歴史の部屋

ソビエットに対する計画によって、陸軍はドイツとの同盟を求めるようになった

 ドイツでは、1933年に、ヒットラーが政権を握った。日本陸軍は、当時ソビエット連邦との戦争準備に専心していたので、直ちにこの新しい政権に関心を寄せた。1934年3月、岡田内閣の在任中に、大島大佐がベルリンの陸軍武官に任命された。

 参謀総長の訓令で、大島はナチ政権の安定性、ドイツ陸軍の将来、ドイツとソビエット連邦との関係の状態、特に両国の陸軍の間の関係を注視し、調査することを命じられた。大島はまたソビエット連邦に関する情報を収集し、報告することになっていた。ソビエット連邦が戦争に巻き込まれるようになった場合に、ドイツがどのような態度をとるかをかれは見極めることに努めることになっていた。

 1934年5月に、大島は新しい任務に就き、1935年の春には、フォン・リッベントロップから、ドイツは日本と同盟を締結する意思があるということを聞いた。かれはこの情報を参謀本部に伝えた。この提案について調査するために、ドイツに派遣された若松中佐は、1935年12月にベルリンに到着した。

 このころすでに、少なくとも軍閥中の一部の者は、ソビエット連邦との戦争の場合に、ドイツの支持を得ることを確信していた。1935年11月4日の書簡の中で、有田にあてて、白鳥は『ドイツ、ポーランドのごときは、対ソの関係において、我と同一立場にあるをもって敢えて了解等を結ぶの要なく、一度事端勃発すれば期せずして、起つべし、問題は、英国のみ』と書いた。

 若松と大島は、ベルリンでドイツ当局者と協議し、ドイツ側に、参謀本部は両国間の一般的な同盟に賛成している旨を伝えた。交渉がこのような段階に達したので、この提案は陸軍から内閣にまわされた。その間に、かつて5年以前にソビエット領土の占領を主張していた広田が、総理大臣になっていた。そして、白鳥の私信の受取人であった有田が外務大臣であった。

 1936年の春に、すなわち国策の基準が最後的に決定される数ヵ月前に、広田内閣は陸軍の提案を取り上げた。ベルリンに到着したばかりの武者小路大使は、ドイツが日本との協力を熱心に希望しているということを確かめることができた。長い間の交渉の結果、防共協定と秘密軍事協定が調印され、1936年11月25日に、両方とも日本の枢密院によって批准された。


防共協定締結後の日本とドイツとの関係

 防共協定は、ドイツ側が提案し、参謀本部が賛成していたところの、一般的な軍事同盟ではなかった。8月の五相会議は、すでに日本をあからさまな反ソビエット政策に従わせることにきめていたが、防共協定は、東亜に対するソビエット連邦の進出を防ぐことを目的とし、純粋な防御的措置としてつくられていた。外務大臣有田は、枢密顧問官に対して、それをこのような観点から説明し、慎重にもドイツの国内政策に同意するものではないと述べた。日本の世論は、まだドイツとの同盟を受け入れるまでになっていなかった。そして、この事実が内閣の条約締結の権能を牽制していた。

 しかし、実際においては、この協定は、ソビエット連邦に対する侵略的な政策を助長した。ドイツ側から、ソビエット連邦に対するドイツ側の態度を定めるについては、秘密協定の精神だけが決定的なものであるという誓約を広田は得ていた。万一必要な場合には、この協定が両国の関係をさらに発展させる基礎になるはずであった。

 その上に、この協定が性質上防御的であるという主張は偽りであることを有田自身が示した。というのは、かれは枢密顧問官に対して、ソビエット連邦は、日本との一切の折衝において、妥当な行動をとっていたと確言したからである。かれみずからも、たとい日本の戦争準備が充分でなかったとしても、ソビエット連邦が先んじて事を構えようとは考えていなかった。有田は、また、この協定が中国との折衝において、日本の立場を強化することを希望した。

 実際において、防共協定は、日本の世論を離反させることなく、また日本側の言質はできる限り最小限度にとどめておいて、ソビエット連邦に対抗するために、また中国において、ドイツの支持を受けるという利益を得ようとして締結されたものである。

 これらの同じ考え方が、日本とドイツとの関係のその後の発展を支配した。盧溝橋で戦闘が始まった後に、日本は、中国におけるその行動を、防共協定の目的に従って行われた共産主義に対する闘争として正当化しようとしたが、それは成功しなかった。

極東国際軍事裁判所


判決


B部

第四章


軍部による日本の支配と戦争準備


第二巻 英文281−520頁

      1948年11月1日


中国におけるドイツとの経済的協力に関する広田の政策の失敗

 1937年10月27日に、東郷は大使として武者小路にかわるために、ベルリンに派遣された。その数日の後、1937年11月6日に、日本の枢密院は、ドイツ及びイタリアとの新しい条約を批准した。これによって、三締約国は、それぞれ防共協定に含まれた取極めを交換した。この会議には、議長平沼、外務大臣広田、大蔵大臣賀屋が出席した。

 日本は必ず中国の征服に成功するであろうということ、ドイツは、日本を支持することによって、日本がつくろうとしている新しい中国において、必ず優先的地位を得られるであろうということをドイツに納得させるのが東郷の仕事であった。1938年1月に、不本意ながら、ドイツ側はこの見解を受け入れた。

 しかし、広田は、中国の経済的開発について、日本がイギリスと合衆国との援助に頼っていることを認識していた。かれには、有名無実の特権以上のものをドイツに与えるつもりはなかった。それに対する代償として、中国で必要な物資や技術的援助をドイツ側から得ようと考えていた。従って、東郷がドイツ側に対して与えることのできる約束の範囲を、広田は狭く限定した。

 日本の経済的危機が深刻となった1938年5月、6月、7月の間に、東郷大使は、次第に強くなりつつあるドイツ側の不満に直面しながら、この困難な任務に努力していた。ドイツ政府が1938年の7月と8月に、同大使を完全に除外して、陸軍武官の大島と交渉した事実は、東郷の失敗の程度を示すものである。

 1938年の5月と6月の間に、中国の再建に対するドイツの経済的参加について、外務大臣フォン・リッベントロップと東郷との間に、繰り返して協議が行なわれた。フォン・リッベントロップは、ドイツの承認と援助との代償として、中国におけるドイツ貿易に対して、特別に寛大な取扱いを求めた。広田の許した狭い制限のうちで、東郷は丁重ながら用心深く答えた。フォン・リッベントロップにつきつめられて、条約の形で、日本がドイツに他の第三国よりもよい取扱いを保証することはできないとかれは説明した。ドイツ外務大臣は、不満の意を表わしたが、明確な条約の形で承認したくないものでも、実際上は、与える用意が日本にはあるものと解釈した。

