歴史の部屋

1938年における日本と西洋諸国との関係の一般的な悪化 (原資料40頁)

 提案されたドイツ及びイタリアとの軍事同盟は、日本の強い主張によって、第一次的にはソビエット連邦を目標とすることになっていたが、この新しい提案が、日本の西洋諸国との関係に不利な影響を与えることは避けられないことであった。1938年8月に、総理大臣近衛が一般的な軍事同盟についてのドイツの提案を初めて受けたときに、かれは国際情勢に関するドイツの見解についても知らせを受けた。外務大臣フォン・リッベントロップは、ソビエット連邦との戦争は避けられないものであり、ハンガリーとチェッコスロバキアは同盟国となる可能性があり、ルーマニアは中立を維持するであろうと考えた。かれはフランスをイギリスから引き離すことはできないものと考え、これらの国が敵となる可能性があることをほのめかし、合衆国はこれらの国を経済的には援助するが、軍事的には援助しないであろうと述べた。提案された同盟を日本側の承認を得るために提出する前に、これについて、フォン・リッベントロップがヒットラー自身と長い間協議したということは、日本側にわかっていた。

 従って、内閣と陸軍にとっては、ドイツがある程度まで西洋諸国を目標とした一つの同盟を考えていたことは明らかであった。ソビエット連邦ばかりでなく、他のすべての諸国をも目標とすることになる条約の交渉を承諾することによって、内閣はドイツの提案に暗黙のうちに同意した。

 同じ1938年の8月に、陸軍はソビエット連邦に対して直ちに攻撃を開始する計画を再検討した。そして、中国において、日本の『新秩序』を建設することに努力を集中した。1938年12月までには、1936年の国策決定に含まれた対外進出主義者の目的は、大体において達成されていた。『大東亜共栄圏』の存在は公然と宣言された。そして、この地域における日本の立場は、国策決定の言葉によれば、日本が『列強の覇道政策を排除する』ことを要求したのである。1938年8月25日に、佐藤大佐は『支那は英ソ両国を背景とし、両国は陰に陽に支那を援助し、わが戦闘行為の進捗に障碍(しょうがい)を与えつつあり』と述べた。

 1938年の後半のこれらの月には、すでに緊張していた日本と西洋諸国との関係は、さらにはっきりと悪化した。陸軍の長期計画の遂行は、友好とか条約の尊重とかを口にしても、もはやもっともらしく聞こえない段階に達していた。日本の指導者は、まだ戦争の覚悟はできていなかったが、今までより大胆に語ったり、行動したりする用意ができていた。動員は部分的に達成され、今やドイツの援助が約束されていた。中国の占領は着々と進められていたように見受けられ、日本の新しい帝国が存在するに至ったことは、もはや否定できなかった。

 事態のこのような発展は、これから、さらに詳細に検討しなければならないが、決して政策に変更があったことを示すものではなかった。日本は戦争準備を完成しつつも、依然として『列強との友好関係の維持に努』めることになっていた。しかし、国策決定の目的は、『万難を排除して達成』することになっていた。西洋諸国に対する新しい態度は、佐藤が8月に警察部長に対して行なった演説によって示されている。『英に対してはある程度の彼の権益を認め、速やかに蒋介石との縁を一切打ち切らしめる』とかれは述べたのである。


中国における西洋諸国の権利の日本による侵害――1937年7月―1938年9月

 1937年7月7日に、盧溝橋で中国における戦争が再び始められてから、日本が中国における西洋諸国の権益を侵害した件数は次第に増大していた。中国におけるイギリスとアメリカとの国民と財産に対する攻撃がしばしば行なわれた。そして、これらは繰り返し行われた外交上の抗議の題目となった。

 西洋諸国に対する日本の関係に同様に害を及ぼしたのは、中国において『門戸開放』または通商上の機会均等を維持するという条約上の義務を日本が組織的に侵害したことであった。これらの慣行に関する最も明白な実証は、ドイツ側から出ていた。1938年7月24日に、中国におけるドイツの代表は、日本の軍当局者が中国と内蒙古の経済を制圧しようと努めていると本国政府に報告した。日本はこれらの国の経済をもっぱら自国にだけ役立たせ、すべての外国の利益を排除しなければならないという意思であるとかれらは述べた。

 外国の抗議に応えて、日本の当局者は、すでに起こった事件に関しては遺憾の意を表明し、戦争の必要上やむを得なかったと弁解し、条約上の義務は尊重していると称した。しかし、1938年6月に、板垣と荒木が近衛内閣の閣僚として木戸と同僚になったときに、自説を押し通そうとする新しい精神が徐々に現われた。

 1938年7月の末に、東京のイギリス大使は、自国のおもだった苦情の概要を提出した。外務大臣宇垣は、これらの要求を解決することに好意を示した。それと同時に、大使に対して、もしイギリスが日本に対してさらに好意的になり、蒋介石大元帥を支援することを中止するならば、解決はいっそう容易に達成されるであろうといった。

 日本は中国に対して宣戦の布告をしていなかったから、中国国民政府軍に対して、他の諸国が援助を与えることについて、苦情を唱えることを正当化する理由はなかった。その上に。国際連盟の加盟国であったイギリスとその他の諸国は、1937年10月6日に連盟で可決された決議を支持することを約束していた。そのときに、中国における日本の活動の侵略的性質にかんがみ、すべての連盟国は、中国の抵抗力を弱めるおそれのあるどのような行動をもとることを差し控えること、また各国は中国に積極的な援助を与えるために、どんな措置をとるべきかを考慮することが決議されていた。

 宇垣の声明の真の意義は、中国の征服を西洋諸国に黙認させるために、日本は圧力を加える決心であったという含みにある。この政策は、その翌月に明らかにされた。

 1938年8月に、イギリスとフランスが天津におけるそれぞれの租界内の親中国的な活動を取り締まることを日本は要求した。これらの活動は、国際法に基づいて苦情を申し立てる根拠を日本に与えたものでもなければ、その取締りは連盟の決議の趣旨に合致したものでもなかった。それにもかかわらず、イギリスとフランスの当局者は、もし日本の要求に応じなかったならば、かれらの国が適法に占領している地域から撤退せねばならなくなるおそれがあった。

 1938年9月に、宇垣が辞職した後、傍若無人の精神は、いっそうはっきりと現われてきた。1938年の最後の3ヵ月の間に、有田が外務大臣に就任してから、日本は初めて条約義務を破る意思のあることを公然と認めた。従って、この期間に行なわれた外交上の通告の頻繁な交換を、やや詳細に検討することが必要である。

中国における西洋諸国の権利の侵害の継続と『大東亜』主義の出現――1938年10月―12月 (原資料44頁)

 1938年10月3日に、東京の合衆国大使ジョゼフ・C・グルーは、アメリカの苦情の概要を提出した。中国における『門戸開放』の原則の遵守(じゅんしゅ)と合衆国の利益の保護とに関する誓約は、従来実行されていなかったとかれは述べた。通商の規則を定め、これに課税し、これを禁止する究極の権限が日本の手中にある限り、『門戸開放』はあり得ないということを強調した。

 その3日後に、グルーは詳細な通告によってこの抗議の根拠を示した。その通告は、満州国における日本の諸会社は特恵的な地位に置かれていること、物資の交流に対する制限は、外国の貿易業者に対して、日本側の競争者の負担していない不利な条件を負わせていること、このような措置が中国の他の地域にも適用されるであろうという証拠がすでにあることを指摘した。満州国において、軍事上の必要という口実によって、合衆国の国民は自分の財産に手をつけられないようにされていた。日本の商船は依然として揚子江下流を使用していたが、アメリカの船舶は航行を拒否されていた。青島の港は、日本の手中にあった。

