平成18年7月19日判決言渡 同日原本領収 裁判所書記官 梶 健 一
平成17年(行コ)第270号処分無効確認等請求控訴事件
(原審・東京地方裁判所平成13年(行ウ)第14号)
口頭弁論終結日 平成18年4月24日
判 決
(省略)
控 訴 人 新井秀雄
訴訟代理人弁護士 島田修一
同 野澤裕昭
東京都千代田区霞が関1丁目1番1号
被 控 訴 人 国
代表者法務大臣 杉浦正健
指定代理人 鈴木秀雄
同 竹川陽子
同 渡邊治雄
同 関谷繁二
同 岡田誠治
同 矢作 弘
同 倉岡晃司
同 郡 正彦
同 本間雅子
主 文
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人の負担とする。
事実及び理由
第1 控訴の趣旨
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人が控訴人に対し平成13年1月4日付けでした文書による厳重注意
が無効であることを確認する。
3 被控訴人は,控訴人に対し,500万円を支払え。
4 訴訟費用は,第1,2審とも被控訴人の負担とする。
第2 事案の概要
1 本件は,厚生労働省の施設等機関である国立感染症研究所(平成9年4月1
日付けで国立予防衛生研究所から改称。以下「感染研」という。)に勤務する
厚生技官であった控訴人が,平成12年11月に出版した著書(以下「本件著
書」という。)及びこれに先立ち取材に応じた週刊誌の記事に引用された発言
(以下「本件発言」といい,上記記事を以下「本件記事」という。)において,
平成4年10月に東京都新宿区戸山に移転された病原体を取り扱う同研究所の
実験施設(以下「戸山庁舎」という。)に関して批判的な記述等を行ったとこ
ろ,感染研の所長であった竹田美文(以下「竹田所長」という。)から,感染
研の研究内容や運営実体を歪曲し,幹部職員を事実に反して誹膀中傷する内容
を発表したものであり,感染研の信用を著しく傷つけ,公務の円滑な遂行に支
障を来すものであるとして平成13年1月4日付けの文書による厳重注意(以
下「本件注意」という。)を受けたことに対して,同措置が無効であることの
確認と,同措置により精神的苦痛を受けたことに対する国家賠償法(以下「国
賠法」という。)1条に基づく損害賠償を求めた事案である。
原判決は,本件注意の無効確認請求については,確認の利益がないとして訴
えを却下した。また,損害賠償請求については,本件著書及び本件発言の内容
が真実であるか,又は真実と信じるについて相当の理由があるのであれば,本
件注意が前提とする事実の歪曲,幹部に対する誹膀中傷という事実を欠くこと
にもなるから,本件著書及び本件発言の内容について,これが真実か否か,あ
るいはこれを真実と信じるに足りる相当な理由があったか否かは,本件注意が
裁量を逸脱,濫用したと認められるかどうかを判断するに当たって最も重要な
要素であるとしたうえ,本件著書及び本件発言が,これを読んだ一般人に対し,
戸山庁舎の設備に欠陥があるために病原菌,ウイルス及び発ガン物質(以下
「病原体等」という。)が漏出して生物災害が発生する具体的な可能性や危険
性があること等の印象を与え,感染研等に対する社会の信用を低下させるもの
であること,本件著書及び本件発言が控訴人の公益上の信念に基づくものであ
り,感染研の社会的評価を低下させることをことさらに目的としたものではな
いと認められるものの,本件著書及び本件発言中,戸山庁舎の設備に欠陥があ
るなどと指摘した部分は真実とは認められず,これらの事実を控訴人が真実と
信じるに足りる相当な理由があったとも認められないことから,本件著書及び
本件発言を正当な表現活動として評価できないなどとして,本件注意に違法性