 結局において、リッベントロップは間違いを覚った。というのは、1938年7月24日に、ドイツ外務省は、中国にあるその代表者から、中国の被征服地域の状況に関して詳細な報告を受け取ったからである。その中には、中国における日本官憲が、ドイツ権益に対して、組織的な差別待遇を実行していることが明らかにされていた。日本の商社に与えられた優先権によって、在来のドイツ商社は重大な損害を蒙っていた。

 この情報を受け取って、ドイツ側の不満はさらに強くなった。中国からの報告によって、フォン・リッベントロップがかれの以前の決定の正しかったことを確認したということを、1938年7月27日に、東郷は聞いた。日本の『特別に優先的な取扱い』という曖昧な形の申出は、不充分と見做された。ドイツ政府には、日本が中国における外国貿易――ドイツの貿易を含めて――に容赦なく圧迫を始めたと思われたからである。中国における経済的協力の条件について、両国の間の意見の隔たりは、依然として広かった。1938年9月8日に、ベルリンにおける大使として、陸軍武官大島少将が東郷にかわったときにも、事態にはなんの変化も起こっていなかった。

陸軍は日本の対独関係を維持した

 中国における戦争が盧溝橋で再発したことは、最初はドイツからの激しい非難を招いた。この疎隔にもかかわらず、ソビエット連邦との来るべき闘争を常に念頭に置いていた陸軍は、ドイツに援助を求めた。1937年の後半に、日本が中国で手をつけた仕事にだんだん深入りしていることをすでに憂慮していた参謀本部は、中国当局と問題の解決を交渉するために、ドイツの調停を求めた。

 その当時、自国と日本との関係に不満を感じていたドイツ外務大臣は、日本大使ではなく、日本の陸軍武官と交渉をした。1938年1月に、フォン・リッベントロップは大島に対して、日本とドイツはなお一層密接に協力すべきであるとの信念を伝えた。大島はこの情報を参謀本部に伝達した。参謀本部は、ソビエット連邦がこの新しい同盟の主目標とされることを条件として、原則上これに同意した。

 同じ月に、便宜上の理由によって、ドイツは日本の中国征服の企てを容認し、その翌月に、満州国に対して承認を与えた。一方ではドイツとの結合を、他方では日本と満州国との結合を強めるために、陸軍はこの機会を利用した。満州国とドイツとの間に外交関係が成立し、両国の間に友好条約が調印された。そのときに、東条中将は、満州国が防共協定の参加国となるべきであるとの関東軍の希望を表明し、梅津はこの提案に対する参謀本部の快諾を伝えた。これらの折衝は、満州国を占領していた日本陸軍が『急迫せる対ソビエット戦争』のために軍隊の配置をしていたときに行なわれたのである。


陸軍、枢軸国間の軍事同盟を提案

 1938年7月の初め、板垣と東条がそれぞれ陸軍大臣と次官になってから少し後に、陸軍は、再びドイツとの軍事同盟を促進する手段をとった。大島は外務大臣リッベントロップに対して、日本陸軍の意見としては、日本がドイツ及びイタリアと一般的な防御同盟を結ぶ時機が来たと述べ、一般的な形でこの提案を出した。

 陸軍としては、全面的ではないにしても、少なくとも主として、ソビエット連邦を目標とする協定を求めたが、フォン・リッベントロップは、強力な同盟の必要を強調して、単にソビエット連邦の攻撃があった場合に協議するというだけの協定は考慮することを拒絶した。大島は、ドイツ側のこの見解に従って、提案された同盟の条項の概要をみずから作成した。それは相互協定の形をとり、締約国に対して挑発されない攻撃が加えられた場合に、軍事的援助を与えるというものであった。それはまた協議、相互の経済的と政治的の支持について規定を設けた。

 大島はフォン・リッベントロップと提案された協定の正文を定め、特使を使ってこの草案を参謀本部に伝達した。この協定案は、国際情勢に関するフォン・リッベントロップの意見を記した覚書を添えられていたが、東京では、ドイツ側から出た提案として取り扱われた。軍の指導者は、この案を外務大臣宇垣に伝達して、それによって、かれらが大島の工作を概して是認していることを示した。新しいドイツの提案を検討するために、宇垣は直ちに五相会議を招集した。

 1938年8月9日に、総理大臣近衛は、内閣全体にこの提案を報告した。軍事的援助を与えることを日本が明確に約束するような協定に対しては、特に海軍が反対であった。木戸もまたこれを重大な問題と認めた。しかし、この提案に関する討議がなされた後に、参謀総長は、内閣と陸軍は提案された同盟に賛成であると大島に伝えた。日本としては、挑発されない侵略の場合に軍事的援助を結ぶ意思はあった。しかし、この協定は、第一次的にはソビエット連邦に対して、そして第二次的に他の諸国を対象としたいと希望された。

 この交渉はきわめて秘密に行なわれたので、これが近衛の手許に達した後まで、東郷大使は何も知らなかった。東京のオット大使は、さらに8ヵ月過ぎた後まで知らなかった。この提案の草案は、少なくともその趣旨においては、大島が最初にドイツ側に提案した規定を含んでいたにかかわらず、近衛はこれをフォン・リッベントロップから出たものであると信じて受け取った。

 近衛内閣は、その辞職までの残りの5ヵ月の間、提案された同盟の締結のために、何も新しい手段はとらなかったけれども、この期間に、枢軸国相互の関係は強化された。中日戦争に伴う情勢から、日本の南方への進出の最初の兆候が現われてきた。そして、日本の欧米諸国との関係は、引き続いて悪化した。


陸軍、中国征服の決意を新たにする――1938年8月

 ハサン湖の戦闘に伴う陸軍の方針の変更は、1938年8月に佐藤の行なった二つの演説の内容で示された。その前月に、佐藤は大佐に進級し、内閣情報部の部員になった。またその月に、企画院事務官の兼職を解かれた。かれは軍務局の一員としての本務に留まり、陸軍省の新聞班長の任務に就いた。

 1938年8月の25日と29日に、内務省の警察部長会議で、佐藤は中日戦争の処理について陸軍の方針を説明した。陸軍省の代弁者によって、責任ある政府職員に対してなされたこの演説は、当時の陸軍の方針の権威ある表明となるものである。

 広範囲にわたる佐藤の演説を一貫する主旨は、陸軍は中国国民政府の軍隊の抵抗を破砕する決意を有し、同時にまた戦争のための国家総動員を完遂するということであった。内閣はまだ中国における戦争を処理するについての方針を確定していなかった。しかし、陸軍は、長い間心に懐いていたソビエット連邦に対する即時攻撃の計画を犠牲にして、国策の基準のおもな目的を達成しようという決意をいっそう固めた。

