歴史の部屋

ドイツと妥協的協定に達しようとする内閣の企てに対する軍閥の反抗、1939年4月 (原資料87頁)

 この期間中に、平沼内閣の閣僚は、その政策を定めようとして、多くの会議を続けて行なった。西洋諸国に対する戦争において、日本がドイツとイタリアの側に参加するという大島と白鳥の言明は、外務大臣有田の反対をさらに強め、両大使にこの約束を撤回させなければならないと有田は天皇に報告した。天皇は有田に同意して、陸軍大臣板垣を叱責した。その板垣は、かれの態度に関して、天皇に報告されたことを憤慨した。

 陸軍大臣板垣の指導する軍部派の意見と、天皇の側近者の支持を得ていた外務大臣有田の意見との間に立って、平沼は板挟みに陥った。平沼自身は陸軍の意見に傾いていて、それを支持したいと思った。内務大臣木戸は、平沼に向かって、天皇の意見が陸軍の意見ともっと緊密に合致することが望ましいと勧告した。内閣全体は、日本のドイツとの関係を強化することを希望し、無分別にならない程度で、譲歩をしようという気持ちになっていた。陸軍は、日本がヨーロッパ戦争に巻きこまれることを希望していないと主張した。しかし、この議論には、なんの誠意もなかったことは明らかである。というのは、陸軍は防共協定に付属していた秘密協定を廃棄したいと思っていたからである。軍事援助を与えるという日本の義務を、ソビエット連邦に対する戦争の場合だけに制限していたのは、この協定であった。

 大蔵大臣石渡が陸軍大臣板垣を支持し、海軍大臣米内が外務大臣有田を支持して、五相会議の行きづまりが続いた。このような状況において、1939年4月22日に、内閣はその最後の提案でとった立場を固執するということに決定された。大島は依然としてドイツ側との連絡機関として用いられることになり、もし交渉が不満足に終わったならば、内閣は辞職するということになった。

 この間、ドイツとイタリアは、ヨーロッパで戦争を行なうことに、意見の一致を見ていた。1939年4月16日には、ゲーリングとムッソリーニがローマで会見をしていた。かれらは、そのときに、両国はイギリスとフランスに対して戦争を開始する好機を待つことにきめていた。その間は、両国とも最大限度に軍備を整え、戦争のための動員体制を維持することになっていた。同じ月に、フォン・リッベントロップは大島と白鳥に対して、もしドイツと日本との間の条約の話し合いがあまり長引くならば、ドイツはソビエット連邦となんらかの形で接近を計らなければならなくなるかもしれないと警告した。結局において、平沼内閣は、枢軸諸国との一般的軍事同盟の締結について、意見をまとめることができなかった。そして、1939年8月に、ドイツはソビエット連邦と不可侵条約を締結した。

 白鳥と大島が1939年4月の日本側の対案を提出することを拒否したことが明らかになった後に、内務大臣木戸の態度が変わった。前には平沼に対して、ドイツとの同盟を結ぶために、あらゆる努力をしなければならないと勧告したのであったが、両大使が依然として一般的軍事同盟を支持し、これに反する日本外務省の指令を無視していることから、1939年4月24日に至って、木戸は両大使を召還するほかはないと考えた。その翌日に、大島と白鳥自身から、かれらの召還を要求した緊急な要請が届いた。

 事態は今や危機に瀕した。もし内閣が日本とドイツ及びイタリアとの関係を強化することに成功しなければ、その目的を達し得なかったことになるであろう。他方で、もし内閣がドイツの要求を受け容れたならば、ドイツと西洋諸国との間に起こるかもしれないどのような戦争にも、日本は参加しなければならない立場になるのであって、閣僚の中には、当時それを望まない者があった。

 このような状況のもとで、受諾できるような協定をドイツ及びイタリアと結ぶために、内閣は最大の努力をすることにきめた。大島と白鳥が訓令に従わないことにかんがみて、1939年4月26日に、平沼が東京のドイツ及びイタリア大使を通じて、ヒットラーとムッソリーニに直接折衝することが決定された。総理大臣平沼は、枢軸国の間の提携を求める一般的な要望を述べることになっていた。外務大臣有田は、両国の大使に、日本が直面している具体的な問題を説明することになっていた。


1939年5月4日の『平沼声明』

 『平沼声明』と呼ばれるようになったこの個人的書簡は、1939年5月4日に、有田から東京駐在のドイツ大使に手交(しゅこう。直接手渡すこと)されたが、有田にとっては、それは明らかに不本意であった。

 この声明で、平沼はドイツにおけるヒットラーの業績に対して称賛の意を表明し、自分も同様に日本の『東亜新秩序』を維持する仕事につとめていると知らせた。ドイツと日本が当面している使命の遂行を可能にした防共協定の効果について、平沼は満足の意を表明した。自分は今防共協定を強化し、ドイツ、イタリア及び日本の提携をいっそう緊密にする協定の締結を考えているといった。かれは続けて、『われわれの関係の強化に関する限り、日本はドイツ及びイタリアの一方がソ連の参加なくして一国または数国の攻撃を受けた場合においても両国に味方し、両国に対して政治的、経済的援助及び日本の国力をもって可能なる限り軍事的支援をも与えんとする強固かつ不動の決意を有することを確言することができる』といった。

 それから、平沼は制限的条項をつけ加えた。これは有田の政策を表明したものである。『日本は右のごとき協定の規定に従いドイツ及びイタリアに対する軍事的援助を考慮する用意があるが、日本は自国の今日の事態に鑑み、現在においてもまた近き将来においても、両国に対して実際上何ら有効な軍事的援助を与えることはできない。併し(しかし)情勢の変化によりこれが可能になったならば、日本は欣然(きんぜん。喜んで)これを与えることは申すまでもない』とかれはいった。

 平沼は、この留保が受諾し得るものであるということをはっきり確認することを求め、提案された同盟の目的を説明するにあたって用心することも求めた。

 平沼声明は、ドイツと日本国内の軍部派に対して、いくらか譲歩をしたが、ドイツが西洋諸国と戦争をすることになっても、日本は直ちにドイツに軍事的援助を与える義務を負うものではないという規定は、重要なものであった。この声明は、ドイツとイタリア側ばかりでなく、大島と白鳥の両大使からも無視された。

 内閣の内部は、紛争の解決がつかないという状態であった。外務大臣有田と海軍大臣米内は、ドイツが西洋諸国との戦争を始めることにきめれば、いつでも日本は西洋諸国を相手に戦う義務を負うことになるような同盟の締結に対して、激しく反対した。陸軍大臣板垣と大蔵大臣石渡は、枢軸との完全な結合を希望した。他の閣僚の間には、さまざまな意見があった。内務大臣木戸は、三国軍事同盟を締結しようとする陸軍の賢明の努力に同情はしていたが、このような同盟の結果として、日本が陥るかもしれない危険を認めていた。拓務大臣小磯は、陸軍の労力拡大計画の忠実な支持者であったが、日本のドイツとの関係がある限界内で強化されたときは、イギリスを説いて、中日戦争の満足な解決をまとめさせることができると考えたので、有田の意見に傾いていた。

 決定的な発言権は総理大臣平沼にあった。かれは陸軍の方針を支持し、また大島と白鳥が訓令に従わないのを許す傾向があった。1939年5月4日のかれの声明は、日本自身の戦争準備を補い、また武力によって対外進出の目的を達成することを可能にするような同盟を締結することに、かれの内閣が熱心であったことを示した。

