置を検討するために、内閣は閣議を開いた。閣僚の中には、大蔵大臣賀屋と文部大臣木戸がいた。日本の内外の情勢は特に重工業の急速な拡張を要求していること、この成果を満州国において得るためには、新しい産業統制の手段を必要とするということについて、内閣は意見が一致した。その際に、両国の政府は協力して満州に重工業を確立し、発達させる新国策会社を創立することを決定した。代用品を原料として使用することに対して、特別の注意を払うことになっていた。満州国政府は所要資本の半額を支弁し、残額は個人によって払い込まれることになっていた。この新しい企業の経営は、これに最も適任の日本の民間人に委ねられ、この新事業の生産品は、日本において外国製品でないものとして取り扱われることになっていた。

 満州国それ自身においては、財政部次長と国務院総務庁長を歴任した星野が、1937年7月1日に、同院の総務長官になった。満州国の総務長官として、すべての産業がかれの支配下に置かれ、また日満経済共同委員会の満州国側の委員としてのかれの一票は、日本がすべての決定を可決させることを可能にした一票であった。これらの大きな権力を用いて、星野は日本人にあらゆる産業を管理させ、満州の人民を企業から除外した。

 1937年12月1日に、その前の月になされた協定に基づいて、日本は満州国における治外法権を返還した。この措置は1936年6月10日の日本と満州国の間の条約においてすでに考えられていたものであるが、日本の支配下にあった満州国政府によって、同国における一切の外国商社をその管轄下に置くことを主張するための手段として用いられた。この行為は九国条約の『門戸開放』に関する規定によって獲得された権利を侵害するものであって、この行為に関して、直ちに合衆国から日本に対して抗議がなされた。


盧溝橋事件後における戦争産業の拡充

 1937年10月25日に、企画庁が改組された。それから後は、広田の総裁としての職務は廃止され、かれはすべての注意を自由に外交問題に注ぐことができた。しかし、中国で戦争が発生した直後から、この日までの間に、日本自身の内部で各種戦争産業の拡充を促進し、日本の経済を戦時の要求に役立つものにするために、いろいろな措置がとられた。中国における戦争がそれらの措置をとることを促し、またそれらの相対的優先度を決定したことは疑いを容れないが、これらの措置は、さきに陸軍が計画した長期にわたる性格をもつものであった。

 油と石油の供給を確保することは、何よりも緊急な必要事であった。なぜならば、自国だけでは、日本は平時の一般需要量の一割しか供給できなかったからである。油と油製品の貯蔵量を漸次増加させることによって、中国における短期戦のような勃発事件のためには、すでに相当の貯えができていた。しかしすでに1937年の計画において、自給自足のために、陸軍は、政府の助成金によって人造石油工業を興すことを決定していた。人造石油の生産を促進するために、新しい国策諸会社が設立されることになっていた。

 1937年8月に、すなわち、中国で再び敵対行為が始められた翌月に、これらの長期計画を実行に移すための法律が通過した。石炭を原料として、人造石油の生産を増進することが決定された。この産業の拡充とそれに対する金融のため、政府の指導統制のもとに、新しい国策諸会社が設立された。また認可、免税、政府助成金の制度のための規定が設けられた。

 日本は国内産の鉄の供給量も乏しかった。従って、製鋼業が不充分であった。1933年から、この産業は政府の統制下に置かれ、1937年前の10年間に、国内生産額は3倍になっていたが、林内閣の在任中の1937年3月に、生産額増大を目標とする新計画が立てられた。1937年8月12日に、陸軍の鉄鋼業計画を実行に移す新しい法律が通過し、国内生産額を五ヵ年以内に2倍にすることが企てられた。鉄鋼とその他の戦略物資の生産を奨励するために、巨額の補助金が支払われた。次第に大きくなっていた造船業になくてはならない部品を製造する実業家は、特別の奨励を受けた。

 陸軍は、1937年6月10日の詳細な計画で、さらに、政府がすべての鉄道、港湾、道路の完備に努力しなければならないということも定めていた。1937年10月1日に、日本国内の全運輸施設を拡充し、統制するものとして、巨額の資本を擁する新しい国策会社を設立するための法律が通過した。

 しかし、中日戦争のこの段階においてさえ、長期にわたる産業上の準備は、戦争努力に最も肝要な特定産業と施設に対する措置だけには限られなかった。満州国の場合と同じように、日本自身においても、政府の統制がもっと容易に行なわれるように、重工業をより大きな単位に編成する陸軍の計画が実行に移された。1937年8月に通過した重要産業統制法は、産業群ごとに新しい連合を、すなわちカルテルを結成することを奨励し、このカルテルには広汎な自治力が与えられた。


統制経済の確立

 陸軍はその1937年6月10日付けの詳細な予定計画においてすでにこれらのことを計画していたが、これらのことは、広汎な貿易と金融の統制措置を必要とする計画的統制的経済と相俟って達成しなければならないことも予見していた。この目的を達成するために必要な措置は、詳細に定められていた。それは次のような言葉で結んであった。『本計画の成否如何は、一に懸かって帝国政府の一貫せる不動の国策的指導に在ること言を俟たず。政府は国力増強の見地より、各種産業に対しあらゆる政策手段をもってこれを支援するを要すべく、特に政府の財政的助成手段は最も肝要なり』と。戦争産業に必要な政府援助の推定額は、1937年の残余の数ヵ月間には五千七百万円であったものが、1941年には三億三千八百万円に上った。従って、戦争の経済的と産業的の諸準備の成否に関する責任は、大部分大蔵大臣賀屋の肩にかかっていた。