 最初の間は、これらの苦情は、単に外務省の代弁者から穏やかな回答を得ただけであった。このような状態は、戦局の緊急な必要に基づくものであり、他の諸国は日本の立場を了解しなければならないとかれはいった。しかし、次第に東亜『新秩序』の理論が出現してきた。1938年11月3日に、総理大臣近衛は、日本の真意を了解し、新しい事態に適応する政策をとる第三国とは、どんな国とでも、日本は協力するであろうと声明した。

 1938年11月18日に、有田はこれらの苦情に対して一般的な回答を行ない、再び戦局の緊急な必要を指摘し、日本は今やその『東亜新秩序』のために努力をしているものであるから、事変前の体制の諸原則は適用できないと述べた。合衆国の代表者は、有田に対して、この回答はアメリカの要求の全面的な拒否になると述べた。それに対して、外務大臣は、『門戸開放』の原則を中国だけに適用することは、甚だ非論理的であると答えた。グルー大使は、合衆国が条約義務と『門戸開放』の原則とを遵守していることを再び強調し、それによって、有田からさらに明確な回答を引き出した。有田は、日本は第三国と協力することを欲するものであるが、現在においては、『門戸開放』の原則を無条件に適用するのを認めることは、日本にとって困難であると述べた。中国と日本との、いっそう密接な関係を助長するために必要な措置は、このような原則の実行を排除することを必要とすることがあるかもしれない。しかし、他の諸国の経済的活動の余地は、依然として相当に残るであろう。揚子江問題については、かれは何の誓約も与えることができなかった。

 この意見の交換がすんでから2日して、グルー大使は、広東の海関(かいかん。海に面した港に置かれた関所。税関)が1938年11月初旬に日本の領事館当局と軍当局によって接収されたことを指摘し、これは『門戸開放』の原則に対してさらに新しい違反を構成すると苦情を述べた。今度は、有田は日本の立場をはっきり明らかにした。東洋における国際紛争の防止を目的とした諸条約を原形のまま適用することは、『かえって平和と一般の繁栄をもたらす所以(ゆえん)にあらず』とかれは述べた。日本は『門戸開放』政策に原則において同意しているが、イギリス帝国内部におけると同じように、日本は中国と満州との『特恵的関係』を許されなければならないと述べた。防衛上欠くことのできない必要を満たすために、独占企業が許されるであろうが、一般的には第三国に対して特別の差別は行なわないというのであった。

 グルーは、かれの政府は、条約義務の一方的な変更は認めることはできないと述べた。そして、1938年12月30日に、現状(現状に白丸で傍点あり)のどのような変更も、列国の間の会議において行なわれなければならないと主張した回答をさらに有田に提出した。その後、会談は相当の期間中止された。


海南島を占領し、仏印に圧迫を加える決定

 1938年の最後の3ヵ月間に、日本の政策の上に、西洋諸国との確執を激しくするものと予想される出来事がまた現われた。盧溝橋で中日戦争が再び始まってから10日の後、1937年7月17日に、フランスは、中国国民政府軍に対して、仏印を通じて武器弾薬を補給することを契約した。日本は中国に対して宣戦の布告をしたことは一度もなかったから、この契約は少しも中立法規の侵害を構成するものではなかった。それにもかかわらず、フランス当局に対して、日本は何回も抗議した。そして、この圧迫の結果として、1937年10月に、当時存在した契約期限が満了したら、軍需品の供給を中止することをフランスは約束した。

 有田が外務大臣として就任した後、1938年10月26日に、日本は依然として武器が仏印を通じて国民党軍に補給されているという苦情を述べた。フランス当局は、雲南鉄道がこの目的に使用されていることを否定し、日本側から要求された措置をとることを拒絶した。

 それにもかかわらず、中国へ軍用物資を輸送するために、雲南鉄道が使用されていると日本は主張し続けた。1938年12月9日に、有田の承認を得て、日本の海軍軍令部に対して、作戦上の事情から必要である限り、中国の領土内で雲南鉄道を爆撃することについて、外務省には何の異議もないということが通告された。この爆撃のもたらす作戦上と政治上の影響はすこぶる大きいものであろうということ、しかし、それがフランス、イギリスまたはアメリカ合衆国を『過度に』驚かせることはなかろうということが前からきめられていた。

 右の政策に一致するものとして、それより2週間前の五相会議の決定があった。陸軍大臣板垣がその一員であったこの五相会議は、1938年11月25日に、海南島は必要な場合には軍事行動によって攻略するということを決定した。この中国領の島は、北部仏印の沿岸に相対し、これを制圧する位置を占めていた。

日本の国際連盟との関係の断絶とその意義 (原資料49頁)

 これと同じ期間中に、日本は国際連盟との間にまだ残っていた関係を完全に断絶した。1938年9月22日に、外務大臣宇垣は、中国の事態を調査するために設けられた連盟委員会に参加することについて、日本の拒絶を伝達した。この回答を受領してから1週間の後に、各国は日本に対して制裁手段をとること、また中国に援助を与えることを連盟は決議した。

 制裁手段をとるという連盟の決議が発表された直後、1938年11月2日に、枢密院会議が開かれた。この会議に出席した者の中には、枢密院議長平沼、総理大臣近衛、文部大臣荒木、厚生大臣木戸及び陸軍大臣板垣がいた。

 審査委員会は、連盟を脱退してから、日本は進んで連盟諸機関とその活動に協力したと報告した。しかし、連盟は中国の立場を擁護し、今や日本に対して制裁手段をとることを決議した。具体的な手段はまだ何もとられていないが、この決議が有効である限り、日本と連盟とは完全に対立することになる。従って日本は連盟との一切の関係を断絶しなければならないが、南洋諸島の統治は、連盟規約と委任統治条項に従って、これを続けることにする。従来のように、日本は受任国として行政に関する年報を提出することにする。枢密院は審査委員会の報告を採択し、全会一致で連盟との関係を断絶することを決議した。

 この決議は、日本が東亜を支配する意図を有していることを初めて認めたのと時を同じくしていた。陸軍の武力による対外進出計画は、その性質そのものからして、国際団体の権利を否定するものであった。そして、計画のはかどるにつれて、この事実は必然的にますます明らかとなってきつつあった。1933年に、連盟が満州の占領を非難したことが動機となって、日本は直ちに連盟から脱退した。その後、日本の指導者は、終始一貫して、陸軍の計画の遂行と両立しない国際的な誓約を避けてきた。今やその計画が部分的に達成されたので、日本の指導者は国際団体から脱退する最後的な手段をとった。

 それにもかかわらず、中国に関する九国条約と南洋諸島に関する連盟規約の規定とは、引き続き日本を拘束した2つの重要な誓約となっていた。日本の代弁者は、これらの義務を尊重すると公言した。というのは、日本は戦争の準備をしながら、『列国と友好関係の維持に努』めるということが国策決定の原則であったからである。当時までの数ヵ月の間に、中国において起こった諸事件は、外務大臣有田に、日本はもはや東洋に関する諸条約の文字を厳格に守る意思のないことを認めさせるに至った。この新しい政策の声明は、極東の変化した事態に基づくものとされた。しかし、そこに起こった変化は、日本の侵略の結果であったのである。

 日本は受任国としての権限を連盟規約から得たのであるが、その規約によると、南洋地域に要塞を構築することは禁止されていた。3年あるいはそれ以上前に始められた築城工事は、日本の委任統治諸島の全体にわたって、ますます急速に進められていた。しかし、これはまだ厳重に守られていた秘密であった。そして、引きつづいて人を欺瞞することができる所では、日本の指導者はこの手段を用いた。枢密院は、連盟規約の規定に従って、日本がこれらの諸島を統治する意図のあることを再び確認した。


