はじめに。
 この作品は原作である『マリア様がみてる』の設定を改変している部分があります。
 ある登場人物の「死」が描かれます。
 その点をご承知置きの上でお読み頂けますよう、よろしくお願い致します。









『黄薔薇、そうそう』

風見由大





 始まりは、まるで冗談みたいだった。


*


 新入生の中で、特に目立ったのは二名。
 ひとりは小笠原祥子。祖父は小笠原グループ会長という正真正銘のお嬢さま。整った容姿は嫌でも人の目を引き、中等部時代から目立った存在だった。
 もうひとりは支倉令。入学して間も無くに「ミスターリリアン」と称されることになった程の宝塚風の容貌は、一部の生徒に圧倒的な人気を誇っている。
 加えて剣道の実力者。入部したばかりの彼女の胴着姿を見たさに、武道館には人が溢れているとの噂。

 彼女たちが三人の薔薇のつぼみのうち、誰の妹(プティ・スール)になるのか、がもっぱらの注目の的だった。


*


 四月の終わり。ゴールデンウィークを目前に控えたある日、放課を終えて部活に行こうとしていた令はクラスの外が騒々しいことに気が付く。
 「黄薔薇のつぼみ(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン)」という単語を聞き取ったと同時に、入り口付近にいた生徒が令に近づいてくる。
「令さん、黄薔薇のつぼみがお話があるそうよ」
 憧れのつぼみと直接口を聞いてしまったとばかりに、彼女はひどく緊張した面持ちで伝える。

 ドアに向かう令の通り道を作るかのように、人が退く。視線の先には、少し気だるそうな表情を見せている女性が居る。
 大人びた雰囲気と可愛らしい赤色のヘアバンドが、何処となくミスマッチで可笑しい。本人もおそらくそれを承知の上で着けているのだろう。
 黄薔薇のつぼみ、こと鳥居江利子。遠くから見かけたことはあるが、間近で会うのはこれが初めてである。
 なるほど。例えば剣道の試合で実力者と当たる時、それは打ち合う前から既に勝負は始まっている。相手に呑まれないように、気迫で負けないように。
 これは試合では無いから無論、そんな訳は無いのだが。目の前の人物には、どこか人を圧す力を感じる。穏やかな笑みを浮かべているだけなのに。流石はつぼみと呼ばれるだけのことはあるのだろう。

 そのつぼみが自分に何の用だろうか。

 令が言葉を発する前に、江利子はそれを制し「ここではなんだから」と、辺りを気にして場所を移動するように促した。
 確かに、自分のクラスだけではなく、両隣からも何事かと生徒が顔を覗かせている。何の話かは知らないが、やり難い。
 場所を変えれば、そこまでついて来るほどリリアンの生徒は無神経では無い(一部を除けば)。


 もう花が散ってしまい、青々とした葉を見せる桜の樹の下で、改めてふたりは向き合う。
 正直、令は時間を気にしていた。二年生からの誘いとあれば無碍に断ることは出来ないが、さりとて新入部員が遅刻するのは好ましくない。
 そんな令の心内を知って知らずか、江利子の視線は長身の令を上から下へと移動する。
「あなたが支倉令さんね」
 それから少し見上げるようにして、口を開く。
「はい」
 今更違っていたら大変だ、と少しだけ思う。
 名前を確認すると、またしばらく令の顔を見つめる。
 その気は無いが。こうも綺麗な人に見つめられるというのは、やはり恥ずかしい。
「あの、何か」
 令が問い掛けるのを聞いているのかどうか怪しいが、
「ええ……」
 江利子はそこで何故か溜息をついた。
 そして、続けて口にした。

「……詰まらない」

 幾ら上級生とは言え、人を呼び出してから見るだけ見ておいて「詰まらない」は無いだろう。
 さすがの令も気分を損ねる。 

「ああ、ごめんなさい」
 江利子も令の様子に気付いたのか、謝罪する。
「いえ、今年の一年生に剣道の強い子がいると聞いたものだから、どんな子か興味があったのよ。
 そうしたら、とても綺麗な子じゃない。ちょっと予想と違ったと言うか、意表を衝かれたというか……」
 「綺麗」と言われれば、悪い気はしない。それにしても、どんな予想をしていたのだろう。
 そう聞いてみると、江利子は苦笑いをしてから、
「熊みたいな子かなぁ、って思っていたの。強そうじゃない? それに可愛いし。
 私、熊って好きなのよ。だから、少しがっかりしてしまって」
 言って、江利子は微笑む。
「はぁ」
 令は嘆息するしかない。誉められているのやら、失礼なことを言われているのやら。
 初めて話をする、黄薔薇のつぼみは、その外見のイメージとは違って、どうも少し変わった人らしい。
 彼女の用事というのは、本当に自分の姿を確認するだけのことだったのだろう。

「黄薔薇のつぼみ、申し訳ありませんが、そろそろ部活に行かないといけませんので」
 もう少しだけ付き合っても良い気もしたが、遅刻するわけには行かない。
「ああ、そうね。ごめんなさい、時間を取らせてしまって」
 そう言ってから江利子は令の顔をもう一度、見つめる。
 江利子は何か思いついたように笑みをこぼすと「ひとつだけ、よいかしら」と付け加えた。
 令が頷くと、
「支倉令さん、あなた、私の妹にならない?」
 と訊いてきた。

 突然のことに、令は耳を疑う。
 何と言われたのだろう。「妹にならない?」と聞こえた気がする。
 "妹"というのは、当然プティ・スールであるところの"妹"だろう。
 "黄薔薇のつぼみ"が自分を"妹"に誘っている?
 それも、今日初めて会ったばかりだというのに。
 自分が熊みたいな容姿をしていなかったから、がっかりしたと言ったばかりなのに。

 しばらく、まるで呆けたように固まってしまった後、
「すいません、少し考えさせてください」
 ようやくのことで、それだけ口にした。
「ええ。でも、できるだけ返事は早くお願いね。では、ごきげんよう」
 そう言い残すと、江利子は"黄薔薇のつぼみ"と呼ばれるに相応しい、ゆったりとした動作でその場を離れていった。


*


 姉(グラン・スール)を持つ、ということを考えたことはなかった。
 リリアンに幼稚舎から通っている令は、無論姉妹制度のことは知っていたし、何よりひとつ下で従妹の島津由乃は、高等部に入学したら令の妹になる、と普段から言って憚らない。
 だから、由乃の姉になる、ということを考えたことはあっても、誰かの妹になる、というのは令の思考の範疇の外にあった。

 "姉妹(スール)"とは何だろう。
 一般には「下級生を指導するために上級生が特にひとりを選び、ロザリオを授受する」ことと言われる。
 だが、生徒たちの多くはただ"指導"ではなく、それ以上の繋がりを求めるケースが多い。
 かつて心中騒動があった、という噂を令も耳にしたことがあった。

