「タ……ェ……ェ」
 もがき、水面をのた打ち回って、少女の身体は引きつった。
 身体の機能が一つずつ停止していくのを感じていた。自分がプールで溺れたということは知っていたが理解は出来なかった。
「アぶ……ェァ……」
 まるでプールの水全てを身体が吸収しているようだった。そうでなければ身体が鉛ででも出来ているとしか考えられないほどの重さだった。
 すぐにその重さは感じなくなる。時間にしてまだほんの十秒足らず。それだけで筋肉が脱落し、心肺は悲鳴をあげ、神経反応が消失した。
 必死に「タスケテ」と叫ぶ。しかし少女には自信がない。もう自分の声が正しく日本語を紡いでいるかどうかも知覚出来ない。
 周囲にいた人間が慌てて飛び込んで、彼らの出せる最高のスピードをもって弾丸のように接近する。気づいてもらうのは早かった。だからあとは冷静になればよかったのだけれど、少女は知らず、叫び、結果多くの水を飲んでしまった。
 最も早く彼女の悲鳴を聞きつけ、最も早く助けに向かった中学生くらいの少女が彼女の身体を抱えあげる。そのときすでに彼女の意識がなかった、というのはもしかしたら不幸中の幸いかもしれなかった。

 気がつくとまず一緒に来ていた小学校の友達が少女に抱きついた。ぽろぽろと堰を切ったように両の瞼から雫がこぼれる。
 仰向けに寝かされたまま、ぼんやりした意識の中で視界を探す。どことなく安心したような父の顔があった。
「中学生くらいのすっごい美人なお姉さんが助けてくれたんだよ」
 そう、しばらく後になって友人の一人に教えられた。少女を助けてプールサイドまで引き上げ、気がついた時にはいなくなっていたらしい。
「中学くらいの、お姉さま……」
 熱に浮かされたように、呟く。命の恩人。いつかどこかで再会出来るだろうか。


 それが少女の最古の記録。
 人を助けることを知り、自分に出来ることで最大の人助けの道を模索した。
 それがシスターを目指した藤堂志摩子という少女を形成する原点にして全てであった。







『ほんの小さな偶然を』

神城蒼







「志摩子さん、御用がなければミルクホールでお話しませんか?」
「ごめんなさい……実はこれから委員会があるんです。またお誘いくださいね」
 軽く会釈をしてから志摩子は歩き出した。スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように。だけどほんの少しだけ早足をして。
 今日は掃除が少し長引いてしまった。このままでは環境整備委員会の活動に遅れてしまう。今日は簡単な打ち合わせの後に、先日の大雨で壊れてしまった花壇の修繕をするという仕事があった。
 同級生の大勢は環境整備委員ははずれくじと言ってやりたがらないけれど、志摩子はこの仕事が好きだった。というよりも労働は基本的に好きだった。
 料理は新しいものを自分の手で生み出したときにすごく楽しいし、掃除も一つ一つ綺麗になっていくのをみるのが好きだった。それも好きだけれど、誰かが喜んでくれるのがたまらなく好きだった。
 環境整備委員はそんな喜びがすごく実感できる素晴らしい委員会だ。

 委員会が決まって、初めての仕事も花壇の修繕だった。手際がわからず、指導してくれる先輩に迷惑をかけるだけで、終わったあとにものすごく落ち込んだのを志摩子は今でも覚えている。修繕しなければならなかった五個の柵のうち志摩子は一つを修繕するだけでやっとだった。
 しかしその次の日、登校するときにその花壇の前を通り過ぎようとして、耳に飛び込んでくる「この花壇直ったんだねー」という声を聞いた。
「用務員のおじさんとかじゃなくて、環境整備委員の人が直したらしいよ」
「そかそか。じゃあ、感謝しないとね」
 そう言ってから、二人の少女はまるでマリア様にするように目を閉じ手を合わせていた。彼女たちはすぐに行ってしまったが、志摩子はそこをずっと動けずにいたのだった。多分、学校で涙を流したのはそのときが最初だったはずだ。
 