はないと判断し,控訴人の請求を棄却した。
これに対して,控訴人が控訴した。
2 争いがない事実等,争点及び争点に関する当事者の主張の要旨は,次のとお
り,原判決を訂正するほか,原判決の「事実及び理由」第2の1ないし3に摘
示のとおりであるから,これを引用する。
(原判決の訂正)
原判決7頁10行目の次に改行して,「なお,平成13年6月1日時点に
おいて,この通達に基づく別の定めは規定されていなかった。」を加える。
第3 当裁判所の判断
1 本件注意の無効確認を求める訴えの訴えの利益について
当裁判所も,本件注意の無効確認を求める訴えについては,確認の利益がな
く,不適法な訴えであると判断する。その理由は,原判決の「事実及び理由」
第3の1に説示するとおりであるから,これを引用する。
2 本件国家賠償請求について
(1)本件における判断方法について
ア 本件は,本件注意を受けた控訴人が,国賠法に基づき,本件注意により
感染研内での控訴人の評価がおとしめられ,辱められ,控訴人が精神的苦
痛を被ったとして,慰謝料の支払を請求するものである。
国賠法1条1項は,「国又は公共団体の公権力の行使に当たる公務員が,
その職務を行うについて,故意又は過失によって違法に他人に損害を加え
たときは,国又は公共団体が,これを賠償する責に任ずる。」と規定して
いるところ,同項にいう違法とは,公務員が負う職務上の法的義務に違背
することをいうものである。
ところで,甲の表現行為が乙の信用を害するとして,乙が甲に対して,
甲の表現行為を虚偽であるとした言動が甲に精神的苦痛を与えた場合にお
いて,乙の言動が不法行為を構成するかどうかについては,乙の言動につ
いて検討すべきものであり,乙の信用を害する甲の表現行為における故意,
過失又は違法性が阻却されたとしても,そのことにより乙の言動が当然に
違法となるものではない,すなわち,甲の表現行為が,公共の利害に係り,
公益目的の下にされたものであり,その真実性が乙の言動の後の証拠によ
り認定され,あるいは,その真実性は認められないが真実と信ずるにつき
相当の理由があったとして,不法行為の成立が否定された場合においても,
甲の表現行為を虚偽であるとした乙の言動は,その当時において事実的根
拠を有する相当なものであれば,甲の表現行為が不法行為とならないこと
により,直ちに違法となるものではない。
そして,この理は,乙の言動に対して国賠法上の違法が主張されている
場合にも妥当するものである。もっとも,甲の表現行為がいわゆる内部告
発と評し得るもので,乙の言動が甲の職務上の監督者としての監督権(懲
戒権)に裏付けられた言動である場合に,乙の言動が甲の社会的評価又は
名誉感情を損なう結果となるときは,対等当事者間の表現行為の対立であ
る場合と異なり,相互の言論による意見の発表,是正が困難であり,監督
権の行使により一方的に注意がされたという事実自体の否定的効果への反
論が困難である。このことからすると,公共の利害に関する事項について
公益目的から出た表現行為については,それが,職員の帰属する組織の方
針と合致しない場合であっても,言論の自由,表現の自由のみならず,公
益の観点からも,当該表現行為への萎縮的効果をもたらさないよう,後記
の判断基準による検討において慎重な配慮を要するものというべきである。
控訴人は,憲法21条,公共性ある論点についての内部告発の正当性,公
人に対する名誉毀損的報道に関する現実の悪意の法理,公益通報者保護法
の観点等に言及して,控訴人の本件著書及び本件発言の内容が言論,表現
として保護されるべきであり,その違法性がないことを力説するが,上記
説示のとおり,これらの観点は,本件注意における裁量判断の違法性を判