 佐藤は、当時の漢口に対する進撃の結果起こり得ることについて考察し、同市の占領が中国の抵抗を終わらせるかどうかについて、陸軍自身が疑いをもっていることを示した。何事が起こっても、漢口の陥落を機会に中国の新しい親日中央政府を樹立しなければならないと、陸軍は決意していた。

 新しい中国では、日本が指導者としての役割で全力を尽くすが、満州国の場合と異なって、日本人が政府の役人となることはないと佐藤は述べた。華北と内蒙古は、それぞれ満州国と同様な地位をもつ二つの地域となることになっていた。内蒙古を確保するおもな理由は、ソビエット連邦との戦争を準備するについての価値であり、他方で、華北は経済上と産業上の発展を推し進めることのできる地域とされていた。その資源は、『国防』の必要を満たすために開発することとされ、華中もまた日本の経済力発展の基地となることになっていた。

 中国に対する陸軍の態度を正当化するにあたって、既に近衛と広田が言い出していた議論を佐藤は全部利用した。列席している者に対して、中国征服の完成と国家総動員の完遂とに対する陸軍の熱望を染み込ませようとかれは試みた。日本は平和を求めず、その困難に打ち克たなければならないとかれは言った。内閣の内部における優柔不断を克服しなければならないこと、中国における外国の仲介を許してはならないことを陸軍は決意していたのである。

 蒋介石大元帥の特使が提出していると報ぜられている和平提案を、内閣は取り上げないであろうという確信を佐藤は披瀝した。中国における新政権の樹立は、動かすことのできない条件であることをかれ自身確信していると述べた。

親日の中国中央政府を組織する企て

 広田のあとを襲って外務大臣になった宇垣大将は、北部と南部ですでに樹立されていた親日政権を結合させるために直ちに処置を講じなければならないという見解をみずから懐いていた。

 参謀本部付きになったばかりの土肥原中将は、1938年8月に、戦争を収拾するには、どうすればよいかを調べるために、中国に派遣された。蒋介石大元帥とはどんな妥協もしてはならないという意見を固持していたので、土肥原は日本人と協力する他の指導者を見出すことにとりかかった。1938年9月中に、日本が自己の好む条件で和平を結び得る新しい中央政府を樹立する工作が進められた。

 1938年9月11日に、この新事態に直面した中国国民政府は、もう一度国際連盟に訴えた。紛争を調査するために、直ちに設置された委員会に参加するように、日本は連盟から招請を受けた。

 1938年9月22日に、外務大臣宇垣は、その参加に対する内閣の拒絶を連盟に伝えた。このような方法は、『紛争の公正妥当なる解決を見出し』得ないことを日本政府は確信するとかれは述べた。その日に、新しい中央政府の樹立を促進するために、日本の後援によってつくられた新しい中国人の委員会が北平に設立された。


軍閥、中国における妥協に反対(原資料11頁)

 中国における戦争を急速に解決する必要があるということは、今やすべての者が同意する点であった。内閣も陸軍も、ひとしく、日本の不安定な経済を補強し、また戦争のための国家総動員を完遂するに役立つ地域に中国をしなければならないと決意していた。

 しかし、この主要な結果を得るために、妥協が有効であるかどうかについて、内閣の内部に意見の相違があったことを佐藤は明らかにした。外務大臣宇垣と他のいく人かの閣僚とは、軍事占領という陸軍の目標を放棄して、和平のための直接交渉を再開しなければならないという意見に傾いていた。

 この意見の不一致は、内閣だけのことでもなかった。1938年9月になると、日本国内には、蒋介石大元帥との交渉を再開することが必要になったとしても、なお中国との和平をもたらさなければならないという強い気持ちがあった。参謀本部部員の間では、これが支配的な意見であった。

 しかし、佐藤が示したように、陸軍部内には、これと反対を意見をもち、中国における戦争を妥協によって解決しようとするどんな企てにも反対する決心をもっていた有力な一派があった。陸軍次官東条中将は、この見解の主唱者であり、陸軍大臣板垣は、東条と見解を同じうした。板垣と東条とは陸軍の政策の決定者であり、佐藤大佐は、かれらの代弁者であった。1938年8月の演説の中で佐藤は非妥協的な見解を陸軍全体のものであると称し、この見解にくみしない者に対して、攻撃を加えた。

 中国における戦争に対する内閣の方針には、多くの疑点があると佐藤は言った。最も高い地位にある人々でさえ、どんな手段をとらなければならないかについて、はっきりわかっていなかった。内閣の優柔不断と軍指導者の決断とを比較して、宇垣を支持する者は陸軍の方針の実行を妨げるものであると佐藤は非難した。

 陸軍がその企てに対する反対に遇ったときに、いつもそうであったように、政府機構を改正し、政党を廃止せよという即時の要求が軍閥から出た。中国における陸軍の方針が実行されるように、政府部内自身の『革新』が必要であることについて、佐藤は語った。『政党問題』を処理する新しい手段について、かれはほのめかした。日本の内外の困難な問題を断固として処理し得るような、政治の『一党制度』の組織を促進する運動が始まっていた。

1938年9月の内閣危機の結果、外務大臣宇垣の辞職となる (原資料13頁)

 ドイツからの一般的軍事同盟の提案に力づけられた総理大臣近衛は、中国においては妥協を許さないという意見であった。1938年9月7日に、漢口占領後に起こる事態について、かれは厚生大臣木戸及びその他と話し合った。みずから日本の中国支配の強固な支持者であった木戸は、もし中国の降伏する兆しが現われないならば、蒋介石大元帥との交渉を再開する必要があるかもしれないという意見を述べた。そのときに、近衛は、もしそのような手段をとらなければならなくなったら、その責任は、自分にはあまりに重くて引き受けることができないから、辞職すると答えた。かれが外務大臣宇垣から受けた非難について苦々しく語り、宇垣を取り巻く一派は、かれの内閣の総辞職をもたらそうと企てるであろうという考えを表明した。

 1937年11月の政治危機の際にしたと同じように、木戸は直ちに近衛と軍閥の側に立った。もし政局が宇垣の方針によって処理されるようになるとすれば、日本国内に混乱が起こり、その結果中国側によって打ち負かされることになるであろうとかれは述べた。従って、近衛に対して、勇気を起こして職に留まるように激励した。この際に、木戸の言った言葉は、宇垣の政策が一般の支持を得ていたことを木戸が知っていたことを示すものである。