「あ、ごきげんよう、白薔薇のつぼみ」
「ええ、ごきげんよう」
 声を掛けられて志摩子は我に帰る。以前は『白薔薇のつぼみ』と呼ばれても自分のこととは到底思えなかったが、最近はだいぶ自覚が出てきたのか、無意識に反応できるようにもなってきていた。
 そういえば、こうやって昔のことをよく思い出すようになったのは姉妹の契りを結んでからだなあ、と志摩子は空を仰ぐ。そこで初めて自分がいつのまにか中にはまで出てきていることに気づいた。
 クスリと笑ってから歩き出す。教室のある校舎と環境整備委員が本拠地として使っている部屋は校舎を挟んで反対にある。なのでこの道は間違ってはいない。いつのまにかそんなところまで染み付いていたんだなぁと今度は自嘲を込めた笑みを浮かべた。
 再び校舎の中に入り、環境整備委員が集まっている二階の第二生物室を目指す。第二生物室は三年生しか使わないから、環境整備委員以外はあまり馴染みがない。そしてドアが一つしかなく、遠慮して後ろから入ることも出来ない。
「失礼します」
 軽くノックをしてから、扉を開けようとする。志摩子が触れる前に内からドアが開かれた。
「あ、志摩子さん。打ち合わせはもう終わっちゃったよ」
 顔をあわせるや否や出てきた少女は言う。委員長も任されている少女で、周囲への気配りがよく出来る少女であった。
「そうですか……ごめんなさい。遅れてしまいました」
「いや、打ち合わせって言ってもたいしたものじゃないから。昨日伝えた通り、これから花壇の修繕。その担当場所を伝えただけだから。志摩子さんは昇降口のところね」
「わかりました。本当にすみません」
 ぺこりと頭を下げる。苦笑しながら委員長は志摩子に付け足した。
「あ、今日は人手が少ないから、一人で担当してもらうことになるんだけど……」
「人手が、少ない……?」
「ほら、外部研修」
「ああ、なるほど。わかりました。今朝見たところ、壊れた場所も多くなかったので、一人でも大丈夫です」
 リリアンでは毎年二年生が学校の外に出て福祉の現場などを生で体験すると言う校外学習が行われる。今日はちょうどその日なので、二年生は学校にいなかった。
 ぺこりお辞儀をしてから志摩子は歩き出す。とりあえず更衣室に行って体操着に着替えなければならない。丈の長いスカートは長時間座って作業をするのには向かないし、なにより制服が汚れてしまう。
 再び中庭にでる。すこし横を向けば薔薇の館が目に入った。
 自然と微笑みがこぼれる。居場所を作る気なんてなかった。しかし志摩子にとって薔薇の館とは彼女の居場所であり、また聖域ですらある。
 ああ、そういえば。今日はお姉さまはどんなお茶を飲んでいるのだろうかと、二階の窓を見上げながら考えた。彼女のお姉さまである佐藤聖にお茶を淹れるのがここ最近のささやかな楽しみだった。
 自分が立ち止まっていることに気づき、再び歩き出す。壊れた箇所が少ないからと言って、一人でやれば十分に手間のかかる作業だ。志摩子は最後に再び名残惜しそうに薔薇の館を振返り、校舎に入っていった。