南方進出の準備、並びに日本の究極の目的と荒木

 1938年11月3日に、近衛内閣は『大東亜』の将来に関する政策の公式声明を発した。この声明は、国際連盟との一切の関係を断絶する決定のあった翌日に発表されたのであるが、日本の『新秩序』の出現を、大川とその他の政治評論家が一般に普及させた曖昧な、また大げさな言葉で説明した。

 国策の基準に関する決定をした者が考えていた通り、このような事態の展開が西洋諸国に敵意を懐かせるようになることは避けられないことであった。これらの西洋諸国と戦争に訴えない限り、これ以上の進出は達成されないという場合に備えて、日本はすでにその全資源を動員しつつあった。秘密のうちに、新しい海軍力がつくられつつあった。そして、太平洋の戦争に備えて、海軍基地が準備されつつあった。

 この準備は、日本がアジア大陸に建設しつつあった新しい帝国に外国が干渉することに対して、単に防衛的な計画の措置でもなかった。というのは、中国とソビエット連邦以外の国の領土に対しても、日本は野心をもっていたからである。国策の基準に関する決定は、第二の目標――『外交国防相俟って南方海洋に発展する』という目標を定めていた。

 すでに日本は南方進出の準備を進めていた。1938年の5月と12月の間に、日本政府の当局者は、オランダ領東インドで宣伝工作を行なうことを準備していた。日本の『南方進出』に対する準備をするという公然とした意図をもって、マレー語の新聞を発行することが計画された。

 これらの日本の究極の目的は、文部大臣荒木が当時行なった演説に反映されている。内閣が『大東亜』の将来に関して宣言をしてから4日の後、すなわち1938年11月7日に、『国民精神作興』に関する詔書の15周年記念日に際して、荒木は放送演説をした。荒木は中国における日本の成功を回顧し、これはこの詔書の履行の一段階であると称した。しかし、聴衆に対して、根本問題は中日事変そのものにあるのではなく、中日事変は『新しい世界平和』の前兆にすぎないと警告した。日本は来るべき新世界に大きな役割を演ずる立場にありと述べ、それゆえに、日本はどのような非常事態にも備えなければならないというかれの確信を表明した。かれは続けて、『蒋介石や世界が何と申そうとも、この新世界の黎明期に重責を負える光栄ある日本の臣民として十分なる底力を蓄えて、日本それ自体の本質を眺めながら、悠々迫らず一歩一歩足を大地に踏みしめて、永遠の禍根を絶ちつつ建設に進まねばならぬのであります』と述べた。

日本の当面の目的――東亜新秩序の建設及びソビエット連邦との戦争に対する準備 (原資料53頁)

 これらの究極の目的を達するためには、日本が中国にもっていた足場を固めることと、戦争のための国家総動員をなし遂げる努力を強化することを必要とした。1938年の11月と12月の発表では、これらの当面の任務が強調された。近衛内閣は、その1938年11月3日の声明で、中国国民政府はすでに一地方政権と化したと発表した。声明はさらに続けて言った。国民政府が容共抗日の政策を固執する限り、それが潰滅するまで、日本は断じて矛を収めない。というのは、日本が満州国及び新中国と相携えて、『新秩序』を建設しようと企てているからであると。1938年11月29日に、外務大臣有田は、日本の中国に対する政策を回顧して、これらの目的と企てとを再び繰り返した。

 これらの声明によって、内閣はやはりソビエット連邦を日本の野心達成の当面の障害であると見ていたことが明らかである。いまでは、西洋諸国との戦争も、究極においては起こり得ることであったが、ソビエット連邦は最も間近な敵であり、次第に大きくなりつつあったその国力は、東亜の制覇という日本の目的に絶えず挑戦するものであった。

 興亜院が設置されてから6日の後、1938年12月22日に、総理大臣近衛は、内閣の政策をいっそう明確にする声明を発表した。再び『抗日国民政府の徹底的武力掃蕩』を期するとともに、『東亜新秩序の建設に向かって邁進』するという、かれの内閣の確固たる決意を繰り返して述べた。さらに続けて、東亜にはコミンテルンの勢力の存在を許してはならないこと、防共協定の精神によって、新しい協定を新中国及び満州国と結ばなければならないことを語った。日本は反共産主義の手段として、新中国と満州国と内蒙古とに駐兵する権利を求めるであろうといった。中国はその天然資源を、特に華北と内蒙古の地域の天然資源を開発するについても、日本に便宜を与えるものと期待された。


第一次近衛内閣の辞職――1939年1月4日――と平沼内閣の成立

 近衛の演説の趣旨には、決意の不足を示すものは何もなかった。それにもかかわらず、2日後の1938年12月24日に、総理大臣は再び内閣の辞表を提出する話をしていた。1937年6月4日以来のかれの在任期間は、政治危機が繰り返し起こったことが特徴であった。これらの危機が動機となって、かれは辞職するといって人を威嚇したことが数回あった。この威嚇は、どの場合にも、軍閥に刺激を与えるのに役立っただけであった。そして、軍閥はかれを説得して留任させた。その場合には、いつでも、陸軍の計画の進展に対する反対がしりぞけられた。近衛が総理大臣のときに、これらの計画は実を結んだのである。日本はすでにアジア大陸に『新秩序』を建設しており、戦争への国家総動員は、真剣に行なわれていた。

 陸軍の征服と戦争準備との計画に対して、近衛がみずから終始一貫して支持を与えていたので、この一般的計画の実施に対して、かれはほとんど反対を受けなかった。しかし、陸軍の目的を達成するためにとられた措置の詳細については、内閣の内部からも、外部からも、幾度も繰り返して批評を受けた。1938年8月に、近衛は単一政党制度による政府の首班に推されることを希望していた。この政府では、軍閥が反駁の余地のない唯一の発言権をもつことになっていた。しかし、その希望は実現しなかった。

 内閣の当時の政策のある部面が賢明なものであるかどうかを疑う者から、再び不満の声が出たに違いないと思われる。以前と同じように、近衛は総理大臣の地位に留まることを勧められた。枢密院議長平沼は、かれに対して、中国の現状にかんがみて、その職に留まらなければならないと忠告した。厚生大臣木戸と陸軍大臣板垣は、『計画の進展』を討議するために、総理大臣と会見した。新任の興亜院政務部長であった鈴木少将は、近衛がその職に踏み留まらなければいけないと信じていた。しかし、このときには、かれらの懇請は役に立たなかった。1939年1月4日に、近衛は内閣の辞表を提出した。

 それに続いて起こった変化は、単に指導者がかわっただけのことであった。国策の基準の決定の目標を達成するために、近衛と協力した重要な政治指導者の一派は、例外なく官職に留まった。近衛は枢密院議長になり、かれの前任者平沼が新しい総理大臣になった。

 陸軍大臣板垣、外務大臣有田及び文部大臣荒木は、それぞれその職に留まった。木戸は新内閣の内務大臣になり、鈴木は、かれが最近獲得した内閣情報部の委員と、興亜院の部長としての地位に留まった。

 総理大臣平沼は、1936年3月13日以後、広田内閣が初めて陸軍の計画の進展に着手してからの全期間を通じて、枢密院議長の地位にあった。1936年11月25日には、天皇の臨席のもとに開かれ、防共協定の批准が全員一致で承認された枢密院会議に出席していた。1937年11月6日には、この協定にイタリアが加入することを承認した枢密院会議の議長であった。1937年1月20日には、日本の委任統治諸島は、帝国の国防上重要な地位をもつようになったのであるから、海軍の管理のもとに置くべきであると決議した会議の議長であった。