 しかし、平沼のとった方式は、提案された同盟がどのような形式をとるべきか、またどのような目的を果たすものと期待してよいかについて、引き続き根本的な意見の相違があったことをも示していた。

停頓状態の継続 (原資料93頁)

 1939年4月の日本側の提案で、さらにまた1939年5月4日の平沼声明で、一般的軍事同盟についてのドイツの要求に対して、内閣は新しい譲歩をした。しかし、軍部派は、今では第一次的に西洋諸国を目標とするということがわかった同盟に、日本が完全に参加することを絶対に必要としているドイツの要求に対して、相変わらず支持を続けた。

 平沼声明は、有田の方針と陸軍大臣板垣及び軍部派の方針との間の、本質的な相違を除くに至らなかった。内閣の中の両派とも、中国の支配及び東南アジア諸国への進出という国策によって、西洋諸国の反対が強くなるであろうということは認めていた。有田は相変わらずソビエット連邦を日本の東亜『新秩序』のおもな敵と見做していたので、第一次的にソビエット連邦を目標とした同盟を希望した。枢軸諸国の間のこのような同盟は、西洋諸国が上に述べた国策の遂行を妨げることを思い止まらせることになるであろうとかれは考えたのである。

 しかし、軍部派は、ソビエット連邦との即時開戦という予想に、もうとりつかれていなかったので、陸軍の対外進出のすべての目的が成功するかどうかは、戦争のための日本の動員ばかりでなく、枢軸諸国の間の完全な目的の一致にもかかっていると信ずるようになった。西洋諸国は、日本が南方進出の目標に達するのを妨げていた。これらの諸国は、陸軍が遂行していた中国における侵略戦争に対して、容赦なく反対していた。これらの諸国は、戦争のための動員の成否を左右する重要な原料を支配していた。軍部派の見解では、日本とドイツとイタリアの一般的同盟がつくり出す脅威によって、これらの諸国を牽制し、日本の対外進出の国策に反対させないようにしなければならなかった。

 フォン・リッベントロップは、西洋諸国が来るべき年にドイツとイタリアに敗れたならば、日本が獲得するであろう利益をすでに指摘していた。それゆえに、完全な無条件の軍事同盟を要求することは、陸軍の基本的な特徴となっていた。ドイツの政策が変わり、また西洋諸国に対する攻撃がもう決定されていたので、軍部派は、このような同盟が第一次的にはソビエット連邦でなく、西洋諸国を目標とするものであるということに満足していた。


無条件枢軸同盟を締結する軍部の共同謀議に対する平沼の支持

 1939年の5月中、すなわち平沼声明がなされた直後に、軍部派は一般的な軍事同盟の締結を達成するための努力を再開した。東京駐在のドイツ大使オットは、平沼が声明を出したのは、満足な妥協に到達するために、できるだけのことをする用意が日本にあるかどうかについて、ローマとベルリンで疑惑が生じているかもしれないので、それを打ち消す試みとしてであったと報告した。この声明に対する陸軍の態度をオットは確かめてみようと約束した。

 2日後の1939年5月6日に、陸軍大臣板垣の方針に直接に従って行動していたところの、参謀本部部員の見解をオットは報告することができた。陸軍の考えでは、平沼の声明は、当時の状況のもとで望み得る最善の提案を現わしたものであった。それにもかかわらず、陸軍の意向としては、西洋諸国に対抗するために、日本の軍事的援助を実施するについて、この声明は『情勢の変化』という不明確なことを条件としているが、この言葉づかいをはっきりさせ、また強くしたいということであった。

 陸軍次官はオットに対して、日本は比較的に孤立しているから、直接の協力を与えるについて、不利な立場に立つであろうが、この条約は、日本を確定的に枢軸諸国に結びつけるであろうと告げた。しかし、海軍は平沼声明に現われた方針に対する反対を続け、政府全体を通じて、同盟の味方と敵との間に、深い溝ができていた。

 フォン・リッベントロップは、日本側の遷延によって、ドイツとイタリアとの間に、別の協定が必要になったけれども、三国同盟の交渉は、少しも悪影響を受けるものではないといった。かれはまた大島に対して、ドイツとイタリアとは、直接にフランスとイギリスに対抗しているから、行動をとらないわけには行かなくなったといって、新しい同盟が直接に利用されるのは、西洋諸国に対してであることを明らかにした。

 1939年5月6日に、すなわち、平沼声明がドイツに伝えられた翌日に、大島は再び外務大臣有田の訓令を無視した。その時に、二国同盟について協議するために、イタリアに向かう途中であったフォン・リッベントロップは、ドイツまたはイタリアが第三国と戦争を行なった場合に、たとい日本から軍事的援助の来る見込みがまったくないとしても、日本も交戦状態にあるものと見做してよいかどうかと質問した。平沼声明の字句に構わず、大島は肯定的な回答をしたことを有田に報告した。このような保証が権限なしに行なわれたことについて、有田は非常に憤慨した。そして、総理大臣平沼が、中立的な態度をとるよりも、むしろ陸軍を支持する方に傾いていることを知っていただけに、かれはいっそう困惑した。

 その翌日の1939年5月7日に、大島の報告を審議するために、今ではほとんど絶え間なく会合していた五相会議が開かれた。予期されたように、総理大臣平沼は陸軍大臣板垣に賛成し、フォン・リッベントロップに対する大島の回答を支持した。

 一方において、1939年5月6日に、ドイツ外務省の一官吏が新しい非公式な提案を出した。それは日本が以前に拒否した要求を含んだもので、平沼声明にはまったく触れていなかった。外務大臣有田は、調査の結果、この提案の草案は、日本陸軍がかねてドイツ外務省に提出しておいたものであることを発見した。この軍部の共同謀議の結果に対して、有田は責任をとることを拒否したが、総理大臣平沼はあくまで軍部派を支持した。

 1939年5月9日に、すなわち、ドイツまたはイタリアがどのような戦争を行なっても、それに日本が参加するという大島の保証を平沼が支持した会合の2日後に、非公式なドイツ外務省の提案を審議するために、五相会議が会合した。この提案は、日本の軍部派の勧めによって出されたことがわかっていた。

 この提案は公式になされたものではなく、また平沼声明に対するなんらの回答も受けていないといって、海軍大臣米内は激しく異議を唱えた。平沼はこの異議をしりぞけ、ドイツとイタリアの加わるどのような戦争にも、積極的にではないであろうが、日本は参加するであろうという大島の保証が報告されているので、ドイツの態度は充分にわかっていると主張した。

橋本、軍閥の目的を支持 (原資料97頁)

 橋本はこれらの目的を公然と唱道した最初の者であった。閣内の紛争が続いている間に、陸軍の政策に大衆の支持を集める目的で、かれは一連の新聞論説を書いた。これらの論説のうちの6つは、1939年5月1日から1939年7月20日までの間に発表されたものであるが、その中で、橋本は軍部派の政策が変わったことを明らかにした。ソビエット連邦と西洋諸国は、ともに中国における日本の政策の敵であるとかれは見做したが、イギリスが日本の最大の敵であるということこそ、かれの一貫した論旨であった。

 イギリスとソビエット連邦、すなわち、蒋介石大元帥を支持する諸国を打倒するまでは、中国における戦争は終わらないと橋本はいった。かれは、中国における日本の諸目的に対して、イギリスがおもな反対者であると見做し、イギリスが打倒されたときは、ソビエット連邦は孤立に陥るであろうといって、イギリスに対する攻撃を唱道した。

