扉の向こう。フィレンツェの日差しは、人々を祝福している風。
 私は天を仰いでハミングを鳴らし、かすかな空腹と感心地よい疲労を思うさま感じながら歩き出した。時間に追われているわけではないけれど、なるべく早い列車で、なるべく早くピサへと赴きたかった。
 サンタ・マリア・ノヴェッラ駅までは歩いても二十分はかからない。先ほどまで受けていたレッスンの曲を思い返しながら石畳を行く。ポケットに入っている、飴を口の中に放り込んだ。強いシナモンの香り。初めはなにこれと思いすぐに吐き出していたけれど、今ではなぜか気に入ってしまいレッスンのあとでは御用達となっている。喉より先に鼻腔に清々しさを感じられた。
 空腹もやや大人しくなる。昼食を取る時間はあるけれど、駅でサンドウィッチを買って列車の中で食べればいい。漠然とした焦燥は、私を急かさんと力強く背中を押す。けれどなんて柔らかな力加減の焦燥だろうか。
 紙くずをポケットに突っ込みながら、シズカ、という声に私は振り返った。
「待って、と言ったでしょう」
 アンジェラは不機嫌そうに髪をかき上げながら、アクセントのずれた日本語で言った。
「お昼に、待っててといったのに」
「Come stai?」
「Poco bene……挨拶はいらない」
 ふふ、と私は笑い歩を改めた。アンジェラは不機嫌な表情のまま、横へと並ぶ。私が舐めているのと同じ飴を渡すと、躊躇いもせずにガリガリ噛み砕いてしまった。
 ――Poco bene――気分はいまいち、と答えるだけはある。
「約束したかしら?」
「朝、言った」
「朝は弱いのよ」
「シズカはよく嘘をつくから、信じない」
 実に模範的な鼻の鳴らし方に対して苦笑をこぼすと、彼女はさらに眉根を寄せてこういった。
「朝は低血圧です。Come si dice in italiano?」
「Non lo so」
「勉強不足ねシズカ。日本人は丁寧で有名。けどあなたは怠慢。私は日本人でも怠慢です。Come si dice in italiano?」
「Non lo so」
 すでに慣れたアンジェラのやり返しである。日本にかなりの興味を持っているらしい彼女は、私と同じ私学に通っている。イタリア語が満足に扱えない私と、少なくとも私がイタリア語を使うよりは流暢に日本語を扱える彼女が仲良くなるのはごく自然なことだった。異文化に興味をもつ変わり者の二人、捻くれた会話となるのもまた自然なことだった。
 ――Come si dice in italiano? ――イタリア語で言うと何? 人並みに卑怯な彼女は決まってそういい、ほどほどに語学力不足な私は――Non lo so――わからないわ、と白旗をあげるほかない。
「いいのよ、今は仕方ないもの。けれど驕る平家久しからずという文言を私は信奉しているから、忘れないで」
「ヘイ、ケ?」
 キョトンとした風のアンジェラに微笑だけ残して私は歩を進める。背後からぶつぶつと呟き続ける背の高いイタリアーナを引き連れて。
 駅を目指して路地をいくつか曲がる。抜けた先の大通りは、主に観光客のために大変な混雑ぶりを呈していた。入り乱れる人の流れを縫うように進み、けれど貴重品は肌身離さず持っておく癖は間違いなく渡伊してからのものだ。やがてエスカレータの様な流れに便乗し、特につまずくこともなく駅構内へと到着する。時間表を見るとまだ若干の時間の余裕があったので、駅員室のすぐ隣のベンチに腰を下ろした。
 アンジェラが私の横に腰を下ろして言う。
「シズカ、私はまだあなたの行き先を聞いていない」
「ピサ」
「I stay here」
「ええ」
「時間までは、付き合う」
「メルシー」
 なんでやねん、と笑いながらアンジェラが嬉しそうに言った。一番初めに覚えて日本語がそれだということを、三日に一度は聞いているような気がする。
「何でピサ?」
「日本から知り合いが来るの。マイ、ペンフレンド」
 パチパチと拍手を鳴らすラテンな喜び方をしながら、アンジェラが実に嬉しそうにいった。
「ブラーヴァ! シズカの恋人ね。素敵!」
「残念。レディよ」
「いえ、ウソ。男だからそんな嬉しそうな顔をしてたのね。シズカが朝からにやけていたから変だと思った!」
「急に日本語が上手になったわね。さっきまでは南無阿弥陀仏を唱えていたのに」
「わからない単語を出すのは禁止。いいえ、そんなことよりあなたのフィアンセ!」
 そのベンチでしばらく電車を待つ間、アンジェラは私のいもしない彼氏についての質問を執拗に繰り返した。名前。年。あちらでの関係。私が留学した際に巻き起こったありもしないドラマ。雑然としたホームでは気を紛らわすのにちょうどいいBGMだったので適当に相槌を打っていると、痺れを切らしたアンジェラの怒号がホームの喧騒を塗りつぶした。「そんなに私に取られるのが怖いの!」
 私はこらえきれず高らかに一声笑い、ハンドバッグから、ゴムで一まとめにくくったレターの中で、一番新しい日付のものをアンジェラに手渡した。
 志摩子さんから届いた一番最近の手紙、今日の日程を事細かに書いたそれは実に綺麗な文字で、アンジェラでもひょっとしたら読めるかもしれない。
「あー、シズカ」
「拝啓静様、と読むのよ」
「お元気ですか。この前……いた……ハショ」
「頂いた御葉書」
「読めない」
 本当に悔しそうに、私に葉書を押し返したアンジェラはかわりに内容を話せとせがむけれど、私は黙って首を振った。
