2001年
△『科学者として』を監督した本田孝義さんからメールが届いた。
『科学者として・笑顔と告発』の完成後、主人公・新井秀雄氏(国立感染症研究所主任研究官)に対して、「言論弾圧事件」がおき、目下、本田さんは反対運動の事務局として奔走中である(詳しくは「新井秀雄さんを支える会」http://member.nifty.ne.jp/atsukoba/arai/を参照のこと)。一方、構想していた新作『ニュータウン物語』の本格的な撮影をいよいよ開始するという。財政的基盤が全く無いだけに、果たして無事に完成するのか、撮影は順調にいくのか、大いにヤキモキするところである。本誌では、映画づくりのライブを連載するよう頼み、了承を得た。題して「のるかそるか通信」。(伏屋博雄)
●「のるかそるか通信―『ニュータウン物語』は果たして出来るのか?(1)」
本田孝義です。「NEO」の編集お疲れ様です。
この間、新井さんのこともあり慌しかったのですが、何とか『ニュータウン物語』第1期(4月)撮影の目処がついてきました。4月は比較的オーソドックスな撮影になりそうです。
団地を誘致した行政の人(昨年11月に話を聞きましたが、さすがに生々しくておもしろかったです。)、団地内唯一の小学校・初代校長、団地造成時に弥生時代の大規模な遺跡が出てきたのですが、その発掘現場責任者、団地の前は山だったのですが、山の地権者など造成時を知る方々のインタビューが中心です。(建設会社関係者は今のところ見つかっていません。)手紙や電話でこうした方々にインタビューの話をしましたので、撮影前に一度お会いしておこう、というのが今日からの岡山入りです。同時に、4月から小学生になる子供を1年間撮影します。
ずっと見つからなかったのですが、ひょんなことから、中学時代の部活の後輩の女性の子供がそうだとわかり、撮影させてもらえることになりました。1年間私が撮るわけにはいかないので、ビデオで子供の成長記録をまさに、ホームビデオとして撮ってもらう予定です。これが縦糸になるかもしれません。いずれにせよ、1年間私を含め5台ぐらいのカメラがその人なりの撮り方で、いろんな事を撮ってもらって、合わさったときに何が見えてくるか、という作品にしたいと思っています。(つづく)
●「のるかそるか通信(2)―『ニュータウン物語』は果たして完成するか?」
本田孝義です
2月28日現在、岡山の実家から書いています。
前号で「団地」と書きましたが、ここは一戸建ての住宅と5階建、2階建の県営住宅が立ち並ぶ「山陽団地」というところです。(実家は一戸建て。)全国的にみるとそれほど大きくはないですが、開発当初は県内でも有数の大規模団地でした。現在、約8000人が暮らしています。
今回、開発当時を知る方々にお会いすることができました。また、もともとここは山を切り崩してできた団地ですが、その山の一部を持っていた方にも出会えました。それにしても、団地の開発が始まって約30年。当時を知る人々もすでに70歳を越えており、今を逃すと話が聞けなくなる、そんな気がしています。
地元のビデオクラブの方には団地の1年間を、中学校の後輩には子供の1年間を、そして、昨年岡山映画祭で知り合った小林君には、外側から見た団地をそれぞれ撮影してもらうことになりました。どんな映像が出てくるのか、楽しみです。今回うまくいかなかったのは、小学校入学式の撮影許可。プライバシーのことなどあり、校長の許可がでませんでした。
まあ、しょうがない。
実家で準備をしていると、なにやら気楽なようですが、家庭の事情で今は父しかおらず、わだかまりを持つ私としては、何かとしんどいものです。
でも、このしんどさと向き合うのも今回の作品に欠かせない要素なのです。
(つづく)
■「のるかそるか通信(3)―『ニュウタウン物語』は果たして出来るのか?」
本田孝義です。突然始まったこの通信。今回はなぜ『ニュータウン物語』を作ろうと思ったかを書きたいと思う。
今を遡ること6年前、1995年に私は『デフ・ディレクター・あるろうあ者の記録』という作品を岡山ドキュメンタリー映画祭で上映した。この時私は1ヶ月間、岡山の実家に滞在していたのだが、その実家は住む人のいない空き家になっていたのだ。両親の熟年離婚、妹の結婚を機に、家族は完全にバラバラになってしまっていた。(その後、父一人が住んでいる。)
そんな空き家に滞在し、少しだけビデオを回した。この年、北海道の友人、吉雄孝紀さんから、北海道芦別市のビデオコンテストに参加しないか、というお誘いがあった。聞けばふるさとをテーマにしたビデオコンテストだとか。うーん、困った。まあ、なんとかなるだろう、という気持ちで、東京で撮った映像と、岡山で撮った映像を編集し、『影ふみ』という短編を作った。
自分には珍しく、私ドキュメンタリーになった。完成後、ふと思った。自分が育った山陽団地というニュータウンは、私のふるさとだったんだろうか。
2年後、神戸のニュータウンで事件は起きた。テレビで大量に流されてくる街の映像はどこかで見た街の記憶と重なる。どうもそういう人が多かったようで、野次馬根性も合わせて、あの少年が殺された街に多くの人が行っていたらしい。私もその一人である。雨の中街を歩きながら、自分が育った街の風景との共通点に不思議な感じがしていた。
その後、様々な形でニュータウンの否定的側面を取り上げた本が多く出版された。確かに当たっている。だが、そこで育ったものとしての思いはまた別だ。ここではたと気付くのである。「そういや、自分が育った街のことなんて何も知らなかったなあ。」
ニュータウンが開発されて、すでに30年。ここで暮らす人々は何を思い、生きてきたのだろうか。(つづく)
●「のるかそるか通信(4)」
―『ニュータウン物語』は果たして完成するか?
本田孝義です。
ニュータウンとはいったいどういうところだろうか。
日本においては、1960年代から70年代にかけて開発されたところが多そうだ。ちょうど私が生まれた頃である。都市部周辺の郊外の山林を切り崩し、土地の造成を行うのが典型的だろう。いわゆる高度経済成長の中で、農村から都市への人口流動が加速したわけだが、都市には働く場はあっても、住む場所まではなかなか確保しづらい。
そこで、住宅確保の必要性に迫られた国・地方自治体は、「とにかく住める場所を作れ!」という掛け声で、都市部周辺に住むことを専らの目的とした"街"を急ピッチで開発する。ニュータウンとはこんな風にしてできた"街"だろう。
ニュータウンを語るときに「人工的」という言葉が使われる。区画は碁盤目状に整然としているし、各々の土地の大きさにもたいして違いはない。それでも、私が住んでいたニュータウンは、土地の分譲が多かったから、各々の家は何らかの自己主張をしていたし、村八分もあった。それに、もともとは郊外に出来た街だから、一歩街の外に出れば、まだまだ自然は多く残っていて、川で遊んだりしたものだ。
ただ、大体入居時期が同じ頃に、一気に出来た街だから、人口構成が似通っている。周りは同級生だらけで、大勢で遊べたのはよかったのだろうが、親の期待も含め、何かと比較される環境は時にはきついこともある。
ニュータウンが出来て約30年。両親世代はそろそろ定年を迎える頃で、高齢化の波がひたひたと押し寄せ始めている。私達の世代の多くは街を離れているから、老夫婦だけの世帯もどんどん増えていくだろう。ニュータウンがオールドタウンへ、一歩足をつっこみ始めている。
それにしても、両親世代がどんな思いで家を建て、現実はどうだったのだろう。そこで育った私達の世代にとってこの街はどんなふうに映っていたのだろう。こうしたことはあまり考えられていない気がする。ここには、高度経済成長の一段面が見えてくるのではないだろうか。
こんなことを考えながら、ニュータウンの過去・現在・未来を描くドキュメンタリー『ニュータウン物語』を企画した。この通信が届く頃には、撮影が始まっているはずである。さて、どうなりますか。
●「のるかそるか通信(5)」
―『ニュータウン物語』は果たして完成するか?
本田孝義です。
いよいよ、「ニュータウン物語」の撮影が始まった。3月に入ってから、実に激動する日々を過ごしていたため、本当に撮影に入れるか不安だったが、とにかく始まった。今回は、日記風に書いてみよう。
4月8日 午前中ある会合に出てから、新幹線で岡山に行く。新しく買った小形のデジタルビデオで、少し撮影。
4月9日 今日は、私の母校でもある、山陽町立山陽西小学校の入学式。ひょんなことから再会した、中学時代の部活の後輩の子供、門将平君が入学式に行く様子を撮影。入学式は撮影許可が出なかった。(何かとプライバシーの問題に神経質になっているようだ。)将平君は、この山陽団地3代目。そういう子供は少ないみたい。桜がまだ少し残っていて、撮ることができた。午後、明日以後の撮影段取り。近所の方々も、撮影させてもらえることになった。(ここが今回の撮影の"難所"だと思っていたので、ひとまずほっとする。)
4月10日 山陽町郷土資料館にて、則武忠直さんインタビュー。団地造成時に発見された遺跡の発掘調査の中心人物の一人。学問的な話よりは、個人の体験談を語っていただく。今日のカメラは赤磐ビデオクラブの河本尚さん。定年退職後も、ビデオ製作に情熱を燃やすアマチュアカメラマン。ダンディーでかっこよく、撮れた映像も抜群。いい人と巡り会った。
4月11日 石原竹子さん、撮影。石原さんは、団地造成前にあった山や畑を持っていた方。86歳になる現在も、毎日、残った畑に出掛けている。畑で、団地造成前後の話を聞いて、畑仕事を撮影。午後、父の車にカメラを据えて、団地内の風景を撮る。
夜、林ご夫妻のインタビュー。子供のころ、最も私が出入りしていた近所の家。家や団地に対する思いを聞く。自分でも忘れていた、私の話も出てきて、どぎまぎ。
4月12日 山陽西小学校初代校長、広畑一男先生に、小学校で話を聞く。校庭での撮影を予定していたので、天気が心配だったが、なんとか晴れた。ただ、風が強くて、音声が心配。コミュニティーの核としての学校作りの話を中心に。自分が通っていた時は、そんなことなど考えたこともない。校長室で、現在の校長も交えてお話。(撮影はなし。)今の学校が抱える問題を聞く。
4月13日 午前中、団地の風景撮影。ゆったりとしたスケジュールで撮影をしてきたが、妙に疲れている。今作は気負いもなく、気楽にやってるつもりなのだが、3月の疲れがたまっていたのだろうか。 メールで、真部君から、美術展の企画書も届いた。私の発案で、この団地を舞台に美術展をやろう、という企画。「ニュータウン物語」も関係してくる。「ニュータウン ベッドタウン アートタウン」を実現するには困難が予想されるが、とにもかくにも動き出した。
どうしても撮影したかった人物は、結局撮影できなくなった。まあ、色々複雑な事情があるようだ。撮れた映像に力があるかないかなんて、今は正直わからない。来週は、いよいよ父にカメラを向けよう。
(つづく。)
●「のるかそるか通信」―果たして『ニュータウン物語は完成するか?』
本田孝義です。
「ニュータウン物語」撮影日誌の続きです。
4月14日 実は、13日までが決まっていたスケジュールで、今日からの予定は決めていなかった。いいかげんと言えばいいかげん。なんだか疲れていたので、リフレッシュしたいと思い、今日はお休み。夕方、父と岡山のミニシアター、シネマクレールで「リトルダンサー」を見る。
4月15日 団地内の風景を撮影。夜、岡山の知人達が企画したチェコアニメの上映会に出掛ける。「ニュータウン物語」で独自の撮影をしてもらう予定の小林君も来ていた。どこから手をつけていいか、困っている模様。まあ、あせらず、どうにかなるさ。午前1時まで打ちあげに乱入。私は何をしておるのか。
4月16日 団地を遠方から狙う。よくない。適当な場所がないか、しばし、近くの山をさまようが、徒労。「やっぱり、空撮が必要かな」と思うが、そんな金はなし。まあ、あせらず考えよう。(こればっかりか。)団地の入り口の道路標識を撮影。「山陽団地 NEWTOWN
SANYO」と書いてある。
4月17日 楠原知子さん、インタビュー。同級性の健一君のお母さん。健一君は、知的障害を持っている。現在は、豆腐屋で働いている。世間話をしてたら遅くなり昼飯も食べず、次のインタビューへ。岡崎克昭さん。団地内の2階建県営住宅に住んでいる。間違いなく、最も早い入居者の一人。知らない話がいっぱいあった。
4月18日 予定していた方の都合が悪くなり、撮影お休み。こういう日は、いらいらするやら落ち着かず。
4月19日 父へのインタビュー。始めはとても固い。カメラに緊張する体質のようだ。今までにもカメラを向けるチャンスはいくらでもあったが、きちんと話を聞いてから、という手順でいこうと決めていた。まだまだ先は長い。お隣の西野夫妻にインタビュー。息子は私と同級性、娘は私の妹と同級性。
4月20日 また車からの風景を撮影。父を"車両部"のように使っている。他人が見れば、変な親子だろう。その後、近くの山に車で上がって、団地遠景を撮影。
4月21日 父がある方の7回忌法要に出掛ける。そう、私の父は坊主なのだ、それも脱サラして。初めて父の坊主ぶりを目撃し、複雑。撮った映像を父と見て、また複雑。
4月22日 真部君と隣町で行われる美術展会場へ行く。山陽団地の下口さんも参加するので、3人で「ニュータウン ベッドタウン アートタウン」展の相談。目標は来年5月開催。とにかく、企画を進めよう。
4月23日 朝、団地の渋滞風景を撮ろう、と意気込むが、それほど渋滞していない。これも、団地内で定年族が増えたせいか。とりあえず、撮影。明日、東京へ帰る。
(補足)なんとか第1期撮影を終えた。撮影とは別に気付いたこと。昼間、団地内をぶらぶらしていると、自分がただの不審者になったみたい。「みんなの力で 変質者から 子供を守ろう」という看板があちこちにあって、(そういう事件があったらしい)何かあったら、真っ先に疑われるのは私だろう。また、作品が出来たとして、どいう形で見てもらうのかうまく説明できないのも、自主製作ゆえ。
撮影をしながら、なぜ、こんな作品を作ろうと思ったのかもやっとわかった。(かっこ悪いので書きません。)今回、飛び飛びで撮影をする予定にしていて、よかったと思った。なんだか、しばらくここにいると気が緩んでいるのか、緊張してるのか、とにかく妙な気分なのだ。しばし、この街を離れよう。(つづく)
●「のるかそるか通信」(7)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
茫漠たる不安...
