歴史の部屋

広田政策は基本国策決定の言葉の中に示されている

 外務大臣としての広田の政策は、合衆国とのこの折衝において明白に示された。1936年8月11日の国策決定は、日本が『英米にも備え』なければならないこと、海軍軍備は、合衆国海軍に対して、西太平洋の制海権を確保することができる程度まで整備充実することを定めていた。広田は総理大臣としてこの決定に参加したのであるが、かれはこの決定に終始忠実であった。中国における日本の目的に関してと同様に、日本の建艦計画に関しても、かれは自己の目的を達成するために欺瞞に訴えることを躊躇しなかった。友好的外交関係の蔭に隠れて、日本の戦争準備を完成するのがかれの政策の基本的原則であった。

 広田の外交政策の個々のおもな特徴は、陸海軍によって起草された国策の基準に関する決定の中に見られる。その中で、日本は満州国におけるその地位を固めると同時に、日本の国力の充実を期さなければならないということが述べられている。日本は大陸から『列強の覇道政策』を排除し、『共存共栄主義』に基づいて、日本みずからその秩序を確立することが日本の目的ということになっていた。しかも、日本は『根本国策の円満なる遂行につとめ』、『列国との友好関係に留意す』ることになっていた。

 わけても、『外交、国防相俟って東亜大陸における帝国の地歩を確保するとともに、南方海洋に進出発展する』という根本の目的に、広田は忠実であった。総理大臣近衛の、中国の征朊を完成する決意が動揺したときに、広田はこの上変の目標を追求するように内閣の結束を固めた。


日本の占領地の経済的支配と開発

 1938年1月は陸軍の長期の経済と産業の計画が復活した月である。なぜならば、この月に、1938年度に限定された産業拡充と経済統制の新計画を企画院はつくり、閣議の承認を得たからである。

 内閣企画庁は、1937年10月に改造された後《このときに企画院と改称された》、陸軍と緊密な関係を保った。1937年11月26日に、陸軍次官梅津中将は企画院の参与に任命され、当時軍務局の課員であった佐藤中佐はその事務官になった。企画院の1938年度の計画は、戦争産業の拡充と重要物資の需給規制に関するものであった。

 1938年1月に、他の戦争への準備を続けながら、中国の征朊を完成する近衛内閣の新たな決意は、大蔵大臣賀屋に新しい負担を加えた。労働力と物資についての陸軍の要求は、日本の産業の生産物と、それを生産する人員とを吸収した。戦争と戦争産業の拡充とに要する支出は、急速に増加しつつあった。その結果として、必要な輸入品の支払いをするために外国為替を獲得するについて、日本は非常な困難を感じていた。

 満州国と中国の占領地域における天然資源の確保と開発が捗れば、他国からの輸入に依存するのをある程度まで軽減することに役立つであろう。合成工業を拡充することは、その第二の部分的な解決法であった。しかし、その反面で、これらの計画は支出の増加を必要とし、その拡充の期間中、輸入依存を続けることを必要とした。1938年1月18日に閣議で採択された企画院の計画は、この年度の輸入割当を徹底的に削減した。この削減は、平常の国内供給だけでなく、戦争準備になくてはならないものと考えられていた物資の輸入までも削減することを必要とした。そこで、経済的と財政的の統制について、新しい施策が必要とされた。

 内閣の採用した解決策は、日本の開発していた領土の被征朊住民を犠牲にして、日本国民の財政的負担を軽減するように立案されていた。これは何も新しいことではなかった。台湾銀行と朝鮮銀行がそれぞれ台湾と朝鮮で事業を営む商社の大多数を所有することによって、また政治的な支配力によって、日本は台湾と朝鮮の経済を長い間支配してきたのである。同様の方法は、満州国でも用いられた。産業開発の資金を得るために、1936年12月に設立された満州興業銀行は、その払込資本の15倊まで社債を発行することを許可されていた。日本によって管理されるこの銀行によって与えられた便宜は、満州国の戦争産業の開発に対する融資を容易にした。

 いま、近衛内閣は、中国でも同様な開発を計画した。1938年2月に、満州銀行と同じ方式に基づいて、『中国連合準備銀行』が設立された。この新しい銀行の総裁と副総裁は、日本政府によって任命され、その幹部は主として日本人であった。この銀行の活動範囲は華北であり、その地域内では、この銀行の発行した通貨だけが法定通貨であった。中国連合準備銀行は、通貨制度の安定と金融市場の統制とをはかるためにつくられたのである。優先的クレジットの供与や外国為替の操作のような方策によって、この銀行は華北の経済的と産業的の開発を大いに促進し、日本政府の同地域における産業計画を実施するための機関となった。

 これらの産業計画は、すでに実施されつつあった。そして、日本側が進めていた新しい戦争産業は、華北の経済に対する日本の支配を確立するために、それ自身重要であった。満州国においては、産業上の支配は、特別法によって設置された『国策会社』という方策によって達成された。いま、1938年の上半期において、それと同じ方策によって、中国の占領地域の産業の支配を日本は徐々に獲得していたのである。

 中国連合準備銀行は、1938年3月に、営業を開始した。同じ月に、1935年11月以来日本と満州国を含んでいた『円ブロック』が拡大されて、華北を含むことになった。この手段によって、日本の投資と中国産業の開発との途が開かれたのである。

 日本の通貨の価値を維持するために、占領地域で日本銀行券を使用するという慣行が中止された。中国連合準備銀行は華北に新しい通貨を与えたが、華中と華南では、無価値な軍票だけが法定通貨として許された。このようにして、日本は大陸の資源を掌中に収めながら、日本がすでに占領していた領土の住民を犠牲にして、自己の戦争経済を支えたのである。1938年9月までには、正貨の裏づけのある日本銀行券を使用するという慣行は、日本の支配下にあった大陸のすべての地域において中止された。

 このようにして、大蔵大臣賀屋の日本経済に対する支配も固められた。1937年9月以来、日本銀行を通じて、かれは日本の財政に対して完全な支配を行なった。この銀行の資金は、アジア大陸における日本の冒険的な諸活動に対して、もはや無統制に浪費されるものではなくなった。このような保護のもとに、これらの資金は、日本政府の補助金と統制によって、日本自身の戦争産業を拡充するために、1938年の最初の4ヵ月間に講ぜられた新しい施策を支持するのに用いられた。

産業上の準備――人造石油と石油工業

 近衛内閣は、その財政難にもかかわらず、日本の戦争物資の自給自足を確保する覚悟であった。そうするために、どんな犠牲が生じようとも、その覚悟であった。企画院の1938年度の中間計画は、物資動員計画を含んでいた。また、この年の最初の4ヵ月に、日本内地の戦争産業を助長し、拡充するために、新しい措置が講じられた。このような新しい措置の一つ一つは、産業の拡充に対する政府の統制を強める効果をもっていた。そして、それぞれそれらに対応するものが1937年の陸軍の五ヵ年計画のうちにあった。いずれの場合にも、財政上の増大した負担を引き受けることによって、陸軍が戦争準備に上可欠のものと指定した諸産業を政府は、急速に拡充しようと企てた。

