空気をひとつ吸い込むと、他に表現ができそうにない、リリアンの匂いみたいなものがした。乃梨子はその空気を吸い込んで、一度止めた足を再び前に進ませて、坂道を登り始めた。
 あ、と思わず声を出して、乃梨子はまた立ち止まる。いつものマリア像の前に、よく知っている彼女がいた。祈りを捧げている彼女を、通り過ぎる生徒が見て、小さく囁きを交し合う。リリアン学園に在籍する生徒のほとんどが憧れる、山百合会。三つの薔薇。そのひとりである、白薔薇さま。
 藤堂志摩子。
「お姉さま!」思わず、乃梨子は彼女に駆け寄って声をかけた。
 声をかけた後で、それが周囲の注目を呼び込んでしまったことに気付く。気付いて、乃梨子はしまった、と思った。
 乃梨子の視線の先で、志摩子はゆっくりと顔を上げて、乃梨子に向けて微笑んだ。
「ごきげんよう、乃梨子」
「ごきげんよう、お姉さま」
 志摩子の笑顔に誘われて、乃梨子は笑った。
 私は自分で思っているよりもずっと現金だ、と乃梨子は思う。






『サファイアの夏』









 結局あんまり変わらないな、と思う。入学したばかりのころは珍しい高校からの途中入学者、ということでまるで異邦人のような溶け込めなさを感じていたが、例の件があって白薔薇のつぼみ、という立場になってしまってからは、別の意味で異邦人の気分だった。乃梨子が知らなくても、向こうは乃梨子のことを知っている。ある程度覚悟はしていたつもりだったけれど、想像していたよりもずっと、それはストレスだった。
 それでも、仕方ないか、とも乃梨子は思う。彼女の傍にいることを選んだのは自分で、ロザリオを受け取ったのも自分の意思だ。
 自分が選択したこと、受け取ったロザリオの重みが、少しずつ増してくる。
 こんなものなしで、志摩子さんといられたらいいのに、と少しだけ思った。
 いきなり名前を呼ばれて、顔を上げる。どうやら自分が当てられたらしかった。黒板を見て、質問を読み取り、教科書から答えを探す。その作業を数秒で行うと、立ち上がって、答えを言った。
 答え終わり、座ってから、簡単なところでよかった、と思った。
 黒板を写そうとノートを見ると、自分が無意識に書いたのだろう、「志摩子さん」「お姉さま」「白薔薇さま」という文字があって、少し考えてから、消しゴムでその文字を消した。
 消した後で、「志摩子さん」か「お姉さま」は残しておけばよかった、と少しだけ後悔した。

 この学校の空気で普通に呼吸ができるようになったのは志摩子さんのおかげだ、と乃梨子は思う。入ったばかりのころはこの雰囲気に驚いて、戸惑って、自分の居場所はここじゃない、なんて思って、大学に入るまでの腰かけ、くらいに考えていた。
 三年間。たった、三年間だ。それで、この変な学校ともとっととサヨナラだ、なんて。

「ずっと、私は考えていたわ」志摩子は言った。「お姉さまとの、お別れの場面を」
 季節は夏。桜の木の青い葉からこぼれる木漏れ日を見上げると、その木漏れ日の向こうに天国があるんじゃないかと錯覚してしまう。きっと蜘蛛の糸の主人公は、こんな光を目指して登っていたのだろう、と思う。
 ただひとつの光。
「どうして?」乃梨子は聞き返した。
「私とお姉さまとは、学年が二つ違う姉妹だったから」志摩子はゆっくりと手を上げて、乃梨子の胸元に触れる。そこには、あの日渡されたロザリオがある。「だから、同じ学年の他の姉妹よりも先に、別れがくる。それは、わかっていたの。だから」
 お姉さまのお姉さま――佐藤聖という名の彼女のことを、乃梨子は知らない。
「乃梨子は、いきなりどうしたの?」
「……わからない」
 言語化できない抽象的な思考が、いくつも泡のように浮かんでは、消えていった。何故こんな話を切り出したのか、乃梨子には分からなかった。
「わからない」もう一度、乃梨子は繰り返す。
「そう」そう言って、志摩子は少しだけ微笑んだ。
「どうして、笑うの?」
「なんだか、嬉しくって」
「なんで?」
「さあ?」首を傾げて、志摩子はまた微笑う。「でも、お別れは、悲しいわね」
「うん……」
「悲しいだけのお別れは、もっと悲しいわ」
「そう、かな」志摩子の言葉に、乃梨子は少し首を傾げた。
 志摩子の言葉の意味を考える。別れは悲しい。それに、何か違いはあるのだろうか。彼女の顔を見ながら、乃梨子は思う。志摩子さんは経験したんだ、と。大好きな人とのお別れ。それを経験して、今ここに立てっているんだ、と。
 まだ先。ずっと先。だけど。
 志摩子さんがいなくなったら、私はどうするんだろう。
 乃梨子は考える。
 ひょっとしたら、それなりにやっていけるんじゃないか、と思った。
 思って、少し悲しくなった。