 1938年1月には、平沼は、外務大臣広田によって作成された長期の外交政策に承認を与え、中国の戦争は最後まで戦わなければならないという広田の意見を支持した。平沼が総理大臣の職を受諾する1月余り前の1938年11月29日に、外務大臣有田は、詳細にわたって、かれの中国に対する政策を枢密顧問官に説明した。この政策は、すべての重要な点で、広田の計画と国策の基準の決定の原則とを包含していた。

 平沼は、1938年11月2日に、日本と国際連盟との間に残っていた関係を断絶することを全員一致で決議した枢密院会議の議長であった。1938年11月22日には、天皇の臨席のもとに開かれ、日独文化協力に関する協定を承認した枢密院会議に出席した。

 満州の征服の前にすら、平沼は軍閥の指導者の中で卓越した地位を得ていた。広田内閣が政権をとる前の10年の間、かれは枢密院副議長の地位に就いていた。1931年7月には、日本の民族精神を養い、それを高揚することを誓言した秘密結社国本社の総裁でもあった。この団体の理事の中には、陸軍軍務局長小磯中将がいた。この小磯は、それより3ヵ月以前に、自由主義的な若槻内閣を転覆しようとした陸軍の陰謀の参画者であった。

 1931年7月という月は、陸軍の計画の進展において、重大な時期であった。陸軍の指導を主張する者と若槻内閣を支持する者との間には、すでにはっきりした分裂があった。その2ヵ月後には、奉天事件が起こった。1931年12月に、荒木は陸軍大臣として、日本における軍部の優越と満州における軍事的支配とをもたらそうとする運動の積極的な指導者になった。

 1931年7月には、自由主義者から、天皇の側近にいる者としては、荒木は危険であると見られていた。かれはまた平沼を首班とする国本社の理事であった。日本の征服と対外進出との過程のそもそもの初めに、平沼が軍閥の最も有力な分子から指導者として仰がれたことは、軍閥の指導者としてのかれの重要性を示すものである。自由主義者の間では、そして陸軍部内でさえも、荒木は平沼の追随者であると見られていた。

太平洋戦争の根本的な原因は中国の征服の中にある (原資料58頁)

 平沼が総理大臣になった1939年1月5日には、日本はすでに容易に停止することのできない征服と領土拡張の計画に着手していた。国策の基準の決定は、自給自足の目標を達成することと、日本の全国力を戦争のために動員することとを要求していた。中国に対する日本の侵略が他の諸国に引き起こした不満と懸念のために、戦争準備を完成することが従来よりもいっそう緊要になった。このことは、ひるがえって、外国の物資の供給源に依存する必要のない戦争経済の整備を必要とした。自給自足が絶対的に必要であることから、陸軍の計画の第二段階を、すなわち南方への進出を実行することが必要となった。国策の決定には、この措置は、『外交、国防相俟って』これを行なうと定められていた。

 1941年12月7日に、日本と西洋諸国との戦争を引き起こすようになった諸事件の次第に増大する推進力については、なお考察する必要がある。しかし、日本が第二次世界大戦の渦中に巻きこまれるようになった起源とその傾向をもたらした原因とは、中国の占領地域に日本の『新秩序』が建設されるまでに、順次に起こった一連の事件に求められる。

 1938年11月29日、すなわち『大東亜共栄圏』の存在が正式に声明された月に、外務大臣有田は日本の中国に対する政策を枢密院に説明した。国民党が抵抗をやめ、『新中央政権』と合流しない限り、国民党との和平はないとかれはいった。調停の提議は一切受け付けないことになっていた。時が来れば、新しい中国の政府との間の解決は、総理大臣近衛が宣言した三原則に基づいて行なうことになっていた。

 『善隣友好』、『共同防共』、『経済提携』という、これらの原則は、日本が中国でとった行動を正当化するために、さきに近衛が出した諸声明に由来するものである。それから生じた結果は、1941年の日米外交会談の根本的な論争点となった。この交渉は太平洋戦争の発生によって終わりを告げたのであるが、その交渉の間、右の三原則は一度も満足に説明されたことがなかった。それにもかかわらず、1938年11月に、ある程度まで、有田は明瞭にその一つ一つの意義を解説することができた。

 有田の説明を基礎として用いれば、満州征服の前に始まり、西洋諸国との戦争で終わった期間において、日本を導いた政策の一貫した発展の跡を辿ることができる。


中国に対する日本の政策の意義――『善隣友好』の原則

 『善隣友好』という第一の原則は、単に日本と満州国と『新中国』との相互的承認を意味していた。そして、積極的に提携することと、三国間の軋轢の一切の原因を除くこととに、重点が置かれていた。簡単にいえば、この原則は、よく知られている『東亜新秩序』の概念にすぎなかった。この言葉の中には、東亜における日本の優越的な役割と、同地域におけるその特権と責任という根本的な前提が暗に含まれていた。この原則は、1934年4月17日の『天羽声明』以来の、日本のすべての重要な政策の声明の基礎を成していた。合衆国が『この事態の現実』を認めなかったことが、両国の間の敵対行為の根本的原因であると、太平洋戦争の始まった日に、日本政府は主張したのである。

 有田は、この原則に当然に伴う帰結として、日本が中国における戦争について外国の仲介を許さないことと、日本が国際義務から免れることとを挙げた。日本と国際連盟との間に残っていた関係を断絶したときより、わずか3週間前に、この長年の政策が表明されたことは、すでに述べたところである。

 有田は今や枢密院に対して、イギリス、合衆国及びフランスが『帝国の対支施策を妨害する』態度にかんがみて、日本は『九国条約その他集団的機構による支那問題処理』の考えを排除することに努めることにするという意見を勧めた。枢軸国の間の関係を強化し、中日戦争を急速に処理しながら、右の諸国を『各個に我が対支政策を事実上了解し、帝国の態度を支持するか、少なくともこれを傍観する態度に出る』ようにさせるのであるとかれはいった。

中国に対する日本の政策の意義――『共同防共』の原則 (原資料61頁)

 近衛原則の第二は、『共同防共』という原則であった。有田は、これは日本と満州国と『新しい中国』との提携を必要とすると述べた。この新しい中国は日本がつくり出したものである。これらの三国は軍事同盟を締結し、『共同防衛』の手段を講ずることになっていた。『共同防衛』に必要ないろいろな事項は、すべての交通と通信との施設に対する日本の軍事上と監督上の権利の保留と、華北及び蒙古における日本軍の駐屯とを必要とした。他の日本の部隊は撤収されることになっていたが、治安を維持するために、華南の特定地域には、駐屯軍を置くことになっていた。中国はこれを維持するための財政的支出に助力しなければならないことになっていた。

 ここで作成された要求は、実質的には有田がこのときに説明したままの形で、1941年の日米会談における意見不一致の3つの根本的原因の一つとなったのであるが、その要求はここで初めて作成されたのである。

 有田は『共同防共』の原則に当然に伴う明白な帰結を示した。かれは『ソ連邦に対しては、今次事変に積極的に参加せしめざるが如く諸般の工作』が実施されるであろうといった。この考慮は、再び枢軸諸国の間の関係を強化する必要があることを強調するに役立った。

 1941年の日米会談における意見不一致の第二の主要な原因となった三国条約は、1940年9月27日になって初めて締結されたのであるが、このような条約の大体の原則は、すでに近衛内閣の一般的な承認を受けていた。