 最初にとられた措置は、1937年の後半期に始められた人造石油工業の保護と開発を目的としたものであった。陸軍の五ヵ年計画で、日本が輸入に依存する程度を軽減することができるように、陸軍はこの産業のために徹底的な助成金政策を実施することを決定していた。一つの特殊会社がこの新産業に必要な機械の製造を確保することになり、その間に、工業設備がドイツから輸入されることになった。ディーゼル油と航空用ガソリンの生産に大きな重点が置かれた。人造石油産業の拡充には、満州国の石炭資源が利用されることになった。代用燃料の発見を奨励し、隠れた新しい資源を国内で試掘することになった。資金の充分な供給を確保し、この非経済的な未発達の産業の発展を促進するために、新しい会社が設立されることになった。

 中日戦争が発した後に、直ちにこれらの計画は実行に移された。そして、1938年1月に、人造石油の生産を統制し、政府の融資を可能にする手段を設けるために、大資本を擁する新しい会社が法律によって創設された。それはちょうど陸軍が計画していた通りの会社であった。

 1938年3月に、すべての埋蔵鉱物資源の開発を促進することを目的とした法律に基づいて、政府は試掘を統制し、助成金によってこれを奨励し、さらに政府自身の責任で試掘業を起こすことさえできる権力を握った。

 同じ月に、企画院の進言に基づいて、民間の使用に廻される石油の量を制限するための配給制度が採用され、続いて、代用燃料の生産を奨励するために、新しい国策会社が創立された。油と石油の保有量に大いに重点が置かれたので、政府はこの新会社を通じて、より効率の少ない代用燃料の生産と使用に関する実験に助成金を与えたほどであった。

 1938年の輸入量は1937年のそれより少なかったけれども、また中国における戦争の要求があったにもかかわらず、1938年の日本の油と石油の保有量は増加の一途を辿っていた。


その他の産業上の戦争準備

 1938年3月と4月は、産業関係の法令の制定の月であった。これらの法令を通じて、陸軍の計画は実現された。国家の支持に依存し、内閣の統制に朊した新しい産業階層は、日本の政治組織の確立の特色となった。各産業を究極的には閣僚のうちの誰かの統制のもとに置くことによって、戦争のための国家動員の指導について、内閣はさらに大きな責任をとるようになった。

 電力事業は最初に影響を受けたものの一つであった。他の戦争産業の発展は電気事業の拡充発展に依存していたので、この事業は日本の戦争準備にとってきわめて重要なものであった。従って、陸軍はその1937年計画の中に特に電力事業を取り入れていた。また、その満州国工業化の計画でも、これに特別な優先的地位を与えていた。陸軍は新しい国策会社を設け、この会社が政府の監督のもとに日本における電力の生産を統制し、軍の要求を充たすに必要な方法で、その拡充を促進することを考えていた。この計画は、1938年3月の電力統制法によって、実行に移された。

 電力の生産と供給は、この時までは多数の企業によって経営されていたが、この新しい法律によって、すべての主要な会社は、それぞれの発電施設の管理を一つの新設国策会社に移さねばならなかった。この新会社は政府の直接管理下に置かれ、免税、補助金及び政府保証という通例の特権をすべて与えられた。

 1938年3月には、さらに、陸軍が戦争資材の中で最も重要なものとしていた航空機の生産を指導し、奨励するための法律が通過した。この新しい法律によって、一部の航空機生産工場は政府の直接支配下に置かれ、すべての工場は国家の許可を受けることが必要となった。この工業の金融難を緩和し、それによって、その急速な拡充を確保するために、いつもの措置がとられた。

 しかし、航空機工業の拡充は、これまたアルミニウムの供給の増加に依存していた。というのは、日本の航空機とその部分品の7割以上がこの金属によってつくられていたからである。従って、1937年の五ヵ年計画は、軽金属工業の拡充に重点を置いた。これらの工業は、電力を安く供給し、それらの製品に対する一般的需要の範囲を拡大することによって、奨励されることになっていた。これらの新工業は、戦時には、直ちに航空機とその部分品との生産に転換されることのできるようになっていた。

 1932年までは、日本には、アルミニウム工業が全然なかった。しかし、1936年には、その生産はすでに相当な額に達し、その翌年には倊加していた。1938年4月28日には、新しい軽金属製造事業法が『国防調整に』貢献するという公表された目的で通過した。これは今ではよく知られている免税、輸入税免除、補助金及び保証の制度を制定したものであった。この産業に従事するものは、すべて許可を受けなければならなかった。政府は生産技術も、生産される物品の選定も統制することになっていた。このようにして、戦時転換という目標が考慮に入れられていた。

 1938年3月中に、非常に重要な、もう一つの法律が制定された。これについては、石油産業に関連して、すでに述べておいた。同月に制定された重要鉱物増産法は、ほとんどすべての鉱業運営を政府の直接の統制の下に置いた。収用という威嚇のもとに生産が要求され、非経済的な事業の開発から生じた搊失には補助金が与えられた。鉄(iron) 、鋼(steel) 、石炭、石油及び軽金属工業に影響を与えたこの法律は、限界線以下にあった多数の生産者を業界に進出させ、非常な政府の支出を生じさせた。経済的危機の時期にありながら、日本がこのような施策に乗り出したということは、日本の戦争準備の達成のためには、内閣が他のすべての考慮を犠牲にする覚悟であったことを示す最も明白な証拠を提供するものである。

陸軍、国家総動員法を準備

 この大量の新しい法律は、政治的事件を伴わないで制定されたものではなかった。1938年2月に、中国を屈朊し、さらに他の戦争のために日本の準備を完成させる決意を強化した近衛内閣は、立法府で新たな反対に直面した。議会のある一派は、内閣を強制的に辞職させることを要求していた。いま一つの派は、内閣の産業立法の計画に対する反対を電力法案に集中した。この一派は企業家自身の支持を受けていた。これらの企業家は、日本が長い間戦争をしてはいないだろうと信じ、非経済的な産業拡張について、内閣が計画している諸方策は、結局かれらの搊失を招くものではないかと心配していた。議会内の第三の一派は、陸軍の計画の遂行にあたって、内閣に熱意がないと非難していた。

 かような状態のもとで、戦争のための動員の全計画は危険に陥った。莫大な量の物資が費消されていたし、これを直ちに補給する見込みは全然なかった。ちょうどこの時期において、ソビエット連邦と早く戦争をするために、陸軍はその計画を定め、軍事的準備を完了しようとしていた。陸軍の首脳者は、戦争は長期にわたるであろうということをよく知っており、中国における戦闘が続行されている間にも、戦争資材の貯蔵量をさらに蓄積しなければならないという決意を頑として動かさなかった。