 高等部に通う生徒のほとんどは幼稚舎からのリリアン育ちである。
 端的に言ってしまえば、男性に免疫が無い。恋愛の経験も無いことが多い。
 令はその中性的な容貌もあって、昔から同性に人気があった。自分が擬似的な恋愛の対象にされていることも知っていた。
 それが、令には怖い。
 由乃は良い。子供の頃から、まるで本当の姉妹の様に付き合ってきた。我がままで気分屋で、病弱で儚い従姉妹。
 彼女のことは自分が一番良く知っている。妹とするに、なんの不安も無い。
 だが、自分が誰かの妹になるということは勝手が違う。
 令自身は同性愛に興味は無い。下駄箱にラヴレターが入っていたり、ヴァレンタインに本命チョコを貰ったり、といったこともこれまでにあったが、全て丁重にお断りをしてきた。当の相手も、それは丁度儀式のようなもので、それ以上付き纏われたことは無い。
 だが、もし。それが自分の"姉"だとしたら。
 姉妹関係の縺れの果てに、抜き差しならぬ間柄に陥ることが恐い。
 人に聞かれたら「杞憂だろう」と笑われそうな話かも知れないが、令には真剣な問題だ。

 リリアンには幼稚舎から大学までエスカレータ式で進学する生徒が多い。
 「18年間通い続ければ純粋培養お嬢さまが箱入りで出荷される」と言われる所以である。
 それは要するに、外の世界を知らない、ということを意味する。
 令とて例外ではない。母も叔母もリリアンの出身、ひとつ下の従姉妹もリリアンの中等部。正に典型である。
 閉ざされた世界は、時にひどく歪む。
 姉妹制度は、優れた指導体制であるのだろうが。その閉鎖性故に、時にいびつになることもある。

 だが、今日会った黄薔薇のつぼみは、少なくともそんな気配は無さそうに思えた。
 なぜ令を妹に、と誘ったのか。その意図は分からないが。
 「熊みたいだと思っていたのに」とがっかりしている様子を見る限り、恋愛の対象としているようには思えない。
 また"黄薔薇のつぼみの妹(ロサ・フェティダ・アン・ブゥトン・プティ・スール)"という立場に魅力を感じない、と言えば嘘になる。
 リリアンの生徒である以上、大勢の者はそうだろう。
 
 あまり深い繋がりを求めようとは思わない。
 ならば、今日の誘いを受けるのも悪くないかも知れない。
 ただ、何れにせよ。
 相談しなくてはいけない相手がいるのは確かだ。


*


 翌日、学校の帰りに令は隣家を訪ねた。
 従姉妹であり、幼馴染である島津由乃の自宅。もはや何度訪れたか分からない。勝手知ったる他人の家である。

 由乃は体が弱い。生まれつきの心臓の欠陥だと聞く。
 手術をすれば持ち直す可能性のある病気らしいが、今のところ由乃は手術を受けるのを嫌がっている。
 まだ今日、明日にどうこうというものでもないので。結論は先延ばしにされたまま今に至っている。

 アイボリィの壁に囲まれた、どちらかと言えば無愛想で、あまり女の子らしくない部屋の隅に置かれたベッドの上で由乃は横になって本を読んでいた。
 由乃は令の姿を認めると文庫本に栞を挟み、にこりと微笑みを見せたのも一瞬、体を起こすと、
「どうして、昨日は来てくれなかったの?」
 と拗ねた様子で言った。
「私、一日中待っていたんだからね」
 こういう時の彼女には逆らわないのが一番であることを、令は長年の付き合いで知っている。

「ごめん。部活が長引いたものだから」
 結局、黄薔薇のつぼみに引き止められたのが仇となり、僅かながらの遅刻となってしまった。
 居残りを命ぜられ、素振りを言いつけられたのだが、元より練習好きの令は、ついつい罰である筈の行為に夢中になってしまった。
 結果、由乃の家を訪ねるには遅い時間となり、親しき仲にも礼儀あり、の訓えを守ることとした。
 いや、その心の内には黄薔薇のつぼみからの誘いをどうするか、という相談を保留して置きたい、という気持ちがあったことも否めないが。
「むー」
 由乃はまだ口を尖らせている。
「今日はゆっくりとしていけるから、ね?」
 子供に諭すみたいに、令は笑いかける。
「そうだ、叔母さんに頼んでお菓子をもらって来ようか」
「うん。じゃあ、許してあげる」
 ようやく、姫君は機嫌を直されたようである。

 しばらくはクッキーを食べながら、令が高等部の印象などを由乃に聞かせる。
 由乃はここ数日、また熱を出して学校を休んでいた。
 昨日あたりからようやく体調も戻り、明日には学校に通えるようになるだろうとのことだ。
 三年生でクラス替えが無かったとはいえ、由乃は新生活に後れを取ることになっていた。
 だからだろうか、何時にも増して、令の話を聞きたがった。
 昨日、来なかったのは悪い事をした、と令は反省をする。

 紅茶を飲み干し、ひと息ついたところで、令は本題に入る。
「ところでね」
「ん?」
 由乃はクッキーを口に咥えたまま、令の顔を見返す。
「黄薔薇のつぼみに、妹にならないか、って誘われたの」
「はっ?」
 きょとんとする由乃。
 令は繰り返し、
「黄薔薇のつぼみから、妹に誘われたの。昨日」
 ごほっ、ごほっ。由乃は食べかけのクッキーを吹き出す勢いで咳き込む。
「ちょっ、ちょっと。由乃、大丈夫」
 令は慌てて、由乃の背中をさする。
「う、うん。大丈夫」
「もしかして、体調が悪いとか。どうしよう、お医者さん呼ぼうか」
「だ、大丈夫だってば。令ちゃんがいきなりびっくりさせるようなこと言うから。ちょっと咽ただけ」
「本当にそれだけなのね」
「うん。大体、悪いのは心臓であって、肺じゃないんだから。咳き込んだくらいは大事じゃないよ」
「なら良いけど」
 いまだ心配げな様子を隠せない令に向かって、由乃は、
「それよりも、今の本当なの?」
 と問う。
「何が?」
「だから、黄薔薇のつぼみの妹に誘われたってこと」
 そう言えば、元々はその話をしに来たことを令は思い出す。

 過保護だと、最近由乃に良く言われる。
 幼い頃から半身のように付き添ってきた立場としては、至極当然のことと思うし、子供の頃は由乃もあれこれと世話を焼かれるのが好きだったのに。
 少しは大人になったのか、と思うと令は寂しく思うし、そして自分はまだ大人ではないのかしら、と思うのだ。

 令は昨日の放課後の顛末を由乃に聞かせる。
「くまーっ。令ちゃんが、熊だってぇっ」
 笑われた。
 そしてまた咽てしまうので、令はやはり心配になる。

「黄薔薇のつぼみって変わった方なのね」
 立ち直った由乃が呟く。
「……変わっているかどうかは……やっぱり、変わっているのかもね」
「で、令ちゃんはどうするの? 受けるの、受けないの?」
 由乃に問われて、令は逆に問う。
「由乃はどうしたら良いと思う?」
 令には由乃が全てだ。
 由乃が嫌だと言えば断るし、良いと言えば受ける。
「令ちゃんはどうしたいの?」
「由乃が良い方で良いよ」
 そう言うと、由乃は「はぁ」と大きく溜息を吐いた。
「令ちゃんっ」
 何やら不機嫌そうな声。
「はい」
 思わず居住まいを正す。
「姉妹選びって言ったら、高等部に入ったら最重要と言っても良い位のイベントじゃない。それを私に決めさせようというのは、どういう料簡なの」
「いや、どういうことって言われても……、別にどちらでも構わないし」
「そうじゃないでしょうっ」
「はい」
「確かに、私が令ちゃんの妹になるってことは決定事項だけど。令ちゃん自身だって、誰かの妹になるつもりなんでしょう?」
 正直、令には意外だった。
 由乃は反対するだろう、と令は予想していたのだ。
「由乃は、私が誰かの妹になるのが嫌じゃないの?」
「どうして?」
「だって……」
 (嫉妬みたいなものは無いの?)