 産業上の立法を最も多く生み出した月である1937年8月に、外貨獲得の手段として、金の生産を奨励するために、特別の措置が可決され、政府は国内にある一切の金の処分を統制する権能を得た。

 同じ月に、輸入許可の最初の措置がとられた。その翌月には、貿易尻調整のために、さらに広汎な措置が可決された。この1937年9月の法律は、臨時の便法として可決されながら、遂に廃止されることがなかった。この法律によって、輸入品の選択、分配及び利用について、政府は完全な統制権をもつこととなった。これらの権能は、各重要産業ごとに設けられたところの、政府の統制下にある輸出入組合の手を通じて、企画院が行使した。

 この種の制限的立法は、まったく新しいものというわけではなかった。なぜならば、日本の輸出が輸入を償うに充分であったことはほとんどなかったからであり、しかもその経済生活と工業国としての地位については、日本は輸入に依存していたからである。日本の工業化計画が次第に推進されたことと、満州事変のときから外国の対日クレジットが事実上なくなったこととによって、貿易と金融を統制する措置が相次いでとられるようになった。外国為替の管理に関する諸法律は、1932年と1933年に可決された。1933年3月に通過した外交為替管理法は、一切の外国為替取引を管理し、規制する広汎な権能を内閣に与えた。

 しかし、これらの権能は、1937年1月になって初めて全面的に発動され、そのときから1ヵ月3万円をこえる金額の一切の為替取引は、政府の許可を必要とすることになった。1937年12月になると、事態が非常に悪化していたので、許可免除額は1ヵ月百円となった。

 1937年9月10日の臨時資金調整法に基づいて、日本の金融に対する全面的な権限が日本銀行に集中され、さらに大蔵大臣賀屋の、すべてに優先する自由裁量に従わなければならないことになった。


盧溝橋事件後の、ソビエット連邦に対する陸軍の準備

 1937年に実施された徹底的な金融統制は、戦争産業の発展を奨励するために、同年中に支払われた巨額の補助金によって引き起こされたところも多少はあったが、これらの補助金は、陸海軍の予算によって国庫におしつけられた要求に比較すれば、少額なものであった。平常は、両省の予算は一般会計と特別会計とから成り立っていた。しかし、1937年には、中国における戦争から直接生ずる経費を賄うために、第三の会計が設けられた。この『臨時軍事貸』は、初めは中国における緊急事態によって生じた臨時措置であったが、いつまでも打ち切られなかった。陸軍だけの総経費は、1936年の五億円強から、1937年の約二十七億五千万円まで増加した。

 この巨額の融資は、日本の軍事力の膨大な増強を可能にした。国際連盟の諮問委員会は、1937年10月6日の報告書の中で、日本はその行動を強化することを止めず、兵力をますます増加し、ますます強力な武器を用いていると認定した。陸軍の常備兵力は、1937年1月1日の四十五万人から、1938年の九十五万人に増大した。

 華北で敵対行為を起こしていた陸軍は、いくぶんかは東条中将の勧告に基づいて、これらの行為を来るべきソビエット連邦との闘争の序幕戦であるとまだ考えていた。中国において戦闘が激しく行なわれていたときに、関東軍参謀長として、東条はソビエット連邦攻撃に備えて別の諸計画をつくった。1937年12月に、これらの計画を陸軍次官梅津中将に送達した。その翌月に、東条は梅津に関東軍兵力を増強する規則を制定してはどうかと提案し、その制定を実現した。1938年1月24日に、当時の関東軍司令官植田大将は、『緊迫せる対ソ戦』の準備に華北が寄与すべきことを陸軍大臣杉山に進言した。


中日戦争が陸軍の全国的動員計画を日本に採用させた

 1937年の純粋な軍事的準備よりも、さらに重要なことは、日本国民の総力を戦争のために動員しようとする、いっそう広汎な企画の実現を、どの程度まで、陸軍が達成していたかということである。中国において、あえて再び戦争を始めることにしたので、陸軍は新しい仕事を引き受けてしまったのであるが、それがどれほど大きなものであるかを陸軍は充分理解していなかった。これによって、日本国民のために立てた長期計画が円滑に発展することを陸軍は妨げた。しかし、他方で、戦争開始後の最初の6ヵ月の間に、平時には到底求められないほど、易々諾々として、政府と国民が陸軍の主要計画を採用したことを陸軍は知った。

 計画され、組織化された戦争経済を確保するための基本的な措置は、満州国においても、日本自身においても、すでにとられていた。海軍でさえも、その軍備は着々と強化しつつあったが、陸軍の一切を網羅する目的の遂行について、積極的な役割を演ずるようにされていた。

 1937年8月、陸軍が上海を攻撃したときに、内閣の命令によって現地に派遣された約30隻の艦船から成る海軍力がこれを援助した。その後、同じ月に、補給物資が中国軍の手にはいることを阻止するために、海軍は中国沿岸の封鎖を宣言した。