 そこで、日本は西洋諸国に反抗して南進すると同時に、ソビエット連邦に対して、みずからを守らなければならないと橋本は主張した。また、日本の運命は南方にあり、中国におけると同様に、南方においても、日本の発展の進捗を妨げるものはイギリスであると主張した。当時の情勢では、日本がイギリスを征服するのは容易であるといって、日本がイギリスを攻撃することを橋本は繰り返して勧告した。かれは香港の占領と上海及び天津のイギリス租界の接収を主張した。イギリス艦隊がシンガポールに達し得る前に、日本の空軍がこれを全滅させることができるという信念を表明した。この一連の論説の最後のものは、1939年7月20日に発表されたが、その中で、橋本は日本の世論がついに反共に転向したことを認めて、満足の意を述べた。

 橋本は、かれが述べた理由によって、三国同盟の締結を要求した。この同盟は軍部派が要求していたものである。平沼と有田は、ドイツ及びイタリアとの関係を緊密にすることを希望しているが、かれらはイギリスをおそれて、一般的軍事同盟の締結を躊躇しているのであると橋本はいった。従って、行動を躊躇しないような強力な戦時内閣の樹立をかれは力説した。

 日本の武力による勢力拡大の諸計画は、ドイツ及びイタリアとの提携によって達成されるものであると橋本は考えた。イギリスを滅ぼすのがこれら両国の方針であるから、枢軸諸国の利益は一致しているとかれはいった。従って、民主主義も共産主義もともに攻撃の目標に含まれるように、日本は直ちにドイツ及びイタリアとの関係を発展させ、強化させなければならないと要求した。もしわれわれがこの提携を強化したならば、イギリスとフランスを打ち破ることは容易であろうといった。ヨーロッパでは、ドイツとイタリアが民主主義も共産主義もともに撃滅し、東アジアでは、少なくともインドまでの範囲において、日本がこれらの原則のもとに打ち立てられた国々を打ち滅ぼすというのであった。

平沼は依然として軍部派の要求を支持 (原資料99頁)

 一般的軍事同盟に関するドイツの提案に日本が賛成しなかったことは、ドイツとイタリアにおいて、はなはだしい不満を買った。

 1939年5月15日に、フォン・リッベントロップは東京の大使オットに電報を送り、陸軍省における大使の同志の友人に対して、そして、もしできるならば、陸軍大臣板垣自身に対して、速やかに決定に達することが必要なことを知らせるようにと訓令した。オットは、ドイツとイタリアが望んでいる同盟締結が合衆国をイギリス及びフランスの側に立って参戦させないようにする最良の途であると話すことになっていた。また、日本の東アジアにおける、とりわけ中国における支配権は、第一に西洋諸国に対する枢軸国の優勢に依存することを、日本は了解しなければならないと指摘することになっていた。

 フォン・リッベントロップは大島に対して、ドイツとイタリアは二国協定を締結しようとしているが、日本の参加の途は依然として開かれていると語った。かれは大島に対して、ドイツ・イタリア間の協定締結と同時に、提案された三国同盟について、意見の一致した草案を秘密に作成することが望ましいことを強調した。

 陸軍大臣板垣は、大島とドイツ側が希望しているような方法で、直ちに同盟を締結しなければならないと決意していた。1939年5月20日に、かれは大島を通じてフォン・リッベントロップに、遅くても翌日までに、ドイツは日本の内閣から積極的な新しい決定を受け取るはずであると約束した。

 1939年5月20日に、五相会議が再び開かれた。それは陸軍大臣板垣と海軍大臣米内が総理大臣平沼に個別的に報告を行なった後のことであった。外務大臣有田は、日本は枢軸国のどのような戦争にも参加するであろうという大島の肯定的な言明を、大島に取り消させることを提案した。しかし、平沼は言を左右にし、それを取り消させることを拒絶した。総理大臣は、大使大島の言葉を取り消すことを繰り返し要求されたが、日本の立場に関して、大島のいったことはそれでよろしいという態度をかれは維持した。会議が終わった後も、事態は依然として前の通りであった。意見の相違は解決されていなかった。積極的な新しい決定に到達するという板垣の約束は、果たされなかった。2日の後、すなわち、1939年5月22日に、独伊同盟が締結された。

 1939年5月20日の会議の後に、外務大臣有田は大島に対して、ヨーロッパにおける紛争の場合に、日本政府は交戦状態に入る権利を留保することを望むという明確な訓令を送った。大島はこの通告を伝達することを拒み、有田に対して、ぶっきらぼうな言葉の電報で、その旨を伝えた。ローマにいた白鳥は、大島と同じ途をとった。争いは、今や平沼声明の真の意味は何かという点にかかっていた。陸軍はそれが参戦を含むといい、天皇は有田を支持し、陸軍の方針に反対した。しかし、1939年5月22日に、総理大臣平沼は、陸軍の希望通りに事を運ばなければならないといって、再び陸軍の解釈を支持した。


ドイツ及びイタリアとの同盟の締結を強行しようとする板垣の試み

 陸軍大臣板垣は、今では、内閣の瓦解という危険をおかしても、この問題のために戦い、速やかに結末をつけようと固く決意していた。ベルリン駐在の日本大使として、大島は外務省に対して責任を負っていたにもかかわらず、板垣は大島に対して、外務大臣有田にこれ以上報告を送らないように訓令した。板垣は、閣内の諸派を放任しておき、提案された軍事同盟の問題に関して、かれら自身の間で解決に達するようにしたいと思っていた。大島はフォン・リッベントロップに対して、これらの経過を内密に説明した。

 1939年5月28日に、フォン・リッベントロップはこの情報を東京の大使オットに伝え、大島の情報を秘密のものとして取り扱うように訓令した。オットは、速やかに決定させるために、さらに圧力を加えるようにと要求された。1939年5月21日までに断定的な回答を与えるという板垣の約束が守られなかったことについて、ドイツとイタリアが落胆しているということを関係当局者に伝えるように、かれは訓令された。1939年6月5日に、オットはフォン・リッベントロップに対して、外務省と陸軍省の当局者から受けた情報を報告した。すべての論点について、陸軍の主張が通った上で、陸軍と海軍は了解に到達したということであった。平沼と有田は、この了解を不本意ながら承認し、外交機関を通じて、ベルリンとローマに通告されることになっているということが述べられた。オットに情報を提供した者によれば、日本はイギリスとフランスに対する戦争に参加することには同意しているが、有利な時機を見て、この戦争に参加するという権利を留保したいということであった。

 陸軍の支持者が成立したと称した意見の一致は、ほんとうのものではなかったので、オットの予報した通告は来なかった。海軍はどんな譲歩をしたにせよ、陸軍の計画の根本的な点に対して、依然として反対であった。意見の一致と称されたものは、平沼の支持のもとに、一部分は陸軍大臣板垣の強要によって、一部分はかれの二枚舌によって得られたものであった。

 天皇は依然として外務大臣有田の方針を支持していた。板垣は、1938年7月にハサン湖において武力を行使するために、天皇の同意を得ようと試みたのと同じ方法で、この障害を乗り越えようと試みた。陸軍の希望した同盟に対して、外務大臣有田が賛成するようになったとかれはそのとき偽って報告したのである。しかし、天皇は策略にかかったことを発見し、1939年7月7日に、板垣が故意に嘘をいったことを責め、かれを激しく叱責した。