 訊こうとして、そんなことを言う自分の方が変なのかも知れない、と思い直す。
 自分ならばどうだろう。
 いずれ自分が三年生になり、由乃が二年生になった時。由乃から妹にします、と紹介される子が居たとしたら。
 正直、あまり想像がつかない。それは遠い未来のことのように思える。
 もしかしたら由乃も同じなのかも知れない。
 由乃と令は昔からふたりだった。
 何処か、ふたりでひとりみたいなところがあった。
 そこに知らない第三者が介在する事態はこれまでに無かったことだ。
 令が姉を持つ。令が由乃以外の誰かと繋がりを持つ。
 それはふたりが初めて体験する出来事だ。
 令はそこに不安を感じている。
 由乃は感じていない。
 ひとつには彼女にはそこまでの想像力が無いのかも知れない。
 幼い頃から病で臥せることが多く、由乃は令以上に外の世界を知らない。
 だから、色々と考え込むまでに至らないのだろう。
 そう思うと、令は悩んでいる自分がひどく馬鹿らしく思える。
 何より。
 そして、そんな由乃が羨ましく思う。
 そんな由乃と一緒ならば、知らない世界も怖くないかも知れない。

 元より。
 黄薔薇のつぼみに対しては、悪い印象は無い。

「私は受けても良いかなと思っているの。江利子さまは素敵な方だったし、正直に言って"黄薔薇の妹のつぼみ"に興味が無いわけじゃないし」
 令が告げると、由乃は
「そうでしょう」
 我が意を得たり、とばかりに頷いた。
「そうよ。令ちゃんが"黄薔薇のつぼみの妹"になるっていうことは、来年は私が"黄薔薇のつぼみの妹"っていうことよね」
 少し興奮したように由乃は笑顔を見せた後、
「それにね」
 と少し落ち着いた様子で付け加える。
「令ちゃんは、私以外の人ともお付き合いした方が良いように思うの」
 意外な言葉。
「もちろん、令ちゃんの一番は私じゃなきゃ許さないけど。あまり、私ばかりに夢中になっていると、周りが見えなくなっちゃうよ。
 私たちの周りには、これまでお母さん達以外に年上の女の人って居なかったものね。どんな人たちなのかな?
 薔薇さまと呼ばれる位だから、きっと素敵な方たちに違いないよね。令ちゃんは、その人たちから、もう少し色々と学ぶと良いよ」
 どうも貶されいるような気がしないでもないが。
「大体、普通は薔薇のつぼみからのお誘いとあれば、もっと浮かれても良さそうなものだけど。それよりも、私の方を優先するなんて。
 それは嬉しいけれど。やっぱり変だよ。令ちゃん」
 そんなものだろうか。
「そうね。折角の機会だもの、お受けしましょう」
「じゃあ、善は急げだから。明日には早速お返事をしておいてね。令ちゃん」

 話をしているうちに、由乃もすっかり元気を取り戻したようだ。この分ならば、明日は一緒に登校できそうだ。
 令は、とても良い気分のうちに島津邸を後にした。



*


 さて、令としては早めに返事をするつもりだっただが。
 由乃と会った翌日に江利子が掴まらず、そのままゴールデンウィークに突入してしまった。
 まさか、自宅も知らないのに調べて押しかける訳にも行かず、気が付けば、江利子に呼ばれてから一週間が経っていた。

 休み明けの月曜日、昼休みを利用して令は薔薇の館を訪れた。
 山百合会の活動拠点となっているこの建物に一般生徒、それも入学したばかりの一年生が立ち入る機会はまず無い。

 扉の前に立つと、何か無言の圧力を受けているような気がする。
 少し、気後れする。剣道の試合でも、なかなか無いことなのに。
 そもそも訪ねたところで、江利子が居るとは限らないのだ。そうなれば無駄足である。
 確実に掴まえるには、直接教室に向かった方が良かったかも知れない。だが、二年生の教室で江利子を呼び出すというのも、これまた踏ん切りのいることではある。

 結局、妹に誘われてから一週間になる。段々と今更、という気がしてくる。江利子だって戯れで言っただけなのではないだろうか。
 いざ会ってみて、江利子に「どなただったかしら」なんて言われたらどうしようもない。

 
 さて、どうしたものか。
 穏やかな春の陽だまりで、令は扉を開けるか、開けまいか。逡巡を繰り返していた。
 らしくない、と思う。
 居なければ、居なかった時の話だ。普段の令ならばそう思うだろう。
 それが、こうやって何時までも、扉を開けない限り答えの出ない問題で、その結論を先延ばしにしようとするということは。
 やはり、自分は未だ迷っているのかも知れない、と思う。
 そうこうするうちに、昼休みは半分ほどを過ぎている。
 まだ昼食を摂っていない。気が付けば、お腹も空いてきた。
 令は結局、教室に戻ろうと踵を返す。

 振り返った、ちょうどその先には、
「あら、お客様かしら」
 紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)が立っていた。
 
 紅薔薇のつぼみ、こと水野蓉子は令の顔をしばらく見つめた後、
「薔薇の館に用なら、どうぞお入りなさい。支倉令さん」
 と言った。
「私の名前をご存知なのですか」
 驚く令に、
「ええ。あなた、なかなかに有名よ。私達の間でもね」
 何か意味あり気な台詞を呟く。
「さあ、では行きましょう。江利子も待っているわ」
「黄薔薇のつぼみが?」
「ええ、今日は都合の良いことにお姉さま方は揃って留守にしているの。今、居るのは江利子と聖だけだから、気兼ねすることはないわ。
 私は薔薇の館を生徒に開かれた場所にしたいの。だから、あなたは大事なお客様よ」

 気兼ねをするな、と言われても。薔薇さま方がいなくても、つぼみが三人揃うだけで令には充分に気後れしそうなのだが。
 しかし、蓉子に誘われて「さようなら」とは言えない。そもそも、江利子に会うために来たのだから。
 その所在が分かったのは好都合なのだ。
 先を行く蓉子に続いて、令は館の中に足を踏み入れた。

「あの、どうして私の名前を知ってみえたのですか?」
「だって剣道部の支倉令と言ったら、入学当初からの有名人じゃない。一応、生徒会の一員としてはチェックをしておかないとね」
 そんなに名を馳せていたのだろうか、令は自分の事ながら疑問に思う。

 階段を上がり、蓉子が会議室のドアを開ける。

「江利子、お客様よ」
 その声に江利子は持っていたカップを机に置き、顔を上げた。
「あら、いらっしゃい」
 そして、令の姿を認めると微笑んだ。
「どうぞ、腰かけて」
 江利子に促され、令は最初は拒んだが、蓉子も一緒になって勧めるものを断り切れず椅子に座る。
「紅茶で良いかしら」
 江利子がキッチンに立って訊いてくる。
 令は慌てて立ち上がるが、江利子に「良いから、良いから」と制された。