本田孝義です。今回は、自主製作ゆえの贅沢な悩みを書いてみたい。東京に戻ってきたら、あっという間にゴールデン・ウィークに突入。すると奇妙な不安が頭をかすめる。
今回の『ニュータウン物語』は、意図的に1年間かけて撮影を行う予定だ。1年間というのは、団地の四季を織り込みたい、という単純な理由。そんなわけで、次の撮影予定は夏になる、はずだ。
では、それまでどうするの、というのは意外に切実。別に締め切りがあるわけでもない、自主製作の気楽さというのは、反面、撮影していない時、「いったい今後どうなってしまうのか」というあらぬ不安が頭をよぎることがあるのだ。まあ、「どうにかなるさ」という楽天的な人もいれば、ああでもない、こうでもない、とごちゃごちゃ考えてしまう人もいるわけで、私の場合はその両方を揺れ動いている感じだろうか。
さあ、いよいよ始まったぞ、と気持ちははやっているのだが、撮影をしているわけではない。気持ちの空回り。こんな時こそ、お金を稼ぐ何かをしなければ、とは思うのだが、すぐに何かが出来るわけでもなし。(ここが一番切実な現実だったりはする。)
デジタルビデオでのドキュメンタリー製作は、一人でも安く簡単に作品が作れるのがなんと言ってもいい点だ。「やっぱり出来ないな」と言って逃げたとしても、まあ、それほどの被害もない。(写させてもらった人たちへの道義的責任は別として。)大勢の人間やお金がかかった作品だと実害ははかりしれない。逆に言えば、漠然とした不安も一人で引き受けなければいけない。
前作『科学者として』を製作中も、こうした精神状態に何度もなったし、「作品にならない」と思ってへこんでいた時期もあった。その山をどうやって越えたのかは、忘れてしまった。
いやはや、意味不明な愚痴のようになってしまった。こんなことを言っているようでは先行きが怪しくなってくる。気を取り直して、少しでも前へ進めよう。じゃあ、何をするのか。そうだ、4月に撮影したものをもう一度整理して、インタビューはインタビューおこし(しゃべっていることを文字にする)を始めよう。そう決心して、事務所に向かう。
(つづく)
●「のるかそるか通信」(8)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
本田孝義です。
さて、前号でうっかり"事務所"なんて書いてしまったが、6畳一間の部屋である。昨年『科学者として』をBOX東中野(東京)で公開するにあたり、チラシやポスターを置くためにも、東中野駅から10分ぐらいの所に借りた部屋だ。今住んでいる、早稲田からバスでも行けて、いたって便利。外見はマンションなのだが、地下の駐輪場脇の薄暗いところに、その部屋はある。
2年前、『科学者として』編集に向けて、VHSの安い編集機(それも中古)を買った。今回も、本編集はスタジオで行おうと考えている。カットつなぎの丁寧な音声処理や、字幕の出し方など、一人で行う作業では見えてこなかった適切なアドバイスをもらうことが出来、最後の最後で随分助かったと思っているので、今回も同じ方法をとることにしよう。
撮影はミニ・デジタルビデオで行ってきたが、はるか先にある編集に備えて、繰り返し見たり、インタビューを起こしたりするために、全テープをVHSにおとした。元来がさつな自分にとって、こうした作業は面倒くさかったりするもんだが、こればっかりは避けて通れない。
VHSのテープをじっくり見ながら、ノートに気付いたことを書き留めていく。自分で撮影しながらも、忘れていることがはなはだ多いことに気付いたり、「ああ、失敗してる。」と冷や汗をかいたり。
今回のテーマは街そのものであるとしても、描きたいのはあくまでも人、だと思う。そこで、撮影のことも少し振り返りながら、自分なりに気付いたことや考えを書いてみよう。
以前書いた、撮影日誌を読まれた方はお気づきのように、インタビューがやたらと多い。この部分は内心忸怩たる部分でも、ある。インタビューというのは、どうしても静的な画面になるし(そうはさせまいと、やたらと極端なアップを挟み込んだりするインタビューがテレビで増えているが、見苦しい、と私は思う)、撮られる人がかしこまってしまうのも事実。
かつて、柳澤寿男監督は「インタビューはしない」と語っていた。一方で、昨年見た四宮鉄男監督の『バナナン大将』は、ほとんど一人のインタビューで構成された作品だったが、やたらとおもしろかった。呉文光監督の『私の紅衛兵時代』も、ほとんどインタビュー。これらがおもしろかったのは、内容に加えて、映されている人の存在感まで丸ごと写し取っていたからではないだろうか。
総じて、「昔の話」を描くときに、ドキュメンタリーではインタビューに頼ることが多い。ただ、「昔の話」を描くとしても、テレビでは「再現ドラマ」が花盛りなので、方法論としてはありうる。要は「何を表現したいのか」で、変わってくることではあろう。
自然に人の話を引き出す、というのはなかなかやっかいで、多くのドキュメンタリー作家が四苦八苦していると思う。例えば映される人が何かをしているところを撮影しながら、根気よく話が出てくるのを待つ、ということがある。インタビューは、こうした撮影とは明らかに異なり、撮影する側が「あなたの話を聞きますよ」というスタンスでいることだ。
これは漠然とした感想なのだが、最近、人の話をじっくり聞くことが少なくなっているように思う。日常的にもそうだし、映像の世界においても。インタビューというのは、ドキュメンタリーの常套手段であるし、何か人と違う表現を模索すれば、避けたいことでもあろう。よく「言葉で語れないから映像表現をしているのだ」という言い方をされるが、逆に、私の中でどこか「人が語る力を信じたい」という気持ちが強くなっているのも事実。
私は今回、あえて「あなたの話を聞かせてください」というスタンスを強く持っていたように思う。「あなたの」「ニュータウン物語」を聞きたいのだ、と。「あなた」と「あなた」の話が、つながっていくのかいかないのか、それこそが街の「物語」なのではないか、と。
(つづく)
●「のるかそるか通信」(9)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
本田孝義です。
インタビューを撮影するのは、あまり「演出」が入り込む余地がないように思えるかもしれないが、ごくごく基本的なところから製作者の考えが入り込む。誰にどこでどういう話を聞くのかというのは、撮影を始める前に考えなければいけない事柄だ。
今回の広畑先生の例で考えてみよう。
この春の撮影は、基本的に山陽団地が出来る頃の話を撮影したいと考えていた。そこで、団地内唯一の小学校初代校長だった広畑先生のことを思い出し、昨年冬、カメラを持たずにご自宅に伺って学校作りの話を聞かせてもらった。言わば、「下調べ」というやつだが、「カメラを持たず」というのは、意外にに大切なのではないか、と思っている。
カメラが小型化している現在、どこにでもどんな形でもカメラを持っていくことは可能だ。「すぐ撮影する」必要がある場合も多々あるが、今回の場合は、本当に久しぶりにお会いし、(何せ、20年以上経っている)「先生」「児童」の関係を確認してから撮影したかったのだ。その際の最低限の礼儀が「カメラを持たず」ということで、撮影される人とどういう関係を作っていくのかを考える上でも、案外大切なことではないかと思うのだ。
いざ、撮影しようと考えたときに、「どこで撮影すればいいのだろう」という、当たり前と言えば当たり前なことが出てくる。極端なことを言えば、世界中どこでもいいわけで、選択肢は無限にある。私が考えたのは、「せっかく学校の話を聞くのだから、学校がいいだろう。」ということ。
そして、他のインタビューが室内が多くなる予想があったから、バランスから考えて、校庭がいいなと考えた。インタビューはそうでなくても静的な画面であるから、室内が続けばより窮屈になるのは目に見えている。多少なりとも、空間に広がりがあったほうがいいかもしれない、というわけだ。
それでは、校庭という広い場所のどこで話を聞くのかは、撮影当日ああだこうだ考えていたのではどうしようもないので、背景として多少なりともよく見えるよう、校舎全体が画面に入る場所を、以前、下見をして探しておいた。(蛇足ながら、その時点で一番よさげな場所では、いすが必要なことが判明し、事前に用意しておいた。)
今まで一人でやっていて、やっかいだなと思うのは、撮影準備である。撮影される人の緊張をほぐさなきゃいけない、と思い何やかにやと雑談するわけだが、カメラのことやマイクのことなど撮影のことがちらつき、ぎこちないことこの上ない。カメラマンや助監督がいる場合は、「撮影準備しておいて」ですむのかもしれないが、一人でやるからには、一切合財自分で引き受けなければいけない。一連の動きが、自然にできるようになるには、まだまだ場数が足りない、ということだろう。
もう一つ、一人でやる場合の最大の難点は音声である。次号で音声について書いてみよう。
(つづく)
■のるかそるか通信(10)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
本田孝義です。
一人でやっていて、なかなかやっかいなのが録音だ。
ビデオカメラは、何も考えずに撮影していても、映像と音が同時に取れてしまう。しかしながら、きちんと音を取ろうと思うと、ビデオカメラのマイクでは弱いのが現実だ。特に、インタビューのように、話を撮影しようと思う場合は特にそうだ。
そこで、外部マイクを使うことになるのだが、大きく言って、2つの方法がある。1つは、ピンマイク。もう1つはガンマイク。ピンマイクは、襟元などに付ける小型マイクで、無線でカメラに音声を飛ばすのが普通だ。ガンマイクは、指向性を持つ、高性能マイク。ピンマイクは、口の近くにあるわけだから、当然、クリアーな音声が拾えるため、インタビューなどでよく使われる。しかし、私はどうも好きではない。音声というのは不思議なもので、その場の空気感まで伝えるものだが、ピンマイクはクリアーな分、場の空気感に乏しい。さらに、極めて小さいため、普通、画面上では気付きにくいものだが、何かの拍子に目に付くこともある。そんな時、なんだか私は興ざめしてしまう。
そこで、私はガンマイクを使ったわけだが、正直言って、安物のマイクである。どんな機材でもそうだろうが、いい性能のマイクはそれなりに高い。また、やたら大きいガンマイクは、とても一人で扱うのは難しそうだ。こうした、妥協の産物が、安物のガンマイクをカメラに取り付けるという、いたってありふれたやり方になるわけだ。
ここで、やっかいなことが起きる。被写体との距離が、ある程度制約されてくる、ということだ。いくら指向性を持つとはいえ、あまり離れすぎると音は拾えない。適当な距離を探すしかない。また、カメラにマイクをくっつけている、ということは、話をしている人からカメラを振ることが出来ない、ということだ。人からカメラを別に向けてしまえば、必然的にカメラが向いた方向の音声を拾うことになるので、人の話は瞬く間に拾わなくなる。
具体例を上げてみよう。小川紳介監督の名作、『三里塚・辺田部落』の冒頭、竜崎のおじいさんが、村の来歴を話す有名なシーンがある。話の流れに沿いながら、ゆっくりとカメラが動き、村の景色を映し出す。たとえ竜崎のおじいさんが画面に映っていなくとも、話が続いているのは、マイクがしっかりと竜崎のおじいさんの方を向き、最大漏らさず話を拾っているからで、カメラと録音の絶妙な呼吸が名シーンを生み出しているわけだ。言わば、カメラと録音が別の方向を向いているからこそ成立するわけで、同じ方向を向かなければいけない場合は、こういうシーンは撮れなくなってしまう。
ドキュメンタリーにおける音声は、いろんな意味で大切なものだが、最近、なんだか「耳のいい」ドキュメンタリーが少ない気がしている。音楽の使い方も含めて、ドキュメンタリーの名監督は耳がいい。いや、逆かもしれない。耳のいい人が名監督になれるんじゃないだろうか。
道は遠そうだ。
●「のるかそるか通信」(11)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
本田孝義です。
4月の撮影で思わぬ効果を発揮した事例を書いてみよう。
それは、ワイドコンバーションレンズだ。撮影をよくご存知の方は、「なーんだ」ってなものだが、実は私は、ワイコンレンズが嫌いだったのである。
ワイコンレンズは、簡単に言ってしまえば、通常のレンズの前に取り付け、より広い視野を獲得するための特殊レンズだ。広げる視野が広いほど、必然的に画面は少し屈曲することになる。
さりげなく使われている事例も多いが、屈曲する効果を狙って、これ見よがしに使っている事例もある。ただ、以前から気になっていたのは、ビデオの入門書などで、ワイコンレンズが、さも「必需品」のように書かれているせいか、画面のゆがみを気にしているのかいないのか、安直な使用も多々目にする(テレビもしかり。)そんなこんなで、今までそれほど必要性を感じてこなかった。
だが、4月に撮影を始めるに当たり、ワイコンレンズのことが気になり始め、カメラ屋などを回って物色していたのだが、私が使っているカメラのレンズ口径が特殊な事がわかり、「まあ、なくてもいいか」と思い始めたところに、ちょうどぴったりはまるレンズを中古で見つけ、購入した。装着して、カメラを覗いたところ、屈曲率が高く、どうしても画面がゆがむ。「使わないかもな」と思いながら、撮影が始まった。
ある日、車の中から、町並みを移動しながら撮影することを考え、カメラを構えてみたら、道路から家々が近すぎて、画面上では何がなんだかさっぱりわからない。そこで、ワイコンレンズを付けてみると、きれいに家々が画面に納まる。早速、車を走らせながら、夢中で撮り続ける。確かに、塀などは屈曲しているのだが、そのことも含め、ゆっくりと流れていく町並みの風景は、今まで自分が感じていた町の空気とは明らかに違っていた。思わぬ町の顔を見たような気がした。
バカなようだが、東京に戻ってきてからも、何度もこの風景を見ていた。ちょっとした思いつきで、この風景にインタビューの音声を重ねてみたら、また、違った町の顔が見えた、気がした。「あの時、ワイコンレンズを買っててよかった」と思った。
何回か、4月の撮影のことを書いてきたが、このメールが届く頃には、第2次撮影の直前のはずだ。今度の撮影は、主に自分の同級生を訪ねることとなる。楽しみでもあり、恐くもあり、複雑な心境の今日この頃である。
(つづく)
●「のるかそるか通信」(12)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
第二期撮影始まる
このメールが届く頃は、『ニュータウン物語』の第二期撮影真っ最中のはずである。今回の撮影は、前号に書いたように、主に同級生を訪ねる撮影の予定だ。しかしながら、少し前に書いたことと矛盾するのだが、撮影予定を全く立てていない。
と言うのも、15年ぶりぐらいに会う過程そのものを撮影したい、と考えていて、撮影交渉する私の姿も記録しようと思い、全く白紙の状態から撮影をスタートさせるつもりだ。はたして、突然現れた変なやつの願いを聞き入れてくれるかどうか、不安と期待が交錯しているところである。
4月の撮影は、意識的に両親の世代(ニュータウンに家を建てた世代)にとって、30年前のニュータウンがどう映っていたのかを撮影したのだが、今回は、私のような世代(幼い頃からニュータウンで育った世代)が、ニュータウンをどんな風に眺めていたのかを探っていくつもりだ。
よく言われるように、ニュータウンはどうしても年代的に似た家族構成の家が多く、私が住んでいた周りには、同級生がとても多かった。少なくとも小学校ぐらいまでは、よく一緒に遊んだものだ。そんな中で、比較されることも多く、プレッシャーになっていなかったかどうか...。でも、「特別ニュータウンなんてものを考えたことがない」という人も多いだろう。たいしておもしろくない話しかなくとも、それがニュータウンで育った人間のニュータウンに対する感想なら、それはそれで充分、「ニュータウンの物語」になると思っている。
もう一つ、今回の撮影でねらっている光景がある。8月と言えばお盆である。どれぐらいの同級生がそうなのか、これもいきあたりばったりなのだが、ニュータウンに「帰省」してくる者もいるはずだ。帰ってくる場所が、ニュータウンなのだ。今回の作品は、「ニュータウンは故郷足りうるか」というのも大きなテーマなので、またとない機会ではある。
何はともあれ、今回の撮影、あまり堅苦しくならないように考えている。同級生との再会が楽しいものであるように祈りつつ、そんな気軽さを何とか映像として取り込みたいと思う今日この頃である。
(つづく)
●「のるかそるか通信」(13)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
前号書きましたように、第2期撮影が始まった。春の時と同じく、撮影日誌風に書いてみたい。(全日書くと長くなるので、時々省きます。)
8月1日(水)
岡山の実家へ帰る。
8月2日(木)
夜、同級生の林君に電話するもつながらず。迷った末、石田さんに電話。今回、どうしてもインタビューしたかった女性だが、何となく気後れしてしまっていて、電話をするのも踏ん切りがいった。突然(何せ、10年以上合ってない)の電話にも拘わらず、明日、午前中なら空いている、とのこと。明日の再会を約束。
8月3日(金)
午前10時、石田さん宅へ。(と言っても、斜め前の家だ。)変わってない、と思う。自分にとって大切な撮影のせいか、今回初の撮影のせいか、こちらがえらく緊張している。お互い近況報告。彼女は現在、小学校の先生。独身で実家に変わらずいる。
カメラを回して、小学校の頃の団地の様子を聞く。話は次第に、「なぜ、今も実家にいるか」という部分へ。何だか、人に話を聞きながら、自分のことをしゃべり過ぎた。まあ、それもいいか、今回は。
夜、妹に電話。(近くの別の団地に住んでいる。)インタビューを嫌がっていたけど、とにかく会う約束。さらに、隣に住んでいた同級生(現在、神戸在住)、西野君にも連絡が取れた。22日頃帰る予定だとか。ぎりぎり会えそうなので、再会を約束。
8月5日(日)
午後1時、近藤さん宅へ。地元在住のいわゆるアマチュアビデオカメラマンで、団地の風景や行事を撮影してもらっている。少し撮ったものを見せてもらうと、とても丁寧な撮影をされていてうなる。自分が恥ずかしい。最終的に、どういう風に生かすのかは、今後の課題。
なんとか都合がついた林君宅へ。小学校の頃、一番よく遊んだ友達だ。15年ぶりぐらいか。近くの別の団地(妹と同じ)にきれいな家を建てている。今でも草野球をしているほどの野球好き。甲子園出場経験あり。よって、いつしか野球の話に。「小学校の頃、同級生も多かったから野球もできたよな。」とお互い語る。またの再会を約して家に戻る。
8月6日(月)
天気悪し。いかにも夏という風景を撮りたいのだが。今後の撮影スケジュールを考えながら、ふと、いろんなパターンがあることに気付く。(いつもながら鈍い。)
〇今も山陽団地に住む者
〇団地を離れたが近くに住む者
〇遠くに住む者
同級生の消息を聞きながら、やたらと「帰ってくる」同級生にとらわれていた自分に気付く。なんでもかんでも撮影すればいい、と思っていたが、軌道修正。いろんなパターンの同級生をバランスよく撮影しよう。
「帰ってくる」組で、思い出したのが勝田君。中学校時代の一番の親友。電話がつながる。12日に、大阪から帰ってくるとのこと。撮影、再会を約束。
8月7日(火)
地元紙「山陽新聞」の取材を受ける。
8月8日(水)
夜、門さん(中学校の後輩)宅へ。息子さんの将平君の入学式を撮らせてもらった。家で花火をするというので、花火の光景を撮影。子供の成長記録を撮影してもらっている、テープを受け取る。また、門さんへのインタビューも頼む。(団地内で家を建てた珍しいケース)
8月9日(木)
午前10時、妹と待ち合わせ。息子、娘(5歳と3歳)も車に乗っていた。娘の方は初めて会う。妹の家へ。しばし、近況報告。昼食後、インタビュー。嫌がっていた割りには、きちんとしゃべってくれた。「いいなあ、男の人は好き勝手して。」と言われ、戸惑う。今回、自分の家族のことも、きちんと語りたいと思っている。どこにでもある話だが、なかなかに複雑なものがある。
8月10日(金)
すでにお気付きの方もいるかもしれないが、今まで、母親のことが出てきていない。なんのことはない、両親は熟年離婚。母はすぐ再婚して、今、奈良にいる。そんなわけで、母親に電話。時たま電話、手紙のやりとりはあったが、7年ぐらい会っていない、はずだ。東京に戻る時に、奈良に行くことにする。はたして、撮影させてくれるか...。
8月12日(日)
午後2時半、勝田君に再会。「帰ってきた」ところを撮らせてもらう。5ケ月の子供がいた。本人は「髪が薄くなった」と言っていたが、まあ、それほどではない、と思う。いつものように、団地へ引っ越ししてきた頃の話から、いつしか、「出ていった」話へ。似た心境があるなあ、と思う。なお、今回はインタビューする自分の姿ももう一台のカメラで撮影。
夜になり、夕食風景を撮らせてくれないか、お願いする。ご両親も快く応じてくれた。孫を中心に回っていることを実感。それにしても、夕食をよばれた上に、ご両親に激励され、恐縮。
雑記:同級生との再会は想像以上に疲れてしまった。まず、どこかでこちらが人間関係を切ってきた、というのがある。まあ、向こうにとっても、亡霊が現れたようなものだと思うけど。さらに、みんなちゃんと生きていて、我が身のだらしなさを痛切に実感。
それにしても、会った上に、突然の撮影を許してくれた人達に感謝。他人が聞くと、実に他愛ない話が多いと思うけど、それ故、「ニュータウン」のある断面が浮かんでいると思っている。同時に、確実に自分の姿も映っている。不思議なものだ。
ことほどさように、「ニュータウン」と言っても、公式記録でもなんでもない。自分が出会ってきた世界から見えるニュータウン。
かくして、第2期撮影、後半戦に続く。
●「のるかそるか通信」(14)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
第二期撮影 後半戦
8月14日(火)
うまい具合に撮影がなかったので、NEOの原稿を書いて、携帯端末で送る。撮影日誌を書いていると、昼過ぎに門公子さんから電話。今晩、インタビューを撮影予定だったが、都合が悪くなったとのこと。まあ、仕方ない。あさって夜を一応セッティングして、当日また連絡を取り合うことに。
8月15日(水)
昼過ぎから団地内の風景を撮影。ここしばらく天気が悪く、やっと晴れた、という感じだ。汗をだらだらかきながら、団地を回る。家々にカメラを向けながら、夏の日差しを実感。 午後6時、少し早めに"精霊流し"の会場へ。と言っても、団地内に川があるわけではないから、どうするのかと思っていたら、お盆に飾っていた花や果物を置いて、線香をあげるだけだった。それにしても、奇妙な光景かもしれないが、予想以上に多くの人が参加していて、ニュータウンにも「先祖の霊」を祀る人がこんなにいるのかと、不思議な感じ。最初の違和感もどこへやら、撮影するうちにしみじみした気分になってきた。
8月16日(木)