 1939年の6月と7月を通じて、日本側の新しい通告は、まったくドイツに達しなかった。軍部派が希望した同盟は、天皇と海軍と外務大臣がそれに反対している限り、締結することはできなかった。板垣はこれを認めていた。それは、かれが、天皇の気持ちを変えることはできないかとかれが1939年7月23日に枢密院議長近衛に尋ねたことからわかる。近衛の答えは、それをなし遂げることは非常に困難であろうと考えるということであった。

 しかし、板垣はかれの目的を捨てなかった。1939年8月4日に、内務大臣木戸に対して、三国軍事同盟の締結に内閣が同意しなければ辞職するつもりであると伝えた。

中国における陸軍の活動とノモンハンにおけるソビエット連邦に対する攻撃とによる内閣の困難の増大 (原資料105頁)

 その間に、中国と満州国境における陸軍の活動は、内閣の困難を増大していた。閣内の両派とも、中国における日本の地位を固め、その目的に反対するどの国に対しても反抗する決意を維持していた。1939年7月6日に、陸軍大臣板垣と海軍大臣米内は、中国の抗戦を終わらせようという固い決意を再び表明した。両軍部大臣は、蒋介石大元帥の軍隊を支援する第三国の妨害を打ちくだかなければならないと述べ、また、東アジアにおける日本の『新秩序』建設のためには、一切の努力を惜しまないようにと日本国民を激励した。

 占領された風極の全地域のために、新しい傀儡政府を樹立する試みが行なわれていた。陸軍は、この政策を実行するにあたって、西洋諸国の権益を攻撃するについて、すべての表面的な口実を捨ててしまっていた。

 陸軍は、さらに、1938年の後半期に立てた計画に従って、外蒙古を日本の支配圏内に入れようと努力していた。1939年1月に、平沼内閣が就任してから、日本軍の分遣隊は外蒙古の国境を越えて、すでに数回にわたって、小規模の襲撃を行なっていた。

 これらの国境襲撃よりもいっそう重大なのは、1939年5月中に、ノモンハンで始められた戦闘であった。軍部派の首脳部がドイツ及びイタリアとの一般的軍事同盟を締結しようと努力していたときに、関東軍の部隊は、満州国国境に駐屯していたソビエット軍を再び攻撃した。この戦闘は、本判決の後の部分でもっと充分に説明することにするが、相当に大規模の作戦に進展し、交戦した日本軍の敗北となって、1939年9月中に終わった。

 ノモンハンにおける攻撃が、参謀本部の命令またはその黙認によって行なわれたものであるか、それ以前の諸場合のように、関東軍自身の発意でなされたものであるかを示す証拠は、本裁判所に提出されていない。提案されたドイツとの軍事同盟問題に専念し、すでに収拾の見込みがないほどに分裂していた内閣は、この作戦を陸軍部内の問題と見做し、それに対して、なんら干渉の試みをしなかったように見受けられる。

 しかし、ソビエット連邦とのこの紛争が、平沼内閣内のどちらの派の見解にも、少しも変化をもたらさなかったことは確実である。戦闘が続いた全期間を通じて、陸軍大臣板垣と軍部派は、イギリスとフランスを第一の目標としたドイツとの同盟を締結しようと努力した。外務大臣有田、海軍大臣米内及びかれらを支持する者達は、西洋諸国に対する戦争に直ちに参加するように日本を拘束する同盟の締結を避けるために、同様な決意をもって争った。

 これらの軍事的活動は、内閣の審議にあたって生じた緊張の空気を増大した。この事態の全貌は、1939年7月7日に、天皇が板垣を叱責した際に、内大臣が使った言葉によって要約されている。そのときに、内大臣は『いかにもどうも陸軍は乱脈で、もう迚(とて)も駄目だ』といった。かれは事態を悲しむべきものであると考え、陸軍は国を亡ぼそうとしているといって歎(なげ)いた。それでも、閣僚は、そのときの事態からして、ドイツ及びイタリアとある種の同盟を結ぶことは必要であるということに、意見が一致していた。


有田と軍閥との政策の対立のために、1939年6月と7月には、新しい措置がとられなかった

 しかし、1939年6月と7月を通じて、軍部派と外務大臣有田を支持する者との間に、引き続き存在した意見の不一致のために、新しい措置は全然とられなかった。そして、1939年6月かた7月まで、ドイツとの交渉にも、平沼内閣内の未解決の紛争にも、新しい進展は全然起こらなかった。そして、1939年6月から8月まで、ドイツとの交渉にも、平沼内閣内の未解決の紛争にも、阿多亜rしい進展は全然起こらなかった。

 1939年8月には、板垣はヨーロッパにおける戦争が差し迫っていることを知っていた。また、有田の政策がある程度の成功を収めれば、枢軸諸国の無条件三国同盟について、平沼内閣の同意を得る可能性がなくなりはしないかと心配していた。

 有田はこのような同盟の結果をおそれ、中国における日本の地位を確保するような協定をイギリスと結ぶことが非常に重要であると考えていた。その目的を念頭に置いて、かれはイギリス大使クレーギーに申入れをなしつつあった。有田が日本は三国同盟を締結するかもしれないということをほのめかし、それを誘因として、三国同盟に代わる有田の政策にイギリスの協力を得ようとしていたことを板垣は知っていた。

ドイツとの同盟に関する政策を決定しようとする平沼内閣の試み、1939年8月8日 (原資料108頁)

 この努力に対抗するために、板垣はドイツの無条件軍事同盟の提案に内閣の同意を得ようとして、さらに努力を試みた。日本国内の世論が、経済的に魅力のあるイギリスとの和解を支持するような反響を示す危険のあることをかれは認めていた。1939年8月4日に、この事態について、板垣は内務大臣木戸と話し合った。木戸は、大島と白鳥がはばかるとことなく日本の利益をドイツとイタリアの利益に従属させたやり方はよくないと認めながらも、終始陸軍の見解に賛成してきたのであり、また海軍を説いて反対を断念させようと試みていたのである。

 板垣は木戸に対して、ドイツ及びイタリアとの軍事同盟の締結に内閣が同意しないなら、自分は辞職するといった。これは必然的に内閣を崩壊させる結果となるものであった。木戸は当時の情勢で内閣がかわることを心配し、軍部内閣をつくろうとするあらゆる試みは阻止しなければならないことを板垣に納得させた。板垣は、陸軍と海軍との間の行きづまりの打開が再び試みられることに同意した。

 従って、五相会議でこの問題が再び討議されて後、1939年8月8日に、内閣はどのような措置をとるべきかを考慮するために会合した。総理大臣平沼は、陸軍の計画をそのまま受け容れるという立場から、いくらか退いていた。枢軸諸国の間に同盟を結ぶように、内閣は長い間努力してきたことをかれは指摘した。陸軍もまた単に既定計画に実を結ばせるように努力してきただけであると陸軍大臣板垣は昨日主張したが、自分としては、そうであるとは思えないと平沼はいった。それから、総理大臣は他の閣僚の発言を求めた。

 閣内の総意は、情勢の変化は攻守同盟を必要とするというのであった。最初に計画されていた通りに、日本はまず防御同盟を締結することを試みるが、もしそれができない場合は、攻守同盟を締結しようというのであった。攻守同盟にどのような制限をつけるかを定めようとする試みはなされなかったが、外務大臣有田は、内閣の同意は板垣が要求した無条件同盟とは開きがあると考えた。陸軍大臣が辞職するか、内閣がさらに折り合いをつけるかしなければならなかった。