「聖はどうしたの?」
「トイレ」
 何でもないような江利子の一言。
 当たり前のことだが。やはりつぼみとて人間なんだ、トイレくらい行くだろう。そう思って令は少し気が楽になった。

 江利子の淹れた紅茶は、とても喉に染み渡った。
 自覚していた以上に、緊張で喉が渇いていたらしい。
 一息つく令を、ふたりは少し離れたキッチンに立ったまま見つめていた。

「おや、お客さん?」
 ほどなくして白薔薇のつぼみ(ロサ・ギガンティア・アン・ブゥトン)、こと佐藤聖がドアを開けて入ってくる。
 つぼみ三人が勢ぞろいする。
「薔薇の館を訪ねてくる初めての新入生だね。……ということは、どっちかの妹?」
 蓉子と江利子は互いに顔を見合わせてから、
「はーい」
 と、江利子が手を挙げる。
「おお、それはめでたい。もうロザリオは貰ったの?」
 聖が令に訊いてくる。
「ちょ、ちょっと待って下さい。私はまだお返事は何とも……」
「あら、でも来てくれたってことは返事をしに来たのよね」
 確認するように江利子が問う。
「え、ええ。それはそうですけど」
「なら問題なし。さっさと江利子を楽にしてあげなよ」
 にかっと聖が笑う。
「でも、私たちが居たら話がしにくいかしら」
「それもそうか」
 聖は壁に掛った時計を見ると、
「早くしないと昼休みも終わってしまうし、蓉子と二人、外で弁当でも食べて来よう」
「そうね、ではごゆっくり〜」
 そう言うが早いか、ふたりは揃って会議室を出て行ってしまった。

 令と江利子が会議室に残される。

「私もお腹空いてきちゃった」
 江利子は鞄から弁当の包みを取り出すと、早速とばかりに机に広げた。
「あなた、お昼は?」
 令の昼食は教室の鞄の中に入ったまま。まさかこんな展開になろうとは思っていないし、たとえ思っていたところで薔薇の館で弁当を食べようと思うほど、令の神経は太くない。
「教室に置いてきました」
 素直に答える。
「そう、それじゃあ早く戻った方が良いわね。では返事を聞かせてもらえるかしら。私の妹になって頂ける?」
「あの、どうして私なんですか?」
 令の中では既に答えは決まっている。
 由乃にも答えたとおりだ。この申し出は受ける。
 それでも、やはり聞いておきたい。
「以前にお会いしたとき、黄薔薇のつぼみは私を見て『詰まらない』と言われました。それなのに、すぐ後に私を"妹"に誘われたのはどうしてでしょう?」
「……もしかして根に持ってる?」
「い、いえ。そういうわけでは」
「一言で言えば、面白そうだったからよ」
「はい?」
「私、面白いことって大好きなの。あなたとなら、きっと楽しい姉妹生活が送れそうな気がするのよ」
「は、はぁ」
 心底、楽しそうな江利子の顔を見ると「そんなものか」と令は思う。
「実を言うとね、あの日より前にあなたのことを見かけたことがあったの。咄嗟には分からなかったけど、すぐに思い出したわ」
「どこかでお会いしましたか?」
「会ったというよりも、私が一方的に見かけただけだから。あなたは知らなくても当然だけど。有凛堂でね」
「有凛堂……」
 それは駅前にある書店の名前だ。近辺では一番規模の大きい書店であり、リリアンの生徒も良く利用している。令も例外ではない。
「ええ、あなたと会う少し前にあそこに行ったときに、ひとりの女の子が小説コーナーで本を読んでいたの。
 何を買おうか、と探しながらね。その子は既に文庫本を二冊ほど手に持っていたわ」
 令には、なんとなく話の行く先が分かる気がした。
 彼女は確かに、二週間ほど前、有凛堂で本を買った。
「その子は、ぱっと見た感じ男の子みたい……悪い意味じゃなくて、それほどに凛々しいって誉めてるのよ……だったんだけど、買おうとしていた本が如何にも女の子だったから」

 そう、令は好んで恋愛小説、取り分け少女向けのものを好んで読む。転校初日に街角で男の子とぶつかって、最初は喧嘩をするんだけど何時の間にか、お互いのことが……、みたいなノリのやつだ。表紙は瞳に星を宿した少女漫画風。
 由乃が時代小説、取り分け剣豪ものを好んで読むのとは正反対だ。
「その意外性がね、なんか印象的だったのよ」
 そうしたら、その少女が目の前に現われたものだから、思わず妹になるように誘い込んだ、ということらしい。

 自分が本を買っているところを見られる、というのは恥ずかしいものがある。
 本というのは、その人物が持つ嗜好を一番端的に現している。
 それを無防備のうちに見られる、ということは心の内を覗かれるに等しいとも言える。

「分かりました」
 令は頷く。そこまで見られていたのならば、そしてそれを見て令を選んだというのならば(多少、動機が不純のような気もするが)、断る理由は無い。
「受けてくれるの」
 江利子の問いに、令は答える。
「ただ、ひとつだけお願いがあります」
「なに?」
「私にはひとつ下に由乃という従妹がいます。今は中等部の三年生ですが、来年は高等部に入学する予定です」
 令はそこでひとつ息を入れる。江利子が「それで」と先を促す。
「その由乃を私の妹にすることを認めて頂きたいのです」
 令の言葉に、
「なんだ、そんなこと。良いわよ。改まるから何事かと思ったわ。実は私は本当に男なんです、とか」
「そ、そんなわけはないですが。……良いのですか、そんなあっさりと認められても」
「良いも何も、あなたの妹はあなたが決めるものよ。私だってあなたのことはお姉さまには全然相談なんてしていないわ。
 勿論、あとで紹介はするけどね。あなたもいずれ、その由乃ちゃん、だっけ? その子を私に会わせてくれるのでしょう?」
「はい、それは」
「なら、問題ないわね。実を言うと、むしろありがたいのよ。山百合会は三人の薔薇さまの姉妹たちで運営されているでしょう?
 特に新学期が始まったばかりは人手不足なの。だって六人しか居ないのですもの。私達も早く妹を見つけるように言われているのよ。
 だから、来年の黄薔薇のつぼみの妹が今から確保されているのは願ったりだわ」
 江利子は頬を緩ませると、
「ああ、勘違いしないでね。私は誰でも良かったけど、あなたを妹にしたというわけではないのよ」
「はい」
 それは分かっていた。彼女が言ったとおり「自分を妹にしたら面白そうだ」というのは偽らざる理由なのだろう。
 姉妹関係に色々と不安を持っていた令だが、江利子とならば上手くやっていけそうな予感がしていた。
「では、今日から支倉令は鳥居江利子の妹よ」
 改めて、宣言した。
「さてと」
 そして時計を見る。
「もう、あんまり時間が無いわね。お腹空いたでしょう?」
 令は無言で頷く。
「じゃあ、これね」
 黄薔薇のつぼみは、ポケットをさぐるとロザリオを取り出す。
 銀に輝く珠と十字。姉妹の象徴、黄薔薇のつぼみのそれとあれば、生徒中の憧れだ。
 それを黄薔薇のつぼみは、まるでお菓子を子供にあげるみたいな笑顔と無造作な仕草で。