今日も引き続き、日中は団地内の風景を撮影。昨日回れなかった地区を回る。夕方門さんから連絡が入り、夜9時ごろなら大丈夫とのこと。お邪魔することにする。何度か書いたように、門(旧姓・後藤)公子さんは、中学時代の部活の後輩。やたら小中学校の話になってしまったが、たまたま偶然、団地内に家を建てることになった話は興味深かった。両親も近くにいるから、息子さんの将平君が団地3代目ということになる。
8月17日(金)
朝から実家の風呂場脱衣場床の張り替え。今回が2回目だが、さすがに水周りは傷みが早い。すかさず撮影。ところが、昨日(本当は以前にもあった)どうも調子が変だと思っていたカメラのズームが本格的に不調。だましだましでも使えるかもしれないが、今後の撮影を考えると不安なので、修理できないか探る。私のカメラはパナソニック(松下電器)。東京では大阪送りになるため、いつも修理に1週間かかっていたので、半分諦めていたが、岡山の修理部門に部品があることが判明。急遽、父親に車を飛ばしてもらい、カメラ修理。一応、関西圏だからなのか直った。
8月18日(土)
午後1時、遠藤君宅へ。クラスや部活で一緒だったことはないが、中学時代、生徒会・塾(と言っても、農家の納屋を改造したアットホームな塾だった)で一緒だった。現在、団地に住み、小学校の先生をしている。あまり変わっていないのが第一印象。小学校時代の遊びを生き生きと語ってくれ、さすが、と関心。大学は県外に出ていたが、団地に戻ってきた心境、現在の団地の様子などもきちんと語ってくれた。そう言えば、昔からしゃべりはうまかったよなあ、と思い出す。
8月20(月)
11時より、実家で「葬儀」。前にも書いたように、父は脱サラして坊主をしている。よって、実家は、一応、寺の分院となっているので、こういうこともたまにはあるらしい。それにしてもあらためて、変だよなあ、と思いながら撮影。(「葬儀」自体も複雑な内容を持つものだったのだが割愛。)午後、父へのインタビュー。ずばり、聞かれたくないであろうことを聞く。淡々とはぐらかしながら答えていた。こんなもんだ、と逆に思う。夜、隣に住んでいた同級生、西野君に電話。台風の影響で、岡山に帰ってくるのが遅れるらしい。24日になる、とのこと。東京に帰る日を1日延ばす。
8月21日(火)
台風。何も予定を入れていなかったので助かった。
8月22日(水)
午前中、スケジュールがはっきりしたので、母に電話。25日午後行くことを伝える。父には内緒だ。 夕方、奉還町アート商店街実行委員会を尋ねる。10月20日からの企画に参加したい意向を正式に伝える。
8月23日(木)
父と県北へドライブ。いい機会なので、岡山県で撮りたい、あるドキュメンタリーの下見を兼ねる。正直、難しい企画なのだが、興味は尽きない。
8月24日(金)
午後、西野君が帰ってきた。インタビューを撮影しようとするが、家の中での撮影をやんわり断られる。(子供が寝たところだから、とのこと。)まあ、しょうがない。急遽、近くの公園で撮影。他の人が室内ばかりだから、アクセントにはなるかもしれない、とも思う。彼は現在、神戸在住。「団地を離れた」組だが、話を聞いていると、将来的には、戻れるものなら戻って来たい、と言う。ちょっと意外だったが、そういう人がいるのも、当たり前だ。
8月25日(土)
午後1時頃、母の住む奈良の某所・某駅で、7年ぶりに母に会う。「感動の再会」なんてことは全くないが、すかさずカメラを向けている自分に嫌悪を覚えたことも確か。昼ご飯を食べて、しばし近況報告。再婚相手の方は、7年前、1度会ったきりで、顔も忘れてしまった。(この日は仕事で不在。正直、ほっとする。)いやがる母親を説き伏せて、強引にインタビュー撮影。色々、語りにくいことも、正直に語ってくれ、我ながらじーんとくる。予想はしていたけど、「団地のことはあまり思い出したくない。」という言葉に胸が詰まる。つくづく、自分はいやなやつだと思う。 夜、11時帰京。
雑記:こうして第二期撮影は終わった。同級生を中心に撮影していたわけだが、団地(あらためて書いておくと、団地という名前だが、一戸建てが多い団地です、念のため)に好意的な人が多くなった。多分、ニュータウンに嫌な感じを持っている人もいたと思うが、そういう人は当然、現在の団地と関わりを持っていないのであろうから、探し出して会うことも難しい。それはそれで、無理やり探し出す必要も今は感じていない。強いて言えば、私の母・妹が「いやな感じ」を持っているわけだが、団地と言うよりは、家の記憶だ。そう、団地は所詮、家の集まり。私と言えば、「...」としか言えず、だからこそ、こんなビデオを撮っているのだろう。
●「のるかそるか通信」(番外編1) 本田孝義
芝田進午さんのこと
『ニュータウン物語』の第二期撮影をなんとか終えて、東京に戻ってきたら、別のビデオ制作のことで急に忙しくなり、ゆっくりと撮ったものを見返す時間もない。 そんなこともあって、番外編として、今やっていることを書きたいと思います。 今回は、『追悼 芝田進午さん』のビデオについて。
私が、芝田進午さんと出会ったのは、1992年頃だったと思う。新宿区戸山という住宅地(芝田さんの自宅もここにある)に、日本最大の病原体実験施設、国立予防衛生研究所(現感染症研究所)が移転してくることになり、病原体等が漏れ出し、感染事故を起こす危険性があるということで、地域住民は移転反対の運動・差し止め裁判を行っていた。
芝田さんは、その先頭に立っていた。私は、芝田さんが編集された、「生命を守る方法」という本の後ろに、芝田さんの連絡先が載っていたので、電話をかけてご自宅にお邪魔した。私も、この問題に関心があったのだ。すでにこの頃は、新庁舎も完成し、移転が正式に始まる頃だったと思う。
芝田さん編集の本を読んで疑問に思った点をぶしつけに質問すると、嫌がりもせず、丁寧に答えてくれた。その物腰のやわらかさは今でも覚えている。後々知ることになるのだが、芝田さんはマルクス主義哲学者として、ある世代の方々にとっては有名な学者なのだそうだ。また、ベトナム反戦運動、反核音楽の研究家として記憶されている方も多いだろう。
この出会いから、本格的にドキュメンタリーの製作を決意するも、どこに焦点を合わせればいいのか分からず、一向に撮影を始めることが出来なかった。そんな私を急かすことなく、暖かく見守っていただいたことを感謝している。
ある時、研究所内から現在の立地の危険性を指摘している、新井秀雄主任研究官に出会い、「新井さんを中心にこの問題を描きたい」と語った私に、芝田さんは「それはいい」とにこにこしながら答えてくれたものだ。そこからさらに数年後、作品は『科学者として』という題で完成した。
その完成披露試写会を早稲田大学で行ってしばらくして、芝田さんは胆管ガンを発病された。私は、体調を崩したことは知っていたが、ガンであることを知るのは、もう少し時間がたってからだった。
芝田さんは色々考えた上で、手術は行わず、自宅療養を続けることにした。時々、入退院を繰り返しながら「危ないかもしれない」と聞いたこともある。
そんな頃、『科学者として』の劇場公開が決まった。こちらが心配になるほど、芝田さんは積極的にチケットを売ってくださった。奥さんは芝田さんがいない席で、「なんとか本田君の公開を見せてやりたい」とぽつりと語った。
公開初日、芝田さんは厳しい体を押して、孫まで連れて見に来てくださった。満席の初日を見てもらうことが出来て、言葉に言い表せない感慨があった。公開が終わってすぐ、予研=感染研裁判は結審した。最後の法廷に、芝田さんの姿はなかった。この時も、体調を崩され入院していた。
裁判結審後、芝田さんは最後の炎を燃やすように、総決算とも言うべき、「バイオハザード裁判」の編集に取り掛かり、本年1月に緑風出版から出版された。
同時期、映画と同名の「科学者として」という本を幻冬舎から出版していた新井さんは、厳重注意処分を受け、夏季勤勉手当のカットを通告された。新井さんは民事訴訟をおこし、今も継続中である。
(詳しくは http://member.nifty.ne.jp/atsukoba/arai/
)この処分をすかさず芝田さんは「言論弾圧事件」と捉え、新井さんの裁判を支援する組織作りを提言された。私は、自らの責任において、「新井秀雄さんを支える会」を発足させた。
予研=感染研裁判の判決日が迫る中、芝田さんは入院されていた。3月12日、私の留守電に奥さんから、「芝田が本田君に来て欲しいと言っているので、病室に来てくれませんか」というメッセージが入っていた。翌13日、病室に伺うと、酸素吸入器を取り付け、やせ細った芝田さんがいた。しかし、芝田さんは酸素吸入器をはずし、「マスコミ関係者に『バイオハザード裁判』を読んで、判決を取材して欲しい」としっかりとした口調で語られた。
3月14日、午後1時55分、芝田進午さんは逝去された。70歳だった。親族の方以外で、私が最後に会った人間になってしまった。3月27日、芝田さんの遺影が見守る中、判決が言い渡された。住民側の敗訴だった。住民側は、その後、控訴し、10月10日、控訴審が始まる。
芝田さんの教え子を中心に、芝田進午さんを偲ぶ会が計画され、私にもビデオを作ってもらえないか、という話になった。何かしたいとは思っていたが、私とて、芝田さんの晩年を知っているだけだ。
『ニュータウン物語』の第二期撮影が近づく中、今まで私が撮影したビデオの中の芝田さんを見ていた。ある席で、芝田さんが自らの人生を振り返りながら、予研=感染研の問題を語っているビデオがあった。私は、追悼ビデオを作る決心をした。
『追悼 芝田進午さん』というビデオは、実にシンプルなビデオになりそうだ。偲ぶ会に参加される人のほとんどは、芝田さんと縁があった人達だろう。ならば、芝田さんが生き生きと語る姿を見てもらうのが一番だと考えた。私に与えられた時間は15分。芝田さんを知らない人にはいささか不親切なビデオかもしれないが、10月6日(土)芝田進午さんを偲ぶ会で上映される。
●「のるかそるか通信」(番外編2) 本田孝義
美術展への参加
さて、今回も番外編となることをお許し願いたい。
私は、ドキュメンタリーの製作と並行するように、96年から毎年、何らかの形でいわゆる現代美術展に参加してきた。「美術」という言葉にすらアレルギーを持っていた私が、こうした領域で活動をしているのも、我ながらいまだに不思議な感じがしている。
『ニュータウン物語』の製作を岡山で進める中で、ひょんなことからこの10月20日から11月4日に岡山で行われる、"奉還町アート商店街"に参加する事になった。
少し長くなるが、美術の世界との関わりを書いておこう。
1995年3月、岡山で"岡山ドキュメンタリー映画祭"が行われた。私は、『デフ・ディレクター ─あるろうあ者の記録─』という作品で参加していたと同時に、映画祭スタッフとしても参加していた。(余談になるが、この時に撮った映像から『影ふみ』という短編が生まれ、『ニュータウン物語』につながっている)この映画祭の会場の一つが、"自由工場"という空間だった。
今にして思えば、画期的な試みだったことが分かるのだが、"自由工場"は、解体が決まったビルを一定期間アーティスト達に解放し、自主管理を行っていた空間だった。そこには、主に関西方面から多くのアーティスト達が出入りし、いつしか知り合いになっていた。「現代美術はよく分からんが、おもしろい人達がいるもんだなあ」と思っていた。
翌96年夏、その"自由工場"で出会った樋口よう子さんが中心となって、樋口さんが住んでいる地元、大阪市平野区で現代美術展"モダンde平野"が行われることになり、「本田さんも参加してもらえませんか」と声がかかった。正直困った。現代美術なんてわからないし、ましてや展示空間や製作過程においても地域の人達・風景などとの関係を重視するらしい。わけがわからないまま、『コマンド・オクトパス』という3面マルチスクリーンの作品を製作・野外上映した。
そんなこんなで、97年には、生まれて初めてビデオカメラを持つ小学生の女の子3人組と一緒に平野の町を走り回り、『平野幻想』というワークショップを行い、98年には、無編集でどこまで出来るかに挑戦した『東京−大阪ミクスチャー』を上映した。
こうした関係から、副産物もあった。『科学者として』では、樋口さんに細菌モデルを作ってもらい、98年に参加していた京都在住の画家、岡田毅志さんには、墨絵を書いてもらった。"モダンde平野"は3年間でとりあえず終わったのだが、99年には岡田さんの製作活動を撮った『A
PAINTING MAN』という短編が、岡田さんの作品とともに関西方面で巡回上映された。(岡田さんの活動はドキュメンタリーの原点を思い出させてくれる、新鮮なものだった。街の人たちと話をしながら、墨で表情や話をすばやく書き取り、絵巻物にし、紙芝居のように、再び道行く人たちに語って聞かせるのだ)また、2000年には、大阪の"Life展"のオープニングを『科学者として』で飾ることが出来た。
こうして現代美術の世界に足を突っ込みながら、昨年11月、真部剛一君と再会した。彼とは95年の"自由工場"での出会いから始まり、"モダンde平野"でも一緒だった。たまたま、岡山映画祭に参加していた時期に、真部君が個展をやっていたのだ。
その真部君が関わっていたのが、"奉還町アート商店街"という企画だった。奉還町という商店街の良さを見直そうという地元の方と、アートを身近なものにしようと考えるアーティストが結びついて生まれた企画だ。具体的には、商店街の店舗を使って展示を行う"テンポテン"が大きな柱となっている。『ニュータウン物語』の第二期撮影中に説明会があり、様子見の気軽な気持ちで参加した。なんとなく「本田さんも参加しませんか」という雰囲気になり、私も好奇心が沸く。かといって、撮影が終われば東京に戻らざるをえず、岡山での製作は難しい。
そこで考えたのが、『ビデオリレー となりのお店』という企画だった。要は、ビデオカメラをバトン代わりにして、各々の店舗で好きな映像を撮ってもらうという企画だ。ビデオカメラの良さは、誰にでも撮れる点にある。下手くそだろうと何だろうと、とにかくビデオカメラに親しんでもらうことと、ビデオカメラを媒介にしたコミュニケーションを商店街の中で作り出すことに主眼をおいた。私は、作者というより企画者、という立場と言えるだろう。
とは言え、初めてカメラを持つ人がいるかもしれないので、スイッチの入れ方から撮影方法まで、できるだけ分かりやすく「撮影の手引き」を製作した。
9月15日、ついにカメラが手渡され、撮影が始まっている。各々どんな映像を撮っているのか楽しみだ。こうした映像を1本にまとめ、奉還町商店街の電気店で街頭上映することが決まっている。
(奉還町アート商店街 http://www.h3.dion.ne.jp/~art-show/ )
そして、10月20日からの上映にあわせて、『ニュータウン物語』の第三期撮影をスタートさせる予定だ。
●「のるかそるか通信」(15)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
少し見えてきた課題
2回、『ニュータウン物語』を脱線してしまったので、今回こそは、『ニュータウン物語』に戻ろう。
このメールが届く頃には、再び岡山に入って、第三期撮影を行っているはずだ。はずだ、というのも、第二期撮影時と同じく、撮影予定が全く立っていないからだ。忙しかったから、というのがその主な理由だが、普通で考えれば、失格もいいところだろう。
そうは言っても、進められるものなら進めるしかない。幸い、前号に書いたように、岡山でのイベントに参加することにしたものだから、ここぞとばかり、第三期撮影をすることにしたのである。もともと、秋の撮影を考えていたのだから。
一番始めに書いたことだが、『ニュータウン物語』では、四季の移り変わりを取り込みたい、と考えていた。ニュータウンと言えば、とかく季節感が乏しいイメージがあるが、乏しくとも確実に四季はある。
実は、『科学者として』を編集中、当たり前といえば当たり前なことに気付き、苦労した。撮影期間が長かったわりには、あまり季節の変化を意識せず撮っていたため、どうにもこうにもつながらない箇所が多数出てきてしまった。例えば、こんな具合だ。ある話から、ある話につながると、意味的には流れがいいのだが、着ている服が夏物から冬物に突然変わってしまう、といったことだ。そうならないよう苦しんだため、ぎこちない編集箇所が多々出てきてしまった。その時の反省から、今回は、ある程度四季の中で、何を撮るかの大枠を決めている。
夏までの撮影を終えて、今後何を撮らなければいけないかが、おぼろげに見えてきた。最初からある程度予想していたことではあったのだが、多くの人が、「街に子供が少ない」ということを語っていた。一般的な少子化傾向もあるのであろうが、30年前に、一気に完成されたニュータウンは、新しい世代が入ってくることは少なく、必然的に、子供の数も減ってしまった。如実にそのことを物語っているのが、団地唯一の小学校の校舎は、教室ががら空きで、校舎の半分も使っていない。同時に、このことは、少しずつ高齢化が始まっている、ということでもある。
今までの撮影は、どちらかと言えば、ニュータウンの歴史とも言うべき話が多かった。これから私が撮らねばならないのは、現在の街の姿だろう。上記のような状態を人々はどう受け止め、何をしようとしているのか。秋から冬にかけて、私はこうした意識で撮影を進めたいと思っている。
その時に、いきなり「課題」を撮り始めるジャーナリスティックな視線だけでなく、この夏までの撮影で重ねてきた、人々の街に対する思いを頭の片隅に置きながら撮影できることを期待している。
(つづく)
●「のるかそるか通信」(16)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
「ニュータウン物語」第三期撮影:どたばたしながら、なんとか第三期撮影に突入した。今回も、撮影日誌風に書いてみたいと思う。
10月15日(月)
岡山に到着。すぐさま、奉還町に出掛け、商店街を撮影。
10月16日(火)
「ビデオリレー となりのお店」の編集。以前から知り合いの皿井君宅でパソコン編集。初めてお店の人が撮ったビデオを見る。店への愛着が溢れていて感心。35分にまとめる。
10月17日(水)
「ビデオリレー となりのお店」に参加してくださった店をお礼で回る。欧風料理ZiZIのランチがおいしい。上映してくれるお店にビデオテープを預ける。"エダ電化コーナー"という電機店は、すごいお店だ。夜、撮影に参加してくれた、"LODGE"へ。チーズフォンデュに至福。とりあえず、準備完了。
10月18日(木)
ここのところ忙しかったせいか、どっと疲れが出てしまった。昼過ぎ、近くのスーパーへ買い物に。春から撮影している花壇の花が抜かれ置いてある。植え替えの季節か、と思いながら体動かず。夕方、なんとかもち直して、花壇の撮影に向かうと、花の会代表の松田さんに会う。今日は、植え替えに備えて、肥料をまくのだそうだ。さっそく撮影。聞けば、私が岡山にいる間に、小学校での花壇作り、団地の花壇の植え替えがあるらしい。いきなりいい展開になり喜ぶ。
10月19日(金)
溜まっていた原稿書き。
10月20日(土)
奉還町アート商店街オープニング。友人の真部剛一君が企画した「1kmの対話」を見物。なんと、商店街を紅白のテープでつなぎ、店の人もアーティストも通行人もみんなでテープカットをする企画。紐を使った作品を多く手掛けてきた真部君らしい。結果、大成功。とかく権威のセレモニーになりがちなテープカットを鮮やかに表現した真部君に脱帽。店の人達が喜々としてハサミを持って参加していた姿が印象深い。その後、店に展示してある作品をマップ片手に鑑賞。とてもよかった。
10月21日(日)
今日は、"もんぜん祭り"の日。山陽団地には1─7丁目まであるのだが、この祭りは5丁目独自のもの。朝から雨。やるのかどうか、不安ながら行ってみると、やるという。太鼓とかがなくなったのは寂しいが、とにかく撮影。ずぶ濡れになり、カメラが心配。子供も多く来ていた。焼鳥やたこやきなど、自分達で作っている。いきなり知らない人から話し掛けられる。聞けば、小学校のPTA会長の今田さん。『ニュータウン物語』の話をすると、いたく喜んでくれ、全面協力を約束してくれた。また、知らない人から呼び止められる。今度は、団地の自主組織、防犯組合組合長の佐々木さん。近々会議があるらしく、撮影に行くことにする。人のつながりは不思議なものだ。最後に、少し5丁目会長にインタビュー。
10月22日(月)
今後の撮影に向けて、あちこちに電話。明日撮影に行きたい小学校にも電話。撮影許可が出てほっとする。地元のアマチュアビデオ作家の近藤さんが撮影してくれていた、2丁目の敬老の日の催しのビデオを見る。後半の寸劇には、夏に撮影した勝田君のお父さんも出演。それにしても、"田舎芝居"。ニュータウンで田舎芝居とはこれいかに。
10月23日(火)
午後、小学校へ。小学校の花壇作りを、2丁目花の会の人達が手伝うのだ。今日は土作り。4年生が参加していた。教頭から「子供達の撮影は気を付けてください」と言われていたのだが、いざ、撮影が始まると徐々に厚かましくなり、なんだかんだと撮ってしまった。子供達もカメラの前ではしゃぎだす。まあ、いいか。
10月24日(水)
こちらに来てから、撮影したいことがどんどん涌いてくる。団地の福祉政策を知りたくなり、山陽町役場民生部保健福祉課の安井さんに電話。午後、尋ねることに。不動産のことが気になり、近くの空き地に立っていた看板の不動産屋に電話するも、この1件しか扱っておらず、空振り。団地内唯一のスーパー、"サンヨウショッピングデパート"のことが気になり、理事長の岸田さんを尋ねる。インタビュー撮影を決める。
午後2時、町役場に安井さんを尋ねる。えらく話好きな方なのか、延々3時間も福祉政策について話してくださった。山陽町全体の取り組みはわかったものの、団地個別についてわからない部分もあり、現場をよく知っている、社会福祉協議会へ明日行くことにする。それにしても、人の話をおもしろがって聞ける能力の必要性を痛感。
10月25日(木)
午前10時、社会福祉協議会へ行く。主に、高齢者対策ということで、ヘルパーの派遣について聞く。なかなか、現場の撮影は難しそうだ。午後、団地在住で団地内にもヘルパーに行っている鴨野さんが帰ってくるので、また伺うことにする。午後1頃、小学校から電話。この前伺った時に、校長にインタビューしたい旨の手紙を渡していた、その返事。快く取材に応じてもらえることになった。よかった。
午後2時半、再び社会福祉協議会へ行く。しばし待っていたら、鴨野さんが帰ってきた。ヘルパーの現場の話を聞く。まだ経験が浅いとかで遠慮がち。代わりに、今は辞めてしまったが、長年ヘルパーをやられていた草下さんを紹介される。夜、草下さんへ電話。予想通り、同級性の母親だった。今度会うことに。それから、地元の不動産屋、アカイワ宅建センターの武本さんに電話。全く要領を得ないも、とりあえず会うことに。子供の成長記録を撮ってもらっている門さん宅に行き、ビデオテープを回収。少しビデオを見る。小学校の運動会("スポーツワールド"という名前になっている)の映像。昔、私が小学生だった時に躍っていた"西小音頭"がユーロビートにアレンジされていて唖然。
10月26日(金)