 やることはそれほど難しいことではない。壊れた、といっても柵を作っていた金具が倒れていたり花の名前を閉める立て札が折れていたりする程度だ。
 倒れたものは直せばいい。折れたものはどうしようもないので、持ってきた何も書いていない予備の立て札にマジックで花の名前を書いて立て直す程度だ。
「え、白薔薇のつぼみ!?」
 問題は、こうして志摩子を見るたびに律儀に驚いてくれる生徒たちである。実は志摩子が環境整備委員会ということはあまり知られていないのだ。あこがれである薔薇のつぼみが手を泥だらけにして花壇をいじっていたら、まあ驚くのも無理はないかもしれない。しかも花ではなく、柵の方というから尚のことだ。
「ごきげんよう」
 しかし志摩子も律儀に立ち上がって挨拶をする。こんな事では作業が進まない。挨拶をかわして校門に向かっていく生徒を認めてから、再び花壇にしゃがみこんだ。
「志摩子も律儀ね……」
 そこに、みるに見かねてかつぼみではない正真正銘の薔薇たる白薔薇さまが声を掛けてきた。
「お姉さま?」
「あー、立たなくていい。たたなくていいからそのまま作業を続けなさい」
 立ち上がりかけて、座りなおす。言われたとおりに作業を続けた。
「今日はどうしたんです? 薔薇の館には行かなかったんですか?」
「んー、特にやることもないしね。それに二年がいないし、由乃ちゃん休みだし、お茶飲んでお開きになった」
「お姉さまは今日日本茶ですね」
「あれ? 何でわかった? お茶っ葉でもついてる?」
 そう言って手鏡を取り出して口の周りを見ている。どれだけ探してもついていないものは見つからない。
「いいえ、ただ、なんとなく。姉妹ですから」
「なんとなく、ねぇ……」
 それからしばらく会話のない時間が過ぎた。志摩子は黙々と作業をし、聖はそれをじっと見つめている。
「あの……お姉さま?」
「ん?」
「お帰りにならないんですか?」
 そう、志摩子はまだ仕事が終わっていない。だから当然ここを動くわけには行かないのだが……。
「そうだねー。たまには志摩子と一緒に帰ろうかなと思って」
 そんな、珍しいことを言った。
 姉妹と言えど二人はあまりべたべたした関係ではなかった。薔薇の館で一緒の時は一緒に帰ったりもするけれど、わざわざ一方を待って、というのは初めてかもしれない。
 そんな提案に、志摩子は微笑んだ。
「そうですね。もう少しで終わらせますから、待っていてください」
 多分、初めて姉に向かって「待っていて」と言った。