 差し出した令の手のひらの上に、ぽんっとロザリオは載せられた。

 なんだかひどく呆気なくて、こんなものかと思う。
 そして、これもまた「らしい」とも。

「それでは、これから宜しくね。──令」
「はい、お姉さま」

 こうして──江利子と令の儀式は終わり、姉妹としての関係が始まった。










*









 由乃が死んだ。

 冬もじきに終わりを迎え、コートを箪笥に仕舞おうかしらという頃。
 桜がつぼみをつけるにはまだまだだけれど、梅ならばそろそろ見頃かしらという頃。
 三月に入って間もない、良く晴れた日だった。

 風邪をこじらせたと言って入院してから、僅か四日後のこと。
 
「すぐに帰ってくるからね」
 そう言って病院に向かった時の由乃は、いつもの由乃と何ら変わりなく、如何にも入院慣れをした彼女が見せる笑顔をしていた。
 だから、令もまたすぐに由乃が戻ってくるものと信じて疑わなかった。
 昨日、見舞いに行ったときも、顔色はさほど悪くなく、時折咳き込む以外は普段と同じだった。
「退屈だよー」
 と令に不満を漏らすもの何時ものことだ。

 今日は定例の山百合会の会合があり、放課後直ぐに病院に向かうことはできなかった。
 二月に行われた選挙により、いよいよ薔薇さま方が一線から退くこととなり、山百合会はこれまでの薔薇のつぼみ三名による新体制へと移行しようとしていた。
 結局、白薔薇のつぼみは妹を作らなかったので、一年生は令と祥子のふたりだけである。
 メンバーの能力はともかく、人数的には多少心許ない。
 黄薔薇のつぼみもそれが分かっているのか、今日も令に向かって、
「はやく由乃ちゃんが入ってくれると良いわね」
 と笑いかけた。

 確実に山百合会のメンバーとして計算が出来る由乃は、確かに心強い。
 由乃の体のことは江利子にも伏せてあった。言えば見舞いに行くだろう、そのような心遣いをして貰うのは却って心苦しいからだ。
 由乃はどうやら、この入院を期に手術を受けることを決意したようだ。
 体力が回復してからになるだろうから、まだしばらく先の話にはなるが、成功すれば健常な生活を送ることが出来るようになる。

 議題は三年生の卒業式についてだった。
 これまで親しんだ薔薇さま方の司会に代わって、江利子や聖、蓉子が仕切る会議は何処となくまだぎこちない。
 だが直に、その違和感にも慣れるようになるのだろう。

 その最中だった。
「一年菊組、支倉令さん。至急、職員室まで来てください。……繰り返します、一年菊組、支倉令さん……」

「おや、何かやらかしたのかな」
 令を見て、聖が軽口を叩く。そして、すぐに真顔になって、
「ともかく、会議は良いから行っておいで」
 と告げた。
 江利子と蓉子も頷いて同意を示す。
 
 胸騒ぎがした。
 うまくは言えないが、とても嫌な予感。
 心当たりはない。
 聖が言うような、自分の失敗位ならばどうと言うこともないが。
 
「はい」
 令は立ち上がると、会議室の扉を静かに開けた。
「令、気をつけて」
 祥子の声が後ろから掛かる。
 何が「気をつけて」なのか良く分からないが、その気遣いが嬉しかった。


 職員室には、母が待っていた。様子がいつもとは違っていた。
 ひとめで分かるのは、母の身を包む黒服。
 隣りには担任の教師が沈痛な面持ちで立っている。

「令、由乃ちゃんが……」
 母の言葉はそれきり、次のを忘れてしまったように途切れてしまう。

 だが、分かった。

「支倉さん、すぐに帰宅なさい」
 担任がそう言うと、ようやく母も思い出したのか、
「校門にタクシーが待たせてあるの。令、病院に行きましょう」

 その言葉に促され、まるでふわふわと地に足が着かないまま令は母の後ろに従った。
 鞄を会議室に忘れてきたと気付いたのは、タクシーに乗った後のことだ。


 病室で横になっている由乃は、どう見ても寝ているようにしか見えなかった。
 体を揺さぶれば、目を擦りながら起きてくるのではないか。
 目覚まし時計を耳元で鳴らせば、うるさいと文句を言うのではないか。

 令は、その考えを実行したい衝動に駆られた。
 父も母も由乃の両親も医師も、由乃にすがりつく令を止めなかった。

 最初は静かに言った。
「由乃、由乃」
 触れた由乃の頬はひんやりとしていた。
「ねぇ、起きなさいってば、由乃」
 じきに激しく、
「由乃っ、由乃ったら。いい加減に目を覚ましなさいよ」
 繰り返す。
「由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃、由乃」
 何時の間にか、どうして自分が由乃の名を繰り返し叫んでいるのか、自分でも分からなくなった。
 涙が出てきた。
 一度流れ出した涙は、もう止まらない。

 窓の外の景色は夕闇に沈んでいく。
 病室に電気が灯される。

 由乃は、目を覚まさない。
 夜になるまで、令はずっと由乃と一緒にいた。

 やがて、自宅に帰らなければならない時間が来る。
 後から思えば、由乃の両親だって同じ気持ちだったに違いない。
 令は自分ひとりの哀しみのようなつもりで、由乃との最後の時間を独り占めしてしまった。

 尤も、そのように多少なりとも冷静に考えられるようになったのは、ずっと後のことだが。
 その時は、とにかく何時由乃が起き出しても良いようにと傍を離れなかった。
 現実は夢としか見えなかった。

 

 通夜、葬儀、納棺、全ては淡々と令の目の前を通り過ぎて行った。
 由乃や令の両親も、おそらく同じような気持ちだっただろう。


 時間は無情に流れる。
 「時間が一番残酷で優しい」とは何処で聞いた台詞だったか。
 僅かなりとも、令の心は現実感を取り戻して行った。
 令が学園を欠席している間に、卒業式は終わっていた。
 最後に薔薇さま方にお別れを告げられなかったのは心残りだったが、ずっと事情も告げずに休んでいる後輩のことなど呆れてしまっているかも知れないとも思った。



*


 令がリリアン学園に顔を出したのは、最後にそうしてから二週間後のことだった。
 数日後には終業式があり、学園は春休みに入る。既に授業は午前中だけになっており、それすらも殆ど無いに等しい。
 それでも授業のノートを取ってくれたクラスメイトの心遣いに感謝をする。
 午後になってから、令は山百合会に足を運ぶ。
 二週間前に置きっ放しになっていた鞄を取りに行くため、そして山百合会のメンバー、取り分け江利子に会うために。

 久しぶりに訪れる薔薇の館は、何故か自分を拒んでいるように見えた。
 以前と変わらず、そこに建っているだけだというのに。だから、多分拒んでいるのは令の方なのだ。
 それでも、重々しく開く扉をくぐり、軋む階段を上り、令は二階の会議室へと向かう。
 ドアをノックするが、返事はない。
 この時期であれば、誰もいないということは無いはずなのだが。
 ゆっくりとドアを内側に押す。鍵は掛かっておらず、ドアは薄く開く。その隙間から、会議室の中を覗き込む。
 がらんと人気の無い部屋に拍子抜けする。
 窓から差し込む陽の光に照らされた室内は、誰もいない。机の上にティーカップが置きっぱなしになっているところを見ると、席を外しているだけかも知れない。
 見える範囲内には、忘れた鞄は見当たらない。誰かが預かってくれているのだろうか。
 しばらく待てば戻ってくるだろう、と一度は中に入るが、さて誰が戻ってくるだろうかと考え直す。
 はっきり言えば、やはり最初は江利子に事情を説明したい。
 他の薔薇さま方にも言わなければいけないことだが、そこは筋を通したい。
 普段、あまり姉妹の絆を意識したことは無いが、こういう時にはなぜか感じるものだ。