2丁目花の会代表、松田さん(ちなみに、この方も同級性の母親だ)宅へ。団地の花壇に植える、葉牡丹などを庭一面に準備中。その様子を撮影。お茶をよばれたら、えらく話が長くなり、あせる。この後、次の撮影があるからだ。慌てて昼ご飯を食べた後、サンヨウショッピングデパートへ出掛ける。理事長の岸田さんのインタビュー。子供が少なくなり、高齢者が増えてきたことから、品揃えや接客、サービスなど、気を遣われている話はすこぶるおもしろかった。
夕方、以前ヘルパーをされていた草下さん宅へ。ヘルパーの目から見た、団地の姿の話は興味深い。本当は、介護を受けている様子なども撮影したいのだが、もう少し時間がかかりそうなので、草下さんのインタビューを撮影させていた
だくことにする。団地の公民館で行っている、デイサービスが近々あるとのことで、撮影を決心。
10月27日(土)
今日は撮影がないので、展覧会に出掛ける。"光の記憶2001"。小野和則さんと井上明彦さんの二人展。井上さんは、京都市立芸術大学助教授で、以前、何度か一緒に美術展に参加していた。岡山で再会出来てよかった。
10月28日(日)
午前中、倉敷ムービーサークルの黒岡洋一さんに会う。この方もアマチュア映像作家で、アニメーションも作っておられる。以前見た作品のすっとぼけたユーモアと味わい深い(褒め言葉としての"下手うま")絵が忘れられない。今回、『ニュータウン物語』の中で、ニュータウン開発のアニメーションを作っていただけないか、という相談だ。電話では「私には無理じゃと思うけど」とおっしゃっていたが、内容を話すと快諾してくださった。なんと、黒岡さん、開発時の団地に行ったことがあるそうだ。これも不思議な縁か。
午後、アカイワ宅建センターの武本さんに電話。今日は偶然にも団地内の中古物件をオープンしている日。現地に出掛ける。あれこれ話をしていて、撮影を切り出すのは大変だったが、この中古の家を案内してもらいながら、不動産という観点から見た、団地の話をしてもらう。おもしろかった。
夜、防犯組合の会議を撮影。あまりおもしろくなかったのだが、組合長の佐々木さんと知り合えたことはよかった。今度じっくり話を聞こうと思う。(ついでながら、防犯組合の方々に顔を覚えてもらったから、今後、怪しまれることもないかなあ、とも思う。)
10月29日(月)
午後1時、山陽西小学校校長室へ出掛ける。宮脇校長のインタビューだ。宮脇校長で11代目、今年春赴任してこられた。撮影を始めようと思ったら、掃除時間になり、音楽がうるさい。しばし待つ間に、放送室を見せてもらう。変わっていない。夏に撮影した同級生の話に必ず出てきた、"西小祭り"のビデオを探し、借りる。宮脇校長の話も興味深かった。とかく、分が悪い学校教育なので、校長先生の話など毛嫌いする人も多いだろうが、逆に、最近、ちゃんとこうした立場の人の話も聞いてないなあ、とも思う。
午後4時、町役場に出掛ける。デイサービスをやられている、理学療法士の三宅さんに会う。デイサービスの様子を撮影させていただけることになった。
(つづく)
追記:なんの予定も立てず、岡山に来て不安も大きかったのだが、あれよあれよと人につながっていき、撮影が進んだ。不思議なもんだ。なかなか、動きのある映像が撮れないのは変わらないかもしれないが、現在のニュータウンの姿のしっぽぐらいは少し見えてきたかもしれない。
●「のるかそるか通信」(17)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
第三期撮影 つづき
10月31日(水)
午前9時、山陽団地2丁目の敬老会"山彦会"が旅行に行く様子を撮影。参加者にカメラを渡し、旅行の様子を撮影してもらう。午前中、団地内を歩きながら、秋らしい風景を撮影。午後2時、昨年までヘルパーをされていた、草下さん宅へ。ヘルパーになる経緯から、現場での苦労話、団地内での関係性などについてお話を伺う。介護から見えたコミュニティーとしてのニュータウンの話は興味深かった。
11月1日(木)
午前9時、山陽西小学校に出かける。今日は、2丁目花の会の方々と、小学生がともに学校の花壇に花を植える日だ。校庭に集まった全児童を撮影しながら、「少なくなったなあ」と思いつつ、「これだけまだいるじゃないか」とも思う。花の会の方々と植えるのは、1・2・3年生。大騒ぎをしながらチューリップの球根、グラジオラスを植えていく。ビデオの前でわーわーやられて、何度も困るも、「子どもらしいなあ」とも思う。テレビと思った子が多かったようで、「いつ放送?」と聞かれ「テレビじゃないよ」と答えると、不思議そうな様子。そりゃそうだ。にぎやかな撮影ではあった。
夜、山陽団地連合町内会の会議を撮影。事務的な話が多く、あまりおもしろくない。まあ、各丁目の町内会長に知ってもらえたのでよしとしよう。その後、夜のパトロール(後述)に付き合い撮影。
11月2日(金)
午前中、山陽西小学校初代校長・広畑一男先生(春にインタビューを撮影。現在、画家として活躍中)の個展を見に、牛窓町に出かける。そこで小学校の担任の先生に会い、緊張する。(どうもこういうのは苦手だ)広畑先生の水彩画は素晴らしい。『ニュータウン物語』のタイトルバックを描いてもらうことを考える。
夕方、勝田さん宅へ。夏の撮影でもおじゃまさせてもらった。同級生の母親が、団地内でかれこれ20年硬筆習字を教えている。その教室の様子を撮影。低学年の子供から、高校生まで、指導を受けて帰っていく。今や母親となった同級生も子供を連れてきており、こちらとしてはどんな顔をしていいやら。淡々と撮影。少し、勝田さんにインタビュー。
11月3日(土)
朝から撮影予定だった、2丁目の花壇植え替えが、雨天により中止。1日の延期でほっとする。(1週間延びれば、東京に帰ってしまい、いないところだった)午後1時、山陽団地防犯組合組合長・佐々木さんにインタビュー。団地内に消防団がないことから作られた自主組織が、防犯組合。昨年、岡山のマスコミを賑わした、"山陽団地大量パンク事件"の詳細と、その後の対応などを聞く。パンク事件とは、1晩に150台もの車が何者かにパンクさせられた事件だ。(1日のパトロールは、この事件の余波だ)他にも変質者騒ぎなどがあった。いつしか話は、子供たちの環境へ。
夜、"パーソナルビジョン2001"岡山上映の打ち上げに乱入。山形映画祭でも上映された『MAYA』が、今日、岡山で上映されたのだが、撮影のため見ることが出来なかった。それなのに、打ち上げに乱入したのは、小川孝雄さんをはじめ、岡山映画祭のスタッフが多く集まっているため。結局、12時頃まで飲む。(と言っても、私はあまり酒が飲めない)タクシーで帰宅、4000円なり。
11月4日(日)
午前8時、2丁目の花壇植え替えを撮影。葉牡丹がきれい。私の両親世代の人達が、せっせと汗を流す。最後にみんなでお茶を飲んでいる光景を撮りながら、「いいなあ」と思った。
11時半、すぐさま、桜ヶ丘野球場へ移動。今日は、山陽団地の野球大会。参加者は少なかった。これも、高齢化しつつある結果らしい。野球を映そうとするも、あまりうまくいかない。難波さんに野球大会の変遷を少し聞いて撮影。
午後1時半、一旦家に帰ってから、7丁目の秋祭りへ。7丁目は5階建ての県営住宅が建ち並ぶ地区。若い家族が多く、子供が一番多い地区でもある。以前は入居条件に年齢制限があったため、高齢者はいなかったが、年齢制限がなくなったため、高齢者の姿も目に付く。昼ご飯を食べていなかったので、出店(7丁目の人たちによる)で、うどんを食べる。祭りの最後、集会所の上から"餅投げ"。老若男女大騒ぎ。
11月5日(月)
午前10時より、山陽団地公民館にてデイケアサービスを撮影。デイケアサービスは、介護保険を受けるほど障害が重くない高齢者やリハビリ中の方々を対象に行われている。そんなせいか、皆さん、とても元気そう。家に閉じこもりがちにならないよう、みんなでわいわいやるのが大きな目的だ。ゲームを皆さんで行う。理学療法士の三宅さんが進めているおかげで、内容もよく考えてあって、感心。途中、ゲームに参加し、緊張。
11月6日(火)
帰京。
追記:第三期撮影は、短い期間ながら予想を越えた展開をみせた。動きのある場面も撮影することが出来た。しかしながら、以前からの課題がますますはっきりしてきたとも言える。これまででお気づきのように、あまり、日常が撮れていない、ということである。冬の第四期撮影に向けて、考えていこう。
●「のるかそるか通信」(18)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
瞬発力
さて、第三期撮影も終わり、ほっと一息。そこで、少しこれまでのことを振り返ってみたいと思う。 今回『ニュータウン物語』の撮影をしながら、「ドキュメンタリーっていうのは、瞬発力と持久力の両方が必要だなあ」とつくづく思った。マラソンランナーで言うなら、高橋尚子のような走りが望ましいのかもしれない。瞬発力、というのは、ドキュメンタリー特有の「その場の対応」ということがもちろんあるのだけれど、少し違った角度から具体的に書いてみよう。
そもそも、『ニュータウン物語』の制作を始めたのも、瞬発力と持久力の微妙なバランスだったのかもしれない。以前にも書いた通り、この作品は1995年頃から考え始めたのだが、石にかじりついてでも、と思っていたわけでもない。『科学者として』の劇場公開が一段落し、さすがに次の作品を作りたいと思い始めた頃、岡山映画祭に参加する事になり、みるみる『ニュータウン物語』の構想が頭を駆け巡り始めた。
そしてあまり先のことを考えず、企画書を書き、映画祭で「次は岡山で『ニュータウン物語』を作ります」と昨年冬宣言してしまったわけだ。ここでは、瞬発力が必要だった。(ちなみに、この連載も、編集長の依頼から、「まあ、何とかなるか」という瞬発力から始まったはのではあるが。)
この夏の撮影で感じた瞬発力についても書いてみよう。夏の撮影では、主に同級生のインタビューを中心に撮影を進めた。電話連絡をし、家にお邪魔するわけだが、当然のごとく、「いいシーンを撮りたい」と常に思っているわけだ。しかしながら、どこで撮影するか、家の全ての部屋を見て、撮影場所を検討することは難しい。逆に言えば、家の隅々を知っているような深い関係でもなく、言わば通り過ぎるような関係性の中から今回の撮影が進んでいる、とも言える。今回はそれでいい、と思っている。
そうすると、十数年ぶりに会う私は、相手にとっては乱入者・客人であり、通される部屋も自ずと決まってくる。そこで、通された部屋を私のほうでは、「ここで撮影してもいいんだな」と勝手に解釈し、雑談をしながら、頭の中では「どこに座ってもらって、どういうふうにカメラを向けようか」と急回転しているわけだ。
さらに、撮影は相手の時間を奪うことでもあるから、いつまでもだらだら雑談をしているわけにもいかず、お互い「そろそろ撮影を始めようか」という頃合を見計らって、撮影の準備にかかることになる。その時に、急回転していた頭は、瞬発力で回答を出さねばならない。
重要なことは次の2点。光はどこから入っているか、背景はどうか、である。当然のことながら、光の方向にカメラを向けると逆光になる。それはできるだけ避けたい。また、何もない壁を前にしゃべってもらっても、画面としては寂しくなる。些細なことだが、部屋の様子というのは、その人(あるいはその家)の生活感がにじみ出るものでもあるから、こちらとしては、インタビューといえども、そういうニュアンスを取り込みたいと考えるわけだ。
ここでちょっとした攻防がある。開けっぴろげな人ならいいが、カメラを向け始めると、背景を気にする人も出てくる。こちらのスケベ心を読まれてしまっているわけだ。何とかなだめすかしながらカメラを向ける。やっと決めた撮影ポジションが「正解」なのかは、永遠の謎みたいなもので、その場での瞬発力を自分で信用するしかない。
撮影を始める前の瞬発力というのもある。全く1人で撮影を進める、ということは、相手に連絡をし、撮影日時を自分で調節していく、ということでもある。その際に、無理なスケジュールにしないようにしている。これは、時間効率を考えれば、贅沢な撮影ということになるが、カメラが回っていない、雑談を含めた余白も大切にしたいからだ。
次の撮影が詰まっているような場合、どこか落ち着かない様子は相手にも伝染してしまう。そこでゆったりとしたスケジュールを組むことになるのだが、こちらとて、いつでもいい、というわけにはいかない。自分の都合と相手の都合をすり合わせながら、着地点を見つけ、撮影日時を決める瞬発力が必要になる。
そうやって決めた撮影であっても、相手の都合が悪くなることもある。そんな時、「約束が違うじゃないか!」と怒ってみてもろくなことはない。ぐっとこらえて、「分かりました。で、次はいつ都合がいいですか。」と切り替える瞬発力が必要だ。また、撮影場所もこちらの思惑通りにいくとは限らない。相手が指定する場合もある。そういう時も、その場の瞬発力で判断するしかない。
どれも些細なことのようだけど、そうした瞬発力の積み重ねで撮影は進んでいく。こうしたやり取りは、面倒くさいことかもしれないけれど、それがまたドキュメンタリーを作る楽しさでもある。よくドキュメンタリーにおける人間関係が話題になるけれど、抽象論ではなく、とても小さな具体性の中にも、人間関係がある。うまくいく時もあれば、うまくいかない時もある。それは実人生と同じかも知れない。 (つづく)
2002年
●「のるかそるか通信」(19)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
持続力
この号が届く頃は、2002年の新年ということになるのであろう。「新年の計は元旦にあり」なんていうことを言われるが、私は『ニュータウン物語』の第四期撮影を行っているはずだ。
前回"瞬発力"について書いたので、今回は"持続力"について書いてみたい。
今までに書いてこなかったことが一つある。私の大学時代の後輩に、現在、脚本家・映像作家として活躍している、井土紀州がいる。今となっては笑い話だが、彼が学生時代に作った『第一アパート』に、私は役者として出演している。彼が中上健次に傾倒していたことや
(それが多分、『路地へ 中上健次の残したフィルム』の出演につながるのだろう)
、自分が育った街へのこだわりを語るのを聞きながら、「俺には街へのこだわりなんてないなあ」と思いつつ、「自分の中途半端さと"ニュータウン"育ちはどこか関係しているのかも。」とも思ったりしていた。この大学時代、初めて"ニュータウン"という街の特性を考え始めたと思う。
こんな風に、『ニュータウン物語』を作り始めるきっかけは、随分前からその芽はあった。我ながらよくも持続していたもんだ、と思ったりするのだが、「これを映画にしなければ!」と意気込んでいたわけでもない。映画作りのモチーフは、常にくすぶっているものだ。
さて、実際撮影を始めてみても、持続力が必要となってくる。ドキュメンタリーと言っても色々で、短期間に一気に撮ったもののほうが勢いがあっておもしろいこともあるし、長期間撮ったからこそ、見えてくることもある。だから、「ドキュメンタリーの製作に持続力が必要だ」とは必ずしも言えない、と思う。
長期間撮ったって、つまらないものはつまらない。ただ私の場合は、始めから1年間撮ろう、と決めていたので、少なくとも1年間、興味が持続しないことには、作品製作もあったものではない。変な話だが、途中で「ああ、興味がなくなった」と思ってしまっては、そこで製作は終わりである。この連載タイトル、「のるかそるか通信」とは、編集長がつけたタイトルだが、言いえて妙。幸い今のところ、興味は持続している。
さらに付け加えると、持続力はピンと張ったままでは続かない。考えてもみて欲しい。いくら撮影とは言っても、ずーっと撮影をしているわけではない。当たり前の話だが、カメラが回っていない時間のほうがずっと長いわけだ。そんな時、どう過ごしているのか、というのは、意外に重要だ。
私が好きな写真がある。小川紳介監督の『映画を穫る』
(編集:山根貞男、筑摩書房) の「春の章」の後に続く写真の中に"ねそべる"というキャプションをつけて、小川さんが寝転んでいる姿を写した写真が数枚載っている。映画監督というのは実に不思議なもので、「どう撮ったか」「何を撮ったか」を語ると、読んだ側は、つい、映画製作に打ち込む姿を想像するわけだが、実際には撮影をしていない時間も長いのである。この写真は、カメラに向かっていない監督の日常をふっとうかがわせてくれ、とても好きだ。持続力は、映画に集中する"緊張"と、映画を離れる"弛緩"をより合わせて生まれるものかもしれない。
私の場合は、あまり誉められたもんではないなあ、と思う。山陽団地に帰ると、出かける足もないことから、あまり出かけることもない。空いた時間、なぜだが、無性に日本のミステリー小説を読みたくなってくる。心理分析なんて出来ないのでよく分からないが、春からの撮影で随分ミステリー小説を読んだ。
持続力と言えば、撮影前後の機材チェックも含まれるだろう。私が使っているカメラは、最も初期のデジタルビデオなので、バッテリーが長時間持たない。撮影から帰ってくれば、少し素材を見てから、バッテリーの充電をしないといけない。「後でいいか」と思うと面倒くさくなるので、出来るだけすぐに充電をし、素材を整理し、次の撮影用のビデオテープをセットする。マイクのチェックも欠かせない。当たり前の話と言えば当たり前。だが、元来不精者の私にとっては、少しでも「まあいいか」と思ってしまうと、とんでもない失敗につながりそうで、最低限の準備を持続させる必要がある。
そんなこんなで、『ニュータウン物語』の完成までは、まだまだ時間がかかる。
2002年を始めるにあたり、今一度"持続力"を噛み締めながら、少しでも前に行こう、と思う今日この頃である。
●「のるかそるか通信」(20)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
エアーポケットにはまる
前号NEOの配信が、1月15日になったため、一部齟齬をきたしたことをご了承ください。
さて、年末年始に第四期撮影を終えたところである。おおむね目論見通りの撮影が出来たと思うのだが、どうしたものか、年始から調子が悪い。前号で「持続力」について書いたと思ったら、少し時間が経ってみれば、持続力がぷっつりととぎれそうな危うさを感じてしまった年始でもあった。我ながら、連載を続けながら、「矛盾しているなあ」と思う。
何があったというわけではない。今後続けていく上での大きなトラブルを抱えた、ということもない。原因を色々考えてみるのだが、これといって思い当たる節もない。むしろ、今後の展開を考えた時に、新しい展開が芽生えた年末年始だったとも言えるぐらいだ。
強いてあげれば、自分が勝手にプレッシャーを感じた、ということかもしれない。例えば、諸々の事情から、『ニュータウン物語』の完成を11月頃と決めた。今から考えてもかなり先のように思えるが、はたしてたどり着けるのか、漠然
とした不安が頭をかすめる。同時に、折り返し地点を過ぎて、これからいよいよ最終コーナーに突入する撮影を前にして、「ああ、今まで撮ったもので作品になるんだろうか」という、これまた漠然とした不安にも襲われる。良くも悪くも、1人で製作していると、途中経過の手ごたえ・反応を自分で確認するしかなく、行方を見失うこともある。全く気が小さいなあ、と思う。
もう一つ、考えられる原因は、とかく帰し方行く末を考えてしまう、年末年始特有の雰囲気のせいかもしれない。今回、年末年始を実家で過ごしたわけだが、私が覚えている限りでは、正月を実家で迎えたのは10年ぶりだったと思う。そんなシチュエーションが見えない化学反応を起こしてしまったのかもしれない。年末に突入する前に、今まで撮った映像をゆっくり見直す時間を持てた。自分では「おもしろい」と思いながらも、どこかで、「後ろ向きなんじゃないの」という声がする。
実は、今まで散々偉そうなことを書いてきたが、『ニュータウン物語』の製作を始めるにあたって、自分が育った街を題材にすることに、一抹の不安を感じていた。特に、現在ニュータウンが抱える問題をジャーナリスティックに切り取るというよりは、ニュータウンの歩みに重点を置いていたから、どうしても「私の歩み」が重なり、良くも悪くも自分の過去を振り返る要素も含まれる。年末に33歳になり、多少歳をとったとは言え、自分の過去を振り返る歳でもないだろう。自分が育った街のことを考えながら、「後ろ向きのことをしているのではないか」という不安が頭をもたげる。
こんな状態のままでは先行き暗いなあ、と思いながら、脱出の兆しが見えてきた。これまた製作のこととは直接関係がない。あるアーティストの展覧会を見に行って、大きなエネルギーをもらった事と、ドキュメンタリーの意味を考えることが出来たからだ。やらなければならないことが山のようにある。気持ちの上で、行きつ戻りつしながらも、何とかこれらの山を越えていける気がしてきた。ただ単に、目の前の山を見たくなかっただけなのかなあ、とも思う今日この頃である。
●「のるかそるか通信」(21)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
お金のこと(1)
前回はなんだかめいった話を書いてしまい、読者の方々に不快な思いをさせてしまったかもしれない。少々反省。
さて、前回、「山」と漠然としたことを書いたが、その一つを今回は書いてみよう。それはお金にまつわる話である。
『ニュータウン物語』の製作を始めるにあたって、製作資金の目処は全くなかった。スポンサーをつけることも、どこかから協賛金を募ることも、カンパを集めることもなく見切り発車である。その努力をすべきだったとも思うのだが、お金を集める時間と労力がなくスタートさせた。逆に言えば、その自信がなかっただけだとも言える。
確かにデジタルビデオを自分で回す撮影は、製作実費としてはそれほどかからない。しかしながら、人間が生きていくためには、お金がかかる。まあ、まがりなりにも生きているのだから、結果としてどうにかなっているのだが、どうにかしている実態はあまりにも情けなく、かつ生々しく、当分書けそうにない。
『科学者として』撮影中は、ビルの清掃とレンタルビデオ屋の2つのアルバイトをしていた。レンタルビデオ屋は深夜勤務だった。「楽そうでいいな」と始めたレンタルビデオ屋のバイトだったが、そこは日本でも1・2を争う売上を誇る店だったため、想像以上の激務だった。30歳を目前にして、「一体何をやってるんだろうか」と悶々としつつ、土曜日を中心に撮影を続けていた。唯一の救いと言えば、何かと映画の話をしながらアルバイトをできたことだろうか。その時の同僚、岡本さんが『科学者として』の音楽を作ってくれた。
『科学者として』の完成前に、両方のアルバイトは辞めた。せめて、編集・仕上げには集中したかったこともあるし、いい加減くたびれていたのが本音だ。
その後、恒常的なアルバイト生活には復帰していない。
『ニュータウン物語』の撮影を続けながら、さすがに情勢は厳しくなる。何とかしなければ、と考えた末、芸術文化振興基金の助成申請に応募することを考えた。芸術文化振興基金は、文化庁の外郭団体であり、国の補助金と企業からの寄付で運営されている。ご存知の方も多いと思うが、劇映画も含め、多くの映画の製作に助成をしてきている。昨年秋頃問い合わせをしてみた。好都合なことに、来年度から「地域の活性化」を促す映画製作への助成が新しい部門として加わった。『ニュータウン物語』も大きく言えば、これに該当するのではないか、と勝手に考えた。
