分かっていたことだし、納得だってしていた。そのマリア様のような微笑は、私のものじゃないということぐらいは。それでも、いざその状況になってみると、息は乱れるし、血も脳に行ってくれなくなる。それが嫉妬心か別のものかすらも分からないままで。
 志摩子さんが選んだ場所は、私からは見えない。エデンとか天国とか、そんなものは信じていない。それでも、大切な姉が選んだものなんだから信じないといけない、と言い聞かせている。絶対に好きにはなれない、その場所に対して。

 



 遠いエデンはあの人の




 喫茶店を出ると、春になりはじめた日差しが目を撫でた。右手をかざして空を見ると、入ったときよりは雲が多くなっている。春の天気は変わりやすい。どこで聞いたのかは忘れたけど、すう、とまるで泡のように、その言葉が頭に浮かんできた。
「桜、そろそろ散り時ですわね」
 瞳子が隣に並ぶ。白い、つばの広い帽子をかぶった瞳子は、どこかの映画の主役みたい。お嬢様らしい上品な顔立ちは、確かに綺麗と言えなくもない。
 だけど、志摩子さんには及ばない。そんなことを、こんな時でも私の心は考えている。藤堂志摩子という存在は、私の中で本当に大きな部分を占めるようになった。昔なら確実に仏像の例えだったのに。
「私服の瞳子でも、髪型は変わらないんだね」
「……何が言いたいんですの?」
 その整った顔で、キッと睨まれる。逆にその顔の方が瞳子らしい、と思うのは、付き合いが長いからだろうか。
「いや、いいと思うよ。似合ってる」
 言って、はた、と思い当たる。
「そういえば、その服、祐巳さまに選んでもらったんだって? お姉さまに聞いたよ」
 みるみるうちに、瞳子の顔が赤くなった。ぼん、と破裂しそうなほどの、熟れきった林檎のような赤。分かりやすすぎる反応を、瞳子はなんとか打ち消そうと、ぶんぶん、と大きく首を振った。
「い、妹の身だしなみを姉が気遣うのは当然ですわ!! そんな、乃梨子さんだって、白薔薇さまが選んだ服ぐらい持っているでしょう!!」
 そんな反応に嬉しくなる。照れて、声まで赤くして。半分涙目の瞳子は、すっかり妹の顔になってしまう。
「まあ、ね。今は私が白薔薇さま、だけどね」
 けれど。そんな瞳子を、少し羨ましく感じてもいる。



 瞳子が私と喫茶店で会ったのは、噂を確認し合うためだ。卒業式直前に、リリアンに流れた噂は、1年生以外に素晴らしい速度で広がった。出所なんて分からないほどの広がりだった。
『先代の白薔薇さまが、修道院にお入りになる』
 マリア様のように綺麗だった私の姉。姉妹の契りを結んだあと、私に対する嫉妬が混じった視線をよく感じた。私はそれほど気にしなかったけど、それは志摩子さんの人気の高さを伺わせるものだった。マリア像に向けるような視線が、よく私の頭の上を飛んでいった。
 私は、今はそれに同情してしまう。麗しの白薔薇さまは、誰のものでもない。
『修道院なんて名前からして、とても古めかしいところらしですわよ』
 縦ロールを揺らしながら瞳子が言った。私はコーヒーを飲みながら、知ってるよ、と言った。大きなことがないと出てこれないんだよね、当分会えなくなるってさ。
 それでいいんですの、と睨み付ける瞳子に、私はあんたと違う、と口調だけ強気で言い返した。




『私、シスターになるの』
 電話口の少し弾んだ声が、教会のベルのように耳元で反響した。
『みんなと会えなくなるのは寂しいけれど、でも、長い間の夢だったから』
 外国へ留学するようなものだ。もしくは引っ越すようなもの。頭では分かっていても、心がそれを拒絶していた。離れるのが嫌。ただその感情だけが、私の中身を塗りつぶしていた。
 だけど。私は妹で、姉のことを一番よく知っている存在。頭の回転が速くてクール。だから一番的確な答えを、一番的確に返さないといけない。私は目を閉じて、頭だけではじき出した言葉を言わせた。
『良かったね志摩子さん。頑張ってよ』
 乃梨子にそう言ってもらえて嬉しいわ。さっきよりも弾んだ声が、凍ったような心を通り過ぎていった。これが一番いい、って頭は分かっていたし、納得もしていた。

 自分がこんなに独占欲が強い、なんて、今この瞬間までは考えたこともなかった。志摩子さんがお祈りをしているところを見たって、さすが志摩子さんだな、なんてむしろ感心していたのに。それが行動に結びついた途端に、私は冷静じゃいられなくなった。
 そんな志摩子さんが、大好きなのに。




「ねえ、志摩子さん」
「なに?」
20に近づいても、志摩子さんの美しさはそのままで。答えながら、昔ながらの笑顔を私に向けた。ふわふわの髪も、大き目の瞳も変わらず魅力的。イエズス様を産んだ人は、確かにこんな顔だったのだろうと思う。私を惹きつけて、魅了して。
それが、最近は少し憎くなった。
その髪も、その瞳も、いや、志摩子さんのすべては、そのイエズス様のものなのだ。何一つとして、私のものはない。唇は祈りの言葉のために、足は礼拝のためにある。私と喋ったり、一緒に散歩をするためじゃない。私と志摩子さんは、姉妹であるはずなのに。
「……やっぱり、いいや」
「あら。そう言われると気になるわね」
「あはは。ちょっと、ど忘れしちゃって」
『姉妹の愛とイエズス様への愛って、どっちの方が大きいんですか?』
 喉の辺りまで来た言葉を、曖昧な笑みで押し戻した。志摩子さんが言う言葉なんて、私には簡単に想像できる。きっと、ちょっと悲しい顔をして、たしなめるように言うのだろう。乃梨子、比べられるものじゃないわ、って。
 私にとって、残酷な答え。きっぱりとイエズス様、と言ってくれれば、諦めがつくかもしれないのに。