 1941年の交渉中に、日本は三国条約の締約国としての義務の性質または範囲を示すことを拒んだ。しかし、日本の指導者は、ドイツ及びイタリアとの同盟は防衛的なものであると主張した。それにもかかわらず、外務大臣有田は、1938年11月29日に行なった外交方針演説で、枢軸三国が一層緊密な同盟を結ぶことは、日本がイギリス、合衆国及びフランスに対してとるべき『外交上の大策』の一つであると述べた。このような措置によって、これらの諸国に、アジア大陸における日本の『新秩序』の建設を認めさせようというのであった。


中国に対する日本の政策の意義――『経済提携』の原則

 『経済提携』は近衛原則の第三の原則であった。有田は、これを説明して、日本と満州国と『新しい中国』とがそれぞれの天然資源の不足を互いに補うための共同互恵を意味するものであると述べた。日本と満州国に足りない資源、特に埋蔵資源を華北から求めることを重点とし、中国はこの目的のために特別の便宜を供与することになっていた。日本の中国の産業化の計画、経済財政政策の確立、関税海関の統一制度の採用を援助することになっていた。すでに実行されていたこの方針は、1937年5月29日に出された陸軍の重要産業拡充計画の中で、明白に示されていた。これには、日本は『最も必要と認むる資源を選びて北支の開発に先鞭をつけ、その資源を確保するに努む』と述べてあった。

 有田は、ここで、6ヵ月前に広田が用いたのと大体同じ言葉で、『経済提携』の実施にあたっての、第三国に対する日本の政策を明らかにした。軍事上の必要によって、『門戸開放』の原則の実行にいくらかの制限が加えられたとかれは述べた。指導原理は、今では、華北と蒙古の天然資源を日本が実質的に支配すること、中国の幣制と関税の海関制度の支配によって、日本・中国・満州国ブロックの体制を確立することであった。『列国の在支権益が右二目的に抵触せざる限りは、ことさらにそれを排除制限せず』とかれはつけ加えた。その上に、東亜における日本の優越的地位に障害を及ぼさない『無害な個々の懸案』については、日本はこれを解決することになっていた。不必要な軋轢によってではなく、すでに略述された『外交上の大策』によって、西洋諸国の態度を動かすのが日本の政策であると有田は述べた。さらに、ドイツやイタリアのように、日本に好意的態度を示す国に対しては、日本はその参加を歓迎するというのであった。中国にある権益を保証することは、西洋諸国の態度を動かす第二の手段となるというのであった。ここに、1941年において日本と合衆国との合意を妨げた三大障害のうちの最後のものが、充分に発展した形で、存在したのである。

1937年と1938年における日本の経済上と産業上の戦争準備の継続 (原資料65頁)

 1936年8月11日の国策の基準の決定は、第一の主要なものとして、二つの関連した目的の達成を必要としていた。すでに満州国を領有していた日本は、その支配をアジア大陸に拡大することにしていた。第二に、みずからの資源を補うために、中国の資源を利用することによって、日本は軍事力を増大し、戦争産業を拡充し、物資の供給について外国の資源に依存しないようにして、戦争の用意を整えておくことにしていた。

 1938年の後半の間に、中国でかち得た軍事的成功によって、中国における領土拡大という目的は実質的に達成されていた。これはまた経済開発と産業の発展に新しい分野を開き、日本の直接的な軍事負担を軽減し、それによって、戦争のための国家総動員の達成に向かって、日本が再び力を集中することを可能にした。

 1936年には、この動員を1941年までに完了させるものとして陸軍は計画していた。この目的を念頭に置いて、陸軍は、次の五年間における軍備と戦争産業との拡充のために、綿密な計画を立てていた。

 1937年2月には、満州国に対する五ヵ年計画が採用され、実行に移された。1937年の5月と6月には、軍備の拡充と日本国内における戦争産業の発展のために、陸軍は同様な計画をつくり出した。そのころに、戦争の準備として、日本の資源の完全な動員を行なうために、日本の全経済と全産業とを政府の統制のもとに置くことが計画された。内閣企画庁が1937年5月に創設され、この実施を監督する任にあたっていた。

 1937年7月7日に、盧溝橋で中日戦争が再発すると同時に、陸軍の立てた日本の長期動員計画の採用が延期された。中国にあった日本軍の直接の需要を満たすために、企画庁の監督のもとに、生産が個々別々に拡充された。しかし、陸軍は同院計画の諸目的を犠牲にはしないという決心を固く守っていた。陸軍の統制下にあった重要物資のうちで、わずか5分の1が中国における戦争の遂行に割り当てられた。

 1937年と1938年には、中国における軍事行動の規模と激しさが増大したにもかかわらず、陸軍の長期計画の諸目的は、着々と進められた。1938年1月に、企画院はその年限りの暫定計画をつくり出し、それによって、五ヵ年計画を復活した。その翌月に、陸軍は国家総動員法を通過させることができた。この総動員法は、戦争に対する準備態勢の達成に向かって、日本国民のすべての資源と能力を差し向ける権限を内閣に与えた。

 1938年5月に、深刻な財政の危機のために、日本自体の動員計画の成功が危うくなると、満州国の五ヵ年計画が変更され、その生産目標が引き上げられた。総動員法によって与えられた権力が発動された。陸軍は、この法律の目的を説明するにあたって、どのような犠牲を払っても、動員計画を進めるという決心を再び明らかにした。

 それにもかかわらず、1938年7月には、この計画の諸目的は、中国において日本の立場を固める必要があったので、再び延期された。戦争産業の拡充に関するあまり緊急でない諸方策は、新しい軍事的攻勢を成功させるのに絶対に必要な軍需品とその他の資材の供給を確保するために、延期された。1938年10月、華北と華中の大部分に対する日本の支配力が強化されたときに、近衛内閣は経済的自給自足計画と戦争産業の拡充とを再び慎重に考慮した。中国の征服された地域では、すでに満州国で実施されていたのと同様な経済開発と産業発展の計画が立てられた。

 1938年の11月と12月に、近衛、有田及び荒木が行なった演説は、国家総動員の完成をなし遂げるために、あらゆる努力を尽くすという内閣の決意を反映したものであった。

 このようにして、陸軍の戦争産業拡充五ヵ年計画を復活するための途が開かれた。これらの計画は、決して放棄されていたのではなかった。中国における戦争によって、日本の経済に課せられた負担にもかかわらず、陸軍の1937年度計画で定められた生産目標は、突破されていた。1939年1月、すなわち、平沼内閣が近衛内閣の後を継いだ月に、企画院は、陸軍の1937年度計画の諸目的を取り上げ、それをその時期に即するようにした新しい計画をつくり出した。


1939年1月、平沼内閣の承認した戦争産業拡充計画

 1939年1月に、平沼内閣は、企画院が作成した生産力拡充計画を承認した。この内閣には、有田、板垣、荒木及び木戸も閣僚であった。こうして、陸軍の1937年度の経済産業計画の目的と原則は、はじめて、内閣の明確な承認を得た。

 この新しい計画は、日本の国力の充実を確保するために、特に立案されたものであった。この計画は、日本、満州国及び中国の他の地域に対する総合的な産業拡充計画を樹立することによって、日本に従属する領域を継続的に開発することを要求した。1937年度計画のように、この計画は、日本が非常時において第三国に依存することをできるだけ避け得るように、日本の支配下にある地域内で、天然資源の自給自足を達成することを目的としていた。

 陸軍の1937年度計画におけるように、日本がその将来の国運の『飛躍的発展』に備え得るように、1941年度までに、物資の自給自足と軍備の拡充を達成することに、最も重点が置かれていた。