 板垣の方では、この一般的な不安と幻滅のときにあたって、自分が演じていた役割について一つの告白をした。自分は陸軍大臣でもあり、閣僚でもあるとかれはいった。閣僚としての役割では、内閣全体が承認した計画に賛成したが、陸軍大臣としては、陸軍の総意に従い、独立して行動してきたというのであった。


1939年8月23日のドイツ・ソビエット中立条約に起因する平沼内閣の瓦解

 1939年8月8日の閣議は、陸軍大臣板垣と軍部派が希望した積極的な決定には達しなかった。内閣は攻守同盟の必要を認識しながらも、板垣が1939年6月5日になした約束以上に、すなわち、ドイツと西洋諸国との間のどのような戦争にも、日本は好機を見て参加する権利を留保するという言質以上に出ることを拒否したし、また実際内閣はこの以前の提案を明確に確認することもしなかったのである。

 そこで、板垣はもう一度強力手段を講じようと決意した。かれはオットに事態を説明し、情勢上まったくやむを得ないから、最後の手段として、自分の職を賭す決意であるといった。これはほとんど確定的に大島と白鳥の辞職をももたらすことになるのであった。これらの辞職は、結局には、ドイツと日本陸軍とが望んでいた同盟を成立させるであろうと希望されたが、その直接の結果としては、これらの計画に急激な頓挫を来すことになるであろうということが認められた。

 1939年8月10日に、板垣はオットに対して、当時の重大な緊迫した形勢をドイツとイタリアに通報し、両国が譲歩することによって援助してくれるように要請してもらいたいと頼んだ。具体的には、日本が参戦の時期を選ぶという条件の背後には、何の底意もないという保証づきで、ドイツとイタリアが1939年6月5日の提案を受諾することを提案した。そうすれば、板垣はその与えた保証の明白な確認を得ることにするというのであった。協定は外務省に通告しないで成立させるというのであった。大島と白鳥は、板垣の訓令に基づいて行動することになっており、1939年8月8日に暫定的に成立した決定の範囲内にはいる取極めが内閣に提示されることになっていた。

 オットは以上の情報のすべてをドイツに伝達し、ドイツ政府が板垣の要請に応ずるように勧告した。陸軍はドイツが希望している同盟の第一の支持者であるから、陸軍の内政上の立場を支持することは、ドイツにとって、最も重要なことであるとオットは指摘した。さらに、オットは、このような譲歩はドイツとの同盟を求めるという決定に政府全体を引きもどし、内閣の瓦解を避けることになると思うといった。1939年8月18日に、オットは、板垣と有田の間の紛争はまだ激しく続いていると報告した。板垣の立場は、無条件軍事同盟を要求している青年将校の圧力によって強化されたが、五相会議は、1939年6月5日に非公式にドイツに伝達された申入れ以上に出ようとしなかった。有田のイギリスに対する交渉の結果とは関係なしに、陸軍はその同盟政策を遂行していた。

 5日後の1939年8月23日に、ドイツ・ソビエット中立条約が調印された。1939年9月1日に、ドイツはポーランドに侵入し、この行動の結果として、1939年9月3日に、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦した。ドイツは板垣の要求した譲歩を行なわなかったし、陸軍大臣の強行手段の企ては機会を逸した。しかし、事態は陸軍大臣の辞職以上のものを必要とした。内閣の政策も、完全に信用を失っていた。内閣と国民は、ソビエット連邦に対抗する同盟国として、ドイツを当てにしていた。内閣は成立の当初から、日本と枢軸諸国との間に、いっそう緊密な関係をもたらすことを公約していた。1939年8月28日に会議を開き、その政策の失敗を認めた後に、平沼内閣は総辞職した。内閣の親ドイツ政策の崩壊によって、西洋諸国との暫定協定を求めることが可能になった――それは板垣がおそれていた政策である。

阿部内閣の就任、1939年8月30日 (原資料113頁)

 新しい内閣を組織させるために、天皇は阿部大将を呼び寄せ、ある指示を与えた。畑か梅津を新しい陸軍大臣にすること、治安の維持が最も重要であったので、内務大臣と司法大臣の任命には慎重を期すること、新内閣の対外政策は、イギリス及び合衆国との協調の政策とすることというのであった。

 右の最後の指示に従うためには、第一次近衛内閣と平沼内閣がとってきた対外政策を反転することが必要であって、このことは、天皇の与えたその他の指示がなぜ必要であったかを説明している。新しい陸軍大臣は、陸軍の信頼を受け、また陸軍を統制し得る者であることが必要であり、新しい政策が成功するかどうかは、主として、国家の対外政策の急転換に対する反動として、日本の大衆の間に生ずる混乱を内務大臣と司法大臣において取り締まることができるかどうかにかかるのであった。

 阿部は、やや当惑して天皇の指示を当時の枢密院議長近衛に報告し、近衛は近衛で辞任する内務大臣木戸に知らせた。もし阿部が陸軍大臣の人選について天皇の選択に従うとすれば、軍部と衝突する危険があると木戸は近衛に語り、近衛はこれに同意した。従って、天皇はこの指示を陸軍自体か、辞任する陸軍大臣かに言い渡し、慣例によって、陸軍三長官に新しい陸軍大臣の選択を任せなければならないというのであった。その他の天皇の指示については、木戸は、阿部が阿部自身の裁量に任せてもよいと考えた。これらの意見を阿部に伝えることを木戸は近衛に頼んだ。

 1939年8月30日に成立した阿部内閣には、前の内閣の閣僚は一人も残っていなかった。畑が新しい陸軍大臣になった。白鳥は、かれ自身の要求によって、ローマから呼び返された。1939年9月5日に、関東軍は、ノモンハンにおけるソビエット連邦に対する国境紛争の終結と失敗を発表した。2日後に、陸軍大臣の職に天皇が選んだもう一人の候補者であった梅津が、関東軍司令官になった。初めは阿部自身が行なっていた対外問題の処理は、海軍大臣野村の任務となった。

 野村の指導のもとに、内閣の対外政策は、日本の西洋諸国との関係の改善を企てた。ドイツ及びイタリアとの接近をはかろうとする努力は、少しも行なわれなかった。日本の東南アジア侵略のための措置は、少しも論じられなかった。平沼が総理大臣であったときの終わりごろに発生した仏印における爆撃事件は解決され、日本によって賠償金が支払われた。

 しかし、西洋諸国との関係の改善が希望されたことは、日本の中国支配の目標が放棄されたことを意味したのではなかった。これは日本の国策の基本的な綱領であった。阿部内閣は、日本がつくり出した東亜『新秩序』を、西洋諸国が認めることを望んだ。

 この政策の例証となるものは、1939年11月30日に、外務大臣野村とフランス大使との間に行なわれた会談である。野村は大使アンリーに、両国の間の友好関係を回復しようというフランスの希望に日本は同感であると述べた。フランスが先ごろ行なった譲歩に対して、かれは感謝の意を表明した。しかし、蒋介石大元帥の政権の壊滅のために、日本が全力を尽くしているのに対して、フランスは中国の抗戦の援助を続けているということを野村は指摘した。さらに、太平洋のフランス領土、特に仏印は、日本に対して、経済的障壁を設けている。もしフランスが真に日本との国交調整を望むならば、あいまいな行為をやめ、蒋介石大元帥の政権との関係を断ち、日本の『支那事変』解決の企てに同情的態度をとるべきであると野村は述べた。