 1937年12月、中国の領土を『共栄圏』内に入れるために、新しい措置がとられた。この月に、日本側は北京に新しい臨時の中国の政府を樹立した。これについて公表された目的の一つは、この政府が統治する地域の産業を開発することであった。新政権を支持する目的でつくられた宣伝機関は、華北にある日本軍の統制下に置かれた。関東軍は、ソビエット連邦との戦争に対する関東軍の準備のために、この隷属地域が貢献するであろうと期待した。

盧溝橋事件後の国家的戦争準備に関する佐藤の演説

 佐藤少将は、1942年3月、陸軍軍務局長であったときに、以上に述べてきた事態の発展を広く調査する機会をもった。さきに言及しておいた演説で、すでに他の証拠によって立証されている結論を彼は確証した。

 中国における戦争を再び起こさせた盧溝橋事件は、生産力拡充五ヵ年計画の第一年度中に発生したと佐藤は指摘した。かれは次のように述べた。『私どもの最も憂えたことは、事変のために軍備拡張と産業五ヵ年計画が崩れはせぬかということであった。そこで、当時における私どもの心構えは、支那事変をして断じて、我が国の消耗戦に終わらしめざることであった。これがため、大体において予算でいえば4割を支那事変に、6割を軍備拡充に使い、鉄その他の重要資材からいえば、陸軍に配当せられたものの2割を支那事変に、8割を軍備拡充に使って来た。その結果、航空、機械化部隊等は大拡張を見、全陸軍の戦力は支那事変前の3倍以上に拡充されたのである。海軍は支那事変に消耗すること極めて少なく、一意整備拡充せられたと思う。もちろん軍需産業の生産力は大体からいえば7、8倍拡充された。

 これは、ある程度の権威をもって、佐藤が語ることのできる問題であった。なぜならば、1937年6月24日から1938年7月29日まで、かれは初めは企画庁の調査官であり、次いで企画院の事務官であったからである。同じ期間に、支那事変総動員業務委員会の特別委員及び陸軍省軍務局の課員として働いた。1938年12月に、かれは中央部職員の任務を解かれた。1941年3月に、帝国議会陸軍省所管事務政府委員、興亜院連絡委員会幹事、対満事務局事務官のような要職についた。右の演説を行なった当時も、かれはなおこれらの職務に就いていたのである。


内閣参議、大本営及び臨時軍事費

 上述の期間において、内閣に及ぼす陸軍の勢力を増大し、その長期計画を実施するための措置がとられた。『支那事変』によって生じた事柄に練達堪能な者を内閣の籌画(ちゅうかく、計画をめぐらすこと)に参与させるために、臨時的処置として、1937年10月15日に、内閣参議が設けられた。それぞれ国務大臣の待遇を受けていた12名の参議は、戦争のための国家動員の3つの主要な分野を代表することになっていた。実業家が軍人及び政治家とともに内閣の審議に参与し、進言することになっていた。松岡と荒木大将は、この参議制度が設けられたその日に、内閣参議に任命された。

 日本が中国との戦争に深入りするにつれ、近衛内閣の閣僚は、大本営の設置を討議し始めた。この機関は戦時または重大な事変の時だけに設置されるものであった。当時中国で行なわれていたところの、宣戦を布告しない、また戦争と認められていない戦争は、大本営の設置を正当とするかどうかについて、多少の論議があった。1937年11月3日に、陸軍大臣杉山と文部大臣木戸は、当時の時局の収拾について話し合った。1937年11月19日に、内閣はこの問題を審議した。広田、賀屋及び木戸は当時この内閣の閣僚であった。その翌日、大本営が設置された。

 これは陸軍省、海軍省、参謀本部及び軍令部からなる合同機関であった。陸軍部は参謀本部で、海軍部は軍令部で別々に会合した。しかし、1週1度か2度は、宮中で全体会議が開かれた。この全体会議は作戦用兵の問題に関したものであった。行政上の政策の問題は、内閣が内閣参議の助言を得て決定する事項であったが、作戦の指導は大本営が担当した。

 これは機密の保持をぜひとも必要とし、内閣が関与することのできない分野であった。大本営は天皇だけに対して責任を負い、その部員は、大本営の一員としての資格においては、陸海軍大臣の直轄のもとではなく、それぞれ参謀総長と軍令部総長の直轄のもとにあった。

 それから後の数年間に起こった諸事件で、大本営が演じた役割の重要さを示す証拠はほとんどない。大本営は連絡統合のよく行なわれなかった機構であって、とかくその構成部分であった陸軍部と海軍部にわかれがちであった。しかし、この大本営の設置ということそれ自身によって、軍部は時の内閣の承諾もなしに、また時には内閣の知りもしないうちに、重要な軍事事項を決定する権力を得た。

 しかし、それよりさらに重要であったことは、臨時軍事費を設けることに成功したことによって、軍が獲得した日本の財政に対する権力であった。この軍事費からの支出は、陸軍大臣、海軍大臣または大蔵大臣の許可に基づいて行なって差し支えなかった。これから後の何年にもわたって、このような支出は単に賀屋とその後任者の許可に基づいてだけでなく、陸軍大臣の板垣、畑及び東条と海軍大臣の嶋田との許可に基づいて行なわれた。