断する一要素となる(監督権の行使を不当とするほどに当該表現行為の公
益性が高い場合には,本件注意が違法となることがある。)としても,本
件著書及び本件発言につき控訴人の不法行為の成立が否定されるべきこと
が,本件注意を直ちに違法ならしめるものでないことは既に説示したとお
りである。
イ したがって,本件においては,控訴人の本件発言及び本件記事による表
現行為について被控訴人の信用等の毀損という不法行為の成立が否定され
るかどうかではなく,本件注意が控訴人の権利,利益を侵害し,国賠法上,
これが違法と評価されるかどうかを検討すべきものである。
すなわち,本件においては,まず,本件注意が控訴人の名誉を害し,精
神的苦痛を与えたかどうか,次に,控訴人の本件著書及び本件発言につい
て本件注意に記載された是正すべき点があるとした監督権者の判断に事実
的根拠があるかどうか,さらに,控訴人に対して注意的措置を執るべきで
あるとした判断及びその方法として書面による厳重注意を選択したことに
ついて,当該措置の時点における当該監督権者の立場からみて合理的な理
由があると認定できるかを判断すべきものである。
(2)本件注意までの経過
本件注意の対象となった控訴人の行為(本件著書の出版及び本件発言)は,
平成12年11月10日発行の著書及び週刊文春平成12年11月2日号の
誌上においてその見解を表明したものであり(甲3,4),注意の対象とさ
れた具体的記述は,原判決別紙のアないしクである。
本件著書及び本件発言に至る経過の概要は,次のとおりである。
昭和61年7月ころに感染研の実験施設を戸山に移転することが発表され,
同地域の住民等による移転反対運動が展開される中で,機動隊の導入下で戸
山庁舎が着工され,平成4年9月に移転が完了した。これに対して移転に反
対する住民等が平成元年3月に東京地方裁判所に民事訴訟(以下「実験等差
止請求訴訟」という。)を提起し,移転の差止め,実験の差止め等を求めた
ことにより法廷で戸山庁舎の安全性が争われた。控訴人も,感染研のように
膨大な病原体,有害化学物質,実験動物等を用いて実験を行う施設について
は,安全性については,想定される様々な事態において周辺住民への安全性
が確保されるぺきであり,安全性が可及的に追求されるべきであるとの立場
から(甲3),感染研を住宅密集地におくことは,周辺地域に対する生物災
害(バイオハザード)や環境汚染の危険の観点から許されるべきではないと
考え,上記裁判においても原告側の証人として証言を行うなど移転に反対す
る行動を取った。同訴訟は,平成12年7月に結審となり,平成13年3月
27日に判決言渡しが予定された。本件著書及び本件発言は,上記訴訟の結
審の3か月後に公表されたものである。
控訴人の監督権者であった感染研の竹田所長は,控訴人が,本件著書及び
本件発言において,感染研の研究内容や運営実態を歪曲し,幹部職員を事実
に反して誹膀中傷する内容を発表したことは,感染研の信用を著しく傷つけ,
公務の円滑な遂行に支障を来すものであるとして,平成13年1月4日付け
で本件注意を行った。そして,被控訴人は,本件著書及び本件発言中の原判
決別紙記載の部分が,感染研の研究内容や運営実態を歪曲し,幹部職員を事
実に反して誹膀中傷する内容に該当し,次の@,Aの事実を摘示している点
で感染研の研究内容や運営実態を歪曲しており,次のBの事実を摘示してい
る点で幹部職員を事実に反して誹膀中傷している旨主張する。
@ 戸山庁舎の排気,排水あるいは感染研から逃げ出すゴキプリ等の害虫か
ら病原体等が漏出する可能性や危険性が高いという事実
A 地震や火災爆発によって戸山庁舎から病原体等が一気に漏出する可能性
や危険性が高いという事実 ,.