 1937年5月29日に、陸軍がつくり出した計画においては、戦争上のいろいろな要求を満たすためになくてはならないと考えられるある種の産業が選ばれ、政府の補助金と統制を受けて、急速に拡充されることになっていた。

 1939年度計画も、統一された計画のもとに急速に拡充される必要があると認められた重要産業に限られていたが、この計画は、前の長期計画において定められていた生産目標を引き上げた。

 戦時の兵站線にとってなくてはならない造船業は、建造費の半額を限度とする補助金によって、すでに膨大な拡充が行なわれていたが、新しい計画によれば、1941年度までに、総トン数において、さらに5割以上の増加を必要とした。航空機の生産にとって、絶対に必要な軽金属工業は、まだ充分に発達していなかったが、特に指定されて、さらに急速に、経済を無視して、拡充されることになった。日本が主として合衆国からの輸入に依存していた工作機械の生産は、2倍以上に増加されることになった。

 満州国に対する五ヵ年計画は、同地の石炭資源の開発に、すでに大いに重点を置いていたが、新しい計画は、さらに相当量の増産を必要とした。そのような増産は、限界点以下の(submarginal=収益限界点以下の)生産者に対して、莫大な補助金を支払わなければ達成されないものであった。鉄(iron)と鋼鉄(steel)を求めて、日本はすでに限界点以下の生産を行なっていた。それにもかかわらず、1939年1月の企画院の計画は、国内生産の増加の総計において、鋼鉄(steel)は5割、鉄鉱(iron ore)は10割以上を目標とした。自動車工業は、すでに非経済的に1年に一万五千七百台を生産していたが、1941年度までには、この生産高を年産八万台までふやすことを要求された。

 石油と油類は、日本がほとんど輸入に依存していたが、その生産に特別の注意が払われた。人造石油工業はすでに創設されていたが、非常に経費がかかった。それにもかかわらず、新しい計画は、航空機用ガソリンの生産において60割以上、人造重油において90割以上、自動車用人造ガソリンにおいて290割以上を増加することを定めた。

平沼内閣時代における戦争のための経済産業動員 (原資料71頁)

 1939年1月に、平沼内閣が承認した『生産力拡充計画』は、1938年5月19日に、陸軍が国家総動員法の目的を説明したときに、その説明の中で要求していた措置を実施したものであった。そのときに、陸軍は、陸海軍が常に軍需品を充分に保有しているように、政府において国家総動員のいろいろの要求に対応して、長期計画を整えておくべきであると言明していた。

 産業上と軍事上の準備は相互に関係したものであって、軍事上の成功は、主として国家の総力の組織的な効果的な動員に依存するというのであった。

 この理由で、日本における軍需品の生産は、他の産業を犠牲にして拡充されることになり、すべての重要産業は、政府の指示に従って統一されることになった。国家総動員審議会は、動員法を運用し、政府がその計画を立案したり、遂行したりすることを助けることになった。

 1939年の生産拡充計画が規定した実施の方法は、陸軍の企画を反映したものであった。事態は将来の生産力拡充が迅速に、また強力に行なわれるべきことを必要としていると述べられた。そこで、政府は、重要産業の振興と統制のために、すでにとられていた措置を有効に利用すること、迅速に拡充するために選ばれた産業に対して、新しい措置を案出することになっていた。必要に応じて、熟練及び未熟練労働者、資金、原料を政府は供給することになった。これらの目的のために、内閣は、必要なときは、国家総動員法によって与えられた権能を利用するか、新しい法令を制定することになった。それゆえに、この新しい計画は、将来の戦争に備えて、日本国民を動員する上に、すこぶる重要な措置であった。

 1939年の最初の8ヵ月中に、平沼内閣はさきに承認した措置を実施した。1939年3月25日に、日本が当時遂行していた戦争産業を拡充する計画の秘密を保つために、一つの努力が払われた。『軍用に供する人的及び物的資源に関する防諜』を目的とする法律が可決されたのである。3日後の1939年3月28日に、文部大臣荒木は国家総動員審議会総裁となった。

 1939年4月に、船舶建造において、今まで以上の補助金の支給と損失の補償を規定する新しい法案が可決された。この工業に対する政府の統制を強化し、建造される船舶を標準化する新しい措置がとられた。電力の生産と供給は、全面的に政府の統制と指示に従うことになった。鉄鋼業に対する統制が強化され、その生産品は特に優先権を与えられた諸工業に供給された。石炭のすべての大口販売は、政府の許可制のもとに置かれた。石油製品の生産と他の人造工業とに支給されていた補助金は増額された。

 1939年6月に、政府発行の雑誌『トウキョウ・ガゼット』に、満州国五ヵ年計画は、鉄、鋼鉄、石炭、その他の戦争産業の増産に優秀な成果をもたらしたと報告された。同じ月に、朝鮮のマグネサイトの資源を開発するために、新しい国策会社が創立された。

 戦争目的のための生産が拡充されつつあった間に、陸軍の兵力も増強された。1939年3月8日に、兵役法が改正され、陸海軍予備人員の補充的服役期間が延長された。1937年6月23日の陸軍の軍備拡充計画が要求した通りに、陸海軍に対して、戦争産業に対する今まで以上の支配権も与えられた。1939年7月に勅令が公布され、陸海軍大臣に対して、それぞれの発意で、戦争のための生産にとってきわめて重要なものとして、選定された種類の事業を収用するという権限が与えられた。これらとその他の措置によって、戦争の準備のために、日本の人力と資源を動員しようという陸軍の計画が実施されるに至った。


平沼内閣の中国に対する政策と海南島及び新南群島(スプラトリー諸島のこと)の占領

 経済上と産業上の戦争準備計画は、何よりもまず、中国に対する日本の支配権の強化を必要とした。1938年の11月と12月中に、外務大臣有田とその他の第一次近衛内閣の閣僚によって行なわれた演説で、最大の重点は、中国の征服を完了し、日本によって支配される『大東亜圏』の発展を促進しようとする日本の決意に置かれていた。1939年1月に、平沼内閣によって承認されたところの、戦争産業拡充計画を成功させるためには、日本、満州国及び中国の他の地域の完全な統合が必要であった。

 この計画の遂行は、第一次近衛内閣がまだ在任していた間に、日本の西洋諸国との関係を著しく悪化させた。九国条約の規定は絶えず軽視され、仏印に圧迫を加える措置が講ぜられた。

 1939年1月5日に、平沼内閣が就任したが、これらの政策は持続された。1939年1月21日に、新総理大臣は議会で内閣の方針を説明した。内閣はあくまでも中国における所期の目的達成に邁進する決意であると平沼はいった。日本、満州国及び中国の他の地域は速やかに結合し、『新秩序』が旧秩序にかわるようにしなければならないといった。あくまで抗日を続ける中国人は壊滅するというのであった。新しい内閣は、この目的を確実に達成するために、必要ないろいろな措置を講じたと平沼はいった。

 日本と西洋諸国の間の溝を深めた政策は、このようにして、新しい内閣のもとで、そのまま続けられた。1939年の最初の6ヵ月間の中国における戦争の続行に伴って、合衆国国民の身体と財産に対して、さらに多くの侵害の事例が起こった。