 一旦、帰ろう。
 入りかけた体をそのまま後ろに戻す。
 
 
「あら令、どこに行くのかしら」
 振り向いた先に立っていたのは、"紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)"になったばかりの水野蓉子だった。
「えっ……」
 思わず令は絶句する。
「久しぶりね」
 にこり、と笑う蓉子。
「元気にしていた?……とは、あまり聞けないけれど。どうしたの? 用事があるならば、入りなさいよ」
「は、はい」
 従わないわけにも行かず、令は会議室に足を踏み入れる。
 僅か二週間ほどであるのに、そこはまるで初めて訪れる場所のように違って感じた。
「令をこうして会議室に連れて来ると、あれね、ちょうどあなたが江利子の妹になったときを思い出すわね」
 そう言えば、江利子に返事をしに来たときも、蓉子に連れられて会議室まで来たのだった。
 ちょっとしたことなのだが、なぜか運命的なものを感じた。
 これから、江利子に言わねばならないことを考えると。
「あの、江利子さまは?」
 令の問い掛けに、蓉子は「じきに戻るでしょう」と軽く返事をする。
「では、ごゆっくり〜」
 令の背中を両手で会議室に押し込むようにすると、蓉子は出て行ってしまった。

 ひとり、残される。
 本当に江利子は来るのだろうか。その前に聖や祥子が来てしまわないだろうか。蓉子はどうして、何も聞かなかったのだろうか。
 椅子に腰掛け、ぼんやりとする。
 お湯でも沸かそうかとも思うが、そうするだけの気力の方が涌かない。

 由乃。
 その名を、小さく口にする。
 島津由乃。
 今は、もういない。

 そろそろ桜の開花宣言がニュースになり始める。
 春の息吹、出会いの芽生え。新生活の序章。あと三週間もすれば、学園は新入生を迎える。
 過ぎてゆくものは日々に疎くなる季節。

 島津由乃。
 彼女は、令の中で何時までも生き続けるはずだ。
 だが「何時までも」の「何時」とは「いつ」だろう?
 世の理に「永遠」が無い限り、終わりは来る。
 この悲しみが癒える日も。
 それは本当に望ましいことなのだろうか。

 目頭が自然と熱くなってくる。
 右手で、その込み上げてくる涙を拭おうとしたとき。
 がちゃり、と音がする。令は顔を上げ、ドアの方を向く。
「令」
 会議室の扉を開け、入ってきたのは鳥居江利子だった。
「お姉さま……」
 "黄薔薇さま(ロサ・フェティダ)"として会うのは、これが初めてになる。
「今、蓉子から聞いたのよ、令が来ているって」
 嬉しそうな、泣きそうな顔を見せる。
 常にどこかぼんやりとしていて、あまり表情を豊かに表さない江利子にしては珍しい。
 多分、令しか見たことがないのではないか、と思うような顔。

「紅茶でも淹れましょう」
 江利子が流しに立つ。
 令は慌てて「結構です」と断るが、江利子は構わずにお湯を沸かし始めた。
 ポットのブザーが沸騰を報せるまでの時間、江利子は何も問わなかった。

 ほっとするような湯気立つ紅茶。
 こうして江利子に淹れてもらうのも、初めてこの会議室を訪れて以来のことだ。

 何時もよりも多目に砂糖を入れる。
 かちゃかちゃと掻き混ぜるスプーンの音が静かに響く。
 ふぅ、とひと息、紅茶を心持ち冷ましてから、カップを傾け、こくりと口にする。
 舌の上に残る甘さが心地よい。

「さて、何から訊こうかしら」
 令がカップを机に置いたところを見計らい、江利子が言う。

 その微笑に誘われるままに、令は口を開く。
 言葉にしてしまえば、一言だけだ。
 
 『親戚に不幸があったらかです』

 その親戚とは、従姉妹であり、島津由乃であり、将来の妹であり、自分の半身でもあった人。

「そう、辛かったわね」
 途切れがちな令の言葉に、江利子は頷く。

 普段、あまり江利子と令の間に踏み込んだ会話はない。
 言葉にしなくても分かる、というのとも違う。
 互いに少し距離を置き、その距離感を楽しんでいる、と言うのが近い。
 

「そこでお姉さまにお願いがあります」
 ここからが令にとっての本題だ。
 由乃の死以来、ずっと考えてきたこと。

「姉妹の縁を切ってください」

「どうして?」
 意を決して言った令に対して、江利子は変わらぬ笑みのまま問い掛ける。

 令は由乃を妹にするつもりでいた。由乃以外の妹など考えたこともない。
 たとえ四月以降、どのような一年生が入ってこようとも、そのうちの誰かを妹にするなど絶対にあり得ない。
 
「だから、もしこのまま私が"黄薔薇のつぼみ"となれば、"黄薔薇のつぼみの妹"は不在のままです。
 今、山百合会には"白薔薇のつぼみ"も居ません。四月以降、祥子や白薔薇さまが妹を作るまでは、五人になってしまいます。
 お姉さまも、以前に言われました。妹が確実に見込める私が山百合会に入るのは嬉しい、と。ですが、私はもう妹を作りません。
 さらにお姉さま方が卒業されてしまった後は、黄薔薇は、私ひとりだけになってしまいます。それでも、私は妹を作らないでしょう。
 それは山百合会のためになりません。ひいては学園のためにもなりません」

 出来るだけ感情を抑えて、まるで他人事のように説明をしようと思っていたのに、知らず知らず、令の言葉には力が入る。
 
「ですが、私が山百合会を抜ければ、お姉さまは新しく妹をお作りになることができるでしょう。
 その人は、さらに一年生から妹を選べば良いのです。ですから、私と姉妹の縁を切っていただきたいのです」