早速、資料を取り寄せ、応募書類に目を通す。むむむ。幾多のハードルがあることが判明する。
まず、16mmフィルム以上、とある。はなから完成がビデオでは申し込めない、ということだ。しかしながら、今まで助成された作品を見てみると、ビデオで撮影し、フィルムにキネコした作品も含まれている。キネコする意味がどのへんにあるか分からずとも、キネコし、16mmフィルム仕上げにすることを決心する。
申請するには、会計明瞭な会社、あるいは団体でなければいけない。あいにく私が名乗ってきた、『科学者として』上映委員会は、どうもこれには当てはまりそうにない。うーん、困った。そこでひらめいたのが本誌編集長の存在である。
実は、私と本誌編集長とは、約8年の付き合いになる。いや、回りくどい言い方はよそう。私は大学卒業と同時に、「小川紳介と小川プロダクション」全作品上映を手伝うことになった。その流れで、本誌編集長が代表として始めた、ネットワーク・フィルムズの社員になる。NHKの番組作りなどを経験させてもらいながらも、私のわがままと諸般の事情で、1年ぐらいで退社してしまう。
当時の気持ちは色々複雑なものがあったが、辞めるにあたって「いつか自分の"作品"と言えるようなものを持って、また再会できれば」と思っていた。『科学者として』を完成させる意地みたいなものの背景に、こうした気持ちがあったのも事実だ。
古巣帰り、というわけではないのだが、助成に応募するためには私も腹をくくって、本誌編集長に事情を説明する。言わば、プロデューサーという立場で今後関わってもらえないか、という相談だ。そういう厚かましい相談ができたのも、この連載が少なからず影響していると思う。公私混同と言われれば、甘んじて受けよう。
とは言え、今まで撮影したものを全く見せずに、名義だけ借りるようなやり方はしたくない。おずおずと6時間分のラッシュビデオを送った。
結論だけ書けば、本誌編集長の会社から、助成申請することになった。しかしながら、まだまだ幾多のハードルが待ち受けていた...。 (続く)
●「のるかそるか通信」(22)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
お金のこと(2)
助成申請に応募するためには、当たり前の話であるが、応募書類に必要事項を記載しなければならない。頭を抱えてしまったのは、予算を書き込まなければいけない点だ。普通は"製作デスク"なんて担当者がいて、金銭の計算をしてくれたりするのだろうが、助成申請に応募することを決めたのは私であり、製作を手助けしてくれる者もいない。自分で書くしかなさそうだ。
どういう項目をどのように書けばいいのかさっぱりわからない。以前、NHKの番組に関わったときは、名目だけ「製作」なんて言っていたが、金銭計算はやらなかった。そもそも「監督」としての私の人件費なんてどうやって計算すればいいのだ。つてをたよりに、以前、助成申請に応募し、助成を受けた某プロダクションにお邪魔して、こっそり申請書を見せてもらった。なるほど、こういうふうに書くものなのか、と納得。おまけに、きちんとワープロ打ちされた書類は、すこぶる見栄えも良い。
おおよその予算の見当がつき始めるも、「スタッフ人件費」をどう書けばいいのか、まだ悩んでいた。そこで、多くの業界人が参考にしているという、映像文化製作者連盟から資料を取り寄せる。監督やプロデューサーからカメラマン、はては特殊撮影にかかる機材費まで、"標準的"な金額の目安が書いてある。そこで計算してみると、べらぼうな金額になる。
多分、実際は、監督の実績などによって大きく変わってくると思うのだが、こればっかりはよくわからない。なにせいわゆる「業界」と呼ばれるところでの実績など皆無に等しい。まあ、悩んでいても始まらない。どかんと大きな金額を書き込んだ。
提出書類の後ろのほうを見てみると、上映計画についても書かなければいけない。そんなことを言われても、自主製作で始まった作品だ。完成の目処すらたたないのに、上映計画が立つわけがない(注:今回の募集は来年度のものなので、いくらなんでも来年度中、つまり2003年3月までには完成する予定だから応募を考えたのだ)。
ふっと頭に浮かんだのは、岡山映画祭のことだった。2000年の岡山映画祭で『ニュータウン物語』の製作発表を行った。今年、2002年も映画祭をやりたい、と言っていたし、事実、「完成したら上映を」という話もあった。とは言っても、市民手作りの映画祭。開催予定などまだまだたっていない。
うそではないが、100%真実でもない、という玉虫色の状態ながら、「2002年11月開催予定の岡山映画祭2002で上映予定」と書き込んだ。これで、完成予定が決まってしまった。それ以外の上映計画は、正直言って今からたたない。せいぜい、「自主上映予定」と謙虚に書き込むのが精一杯だった。
こんな調子で書き込んでいったのだが、ここは見栄えを考えてワープロ打ちにしたいところ。書類作成には全く疎い私は、「こうなったら切り貼りだ!」と覚悟を決め、打ち出したものを、せっせと応募用紙枠内に切り貼りしていった。学生時代、写植の切り貼りをやっていたことを思い出した。
「これで書類は完成だ」と思っていたら、シノプシスを添付すること、と書いてある。ここまできたら、とことんやるしかない。まがりなりにも、今まで撮影を続けてきたのだ。少しでも雰囲気が伝わるように、画像もつけることにする。だが、パソコンに画像を取り込む、今や誰でもやっているようなことが、私は出来ない。「またまた切り貼りだ!」とばかり、ビデオプリンターで焼き付けた画像をカラーコピーし、インタビュー内容を加えて切り貼りをする。こうしてカラーのシノプシスが出来上がった。
ある方のアドバイスで、作品を紹介するような資料があったほうがいい、と聞いた。今まで、『ニュータウン物語』が記事になったことなどない(地元紙に3度も取材を受けながら、未だ記事にならず)。ならば「NEO」の「のるかそるか通信」の登場だ。審査上、まずいことも随分書いてきたような気もする。それで落とされたとしても、それはそれでしょうがない。まがりなりにも、公にしてきた文章だ。自分の気持ちも素直に書いてきた。単なる編集長への私信から始まったこの連載を打ち出してみると、意外に分厚くなった。
なんだかんだと手間ひまかけて書類を作成し、1月28日、無事に書類を提出することが出来た。結果発表はまだ先だが、落ちてしまえば、提出書類もただの紙くず。それでも、いろんなことを整理するいい機会にはなった、と思う。
さて、どんな結果を皆さんにご報告できるでしょうか。
●「のるかそるか通信」(23)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
「山」は動き出した、のか?(1)
かなり前のことになるので、忘れた方も多いと思うが、『ニュータウン物語』の舞台である山陽団地で、「ニュータウン ベッドタウン アートタウン」展という美術展を企画していることを書いた。その後、ほとんど動きがなかったのだが、少しずつ動き始めたので、このことを書きたいと思う。
そもそもの発端は、「過去・現在・未来を描くドキュメンタリー」という企画意図から始まった。では、「未来」をどう描くか考えていたときに、漠然と「山陽団地で現代美術展をやって、それを写そう」と考えた。
ここで少し横道。分かる人には分かる、分からない人には分からないのが現代美術の世界だったりするのだが、私が現代美術と関わりを持ってきたことは以前にも書いた。私の場合、特に「街に出て行くアート」と関わってきた。「街に出て行くアート」というのは、美術館などの「制度」に対する反発や、アートを積極的に街に届ける行為でもあって、現代美術の大きな潮流をなしてきた。
特に近年は「コミュニケーション型アート」とも言うべき、「作者−観客」という閉じた関係ではなく、観客と作者が共同作業をしながら作品を作り、出来上がった「作品」の良し悪しだけではなく、その「行為」自体を評価していく動きも顕著だ。
私は美術展に参加しながら、アート、あるいはアーティストの力によって、街が今まで見せていなかった新しい表情を見せることを体験してきた。「新しい」と言っても、奇抜なものではなく、実はひっそりと隠れていて、普段なかなか気付くことのないものだったりする。「未来」の姿ではないかもしれないが、ニュータウンの別の表情を、アートの力を借りて見てみたい、その姿を自分のドキュメンタリーに取り込みたい、と思っていた。
撮影を続けながら、いつしか山陽団地という街を揺り動かしたくなってきた。何かを投げ込みたい、と強く思うようになっていた。「街を舞台にした美術展をやりたい」という漠然とした当初の考えが、ますます輪郭をはっきりさせてきていた。
とは言いながら、私とて美術界でのスキルは乏しい。そこで、相談に乗ってもらっていたのが真部剛一君、というアーティストだ。幸い、彼も美術展の舞台として山陽団地に興味を持ってくれ、「やりましょう」ということになった。
また、彼はアーティストであると同時に、昨秋私も映像作家として参加した、"奉還町アート商店街"の実行委員の一人として、美術展を成功させた人でもある。そこで培ったノウハウを、別の場所でも試してみたい、という彼の考えもあった。
思惑は一致したものの、私のドキュメンタリーとは別に、美術展は美術展として独立したものとして成立させる必要がある。だが、私は普段は東京、彼は岡山市在住。山陽団地の住民ではない。美術展を成功させるためには、地元の人を巻き込んだ実行委員会を作らなければならない。では、「何をやるか」を説明できなければ、とても協力など仰げない。たたき台作りが始まった。
そんな頃出会った本が、「団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ」(みかんぐみ著・INAX出版)。"みかんぐみ"という名前は何やらふざけた名前だが、新進の建築家集団である。現在ある中・高層住宅に様々な意匠を施して、もっと楽しい居住空間を作り出す、グラフィックもふんだんに盛り込まれたアイディア集だ。同時に、古くなったからと言って、やたらと「スクラップ&ビルド」を繰り返す建築に対する批判もきっちり含まれている。
山陽団地は一戸建てと5階・2階建ての県営住宅からなる団地。私は、一戸建てで育ったので県営住宅での生活は、正直分からないことが多い。ただ、撮影を続けながら、どうしてもひっかかるものがあった。
実は、6丁目・7丁目にある、2階建ての県営住宅は、部屋が狭いこともあって人気がなく、入居者が少なく、「ゴーストタウン」のような趣さえ漂う一角すらある。かつて同級生も数多く住んでいた頃とは隔世の感がある。このままいくと、取り壊しを待つのは目に見えている。「何か活用できないかな」と思っていた。
「団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ」の中に、古くなった団地をアトリエとして活用するアイディアが載っていた。そのグラフィックを見ながら、「これだ!」と思わず叫んでいた。
美術展の企画と、このアイディアがスパークし、"アトリエ団地"としてイメージが膨らんだ。こうして、アーティストに実際に団地に住んでもらいながら製作を進める、美術展の骨格が固まった。さりとてこれはただの机上のプラン。実現へ向けては幾重の山が立ちはだかっている‥。(つづく)
○「のるかそるか通信」(24)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
「山」は動き出した、のか?(2)
机上のプランである「ニュータウン ベッドタウン アートタウン」展であるが、実現へ向けて少しずつ動き始める。
まず、何より頭を抱えるのは、どうやって実行委員会を作るか、だ。興味を持ってくれそうな山陽団地在住者に声をかけてみた。2月20日、慌しく岡山に行き真部君ともども喫茶店でお会いする。たたき台としての「企画書」が初めて姿を表し、この企画が生まれた経緯を説明する。お会いした方々は協力していただけることにはなったが、仕事もあるから、この企画に多くの時間を割くのは難しいかもしれない。"実行委員会"には程遠いかもしれないが、山陽団地在住者が加わる形としては第一歩だ。
翌21日、7丁目町内会長・岡本豊さんにお会いすることが出来た。7丁目(この地区は5階建てと2階建ての県営住宅のみで構成されている)の現状を伺いながら、一戸建てとはまた違った県営住宅ならではの問題などを率直に語ってくださった。例えば、ゴミを散らかす人が多い、というようなことだ。そんな話を聞きながら、企画書を手渡す。美術展の中心企画である"アトリエ団地"のプランをお話する。7丁目の2階建ての県営住宅にアーティストが入れるかどうかが、一番難しいと考えていた。
少しややこしくなるが、県営住宅のことに触れておこう。県営住宅という名前がつくだけあって、建設は岡山県が行った。実際の入居募集・維持管理は、岡山県住宅供給公社が行っている。この住宅供給公社から県営住宅の使用許可が下りなければ、当然、"アトリエ団地"というプランは成立しない。
かと言って、私のような者が突然そういう話を切り出してみたところで、到底難しそうだ。そういう「政治的判断」があって岡本さんに話を持っていった、ということもあるのだが、何より地元の方がこの企画にどういう反応を示してくれるのか、そこが一番気になった点でもある。どういうことになろうと、この種の企画は、地元の方々のバックアップがなければ成立もおぼつかない。
岡本さんは開口一番「こりゃー、ええ」(岡山弁です)、という反応。「私はね、一つでも多く住民が交流できる機会を苦心してきた」とおっしゃる。「こういう企画はその一つになるね」とも。また、「製作過程も見せてもらえると、子ども達にもええんじゃがな」とおっしゃるので、すかさず私は「県営住宅に滞在して製作するということは、その過程を全てオープンにするということです」と説明する。
また、今回の企画のヒントになった、「団地再生計画/みかんぐみのリノベーションカタログ」をお見せすると目を輝かせて、「私もこういうことがやりたかったんじゃ」と高揚して語られる。「この美術展に、できれば"みかんぐみ"の方々もお呼びして、皆さんとアイディアを出し合っていただければと考えているんです」と私。すっかり意気投合してしまった。「全面的にやらせてもらいます。住宅供給公社には私から話をします」とまでおっしゃってくださった。
聞けば、岡本さんは、住宅供給公社から現地での管理を委託されていて、今までも様々なことで公社と交渉をしてきたそうだ。大変心強い。後日聞いた話では、「使えると思って計画を進めてください」とのことだった。まだ100%許可が出たわけではないが、最も難しいと思っていた部分があっさりと越えられそうだ。岡本さんと出会えたのも、『ニュータウン物語』の撮影過程でお互い顔を知った関係があったからだ。
さて次はお金だ。美術展のお金をどう確保するか、またまた頭が痛い。幸い真部君は、アートマネージメントも勉強してきたから、それなりのやり方を考えているらしい。当面、岡山県の芸術祭参加企画として、助成申請する方向で進んでいる(それでもまだまだ足りないのだが)。
同時に、真部君が"アトリエ団地"に参加してくれそうなアーティストに声をかけ始めた。現地の人々とコミュニケーションしながら作品製作を行うには、そういう指向性を持ったアーティストを集めなければならない。また、山陽団地という場所に興味を持ってくれることも大切だ。徐々に顔ぶれが揃い始めている。
先日、みかんぐみの方々に手紙を出し、直接お会いすることができた。率直に意見交換しながら、参加していただける方向だけは確認できたが、東京から岡山への招聘となると予算の問題が大きい。この美術展のモチベーションでもあるのだから、そこはなんとかしたい、と痛切に思う。
美術展の中に、他に2つの企画があるのだが、それらはまたおいおい書くことにしよう。美術展のスタートは8月、展示は9月を予定。もう、半年を切っている。ぎりぎりの準備期間だ。そして、このスケジュールは、11月完成予定の『ニュータウン物語』にとってもぎりぎりだ。美術展までに作品の構成が決まっていなければ、完成は間に合わない。胃が痛くなる。ともかくも動き出した。
ドキュメンタリーの話というより、美術の話になってしまった。が、これも『ニュータウン物語』をめぐる演出の一つとしてお読みいただければ幸いです。
○「のるかそるか通信」(25)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
距離感
この号が届く頃は、再び岡山で撮影と美術展の準備を行っているはすだ。今回は、1年間撮影を続けながら感じてきたことを少し書いておきたい。「距離感」というのは、物理的な距離と心理的な距離のことだ。
普段暮らす東京と撮影を続けている岡山は、新幹線で約4時間。飛行機のほうが早いのは当たり前だが、山陽団地と空港の交通の便が悪いこともあって、もっぱら新幹線を利用している。4時間という時間が長いのか、短いのか、人それぞれだと思うが、なんとなく頭が切り替わる時間として大変貴重な時間だ。
普段それほど忙しくしているわけではないが、東京は東京でやらなければならないことがあり、撮影に出かける前に、あたふたと用事をすませ岡山に行くことになる。手帳とにらめっこしながら、スケジュールを調節しながら、綱渡りのように岡山行きを繰り返してきた。
撮影を続けている山陽団地での私の交通手段は、もっぱら電動付き自転車。歩くことも多い。団地の中を回りながら、こんなにゆっくりと団地全体を眺めたことは、今までなかったとふと気付く。それほど大きな団地ではないから、ぐるっと回ることもそんなに難しくない。『ニュータウン物語』で描こうとしている事柄と、こうした移動速度がちょうどあっているような気がしている。
電車も通っていない郊外生活と言えば、交通手段は車。車庫がない家は、まず、皆無だろう。車に乗れば、"ドア・トゥー・ドア"、点と点の移動。もしかすると、意外に団地の様子をゆっくり眺めるなんてことは、住んでいる人にとっては少ないかもしれない。
もっとも、最近はウォーキングをする人も増えているから、以前とは違ってきているようではあるが。昔住んでいた頃に感じていた街の大きさと、今感じる街の大きさとは随分違っている。以前より、小さく感じられる。そこには、東京での生活が少なからず影響しているはずだ。
美術展を計画していることを書いた。準備を進めながら、以前からくすぶっていた感情が大きくなってくるのを感じていた。はたして、私に、山陽団地に「介入」する資格があるのか、と。美術展とは言っても、内実は様々で、広告業界的発想で企画されているものも多々ある、と聞く。時には、「地域おこし」に名を借りて、「開発業者」型のものまで出始めているらしい。では、私の発想は、これらと違うのか否か。
もちろん、私の場合は、なんの見返りもないから、金銭面では違いがあるだろう。だが、山陽団地住民ではなく、かつ、東京在住の人間としては、地域にとって「外部」であることには変わりがない。「外部の人間が、わけわからんことするな」と言われれば、はたしてうまく答えられるだろうか。
こうしたことは、今になって突然出てきたことではない。『ニュータウン物語』の撮影を続けながら、次第に居心地の悪さを感じ始めていたのだ。いろんな人にインタビューをしながら、「でも、結局君は、この街から出て行ったんだろ」と(直接言われたことはないが)言われているような気がしてならなかった。全く今まで縁のなかった土地であれば、私のほうももっと違った気持ちでいられたかもしれない。
撮影を始めた当初は、曖昧だったのだが、今ははっきりしていることがある。山陽団地は私が帰る場所ではない、ということだ。多くの方にインタビューをさせていただいたが、その内容が底の浅いものだとすれば、それは多分、私の気持ちの反映であるはずだ。これから、ラストスパートに向かって意識していかなければならないのは、こうした気持ちの流れを作品に反映していくことなのだろう。 (つづく)
○「のるかそるか通信」(26)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
●方言について
「ニュータウン物語」は、岡山弁で語られる。岡山で撮影しているのだから当たり前と言えば当たり前。では、岡山弁とはどんな方言だろうか。
東京で岡山弁の話をすると、岡山では関西弁に似た方言を使っていると思われることが多いのだが、さにあらず。関西独特のイントネーションは、兵庫県あたりまでで、兵庫と岡山ではかなり違っている。岡山の方言は、語尾が「〜じゃ」となることが特徴で、映画でいえば「仁義なき戦い」で有名な広島弁にむしろ近い。最近話題になった岡山弁としては、日本ホラー小説大賞を受賞した岩井志麻子の「ぼっけえ、きょうてえ」が有名か。もっとも、この小説自体、明治時代の設定なので、今の岡山では使う人は少ないかもしれない。
なぜ、いきなり方言のことを書いたかと言えば、多くの人にインタビューをしてきたが、インタビュアーである私は、意識的に岡山弁を使ってきたからだ。当然、答える側も岡山弁になる。このことが果たして正しかったのか間違いだったのかは、まだわからない。
岡山出身だから岡山弁というのは自然に思えるかもしれないが、必ずしもそうではない。東京で生活して長いせいもあってか、岡山に来てからしばらくは、岡山弁がぎすぎす聞こえる。2、3日で慣れるのだが、インタビューはまた別物だ。自ら育った街であることを強調する表現として、私は岡山弁を使うことを選んだと言える。
今まで日本の多くのドキュメンタリーで、豊かな方言を聞くことが出来るが、どうしても解けない疑問がある。それは、小川プロのドキュメンタリーにおける小川紳介の言葉である。特に、山形に行ってからだ。少しでも地方と呼ばれる土地に滞在し、地元の人と交流したことがある人なら経験したことがあると思うが、何日かすると自分の言葉が少しずつ変化する。いや、私だけの経験かもしれない。
ともかく、自然と土地土地の言葉に順応するはずだ。ましてや、小川プロは山形での生活が長く、かつ地元の人とのつきあいも深い。しかしながら、私は山形弁を話す小川紳介というのを見た記憶がない。実際の生活では分からない。だが、残された映像の中ではそうだ。
ここからは私の勝手な想像なのだが、小川さんはいろんなところで「自分達は村にとってまれびとである」と語っている。もしかすると、山形弁を話さない、という態度はこうした考えの反映かもしれない。はたして、ドキュメンタリストは、方言を使うべきなのか、使わざるべきなのか、意外にややこしい問いかもしれない。
さて、再び我が身である。ニュータウンと言うと、均質、平板、金太郎飴というのが大方のイメージだろう。確かに間違ってはいない。だが、日本中のニュータウンで宇宙人語が話されているわけではあるまい。
方言がかなり薄まったのは紛れも無い事実だろうが、滅びてしまったわけでもない。土地土地のニュータウンには土地土地の方言があるはずだ。ささいなことだが、「物語」をつむぎだすには、そんなところから始めてみたい、と思った。撮影を始めて早1年。再び春の山陽団地というニュータウンで撮影をしながら考えた次第。
○「のるかそるか通信」 (27)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
●助成申請、通る!