 野村はアンリーに、多量の軍需品が今でも仏印を経由して、中国国民政府軍の手に入っており、このフランスの植民地は、親中国、反日本の活動のための、また中国軍の補給のための基地になっているといった。野村は、外務省官吏に軍事専門家を同伴させて、これを北部仏印のハノイに派遣し、中国内の仏印国境に近いところで、フランスに疑惑を起こさせているところの日本の軍事行動が行なわれている理由を現地で説明させたいと思っていた。このようにして、フランスの疑惑を解き、協定ができるようになるのではないかと野村はいった。

 1939年12月12日に、大使アンリーは、仏印を経由して軍需品が輸送されることを否定するフランス側の回答を提出し、日本がこの苦情を再び持ち出したことに遺憾の意を表明した、ハノイに日本総領事が駐在している以上、同市に使節団を派遣するだけの理由をフランスは認めることができないとアンリーはいった。両国間の懸案となっている意見の相違であって、右のほかのすべてのものについては、フランスは喜んで協議したいと述べ、また、中国と仏印との国境における日本側の軍事行動について、説明を求めた。

 野村はこれに答えて、軍需品が引き続いて輸送されていることは、論議の余地のない明白な事実であるといった。日本と中国との間の戦争は、公然と宣戦が行なわれていないから、フランスには、蒋介石大元帥の軍隊に対する物資の供給を停止する法律上の義務がないことをかれは認めたが、中国の抗戦軍隊を助ける傾向のある輸送を停止する措置をフランスが講ずることを、かれの内閣は希望していると述べた。

 阿部内閣の政策は、同内閣が政権についた直後に、ソビエット連邦に対して行なわれた申入れの中にもよく示されている。モスコー駐在の日本大使東郷は、ノモンハンの戦争の解決を提案するように訓令を受けていた。そして、数日のうちに、この解決が成立していた。東郷はまた、国境紛争解決のための一般委員会の設置と、ソビエット連邦との通商条約の締結とを提案するように、訓令を受けた。もしソビエット連邦が両国の間の不侵略条約を提案したならば、ソビエット連邦が蒋介石大元帥への援助を打ち切る用意があるかどうかを、東郷はまず尋ねることになっていた。

軍閥は枢軸諸国との完全な統合のために活動を継続 (原資料116頁)

 西洋諸国との暫定協定を結ぼうとする内閣の新しい政策にもかかわらず、軍部派はドイツ及びイタリアとの完全な結合を求める政策を変えなかった。独ソ条約は、平沼内閣と日本の世論とに対して、激しい衝撃を与えていた。大島でさえも驚き、このような合意がついに成立したことに憤慨していた。しかし、大島と白鳥は、ドイツの意図については、充分に警告を受けていた。

 大島は、ヒットラーとドイツ陸軍から、完全な信頼を受けていた。中立条約締結の前の年には、フォン・リッベントロップから、かれはドイツの政策をいつも充分に知らされていた。フォン・リッベントロップは、長い間、ドイツも日本もソビエットン連邦と了解に到達しなければならないと確信していた。今やかれは、たとい三国同盟が締結されたとしても、右の結果を実現するために、自分は努力したであろうといった。フォン・リッベントロップは、1年以上も前に、この政策を大島にもらしていた。1939年6月16日に、かれは大島と白鳥に対して、日本がドイツの提案に同意しなかったので、ドイツは単独でソビエット連邦と条約を結ぶという、はっきりした警告を与えていたのである。白鳥は、これがドイツの意図であることをさとったが、大島は、このような接近は問題にならないと信じ、この警告は、日本にドイツとの同盟を結ばせるための拍車をかけることになるであろうと考えていた。

 1939年8月23日に、独ソ中立条約が締結された後、白鳥とかれの属する親ドイツ派とは、この事件が日本に引き起こした反動を打ち消すために努力した。その目的が達成されなかったので、枢軸諸国の間の接近をはかるために、もっと有効に働くことのできる日本に召還されるように、かれは強く要請した。

 独ソ中立条約の締結は、日本では、防共協定付属秘密協定の違反であると考えられたので、これに関して、平沼内閣はドイツ側に抗議した。しかし、大使大島は、この抗議を手交しようとした相手であるドイツ外務省の当局者によって、その提出を思い止まらせられた。白鳥もまた、この抗議を手交すべきでないと勧告した。それにもかかわらず、大島は内閣の訓令に従ったと報告した。しかし、ドイツのポーランド侵入が完了した1939年9月18日まで、かれは平沼内閣の抗議を手交しなかった。この手交さえも、大島は弁明するような態度で行なったのであり、ドイツ外務省がこの文書を非公式に参考のために受け取るということで、かれは満足した。

 この間に、ローマの白鳥は、独ソ中立条約の締結について、日本国内で生じている憤慨の念に対して、自分は同感ではないということを明らかにしていた。1939年9月4日に、かれはローマ駐在のドイツ大使に、防共協定付属秘密協定の効力について語った。この協定の意図は、両国のうちのどちらも、ソビエット連邦と不侵略条約を結ばないようにすることであった。防共協定を締結する当時には、ソビエット連邦がドイツ及び日本の主要な敵と思われたからである。そのとき以後に、事情は完全に変化したのであり、どんな国に対しても、条約のために自国の崩壊をも招くようなことを期待するのは不合理であろうと白鳥はいった。今では、イギリスが両国の主要な敵となったのであり、これを絶対に打ち破らなければならないのであった。要するに、白鳥は、独ソ不可侵条約の真の性質――すなわち、東部と西部の国境において、同時に戦争をしなければならなくなるのを避けるための、ドイツ側の策略であること――を認識したのである。

 1939年9月2日に、白鳥は日本への召還の公式通知を受け取った。かれはフォン・リッベントロップに、自己の親ドイツ的意見を説く機会をもつことを特に希望し、ベルリンに行かれないことがわかると、大島を通じて、自分の気持ちを伝える手はずを整えた。

 東京では、辞任する陸軍大臣板垣が、枢軸の結合に対するかれの変わらない信念を表明した。1939年9月6日に、ドイツ大使館付き陸軍武官と空軍武官のために催された招待会で、板垣と新しい陸軍大臣畑は、ドイツに対して著しく懇篤な演説を行なった。板垣は大使オットに、日本とドイツの連帯を強化するために、かれがきわめて真剣な努力をしたことを指摘した。この努力は、ヨーロッパの事態が発展したために、失敗に帰したとかれは語った。しかし、かれの後継者畑は、かれと完全に所見を同じくしているということを板垣は強調した。畑は、ヨーロッパ戦争に介入しないという阿部内閣の宣言に言及したが、軍人として、自分はドイツのとった行動を充分に理解しているとオットに保証した。


西洋諸国に対抗して日本とドイツを同盟させる軍部派の共同謀議

 軍部派の他の者は、日本とドイツとの間に、緊密な関係を続けさせようと努力した。そして、このような努力をすることを、ドイツ側は勧めもしたし、これに報いもした。広田内閣の陸軍大臣であり、1936年8月の国策の基準の決定に最も責任のある者の一人であった寺内大将は、平沼内閣が瓦解してから間もなく、親善使節としてドイツに到着した。陸軍大臣板垣が言い出して、かれはナチス党大会に出席するために派遣されたのであった。海軍はこの使節団に反対したが、板垣は天皇に対して、防共協定によってつくりだされた連帯を強化するために、寺内を派遣しなければならないと進言した。