B 倉田がオビアット博士及びリッチモンド博士作成名義の査察報告書を偽
造(署名偽造)するという犯罪行為を行ったという事実
(3)本件注意による控訴人の名誉に対する侵害の有無
職員に対する監督権の行使としての注意は,その対象となった職員の行為
に対して否定的な評価を示すことによって,その反省を促し,注意の対象と
なった行為の再発を防ぐことを目的とするものである。
そして,本件注意は,本件著書及び本件発言を明示して,その発表された
内容が感染研の研究内容や運営実態を歪曲し,幹部職員を事実に反して誹膀
中傷する内容を発表したものであるとするものであるから,一般人の通常の
理解としても,本件著書及び本件発言の内容が厳重注意に値するほどに,事
実を歪め,幹部職員に対して事実に反する誹膀中傷をしたとの事実を摘示す
るものとして,控訴人の名誉を害するものということができる。
なお,被控訴人は,控訴人の本件記事に係る取材への対応において,平成
6年7月14日部長会において決定された,研究部職員が感染研の業務や厚
生行政に関わる内容について報道記者から取材を受けた場合の対応方法に係
る内規(本件内規)の違反があったことを主張する。しかし,本件注意に係
る書面において上記事由については何ら記述がない(甲1)から,上記事由
が本件注意による控訴人の名誉侵害の理由となっていると認めることはでき
ない。上記事由は,注意的措置を執ること及びその方法選択の当否を判断す
る事情になるとしても,本件注意による控訴人の名誉毀損の原因となるもの
ではない。
(4) 本件著書及び本件発言の具体的内容と本件注意の事実的根拠の有無
ア 本件発言(原判決別紙ア)について
本件発言(原判決別紙ア)の記載内容は,これを読んだ一般読者に対し,
控訴人の安全性に関する意見を表明し,戸山庁舎の設備にも抽象的危険が
避けられず,運営等による抽象的危険も内在していることを理解させるに
止まるものではなく,膨大な病原体,有害化学物質,実験動物等を用いて
実験を行う施設である感染研の戸山庁舎には,設備や運営等に欠陥がある
ために,病原体等が漏出して生物災害が発生する具体的な可能性や危険性
があるとの印象を与えるものであることは明らかである。本件発言が控訴
人が感染研の職員であることを明示することによって読者の関心を惹くも
のであることからすれば,読者に対してより強く上記印象を与えるものと
なっている。そして,本件発言に含まれるこれらの記載は,これを読む一
般人が,感染研の安全対策が著しく杜撰であり,感染研という組織として
の体質,安全意識及び遵法精神等について著しく疑問を生じさせ,ひいて
は,感染研の社会的評価を著しく低下させるものであると認めることがで
きる(なお,本件発言のうち「可能性が高い」とある部分が控訴人の発言
とは異なるものとなっており,これを「可能性がある」と改めたとしても,
本件発言中には「危険極まりない」といった表現もあるなど,本件発言が
全体として感染研の安全対策等に疑問を抱かせ,社会的評価を低下させる
ものであることには変わりがない。)。
ところで,証拠(乙8,10ないし17,21,22,25,26, 3
4ないし39,40ないし42,80,87)及び弁論の全趣旨によれば,
戸山庁舎においては,病原体等を取り扱う施設であることをふまえて,そ
の漏出等による生物災害の発生を防止するため,同施設の中でも地域に対
する危険性のより高い病原体を取扱うP3実験区域における実験室内の陰
圧化による病原体等の封じ込め,クラスU型タイプBの安全キャピネット
の使用及び高性能フィルターを使用した排気の二重濾過システムの採用に
よる排気からの病原体の漏出防止態勢,排水処理設備,実験動物管現設備
並びにこれらの設備等の保守管理態勢の整備,建物の耐震耐火設計,各設
備及び各種実験に応じた安全管理のための規則や規程(乙11,16,1
7,21,22,87等)の制定,並びにシステムに異常が発生したり火
災や地震が発生した場合を想定した対応策の策定とこれに備えた設備の整
備等の安全対策が行われていた(戸山庁舎におけるこれらの生物災害防止
のための設備等の概要については,原判決「事実及び理由」第3の2(3)ア
に説示されたとおり(ただし,原判決22頁21行目の「排気系統では,」
から22行目の「P3実験区域では」までを「P3実験区域の排気系統で
は」と改め,同頁25行目の末尾に続けて,「P3実験区域の排気は,各
実験室において,安全キャビネットの排気口に設置されたHEPAフィル
ター又は実験室天井の排気口に設置されたHEPAフィルター(1次HE
PAフィルター)を通して,専用のダクトに排出され,さらにダクト内に
設置されたISS内HEPAフィルター(2次HEPAフィルター)を通
すことによって二重に濾過したうえで,屋上の専用の排気口から大気中に
放出される。」を加える。さらに,23頁8行目冒頭から12行目末尾ま
でを「HEPAフィルターは,0.3ミクロン粒径付近のエアロゾルの透
過率が0.01パーセントを超えない規格のものが用いられ,これは,0.