「そりゃあね、誰だって、もうダメだ、って思ってても、結構なんとかなっちゃうものよ」
「そうなのかな」
 大叔母の二条菫子の言葉に、乃梨子は曖昧に頷いた。
「そうよ」やけに自信たっぷりに、菫子は頷く。「そうじゃなかったら、人間なんて立ち直れない人ばっかりじゃない」
「そう……かな?」
「リコだって、そうじゃない」
「え、私?」
「リリアンに通うしかなかったとき、ヘコんでたじゃない」
「私、そうだった?」
「ヘコんでた、というより、拗ねてた、かな」
「そんなことない……と思う」
「そう?」可笑しそうに、菫子はにやりと笑った。こういう顔は、歳に似合わず子供っぽい。「ずいぶん最初はトンガってたじゃない? 私はみんなとは違う、って」
「そんなこと……」ない、とは言い切れない。
「まあでも、やっとリコは落ち着いたよね」
「そうかな?」
「うん、表情が柔らかくなった。いい友達ができたんだね」
「そう見える?」
「見える」
「そっかぁ」
「良かったね、リコ」
「良かった……のかな」
「あれ? どうしたの?」
「……私って、贅沢なのかもしれない」紅茶の入ったカップを置いて、乃梨子はソファにずぶずぶと沈みこんだ。
「あらあら」
 菫子はカップの紅茶を飲み干すと、立ち上がって、窓を開けた。
「……夏ねえ」
 そうだね、と乃梨子は適当に相槌を打った。



 私は、世界で一番私を信頼しない人物でありたい。だって、世界で一番私を知っている私よりも、私を信頼しない人が存在するなんて、悲しすぎるから。そして、同じ理由から、世界で一番私を信頼したいとも思う。というか、世界で一番私を知っている私よりも、私を信頼する人が居るなんて、胡散臭いから。世界で一番憎みたいとも思うし、世界で一番愛したいとも思う。世界で一番粗末に扱っていいものだと思うし、世界で一番大切にしなきゃいけないとも思う。



 ふわり、と風が吹いた。
 バインダーに挟んだままだった生徒会関係の書類がその風に流されて、乃梨子は慌ててそれを追いかけた。すぐに追いつけると思ったそれは、乃梨子の手を掻い潜るように気まぐれな風に流されて、やっと掴まえた頃にはずいぶん敷地の外れにまで来ていた。思わず追いかけてきたけれど、書類を追いかけて走るロサギガンティア・アン・ブゥトンというのはかなり面白い状態だったのでは、と思い少し恥ずかしくなった。
 ぱち。ぱち、ぱち、と適当な感じの拍手の音が乃梨子の耳を打つ。振り向いた先にいた人物を見て乃梨子がまっさきに思ったのは、とても綺麗な人だ、ということだった。少し頬にかかったショートカットの髪と、端正な顔立ち。山百合会はそれぞれタイプの違う美人揃いだし、乃梨子のスールである藤堂志摩子がもう絶世の、と形容してもいいくらいの美少女だったので多少は見慣れていると自負していたが、それでも、今そこにいる女性は一度眼を留めると、視線が外せなくなるような雰囲気を持っていた。
「なかなかいい足だったよ。運動は得意でしょ?」
「……ええ、まあ、それなりには」
「で、夏が好き」
「いえそれほどでも」
「なんだ。残念。そうだと思ったのに」
 そう言って、彼女は笑った。そのままで、乃梨子に向かって一枚の書類を取り出す。
「もう一枚飛んできてたよ」
「あ、どうも」
 貰うときに、目が合った。その女性は一度眼を瞬かせると、あ、と小さく声を出した。
「……どうか、されましたか?」
 ぺたぺた、と乃梨子は自分の顔を触る。初対面で驚かれるほどの美人ではないし、逆にそこまで変な顔はしていない、と思う。たぶん。
「なんでもない。ちょっとした偶然で驚いただけ」そう言って彼女は視線を遠くにやった。「マリア様も、なかなか風情ってもんがわかるのかもねぇ」
 何が言いたいのかさっぱり分からずに乃梨子が首を傾げると、彼女はこっちの話、と笑った。
「大学の方ですよね?」
「そうだよ」
「もしかして、リリアンの卒業生ですか?」
「うん」彼女は頷いて、言った。「実は、そうなんだ。どう、この学校は? 楽しい?」
「……入ったばかりのころは、正直うわぁ、って感じでしたけど」
「今は?」
「意外と、そうでもない、です。変に力入れて構えてなくても、ちょっと肩の力を抜いてみたらいいんだ、ってなんとなく分かった気がするので」
 どうして初対面の人にこんな話をしているんだろう、と乃梨子は思った。知らない人だからかもしれない、とも思った。リリアンの内側を知っていて、けれど今はそこにいない人だから?
 それとも。
「優秀だね」彼女は小さく肩を竦めた。「私はそれに気付くまで二年かかった」
 それじゃあ、と彼女はくるりと踵を返す。何か言いたいことがあるはずなのに、乃梨子は呼び止めることができなかった。呼び止めて何を言えばいいかわからないのに、何故かこのままお別れしたくない、と思った。
「そうそう、二条乃梨子ちゃん」
 心臓がひとつ、飛び跳ねるように拍動した。
「君と私は、たぶん、似てる。だからというわけじゃないけど、ひとつだけお節介」
 彼女が足を止める。振り向く。さっきより少し遠い距離。彼女の全身が視界の中にある。
「志摩子は時々、手を引いてあげるといい感じだから。がんばれ」
 そう言って、今度こそ彼女は振り返らずに歩いていった。その姿が見えなくなってからずいぶん経って、乃梨子は大きく息を吐いた。頭の中でいろんな言葉がぐるぐる回って、上手く考えられない。胸に手を当てると、心臓はいつもの倍近いペースで働いていた。
 思いがけない出会いをくれた夏の風が、乃梨子の髪を揺らした。