「乃梨子に会えなくなるのは、寂しいわ」
「うん」
 一歩、志摩子さんが近づいた。私の胸の内なんて、想像もしてないような綺麗な顔で。
「私も」
 飛びついて、泣きたい。行かないで、捨てないで、って叫びたい。だけど、そんなことをしたって、志摩子さんの真ん中にあるものは変えることは出来ない。
「私も、志摩子さんと会えないの、ちょっと辛いな」
 分かってたから、笑うしかなかった。少しでも志摩子さんに安心してもらうために。妹として。神を選んだシスターの、よくできた妹として。
 そんな私に、志摩子さんは優しく笑って、その手で頭を撫でてくれた。撫でてもらうのは、多分、それで最後。柔らかな手の感触が、頭蓋骨を滑っていく。嬉しい、悲しい感じがする。

 突き放されたほうが幸せなこともあるなんて、優しい志摩子さんには分からないだろうし、そんなこと分かってほしくない。臆病で欲張りな私は、黙って目を閉じて、志摩子さんの手の感触に浸った。この感触を独り占めにするイエズス様が羨ましかった。
 


 道が一本、野を通っている。その西側が極楽で、東側がエデン。私と志摩子さんは、二人で並んでその道を歩いている。
 本当は手は繋いでいるんだ。いつまでだって、どこまでだって。志摩子さんは私の手を握ってくれるし、私と目が会うと微笑んでくれる。だけど私には、志摩子さんの手が離れていくように感じられた。一人だけで、道の東側へ。私の行けないエデンへ。

 
 ただの我侭。私が一番近くありたい、という、本当にただの我侭。志摩子さんのお姉さま、という人と同じように、志摩子さんの心を占めているものが気に入らないだけだ。それが男でも女でも、マリア様であっても。
 恋人でも、子供でも親でもなく。私と志摩子さんはロザリオで結ばれた姉妹なのに。それとは違う、って、分かっているのに。

 布団の中で私は泣いた。小学生以来の涙は、苦しげに枕に吸い込まれていった。この嫌な気持ちがそれに紛れてしまえば、枕を焼くだけで済む。そんな意味のないことしか考えられなかった。


 夢の中で、志摩子さんは微笑んで手を振っていて、私はそれを立ち尽くして見ていた。エデンに祝福された志摩子さんには、もう手は届かないように思えた。それが本当なのか、本当じゃないのかなんて全然分からなかったし、重要でもなかった。
 幸せそうな志摩子さんは、綺麗なマリア様と並んで立っていた。東のエデンで、そこに行けない私へ手を振っていた。
 その姿を見て、私は泣きそうになったけれど。でも、私のロザリオは、こんな時でも志摩子さんと繋がっていた。志摩子さんは手の届かない場所にいるけど、でもずっと、私の姉であり続ける。ロザリオの鎖を握って、それが志摩子さんの手に変わってほしくて、私は二人に一生懸命手を振り返した。やっぱり握った鎖は鎖だったけれど、せめてそれだけは離したくなかった。
 それを離せば、忘れられるって分かっているのに。その絆が私を苦しめていることなんて、ちゃんと脳が計算しているのに。でも、やっぱり私は志摩子さんが大好で、手を握れなくても、頭を撫でてもらえなくても、せめて『姉妹』なんていう部分でだけは、繋がっていたかった。
 必死で手を振る私に、二人はにっこりと笑いかけた。残酷なくせに綺麗な二人が、とても憎らしくて、愛しかった。

 
 吹っ切れたわけでもないし、それこそ、許す許さないの問題ではないけど。志摩子さんのために、大好きな志摩子さんが選んだ道を、私は祝福しなければいけないと思った。夢見は良くもなかったけれど、東のエデンには行けないけれど、私はシスター、藤堂志摩子の妹だから。
 


 
「瞳子」
 言うより早く、私は瞳子を抱きしめた。瞳子はぎゃあ、なんて、まるで瞳子の姉のような声で身を捩った。
「あれ、そんなとこまで似るものなんだね」
「の、乃梨子さん!! 悪ふざけはやめて下さい!!」
 ぎゅ、と両腕で体を抱いて、瞳子は涙目にすらなって、私を睨んでくる。
 あはは、と笑いながら、私は思う。
 私が妹を作る日が来たなら、その子をいっぱい抱きしめてあげよう。沢山頭を撫でて、ずっと手を握っていよう。もし、私がエデンに行こうなんて言い出したら、泣いて、叫んで、力いっぱい腕をつかんで引き止めてしまうような。
 私にはできなかった事をできるような妹を。遠いエデンのあの人を、沢山困らせるような悪い妹を。藤堂志摩子の妹の、二条乃梨子の妹を。

「瞳子、ちょっと太ったんじゃない?」
 志摩子さんが嫉妬するぐらい、素敵な妹を作ろう。私は笑いながら、瞳子から逃げるために散りかけの桜並木を走り出した。