 「お願いします」と最後に付け加えたとき、令の目には涙が浮かんでいた。

「そう」
 令の話を聞き終わり、江利子は言葉とともに溜息を吐き出す。
「あなたの話は分かったわ。確かにその通りかも知れないわね」
「では……」
「でもね、令」
 江利子の瞳が、令の瞳を捉える。
「それは、あなたの都合よ。山百合会のため、学園のため。そして──私のためだとでも言いたいのかしら」
「……」
 令には分からない。ただ、江利子が怒っていることは理解できる。
「あなたはあなたの言いたいことだけ言って、私の意見は聞いてくれないの? 私はあなたの姉の筈でしょう」
 「あのね」とひと息ついてから、江利子は話を続ける。
「姉妹の縁を切りたい、というのは何故? 本当にあなたが考えているのは山百合会や学園のことなの?
 あなたが由乃ちゃんを失くして、辛いのは分かるわ。でも、それに甘えているだけじゃないの。ただ、自分が辛いから、辞めたいだけなのでしょう。でも、そうとは言えないから、山百合会や学園を持ち出しているのじゃなくて」
「違います!! お姉さま、私はずっと悩んで、由乃が居なくなって、私はどうしたら良いか分からなくて、そんな私がいたらお姉さまや他の方たちにも迷惑ばかりかけてしまって、そもそも私は何の連絡もしないまま二週間も休んでしまって。薔薇さま方の卒業式だって出なくちゃいけなかったのに、出ないままだったし。こんな私じゃ、山百合会なんて勤まらないし。ああ、そうだ。鞄も忘れたままだし……」
「良いのよ、令」
 そう言って、江利子は令の言葉を遮る。
 江利子はやはり微笑んだままだ。
「ごめんなさい、嫌なことを言ってしまって。あなたはとても真面目だから、色々と考えてしまうのね。
 確かに私はあなたを妹にするときに言ったわね。人手不足は山百合会代々の悩みだから……。深い意味があったわけではないのよ。
 それよりも、私が言ったことを覚えているかしら? あなたを妹にしたい理由」
「はい」
 令は頷く。
「私といると面白そうだから、と」
 忘れる訳はない。
「でも、その私と一緒で本当にお姉さまは面白かったのですか?」
 自信は無い。
 山百合会と剣道部の並行で、必ずしも江利子といた時間は長くない。
 休日などに示し合わせて遊びに行った、ということも無い。
 他の姉妹に比べたら、随分とあっさりとした関係だ。
 令は、それでも構わなかった。休日は由乃と過ごすことを優先したかったから。
 そんなことを思うようでは、やはり妹失格だろう。

「あら、あなたの一挙手一投足は面白いわよ。何より、恰好良いし。やっぱり剣道で鍛えているだけのことはあるわね」
 "面白い"と"恰好良い"という言葉は必ずしも両立しないような気がする。
「ふふ、ようやく少し笑ってくれたわね」
 言われて、令は口元が緩んでいることに気付いた。
「あのね、"黄薔薇さま"に代わりは幾らでも居るの。だって、選挙で選ばれた立場というだけなのだから。"黄薔薇のつぼみ"も同じこと。
 "黄薔薇さま"の妹が"つぼみ"と呼ばれるだけの話なの。でもね、"支倉令"に代わりはいないのよ。あなたの代わりは、誰もできないの。
 そして、私が欲しいのは"黄薔薇のつぼみ"ではなくて"支倉令"なのよ。だから、姉妹の縁を切りたいなんて言わないでちょうだい」
「でも、お姉さま。それでも、私は妹を作りませんよ」
「だったら、簡単よ。私が"黄薔薇さま"を辞めれば良いのよ。新しく"黄薔薇さま"は選び直せば良いのだから」
「っ、そんなっ」
「令、私はあなたと姉妹で無くなるくらいならば、そちらを選ぶわ。迷うことなくね」
 江利子が言い切る。
「そんなことをしたら、他の薔薇さま方にご迷惑が」
「やっぱり、あなたは真面目ね。そんな心配をするなんて。……そうね、私が山百合会を辞めると言ったら、蓉子も聖も怒るでしょうね。
 蓉子が怒る顔が目に浮かぶようだわ。
 でもね、令。あのふたりなら、きっと引き止めることはしないわ。むしろ、あなたと姉妹の縁を切った方がもっと怒るに違いないわ。
 私とあのふたりは別に山百合会の幹部だからという理由だけで一緒に居るのではないし、それはあなたとも同じこと。
 それに、こんなことを言うと変だけど。
 周りに何と言われようと、それでも私はあなたと姉妹で居たいのよ。あなたが山百合会に居られないと言うのならば、喜んで一緒に辞めましょう」

 意外だった。
 いつも、江利子は詰まらなさそうな顔をしている。それが地だと思っていた。
 令は自分が彼女の妹として受け容れられているかどうか、不安に思ったこともある。
 また逆に、元々姉妹関係に多くを望まなかった自分には、それが心地よかったこともある。

 その江利子が、これほどまでに自分との繋がりを求めていたことを。
 そして、自分もそれを嬉しいと思っていることが。

「鳥居江利子は、支倉令の姉なの。支倉令は鳥居江利子の妹。それは多分、あなたが由乃ちゃん以外を妹にしたくない、という感情と同じものだと思うわ。
 だから、もしあなたが良いと言ってくれるならば、これからも姉妹で居てくれるかしら」
「はい」
 令は頷くしかない。
 そうだ。
 令は自分のことしか考えていなかった。江利子のことを考える余裕など無かった。
 令が由乃を想っていたように、江利子は令を想っていた。
「ごめんなさい。お姉さま」
 頭を下げる令に、
「良いのよ。あなたがあなたのことしか考えられないのは当然のことだもの。私こそ、酷いことを言ってしまったわね。
 ありがとう、令。私を姉だと認めてくれるのね。普段、らしいことなんて何もしていないのにね」
 そう言って、江利子は小さく笑った。
「では、まず私の家に行きましょう。あなたの鞄は私が預かっているのよ。本当は届けようかとも思ったけれど、あなたの家は知らなかったから。
 それから、由乃ちゃんの家に連れて行ってくれるかしら。結局、一度も会えずじまいだったから、せめてお参りをしたいと思うの」
「分かりました。由乃も喜ぶと思います」
「ええ、そうね。ねぇ、令。由乃ちゃんのことを色々と聞かせてもらえるかしら。私の孫娘のことを」
「……はい」
 令は頷く。
「道すがら、話をしましょう」
 江利子は立ち上がり、机に置きっ放しになっていたカップを片付ける。
 「私がやります」という令に、江利子は最後まで「今日くらいは、私にやらせて頂戴」と譲らなかった。


 想い出。
 記憶。
 言葉。
 手触り。
 会話。
 仕草。

 由乃にまつわる話ならば、幾らでもある。
 自分の愛する人のことを、自分の好きな人に話そう。


 由乃とともに在る為に。
 江利子と一緒に居る為に。
 令が令を続ける為に。

 それが令と江利子、そして由乃、三人の姉妹の関係。
 "黄薔薇"という立場を失うとしても、それは変わらない。



*



 会議室を出ようと、令が扉を開ける。
 途端、誰かにぶつかりそうになる。
「紅薔薇さまに、白薔薇さまっ!!」
 ドアの前に立っていたの、蓉子と聖のふたり。
 いや、その陰に隠れるようにして、もうひとり"紅薔薇のつぼみ"になった祥子も居た。
「いやぁ、奇遇、奇遇。令は元気にしていた?」
 聖がわざとらしい笑顔を見せる。
「盗み聞きとは、良い度胸ね」
 令の後ろに立つ江利子の言葉に、祥子が
「わ、私は嫌だと言ったのです。ですがお姉さまが強引に……」
 と反論。
「あら、令が心配だから、って一所懸命にドアに耳を押し当てていたのは誰だったかしら」
 暴露をしてから、蓉子は
「ま、ともかく。私達もついて行って良いかしら」
 と訊いた。
「私の家に来るの?」
「まぁ、確かに先に江利子の家に行くんだから、そうなるけれど。それはついでよ。私達も由乃ちゃんの家に行きたいの」
「そ、それは構いませんが……」
 思いがけない展開に戸惑う令に、蓉子が頷く。
「じゃあ、行きましょう」
「どっから聞いてたの?」
「最初から、全部」
 要するに、蓉子は令を会議室に押し込んだ後、江利子に令が学校に来ていることを伝え、そのまま会議室の外に居たらしい。