 広田内閣が就任してから2年近くの間に、戦争のための国家的動員について、陸軍はそのすべての面を計画し、促進していた。同じ期間を通じて陸軍次官の職にあった梅津中将は、今や戦争産業の拡張と編制のための陸軍の計画の進捗について、以前よりももっと緊密に関係するようになった。かれはその職に伴う職務を他に数多く兼任していたが、その上に、1937年11月26日に企画院の参与となった。同院の事務官佐藤中佐は、陸軍省軍務局の課員であった。

 陸軍がそのときつくった計画は、その前の2ヵ年の画策と成果のすべてを反映していた。梅津が陸軍次官になって間もなく、1936年5月20日に、陸軍省整備局は戦時における情報と宣伝を統制するための計画をつくった。そして、1938年の初期には、この局はさらに新しい案を立て、戦争のための国家動員に関するあらゆる面を遂行するに必要な権力を包括的に内閣に与えようとした。この陸軍の案は、『国家総動員法』草案という形式になっていた。この案が法律になれば、議会は内閣を支配するどのような権限も放棄することになるのであった。この法律によると、内閣は勅令によって立法をすることになるのであった。一度制定されれば、この新しい法律の諸規定は、内閣の欲するいかなる時期にでも、発動させることができた。

 総動員法は、陸軍の軍事的準備の成功のためばかりでなく、企業家が協力するように充分な奨励を受け、結局において蒙る搊失に対して補償を与えられるためにも必要であった。これらの考慮の一つ一つが佐藤にはよくわかっていた。


1938年2月の政治危機と動員法の制定

 議会で起こった事態は、1937年1月に、林が総理大臣として広田の後を継いだときに生じた事態とよく似ていた。どちらの場合にも、陸軍の企画に従って、内閣は産業の拡充と統制に関する大規模の措置を実行に移すことにあたった。どちらの場合にも、この目的の達成に必要な法律は、議会で強硬な反対を受けた。どちらの場合にも、陸軍を支持する者は、企図された変更がまだ充分徹底的なものでないと考え、政党と既存の議会制度とに攻撃を集中した。

 政党に対するこの上満は、新しいものではなかった。これは、軍が最高の地位を占めなければならないと唱えていた者が、かれらの計画に反対されるたびに、表明してきた立場であった。すでに1931年3月に、橋本は、当時陸軍の忿懣を買っていた議会はこれを撲滅しなければならないという信念を述べた。1932年1月に、政党制度を『明朗な新日本建設のために』打倒しなければならない危険な非国民的機構であるとかれは称し、政党の即時解消を唱道した。1936年12月、政友会が広田内閣の最初の産業動員措置を非難したときに、これと同様の意見が軍部側から表明された。いま、1938年2月には、近衛は、かれの内閣に反対であるという点だけで一致している議会と対立し、1937年1月に広田内閣が崩壊したときと同じ危険にさらされていた。

 この板ばさみに遇って、内閣は陸軍の案を採用した。1938年2月24日に、総理大臣近衛は、国家総動員法案を制定するために、これを議会に提出し、それを支持するために演説をするように、佐藤を指吊した。このために、困難な、また微妙な立場に置かれたということを佐藤はみずから説明している。同法案が可決されるか、否決されるかということに、企業家の好意がかかっていた。この企業家の援助がなければ、国家動員計画はとうてい達成できないのであった。この法案を擁護する任務を与えられることを佐藤は、熱心に希望した。議会に出席していた者のうちで、この法案の意味を説明することができるのは、かれ一人であった。その際行なわれた説明のうちで、自分の説明が最も力あるものであったとかれは心から思った。その結果として、議会内の反対は押し切られ、この法案は法律となった。

 近衛は、陸軍の案を自分のものとして採用することによって、かれを陸軍の方策遂行に充分な努力を欠いていると非難していた一派の批判を沈黙させた。内閣の立場は強化され、産業計画の承認が保証された。陸軍は企業家の支援を得、戦争のための全国的動員の進捗に対する新しい脅威を取り除いた。

 その上に、日本における完全な政治的制覇の達成に、陸軍はさらに一歩を進めた。軍部の熱望を達成する上に、潜在的な危険であると軍部が常に認めていた議会は、今や束縛されてしまった。この法律を通過させることによって、戦争と戦争準備に関連した内閣の諸案に対する支配力を、立法府はこのようにして自分から剥奪してしまった。このとき以来、議会にはからずに、内閣はこの新しい法律が付与した広汎な立法権と行政権を行使することができるようになった。

国家総動員法と国策の基準の決定との関係

 1938年5月5日に、勅令によって効力を発した国家総動員法は、各国における戦時緊急法令の型に倣ったものであった。これは表向きは単に中国における戦争の遂行を促進するために企てられたものであったが、経済的と産業的の拡充のための一般計画を促進させるにあたって、内閣のとる措置に法律上の承認を与えることに完全に利用された。

 この法律は、どのような種類の製品、原料、事業にも及ぶように、適用範囲を拡げられることができた。物資を徴発し、産業と会社を統制するために、事実上無限の権能をそれは内閣に与えた。その規定によると、政府は土地や建築物を徴発し、補助金や補償金の支払いを許可し、安定策を施行し、情報の公表を阻止し、日本国民の職業に関する訓練と教育を指導することができた。わけても、政府は国家の労働力を管理し、徴用することができた。この法律が制定された当時、近衛内閣には、外務大臣として広田、大蔵大臣として賀屋、文部大臣兼厚生大臣として木戸が列していた。

 総動員法の規定は、日本の戦争準備の多面性と総括性を顕著に示すものである。それは単に軍事的または経済的な準備だけの問題ではなかった。戦争能力を最大限度に発揮させるために、国民生活のすべての面が命令され、統制されるのであった。日本の全国力は、この唯一の目標に向かって集中され、増強されるのであった。国家総動員法はこの目標に達するための手段を与えたのである。

 この措置は、1936年8月11日に決定された国策の基準に似たものであった。その当時決定されたのは、日本の国内政策は基準計画に従って立てられるということであった。五相会議の承認した言葉で言えば、それは『わが国家の基礎を内外共に強化する』ことであった。そのために、国民の生活を保護し、国民の体力を増強し、国民の思想を指導するような措置がとられることになった。対外進出と領土拡張の計画によって疑いもなく促進されるところの、『非常時局打開に関する』国民の覚悟を強固にすることになった。