盧溝橋事件後における宣伝の統制と検閲の実施

 五相会議が1936年8月11日の国策決定で認めたように、かれらの計画は、究極においては、日本の『天命』を成就させようとする国民の覚悟にかかっていた。そのときに、国内政策は国策としての対外進出政策に役立つようにしなければならないこと、従って、『国内輿論を指導統一し、非常時局打開に関する国民の覚悟を強固ならしむ』る措置を講ずることをかれらは決定した。この決定が行なわれる前、1936年5月20日に、陸軍は動員計画を出した。それには、開戦の際に、世論を指導統制するために必要な手段が詳細に述べられていた。各省は日本国内各地に独自の情報宣伝機関を設けることになっていた。この年に、政府各庁による宣伝の実施を統括協調するために、情報部が設置された。

 盧溝橋事件が起こってから2ヵ月後の1937年9月に、この情報部は内閣直属の機関として機構の改革が行なわれた。1937年9月25日に、陸軍次官梅津中将がこの新しい内閣情報部の一員に任命された。新しい情報部の任務は、情報宣伝に関する陸軍の動員計画を実施することにあった。

 戦争勃発の結果として、直ちに起こったことは、当時すでに行なわれていた検閲の実施が一層厳しくなったことであった。日本政府の政策を批判するすべての者を監視していた特別高等警察は、もはや中国における戦争に反対を唱えることを許さなくなった。このような批判を抑圧することが内務省のおもな仕事の一つとなった。同省の管轄下にあった正規の警察は、その政策が実施されるように注意した。内閣の政策について公然と批評がましいことを言った者は逮捕され、尋問された。政策に反対したと認められた者は検挙され、投獄された。

 世論の統制は学校や大学で最もよく例証された。教授や学校の教員は、内閣の政策の宣伝と普及に満腔の熱意をもって協力するように要求された。平和の理想を是とする思想の表明、あるいは戦争準備の政策への反対は、峻烈に弾圧された。

 1937年10月22日に、木戸が文部大臣になると、かれは直ちにこれらの統制手段の実施に力を尽くした。国策に対して批判的であった教員は罷免されるか、辞職を強要された。かれらはまた、しばしば検挙され、治安維持法によって、日本帝国の政体に反対するという嫌疑で起訴された。このような弾圧手段が容易に実行されたことは、軍人、政治家及び政治評論家が、日本国民の世論を戦争へ導くことにどれほど成功したかということを示すものである。上述の教員の免職または辞職の強制は、当時国内問題とはならなかった。というのは、一般民衆はかれらを単なる個々の自由主義の支持者とみなしていたからである。


盧溝橋事件後において世論を戦争へ導くためになされた教育制度の利用

 盧溝橋事件が起こる前ですら、配属教官を通じて、陸軍はすでに諸学校における軍事教育や教練を監督していたが、中国で戦闘が始まると、これらの教官の支配力は、学校自身の経営を左右するほど絶対的なものとなった。教育は政府の目的に役立たなければならないということを文部省はよく承知していた。そして、1937年5月に、『国体の本義』という本を教員、学生生徒、及び一般国民に普及した。

 同じ年に、日本の学校制度を検討する目的で、教育審議会が設けられた。この審議会は、内閣の変更に煩わされずに研究を続け、また日本国民の特性をどのようにして発揮させるかということを審議することになっていた。この審議会は、特に学校における軍事教育と教練を促進するために設けられたものではなかったが、中国との戦争が起こってからは、それが任務となった。

 学校の課程と教授法の広汎な変更についての教育審議会の勧告が実行に移されたのは、1940年になってからであった。しかし、1937年には、審議会は国家を本とする奉仕ということをその根本目的として採択した。

 1937年10月22日に木戸が文部大臣に任命されると同時に、日本の学校制度の改革が実施され始めた。1937年から後には、教育は国民の好戦的感情を助長することを目的とした。学校の課程のうちで、純粋の軍事訓練に充てられた時間はもとより、普通の正規科目においても、皇道(皇道に傍点あり)の精神または超国家主義が学生に注入された。日本は強い国であること、また世界に対してその特殊な性質を現わさなければならないことをかれらは教えられた。大学でも、学校でも、軍事訓練と学校の教授の双方を通じて、日本は至上であるという思想が全国民に徹底するに至るまで、軍国主義の精神が教え込まれた。戦争は光輝あるもの、生産的なもの、そして日本の将来にとって必要なものであると説かれた。


木戸、1937年11月に内閣の危機をそらす

 1937年の後半期において、外務大臣広田は、自国の国民とドイツ国民の双方に向かって、中国との紛争は共産主義に対抗する闘争であると説明して、中国の征服について、ドイツの援助を得ようと努力したが、それは不成功に終わった。1937年11月6日に、枢密院はイタリアを防共協定への第三の協力者として参加させる新しい条約を確認したが、中国における日本の活動に対するドイツ側の不満は、少しも減らなかった。ドイツは中国に重要な利害関係をもち、また国民党をドイツの反ソビエット政策の将来の提携者と考えていた。従って、ドイツは敵対行為の存在を無視することにし、中国も日本も、宣戦を布告していなかったという理由で、厳正中立の規則に拘束されていないものと見ることにした。