撮影の大きな一区切りがつこうとしていた、4月18日、うれしい知らせが飛び込んできた。以前、文化庁に助成申請をしたことを書いたが(25号と26号)、その結果が判明した。助成申請が通ったという内定通知があったのだ。正式な手続きはこれからだが、とりあえずほっとしたのが正直な感想だ。
さすがに申請金額の満額は出なかったのだが、全く予算ゼロからスタートした製作にとっては、とても大きいことは確かだろう。ともあれ、完成までこぎつける目処がたった(とは言うものの、助成金が下りるのは、映画完成後である。それまではなんとかしないといけないわけだが‥)。
特に私にとって大きいのは、「ニュータウン アートタウン展」への展開だ。映画のラストシーンとして考えている美術展を準備しているところだが、こちらも今のところ予算ゼロ。そんな綱渡り状態で企画を進めてきたが、助成申請が通ったことでこちらにも予算が回せそうだ。実行委員会一同、少し胸をなでおろしたところである。
他にも、頭の中だけで考えていたあれやこれやをやろう、と思いは巡るのだが、そんなに潤沢なわけでもない。ここはじっくり考えながら、今後の展開を考えることにしよう。
さて、助成申請が通った、ということは、最終的に『ニュータウン物語』は16mmフィルム作品となることになった。ビデオからフィルムへのキネコをしなければならない。実際のところ、助成金の半分はこれで消える。
正直不安である。今まで、多くのキネコ作品を見てきたが、はたして私が撮影してきたものがキネコの画質に耐えられるのか、よく分からない。ある監督からは、キネコするなら、最初からそういう撮り方をしていないと画質が厳しい、とも聞いた。かと言って、ほぼ撮影を終えた今となってはどうしようもない。しばし、試行錯誤が続くのであろう。まあ、生まれて初めての経験だから、やってみるしかない。
ここまで読んできて、「上映はどう考えてるんだ?」と疑問を持たれた方も多いだろう。これまた自分でも正直分からない。確かに、助成申請にあたって「自主上映」などの展開を予定として書いてはみたのだが、こればっかりはとらぬ狸のなんとやら、である。ある友人が雑誌に映画製作について書いていた文章によれば、「出口を想定して映画を作れ」とあった。全く出口を想定していないかと言えばそうとも言えず、だからと言って明確なビジョンを描けるわけでもない。
ドキュメンタリーの「上映史」とも言うべき事柄は、色々考察すべき・出来るものであるが、それはまた別の機会に譲ろう。今はとにかく、完成に向けてやるべきことをやるしかない。
美術展の準備と80本のビデオを前に、やるべきことの多さに少しめまいを覚えつつ、そんな状況を楽しんでいたりする今日この頃である。 (つづく)
○「のるかそるか通信」 (27)
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか? 本田孝義
●一進一退
本題を書き始める前に前号の補足。助成申請が通ったことを書いたが、少々、間違いがあったので訂正。
本誌25号で「芸術文化振興会」のことを書いた。私が書類を提出したのは、確かにこちら。ところが、「申請が通った」通知が来たのは文化庁から。まあ、芸術文化振興会は文化庁の外郭団体だから、文化庁から来たのだろうと思っていたら、どうもそういうことではないらしい。先日、文化庁の説明会に参加して事情が判明。
「映画芸術振興事業」(これが申請が通ったものの正式名称です)は、芸術文化振興会の事業だったので、本年1月に書類を提出したのは、確かにこちらだった。ところが、特殊法人改革がらみで、「映画芸術振興事業」は、管轄が文化庁に移ったのだそうだ。
まことにややこしい話だが、『ニュータウン物語』は、文化庁の"支援"を受ける、ということになるそうだ。ちなみに、芸術文化振興会の場合、"助成"らしい。こうなるとますますチンプンカンプン。
さて本題。申請も通ったし、あれやこれやを進めるか、と思っていたら、あっちこっちでいきなりつまずいた。
まず、音楽。編集も進めてないのに、音楽を考えるのはいかにも変だが、私はどうしても使いたい音楽があった。ある有名なアーティストの作品だ。製作費も目処がついたので、法外な金額でなければ、使用料等払えるだろうと思って、CDを販売している会社に、いったいどのくらいの使用料になるかと思い、電話をかけた。
そして一言「そのアーティストの曲の使用は一切認めておりません」事情はよく分からないが、こればっかりはどうしようもない。すっかり頭の中でイメージが出来上がっていたので、落ち込む。オリジナルの音楽を作ることを考えながらも、何か頼りになる音楽のイメージが欲しくて、CDを探し回る日々が続く。
次に襲ってきたのは再三書いてきた美術展の進展だ。経費の目処が見えてきたことから、「順調、順調」と思っていたら、足元をすくわれた。私が撮影を続けてきた山陽団地は、行政区分で言えば、山陽町にある。美術展の大きな柱である、"アトリエ団地"を実現するためには、県営住宅の管理者である岡山県の協力が無ければ実現しない。
当初、交渉はスムーズにいくかと思ったが、現地で協力してくださる岡本さんの判断で、山陽町の協力があった方が県とも交渉しやすい、のだそうだ。そんなこともあって、「ニュータウン アートタウン展」を山陽町に後援してもらおうと思い、後援申請の書類を提出しておいた。
結論、「後援は出来ません」教育委員会の担当者に理由を聞くと、「美術展としての実績が無い」「どういう作品が出来るか分からない」などと言われる。確かにその通り。とは言うものの引き下がるわけにはいかない。電話口で、一生懸命説明をしたが埒があかない。ついつい激昂する。
「後援が無くても出来るでしょ。」と言われついに切れてしまった。こんなに腹が立ったのは久しぶりだ。冷静になって、もう一度作戦を練り直そう。県営住宅が借りれないことを想定してプランを練り直そう。
5月25日、6月2日には、山陽団地で美術展の説明会を行う。すでに匙は投げられた。東京と岡山を行き来しながら、こうした美術展を企画したことの無謀さ、即座に現場で対応できない申し訳なさを感じながら、再び岡山へ向かう。
(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(28) 本田孝義
●宿題を持ち込む
5月29日現在、再び山陽団地に来ている。今回は、主に「ニュータウン アートタウン展」の準備のためだ。よって撮影はなし。美術展が始まるまで、しばらく撮影はないだろう。美術展の準備自体、ややこしいことが多々あって、大変は大変なのだが、なんとなくわくわくするものがある。こんな気分は久し振りかもしれない。
美術展の事ばかり書くわけにはいかないので、ドキュメンタリーの話に戻ろう。
今回、岡山に来るにあたって、宿題を持ち込んだ。カメラは持ってこなかったが、この宿題がなかなかやっかいだ。美術展の準備をしつつも、時間が空くことは見えていたので、持ってきた。
それは、今までのインタビューを文字に起こしたものだ。さすがに全員分は無理だったのだが、とりあえず14人分。岡山に来る前に、ひたすら文字に起こす日々が続いていた。他の人がどうやっているか分からないが、インタビューの内容を吟味する上で、文字として考えることも、編集前の作業として重要なことだと思う(もっとも、感覚的にぱっとつなぐ人もいるだろう。私が鈍いだけかもしれない)。まず、文字に起こす段階で、各々が発した言葉が、少しずつ自分の中に入ってくる。何度やっても文字起こしは時間がかかり、やっかいなのだが、この過程は貴重なものだ。
岡山に来て、文字を読みながら、編集で使う部分を考えている。使えそうな部分は赤ペンでチェックする。実際文字で追い掛けていくと、漫然とビデオを見ながら感じていた感触と違って、冷静かつ客観的に考えられるようになっていく。第三者が見た時にどう思うか、という部分は、推測するしかないのだが(複数のスタッフでやっていれば、議論も出来るのだろう)。いずれにせよ、文字の中から、「ニュータウン物語」が姿を現しつつある感触を持つことが出来た。
こうした作業は、編集前の準備段階に過ぎない。実際に仮編集をしてみれば、変わってくるものだ。 何はともあれ、宿題を黙々とこなす日々がしばらく続きそうだ。
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(29) 本田孝義
●編集過程での迷い
『ニュータウン物語』の完成に向けて、いよいよ佳境に入ろうとしている。編集作業はとかくやっかいなので、これからが勝負どころではあるのだが、編集準備をしながら気がついたことを少し書いてみたい。
何より戦々恐々としているのは、登場人物の多さ。インタビューをした人だけで、22人になる。自分としては、今回、出来るだけ多くの人を登場させようと思って撮影をしてきたから、こうなってしまったわけだが、ある長さ、ある時間に作品をおさめようと思うと、一人一人の登場時間は当然限られてくる。こんなことは、まあ、当たり前の話であるが、いかんせん、私は人の話を切るのが苦手である。
時々テレビを見ながら、スパスパと人の話の要点を切っているのを見ながら、「うらやましいなあ」と思ったりもする。一方で、「なんか効率が良すぎるなあ」と不快になったりもする。(蛇足ですが、テレビの1カットの長さが段々短くなっているように感じるのは私だけでしょうか。)
要は何を見せたいか、聞かせたいかを吟味しながら、切っていくしかないのだが、ただの要点の羅列になってしまっては、一気につまらないものになってしまう。そうでなくても、インタビューというのは、動きのない映像なのだから、飽きさせない流れを考えないといけない。ある方は、「観客との心理戦」とおっしゃっていた。
前号で紙の上で編集の準備をしている、と書いたが、東京に戻ってきてから、それをもとに少しつないでみた。上記のような不安を少しでも映像で確かめておくためだ。案の定、紙の上だけでは到底見えてこないもの、特に時間感覚がうまくいかず、しばし呆然としてしまう。
さらにあらためて気付いたのは、なんだかドン臭い作品なのかなあ、ということだ。切れ味は鈍いし、さりとてポップでもない。普通ならここでめげてしまうところだが、「まあ、それもありか」という開き直りも一方ではある。
これは全くの私見なのだが、最近、ドキュメンタリーを見ていて、製作者の思惑が前に出すぎなのではないか、と思うことがよくある。もちろん、その出方は様々で、「どうだ!」という誇らしげなものから、「どう?」と舌をぺロッと出しているものまで色々だ。製作者の姿勢は見えたほうがいいのだろうけれど、その見せ方に不快感を覚えることもあるのだ。
やけに抽象的な書き方をしてしまったが、編集過程というのは、逡巡、後悔、開き直り、自信、絶望、希望などなど複雑な感情が涌いてくる、ということを知っていただければ幸いです。
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(30) 本田孝義
●『ニュータウン物語』は変形しながら完成に近づく!?
相変わらず、ニュータウン・アートタウン展の準備のために岡山にいる。交渉ごとがうまくいったり、いかなかったり胃が痛い。
岡山に来る前に、一通の郵便が届いた。中身は、「現代作家の眼」アートウェーブ岡山・巡回展への出品依頼だった。この美術展は毎年テーマを決めて、岡山のアーティストが作品を発表している。今年は、「映像−視覚と日常」がテーマだとかで、写真家、映像作家に出品依頼をしているようだ。私は、岡山在住でも在勤でもないが、どなたかが特例として推薦してくれたらしい。
正直、頭を抱えてしまった。と言うのも、開催日が11月13日からで、その頃は「ニュータウン物語」の編集に没頭する予定だったからだ。最近作った作品の展示でもよいそうだが、美術館で展示出来そうな作品はない。ないとなれば作
るしかない。だが、新たな作品を作る余裕はなさそうだ。
知人に相談すると、「せっかくだから参加すれば」とあっさり言われる。確かに、こういう話はそうそうあることではない。考えた末、『ニュータウン物語』の素材を使って、展示用の別作品を作ることに決め、参加することにした。
実は、ニュータウン・アートタウン展においても、『ニュータウン物語』の素材で、ビデオインスタレーションを行うつもりだった。実行委員会の人間として忙しいから、出品については迷っていたのだが、言い出しっぺとしては、出品しないわけにもいかない。そんなこんなで、『ニュータウン物語』の予告編的なインスタレーションを行うつもりだ。
完成前の映像を見せてしまうことはとてもリスキーだし、やってはいけないことなのかもしれない。結果が吉と出るか凶と出るか、全く分からない。だが、完成形のドキュメンタリーとはまた違った表現方法を見せることが出来れば、それはそれで何か意義があるかもしれない。
そんなわけで、『ニュータウン物語』はメタモルフォーゼしながら完成に向かっていくことになる。 (つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(31) 本田孝義
●映画の中の郊外
今年、『E.T』特別編なるものが公開された。1982年の初公開から20年ということで、若干の修正と未公開映像を加えたものが上映されたわけだ。なんで突然『E.T』の話が出てきたかと言えば、この作品が「郊外」を舞台にした、典型的な作品だからである。
もっとも、初公開時、あまりそういうことを意識した記憶がない。ただ、何かいやな感じを持っていたように思う。いやな感じというのは、多くの映画評論家が言っていた、「お子様ランチ映画」という批判と同じものではなかった。ただ漠然とした、よく分からない気分だった。
それから約10年後、大場正明著「サバービアの憂鬱」(東京書籍)を読んだ。ちょうど自らが育った場所について考え始めた頃だった。本書は、残念ながら絶版らしいのだが、アメリカの映画や小説の中の「郊外」とその文化、現実を詳細に検証した好著だ。本書での重要な作品として、『E.T』が取り上げられている。
ご存じのように、『E.T』は、いわゆる宇宙人ものだが、再度見直してみると、非常に丁寧に、家の中の様子が描かれていることに気付く。物語のほとんどが、室内シーンと言ってもいい。同時に、「郊外」の風景がとても印象的に切り取
られている。
先の本では、郊外育ちのスピルバーグの生い立ちが濃厚に反映していることを解説し、「郊外映画」としての性格を浮かび上がらせている。目から鱗が落ちる思いだった。私が感じたいやな感じ、というのは、多分、一種の近親憎悪みたいなものだったのだろう。個人的に私が好きな「郊外映画」は、ティム・バートン監督の『シザーハンズ』だったりするのだが。
もっとも、日本の郊外は、アメリカを手本にした、とよく言われるのだが、どうも疑わしい、と思っている。確かに、アメリカ文化、アメリカの生活を取り入れたのが、日本の郊外であるが、これは郊外ばかりではなかろう。アメリカ型消費文化と言うのは、全国津々浦々どこにでもある光景ではなかろうか。そもそもアメリカ映画の郊外風景を見ていると、敷地の大きさ、眩い芝生などは、到底日本にはない風景のように思える。似ているからこそ、違いも感じる。
日本映画における郊外について分析した本、というものを私は読んだことがない。舞台としてあまり取り上げられていないのかもしれない。(ちょくちょくあるにはある。)テレビでは、『岸辺のアルバム』がその筆頭として有名だろう。
最近、私が気になった作品は、『千と千尋の神隠し』だろうか。個人的には、おもしろいと思えない作品だったのだが、映画の冒頭、家族がニュータウンに引っ越すところから始まる。映画の主な舞台である幻想の世界と、このニュータウンの関係について色々考えるが、結論めいたものはまだない。ジブリ作品で言えば、多摩ニュータウン開発を寓話的に描いた、『平成狸合戦ぽんぽこ』なるものもあった。
映画から少し離れるが、今年6月8日、日本経済新聞が、文化欄で、「小説で迫る郊外の歪み」という特集を組んでいた。私と同じく、郊外第二世代の作家に注目した記事だった。スピルバーグ、バートンらが、アメリカ映画の郊外第二世代だから、日本の映画にも郊外第二世代が登場してくるのだろうか。
その時、郊外は「憂鬱」なのか「歪み」なのか、はたまた違った光景が描かれるのか、じっくり見てみたいものだ。少なくとも、現在、私が準備中の「ニュータウン アートタウン展」では、15名のアーティストが違った光景を出現させてくれそうである。(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(32) 本田孝義
●プロデューサーと監督
この号が届く頃は、山陽団地でアーティストの滞在製作が始まっているはずだ。この5ケ月ほど、「ニュータウン アートタウン展」の準備で駆けずり回ってきた。そして今回の美術展では、どこかで作った作品を持ってくるのではなく、山陽団地での滞在製作を基本とした。
真夏の暑い中、約1ケ月間15名のアーティストが山陽団地と関わりながら様々な作品を作っていく。まことに過酷な条件だが、山陽団地という場所に興味を持ってくれたアーティストがこれだけ集まったのは本当にうれしい。
他の企画も含めると、総勢、数十名の人間が山陽団地を表現することになる。いやはや大きな企画になったものだ。
また、ニュータウン アートタウン展は、第39回岡山県芸術祭選定事業になり、財政的にもほっと出来た。私はと言うと、監督業をしばらくお休みして、言い出しっぺの常として、この美術展の実行委員長となっている。どういうアーティストに参加してもらうかは、もっぱら友人のアーティスト、真部君にお任せし、私は全体の進行、地元での交渉を行ってきた。
紆余曲折を繰り返しながら、ふと気付いたのは、なんだかやっていることはプロデューサーみたいなことだった。監督として振る舞っている時は、とにかく自分の嗅覚のまま進んでいたが、実行委員長ともなると、どこかキーンと冷静な部分がないと成立しない。ただやみくもにぶつかるだけではすまなくなる。
そんな状態に身をおいて、さて、ドキュメンタリー映画においてプロデューサーの現在はどんなもんなのだろうか、と考えてしまった。優れたドキュメンタリーには優れたプロデューサーがいる。今の時代、誰でも作品を作れる時代にあって、プロデューサーの存在はいかなるものになるのだろうか。
自分のことを棚に上げて書くが、いわゆる若手ドキュメンタリストとして注目された人は大勢いた。が、なんとなく、作り続けている人が少ない印象を受ける。いや、ただ単に私が知らないだけかもしれない。いずれにしても、自主製作でドキュメンタリーを作り続けるのは、そう簡単なことではないはずだ。
製作コストも安くなり、以前より作れる条件は格段に楽になっているはずだが、肝心要は作り続ける意志だろう。その時、プロデューサーの存在が重要になってくるに違いない。
何はともあれ、美術展ではプロデューサー、ドキュメンタリーでは監督という、こうもりのような数ケ月だったが、これから約1ケ月間は、その沸点を迎えることになりそうだ。
☆「ニュータウン アートタウン展」 9月8日(日)〜22日(日)
http://www.h5.dion.ne.jp/~arttown
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(33) 本田孝義
●クランクアップまであと4日!