陸軍、動員法の目的を説明

 1938年5月19日に、すなわち、国家総動員法が実施されてから2週間の後に、陸軍はこの法律の目的について注釈を日本の新聞に発表した。内容の全部はまだ発表することはできないが、国防に対する動員法の関係を大衆が理解できるように、この法全体の精神と本質とを解釈しようとするものであると説明されていた。それによれば、日本は国土が狭く、天然資源に乏しい。日本は中国で蒋介石大元帥の頑強な抵抗を受けているばかりでなく、北方では完全に動員され、また侵略を決意しているソビエットの陸軍と相対している。その上に日本は合衆国とイギリスとの強力な海軍によって包囲されている。このような理由によって、日本の国防計画には、大きな困難が伴っている。というのは、日本の国防は今やその基地を自国の沿岸ばかりでなく、満州国、華北及び華中の国境にも置いているからである。

 日本の国民は、これらの国境線を保持するためには、長期にわたって固い決心と真剣な努力とが必要であると警告された。物的と人的のあらゆる資源を最大限に動員するのでなければ充分でない。軍事上の成功は、主として『総合国力』の組織的な、有効な動員に依存する。国家総動員法は、実に以上の目的を達しようとして計画されたものである。

 説明の残りの部分は、『総合国力』の実現は何を必要とするかということを日本国民に知らせるために費やされた。第一の要素は精神力である。なぜならば、国民自身が戦力の源だからというのである。教育施設や宣伝機関を統一された運動に動員し、それによって、国民の闘志を盛んにするために、できる限りの努力をするのであり、このように闘志を盛んにすることによって、国民はどのような艱難辛苦にも耐えることができるようにするというのであった。

 労働力の需給を調整するために、人力の動員が行なわれるというのであった。それは青年が召集されたので、かれらの工場における職場を補充されるようにであった。戦時経済へのこの移行は、職業訓練と労力管理に対する政府の計画を必要とするのであった。

 人力以外の、物的資源の動員に関する諸計画は、事態の展開を正確に予測していた。その初期の進展は、すでに述べて置いた。まだ時間の余裕がある間に、陸海軍用の莫大な量の資材を海外から入手することになっていた。国内における軍需資材の生産は、平和産業を犠牲にして増大されることになっていた。従って、輸出入とともに、あらゆる生産企業は政府管理のもとに統一されることになっていた。

 政府はまたあらゆる金融上の信用を統制することになっていた。政府はあらゆる輸送機関を統一し、拡充することになっていた。能率が上がるように、政府は科学を動員することになっていた。日本において士気の昂揚をはかり、世論を統一すると同時に、諸外国における対日世論を有利に導くために、国内及び外国における情報の収集と宣伝の弘布について、政府が責任を負うことになった。

 総動員の種々の必要に備えるために、政府はさらに、長期にわたる柔軟性のある計画を用意することとなった。それによって、陸海軍は軍需品を常に充分供給されるようにした。民間の企業は、樹立された計画に従わなければならなかった。統制は議会に付議されることなく、便宜上勅令で実施されることになった。国家総動員審議会や種々の半官的機関が、動員法実施のために、創設されることになった。これらの機関といくつかの自治機関は、内閣政策の樹立と実施について、政府を援助することになった。

陸軍は今や日本を戦争のための国家総動員のもとにおくことに成功した

 いま終わりになろうとしている期間において、陸軍はみずから日本の運命の支配者となっていた。そして、陸軍の扇動によって、国民は軍事力拡充による勢力拡張計画に乗り出したのであった。

 外務大臣広田がさきに総理大臣として在任していたときに、陸軍の諸計画が国策として初めて立てられたのであるが、かれは1938年5月の末に内閣を去った。そのときに、広田の仕事に対して、長い間補足的な役割を果たしていた梅津中将も、その職を辞した。1936年3月23日に、梅津は陸軍次官になったのであるが、それは広田が総理大臣であったときで、国策の基準を決定した重要な五相会議以前のことである。林と近衛が総理大臣であった期間、かれはその地位に就いていた。

 広田と梅津は、近衛内閣とそれ以前の諸内閣との間で、最も重要な鎖をなしていた。というのは、陸軍の計画が着々と発展し、達成されたという点で注目すべき期間において、どちらも重要な地位を占めていたからである。陸軍の詳細な計画は、次ぎ次ぎに容認され、遂には日本国内のすべての反対が除かれてしまった。

 日本の陸海軍は、絶え間なく拡張されていた。日本の増大する軍事力は、依然として中国の征朊に使用されていた。1938年5月19日に、華中の日本軍は徐州を攻略し、これによって、すでに日本の支配下に置かれていた地域の中にあったところの、中国側の抗戦の孤立地区が除かれた。徐州の戦いは決定的なものではなかったが、中国におけるすべての抵抗を粉砕するという、延び延びになっていた日本の希望に刺激を与えた。

 その間に、満州国にある関東軍は、参謀本部と協力して、ソビエット連邦との戦争に対する準備をしていた。日本国内では、新しい艦隊が建造中であった。委任統治諸島においては、太平洋における戦争の準備として、海軍基地の建設が行なわれていた。

 経済上と産業上の自給自足という目標の達成のために、大々的な努力が払われた。この自給自足によってのみ、陸軍が計画していた戦争の負担に、日本は堪えることができるのであった。日本国内、満州国、華北と華中の被征朊地域において、重要原料の新しい資源の開発と、新しい戦争産業の建設が行なわれていた。内閣は日本の全国力を戦争に動員するために必要な法的権限をすでに自己の手に入れていた。組織化と宣伝とによって、日本の国民は、国家の運命と陸軍が提唱していた勢力拡張計画とを同じものと考えるようにさせられていた。


1938年5月の満州国の長期産業計画

 陸軍の五ヵ年計画を達成するためには、日本が占領していた大陸地域の天然資源と潜在的産業力を最大限度に利用しなければならなかった。華北と華中においては、このような開発の基礎はすでに築かれつつあった。しかし、これらの地域から、日本は実質的な貢献を受けることはまだ期待できなかった。

 満州国の状態は、それとは異なっていた。というのは、1937年2月に、満州国政府は産業拡充の第二次五ヵ年計画に着手していたからである。この計画は、日本陸軍の1937年度の経済的と産業的の企画の上可欠の一部を成していたが、星野はこの計画の作成と実行とに参加していた。

 中日戦争を再発させた盧溝橋事件の後においてさえ、計画の目標を維持するためには、どのような努力も惜しまれなかった。1937年11月に、近衛内閣は、満州国の重工業を振興させることは、日本の目的にとってどうしても必要であると決定していた。そして、内閣の決定を実施するために、満州重工業株式会社という新しい国策会社が設立された。

 1938年5月には、日本に支配されていた満州国政府は、さらにいっそう広汎な戦争産業拡充の計画を作成した。その際、この新計画を達成するために、満州重工業株式会社を利用することが決定された。満州国の総務長官としての星野の発言は、1937年11月の近衛内閣の決定の結果としてできたこの新しい計画の発足に、決定的な力をもっていた。