「そうね」志摩子は言った。「そうかもしれない」
「志摩子さんも、そう思う?」
「全面的に肯定はしないけれど、でも、頷けるわ」
 志摩子は言って、空を仰ぐ。今日も良く晴れた夏の空。二人が何度も出会いを重ねた桜の木は、青い葉を太陽に晒している。夏の日を包み込む大きな空は、どこまでも青く明るく――そして、ため息が零れてしまうほどに遥か美しく、いつまでも遠い。
「別れのときは」不意に、志摩子が言う。「きっと、笑っていられるわ」
「え?」
「別れは悲しくても、それはその時だけで、あとから思い出すのはこんななんでもない、とてもステキな時間なのよ」
「……志摩子、さん?」
「乃梨子は、こういう話がしたかったのではないの?」
「え? えっと、そう、なのかな……」
 乃梨子は首を傾げる。自分をクールだと言っていたのは先輩の祐巳だったか。どこがクールだ、と思う。たった一人のこの人の前では、こんなにガタガタじゃないか。
「お姉さま――佐藤聖さまと出会って、私はなんとか、このリリアンで呼吸することができるようになった」謳うように、志摩子は言う。「祐巳さんたちと出会って、私は笑えるようになった」
「うん」
 先日会った、彼女のことを思い出した。きっと、あの人が『佐藤聖』さまなのだろう。自分の名前を知っていて、志摩子さんの名前も知っていた。志摩子さんとはまったく違うタイプの人で、でもどこか似ている人。彼女と会ったことは、志摩子には言わなかった。確信が持てなかったこともあるし、それを志摩子に告げるのは、告げ口みたいな気がした。
 私は世界で一番私を信頼しない人物でありたい。同時に、世界で一番私を信頼したいとも思う。世界で一番憎みたいとも思うし、世界で一番愛したいとも思う。世界で一番粗末に扱っていいものだと思うし、世界で一番大切にしなきゃいけないとも思う。二律背反でしかない役割のどちらかを誰かに委ねられそうな気がした時に、ようやく私は私であり得るんじゃないか、そんななことを乃梨子はぼんやりと考えた。きっと、志摩子も同じ考えを持っているとなんの根拠もなく思った。
「乃梨子、あなたと出会って――」
 ふわり、と志摩子は微笑う。

 いつか、この場所で。
 いちょう並木の中の、一本の桜の下で。
 一人きりで彼女のことを思うだろう。

 天から下りてくる梯子のような真っ直ぐな光が、志摩子の頬のあたりに落ちていた。どこか知らないところで鳥が一声高く鳴いた。それは夏の声だった。サファイアの欠片を散りばめたような蒼色の風に包まれながら、夏が巡ってきたのだということを知った。
「なんだか、とても毎日が楽しいわ」
 志摩子の言葉が、散っていく桜の花びらのように乃梨子の耳をくすぐっていく。
 私も同じなんだよ。
 そう、乃梨子は思った。

 きっと今まで見たことのない夏が来る、と思った。