 1939年9月2日に、白鳥はローマ駐在のドイツ大使に、邪魔のはいった枢軸国との接近を首尾よく続けるについて、充分な見込みがあると信ずるということを語っていた。日本では、ソビエット連邦と落着をつけることを望む世論が強くなりつつあり、不可侵条約の締結に発展するかもしれないとかれは述べた。ソビエットの脅威を受けなくなれば、日本はヨーロッパ戦争に合衆国が介入する可能性を最小限にすることができるであろうというのであった。

 1939年9月4日に、白鳥はドイツ大使に対して、かれの意見としては、日ソ条約を締結する方法は、ドイツの仲介を通ずるほかはないと語った。そこで、白鳥は大島に、東京からのどのような訓令も待っていないで、ソビエット連邦に対するドイツの『斡旋』を要請するように促した。かれは枢軸諸国がイギリスに対して団結すべきであると信じ、ポーランド戦が完了した後に、フランス及びイギリスと受諾のできる休戦に到達することによって、世界戦争は避けられるであろうと希望した。

 2日後に、フォン・リッベントロップが大島に力説した見解は、白鳥が述べたものと非常によく符合していた。フォン・リッベントロップは大島に、日本の運命はドイツのそれと常に結びついていると語った。もしドイツが敗北したならば、西洋諸国の連合は、日本がこれ以上に対外進出することを妨げるであろうし、中国における日本の地位を奪い去るであろうというのであった。しかし、もし日本がドイツとの関係を維持し、改善するならば、日本の地位は、ドイツの勝利によって、結局は動かないものになるというのであった。

 三枢軸国の間の密接な協力という考えは、少しも失われていないとかれはつけ加えた。ソビエット連邦との了解があるから、世界の情勢に応じて、三国はその活動を直接にイギリスに向けるというのであった。これはすべての関係当事国の真の利益にかなうものであった。フォン・リッベントロップは、何をおいても、ソビエット連邦と日本との了解のために、みずから努力するというのであり、東京でも、この同じ方針が採用されるものと確信していた。ドイツのイギリスに対する争いは、将来における全世界の政治を決定することになるであろうから、ソビエット連邦と日本との了解は、速やかに達成されなければならないというのであった。

 これらの言明について、大島はすべて同意を表明した。日本陸軍は、疑いもなく、ソビエット連邦との了解の必要を認めるであろうし、これらの考えは、近い将来において、日本の外交政策の中に織りこまれる見込みが確かにあるとかれはいった。白鳥もこの結果を実現するために努力するというのであった。

 フォン・リッベントロップもヒットラーも、大島に対して、また寺内に対して、これらの見解を機会あるごとに力説した。大使オットは、同じ趣旨で、日本の参謀総長閑院(閑院宮載仁親王。かんいんのみやことひとしんのう)ときわめて率直に話すように訓令された。さらに、大島はドイツ政府と陸軍の完全な信頼を受けているから、大島が大使としてベルリンに留まることが重要であるとほのめかすことになっていた。

 しかし、大島は、ベルリンでよりも東京で、いっそう有効に活動ができると判断した。1939年10月27日に、フォン・リッベントロップはオットに対して、大島が計画通り東京へ帰った上は、ドイツと日本との友好のために努力することになっていると知らせた。大島に対して、ドイツ大使館を通じて、ベルリンへの特別な通信経路を提供するように、オットは訓令された。

大島はドイツに勧められて太平洋の西洋諸国の属地に対する日本の攻撃を計画した (原資料123頁)

 フォン・リッベントロップは、枢軸の結合を促すにあたって、日本をはげまして南方に進出させようと試みた。かれは大島にも寺内にも、日本の死活に関する利益がその方面にあることを力説した。ドイツの仲介によって、日本とソビエット連邦との間に了解が成立すれば、日本は東アジアにおける勢力を自由に南方に向けて伸ばし、計画されている以上の進出をすることができるであろうというのであった。寺内はこれに同意し、中国における戦争を我慢できる妥協によって終わらせ、もっと大きな経済的成功の得られる南方において、日本の陸海軍の力を利用するのが最も日本の利益になるといった。

 大島は同意したばかりでなく、大いに乗り気であった。日本は東南アジアに進出する用意が完全にできているであろうし、これには香港の攻略も含まれることになろうといった。かれはすでに電報でこのことを提案していたのである。大島の意見では、日本は東南アジアに深く進出しなければならないというのであった。日本はオランダ領東インドの錫、ゴムと油、イギリス領インドの綿花、オーストラリアの羊毛を必要とした。これらの必要品の全部を得たならば、日本はきわめて強力になるというのであった。

 かれは、当時に、日本はオランダ領東インドと不侵略条約を結び、それと同時に一つの協定を結び、その成立した協定に従って、日本が東インドの原料を開発することができるようにしなければならないと考えていた。この方法によって、オランダはイギリスから離間されるというのであった。


阿部内閣崩壊の理由と米内内閣による親ドイツ外交政策の回復

 阿部が総理大臣として在任していた間には、陸軍大臣畑にしても、軍部派の他の者にしても、自分たちの見解を採用させようと、公然と試みたということは示されていない。白鳥がすでに指摘していたように、阿部内閣の成立によって、ある好都合な結果を生ずる見込みがあった。日本の政策の目標は、前と同様に、中国における『新秩序』の建設であった。独ソ条約の締結によって、かもし出された民衆の反感は、内閣更迭の結果として相当に緩和されていた。日本では、ソビエット連邦との和解を求める気分が次第に強くなっていた。もしそれがだんだんになし遂げられたならば、不可侵条約の締結をもたらすかもしれなかった。新しい内閣が政権をとったので、白鳥はドイツと日本の関係をもと通りにすることを続ける機会が確実にあるものと考えた。白鳥も大島も、この機会をできるだけ利用するために、東京に帰った。

 阿部内閣の方針とその組閣をめぐる事情とは、それみずから、この内閣の崩壊の理由を含んでいる。中国において日本の『新秩序』を建設する、という目的を放棄する内閣は、すべて政権を保つことを望み得なかった。しかも、その目的をもち続けることは、西洋諸国との友好関係を回復することと両立しなかった。この外交政策を促進するために、阿部内閣はつくられたのである。その政策の実行は、しかし、できるものではないということが間もなく認められた。

 軍部派に属する者は、勢力のある地位を回復した。1939年9月28日に、土肥原は軍事参議官になった。1939年12月1日に、荒木は再び内閣参議になった。

 仏印に関する外務大臣野村の交渉は、フランスとの友好関係をもたらすにも至らなかったし、野村が得ようと努力した譲歩を日本は獲得もしなかった。1939年12月5日に、合衆国は、中国における自国の財産に日本軍が加えた損害について、新たな抗議を申し入れた。そして、10日後に、日本向けの輸出が道義的に禁止されていた品目の表を拡張した。日本が輸入しなければならない原料の供給は、差し控えられることになった。

 1940年1月12日に、日本はオランダに対して、同国と日本との間の仲裁裁判条約を廃棄する意思を通告した。これによって、この条約は1940年8月に効力を失うことになった。3日後に、阿部内閣は辞職し、その辞職とともに、西洋諸国といっそう友好的な関係を助長しようとする政策が放棄された。