 この新計画は、日本と満州国の間にいっそう緊密な連係をつくり上げることに、大きな重点を置いていた。すでに得た経験に照らして、1937年の最初の計画は、日本の戦争準備の負担のうち、満州国が今までより大きい部分を担うことができるように、徹底的に修正された。修正が必要になったのは、国際情勢の変化に基づくものであるとされた。

 新計画の目的のすべては、日本に上足しており、また日本の陸軍が戦争の要求上きわめて重要であると特に指摘したところの、産業の生産を増加することであった。これによって、鉄鋼の生産は、日本の増大する需要を満たすという明確な目的のために、大いに拡張されることになった。鉱業方面の活動は、日本の石炭の供給を保証するために、拡張されることになった。電力設備は増強され、工作機械の生産は、いっそうの工業的発展を奨励する目的のために、増進されることになっていた。航空機と軍需品との生産に付随する新しい化学工業が樹立されることになった。新しい航空機工場が、広く分散した地域に建設されることになった。満州国は、年産五千の航空機と三万の自動車の生産を目標とすることになった。日本の対外購買力は、一部は金に依存しているのであるから、金の増産にも組織的な努力が払われることになった。

 修正された計画は、資本としてほとんど推定五十億円の支出を要した。これは1937年度の予算に組みこんだ額の2倊よりわずかに少ないものであった。言いかえれば、必要とされた額の半分以下を日本が賄うことになっていた。

 満州国政府は、この計画の実施を監督するために、経済企画委員会を設置することになった。この新しい組織は、日本で企画院が果たしていたものとほとんど同じ機能を、満州国で果たすことになった。その主管のもとに、この国の資源に対する新しい完全な調査が行なわれることになった。熟練労働を養成するために、実業学校が設立され、また修正計画が要求した経済的と行政的の再調整を行なうために、計画が立てられることになった。

1938年5月の経済危機は陸軍の長期計画を脅かした

 陸軍の企画を実行するためにすでにとられた施策は、日本の経済に次第に増大する負担を負わせた。軍事的勝利や進出にもかかわらず、中国の戦争は依然として日本の物的と人的の資源を絶えず消耗させていた。さらに、原料の重要な供給源として、また戦争産業の開発を行なうことのできる地域として、陸軍は中国を頼りにしていた。

 陸軍は、総動員法の目的を示すにあたって、日本の国民に対して、中国における戦争の継続のために、国策の根本的目標が見失われるようなことがあってはならないと再び警告した。華北と華中は、満州国及び日本とともに、単一の国を構成するものであり、その一体性は、現地の抵抗に対してだけでなく、ソビエット連邦と西洋諸国の双方に対しても、これを維持しなければならないと説明された。陸軍の企画のおもな目標は、過去のすべてのときと同様に、今もなおこれらの強大な相手方の一つ一つに対する勝利を保証するに充分な規模において、兵器とその他の戦力を蓄積することであった。その当時に、中国における戦いは、陸軍の長期計画に破綻を来すのではないかと陸軍は深く心配していた。

 盧溝橋で戦争が再発して以来、日本は絶えず経済的崩壊の危険に直面していた。この脅威を避けるために、産業上、商業上、財政上の統制に関する広汎な措置が講じられていた。満州国の産業の拡張に関する修正計画は、日本がすでに支配していた大陸の諸地域を、どのように搾取していたかということを重ねて示した。これらの地域の住民は、戦争産業を拡充し、過重な負担を負わされた日本の経済を助けることに、次第に増加する負担を負わされていた。

 それにもかかわらず、1938年の5月と6月に、日本は深刻な経済的と財政的の危機に襲われていたことが明らかになった。陸軍は日本の政府と国民に対する支配を獲得したが、その野心の達成に対する新しい挑戦に直面した。その動員計画の採択は、すでに保証されていた。問題は今や日本の国民が陸軍の政策がもたらす苦しみに耐え得るかどうかということであった。

 このような状況のもとに、1938年5月5日に、内閣は国家総動員法によって付与された権限を発動した。この法律の目的に関する注釈の中で、戦争のための国家総動員を達成する途上にどのような困難が横たわっていようとも、断固としてその目的に邁進するという決意を陸軍は重ねて言明した。


1938年5月の内閣改造

 それから10日の後に、発生した事態に対処するために、内閣は改造された。広田は外務省を去った。大蔵大臣として、日本経済を陸軍の動員計画上の諸要求に従属させることを指導し、統制していた賀屋も、またその職を辞した。

 陸軍の計画が挫折するおそれがあったので、これに対処するために、2人の軍人を加えることによって、この内閣は強化された。板垣中将が杉山の後任として陸軍大臣となった。奉天事件以来、陸軍の武力による対外進出と勢力拡大の企図について、板垣は特に関係が深かった。1936年3月23日から1937年3月1日まで、かれは関東軍参謀長の職にあり、それ以後は師団長として、中国の征朊に加わっていた。

 新しく文部大臣となった荒木大将は、陸軍の計画の発展の初期を通じて、軍部の指導者であった。奉天事件の起こる2ヵ月前、1931年7月に、国家主義精神の促進を目的とする秘密結社である国本社の有力な会員と、かれは認められていた。同じ年の12月、犬養内閣が就任したときに、陸軍の青年将校の要請によって、陸軍大臣に任命された。犬養の後継者である斎藤のもとでも、かれはこの地位に留まった。

 1932年と1933年中、陸軍大臣として、荒木は日本に戦争準備を完成させることのできる非常政策を採用することを主張した。かれは強力な軍国主義者の有力な代表者と認められていた。1933年6月のラジオ放送演説において、だれよりも先に、陸軍の長期計画の全貌を発表し、日本国民に対して、その達成に協力するように促した。

 1933年中に、荒木の行動は、斎藤内閣の内部に軋轢を起こした。かれの代表する政策が、日本を世界の他の諸国から孤立させつつあることがわかったからである。1933年12月に、大蔵大臣高橋は、日本の対外関係が悪化したのは、陸海軍の軍国主義者に責任があるとした。その翌月に、荒木は内閣を去った。しかし、満州の征朊を要求し、さらに武力による対外進出計画を唱道していた一派をかれは指導し続けた。1934年1月23日以来、荒木は軍事参議官の職にあった。1937年10月15日に、内閣参議制度ができてからは、かれはその一員でもあった。

 日本の教育制度は、木戸の指導のもとに、戦争のための国家総動員という目的に役立つようにされていたが、この内閣に、かれは厚生大臣として留まった。陸軍の計画を達成するためには、かれは中国における戦争を終わらせることがどうしても必要であることを理解した。かれは徐州における勝利の重要性を過重には評価しなかった。しかし、すでに中国人の間に和平の話が出ていると信じた。従って、今や日本は漢口への進軍という新しい軍事的攻勢を計画すべきであると考えた。