 今や木戸の支持を保証された近衛は、独裁制度を確立しようとする陸軍の策謀を内々知っていることを洩らした。提案された政党の合流によって、かれが断固たる『一党制度』の首領となり、それによって、日本でこれ以上反対を受けないで、国策が遂行されるようにすることができるかもしれないと思うと述べた。この問題に関しては、近衛はかれ自身言質を与えなかったが、成行きがどうなるかを見るために、その職に留まった。

 板垣、木戸、近衛の後ろ盾になっていた軍閥の勢力は、宇垣の一派にとってはあまりにも強いものになった。その月に、すなわち1938年9月に、宇垣は内閣を去り、近衛自身が外務大臣の職務をとった。ここで再び、日本の政府は、国策決定に示された目標に向かって着々と進むようにきめられてしまった。


陸軍の方針の変化

1937年7月――1938年9月

 ここで、盧溝橋攻撃以後に起こった陸軍の方針の変化を再検討し、分析してみることが適当である。中国における戦争は、東条の意見に従った参謀本部の発意によって再び始められた。これは、ソビエット連邦に対して戦争する陸軍の計画を達成するための第一歩であった。1937年の最後の3ヵ月に、参謀本部は、中国で拡大しつつあった戦争が、陸軍の計画の主要な目的を挫折させるのではないかと、ますます心配するようになった。軍の指導者は、非常に憂慮したので、再び自分から進んで、紛争についてドイツの仲介を求めた。

 その結果として、1937年の11月と12月に、ドイツの機関を通じて、中国の和平提案が差し出された。外務大臣広田が、中国との交渉においては、断じて妥協しないという決意であったから、右の提案は成功しなかった。総理大臣近衛は、木戸と広田に支持されて、その職に留まり、その内閣は、これ以上蒋介石大元帥を相手にしないと誓言した。これは1938年1月11日の御前会議の決定であった。

 この時期に至ってさえも、時の参謀次長であり、事実上参謀本部の首班であった多田中将は、中国における戦争の即時解決を求めることに、強く賛成していた。1938年1月15日に、中国に対してとるべき新しい措置を考慮するために、11時間にもわたる連絡会議が開かれた。内閣の中国政策に対して、参謀本部は非常に強く反対していたので、多田は御前会議の決定を取り消させようと試みた。ソビエット連邦との戦争の準備がこれ以上妨げられないようにするために、陸軍はどんな犠牲を払っても戦闘を早く終わらせる用意があった。近衛と木戸は、断固として陸軍の見解に反対した。そして、広田の方針が通った。

 1938年の5月に至って、1937年の11月から日本を襲っていた経済的と財政的の危機がますます深刻になってきた。中国側の抗戦も弱まらなかった。その間に陸軍は総動員法を通過させたが、戦争の準備の長期計画とソビエット連邦に対する即時攻撃の計画とは、両方とも重大な危機に直面した。このような事態の展開に最も責任のあった外務大臣広田は、この経済危機を回避することのできなかった大蔵大臣賀屋とともに辞職した。ともに軍閥の指導者であった板垣と荒木が内閣に加わった。ソビエット連邦に対する戦争のための日本の準備に精通していた東条が、梅津のあとを継いで、陸軍次官になった。

 このときに、広田の後任外務大臣として、宇垣大将も入閣した。宇垣は多年軍閥とは著しく相違した見解をもっていた。かれは軍閥の信頼を少しも得ていなかったので、1937年1月にかれが組閣を試みたとき、軍の指導者はこれを挫折させた。しかし、次の一点に関しては、宇垣の意見は軍の指導者の意見と一致していた。板垣と同じように、たとい中国国民政府と交渉しなければ解決ができないとしても、中日戦争を早く解決することにかれは賛成していたのである。

 新しい陸軍次官東条は、ソビエット連邦を早く攻撃するという陸軍の計画を支持してはいたが、中国に対する陸軍の目的を妥協によって犠牲にしてはならないという見解を維持していた。総理大臣近衛も、厚生大臣木戸も、中国における戦争の早く解決することを望んではいたが、それより先に、まず中国側の抵抗を破砕しなければならないという意見を固く支持していた。

 1938年の7月と8月に、日本軍はハサン湖でソビエット軍を攻撃し、かえって撃退された。この経験の後に、ソビエット連邦に対して即時開戦を強行するという計画を陸軍は延期した。

 この延期によって、中日戦争を直ちに解決するということは、以前ほど緊急でなくなった。参謀本部部員の大部分は、依然として中国との交渉による和平に賛成していたが、中国国民政府と妥協してはならないという東条の見解に、陸軍大臣板垣は同意した。総理大臣近衛はあくまでもこの意見を固執し、木戸の支持を得た。

 外務大臣宇垣の見解は、ドイツ及びイタリアとのいっそう緊密な軍事同盟が有望なことによって自信を増してきた陸軍の見解と、またもや正面から対立した。宇垣は内閣を去った。そして、陸軍の方針に対しては、再び反対がなくなった。

 ソビエット連邦に対する攻撃を一時あきらめたことによって、陸軍は1936年の国策決定の主要な目的を確実に保持することができた。中国における戦争は、日本の好む条件で平和を結ぶことのできる新しい親日的な中央政府が樹立されない限り、終結されないことになった。この新しい中国が、日本の国家総動員計画に対して、大きな貢献をすることになっていた。その間に、日本はドイツと軍事同盟を交渉し、国内戦備の完成を急ぐことになっていた。

輿論の動員についての陸軍の役割 (原資料19頁)

 1938年5月19日に、陸軍は、国家総動員法の目的に関するその説明の中で、国民こそ国家の戦力の源泉であるから、動員に第一に必要なものは『精神力』であると述べた。この目的をもって、教育施設や宣伝機関は統一戦線に動員されることになった。一週間の後に起こった内閣の改造で、軍人であり、軍閥の指導者であった荒木大将が、新しい文部大臣となった。

 戦争を支持するように世論を導くために、検閲と宣伝との非常に実質的な措置がすでにとられていたが、これらの措置は、満州占領後の数年の間、陸軍によって実施されていた。そして、このことについては、主として荒木に責任があった。かれは1931年12月に陸軍大臣になり、犬養内閣と斎藤内閣を通じて、1934年の1月まで、その地位にあった。この期間において、世論の発表に対する陸軍の統制が強固に確立された。新聞は軍閥に受け容れられるような見解を掲載し、陸軍の方針に反する論評は、どのようなものでも、脅迫されたり、報復されたりした。陸軍やその支持者をあえて批評した政治家も、脅迫された。政治的指導者や閣僚さえも、常に警察によって尾行をつけられた。警察は内務大臣に対して責任をもっていたにもかかわらず、この点に関しては、陸軍大臣荒木の指揮に従った。