 征服された中国の地域内で、九国条約の調印国としての義務に違反して、日本は西洋諸国の権益に対する差別を実施し続けた。

 1939年2月10日に、日本の海軍部隊は中国の海南島を奇襲し、これを占領した。この不意の行動は、1938年11月25日の五相会議で承認されていたものである。この行動の結果として、フランス、イギリス及び合衆国は、直ちに抗議をした。この行動は仏印に対する脅威となった。仏印は蒋介石大元帥の軍隊に援助を与えていると日本側が繰り返し非難していた国である。それにもかかわらず、日本軍はさらに南進した。1939年3月31日に、日本の外務省は、南支那海に存在する小さい珊瑚礁の一群である新南群島の併合を宣言した。この群島は、海南島の南方700マイルのところにあって、中国における日本の行動範囲から、はるかに離れていた。しかし、仏印のサイゴンからは、400マイル以内のところにあった。

第一次近衛内閣の在任中における無条件的枢軸同盟の要求の増大 (原資料76頁)

 大島が初めて陸軍武官としてベルリンに派遣された1934年以来、陸軍はドイツとの提携がどうしても必要であると考えていた。当時の軍部の政策は、累次の五ヵ年計画によって、急速に増大しつつあるソビエット連邦の軍事力が、あまり大きくならないうちに、ソビエット連邦を早期に攻撃することが必要であるというのであった。この攻撃のためには、ソビエット連邦に対するドイツとの同盟が最も望ましいのは明らかであった。

 1938年5月と6月に行なわれた第一次近衛内閣の改造の後に、陸軍は内閣の政策を支配した。今や内閣の政策は、中国の征服を完了すること、ソビエット連邦があまりに強力にならないうちに、これに対する攻撃を始めること、戦争のための国家総動員の完了を急ぐことを目標としていた。これらが国策の基準の決定の最も主要な目的であった。1938年8月に、日本がハサン湖で敗れた後、陸軍大臣板垣とその他の陸軍の指導者は、ソビエット連邦に対する予定の戦争を延期しなければならないと決定した。そこで、しばらくの間、陸軍の努力は中国の征服に集中された。他方で、この征服の成否に、経済上と産業上の戦争準備の計画の達成がかかっていた。

 1938年の終わりの数ヵ月の間に、中国の抵抗を打ち破り、中国を開発して経済的に利益の挙がるものにしていくという仕事は、相当の成功をおさめた。その代償として、日本と西洋諸国との関係が著しく悪化したが、これは避けられないことであった。

 中国にある西洋諸国の権益を侵害するという内閣と陸軍の固い決意は、もう隠すことも、いい繕うこともできなくなっていた。日本の国際連盟との関係のうちで、残っていたものも打ち切られた。大東亜圏の建設が声明された。

 日本は西洋諸国の反感を刺激していたので、軍閥の一部は、今までになかったほど強硬に、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟を主張するようになった。

 1938年7月に、当時のベルリン駐在陸軍武官大島は、ドイツと日本の新しい同盟を提案した。外務大臣フォン・リッベントロップは、直ちに、ドイツは一般的軍事同盟を望んでおり、ソビエット連邦を唯一または主要な目標とする同盟は望んでいないことを明らかにした。リッベントロップは、かれのこの言明に、対外政策に関するかれの見解を述べた通牒を添えた。それは、イギリス及びフランスとドイツとの間に、戦争が起こり得るとドイツが考えていることを明らかにしたものであった。大島は、提案された同盟の範囲に関して、リッベントロップの見解を受け容れ、提案された同盟の規定の大要をみずから書いて、これを直ちに参謀本部に送った。1938年8月の末に、提案された条項には、陸軍も海軍も大体同意しているという通告を大島は受けた。しかし、陸海軍は、提案された条約に基づく日本の義務を制限するような変更を加えたいと希望した。この条約は、防共協定の延長と見做され、主としてソビエット連邦を目標とするものにしようというのであった。西洋諸国が主要な敵であるという印象を与えることを避けるように注意すること、即時または無条件の軍事的援助を与える義務を日本は負うものでないということを大島は警告された。これは日本が自動的にヨーロッパ戦争に巻きこまれるようになるのを防ぐものであった。

 しかし、大島は、この訓令を自分の解釈で、日本には一般的軍事同盟を結ぶ用意があるとドイツ側に言明した。提案された条約は防共協定の延長と見做されるべきであり、主としてソビエット連邦を目標とすべきであるという訓令をかれは受け取っていたが、この訓令を無視し、ドイツ側に対して、日本の軍部の指導者は、ドイツの行なった提案に完全に同意していると了解させるようにした。提案された軍事同盟の草案は、イタリアの外務大臣チアノ、フォン・リッベントロップ及び大島の同意によって定めたもので、すべての第三国を一様に目標とするものであった。ベルリン駐在大使に任命されてから間もない大島は、1938年10月の末に、この草案を日本の外務省に送った。外務省はしばらく前から有田が指揮していた。内閣ははっきりした言質を与えることなく、提案に対して一般的な賛意を表明したが、この新しい条約がおもにソビエット連邦を目標とすることを日本は希望すると述べた。

 近衛内閣は、このような条約の締結をもたらすために、これ以上に積極的な措置をとらなかった。

 1938年の9月と10月に、白鳥と大島は、それぞれローマとベルリン駐在大使に任命された。この2人は、ドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟に賛成していた。

 外務大臣有田は、ドイツ及びイタリアとの軍事的関係の強化を望んだが、同時に表面上は西洋諸国と友好関係を維持することをも希望した。外務省は大島に対して、提案された条約は中日戦争の解決を容易にし、ソビエット連邦に対する日本の立場を強化するであろうと通知した。しかし、ドイツ側の草案を受諾するという意味を有田は述べたのではなかった。かれは大島に、日本は対案を提出すると通知した。

 1938年11月25日に、有田は枢密院で、中国における日本の行動に、ソビエット連邦に干渉させないようにするために、あらゆる措置を講ずることが日本の政策であると述べた。何よりもこの理由のために、日本はドイツ及びイタリアとの関係を強化することを望んだ。

 1938年11月29日に、近衛内閣の政策は有田によって明らかに述べられた。日本は中国の本土と蒙古における地位を強固にしようとした。日本が支配していた地域内で、ソビエット連邦との戦争に向かって、軍事的な準備態勢をつくり出すために、あらゆる必要な措置を日本はとることになっていた。しかし、みずから求めて早急にソビエット連邦と戦争を始めるという考えはなかった。このようにして、有田は国策の基準の決定に述べられた立場――すなわち、ソビエット連邦は、アジア大陸に関する日本の計画の最も主要な敵であり、結局には戦争になるのをほとんど避けることができないであろうということ――を固執した。

 しかし、有田はまた西洋諸国に対して、さらに強硬な立場をとらないわけにはいかなくなっていた。イギリス、合衆国、フランスが中国に対する日本の政策を妨害したから、中国における紛争を解決するにあたって、日本は国際的な機関の使用を避けたいとかれは述べた。条約上の義務は、中国における日本の政策と衝突しない限りにおいてだけ、遵守するというのであった。西洋諸国に対しては、中国における日本の政策を黙認し、自発的に支持するようにさせるか、少なくともその政策が実施されている間は、何もしないで、傍観しているようにさせるというのであった。

 この理由からも、またソビエット連邦に対する戦争の準備としても、枢軸諸国との関係を強化しようというのであった。このことは、一方では、ソビエット連邦が二正面の戦争を予期しなければならなくなることを意味し、他方では、中国において西洋諸国から妨害を受ける危険を避ける大きな外交的措置となるのであった。しかし、有田は、ドイツの思うままに日本をイギリス及びフランスとの戦争に巻きこむような同盟を欲しなかった。そのような戦争は日本を合衆国との太平洋戦争にも巻きこむかもしれなかった。平沼内閣在任の全期間を通じて、海軍は有田を強く支持した。というのは、海軍は太平洋戦争に対する準備ができていなかったからである。