近衛内閣は戦争のための総動員遂行のため新たな手段を講じた

 経済上と財政上の危機は、1938年6月11日にさらに著しくなった。この日に、日本が中日戦争の遂行にあたって、繰り返し条約上の義務を破ったことにかんがみて、合衆国は日本向けの航空機、兵器、発動機部品、航空機用爆弾、魚雷に対して道徳的輸出禁止を実施した。

 板垣、荒木、木戸を新たに閣僚として改造された内閣は、1938年6月23日に閣議を開いて、全国的に戦争準備を整えるという目標を維持するために、いかなる措置をとるべきかということを決定した。この決定は、総動員法の目的について、陸軍の説明のうちに含まれた予想が正しかったことを示すものであった。他の一切の考慮を国策の基準の目的を実現するための考慮に従属させるという内閣の決意が大いに強調された。戦争のための国家総動員に絶対必要な諸施策が直ちに実施されることになった。

 国家経済を内閣が検討したところ、その年のうちに、日本の輸出が3分の1減少したことが明らかになった。この理由とその他の理由のために、日本の貿易尻はきわめて上安であった。もし事態がさらに悪化するならば、非常の際には、兵器とその他の物資の調達は、これに必要な外国為替がないために、非常にむずかしくなる。当時の情勢においてさえ、1938年度の物価計画で定められた目標に達することは困難であった。五ヵ年計画の成功はすでにおぼつかなくなっていた。

 内閣の意見によれば、情勢はきわめて重大であって、その日その日の弥縫策では、対処することができなかった。このようなやり方で問題を解決しようとすることは、日本の現状の要求する生産力の拡充を達成するとともに、緊急の軍事上の必要に応ずるために払われている努力に対して、重大な支障を来すものであった。

 決定された徹底的な施策の中には、非軍事用物資の供給をさらに減ずることが含まれていた。戦争産業拡充の分野でも、節約が行なわれることになっていた。この緊縮政策に従って、為替相場の安定を維持したり、軍需品の供給を続けたり、輸出を促進したり、国民生活を保証したりするために、措置を講ずることになっていた。

 この目的のために、国家総動員法によって与えられた広汎な権力が活用されることになっていた。物価を公定し、物資の配給を行なうことになっていた。貯蓄を奨励し、戦時利得を制限し、廃品を回収することになっていた。在外資金を保存し、そして日本はその外国貿易の排斥に対して報復することになっていた。輸出を奨励するために、外国貿易の管理に関する行政を一元化することになっていた。軍需品の生産を増強することになっていた。

 特に、需要と供給の関係によって、重要物資を節約するために、徹底的な措置をとることになっていた。製品の輸出とその原材料の輸入とをリンクさせることによって、結局は輸出されるはずの物資が国内市場に吸収されてしまわないことを政府は確実にすることになっていた。国民の生活、輸出、バーター貿易に必要な最小限の輸入は許可されることになっていた。この例外とともに、軍需の充足と軍需品生産の保証とに必要な輸入だけが許されることになっていた。

 関係各省は、内閣の決定した政策を遂行するために、それぞれ独自の措置を講じ、国家総動員の達成を緊急な事柄として取り扱うように、訓令を受けた。


板垣及び荒木と戦争のための国家総動員(原資料270頁)

 この2人の新しい閣僚は、直ちに国家総動員計画を支持した。閣議があってから3日後の1938年6月26日に、陸軍大臣板垣は、新聞記者と会見した際に、日本を襲っている経済的困難に対する内閣の認識を表明し、かつ、これらの困難によって、中国の征朊が妨げられてはならないという、かれ自身の決意を表明した。蒋介石大元帥は、戦いの第一線における勝利は期待していないが、長期間にわたって、国家資源に重荷を負わせることによって、日本を敗北させようと望んでいるとかれは述べた。

 無期限にわたって、日本は来るべき戦闘行為に耐えることができるという自己の確信を板垣は表明し、読者に対して、戦争のために長期の準備が必要であることを力説した。日本国民に対して、国家資源の保存に対する内閣の計画の精神を体し、当局に協力を惜しまないようにとかれは要望した。

 国際情勢を批判して、板垣は『第三国が、かれらの在華権益を保護するために種々の策動に訴えつつあるのは当然であるが、日本としては、恐怖逡巡することなく、独自の政策を遂行するだけのことである』と述べた。

 盧溝橋事件の1周年記念日である1938年7月7日に、文部大臣荒木は演説を行なった。そのうちで、かれは板垣と同じ意見を表明した。この演説の大意は、1933年6月に、かれが陸軍大臣として行なった演説とほとんど違わなかった。どちらの場合にも、現在の難局から、陸軍の究極の目標である世界支配の実現ということを、荒木は予期していたからである。

 この場合には、かれは次のように述べた。『我らは長期戦に耐うるに必要なる国力の充実を期せねばならない。国民思想を堅持して万邦無比の国体を明徴にし、八紘一宇(八紘一宇に傍点あり)の精神を広く世界に顕揚しなければならない。』

 『物心両面より国家総動員の実を挙げ、躍進伸張日とともに目覚ましき皇国の隆運に資益するは勿論、啻(ただ)に東亜の日本としてのみならず、実に世界の日本として新時代の曙光を導き、もって日本の大使命を達成するに足る正しき襟度(きんど、心の広さ)と熾(し、火がつくさま)なる気力とを養成せねばならない。』

 板垣と荒木の用いた語調は、自信に満ちた強硬なものであったにかかわらず、両人の言葉の底には、中国における戦闘の成行きについて、深刻な上安の流れていることが明らかに認められた。この問題がまだ解決されないうちに、陸軍の長期計画は危うくなっていたのである。

1938年5月の内閣改造に伴う陸軍首脳部の移動

 1938年5月の内閣の改造が行われたときに、陸軍首脳部の間でも異動があった。東条中将は現地勤務から呼び戻され、梅津にかわって、陸軍次官になった。東条は、1937年3月1日以来関東軍参謀長として、ソビエット連邦に対する戦争のための陸軍の計画と準備に密接な関係をもっていた。ソビエット連邦を攻撃する前に、中国に一撃を加えることを参謀本部に進言したのは、かれであった。中国で戦闘が始まってから後は、かれは絶えずソビエット連邦に対する戦争のための軍事的準備に専念していた。そして、この仕事の遂行について、かれは梅津と緊密な接触を保っていた。
 北平から南方へ前進していた日本軍の師団長であった土肥原中将は、1938年6月18日に、中国から呼び戻され、参謀本部付きとなった。板垣と同じように、奉天事件の計画と実行及びその後の陸軍の計画の展開に、土肥原も顕著な役割を占めていた。かれは中国の情勢についての直接に得た知識を東京に持って来た。