 1937年11月に、近衛内閣は、中国における戦争の長びいたことから起こる諸問題によって苦しめられていた。物資や人力の莫大な消耗にもかかわらず、戦争はますます大きくなっていき、今や急速な勝利の見込みはなかった。国家の経済に負わされた甚だしい無理は、重大な財政上の困難を引き起こしつつあった。当時ブラッセルで会合中であった九国条約会議は、諸国の間に、日本の友邦はないということを思い出させるだけであった。1937年11月3日に、陸軍大臣杉山と文部大臣木戸は、時局収拾の方法について、意見を交換した。

 日本の陸軍は、ドイツ人と同様に、来るべきソビエット連邦に対する戦争のことばかり考えていた。中日戦争の困難があまりにも大きくなったので、参謀本部はこの戦争を終結させるために、ドイツの干渉を求めようとした。ベルリンの大使館付陸軍武官大島少将は、この目的のために、彼の信望を利用するように訓令を受けた。

 1937年11月15日に、総理大臣近衛が内閣の総辞職を考慮していると木戸に洩らしたとき、木戸はこの処置の結果として起こるかもしれない影響をいち早く見てとった。それが財界とその他の方面に不利な影響を及ぼし、為替が崩落するであろうとかれは考えた。これは転じて中日戦争の戦局に悪い影響を及ぼすものであった。内閣の辞職の結果は、国内の政治的事態を不安定にし、中日戦争の戦局を守勢に転ずることにもなるであろうと考えた。いずれにしても、かれが『ようやく本腰となれる』ものと認めた各国の非友好的態度は、強化されるであろうと考えた。このような成行きは、ぜひとも避けなければならなかった。

 1937年11月16日に、木戸はこれらの見解を近衛に力説し、かれがその地位に留まることを頼んだ。近衛は当分そうすることに同意した。4日の後に、大本営を設置することによって、中日戦争の遂行について、内閣は新しい決意を示した。

広田、中国征服を達成する内閣の決意を強化する

 しかし、1937年11月のこの同じ月に、もし内閣が中日戦争を終結させることを希望していたとしたならば、その機会はあった。日本の地位はまことに思わしくなくなっていたので、参謀本部でさえも、急速な勝利の希望を捨ててしまったほどであった。ドイツの不満という重圧を受け、ドイツ人仲介者を通して、外務大臣の広田は、1937年11月5日に、中国側に対する3回の和平申入れのうちの第1回の申入れを行なった。このようにして、開始された交渉は、1937年の12月から1938年の1月まで、引き続いて行なわれた。しかし、広田の曖昧な、変転する要求は、全然具体的協定の基礎にならなかった。交渉が行なわれている間にも、日本側は中国における攻勢を懸命に続けた。

 1月になると、どのような妥協的和平に対しても、内閣は反対するという態度を強化した。1938年1月11日に、『支那事変』の処理を決定するために開かれた御前会議は、もし国民党がどうしても日本の要求に屈服しないならば、これを潰滅するか、新興中央政権の傘下に合流させなければならないと決定した。

 日本の3回にわたる和平申入れの中の最後の申入れに対して、日本側の提案がさらに明確に述べられるようにと要請した和協的な回答を中国側は送った。日本側の提案は、広田の使嗾(しそう、指図してしむけること)によって不明確な形式で提示されたものであり、かれは今や中国がイギリスと合衆国から援助を得るかもしれないことをおそれていたが、中国の回答に憤慨した。1938年1月14日に、ドイツ人仲介者に対して、中国は敗者であって、速やかな回答をしなければならないとかれは述べた。日本としては、この問題が国際的の論議または仲介の対象となることを許さないと強調した。ドイツ人は、その本国の政府に通告するにあたって、かれらの意見では、日本が率直に行動していないことを明らかにした。

 この同じ日に、すなわち1938年1月14日に、近衛、広田及び木戸の列席した閣議で、日本はもはや国民党を対手(たいしゅ=相手)にせず、成立を期待されていた新しい中国政権だけと交渉するということが決定された。これはむなしい期待ではなかった。なぜならば、1938年1月1日に、すでに日本は相当な儀式を行なって、南京で新しい地方政権を発足させていたからである。1938年1月16日に発表された公式声明の中で、日本の内閣は中国の領土と主権との尊重を再び繰り返したが、これは今や日本がつくり上げた中国政府を指すことになった。この同じ声明は、中国にある列国の権益の尊重を約束した。

 1938年1月22日に、近衛も広田も議会でこれらの保証を繰り返した。他方で、日本政府は、1936年の国策決定に述べられている原則を堅持することを再び確言した。この議会に、総理大臣の近衛は、『申すまでもなく、日満支の強固なる提携を枢軸として東亜永遠の平和を確立し、もって世界の平和に貢献せんとするは、帝国不動の国策であります』と言った。紛争の前途は遼遠であること、また東亜の安定勢力である日本の使命はいよいよ大きくなったことをかれはつけ加えた。

 5日の後に、搾取と軍事的支配が真の意図であることが再び明らかにされた。1938年1月27日に、日本の後援している南京政権が中支臨時政府の中核をなすべきであることを内閣は決定した。それは『高度の連日政権』であって、漸次英米依存から脱却することになっていた。その海空軍は、日本の国防計画に包含されることになっていた。それは現存する北支の傀儡政府と『円満相投合する』ことになっていた。