 その翌日に、米内が新しい総理大臣になった。かれは、平沼内閣の海軍大臣のときに、ドイツと西洋諸国との戦争に日本が加わるということを確定的に約束するのを避けようとして、有田が努力したのに対して、支持を与えた人である。畑は陸軍大臣として留任した。平沼内閣の拓務大臣として、有田の政策を一般的に支持した小磯は、再び前の職に就いた。国策の基準が決定されたときに、広田内閣の外務大臣であり、第一次近衛内閣と平沼内閣でも、やはりその職にあった有田は、こんどもまた外務大臣になった。ヨーロッパ戦争が起こったために、事情は変わったのであるが、有田の政策は変わっていなかった。かれはみずから本裁判所で証言して、米内内閣の外交方針は、ドイツとの友好関係を維持することにあったが、しかし、その目的のために、日本の重要な利益に重大な害が及ぼされないという範囲においてのことであった。

米内内閣、国策の基準に関する決定の原則を固執 (原資料127頁)

 有田は、米内内閣の在任の間、日本が国策の基準の決定の原則を守り続けるようにした有力者であった。日本が中国の支配を確保するという第一の目的に対しては、歴代の各内閣は、あくまで忠実であった。それは日本の政策の基礎であった。

 平沼が総理大臣であった1939年中に、満州国を除く中国の全占領地域において、反逆者汪精衛(汪兆銘のこと)の指導の下に傀儡政府を樹立する準備が行なわれていた。この人は1939年6月に東京を訪問した。そして、その翌月に、すなわち1939年7月7日に、陸軍大臣板垣と海軍大臣米内は、議会に対して、中国に関する共同声明を行ない、同国に対する日本の野心の達成に対する干渉は、西洋諸国からのものであろうと、ソビエット連邦からのものであろうと、すべてこれに抵抗するという日本の決意を表明した。中国における日本の確立された地位について、西洋諸国の黙認を得ることができ、これに基づいて、イギリス、フランス及び合衆国との友好関係を回復することができればよいということを阿部内閣の指導者は希望したが、それは空しい希望であった。

 平沼内閣が辞職する前に、汪精衛は中国にいた日本陸軍の指導者の援助を受けて、中央政治委員会の組織を始めていた。これから発展して、中国の新しい親日中央政府ができることになっていた。板垣が陸軍大臣をつとめていた平沼内閣が倒れてから、12日後の1939年9月12日に、板垣は中国にある支那派遣軍の総参謀長になった。阿部が政権を得た後も、中国における日本の軍事行動は続けられた。1939年11月30日に、中国における日本の目的に従って、外務大臣野村は、中国国民政府向け物資の輸送を中止するように、フランス側に対して再び圧力を加えた。

 1949年1月16日、米内が総理大臣となり、有田が外務省に帰ったときに、汪精衛政府樹立の計画は、大いに捗っていた。この月に、中国の占領地域の毀損の傀儡政権を合同することを目的として、青島で会合が開かれた。

 国策決定の第二の主要目的は、戦争に備えて、日本国民の動員を達成することであった。有田は、第一次近衛内閣の外務大臣となって間もなく、1938年11月に、右の目的とアジア大陸で優越的地位を確保するという目的とは、相互に依存しているということを強調した。平沼が総理大臣で、有田がその外務大臣であった1939年1月に、内閣は経済産業拡充のための企画院の新しい計画を承認した。陸軍の長期経済産業計画の目的は、1937年の前半において、盧溝橋で中国における戦争が再発する前に定められたものであるが、このときに初めて、明確に内閣の承認を得た。すでに得られた経験に照らして、日本の軍備の充実が1941年までに完成されるように、生産水準を高めることが要求された。この年が初めの計画の年であったが、1937年以後の中国における戦争によって、日本の軍事資源の枯渇を生じ、そのために、しばらくは、軍備完成の日が遅れるおそれがあった。

 1936年8月11日の国策の基準の決定は、中国における日本の勢力を強固にすることと、戦争のために日本国民を動員することとを、日本の政策の二つの主要目的であると言明したが、それと同時に、これらの目的の実現をはかるにあたって、日本は西洋諸国と友好関係を維持するように努力するということも言明した。有田と米内は、平沼内閣の閣僚として、日本をヨーロッパ戦争に巻きこもうとする軍部派の企図に、断固として抗争した。1939年9月におけるこの戦争の勃発は、日本に何も新しい義務を負わせなかったし、他方で、中国における日本の行動に西洋諸国が干渉する見込みを少なくした。

 従って、米内内閣は、ヨーロッパ戦争に介入しないという阿部内閣の政策を維持することについて一致していた。ドイツとの友好関係を維持するという外務大臣有田の希望を制限する要因となったものは、この原則であった。

 それにもかかわらず、『国防外交相俟って』、日本が南方におけるその権益の開発に努力するということも、やはり国策の基準の決定の目標であった。米内内閣が就任した後において、日本の対外政策における最初の大きな展開は、この点についても、有田が国策の決定に定められた原則を固執していたことを示している。

 中国で戦争が続けられたことと、軍備充実のための経済産業準備計画によって、日本経済に対する負担が大きくなったこととのために、重要原料について、日本が国外の供給源に依存する度合いが増大した。1939年12月に、外務大臣野村は、協定によって仏印からの供給を増大させようと試みたが、一般的な了解がまとまらなかったために、なんの成果もなかった。阿部内閣が崩壊する3日前の1940年1月12日に、日本はオランダに対して、同国と日本との間の仲裁裁判条約を廃棄する意思を通告した。


オランダ領東インドで特恵的な経済上の地位を得ようとする日本の試み

 1940年2月2日に、ヘーグの日本公使を通じて、オランダの外務大臣に対して、新しい提案が行なわれた。形式上では、それは日本とオランダ領東インドとの関係を規定する互恵的協定であった。日本としては、オランダ商社の従業員の入国に対して、制限的措置をとらないことを約束し、オランダとしては、オランダ領東インドにおける外国人労務の使用について、現行の制限を廃止または変更することを約束することになっていた。日本には、オランダ領東インドにおいて、新しい企業のために便宜を与え、既存の企業に対して、いっそうの便宜を与えることになっていた。右の譲歩の代償として日本における新しいオランダの投資に機会を与えることになっており、満州国と中国の政府も同様な便宜を与えるように、日本が『斡旋』することになっていた。

 さらに、オランダの方では、オランダ領東インドへの日本の物資の輸入に影響する現行の制限的措置を廃止または変更することを約束し、両国の間の物資の交流をいっそう容易にするために、必要な措置を講ずることになっていた。日本の方としては、東インドからの輸入を増加するために、適当な措置を講じ、日本自身の経済的困難のある場合を除いて、事情の許す限り、オランダ領東インドが必要とする重要物資を同国に向けて輸出するのを制限または禁止しないようにすることになっていた。

 最後に、厳重な取り締まり措置によって、両国のそれぞれの報道機関が、相手国に対して、非友好的な論評を行なうのを差し控えさせることになっていた。

 日本は一年以上も前に、これらのオランダの重要領土における資源を確保する計画を立てていた。1938年の後半に、第一次近衛内閣が在任中であったとき、日本政府の役人は、日本の『南進』の準備として、オランダ領東インドにおける宣伝工作の実施にあたっていた。

 右の新しい提案は、日本がオランダとの関係を規定した既存の条約を廃棄したときに、すぐ引き続いて行なわれた。それは互恵主義に基づいてなされたと称せられたけれども、日本がオランダ領東インドに提供した利益がつまらないものであったことは明らかである。これに対して、日本の方では、東インドで生産される重要軍需原料を無制限に手に入れることができるようになるのであった。1940年5月10日、オランダがドイツの攻撃を受けたときには、同国はこの日本の提案に対する適当な回答をまだ考慮中であった。

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