3ミクロン粒径のDOP粒子(DOPとは,捕集性能の検査に用いる液体
である。)において99.97パーセントの捕集効率を保証するJIS規
格に適合している。」と改める。)であるから,これを引用する。)こと
からすれば,本件注意当時,竹田所長において,戸山庁舎が生物災害等に
対しても,感染研の取り扱う作業内容に対応する必要な対策が施されてい
るものと認識したことには,相当な事実的根拠があったといえる。
したがって,安全性につき被控訴人とは異なる基準を措定する控訴人が,
その点を意見として述べるに止まらず,一般読者に対し,あたかも戸山庁、
舎の設備や運営等に欠陥があるために,病原体等が漏出して生物災害が発
生する具体的な可能性や危険性があると印象づける内容の本件発言をした
ことについて,竹田所長が,戸山庁舎における研究内容や運営実態の歪曲
であると判断したことについては相当な事実的根拠があったと認めること
ができる。
イ 本件著書中の署名偽造に係る記述部分(原判決別紙キ,ク)
本件著書中の署名偽造に係る記述部分は,控訴人の上記主張が正当であ
るが故に,実験等差止請求訴訟で勝訴見込みのない倉田が,感染研の意向
を受けて,鑑定書の署名を偽造するという犯罪行為を行い,感染研も組織
ぐるみでそのような犯罪行為を行ったとの印象を与えるものであることは
明らかであり,この記述により,倉田個人及び感染研という機関の安全意
識及び遵法精神等について著しく疑問を生じさせ,ひいては,感染研や倉
田の社会的評価を著しく低下させるものであると認めることができる。
ところで,証拠(甲10,11,14,16)によれば,実験等差止請
求訴訟において,原告(戸山庁舎付近の住民)側が依頼した専門家と被告
(国)が依頼した専門家(オピアット博士及びリッチモンド博士)が,そ
れぞれ感染研の査察を行い,その報告書を,双方当事者が証拠として提出
することになったこと,各査察は平成9年6月18日に行われ,査察報告
書の提出期限は同年8月29日と定められたこと,しかし,被告(国)は,
上記両博士の査察報告書を提出期限までに提出しなかったこと,同年9月
10日になって提出された報告書に記された両博士の署名は,同訴訟の被
告(国)の指定代理人でもあった倉田が両博士の筆跡をまねて署名を行っ
たものであったこと,同人は,これを明らかにしないまま報告書を証拠と
して提出し,原告(戸山庁舎付近の住民)から追及を受けるまで,上記事
実の説明を行わなかったことがそれぞれ認められるところ,科学者である
専門家が,裁判所に提出する学術的な報告書に,自ら署名をせず,しかも,
訴訟の一方の代理人に署名を代行させることは,不自然な事実であること
は疑いがないし,これらを署名者の自署した書面として提出することは,
訴訟上の対応としても極めて不当というべきである。しかし,査察報告書
の提出が期限に遅れていたこと,倉田に署名の代行を依頼したとする内容
の証明書(平成10年6月30日,同年7月1日付けのもの)を両博士が
送付してきたこと(乙23,24)からすれば,竹田所長において,倉田
が適正な権限を付与されて署名の代行を行ったと認定したことには,事実
的根拠があるというべきである。
そして,控訴人も,本件著書の公表以前にこの事情を認識し得たことか
らすれば,倉田の署名代行の不当性を指摘するに止まらず,倉田の行為の
不当さを犯罪的行為のごとく断定し,さらには,感染研の部長会ひいては
感染研という組織自体が生んだ犯罪であると論じ,これを,戸山庁舎の安
全性が低く,具体的危険を隠蔽しようとしたものであるかのごとき文脈で
主張する本件著書における記述をもって,幹部職員を事実に反して誹膀中
傷し,さらに,戸山庁舎における研究内容や運営実態を歪曲したものと判
断したことについては,相当な事実的根拠があったと認めることができる。