 陸軍と警察とのこの緊密な連絡は、後年においても維持された。1935年以降は、新聞は完全に警察の支配を受けた。1936年に広田内閣が就任したときは、警察は何人にも政府の政策を批評することを許さなかった。盧溝橋事件の後は、中国における戦争に対する反対は、すべて峻烈に弾圧された。1938年8月に、陸軍の計画が修正されたとき、直ちに、内務省の警察部長会議で、陸軍省の代弁者であった佐藤がその新方針を説明したということは、陸軍と警察との間に保たれていた緊密な連絡を示すものである。

 教育の分野における荒木と軍閥の及ぼした影響も、同じように大きかった。荒木は、陸軍大臣に就任する前でさえも、当時すでに諸学校に施行されていた教練や軍事学科を、大学でも始めようとした。陸軍大臣として、1932年と1933年に、かれはこのような訓練を拡張することを奨励した。陸軍省によって配属された軍事教官は、学校当局に対して、ますます大きな支配力を得た。そして、学生は軍の対外進出の目的を支持するように教えられた。

 1932年と1933年の間に軍閥によって加えられた圧力と、対内と対外の政策上の問題に対する絶え間のない陸軍の干渉とによって、斎藤内閣の内部に軋轢が起こった。1934年1月に、荒木は陸軍省を去った。その後、1936年の3月に、広田内閣が政権を握るまでは、学校における教練と軍事学科は、それほど重要視されなかった。

 1937年7月7日に、中国における戦争が再発してから、あらゆる形式の世論統制の手段が強化された。諸学校における軍事教官は、学校当局から完全に独立するようになった。5ヵ月の後に、すなわち1937年の11月に、あらゆる教育の根本的目的は、日本国家に対する奉公心を助長することでなければならないと決定された。同じ月に、木戸が文部大臣になった。そして、教育制度を日本国民の好戦的精神の涵養という任務に転換することが始められた。戦争を支持するように、学生の心を指導するについて、大学教授がみな積極的に協力することを確実にするために、警察と文部省当局が協力した。

 総動員法の目的についての陸軍の説明は、この仕事の強化が必要であることを強調した。そして、荒木は文部大臣に任ぜられたので、1938年5月26日に、その任務が与えられた。


日本の教育制度の及ぼした荒木の影響

 荒木が文部大臣として任命されてから1月の後、1938年6月29日に、学校と地方当局とに対して、新しい訓令が発せられた。この新しい文部省令は、1938年5月19日に陸軍が表明した希望を反映していた。教育施設を統一戦線に動員することによって、日本国民の戦闘精神を強化するために、あらゆる可能な努力が払われることになった。

 その省令は、『そもそも学生生徒は国家活動の源泉にして国民の後勁(こうけい。「勁」は「強い」の意。後方の精鋭)たり。国家の付託するところ、真に重かつ大なるものあるを思わざるべからず』と述べた。省令はさらに続けて、それであるから、教育制度全般の目的は、国民精神の涵養と発展でなければならないと述べた。『忠君愛国の大義を明らかにし、献身奉公の心操を確立することにつとむべし。』学生生徒に対して、日本の『国体』と『国民文化』の『特質』とを、はっきり理解させなければならなかった。

 純粋な軍事的性質の訓練に、特に重点が置かれることになった。単に学生が『皇国民として分に応じ、必要なる』軍事的能力を体得するためばかりではなく、同時に愛国の精神と当局に対する絶対的服従の精神を注入するために、この訓練が施されるというのであった。

 荒木は木戸によって始められた仕事を継続した。1938年5月26日から、平沼内閣が辞職した1939年8月29日まで、かれは文部大臣の職にあった。この間に、日本の学校制度は、陸軍省から送られた軍事教官の完全な支配のもとにはいった。軍事教練と軍事講義は、日本の大学で義務的となった。学校でも、大学でも、一切の教育は、日本国民の間に好戦的精神を涵養するという根本的な目的に貢献するようにされた。

戦争のための経済上と産業上の動員の一般的進捗 (原資料23頁)

 1938年9月に、内閣は決意を新たにして、陸軍の長期経済産業計画の目標の達成にとりかかった。日本国内の産業上の組織化の計画は、すでに相当に捗っていた。特定の政府的目的のために、特別の法律をもって組織されたところの、国策会社という方法によって、その計画は主として編成されていた。これらの会社は、政府によって直接に経営され、また管理され、それぞれの企業分野の中で、非常に広汎な権限をもっていた。これらの会社の資本金のほぼ半額は政府によって提供され、政府はまたこれらの会社に対して補助金を与え、かつ税を免除していた。1937年6月4日から1938年5月26日まで、大蔵大臣として新しい産業階層の組織を監督した賀屋は、1938年7月1日に、大蔵省顧問に任命された。

 8月の演説の中で、佐藤は各警察部長に対して、この処置は続けられなければならないと警告した。『来るべき対ソビエット戦争のことを考えると、我軍需生産力は現在非常に不足している』とかれは述べた。従って、自由な産業経営から統制された産業経営への変更は、恒久的なものでなければならないし、国家総動員法の実施によって成就されなければならないと陸軍は固く主張していた。特に、日本の輸入依存と不安定な外国為替事情という、それに関係のある問題に対処するために、右の処置は利用されるものであることを佐藤は指摘した。

 征服地域の開発と、日本の経済を開発し、貿易尻を調整するためにとられた徹底的な措置とにもかかわらず、日本国内の戦争産業に支払われる補助金は急激に増大しつつあった。戦争のための国家総動員の目的に向かって進もうという内閣の決意は、重大な財政上の困難にあたってとられた新しい措置によって、よく明らかにされている。1938年9月16日に、日本と日本が支配している大陸の地域の金資源を開発するために、資本金五千万円で、新しい国策会社が設立された。

 輸入に依存して供給されていた戦争資材の保存をはかるために、新しい措置がとられた。1938年11月21日に、屑鉄及び鋼鉄の収集と活用に関する規則が定められた。屑鉄の配給と販売の独占権を有する統制会社が設立され、政府の統制のもとに置かれた。

 しかし、1938年の後半においては、主要な歳出は、中国を開発して経済的と産業的の資産化をするため、並びに同国における軍事行動のためのものであった。陸軍省の予算だけでも、1937年度の二十七億五千万円から、1938年度の四十二億五千万円に増加した。1938年度の軍事予算は、全体として、同年の国家予算総額の4分の3であった。この巨額な歳出の目的は、戦争のための国家総動員を完了し、また中国の抗戦を屈服させて、天然資源と戦争産業力の新しい分野を開くことであった。これが陸軍の方針であって、最近にも佐藤大佐の演説で表明された。