 1938年1月26日に、東京のドイツ大使は、すでに日本は中国を占領するものと確信し、本国の政府に既成事実を容認するように勧告した。ベルリンの東郷大使は、ドイツ側に対して、日本が建設中の新中国における経済への参加という好餌をつけ加えて提供した。この日から後、中国を援助することと、中国に対する日本の企図に反対することをドイツは差し控えた。1938年2月20日に、ヒットラー総統は、長い間延び延びになっていた措置をとった。すなわち、ドイツが満州国を承認することと、中国で日本が勝利を収めた方がよいというかれ自身の希望とを発表する措置をとったのである。

 2ヵ月の間に、そして総理大臣は意気消沈していたにもかかわらず、木戸と広田は、万難を排して達成することになっていたところの、『東亜大陸における強固な地歩』の獲得に向かって、再び日本を乗り出させることに成功した。


陸軍、予期されたソビエット連邦との戦争に対する計画と準備を継続する

 1938年の初めの数ヵ月の間、内閣が中国の征服を遂げようという新しい決意をしていたときに、陸軍はソビエット連邦との戦争の準備を継続していた。1937年12月に、関東軍参謀長東条は、陸軍次官梅津に対して、ソビエット連邦に対する戦争の準備として、内蒙に気象観測所を設置するための一つの計画を通告していた。1938年1月12日に、梅津中将に対して、かれはこの工事を至急に完成する必要を力説した。『支那事変』とソビエットに対する戦略との双方に関して、かれはこの工事をきわめて肝要であると考えた。同時に、かれは在満部隊軍人の服役延期の問題を梅津に提案し、決定を求めた。そこで、1938年1月29日に、梅津はその措置をとることにしたと東条に通告した。1938年2月11日に、東条は梅津に対して、1938年、1939年の間に、ソビエットに対する築城施設を実施するための関東軍の計画を送付した。

 しかし、陸軍の注意は、純粋な軍事的計画と準備だけに限られてはいなかった。まさに中国で戦闘を開始しようとしていた関東軍の指導者は、この紛争も、日本の国内政策及び対外政策における他のいかなる部面も、差し迫ったソビエット連邦との戦いに関連して考慮すべき要因であると考えた。

 東条と梅津が詳細な軍事計画を定めていた間に、当時の関東軍司令官であった植田大将は、一層広汎な戦略問題に注意を向けていた。1938年1月24日に、華北の住民を最もよく『緊迫せる対ソビエット戦準備に資』せしめるために、華北を開発する方法について、かれはその意見を陸軍大臣杉山に通知した。

 満州国と華北占領諸省の経済と産業を開発するために、同じ期間中にとられた措置は、関東軍の計画と密接な関係があった。1937年12月20日までは、満州国内の一切の重工業の発展は、大『国策』会社の第一である南満州鉄道会社によって支配されていた。この会社は、松岡のもとで、この日から後、国内政策の実施について協力するだけでなく、ソビエット連邦との戦争に対する軍の作戦上と、その他の諸準備についても協力し、それによって、関東軍の戦争準備に重要な役割を引き続き演じた。

 しかし、南満州鉄道会社は、華北における戦略的な事態の発展に要する経費を賄うという財政的負担の増加に応ずることができなかった。そこで、1937年12月20日に、満州国の勅令によって、新しい持株会社が創設された。日本政府と満州国政府の協定に従って設立されたこの新しい『満州重工業開発株式会社』の手に、満州国内の諸産業の支配権が集中された。星野のもとにあった満州国総務庁は、この会社を支配し、またこの会社を政府の監督のもとに置く法律の起案に協力した。この新会社は、1938年の初めに設立された。

 満州国がドイツから承認された1938年2月から後に、満州国とドイツとの間の、いっそう緊密な関係を促進する計画を陸軍は立てた。両国の間に外交関係が樹立され、友好条約が調印された。1938年5月15日に、東条は参謀本部に対して、満州国ができるだけ早く防共協定に参加すべきだという関東軍の希望を表明した。1938年5月24日に、梅津は、日本の内閣は何も異議はないが、満州国の独立という擬制を維持することを希望すると回答した。満州国政府が最初の一歩を踏み出し、あたかも自己の意思によっているかのように行動し、日本の援助を要請することが最もよいと考えられた。

中国における日本の勢力の確立と戦争産業の開発

 この間に、日本軍が征服した中国の地域では、日本の『新秩序』が建設の過程にあった。1937年12月、南京が陥落した後に、日本の支配の下にある各種の地方政府が樹立された。1938年3月28日には、満州国の型に倣って、華中の新政府が樹立された。名目上独立の『中華民国維新政府』は、その組織大綱によって、その治下の地域の資源を開発し、産業の発展を促進することになっていた。さらに、防共の措置はとるが、対外親善関係の維持をはかることになっていた。華北の場合と同様に、この傀儡政府を援助するために、新しい宣伝団体が組織された。

 政府発行の『東京ガゼット』は、日本の中国に対する関係が新段階にはいったことを布告した。これは八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の目標に向かって前進したことを示しているから、深い意義を有することである。『全世界を一家族として』という理想は、常に日本の国内政策と対外政策の根本をなしていること、それは当時採用されていた中国に対する政策を説明するものであることが宣言された。