 連れ添って夕焼け空を歩きながら、二人で他愛もない話をする。といっても普通の姉妹よりずっと口数は少ない。多くの時間は沈黙が支配している。
 しかしその沈黙は気まずいものではなかった。言葉を交わさずとも二人の間には確かな会話があったからだ。
「志摩子の淹れてくれたニルギリが飲みたいなぁ……」
「そう言われましても、黄薔薇さまが持ってきてくださっただけですから……」
 少し困りながら、志摩子は言う。お姉さまが喜んでくださるのならポットを買ってリーフで淹れる勉強もしようか、などと考えながら。
 以前、薔薇の館に鳥居江利子がおすそ分けと言って多くの紅茶のリーフを持ってきたことがあった。意外なことだったが、聖はストレートよりもミルクティーやフレーバー系を好んだのだ。
「黄薔薇さまの差し入れはありがたい。ありがたいけど、どっちかというと私より祐巳ちゃんの好みに近いんだよなぁ……」
「お姉さまは甘いものよりも辛いものの方が好きですからね」
「あれ、志摩子にそんな話したかなぁ?」
「お姉さまの食べ方を見てると、ある程度わかるようになりますよ」
「偏食してるつもりはないんだけど……」
 会話が途切れる。苦痛ではない。
「お姉さま……お姉さまは、将来なにかやりたいことってあるんですか?」
「……どうしたの? 急に」
「いえ、ただ朝に昔のことを夢に見てしまって」
 言い出せず、ずっと隠したまま死のうと思っていた、少女のささやかな希望。
 それを言い出そうと決意した、きっかけの出来事を。
「……特にこれと言ってやりたいことってないんだ。漠然とした希望ならあるけど、言葉に出来るほどまだ自分でもまとまってない」
「じゃあ、なんでお姉さまはそのような希望を抱くようになったんですか?」
「やけにからむね……。うーん、どうだろう」
 まだ姉妹の契りを結んで数ヶ月だが、普段無関心の志摩子がたまにこのような状態になることがある。情緒不安定と言うか、甘えん坊というか。
 それはおそらく志摩子のささやかな愛情表現だ。深く歩み寄りすぎてはならない。そんな願望もない。けれども、たまに典型的な「姉妹」をやりたくなるときがあるのだ。
 聖はそれを理解している。そんな妹をかわいいと思うし、そしてまた志摩子にも一歩はなれた付き合いを強要していることを申し訳なく思う。たとえ志摩子にとっても今のこの距離が最も心地いいものだとしても、だ。
「そういう志摩子は、どうなの? きっかけ、っていうのかな。あこがれるようになったきっかけ」
 逆に問い返した。志摩子がシスターになりたいというのは聞いていたし、彼女の家の事情も聞いていた。それへの反発、と志摩子は笑いながら言っていたが、この優しい少女がそんな理由だけで自らの将来を決めるとは到底思えなかった。
「そうですね……。実は今日朝見た夢っていうのがそれなんです。簡単に言うと、溺れていた私を助けてくれた夢」
「溺れた? 志摩子泳ぐの苦手なの?」
「足がつったんですよ。ほら、市営プールだと何分かに一回休憩時間ていってみんな上がるじゃないですか。そのときに上がれなくって、水飲んじゃったんです」
「それで?」
「誰も気づいてくれなくて、なんとか水面まで顔を出して、次に気がついたらプールサイドの上でした」
 遠くの空に飛行機の灯りが点滅していた。隣を自転車に乗った小学生二人組が抜いていった。
「現実に?」
「ええ、現実に」
「神様が、とかじゃなくて?」
「私の目が覚めたときはもういなくなってたらしいので、私は見ていないんですけど、人間だと思います」
 間の抜けた会話。すこしぽけーっとしたところのある志摩子との会話は大体こんなものだったりするけど。
「えと、じゃあなんでシスター?」
「シスターにあこがれたきっかけというよりも、本当にシスターになろうと決意したきっかけ、というか」
「人助けにあこがれたってこと?」
「そういうことです」
 志摩子がはぁ、と息を吐くと、白くなって空に上った。そういえば今日はずいぶんと肌寒い。
「おいで、志摩子」
 そう言って、聖は志摩子を近くに寄せた。驚いている志摩子をよそに、自分の首に巻いてあったロングマフラーを志摩子にも巻く。それでも十分すぎる長さで、密着はしていない。
 肩と肩の間にこぶし一つの距離。密着してしまえば歩きにくいけれど、ほんの少し離れるだけでどちらも躓くことなく歩いてゆける。
「ありがとうございます」
 すこし俯いて、マフラーを愛しそうに触れた。聖は空を見上げる。朱に染まった広大な空。端のほうにうっすらと月が見えている。
 お互い気遣うことはない。思い思いの方向を見ながら歩いて、躓かず、またマフラーが絞まることも緩むこともない。
「そういえば」
「はい」
 思い出したように聖が言った。志摩子も顔を上げる。聖は相変わらず夕焼け空を見上げていた。
「私も昔、似たような体験したことあるよ。助けた方だけど」
「助けた方、ですか?」
「そう。あの頃はまだ他人に無関心だったから、どんなこだったか、男か女かすら覚えてないんだけどね。蓉子―――紅薔薇さまに無理やり連れて行かれたんだ」
 蓉子、と言うところに少し怨念がこもっていた。紅薔薇さまのことだ。本当に手段を選らばず無理やり連れまわしたのだろう。
 だけど。なんだかんだでお姉さまは世話をやかれるのが好きなんだと志摩子は思う。多くの人に世話を焼くけれど、本当はだれよりもかまって欲しいと思っているのはお姉さまだと。
「だったら、もしかしたら、あの時私を助けてくれたのはお姉さまかもしれませんね」
 そんな出来すぎな話は、世の中にはあんまりないけれど。
「……そうだね。もしかしたら私が助けたのは志摩子かもしれない」
 彼女は、そう同意した。
 気がつけばバス停のところまで来ていた。志摩子はこのバスで帰るのだが、聖の家は微妙にそれるので、ここで別れることになる。
「……もうすこし、歩いて帰ろうか?」
 だから、そう聞かれたとき、不覚にも涙が零れてしまった。
「し、志摩子?」
「なんでも、ないです……。一緒に、帰りたいです」
 三学期になれば、三年生は学校にあまりこなくなる。だから、白薔薇姉妹が一緒に帰れるのは、もしかしたらこれで最後かもしれない。
 不意に感じたぬくもりに、志摩子は顔を上げた。手袋の上から感じるぬくもり。志摩子は最愛のお姉さまの顔を見上げる。照れてすこし赤くなった顔。多分、こんな顔をさせるのは紅薔薇さまでも祐巳さんでもなく、私だけなのだと考えると、志摩子はすこしだけ心が軽くなった。
「お姉さま」
 藤堂志摩子を作ったものは―――
「ん?」
「私はかもしれないじゃなく、あのときの人がお姉さまだったらいいなって、そう思います」
 神でもなんでもなく―――
「もし、私が志摩子の助けになっていたのなら、とてもうれしい」
 この、愛情表現が不器用なたった一人のお姉さまだったのかもしれなかった。