中国の占領地域へ向かって日本の『新秩序』の拡大

 ドイツの経済的援助を得るための最後の努力をしていた東郷大使は、1938年7月29日に、フォン・リッベントロップに対して、日本はその支配力が中国全体に及ぶようになるまで拡大する考えであることを認めた。この目的は、佐藤の8月の演説で再び強調されたが、1938年の最後の4ヵ月間に、日本の政策の基本的な特徴になった。華中でも、華南でも、陸軍は勝利を収め、これによって、日本側は中国の領土の大部分に対する支配力を獲得した。華中でも、華南でも、政治的統御と経済的支配との日本側の体制が強化され、拡張された。中国側は抗戦をやめなかったけれども、1936年の国策決定が要求した『東亜大陸における強固な地歩』を、日本は相当程度に占めた。

 外務大臣宇垣が1938年9月に辞職してからは、陸軍の中国征服という目標は、板垣、荒木、木戸が閣僚であった近衛内閣から、無条件の支持を受けた。1938年7月20日から、松井大将は内閣参謀の一員となっていた。中日戦争の初期に、すなわち1937年10月30日から1938年3月5日まで、かれは日本の中支派遣軍を指揮していた。1938年7月に、内閣改造の行なわれた後に開始された軍事的攻勢は、1938年の9月と10月を通じて続けられた。

 1938年10月20日には、華南の主要都市広東が日本軍に攻略された。5日後の1938年10月25日には、華中の日本軍は、漢口を攻略することによって、その目的を達した。この成功を充分に利用して、日本軍はさらに華中の奥深くへ進んだ。

 日本の勢力が最も少なかった華南では、征服された地域の復興と開発に対する援助を始めることになっていた。企画院は、右の地域における日本の軍事的勝利の効果を確保するために、直ちに行動することが必要であると発表した。華北と華中には、日本に支配された政治的と行政的組織がすでに樹立されていた。これらの地域に対する陸軍の計画は、復興、経済開発及び戦争産業の拡張を要求していた。

 1938年11月3日に、総理大臣近衛は放送演説を行ない、その中で、日本の対華政策に新しい段階が到来したといった。中国の天然資源の開発によって達成することができる『経済提携』についてかれは述べた。近衛によると、東亜において『新しい、理想的な秩序』を樹立しようという日本の目的を達成する上に、これは基本的な手段であった。復興の諸方策は、作戦行動や政治工作と同様に、重要なものであり、緊急なものであった。これらの方策を通じて、国民党政府は打倒され、新しい親日的な中国が確立されるというのであった。

興亜院 (原資料26頁)

 1938年12月16日に、中国における日本の政治的と行政的な支配を確保するために、恒久的な機関が設立された。この日に、中国の内政に関連のあるすべての事項を取り扱うために、内閣に一つの新しい部局が設けられていたからである。興亜院は150人の専任職員をもつこととされたが、この数は総理大臣の意向次第で増加できることになっていた。総理大臣自身が職務上当然にその総裁になることになっていた。同様に陸軍、海軍、大蔵、外務の各大臣が副総裁になることになっていた。総裁官房は、総務長官と四部長に支配されることになっていた。

 この新しい部局は、中国の政治、経済、文化の発展を指導することになっていた。さらに、この部局は、日本政府の各庁が行なう中国関係の行政事務の全部面を統一することになっていた。

 興亜院は二重の意味で重要である。第一には、これによって、征服された中国に関係のある事務が、戦争のための国家総動員の実施について最も重要な職責にあった五大臣の直接権限内に置かれるに至ったことである。1936年に国策の基準を決定したのは、五相会議であった。1938年8月に、外務大臣宇垣がドイツ側の軍事同盟提案を初めて付託したのは、この同じ一団に対してであった。今や日本の『新秩序』の不可分の関係にある部分としての、また新たな武力進出の準備に役立つものとしての、中国の開発を監督することになったのは、この『内閣の中の内閣』であったのである。

 第二には、中国における事態の展開を注視すること、日本の中国関係事務の処理を調整し、管理すること、日本の内閣が中国に関連のある重要事項を決して見落とさないようにすることをもっぱら自己の職務とする常設的な事務権限が設けられたことである。興亜院が発足した日に、当時陸軍兵器本庁付きであった鈴木少将は、同院の4人の部長のうちの1人になった。


中国の経済上と産業上の開発を促進するためにとられた措置

 さきに佐藤が指摘したように、中国における軍事上の成功は、政治的と経済的の目的を達成するための飛び石にすぎなかった。1938年10月の勝利が収められた後に、近衛内閣は、陸軍の1937年の計画中にあらかじめ示されていた中国の経済的と産業的の発展を達成することに専念した。新しい計画は、満州国と日本自身で採用されていたのと同じ型に従うことになっていた。

 総理大臣近衛は、1938年11月3日の放送演説で、この結果を達成するための方法について述べた。華北と華中の経済開発のための主要な機関は、1938年4月30日に創立された二大国策会社とすることになっていた。北支那開発株式会社と中支那振興株式会社は、日本の国策実施のために設立されたのであると近衛はいった。これらの二つの持株会社は、復興と産業開発の特定の部門に直接従事している子会社に融資することになっているとかれは説明した。華中の会社は、戦争のために荒廃した地域の再建を企てることになっていたが、華北の会社は、日本の戦争準備上の必要に直接寄与することになっていた。なぜならば、華北では、戦禍による損害があまり大きくなく、かつ、この地域には鉄、石炭、その他の天然資源が豊富であって、これを開発すれば、充分に利用することができるからであった。中国で実施された政治的と経済的の措置は、軍事的措置とともに、陸軍の計画の産物であった。中国を征服してその資源を利用しようという東条中将の決意は、そのときまでになし遂げられたことについて、非常に力になった。陸軍大臣板垣が優柔不断であったときに、東条は強硬であった。そして、結局には、板垣は東条と同じ見解をもつようになった。

 1938年5月30日から、東条は陸軍次官としていろいろの職をもち、それによって、戦争のための動員の各主要部面に密接に関係するようになった。その上に、華北と華中の経済を統制し、支配することになっていた2つの国策会社の設立委員会の一員であった。1938年12月10日、中国に対する陸軍の計画がすでにほとんど成就されようとしているときに、東条はその本職を辞し、陸軍航空総監になった。

日本の外交政策を支配するために陸軍がドイツとの提携を利用した方法  (原資料30頁)