 この記事は、近衛と広田とが議会で行なった政策表明の趣旨に忠実に従ったものであった。日本の第一の目的は、中国が抗日の態度を放棄するであろうということを期待して、中国を『徹底的に膺懲』することであった。1938年1月に、日本の内閣は、爾後国民党を相手にしないという不退転の決意を表明し、また華北と華中の新興政府の発展に助力するということを表明した。この記事はさらに続けて、日本の現在の行動の究極の目的は、東アジアの平和と安全を脅かす紛争の一切の根源を除くことであると述べた。このようにして、東アジアの諸国が、かれら自身の間で、『共存共栄の理想』を享受することができるというのであった。

 この方法によって、日本は軍需資源を生産し、戦争産業を拡張する新領域を獲得した。1938年4月8日に、日本側が出資する新会社が長江流域の鉄鉱を開発利用するために発起された。

 1938年4月30日に、2つの新『国策』会社が創立され、満州国で同様な会社が行なったと同じ目的を中国で果たすこととされた。すなわち、北支那開発株式会社と中支那振興株式会社とが、中国における占領地域の重工業の発展を助長するために設立されたのである。両会社の資本金は、日本政府が半額を出資した。陸軍次官梅津中将は、両会社の創立委員会の委員に任命された。近衛は、この2つの会社の仕事は、大陸における日本の軍事行動と政治的活動との双方にとって緊要なものであると考えた。


1938年の広田外交政策は1936年8月の五相会議決定に基づいていた

 中国におけるこれらの事態は、1936年8月11日の国策の基準に関する決定の目標を固執した外務大臣広田の政策を反映していた。ソビエット連邦との戦争が近づきつつあるという形勢に陸軍がまったく気をとられ、ドイツを同盟国として当てにしていたときに、広田はもっと広い、もっと慎重な見解をとっていた。大陸における進出を成就すること、それと同時に、その進出が結局はもたらすような一切の紛争に対して、日本の準備を完成することを、かれはもっぱら目指していた。

 1938年5月29日に、広田は外務省を去った。しかし、その少し前に、華北の経済的開発にドイツとイタリアが参加するについての原則を定めた。第一の、また不変の目的は、日本の東亜『新秩序』の建設であった。そして、枢軸諸国との関係も、西洋諸国との関係も、かれらに与えられた公言や誓約によってではなく、もっぱらそのときの便宜ということに従って決せられることになっていた。

 ベルリンの東郷大使は、ドイツ側の援助を懇請するように訓令された。東亜における日本の特殊な地位をドイツが認めることに対する代償として、日本はドイツを他の諸国の占めていた地位に劣らない地位に置くように努力しようとかれは提案することになっていた。できるならば、他の諸国の事業よりも、ドイツ側の事業に優先権を与えることになっていた。原則として、ドイツと日本とは、中国の市場において、同等の地位を占めることになっていた。――ただし、ある点では、中国の通貨制度の維持に対して実際に責任をもつ国として、日本が特殊な地位に立つことはあるかもしれなかった。それでも、輸出入管理制度を設ける場合には、他のどの第三国の利益よりも、ドイツの利益にもちろん優先権を与えることになっていた。

 従って、広田には、西洋諸国の条約上の権利を尊重する意思はなく、またそれを保護するという自分の保証を実行する意思もなかった。しかし、用意周到に、かれの部下に対して、ドイツやイタリアに与えた優先的取扱いによって、イギリスと合衆国が将来中国の経済発展に参加することがまったくできなくなるおそれがあるならば、ドイツとイタリアには、日本が占めると同等な優先的地位はもとよりのこと、これより劣る優先的地位であっても、それを認めてはならないと警告した。従って、ドイツの参加について定められた方式は、日本自身にとって最も有利なものに事実上限られていた――すなわち、特定の事業の経営に参加することにして、資本を供給し、また信用貸しで機械類を供給することであった。

盧溝橋事件後における日本と西洋諸国の関係の悪化

 この偽瞞政策にもかかわらず、外務大臣広田は、西洋諸国との親善関係の維持という第二の目的を達成しなかった。1937年の後半において、日本の政治家は、日本は中国領土にどのような野心も持っていないと否定し続けた。外国人と外国財産は保護され、外国の条約上の権利は維持されると内閣は繰り返し保証を与えた。しかし、これらの公言と、アジア大陸における日本の活動の性格とには、あまりに大きい食い違いがあったので、日本と欧米諸国との間の不和は目立って大きくなっていった。

 しかし、それでも、西洋諸国の疑惑と忿懣を和らげ、また日本と枢軸国との提携の意義を小さく見せようとする努力が払われた。1937年12月に、『東京ガゼット』において、防共協定はどの特定の国家も対象とするものではないと公言された。この協定が曲解されていて、不当な非難を受けていると内閣は不満を漏らした。

 この期間に、中国における日本陸軍部隊の行動は、日本と西洋との疎隔を大きくするのに役立つばかりであった。抗議も頻繁に行なわれ、保証も繰り返し与えられたにかかわらず、中国にあるイギリスとアメリカの市民と財産に対する攻撃は続けられた。陸軍が西洋諸国との友好関係をほとんど尊重しなかったので、1937年12月には、イギリスとアメリカの海軍に対して、理由のない攻撃が加えられたほどである。揚子江上にあった一隻の合衆国の砲艦が砲撃され、沈没した。イギリスの砲艦にも、またイギリスの商船にも、攻撃が加えられた。これらの挑発行為は、南京付近にはいってくる一切の艦船に対して、その国籍にかかわらず、攻撃を加えよという明確な命令に従って、現地の軍の指揮官、特に橋本大佐によって行なわれた。