以上によれば,本件著書の署名偽造に関する記述について,竹田所長が
感染研の研究内容や運営実態を歪曲し,幹部職員を事実に反して誹膀中傷
するものであると判断したことについては,事実的根拠があると認めるこ
とができる。
ウ 本件著書中の戸山庁舎の施設設計(特に強制排気システム)の安全性に
関する記述(原判決別紙イ及びウ)
上記記述部分については,本件著書の関係部分を全体として読めば,戸
山庁舎から病原体等が漏出する危険性が具体的に高いことを指摘している
ものではなく,戸山庁舎周辺の住民からその安全性について懸念が示され
ていることについて,戸山庁舎が危険な病原体を数多く取り扱っているこ
と,戸山庁舎のP3施設では実験室内の空気を加圧してフィルターで濾過
したうえで外部に排出するシステムを採用していること,しかし,条件次
第でフィルターの粒子の通過の程度は変化すること,実験室内の空気を強
制的に外部に排出するシステムを採用することにより,実験者は実験の過
程で実験室内の空気が病原体等に汚染されることによって感染等の健康被
害を受ける危険が低くなる一方で,外部にその危険が転嫁されるおそれが
生じること等の事実を根拠として,控訴人の安全性に関する見解に従い,
住民が施設の安全性に対して懸念を示すことにも理由があり,住民の不安
を払拭するには,はっきりとした根拠を示す必要があるとの意見を述べ,
また,実験を行っている科学者に施設外の人々の安全についての配慮が足
りないのではないかという意見を述べているものと解される。そして,こ
れらの意見がその根拠とともに記述されており,一般の読者によっても,
控訴人の意見として読まれることからすれば,一般の読者に対して,戸山
庁舎の排気,排水あるいは感染研から逃げ出すゴキブリ等の害虫から病原
体等が漏出する可能性や危険性が高いという戸山庁舎における感染研の研
究内容や運営実態について歪曲した事実を読者に印象づける内容の記述と
は認められない。
したがって,本件著書中の原判決別紙イ及びウの記述については,それ
自体としては,事実の歪曲というべき点は少ないというべきである。
しかし,「危険性を科学者自身から近隣に住む一般住民に転嫁した」と
する記述は,単に抽象的な危険の存在を指摘する以上に,病原体等を取り
扱う研究者と同様またはそれ以上に近隣住民が危険にさらされているとの
事実の断定的な摘示を含むものと言わざるを得ない。この部分の記述につ
いては,これのみで控訴人に対して厳重注意等の措置を取るべきほどの記
述とはいえないが,前記ア同様,竹田所長において,戸山庁舎における研
究内容や運営実態の歪曲であると判断すべき相当な根拠があったと認め得
るので,本件注意の根拠の一つとするに足りる記述であるといえる。
エ 本件著書中の戸山庁舎の災害に対する安全性に関する記述(原判決別紙
エ,オ及ぴ力)
上記記述部分は,戸山庁舎の安全性について論じるものである。ところ
で,戸山庁舎は,個人にとっては危険度が高いとされるBSL3レベルの
病原体も取り扱うP3実験室を多数備え,本来的に危険を包含する施設で
あって,その保有する病原体等がひとたぴ外部に排出,漏出等されるよう
な事態が発生すれば,その病原体等の病原性,漏出量その他の条件如何に
よっては,最悪の場合には人間の生命,身体,健康等という極めて重大な
利益に重大な被害を招来する危険性があることは否定し得ないところであ
る。他方で病原体等の漏出の危険性を零にすることは科学的に不可能であ
ることも明らかであり,病原体等に危険性が存在することを前提とした上
で,封じ込めによって実験者と周辺住民等への感染の危険性を減らし可能
な限り零に近付けることが施設の管理運営上重要な課題である。したがっ
て,戸山庁舎の安全性の確保という問題は極めて高度の公共の利害に関わ
る事項であるということができる。