 陸軍次官東条は、1938年6月のうちに、その他の多くの職務に任命された。その職務は、それぞれ国家総動員のある面と関係していた。かれの前任者梅津でさえも、これほど多数の、またこれほど多様の地位を占めたことはなかった。東条は企画院参与、対満事務局参与及び内閣情報部委員になった。また、総動員法の規定に従って新しく設けられた国家総動員審議会の委員にも任命された。陸軍航空本部長になり、航空事業調査委員会委員にもなった。自動車、造船、電力、製鉄の諸事業に関する委員会に参加し、また科学審議会の委員になった。海軍審議会の委員にもなったのであるから、海軍関係の問題も、かれは見落とさなかった。

 佐藤中佐は、引き続いて、軍事上の準備と戦争のための総動員の他の部面とをつなぐ第二の鎖となっていた。1937年11月26日以来、かれは企画院事務官の任務と陸軍省軍務局課員の任務とを兼ねていた。


華中における新攻勢――1938年7月

 内閣が戦争資材の補給を維持する措置をとっていたときに、参謀本部は、さきに木戸の同意した計画に従事していた。1938年6月に、参謀本部は華中における新しい大攻勢のための作戦計画を立てた。畑大将の指揮のもとに、約40万の歴戦の部隊がこの進攻に参加することになっていた。漢口が目標であった。この戦闘が成功すれば、これによって、既存の傀儡政権を北と南に分離している溝をなくすることになる。

 改造された内閣は、戦争のための動員計画がこれ以上危うくならないように、中国の抗戦を終わらせるために、最大の努力を払う覚悟であった。1938年7月7日の演説の中で、荒木大将は、『われわれは抗日支那を徹底的に撃滅し、再び起つ能わざらしむるまでは戈(ほこ)を戢(おさ)めざる方針である』と述べた。

 1938年7月に、この攻勢は開始され、7月と8月を通じて、さらに多くの中国の都市と村落が日本軍進攻の潮に巻きこまれるに伴って、小さい勝利がおさめられた。しかし、中国の降伏という希望を正当化するような徴候は、まだ少しも見られなかった。

ソビエット連邦に対する戦争準備の継続

陸軍がドイツとの軍事同盟の交渉を開始した(原資料275頁)

 中国で新しい攻勢が始められていたときに、陸軍は予期されたソビエット連邦との戦争に対する準備を続けていた。1938年6月19日に、新陸軍次官の東条は、かれがかねて関東軍参謀長として非常に密接な関係をもっていたこれらの軍事的準備について、正式な通告を受け取った。内蒙古の日本陸軍は、ソビエット連邦に境を接する戦略的地域の調査を行なっていた。関東軍の参謀長も、蒙古の天然資源が調査中であり、すでに入手された資料が点検中であると報告した。

 経済的国難を冒して、戦争のための内閣が国家総動員を成し遂げようと苦心していたときに、ソビエット連邦に対する攻撃は、依然として軍閥の念願にあった第一の計画であった。陸軍大臣板垣も、文部大臣荒木も、ともに長期戦の準備の必要であることを力説した。1938年7月11日に、荒木大将は、『中国及びソ連邦と最後まで戦うという日本の決心は、十年以上もそれを継続するのに十分である』と述べた。

 この決心を念頭に置いて、陸軍は、みずから進んで、その軍事的征朊の目的の達成に向かって、一つの新しい重要な一歩を踏み出した。戦争のための国家総動員の計画は、今や承認され、達成の途上にあったので、陸軍の注意は、日本自身の軍事力を強化するような、もっと緊密な同盟をドイツと交渉することに向けられた。参謀本部に促されて、ベルリンの日本陸軍武官大島は、両国の間に軍事同盟を締結するために、ドイツ政府と交渉を開始した。このような武力の連合は、ソビエット連邦との戦争に対する陸軍の準備を完全なものにするであろうというのであった。

 このときから、日本のドイツに対する関係は、日本の戦争準備の一つの面としてばかりでなく、日本自身の中の成行きを決定するについて、欠くことのできない一つの要素としても、意義の深いものである。1933年以来、ヒットラーのもとに勃興した新ドイツは、日本と同じように、征朊と領土拡張の戦争に対する準備に従事していた。これらの二国は、それぞれ自己の計画の実現に専念していたので、互いに他の一方に対して、ほとんど考慮を払わなかったが、ソビエット連邦に対しては、共通の野望を抱いていた。これらの野望は、1936年11月にベルリンで締結された防共協定となって現われた。

 ドイツとの軍事同盟は、日本の陸軍の計画の中に、すでに長い間、重要な位置を占めていた。ソビエット連邦を攻撃する時期が近づくように思われるにしたがって、この同盟の必要はいっそう緊急なものとなった。軍閥の計画の中で、この部門の起源と発展を了解するためには、まず、ソビエット連邦に対する戦争を行なうための陸軍の計画の進行を大体に観察しておくことが必要である。


ソビエット連邦を攻撃する陸軍の意図は満州の征朊に源を発していた

 ソビエット連邦に対する反感から、防共協定によって、日本はドイツと提携するようになったのであるが、この反感は、陸軍の野心の性質そのものに固有のものであった。大川は、1924年に、初めて領土拡張の計画を提唱したときに、シベリアの占領を主張した。1931年に、モスコー駐在の大使として、広田もまた同じ意見であった。その当時に、かれは、日本は攻撃する意思があろうとなかろうと、いつでも戦争ができる用意をして、ソビエット連邦に対して、強硬な政策をとらなければならないという見解を表明した。かれの意見では、このような準備のおもな目的は、共産主義に対する防衛としてよりも、むしろ東部シベリアを占領する手段としてであった。

 ソビエット連邦を敵と見做すについては、すでに第二の理由があった。1930年に、満州を征朊するという陸軍の計画に対して、国民の賛同を得るために、そのころ運動していた陸軍の代表者は、ソビエット連邦に対して、日本はこの地域を防衛しなければならないということを強調した。1932年4月、満州国という新国家が樹立されたときに、ソビエット連邦や西洋諸国は、それぞれ敵と見做された。その当時、関東軍参謀部の一員であった板垣大佐は、『アングロ・サクソン世界並びにコミンテルン侵略の闘争において盟友日本』の利益を促進するという新しい委員会の委員に任命された。