「あのね、実は……私、知っていたのよ」
 祥子が申し訳無さそうに切り出す。 
「令が休んでいた訳。菊組の担任の先生から聞いていたの」
 担任は、同じ山百合会の祥子ならば知っているだろう、と話をしたようだ。
 それに担任は、令と由乃の関係まで知っているわけではない。祥子に話をしたことを、咎めることはできないだろう。
「お姉さまたちには、言おうかどうか迷ったのだけれど」
 結局、今日までは内緒にしていた。
 今日、令が学校に出てきたのを最初に知ったのも、祥子だった。同じ階なのだから、情報が伝わるのも速い。
 すぐに会いに行こうとしたが、なまじ令の事情を知っていただけに、迂闊なことはしたくなかった。
「こう見えて、普段はわりと感情的に動くのが祥子なんだけど、今回は私のところに相談に来たのよ。令が学校に来たけれど、どういう風にして会うべきかって、ね。そこで令が休んでいたのが、親戚の不幸だったとも聞いたの。
 祥子は名前までは言わなかったけど、それが由乃ちゃんのことだとはすぐに分かったからね」
 
 ならば、最初に令は江利子に会いにいくはずだから、それまでは周りは口を出さないことにしよう、と。
 祥子と蓉子は決めた。
 行くならば、江利子の教室ではなく、薔薇の館の方だろう。ただ、令は土壇場で弱気を見せることがある。
 だから、薔薇の館の周りで様子を見ていて、もし令が引き返しそうなことがあれば、蓉子が強引にでも会議室に連れて行くことにした。
 江利子の居場所は常に把握しておいて、令が姿を見せたら、会議室に行くようにすぐに伝えられるようにした。
 聖にも事情を話して、会議室には迂闊に入らないように頼んだ。

「……あなた達も用意が良いわね」
 なかば呆れた顔で江利子が溜息をつく。
「でも、令。良かったわね」

「はい」
 江利子の言わんとするところは、すぐに理解ができた。

 心配をしてくれていた。皆。

「あなた達が山百合会を辞めたい、というならば、それは仕方がないけれど。その時は私達も一蓮托生よ」
「……紅薔薇さまっ。それはもしかして、全員で辞めてしまうということですかっ」
「さぁ、どうしようかしらね」
「それは、さすがに、ちょっと困ります」
「あら、別に令が困ることではないでしょう」
「でも、私のせいで全員が辞めるなんて……」
「ふふ、江利子の言うとおり。やっぱり、あなたは真面目なのね」
「江利子が言ったけれど、私も蓉子も、ふたりとも辞めるよりも、令が辞めて江利子が残る方が怒ると思うぞ」
「……ちょっと、聖。その発言は少しおかしくないかしら。それだと、私は辞めても良いように聞えるんだけど」
「ん? そんなこと言ったっけか?」
 そこで、聖が笑う。

「お姉さま方。いい加減、令が困っています。お姉さまだって、黄薔薇さまが辞めたら大変だと、おたおたしてみえたのに」
「祥子っ、余計なことは言わなくても良いのよ。……ともかく」
 こほん、と咳払いを入れて、蓉子が言う。
「令、由乃ちゃんのことは気の毒でした。こればかりは、私たちがどれほど言葉を尽くしても型どおりの言葉にしかならないけれど。
 それでも、敢えて言わせてもらうわね。
 由乃ちゃんは、この四月には私達の仲間になっていただろう人だし。やはりお悔やみには伺いたいと思います。
 そして、私達にも由乃ちゃんのことを聞かせてもらえれば嬉しいわ。
 江利子、あなたも令も。山百合会を辞めたいというのは仕方ないけれど。やっぱり、あまり許せないわね。人員のことならば心配は無いわよ、四月になったらすぐに聖も祥子もきっと妹をつくってくれるわ」
「なっ、そればかりはその時にならなきゃ、分からないよ」
 聖の反論に祥子も首肯する。
「ちょっとふたりとも。こういう時は、嘘でも合わせておくものでしょう」
 蓉子は苦笑してから、
「とにかく。山百合会には、お手伝いしてくれる生徒さんもいることだし。その点はあまり大した問題ではないわ。
 どう、令? これで辞める理由もなくなったでしょう」
「……ですが、私はこの二週間、お姉さま方や祥子に随分と迷惑を掛けてしまいました。お詫びしても、しきれません」
「あら、令。知らないの。好きな人に掛けられる迷惑は、迷惑とは言わないのよ」
「あなたが辞めてしまったら、二年生は私ひとりになってしまうわ。そうしたら、寂しいじゃない。私は人付き合いが苦手だから、今から新しく黄薔薇さまや、その妹が入ってきたら、ストレスが溜まって辞めてしまうかも知れないわ」
「……ストレス? 祥子が? 祥子、その脅しはあまり現実的じゃない」
「お姉さまっ。余計なことは言わなくても良いのです」

「ありがとうございます」
 令は深々と頭を下げる。
「その、由乃のことはまだ自分の中で整理がついたわけではありません。まだどこかで由乃が生きているような気さえするのです。
 これからも、皆さまにはご迷惑やご心配をかけてしまうかも知れませんが」
 そこで、令は周りを囲む四人を改めて見回し、
「どうぞ、よろしくお願いします。そして、できれば由乃のお墓にもお参りをして頂けませんでしょうか」
 
「だって? 江利子、あなたは?」
「……私は令が残るのなら、辞める理由なんてどこにも無いわ。そうね、……」
 そこで江利子は少し考え込むと、
「今回は、私の妹が迷惑をかけました。ふつつかな姉妹ですが、これからもご指導のほどをよろしくお願いします」
 やはり、深々と頭を下げた。

「まぁ、心配をしたのは本当だけど。迷惑なんて思っていないから」
「そうそう。令、嘘でも良いから笑ってごらん。そのうち、本当に笑えるようになるから。
 大切な人を忘れることなんて、できない。大切な人を失ったら、まるで世界の終わりみたいな気分にもなる。それは誰だって、そう。
 でも、あなたには支えてくれる人がいる。私だって、そのひとり。だから、その人たちと一緒に、笑ってごらん。
 正直、私は今年も妹を作るかどうかは分からないけど。その時は、この私が三人分働くから、心配は要らないよ」
「おお、聖。その言葉、確と聞いたわよ」


*


 薔薇の館を出ると、五人の目に入ったのは、夕暮れの朱。
 一陣の風が、令の頬を撫でる。
 何処からか、一枚の桜色の花弁が運ばれてくる。
 気の早い桜を、令は見送る。

「さあ、暗くならないうちに。まずは江利子の家に行くとしますか」


 由乃。
 自分は山百合会を辞めるのが本当なのかも知れない。
 迷惑を掛ける、とか。そんな理由じゃなくて。
 ただ、あなたが居なくなってしまったら。自分は、それ以上山百合会に居続ける理由は無い。
 それだけでも、辞める理由としては充分。


 でも、許して欲しい。
 もう少しだけ、この四人と一緒に居ることを選んだ自分のことを。
 
 あなたならば、分かってくれると思う。

 
 朱の空を、そうそうと流れ行く薄雲を令は見上げる。

「由乃が病院の窓から夕焼けを見て言ったことがあります」

 問われず、令は語りだす。
 由乃の話を。

 お姉さま方に。
 そして、祥子に。

 由乃と、そして令の仲間に。




【黄薔薇、そうそう 完】