 そこで、内閣の希望通りに、有田は枢軸との関係をいっそう緊密にする政策を立てたが、それは防共協定の強化策としてであって、かれの限られた目的には不必要であったところの、一般的軍事同盟としてではなかった。1938年11月から1939年3月まで、かれはこの協定の内容を強化し、他の国を協定の規定に参加させようと努力した。

枢軸関係強化の追加的理由となった西洋諸国との関係のいっそうの悪化 (原資料81頁)

 1939年の初めの4ヵ月の間、日本と西洋諸国との間の隔たりは広くなりつつあった。外務大臣有田自身が雲南鉄道の爆撃を是認した。海南島と新南群島は日本軍によって占領されていた。オランダ領東インドとニューギニアの支配のための準備が行なわれつつあった。これらの地域で産する石油と他の原料に対する必要が増大しつつあった。中国における西洋諸国の条約上の権利に対する妨害も増大しつつあった。さらに悪いことには、中国における陸軍の行動が西洋諸国との間に存在する緊迫した関係を故意に悪化させつつあったことである。これらのすべての理由のために、平沼内閣の閣僚は、今ではドイツ及びイタリアとなんらかの軍事同盟を締結したいとあせるようになり、1939年4月になると、有田は単に防共協定を強化するに止めるというかれの限られた計画を放棄した。しかし、内閣はまだ同盟が西洋諸国との戦争を促進するものではなく、それを予防するものであることを希望していた。


閣内不一致の発展

 平沼内閣を分裂させた論争点は、そのころ全閣僚が希望するようになっていた同盟の締結を確保するために、どの程度の約束を日本がしなければならないかということであった。

 1938年11月と12月中に、ソビエット連邦も西洋諸国も同じように目標とする一般的軍事同盟を締結するために、大島は努力を続けた。日本では、有田の防共協定を強化する政策がとられていた。

 1938年12月に、有田は大島に対して、外務省は提案された同盟が主としてソビエット連邦を目標とすることをまだ希望していると知らせた。ドイツが西洋諸国との戦争に巻きこまれた場合に、日本が必ず参加しなければならないような約束をしておかないようにするという、はっきりした目的のために、外務省の代表者伊藤を首班とする使節団がイタリアとドイツに派遣された。この政策は、大島がすでにドイツに与えた言質と相反するので、大島も白鳥も反対した。伊藤使節団がローマを訪れた後、1939年2月7日に、白鳥はイタリア側に対して、日本は新しい提案――おそらく有田の政策の線に沿うもの――を提出するが、イタリアはそれを拒否すべきであると警告した。

 1939年1月5日に、平沼内閣が就任すると、間もなく、陸軍大臣として留任した板垣が、ドイツの希望する一般的軍事同盟を締結せよという白鳥と大島の要求を支持していることが明らかになった。

 1939年2月7日に、外務大臣有田は天皇に対して、参謀本部が大島にドイツとの折衝で職権を越えないように警告したということを報告した。しかし、その同じ日に、条約はソビエット連邦だけを目標としてはどうかという天皇の意見に対して、陸軍は従うのを喜ばないことを示した。これは、1938年8月に大島に与えられた訓令の中で示されていた陸軍の態度とは、反対のものであった。そのときには、陸軍も海軍も、提案された条約を防共協定の延長と見做すこと、それがソビエット連邦を目標とすることを希望していると述べられていた。今度は陸軍は一般的軍事同盟に賛成すると明言した。

 白鳥も大島もともに、1939年2月中にベルリンに到着した伊藤使節団の提案を、正式に伝達することを拒んだ。しかし、両大使は、チアノとフォン・リッベントロップ両外務大臣に対して、内密に使節団の訓令を伝え、ドイツの提案が日本によって受諾されない限り、辞職すると威嚇した。

 外務大臣有田は、白鳥と大島の活動がもたらす結果について、今やはなはだしく憂慮していた。1939年2月13日に、有田は、提案された同盟に関して、大使大島が直接陸軍に報告し、外務省には通告さえしなかったと憤慨して苦情をいった。もし自分が陸軍に対してとらなければならなくなった強硬な立場が成功しないならば、日本の外交政策は完全な失敗に終わるであろうと有田はいった。

 総理大臣平沼と陸軍大臣板垣が出席した1939年2月22日の枢密院会議で、外務大臣有田は、枢軸諸国との間の国交の強化は、主としてソビエット連邦を目標としなかればならないという政策を堅持する旨を明らかにした。参加国の数をふやすことによって、防共協定が量的に強化されるだけでなく、枢軸側三国間の協定で条約の内容を変更することによって、これが質的にも強化されると有田はいった。

 有田の言明は、ドイツ側が1938年8月に提案した一般的軍事同盟を締結するために、なぜ第一次近衛内閣も平沼内閣もこのときまで積極的な手段を講じなかったかを示している。ドイツは、ソビエット連邦と西洋諸国との両方を目標とする一般的軍事同盟を希望していた。この当時の日本の公けの政策は、ソビエット連邦を唯一の目標としないとしても、主要な目標とする同盟であって、このためには、新しい同盟を必要としなかった。有田の目的のためには、防共協定の規定を強化することで充分であった。

 ここにおいて、平沼内閣の内部に紛争が起こった。外務大臣有田は第一次近衛内閣の政策を維持し、ソビエット連邦を目標とする枢軸との条約を歓迎すると同時に、ドイツと西洋諸国との間の戦争に参加しなければならないように、日本を拘束しようとする企てに反対した。他方で、陸軍大臣板垣は、日本はドイツの提案した一般的軍事同盟を締結しなければならないという見解を先に立って主張した。軍の中には、他のすべてをさしおいて、ドイツとの一般的軍事同盟の締結を第一とする一派があること、大島と白鳥は、この一派のために、陸軍大臣板垣の了解と支持を得て行動していることが今や明らかになった。

 1939年3月10日に、有田は、外務大臣に対してよりも、陸軍に対して忠実な態度を示していたところの、大島と白鳥の両大使の提出した辞表を受理する意思を表明した。有田は総理大臣平沼がこの点でかれを支持すると信じたが、このような決定は何もなされなかった。

 1939年3月17日に、板垣と米内は、提案されたドイツとイタリアとの一般的軍事同盟の問題については完全に意見が相反していたにもかかわらず、議会で日本の政策に関する共同声明を行なった。陸海軍両大臣は、アジアの新時代のための日本の政策が、疑いもなく、第三国との摩擦を引き起こすであろうという点で、意見が一致していた。かれらはソビエット連邦及びフランスの中日戦争に対する態度を不快としたのであって、これらの国が中国から追い出されない限り、紛争の解決は不可能であると述べた。

 有田でさえも、西洋諸国と日本との関係の悪化に圧せられて、防共協定を延長する協定の外には、どのようなものも締結すべきではないというかれの提案を放棄したが、それはちょうどこの1939年4月のころであった。

 1939年4月中に、日本は軍閥が唱えた見解に対する譲歩を含む新しい対案をドイツとイタリアに出した。ドイツ側の草案が部分的に取り入れられたが、不当に西洋諸国に疑惑を起こさせないように、それには制限つきの解釈を与えなければならないとされていた。

 大島と白鳥は、再びこの提案を正式に伝達することを拒んだが、今度もまた、ドイツとイタリア側に対して、もし両国がイギリス及びフランスと戦争を行なったならば、日本は西洋諸国に対する戦争に参加すると知らせた。ドイツとイタリアは、前述の日本側の制限つき提案を拒否した。

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