 それから約3ヵ月の後に、モスコーの日本陸軍武官は、ロシアと日本との戦争は将来避けられないと政府に報告した。それより約6ヵ月前に、ソビエット外務人民委員から日本に対してなされた上侵略条約の提議に関して、かれは上即上離の態度をとることを力説した。それからさらに5ヵ月おくれて、1932年12月13日に、両国間に未解決の意見の相違があるので、このような協定の交渉は時宜に適しないという理由で、日本は右の提議を拒絶した。1933年2月に、右の協定を協議しようという提案があらためて出されたときにも、日本は再びこれを拒絶した。2ヵ月の後に、参謀本部の鈴木中佐は、ソビエット連邦は日本の国体の破壊を目的としている絶対の敵であるから、このような提案は一切斥けなければならないと述べた。このようにして、日本の軍閥によって、ソビエット連邦は、列強のうちで、日本が東亜の盟主になるという目標の達成を特に妨害する国であると認められた。

 ソビエットとの戦争のために、軍事的の計画と準備が着々と進められたことは、すでにこの説明の中でしばしば述べてある。1933年の12月になると、朝鮮の日本陸軍は、すでに『対ソ作戦の場合を顧慮し』て準備をしていた。荒木大将は、すでにそのときに、このような攻撃のための足場として、蒙古に目をつけていた。1934年3月に、岡田内閣が政権を握った後、参謀本部によって提出されたところの、ソビエット連邦に対する戦争のための計画を天皇は裁可した。

 1935年11月に、当時スウェーデンの公使であった白鳥は、攻撃の機が熟したと有田に告げた。日本は武力によるか、武力を使用するという威嚇によって、直ちにソビエット連邦を東亜から閉め出さなければならないとかれは考えた。

 1936年3月23日、広田内閣が就任した後に、関東軍参謀長として、板垣は外蒙古を日本の『新秩序』の圏内に含める措置をとった。日本の国策の基準が決定された1936年8月11日以後、ソビエット連邦を目標とする準備は、日本が『ソ国の極東に使用し得るいかなる兵力にも対抗する』ことができるように強化された。

 中国における戦争の再開が究極にはソビエット連邦に対する攻撃を含む陸軍の対外進出計画の一部であったことは、すでに述べたところである。盧溝橋で戦闘が開始される前にも、その後にも、ソビエット連邦との戦争のための軍事的準備は維持され、促進された。関東軍は参謀本部と密接に協力していて、できるだけ早い時期に開始されることになっていた迅速な襲撃のための部隊の配置をすでに行なっていた。

 1935年11月に、白鳥は、もし攻撃が10年間放置されたならば、ソビエット連邦は手のつけられないほど強力になるかもしれないが、直ちにこれを行なえば、成功の可能性は十分にあると述べた。地球上のいかなる他の国も、その当時において、日本にとって真の脅威となり得ないとかれはつけ加えた。妥当な価格で、樺太とシベリアの沿海州との譲渡を要求しなければならない。ソビエット連邦は、『無力な資本主義共和国』にされ、その資源は著しく制限されなければならないというのであった。

陸軍、ソビエット連邦に対する攻撃の計画を延期――1938年8月(原資料280頁)

 この緊迫した感情に煽り立てられて、陸軍は、日本が中国にますます深入りしつつあったことと、日本の経済が上安な状態に追い込まれてしまったこととに焦慮していた。軍の指導者は、ソビエットとの戦争に対する準備のかれらの計画を断乎として維持し、ナチス・ドイツの支援を求めた。1938年7月、板垣と東条とが陸軍省内の職に就いた後に、ソビエット連邦に対して早く攻撃を開始しようという陸軍の少壮は、直ちにはけ口を見出した。

 1938年7月の初めに、ハサン湖地区のソビエット国境の日本の警備隊が増強された。7月の半ばに、その地区の一部の領土に対する日本の要求を受諾させるために、重光がモスコーに派遣された。紛争の対象となっていた土地は、戦略的価値のある一つの高地であった。

 重光はこの交渉を通じて高圧的な態度をとった。そして、1938年7月20日に、満州国に対する日本の義務を口実として、ソビエット部隊の撤退を正式に要求した。

 その翌日に、陸軍大臣板垣は、参謀総長とともに、日本の要求が強行できるように、ハサン湖に対する攻撃を開始することについて、天皇の裁可を得ようと試みた。この件に関して、陸軍の方針は外務省と海軍省との支持を得ていると、天皇に対して虚偽の報告がなされた。翌日の1938年7月22日に、この計画は五相会議に示され、その承認を受けた。

 1938年7月29日に、ハサン湖の日本軍は、ソビエットの国境警備隊を攻撃した。このようにして始められた戦闘は、1938年8月11日まで続き、そのころには、この作戦に使用された日本軍は潰走させられていた。その後、紛争の地域をソビエット連邦の手に委ねたまま、日本は平和条件を交渉した。

 ハサン湖の戦闘は、本判決の後の部分で、詳細に論ずることにする。しかし、攻撃が行なわれるに至った経緯は、現在の叙述に重要である。この計画は陸軍の発意によって促進され、実施された。陸軍大臣板垣は、長い間、ソビエット連邦との戦争は避けられないと信じていた。かれの次官である東条は、このような戦争のための詳細な計画と準備を監督していた。攻撃は、主としてソビエット連邦を目標とした新しい軍事同盟を、陸軍がドイツと交渉中であったときに起こった。それは、極東におけるソビエット連邦の勢力を消滅させようという、陸軍の計画の一つの産物であった。

 ハサン湖における日本の敗北によって、陸軍の計画は急に修正された。佐藤大佐は、1938年8月25日に、陸軍省の代弁者として、警察部長の会合で陸軍の政策を説明した。陸軍の決意と国家の困難を論じた演説の中で、かれは企図されたソビエット連邦との戦争に対する一つの新しい態度を明らかにした。列席している者に対して、このような戦争はいつ起こるかもしれないから、軍事的準備を続けなければならないと警告したのである。しかし、当時すぐにこのような戦争を挑発することは、日本にとって上利であるということをかれは強調した。『しかしながらロシアとやむなく戦う場合としては時機を選ぶの要あり、しかしてそのためには軍備の拡充、生産力の拡充のせられた後――昭和17年以後――であらねばならぬ』とつけ加えたのである。

 陸軍とその支持者の性急さに対して、抑制が加えられた。陸軍の指導者は、国策の基準の決定の中で定められた原則に従うことを再び決意した。この国策の基準は、まず第一に、中国における日本の『新秩序』の建設と戦争準備の完成とを要求したのであった。

 しかし、ソビエット連邦は、依然として一つの主要な敵と見做されていた。なぜなら、日本の東亜における征覇(原文のまま)という目標の達成に対して、この国が妨げになっていたからである。佐藤は、日本がソビエット連邦に対して戦争を強いるという究極の目標を捨てたものではないことを明らかにした。この目的を国家総動員を完成するための第一の理由として、かれは力説した。ドイツ、イタリアとの防共協定は強化されなければならないという陸軍の信念をかれは再び確言した。しかし、かれの演説は、ハサン湖における敗北の結果として、陸軍はそれ以上の負担をみずから引き受ける前に、国力の充実をさらに高度に達成する決心であることを発表した。

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