このメールが届く頃は、ニュータウン アートタウン展も折り返し地点になっているはずだ。と言いながら、原稿を書いているのは、9月2日。出品作家の制作が佳境を迎え、とても慌ただしい時間を過ごしている。少しずつ形を見せ始めた作品に、わくわくするものを感じる。
そして、「ニュータウン物語」の撮影もいよいよクライマックスを迎えることとなった。ドキュメンタリーの撮影をいつ、どのように終えるのかは、全く答えがない。しかるべき時に、自然に撮影が終わる、ということが多いだろう。
今回、私の場合は、少し大掛かりな撮影を最後にやろうと思っていたので、美術展期間中に最後の撮影を行うことを決めた。撮影日は、9月21日。いよいよクランクアップである。
気楽な気分で始めた撮影も、気が付いてみれば、えらく時間のかかった撮影になってしまった。普通なら感慨にふけったりするのかもしれないけれど、とてもそんな状態ではない。果たして、クランクアップした時には、どんな気分でいるだろうか。
それにしても、小さな小さな作品が、最後になってやたらと大勢の人を巻き込んで終わろうとしている。自分のことでありながら、不思議な感じがする。ともあれ、ゴールは目の前だ。
(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?(34) 本田孝義
●終着点、出発点
このメールが届く頃には、美術展も終わり、撮影も終わっていることだろう。これを書いている時点では、残すところあとわずか、という日にちである。今日、9月18日は、空撮を行い、生まれて始めてヘリコプターに乗った。風が強い日でもあったので、思った以上に恐かった。カメラを友人の紹介で、福島英太郎さんにお願いした。半身を乗り出しての撮影、つくづく自分では無理な撮影だった。いい画を撮ってくださった、と思う。
さて、美術展も終わりが近付いてきたが、この間、ますます強く感じていることがあるので、書いておきたいと思う。東京と岡山を行き来する生活が続いてきたのは、今まで書いてきた通りだ。美術展を経過する中で、その矛盾が一気に吹き出してきたような気がする。矛盾、と言っても、物理的な何かがあるわけではない。精神的なものだ。山陽団地で制作・展示を行った各作家には、私はいかにも山陽団地の住民であるかのようにふるまってきた。また、山陽団地の住民の方々にも、同じようにふるまってきた、と思う。交渉をスムーズに進めるためでもあったが、心の中では、嘘をついている気分がどうしても抜けなかった。だが、少しでもその気持ちを認めてしまうと、全てが瓦解してしまう危うさも感じていた。
まるで"こうもり"のような話だ。
美術展が成功したのかどうかは、まだ分析できる余裕はない。しかし、ある手応えはある。ある作家には「次はありますか」と聞かれ、ある作家には「5年ぐらい続けたい」と言われ、住民のある方には、「続けないと意味がない」とも言われた。私は、その場で「次も続けます」と即答は出来なかった。そこには、美術展の質の問題と同時に、上記のような心情が、どこかで影響していた
だろう。私は、今回の美術展を企画したことで、この山陽団地という場所から、逃げることも隠れることも出来なくなった。地域の方々からも、ここ山陽団地で何かをし続ける期待、みたいなものも感じる。
だが、私は、ここへは戻れない。
地域の住民に対しても、岡山のアートシーンを本気で変えようとしている人達に対しても、私は裏切りを行っているのかもしれない。今、その結論が出るとも思わない。多分、私がやらねばならないのは、『ニュータウン物語』を完成させ、ここ岡山の人達にまっ先に届けることなのだろう。
その先に私が何をすべきか、何が出来るか、考えてみたい、と思う。.現実と深く関わるドキュメンタリーには、"その後"をどう生きるか、監督は鋭く問われ続ける。気軽な気持ちで始まった今作も、同じところに立とうとしているようだ。 (つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(35) 本田孝義
●長い長い連載をちょっと振り返って
すでに前号で書きましたように、『ニュータウン物語』は、無事にクランクアップしました。これから、編集・仕上げとまだまだ作業は続きますが、取りあえずの一段落です。
思い起こせば、本誌「NEO」創刊直後、編集長から頼まれた連載も、1年半を超えようとしている。毎号、毎号、ドキュメンタリーについての刺激的な論考や、素晴らしい作家の方々の文章を読みながら、そんな片隅に愚痴とも独り言とも駄文を書き連ねていることに、正直、自分でも嫌悪感を覚えることすらあった。
「一体、こんな文章、誰がおもしろがって読むんだろう」と思いつつ、自分で自分を実験台にしているようでもあり、それはそれでスリリングな展開ではあった。「どうせ投稿扱いだし、まあ、嫌になったら止めればいいか」という、極めて投げやりな気持ちもあったが、気が付いてみれば毎号毎号書いている。
「出来るだけドキュメンタリー論にもなるように」という、編集長の難しい注文に頭を悩ませながら、2週間に1度、パソコンに向かってきたわけだ。編集長の思惑に十分応えてきたとは思えないが、「もう連載は止めだ!」とは言われないので、今に至る、ということだ。
それにしても、インターネットの世界は恐ろしいもので、「NEO」のバックナンバーが掲載されていることもあり、実に多くの人が読んでいることにも気付かされた。特に、この間、美術展のことを多く書いていたので、美術関係者の検索にも引っ掛かっていたようだ。
さて、一息ついたら、これからがまたまた大変な作業となる。その中でどれだけ皆さんの興味を引くことが出来る文章を書くことが出来るか、心許ないが、もうしばらくお付き合い下さい。
(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(36) 本田孝義
●テープの山
久しぶりに東京に帰ってきて、早速DVテープからVHSテープへのダビングを行った。以前書いた通り、私はいまだにVHSテープでの仮編集だ。テープの数、実に107本。それだけでも、ちょっとした山のようだ。しばし途方にくれる。
最近、ほとんどの人がパソコンで編集していると思うのだが、以前の編集と最も変わったところはどこだろうか。パソコン編集の利点は、数え上げれば色々あるのだが、私が思うに、見たいシーンをすぐ見れるところにあるのではないだろうか。何度かパソコン上での編集を人に頼み、作業に付き合ってからというもの、VHSテープをからから回す時間がなんとももどかしい。「あのカットはあそこにあったはず‥」と思いながら、テープをかけてみると、思ったところになかったりして、ますますいらいらはつのる。
なぜこんなことを書いたかと言えば、わけあって美術展で撮影した部分を少し編集してみたからだ。久しぶりの編集作業は楽しくもあったが、上記のようないらだちも覚えたわけだ。もっとも、美術展のテープを見ながら、撮影には現れていない、大変だったことなどを思い出し、いやーな汗が流れたりもする。
編集で頭を悩ますのは構成ということになるのだろう。全体のおおまかな構成は美術展前にほぼ考えて書き出してあったのだが、美術展の部分を編集してみて、なんとも妙な感触も覚える。全体のバランスを考えるとわけがわからないラストシーンのような気もしてくる。まあ、それも実際につながったところで考えるとしよう。
今回の作品の構成は比較的単純なはずだ。撮影した順番からつなげていくことが基本となる。季節ごとに、春・夏・秋・冬・春・夏の6章からなる予定だ。と頭の中で思っていても、実際つなげてみると「?」となることが常だから、これからどう転んでいくのか分からない。
真っ先にやらなければならないのは、各テープの各カットを書き出したノートを作ることだ。途中までやっていたのだが、インタビューの書き起こしに入ってしまい、全てが終わっていない。これだけでも膨大な量になるから、頭が痛い。
そんなことを考えているうちに、あせりを覚える。当初の完成予定をすでに過ぎており、なおかつ来年2月頃の完成を目指していると、編集にかけられる時間も限られてくる。限られているからには、やるしかない。
(つづく)
追記:以前、岡山で行われる美術展"アートウェーブ"について書きましたが、会場の視察に行った結果、新作を発表することになりました。作品名は『リターン』。会期等詳しいことは下記へ。 http://www.libnet.pref.okayama.jp/bunka/meten/meten_syoukai.htm#meten
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(37) 本田孝義
●ジグソーパズル
やっとのことでビデオテープを整理して、編集が始まった。きゅるきゅるとビデオテープを回しながら、編集という作業は何に似ているのだろう、と考えていた。ふと、ジグソーパズルに似ているかもしれない、と思った。ただし、特にシナリオのないドキュメンタリーの場合、完成図が無いわけであるが。なぜそんなことを考えたかと言うと、やたらと収まりが悪いカットがいっぱい出てきたからだ。例えば、今回の作品はとても多くの風景を撮ってきた。どこにでもある風景かもしれないが、そのことも含めて、一種の風景論的映画になる予感があったものだから、四季を通じて街並みにカメラを向けてきた。
だがしかし、風景が風景として立ち現れるには、前後の脈略がなければ成立しない。そうすると自ずと収まりがいい場所が見えてくるものである。この時点で、ジグソーパズルのピースはどんどん余っていくわけだ。また、余っていくと言えば、インタビューも同じである。インタビューする時は、欲張ってあれやこれや聞いているわけだが、前後の流れを考えていくと、どうにも収まらない部分が大量に出てくる。すっと意識を集中して見ていくと、自ずと収まるべき部分に収まるような話が浮かんでくる。
もっとも、これらのピースとて、単に収まりがいいからといって並べると大失敗をする。話にしろ、風景にしろ、後々の場面や、あるいは前の部分と相互作用しながら現れるものだから、余白も大切にしないと、ただ単にきれいにならびました、ということになりかねない。特に私は、少々見てくれが悪くとも、ごつごつした感触を与えてくれるものの方が好きだ。
種々のテープに散らばったピースを拾い上げながら、頭を抱えてしまうことも多い。今まで意識的に失敗したことは書かないできたが、もちろん、失敗も多くある。また、撮影している時は、全て必要があると思って撮影していても、何でこんなにしつこく撮っていたのか分からないカットも一杯ある。撮影から時間が経って、少しは冷静に眺められたからかもしれない。
逆に、「何でここでカメラを止めたんだ」と思うようなこともある。いずれにせよ、編集というジグソーパズルは、どれ一つとして形の決まったピースは無い。多少、はまらないかなと思った部分に、ピースをねじ曲げて押し込んだり、うまくはまったと思ってはみたものの、隙間が空いていたり、実にやっかいである。
当たり前のことであるが、少なくとも何がしかの形で見てもらおうと思っている場合、編集という作業は、時間をコントロールする作業でもある。「ここは長いかな」
「ここは短いかな」と思案しながら、時間の流れを考えていく。
しかしながら、ここが難しいのは、「長い」「短い」などというものは、規準が無いことだ。人によって生活リズムが違うように、各々の時間の感覚は当然違う。「1分」という絶対時間が同じでも、長いと感じるか、短いと感じるかは千差万別だ。かと言って、常に観客の平均値を考えながら編集すれば正解が出てくるか、と言えばそうとも言えそうにない。
前にも書いたと思うが、製作者のせいか、観客のせいか、はたまた社会の流れのせいか、映像に関して感じる時間の感覚は、とても短くなっているように思う。往々にして昔の映画を見た時に、時間がゆったり流れている感覚を覚える。
一方、最近の映画はやたらと早い。(もちろん、これなども一般論であって、作家独特の時間感覚を持っている人は多くいる。)自分の映画にふさわしい時間の流れを探していくことこそ、編集の最も大切な部分なのだろう。何はともあれ、楽しくも苦しい作業は続く。 (つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(38) 本田孝義
●映像と音声は別物
えっちらおっちら編集をしながら、再び考えていることがある。映像と音声の関係である。
当たり前の話であるが、ビデオは映像と音声が両方同時に収録される点が強みだ。これもくどくどと私ごときが説明するまでもないが、16mmフィルムだとこうはいかない。通常、映像と音声は別々の機械で収録される。極端な言い方をすれば、映写する時点で、無理やり映像と音声がさも合っているかのように流されるわけだ。そのために、撮影時点で映像と音声を同期させておく必要があり、同期の目印としてカチンコが使われたりする。
なぜこのようなことを書いたかと言えば、土本典昭監督が、音声を伴わないラッシュフィルムを延々何時間も見続けるところから編集がスタートする、とどこかで書かれていたからだ。逆のことを考えれば、何の苦も無く音声が伴っているビデオテープを延々何時間も音声を消して見るという作業を私はしたことがない。
音声を伴わずに画面を見続けるということは、それだけ映像の「強度」を斟酌しなければならないことを意味するだろう。ひるがえって、音声が伴ったビデオテープを見るということは、知らず知らずのうちに、音声に引きずられていることの方がはるかに多いと思う。
ところで、私はかつて『デフ・ディレクター 〜あるろうあ者の記録〜』という長編ドキュメンタリーを作ったことがある。日本在住のオーストラリア人でろうあ者である映画監督、ロバート・ホスキン氏の映画製作を追いかけた作品だ。多くのろうあ者と接する中で、普段、自分がいかに音声を頼りにしているかに気が付いた。そして、映画やテレビを見ながら、自然と頭の中で音声を消して、あるいは音声と映像を別々に考えるきっかけとなった。
それからというもの、映画やテレビを見ながら、編集の構造がより一層くっきりと見えてきた。「あ、これは映像のインサートか」
「こっちは音声をひっぱってきたな」とか。もっとも、編集がうまいなあ、と感じることは極めてまれで、「なんでこんなに効率のいい編集をするんだろう」と思うことの方が多い(効率のいい編集、というのはなかなか説明しにくい)。
先にインサートと書いたが、ビデオの編集では、ボタン一つで映像や音声を「挿入」出来る。もともと私は安易なインサートは大嫌いなのだが、今回の作品では、結構、多用している。嫌いなことをやっているのだから、苦し紛れの感がなきにしもあらずだ。そうした作業をしながら、あらためて、映像と音声は別物であることを考えていた。別々の映像と音声を合わせるのなら、それに見合った効果を生まなければ意味が無い。が、いつもうまくいくとは限らない。時として、妥協の産物だったりする。難しい。
映像と音声の関係を考える時にいつも思い出すのは、福田克彦監督の『草とり草紙』だ。映画のほとんどをおばあさんの語りが占めているのだが、映像はほとんどおばあさんの日常を映し出している。どう考えても、全く別々に撮影・録音されたものを重ね合わせて成立している。そこから湧き上がってくる感情は、「これぞ映画」としか呼びようのないもので、何度見ても心地よい。だが、生兵法は怪我の元。方法としてはそれほど難しいことではないからと言って真似をするとやけどする。あの境地にたどり着くのはとても難しい。
あれこれ言ってみたところで、とにかくつないでいくしかない。とにかくつなごうと思ってつないでいったら2時間37分になった。自分の中では、2時間に収める予定である。第一段の仮編集としては、逆に、思ったほど長くない方だろう(最初、4時間ぐらいになるんじゃないかと思っていた)。これで良かったのかどうか、ちょっと分からない。中途半端に長い、と言うことは、中途半端にまとまっていることでもある。
いずれにせよ、この号が届く頃には、どうやって2時間に収めるか、うんうんうなっていることだろう。(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(39) 本田孝義
●削れ削れ大作戦
さて、前号でお伝えしたように、仮編集をした段階で2時間37分となった。少し息をついて3日ほど寝かしておく。すぐに次の作業に取り掛かると、逆に全体を見えなくなってしまう恐れがあるからだ。その間、当誌編集長に見ていただく。何はともあれ、本作のプロデューサーである。緊張の時間。電話が掛かってくる。「おもしろかった」と仰る。ひとまずホッとする。自分で編集しながら、「これって本当におもしろいのか」と不安に駆られることがあるから、何よりもそういう一言が完成に向けての励みになる。その後直接会って、具体的な意見を聞く。
2時間37分の仮編集版を見て、「これで行けそうだな」と思ってしまったのだが、どうしても2時間以内に収めたい。別に根拠は無いのだが、無駄を削っていく意味でも、自分にそういう課題を課したほうがいい。「とにかく削れ!」という目で見直していくと、確かに削れそうな部分が出てくる。あそこもここも‥とチェックしていくと次々に省けそうな気がして来る。
ところで、今回の作品、今までに自分が作ってきた作品と比べて、格段に登場人物が多い。まともに取り上げるだけでも、約40人もいる。仮編集を始める段階で、すでに登場を諦めざるを得ない人々も出てきた。特に残念だったのは、ニュータウンアートタウン展に参加してもらった、建築家の「みかんぐみ」の方々。この美術展では、「みかんぐみの団地再生計画」というワークショップを行ったのだが、映画の中でワークショップの流れを見せていくことは難しいし、撮影したビデオを見ながら、話し合いの場面は意外におもしろくない。ここはあっさりと割愛することを決めた。他にも、現在の小学校の校長先生や、ある住民の方のインタビューもあっさり入れなかった。
頭を抱えてしまったのは、先に書いた美術展のアーティスト達である。仮編集段階では、全員入れていたところ、美術展だけでも30分ほど時間をとった。全体を眺めた時に、どうにもこうにもバランスが悪い。実は、「ちょっと見てもらうのは苦しいかな」と思える人が確かにいた。この美術展は、自分で言うのもなんだが、大変質の高い美術展だったと思っている。だがしかし、自分の撮り方が悪いせいもあるのだろう、映像として見た時に力が弱いと思えるものも確かにある。
削るべきか、残すべきか悩む。なんと言っても、個々のアーティストには、かなり無理をお願いして参加してもらったのだし、どういう形であれ、作品が記録として残り、少しでも名前を出して存在証明を与えることが、実行委員長としての私がしなければならないことだ。心は乱れる。
決断をしなければならない。そこで、仮編集したビデオを元に、美術展の部分だけ、再度編集をしてみる。確かにすっきりしたし、むしろ全体の中での印象は強まった気がする。ここは心を鬼にして、何人かのアーティストを削ることにする。あとは、どう彼らに説明するか、気は重い。
少し話は変わるが、皆さんの中にも、せっかく取材に答えたのに、全く上映(放送)されなかった、という経験がある方もいるだろう。実は私も、先に書いた美術展を地元岡山のテレビ局が取り上げて放送した時に、インタビューに答えながら放送されなかったという経験をしたばかり。まあ、どうってことはなかったのだが、いい気持ちではなかった。「事前に一言言ってくれてたらなあ」と思ったりもした。まあ、普通、「使いません」という断りはしないものだと思うけれども。
編集に私情を挟むのは禁物なのだろう。
それにしても不思議なもので、「削れ削れ」と暗示をかけるように見ていくと、どんどん削れそうな部分が出てくる。一体、今まで私は何をやっていたのだろう。良かれ悪しかれ、今回の作品は、ある時系列に沿って話が進んでいくから、全体の構成が大きく変わることはなさそうだ。
そう思って、もう一度頭から編集をやり直す。別にタイムトライアルをやっているわけではないけれど、1時間55分に縮まった。
その時、ある冷や汗が浮かんだ。 (つづく)
2003年
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(40) 本田孝義
●まだ見ぬ観客に向かって
12月16日発行号に進行状況を記してから、約1ヶ月が経った。本号が届く頃には、ビデオ版が完成しているはずである。1月16日現在、この間の混乱振りをどう書き記すか、悩みに悩んだ。正直に言って書き記すことにためらいがあった。だが、自分のことはともかくとして、製作課程の一段面であるには違いなく、書くことにする。