公共の利害に関する事項についての意見の真偽又は正当性は,議論を通
じて決定すべき性質のものであり,特に,公共の安全に関する事項につい
ては,より多くの視点からこれを監督し,適切な批判が行われることが安
全性を損なう不適切な行為を抑制するために有益である。したがって,公
共の利害に関わる事項,特に公共の安全に関する事項についての意見の発
表の自由は最大限尊重されるべきであるから,当該事項についての意見の
発表は,当該意見の形成の基礎をなす事実が同時に示されており,かつ,
その主要な部分が公知の事実,真実性の証明のある事実又は意見を公表し
た者において,真実と信じるについて相当の理由がある事実からなってお
り,さらに,当該意見をこれらの事実から立論することが不当,不合理な
ものといえないときには,意見の発表者は当該意見の発表によって責任を
問われ,不利益な取扱いを受けるべきではない。人事監督権行使の場面に
おいても,上記要件を備える意見については,社会的に正当な行為として,
否定的な評価を伴う措置の対象とすることを控えることが相当である。
本件著書中の原判決別紙エ,オ及びカの記述は,関連する記述と併せ読
めば,大規模な地震等の災害の際の戸山庁舎の安全性について,戸山庁舎
が危険性の高い病原体を扱っている施設であること,建物と電気で動く機
械によって微生物を外部に出さない方法により安全性を確保していること,
阪神淡路大震災において従前の予想を超えた被害が生じているように,地
震の被害の大きさは確実には想定し得ないことを根拠として,耐震構造が
採用されていることを前提としても,生物災害の危険性があるとして,根
本的対策として,戸山庁舎を人家から離れた土地に移転させるべきことを
意見として述べるものである。これが公共の安全に関する事項についての
意見であることは明らかであるうえ,当該意見の根拠として同時に記述さ
れている上記各事実はいずれも公知の事実又は真実性の証明される事実で
あり,また,これらの事実によって上記立論をすることが不当,不合理な
ものともいえない。一般読者は,根拠として記述されている事実から控訴
人の上記意見の当否を判断することが可能であり,上記意見によって批判
を受けている感染研においても,控訴人の意見の根拠及び立論の過程をふ
まえて適切な反論を行うことが可能である。
したがって,本件著書中の原判決別紙エ,オ及ぴ力の記述については,
その趣旨において,公共の利害に関する事項についての正当な意見表明と
いうことができる。
もっとも,「機械と建物が壊れてしまうと簡単に病原体が外に出てしま
う」,「地震や火災爆発などで病原体が一気に放出されると」,「(非常
に濃厚な状態で扱われる病原体)が一気に破綻して吹き出た場合」など,
危機的条件下における危険を指摘し,戸山庁舎を「バイオハザード対策の
鉄則を無視したまったくの欠陥研究所」と批判する部分は,論理的には危
機的条件下での危険性に関する意見と理解することができるが,前者の指
摘部分は,一般読者に対しては,戸山庁舎の安全性についての不安を抱か
せ得る内容の事実の摘示であると理解される記述であって,前記ア同様,
竹田所長において,戸山庁舎における研究内容や運営実態の歪曲であると
判断すべき相当な根拠があったと認め得るものであり,後者の批判部分は,
安全性の判断基準について控訴人と異なる見解を断定的に排斥する点で,
意見の記述態様として相当とは言い難い。よって,これらのみで控訴人に
対して厳重注意等の措置を取るべきほどの記述とはいえないが,竹田所長
の立場からみて,戸山庁舎における研究内容や運営実態を歪曲であるとし
て,本件注意の根拠の―つとするに足りる記述であるといえる。
(5)本件注意の相当性について
上記検討によれば,本件著書に関する原判決別紙記載のすべての記述を根
拠とするまでもなく,本件著書及び本件発言は,前記(4)ア,イの部分のみに