 ドイツからの一般的軍事同盟の提案を検討した1938年8月9日の閣議の後に、内閣は安んじて問題を軍部の手に委ねた。参謀本部から、内閣も陸軍もともにフォン・リッベントロップの行なった提案に賛成であるという通告を大島は受けた。しかし、この新しい同盟は、第一次的には、ソビエット連邦を目標とすることが希望されていた。

 内閣がこの提案に同意したことは、日本の外交政策に対して、陸軍がすでに獲得していた勢力の程度を示している。日本とドイツとの間に成立していた関係は、大島少将の手を通じて、陸軍によって発展し、維持されていたものである。

 1934年5月に、大島は初めてベルリンの陸軍武官の職に就いた。かれが受けた当時の訓令は、ナチ政権の安定性、ドイツ陸軍のもつ潜在的な価値、並びに、万一ソビエット連邦が戦争に巻きこまれた際にドイツがとるであろう態度を判断することであった。大島は外務大臣フォン・リッベントロップの腹心の友となった。この交友関係を通じて、陸軍は自己とドイツとの関係を維持しようとはかった。間接的に日本の外交政策を左右する手段として、陸軍はこの関係を利用した。

 1936年11月に、ベルリンで締結された防共協定は、参謀本部の承認のもとに、フォン・リッベントロップと大島との間に行なわれた協議の結果であった。1937年11月に、参謀本部は、同じ方法を用いて、近衛内閣の中国に対する政策を変更させようと企てた。外務大臣広田は、中日戦争を解決するための、ドイツからの『斡旋』の申出を不本意ながら受諾した。この中日戦争は、反共の同盟国を相互に疎隔させていたものである。この仲介の企ては、ドイツの発意で行なわれたように見えたが、これも日本の参謀本部の指示によって、大島が促したものであった。最後に、1938年8月9日に近衛内閣に伝達されたドイツの一般的軍事同盟の提案は、それ自身、ドイツ当局と参謀本部の部員との間の秘密の申合せの結果にほかならなかった。

 この最後の提案の作成にあたって、大島はみずから先に立って事を運んだ。1938年の初めのころの月に、このような問題に直接に関係している参謀本部の部から、今が日本とドイツの一般的軍事同盟を締結する好機であると考えるという通知を大島は受けていた。この通告をした者は、参謀本部全体の意見を代表しているわけではないことを明白にしていたのであるが、ドイツ側に対して、大島は日本陸軍がこのような同盟の締結を望んでいると知らせた。大島自身がその内容の大綱を樹て、フォン・リッベントロップとともに、仮提案の正文を決定した。そのときになって初めて、参謀本部はそれを承認し、ドイツ側の発意によってなされた提案として、外務大臣宇垣に伝達した。フォン・リッベントロップと大島との交渉は、東郷大使が日本政府を代表して、中国の征服地域に対するドイツの経済的参加の条件を協議していた数ヵ月の、ちょうどその間に、かれの少しも知らないうちに、行なわれていたのであった。


外交官の異動はドイツ及びイタリアとの関係を強化しようとする内閣の希望を示した

 外務大臣宇垣の辞職に伴い1938年9月及び10月に、外交代表の異動が行なわれた。これらの異動は、内閣がまだ積極的な公約を与えることを望まなかったけれども、陸軍と同様に、ドイツとの同盟関係を一層緊密にしようとする熱意をもっていることを明らかにした。

 今では、ソビエット連邦と直ちに戦争することは考えられなかったから、同国に対しては、もっと協調的な態度をとる必要があった。1938年8月に、日本がハサン湖で敗れたために、重光大使が露骨な言葉で行なった満州国国境に接するソビエット領土の割譲の要求は、放棄されていた。1938年9月22日に、重光はモスコーの大使としての任を解かれ、同じ資格でロンドンに派遣された。モスコーにおけるかれの後任者は東郷であった。ベルリンの大使としての経験から、東郷はそれほど強硬でない政策を行なうのに適していた。その前年に、かれはドイツ側に対して、日本が守る意思のない約束を誠意のあるものと思いこませようと努力していた。

 東郷はすでにドイツ側の信用を失っていたから、かれがモスコーに移されたことは、二重の目的に役立った。1938年10月8日に、かれの後任として、かれの陸軍武官大島がベルリンの大使になった。大島の活動は、すでに大いに東郷の外交上の権能を奪い、東郷の権限を侵していた。1937年に、中国征服を完遂する日本の決意について、東郷が保証を与えていたときに、フォン・リッベントロップは大島から、すでに日本陸軍が中日戦争の解決の交渉を望んでいることを聞いていた。1938年に、広田の政策に従って、東郷はドイツに対して中国の被征服地域内で優先的地位を与えようと申し出たが、そのときには、他方で、大島の勧告で、枢軸三国間の軍事同盟を締結する希望をドイツ側に起こさせていた。1938年8月には、東郷の約束が実を伴っていないことが完全に暴露されていた。そして、同じ月に、大島の仕事が近衛内閣の全面的承認を得た。

 従って、大島が大使に任命されたことは、重大な意義をもつ事件であった。ソビエット連邦との戦争を予期して行なわれた軍事同盟の交渉に対して、それは内閣の承認の印を押すものであった。それは日本の外交政策の分野における陸軍の勝利であり、また陸軍の戦争準備の一歩前進であった。

 大島の抜擢は、今や日本が偽りなくドイツ及びイタリアとの協調を望んでいるという保証をドイツ側に与えた。大島自身は、地位も名声も上がったので、三国軍事同盟を締結するために、フォン・リッベントロップと自由に合作することができた。

 この仕事は、イタリアにおいてもまた遂行されることになっていた。大島がベルリンの大使に任命される2週間前、1938年9月22日に、長い間ソビエット連邦との戦争を望んでいた白鳥が、ローマの大使に任命された。かれはみずから枢軸三国の間に軍事同盟を締結することが自己の主要任務であると考えていた。

 白鳥の任命も、外交問題における陸軍政策の勝利の、もう一つの重要さを例示するものである。かれの軍閥との関係は久しいものであった。1930年10月31日から1933年6月2日まで、かれは外務省情報部長であった。この期間を通じて、陸軍の征服と対外進出の計画について、かれは強力な支持者であることを示した。1932年5月、総理大臣、犬養の暗殺される1、2週間前に、内閣と官吏の内部で、総理大臣の自由主義的政策を支持する者と、『皇道(皇道に傍点あり)』派に属する者、すなわち陸軍大臣荒木の指導する軍閥に属する者との間に、分裂があった。このときに、日本が国際連盟から脱退することをやかましく要求した外務省官吏の一団の中で、白鳥は特に有力な者であった。かれの見解によれば、連盟に加盟していることは、満州征服後の日本の立場と両立しなかったのである。