1時間55分の仮編集の段階で、何人かの方に見ていただくことが出来た。途中経過を見てもらうことに関しては、様々な意見があろう。ある監督は、絶対に見せないと言い、ある監督は積極的に意見を求める人もいるだろう。私の場合、一つ言えるのは、基本的に一人で進めてきたから、この作品がどういうものなのか、自分では分からなくなることがあることだ。自信と不安を抱きながら、見てもらうことにする。
厳しい意見を頂いた。
2日間真剣に落ち込む。
それなりの自信はあっさりと砕け散り、とたんに作品が色あせて見えてくる。
こういう時、極端に言えば、私が選択すべき道は、2つしかない。完成させるか、させないか、である。オーバーに聞こえるかもしれないが、ここまで来ながら、「完成させない」というのも選択肢なのだ。ある有名な映画監督は、「映画の上映は観客の時間を奪うこと」と言っていた。
では、はたして私の作品に、観客の時間を奪う価値があるのだろうか。今なら、作品製作に協力していただいた方々(出演者含む)に、私が断腸の思いで説明し謝れば、ことは済むのかもしれない。製作に力を貸していただいた方々の貴重な時間を奪ったという汚点を残して。
気を取り直して、再び仮編集版を見直す。指摘いただいたことを冷静に頭で整理しながら、考える。言えることはただ二つ。今から修正できることと、取り返しがつかないこと。
そうしていると、全くいい気なもので、この作品が世の中に存在する意味はある、と思えてくる。作者だけの自己満足かもしれないが、自惚れもなければ完成などおぼつかない。再び、完成に向けて気持ちをあらためる。
取り返しがつかないことを無理やりつじまじを合わせようとすると、全体が空中分解することが分かる。ならば、まだ修正できる点を探し、編集などを変えてみる。
年を越して、自分なりの到達点をやっと見つけたと思う。
ここから先の気持ちは、うまく書くことが出来ない。多分、今の気持ちを書くことが出来るのは、遠い先のような気がする。
どこかでこの作品のことを受け取ってくれる人がいるはずだ。甘いと言われようとなんと言おうと、そのことを信ずるしかない。
よれよれになり、変色してしまったビデオテープからタイムコードを書き出し、本編集用のエディットシートを書き起こす。フィルムとなって映写室で瞬く時間に思いをはせながら、期待と不安を抱えて次の段階へ進む。
(つづく)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(41) 本田孝義
●フィルムとビデオ
どうにかこうにか『ニュータウン物語』は、ビデオ版が完成した。103分の作品だ。今回、文化庁の振興事業となっていることから、2月6日現在、16mmフィルムにする作業に入っている。キネコと呼ばれる作業だ。私にとっては、未知の領域である。
文化庁の事業が遅れているのか、それなりの理由があるのか私はよく分からないのだが、支援を受けることが出来る条件がフィルム作品ということになっており、キネコした作品でも可ということなので、キネコすることの意味を深く考えず応募したわけだ。ただ、フィルムになった状態を見てみたい、という単純な好奇心もあったことは確かだ。
本誌でも多くの方が指摘しているように、ドキュメンタリーの世界では、デジタルビデオの出現が、製作環境を大きく変えた。同時に、製作だけでなく、ビデオプロジェクターの飛躍的な発達で、上映環境も変わっている。私の短い経験でも、あまり鮮明に思えなかった、もしくは鮮明なビデオプロジェクターはやたら値段が高く大型だった時代に比べると、今のビデオプロジェクターは安くて小さなものでもかなり鮮明に見ることが出来る。
ここで少し映画館の状況を考えてみよう。映画の歴史もあって、映画館でかかるのは基本的に35mmフィルムだ。意欲的なミニシアターでは、様々なフォーマットをかけることが出来る所もあるが、いまだに圧倒的大多数では35mmフィルムであることは変わりない。こうした環境を考える時、時々、1970年代頃のドキュメンタリー映画のことを考える。小川紳介監督、土本典昭監督らが質量ともに刺激的な作品を作っていた時代、そのほとんどが16mmフィルムの作品だった。
しかしながら、特別な例外を除いて、こうした作品が映画館でかかることはまずなかった。もちろん、今より映画館の系列化が強固で、ミニシアターも存在しない時代だったのでかからなかったという要因が大きいとは思うのだが、映画館が16mmフィルムの映写機を導入していれば、少しは状況が変わっていたかもしれない(もちろん、8mmフィルムも同様だ)。
むしろ、大学や公共施設でこそ16mmの映写機があったため、そうした場所での上映が活発だったという面もあるだろう(公共施設での16mm映写機の普及の歴史はそれなりの背景があるが、ここでは割愛)。
現在の状況はどうだろうか。ビデオプロジェクターは、低価格・高画質化が進んだこともあって、公共施設で設置・所持している所が飛躍的に増えている。
持っていない所を探す方が難しいぐらいだろう。例えば、『人らしく生きよう国労冬物語』は、ビデオだけでの上映を進めたが、上映箇所は200箇所を突破した。少し前なら考えられないほどの広がりだ。
一方、映画館ではどうだろうか。にわかに注目されているのは、ビデオで撮影しフィルム化した作品の増加だろう。その最も巨大だった例が『スター・ウォーズ/エピソード2』であることは間違いない。日本でも『突入せよ!あさま山荘事件』『模倣犯』など増加中だ。ゆくゆくはデジタル方式での上映が一部で言われていたり、今やビデオ/フィルム、あるいはデジタル/アナログという区分が大きく揺らぎつつある過渡的な段階であることは間違いない。
ドキュメンタリーの上映が、今後どう推移していくのかはよく分からない。ただ今思うのは、どれだけ多くの作家がどれだけ多くの上映機会を作り、また観客と出会っていくのかという部分では、あまり変わらないのではないか、と思う。製作者としては、自分の作品が上映される場に立ち会うことは、ある意味最も贅沢で、最も楽しく、最も恐い瞬間でもある。
上映形態がどうあろうと、作者が面倒がらず、観客と出会っていくことはとりわけドキュメンタリーにおいては重要なことかもしれない。時にはやすりで身をこすられるような、苦痛とも快感ともつかない奇妙な時間のことを夢想しながら、フィルム化という最後の作業を進める今日この頃である。 (つづく)
追記:下記のような形で、トークショーを行うことになりました。お宝映像も上映予定。お近くで興味のある方がおられましたら、ご参加ください。
<岡山映画祭2003プレ企画>
日時:2月23日(日)開場;13:30開演;14:00
会場:岡山国際交流センター5F会議室
内容:『神の子たち』試写会および本田孝義トーク
注記:入場無料ですが、要予約。
問い合わせ:10時〜19時 TEL&FAX 086-254-0238
19時〜 090-8607-5817(仲地)
E-mail okayamaeigasai2003@skpn.com
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(42) 本田孝義
●フィルムの重み
昨日(2月18日)、『ニュータウン物語』はついに16mmフィルムとして完成した。スクリーンで瞬く映像を見ながら、作品の良し悪しとは別に、やっとたどりついた、との思いが駆け巡っていた。
前にも書いたように、私にとっては初めての16mm作品として生まれた。ビデオで何度も見ている映像なのだが、不思議なことに、キネコした映像はフィルムらしく見えてしまう。これはちょっとした驚きだった。もちろん、ここ10年ぐらいのビデオからフィルムへの技術の進歩があるのだが、これは単に機械的なことだけではなさそうだ。
フィルム化するということは、当然、現像所にお願いするということだ。8mmフィルムでの経験はあっても、本格的に現像所の方々に作業をお願いするのは初めてだ。そんなこともあって、以前から何かとアドバイスいただいている、伊勢真一監督に相談にのって頂いていた。伊勢監督も数多くキネコした作品を手がけておられるので、伊勢監督の紹介で、フィルム化の作業をヨコシネにお願いすることにした。
フィルム化するということは、色合いなど微妙な表情の変化が伴う。そこには、現像所の技術者の感性も伴ってくるのだろう。今回、笠原征洋さんにお願いした。この道のベテランだ。
先ほど、機械的なことではない、と書いたのはこういうことだ。伊勢監督を始めとする多くの監督が、少しでもフィルム化した時にいい映像であるように、現像所の方々と様々な試行錯誤を繰り返しながら、切磋琢磨しながら今があるのではないか、と感じた。いかんせん、私は初めてのことなので、十分な比較検討が出来ないのだけれど、この10年ほどのキネコの進歩には、多分、そうしたことがあったはずだ。
昨日の試写に来てくれた伊勢監督の話では、笠原さんは作品全体の意図やフォルムを汲み取り、色合いやトーンを決めてくださったようだ。
また、以前、話には聞いていたのだが、今回自分が経験してみてなるほどと思ったのは、ラストクレジットのことだ。関わった人が多い関係もあって、今作ではよくある下から上へ文字が流れていく、いわゆるローリングクレジットにした。フィルムにした時に小さな文字だと読めなかったり、流れる速度が早すぎるとチラツキが出ると聞いていたので、ビデオでは大きめの文字でゆっくり流していたのだが、クレジットだけテストしたものを見ると、やはり少しチラツキが出ていた。
本当に微妙な状態だったのだが、悩んだ末、クレジットのみフィルムで新たに作り直してもらうことにした。少々お金がかかってしまったが、最後がみっともなくなるよりはいいだろう。確かに、昨日見てみると全然違った。
フィルムを受け取り、現像所を後にしながら、手にかかるフィルムの重みを感じていた。今まで、人の作品を何度となく運んだことはあるが、昨日感じた重みは、今まで経験したことのない重みだった。
だが、ここで「完成」、連載終わり、とはならない。作品は人に見てもらわなければ、完成しない。これから、地元岡山県山陽町での完成上映会に向けて、もうひと踏ん張りが待っている。ゴールは目の前だ。
(つづく)
☆『ニュータウン物語』完成特別上映会
日時:3月22日(土) 開場/午後1時 開映/午後1時30分
上映後、本田のトークあり。
場所:山陽町中央公民館大会議室(TEL0869-55-0069)
料金:1000円(当日のみ)
主催:山陽シネマ倶楽部 問い合わせ:0869-55-5574(うどお 19:00〜)
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(43) 本田孝義
●映画的日常
岡山でのトークショーも終わり、久しぶりにのんびりしているような気がする。もっとも、3月22日の初上映に向けて気持ちは落ち着かないが、完成前の気分とはやはり違うようだ。
さて、のんびりついでに旅行にでも行くか、となればいいのかもしれないが、どうもそういう風に出来ていないようだ。じゃあ、何をしてるかといえば、映画館に行っている。この間、映画館に行っていなかったわけではないが、ここのところ頻度が上がっているような気がする。
それにしてもな、と思う。何かむしゃくしゃしたり、あるいは暇が出来たりするとふらっと映画館へ行く。そしてつまらない映画を見ては文句を言ったりしながら、「これってとんでもなく不健康だなあ」としばしば思う。
そもそも映画制作者にとって、「映画を見る」という行為は何なのだろうか。
ある時、アーティストの人と話をしていて、「本田さんが映画を見に行くのも仕事よね」と言われ、それって仕事なのか、ふと考え込んでしまった。確かに、人の作品を見て参考にしたり、何かのヒントを得ることもある。かと言って、見たことで文章を書いたりしてお金にしているわけでもない。もちろん、人に教えているわけでもない。
では、「見る」という行為が「作る」という行為とつながっていないかと言えば、つながっているようでもあり、つながってないようでもあり、釈然としない。ある映画監督など「映画を好きでいるためには、映画を見ないことだ」と豪語しているような人もいるほどだ。
では、世間でよくあるように、「映画鑑賞」が「趣味」かと言えば、どうもそれも違うような気がする。さりとて、自分を振り返ってみれば、趣味として何かをやっていると言えるほどこれといったものもなく、映画を見ることが世間で言う「趣味」にあたらないとは言えないのかもしれない。はたまた、「趣味を仕事にしている」という言い方も何か違和感を覚える。そう見える、そう言われるのは分からなくはないけれども。
映画製作者が映画を見る場合、二つの目があると思う。一つは同業者として。
一つはただの観客として。もちろん、それらが重なったりしながら。
よくある話であるが、私も中学・高校生ぐらいのときは、見た映画の感想を手帳に書き留めていた。大学生の時、それもやめてしまった。また、自分で映画を作り始めてから、同世代の日本の監督を一生懸命追っかけていた時もあったが、いつしかしんどくなってそれも止めてしまった。
まことにいい加減であるが、近年、どうもその時の気分で映画を見に行くことが多いと思う。確かに「これを見ておかなければ」という匂いを感じる映画もあるのだが、義務感で映画を見ることぐらいしんどいこともないので、あまりそういうことは考えないようにしている。
そんな時、ドキュメンタリー映画が上映されていたりすると、やはり気になって見に行ってしまう。いつもいいタイミングで出会えるとは限らないのだけれど。
本当は目的意識を持って映画を見に行けば、「映画を見ることも仕事だ」と胸を張っていえるのかもしれないけれど、どうもそういう風には言えそうにない。
なんだか「不健康だなあ」という思いが消えないのである。 (つづく)
☆『ニュータウン物語』完成特別上映会
日時:3月22日(土) 開場/午後1時 開映/午後1時30分
上映後、本田のトークあり。
場所:山陽町中央公民館大会議室(TEL0869-55-0069)
料金:1000円(当日のみ)
主催:山陽シネマ倶楽部
問い合わせ:0869-55-5574(右遠 うどう 19:00〜)
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―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(44) 本田孝義
■本田孝義
●現地での試写会
昨日、3月15日、ついに山陽団地で「ニュータウン物語」の試写会を行った。
この試写会は、映画に出演いただいた方々、撮影に協力していただいた方々に、完成報告の意味もこめて開いたものだ。
午後1時、開場してから少しずつ人が集まってくる。久し振りに顔を合わす人から、「完成おめでとう」の声をかけていただく。見る前の社交辞令とは分かっていても、やはりうれしいものだ。約40人の人が集まる。
午後1時半、簡単なあいさつの後に映写が始まる。今日は、山陽団地公民館視聴覚室という70人ぐらい入る部屋での上映だが、つてを頼りに、以前から見知っている方が、16mmの映写機を用意して下さり、フィルムでの上映が出来た。
一番後ろからスクリーンを眺めながら、冷静に作品を見る余裕はない。上映会とは不思議な空間で、見ている人の反応が伝わってくる。今回、取り分け協力いただいた方々ばかりだから、落胆している人がいないか、怒り出す人はいないかということまで、頭をよぎる。寝ている人はいないだろうか、つまらなそうにしている人はいないだろうか。この緊張感は、何度味わっても胃が痛いものだが、上映会の醍醐味でもある。こうした観客とのやり取りの味が忘れられないから、細々ながら今まで作品を作って来たのだとも思う。
幸い、皆さん1時間43分、集中して見てくれたようだ。そう思っているのは私だけかもしれないが。会場が明るくなる前の一瞬、拍手がおきる。だが、一拍、拍手が遅れた印象を受けた。そこに、観客の戸惑いを感じた。少なくとも、素直に良かった、とは思えなかったのだろう。その戸惑いが何であるのか、作り手が勝手に憶測するしかないのだが、「山陽団地の記録」と思っていた人が多かったのかもしれない。無味乾燥な記録ではなく、作り手である私が何度も顔を出し、家族の話まで出てくることに、予想と違ったと感じた人が多かったのかもしれない。
困惑したような顔が気になる半面、目頭を熱くして「よかったよ」と声をかけてくれる人もいる。自分が映っていることに、恥ずかしそうにはにかんでいる人もいる。握手をしてくれる人もいる。予想外の反応だったのは、「内容がびっしりだった」
「映画2、3本分ぐらい内容があった」という声だった。劇的なこともおこらず、淡々とした映画だと自分では思っていたものだがら、少々意外な反応だった。私は勝手に誉め言葉として受け止めさせてもらった。
上映準備、片付け等をすっかり人任せにしていたので、疲れるはずがない。だけれど、精神的にはすっかり疲れていた。多分、これを心地よい疲労と言うのだろう。
来週、3月22日は、初の一般公開だ。大勢人が来てくれるといいのだが。
何はともあれ、『ニュータウン物語』は、ここでやっと誕生したのだった。
■「のるかそるか通信」
―果たして『ニュータウン物語』は完成するか?
(45−最終回)
■本田孝義
●『ニュータウン物語』は完成した
3月22日、午後1時半。『ニュータウン物語』は、山陽町公民館にて初の一般公開を迎えた。映画での出会いとは不思議なもので、山陽団地在住で自主上映に取り組んでおられる右遠さんにご無理を言って実現した上映会だった。1月、完成が近付く中、早く山陽町の方々に見てもらいたいとの思いから企画した上映会だった。
何か大きなバックアップがあるわけでもない上映は、なかなか骨が折れるものだ。手弁当でポスターを貼ったり、チラシを根気よく手渡したり。私も少しだけお手伝いした。
午後1時、開場。ぽつぽつと人が集まる。けど、思ったほど客足は延びない。
250人の客席は少し閑散とした感じだ。自らフル回転して宣伝に務めなかったことを少々後悔した。3連休の真ん中という日取りも悪かったかもしれない。
(これは、会場の空き具合もあったので致し方ない)岡山の本誌読者の方も来てくださった。
上映が始まる。自分で見るのはこれが3度目だ。一番後ろの席から、会場の雰囲気を感じながら見る。元来気が弱いせいもあるのだろう、観客が帰りはしないか、寝てる人はいないか気になる。皆さん集中して、ある時は笑いながら見てくれている。とりあえず、ほっとする。 上映後、トークをする。小学校の恩師や、同級性の両親がいる前での話に緊張する。映画との出会いから現在までをしゃべる。
観客との質疑応答の時間を持った。思わぬ批判も飛び出す。また、思わぬ感動を語ってくださる方もいる。取り立てて感動的な話などどこにもない映画だと思っているのだが、何人かからそうした声を聞く。住民の方にとっては、自らの街の歴史を再確認することが感慨深いのかもしれない。もちろん、そうあって欲しいとは思っていたが、ストレートに感動してもらったことは驚きでもあり、うれしいことでもあった。
住民以外の方からも「おもしろい」という声を聞いた。特に、ニュータウンや団地とこれまで接点があった方々は、自らの経験を語ってくれた。
なんだが自画自賛のような文章になってしまったが、作り手の思いとは身勝手なもので、今はこうした声を何よりも励みとしたいものだ。山陽町で上映するまで、完成はしたものの、はたしてこの映画が世の中に存在する意味があるのか、自信がなかった。今はまだ見てくれた人は少ないけれど、「作って良かった」と思えるようになった。
映画完成後、「重いフィルム」という文章を書いた。そこには、2重の意味が込められていた。「完成したぞ」という手ごたえとともに、自分にとって「重荷」になるかもしれないという不安もそこにあった。作った限りは、どんなに罵倒されようと見せる努力をしなければ、フィルムはほこりをかぶってただのお荷物になる。今もその不安は消えないけれど、やれることはやろうと思っている。
約2年続いた連載のこれが最終回だ。編集長がつけた「のるかそるか」とは言いえて妙な2年間だった。我ながらよくも2週間に一度、全く休む事なく書き続けてきたものだと思う。時にはただの愚痴を、時には撮影日誌を、時にはニュータウンに対する持論を書き連てきた。ドキュメンタリー論には遠く及ばなかったと思うけれど、今までの文章は自分のドキュメントにはなっているかもしれない。駄文を書き連ねながら、どこかでそのことを励みにもしていた。
最後になりますが、約2年間お付き合いくださりありがとうございました。いつかどこかで、「ニュータウン物語」を見ていただくチャンスがあることを願っています。上映情報等を、今後も広場欄でお伝えしたいと思います。
3月28日、中断していた「続・科学者として」の撮影が再開する。作品になるかどうかわからない。またまたのるかそるかである。 (了)