おいても,監督権行使の理由となり得るものと認めることができる。
なお,監督権の行使としての注意は,規律に違反し,あるいは組織の信用
や名誉を傷つける行為を行った職員に対して,当該職員の行為の内容や程度
に応じて,組織を正常に維持管理するための必要かつ合理的な措置として行
うことが許されるものであり,注意の対象となるべき事実がある場合でも,
監督権者には,事情に応じて,注意をしないという裁量もあると解される。
ところで,本件発言は,週刊誌という不特定多数の読者を予定したメディア
における,本件著書の紹介記事の中で掲載されたものであり,上記のとおり,
本件著書及び本件発言の中には事実的根拠を欠き,又は事実の歪曲と評し得
る部分が含まれていたことからすれば,竹田所長が監督権の行使として,本
件著書及び本件発言に関して控訴人に対して,少なくとも控訴人の権利を制
限し,又は義務を課することのない注意的措置を執るべき根拠があると判断
したことについて,当該措置の時点における当該監督権者の立場からみて合
理的な理由があったということができる。既に説示したとおり,職務上の監
督権に基づく注意的措置に当たっては,当該職員の表現の自由及び当該表現
行為の公益性をも考慮すべきであるが,本件においては,本件著書及び本件
発言中の戸山庁舎の危険性に関する主張自体を不当として注意の対象とする
ものではなく,上記の歪曲又は事実に反すると評し得る記載を注意の対象と
する限りにおいて,注意的措置の相当性を肯定するものであるから,本件著
書及び本件発言における公共性,公益目的を考慮しても,上記判断が左右さ
れるものではない。
次に,注意的措置の方法として,書面による厳重注意としたことについて
みると,控訴人は,自己の安全性に関する意見を表明するに止まらず,その
信念に基づき,自己の見解に基づき感染研及び厚生労働省を告発するとの立
場に基づき,感染研及びそこでの研究者に対する否定的かつ断定的な判断及
び評価を文書によって公表していることが認められる(甲2,3,弁論の全趣
旨)。なお,被控訴人は,控訴人の本件記事に係る取材への対応において,
平成6年7月14日部長会において決定された,研究部職員が感染研の業務
や厚生行政に関わる内容について報道記者から取材を受けた場合の対応方法
に係る内規(本件内規)の違反があったことを主張する。この内規は,個々
の感染研職員がその立場で報道記者からの取材に応ずるときは,個人として
の意見が感染研の意見と誤解されるおそれがあること,あるいは,取材内容
によっては公務員の守秘事項にわたる場合があることから,総務部庶務課長
又は担当部長等と相談することを定めたものであり,その限りでは合理性の
あるものである。しかし、これにより,職員の個人としての表現の自由を制
約すべきものではないところ,本件発言は,控訴人個人の意見をもって感染
研の立場を批判するものであり,感染研を代表するものではないことは明ら
かであり,感染研職員としての守秘事項を含むとの事情も認められないから,
上記内規違反を論ずべきものではない。しかし、本件著書及び本件発言の表
明に当たり,感染研又は担当部署への配慮をしなかったことは,控訴人の行
動の確信性を示すものであり,口頭による日常的な注意ではその是正を促す
ことが困難であったとの事情の一つとして考慮することができる。
そうすると,注意の方法として書面による厳重注意を選択したことに裁量
権の行使の逸脱があったと認めることもできない。
3 よって,控訴人の本件注意の無効確認を求める訴えを却下し,損害賠償請求
を棄却した原判決は,結論において,相当であり,本件控訴は理由がないから
棄却することとし,主文のとおり判決する。
東京高等裁判所第11民事部
裁判長裁判官 富 越 和 厚
裁判官 桐ヶ谷 敬 三
裁判官 中 山 顕 祐