 近衛も広田も、1938年1月22日の議会における施政方針演説で、日本の西洋諸国との友好関係を増進する希望を再び強調した。中国にある西洋諸国の権益は、最大限度まで尊重するという明確な保証を広田は重ねて与えた。ところが、1938年の最初の6ヵ月の間を通じて、東京の合衆国大使が広田に引き続き抗議を申し入れたにかかわらず、日本陸軍の諸部隊は、中国にあるアメリカ権益をたびたび理由もなく侵害した。

 この敵意の表明によって、日本は甚だしく不利をこうむった。なぜならば、1938年6月11日に、日本向けの航空機とその他の武器の輸出に対して、合衆国が道徳上の輸出禁止を課したからである。

 広田は軍部指導者よりも抜け目がなかった。かれは日本の戦争準備の期間中における西洋諸国の援助の価値を知っていた。従って、友好精神の虚偽の保証と虚偽の表明によって、かれはこの援助を獲ようと努力してきた。しかし、同時に、日本は太平洋における戦争の準備を整えつつあった。そして、日本の戦争準備の右の部面を促進することについて、広田は顕著な役割を果たしつつあった。


1938年における海軍の準備と委任統治諸島内の準備

 外務省と海軍省が保っていた秘密の蔭に隠れて、1938年を通じて、南洋委任統治諸島を要塞化し、これを航空と海軍の基地として施設することによって、日本は太平洋における戦争の準備を続けた。1937年までは、これらの準備は、ほとんどマリアナ群島と西カロリン諸島だけに限られていた。しかし、この年に、海軍の監督のもとに、構築作業は太平洋を東の方に横切り、トラック環礁にまで及ぼされた。1938年には、マーシャル群島で工事が始まった。この群島は、中部太平洋のうちにあり、西洋諸国との戦争で日本の最前進基地となった。この時から、マーシャル群島で飛行場を建設し、これに防御工事を施す仕事は、相当緊急を要するものとして推進された。秘密のうちに、しかも条約上の義務に違反して、広く散在する委任統治諸島の全地域にわたって、今や進行しつつあったこの工事は、西洋諸国の一部または全部に対して行なわれる太平洋上の戦争の準備ということ以外の目的とは、両立しないものであった。

 海軍軍縮のための国際協定から日本が脱退したことにかんがみ、1936年に、合衆国は大規模な建艦計画に着手した。1938年には、その前の年に始められた大計画を日本はそのまま続けていたのではあるが、その建艦率は、間もなく合衆国の建艦率に追い越されてしまった。1939年より後は、アメリカの建艦量は日本よりも相当に大きかった。

 この海軍軍備拡張の競争は、アメリカが好んでしたものではなかった。1935年のロンドン海軍会議の合衆国代表は、協定不成立の結果はこのようなことになるであろうと日本側に警告していた。1936年に、合衆国、イギリス、フランス及びイタリアの間に調印された新しい条約は、日本の参加の途を残しておいた。しかし、1937年に、太平洋において日本に海軍力の優位を与えない限り、どのような条件に対しても、日本は同意することを重ねて拒絶した。1938年2月に、近衛内閣は、競争的な海軍軍備拡張を防止しようとするアメリカの最後の招請に応じることを拒んだ。


広田、海軍情報の交換を拒否する

 日本が参加しなかった1936年の条約の結果の一つは、主力艦と巡洋艦に許される最大限の排水量を決定し、それに装備し得る砲の口径を制限したワシントン条約の規定を更新したことであった。しかし、この規定は、非加盟国の無制限な建艦に対抗して、エスカレーションの権利を条件としたものである。1937年11月4日に、口径18インチ砲を搭載するために設計された六万四千トンの主力艦『大和』の龍骨を日本は据えた。

 1938年2月には、日本が1936年の条約の制限を超えて建艦しているという噂が続いたので、合衆国に憂慮を与えていた。そこで、この件について、合衆国は日本の注意を喚起し、日本が同条約の制限を遵守しているという満足な証拠がなければ、合衆国は条約によって与えられたエスカレーションの権利を行使すると言った。しかし、1936年に他の海軍国の定めた制限を超えることを日本があえて選ぶならば、日本の建艦計画に関する情報を受領した上で、合衆国には、自国と日本との間に、新たな制限について協議する用意があるというのであった。

 この提議は、交渉することも、情報を与えることもしないという真っ向からの拒絶に会った。1938年2月12日に、外務大臣広田は政府の回答を行なった。日本は他国を脅威するような軍備を所有する意図をもっていないとかれは言った。日本政府は、情報についてのアメリカの要請に応ずることはできないが、日本が1936年の条約に規定された制限を超えて建艦計画を企図していると、なぜ合衆国が結論するのか、その理由がわからないというのであった。この通告が行なわれてから2週間以内に、日本では第二の六万四千トンの主力艦の龍骨が据えられた。


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