 それから4ヵ月の後、斎藤内閣の在任中に、白鳥は再び軍閥の意見を支持した。日本の難局は強力な政府が存しないために生じたのであるとかれは主張した。従って、荒木こそ、『有力な軍国主義者の代表者』として、来るべき5、6年の間、確固とした政策を進めるであろうと述べ、陸軍大臣荒木が総理大臣に任ぜられることを主張した。

 白鳥は、自分が東京にいることは、自分の主張する意見を護るために重要であると考えていたので、海外勤務を受諾することを好まなかった。それでも、1933年6月2日に、かれはスカンジナビア諸国の公使となった。そして、海外在勤の期間を通じて、日本はできるだけ早くソビエット連邦に対する攻撃を始めなければならないという陸軍の意見を支持した。

 1937年4月28日、盧溝橋事件の起こる3ヵ月前に、白鳥は東京に呼び戻され、臨時外務省事務に従事することを命ぜられた。

 1938年の初めの数ヵ月間に、かれは華北と華中を旅行し、対外政策についてのかれの意見が、板垣中将の意見とよく一致していることを知った。

 板垣は、陸軍大臣に任命されてから2週間も経たない1938年6月に、近衛に対して、白鳥を外務次官に任命するように説いた。この要求は、その後間もなく、外務省の少壮官吏の支持を受けた。それは大川が外務大臣宇垣に提出した陳情書にあらわれている。近衛はこの申入れを政治的に好都合であると考えたが、宇垣と外務省の上級官吏とはそれに反対し、この任命は行なわれなかった。

 1938年8月に、内閣はドイツ及びイタリアとの軍事同盟の申入れを承諾した。他方で、陸軍はソビエット連邦との戦争の計画を修正した。1938年9月に宇垣が辞職したことは、国内政策でも、対外政策でも、陸軍とその支持者が勝利を収めたことを示すものである。その月に、大島はベルリンの大使となり、白鳥は大使としてローマに派遣された。

陸軍は枢軸諸国との軍事同盟の交渉を続行した(原資料36頁)

 このように内閣から援助を受けて、ドイツとの友好関係を固めるために、陸軍は新たな努力を払った。1938年10月2日に、陸軍大臣板垣はヒットラーに電報を送り、ドイツがチェッコ・スロバキアのズデーデン問題の処理に成功したことに対して、陸軍の深甚な賞賛を表明した。ドイツの国運が永久に盛んであること、また『日独両国軍の友誼が防共戦線に統一せられ、従来より更に一層強化せられ』ることをかれは祈ったのである。

 ベルリンでは、大島大使はドイツと、日本との陸軍の協力をさらに緊密にするという目的の達成を促進していた。1938年の9月か10月に、かれはソビエットの国境を越えて諜報者を派遣し、またドイツ軍の指導者とソビエット軍に関する情報を交換する交渉をした。

 その間に、三国同盟を締結するという企ては、ローマでもベルリンでも考慮されていた。ドイツ側は、ムッソリーニ及びその外務大臣チアノとすでにこの計画を協議していた。ムッソリーニはまだ同盟を締結する決心がついていなかったが、すでにこの企てに根本的には同意であることを表明していた。

 この提案された同盟条約の正文は、大島、フォン・リッベントロップ、チアノによって、その直接協議の結果として作成されたものである。その有効期間は10年と定められていた。『単独不参加』規約という形で、新しい条項が追加された。また援助を与える義務が生じたときは、直ちに協議すべきであるということを定めた議定書草案もつくられた。

 1938年12月に、日本からの許可を得て、大島はローマを訪問した。しかし、ムッソリーニにはまだ同盟締結を考慮する用意がないことをかれは知った。



ドイツとの文化協定、並びに同国に対する近衛内閣の政策

 1936年11月に、防共協定が締結されたとき、日本とドイツとの間には、秘密軍事協定が結ばれた。そのときに、ドイツ側は、ソビエット連邦に対するドイツ側の態度をきめるにあたっては、秘密協定の精神だけが決定的なものであること、この協定は、万一必要な場合には、日独関係をさらに進展させる基礎となるものであることを宣言した。陸軍がそのときしていたのは、この進展を実現することであった。

 1938年10月中に、有田が外務大臣になった。その前月に、宇垣が辞職した後、総理大臣近衛がみずから引き受けていた外務大臣の職を引き継いだのである。陸軍の諸計画を知っている点で、有田の右に出るものはなかった。それはかれが広田内閣で外務大臣をしていたからである。国策の基準が決定された五相会議の度重なる重要な会合に、有田は右の資格で出席していた。その期間中、外務大臣として、有田は日本とドイツの間に防共協定と秘密軍事協定が締結されるに至った諸交渉を指揮していた。1936年11月、批准のために、この協定が枢密院に提出されたときに、有田は内閣の代弁者としての役目をつとめた。

 1938年11月22日に、文化的協力に関する日独間の協定が枢密院によって批准された。平沼がその枢密院会議で議長であった。板垣と荒木はそれぞれ陸軍大臣と文部大臣として出席した。このときにも、有田は日本とドイツの関係を強化しようとする措置に関する代弁者であった。

 この協定は、両国の文化関係は各自の国民精神にその基調を置くべきことを述べたもので、枢密院審査委員会によって承認された。この委員会は、この協定は友好関係を強固にし、『これを増進』し、また日本の外交の一般目的達成に寄与するであろうと報告した。

 防共協定が批准されたときと同じように、幾人かの顧問官は、内閣の親ドイツ政策の真の意味について、まだ懸念を抱いていた。この新しい協定はなんら政治的の意味を含んではいないことを有田は保証したが、この保証は、ある1人の顧問官を満足させなかった、その顧問官は、『最近我が国においてドイツ国の風潮に心酔せんとするの傾向なしとせず』といった。『右事実に鑑み、本官は重ねて本協定批准に当たり、国民にその嚮(むか)う所を謬(あやま)らしめざるよう何らかの方法を講ぜられんことを希望す』とかれはつけ加えた。

 2年前に、内閣の対独政策を支配していた考えが、依然として行なわれていた。この枢密院会議の記録は、日本の世論はドイツ及びイタリアとの緊密な同盟をまだ考えていなかったことを明らかにしている。有田は文化協定の意義を実際より軽く説明した。というのは、同内閣はそのような同盟が企てられていることを認める用意がなかったからである。その上に、木戸とその他の者は、ドイツが提案した形の同盟は、面倒な約束になるのではないかという懸念を表明した。これらの2つの制限的条件のもとに、三枢軸国の三国軍事同盟によって、戦争に対する日本の国内準備が強化される時期を早めるために、近衛内閣はできる限りのことをした。

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