「漢字が難しくて、残念ね」
「いじわる。本当にいじわる」
「他人のレターを見ようとするのは、少しはしたないわ。そんな不調法者に親切をお裾分けする義理はなくってよ」
「Come si dice in italiano!」
「あら、残念だけれど時間。乗り遅れたら、大変だから行くわね」
 鼻息も荒く背後でまた何やら大声を出しているけれど、私はかまわず歩き出した。イタリア語でも、スラングだけはおぼえる気にはならない。
 キップのスタンプを忘れることなく押し、滑り込んできたインディゴ・ブルーの列車に乗り込んだ。番号どおり窓際の席に腰を下ろして一息つくと、リリアンの生徒たちがさりげない異国の文化に一喜一憂するさまが思い浮かんだ。改札口を通さずに、キップへのチェックは自分で入れてで列車に乗るという、ただそれだけのことでも写真に収めてしまわんばかりの大冒険なのだろう。
 実体験も含め、その想像は十中八九といったところだ。
 アナウンスが流れ、ややして風景も流れていく。眠たげな陽気の中を車窓は軽快に走っていく。
 花の都といわれたフィレンツェ、聳え立つドゥオモより街中の民家に至る褐色の屋根たちはどれほどの長い時間、この芸術の箱庭を見続けてきたのか、と思いをはせてみた。しかし思うにもたやすくない時の彼方より、変わることを拒み続けた世界一長閑な町並みを、私はただ見つめ続けることしか出来ない。
 美と復興の町は、それを愛する人ならばすべからく受け入れてくれるという。ならば私も見守ってもらえるかしら、と嘯いてみる。
 無言の天蓋を、途切れるまで飽きることなく見送った。

 途中の駅でサンドウィッチを買って昼食を済まし、文庫本片手に揺られていると、体感時間ではさほど長く感じるまもなくピサへと到着した。田園風景の中は時間が緩やかに流れるものだとばかり思っていたけれど、残念なことに錯覚だったらしい。
 正午と半分やや過ぎた長針を確認した。斜塔に向かうには普通ここからバスに揺られていくのだけれど、今時分はちょうどお昼時なので、押しかけるタイミングとしてはあまりよろしくないように思われた。別段疲れがたまっているわけでもないので、徒歩だとしても苦ではない。
 あまり近代的な都市ではないピサでは背の高いビルディングが少ないので――フィレンツェにもないけれど――斜塔は遠くからでもすぐに見つけることが出来る。道々でもわかりやすく標識が出ているので、間違っても道に迷うことはない。出来るだけ建物沿いの、影を選んで歩いた。今の気温では、油断すると汗がとまらなくなってしまうので、無理せずペースを守り、かつ日陰を歩かなければみっともない格好での再会となってしまう。
 歩き続けピサのドゥオモにたどり着いたのが、一時を回った辺り。以前にバスで向かったときは十分と少しくらいかかったのだけれど、歩いてみれば二十五分ほどであった。
 目前のドゥオモ、フィレンツェのそれとはまた違う美しさに溢れている。大理石でその身を編んだ世界でも最も古よりあるカテドラル。クーポラとそれを包む回廊の白美的な景観に魅入っているのは、私一人ではなかった。世界のあらゆる国々からの来訪者たちが、立ち止まり感慨を咀嚼している。
 次に私は公園をぐるりと一周し、このあたりでは最もわかりやすい斜塔の入り口を目指した。志摩子さんともそこで待ち合わせをしている。
 特に迷うこともなく私たちは再会を果たすことが出来た。
「静さま」
「志摩子さん」
 束の間見つめ合って、どちらともなくゆっくりと歩き出した。斜塔に背を向け、周りの公園をゆっくりと歩く。不思議なこう着状態は柔らかく、お互いを縛ることはなく、半年前を反芻する甘いサプリメントのようだった。
 沈黙がちょうどいい塩梅で二人の間にあった邪魔な壁を取り払ったとき、ちらりとこちらに視線をむけ――けれど私は気付かない振りをして――彼女が先に口を開いた。
「お久しぶりです。こちらでは」
「ううん、挨拶は文で何度も交わしたからお腹一杯。せっかく会えたのだから、なにか他の話をしましょう」
「はい、そうですね。ああ――私少し緊張してるのかしら。会ってしかいえないご挨拶がまだでした。ごきげんよう、静さま」
 少し俯きながら、けれど微笑みながら彼女は言った。私も自分の心境を再確認する。
「ええ、ごきげんよう。緊張だというのなら、私もそうね。でもそれは会えて嬉しい人の声を、久しぶりに聞けるから。あなたもそうでしょう?」
「そうです。本当にそうですわ」
 観光者たちは他のものは目に映らないかのごとく斜塔を目指している中で、私たち二人だけまったく違うものを見ていた。目には見えないものを。
「声楽のお勉強ははかどられていますか?」
「ええ。異国だし、根本的に文化も違うから難しいところも多いけれど、音楽に国境はないとも言うから。修学旅行の方はどう? あなたには得ることが多いと思うのだけれど」
「本当に、私にとっては生涯忘れられない旅になりそうです」
「最後の審判の絵は見たのかしら?」
「ええ。言葉に表せない美しさで、思わず」
「泣いてしまった?」
「やだ……」
 その後、話はそのまま修学旅行の日程をなぞり、時折それ、つまりはありふれた話題ばかりを選ぶように会話続いた。
 ありのまま、あるがまま、そして思いのまま私たちは、なんでもないことを話す。
 何気ないことこそが、人の純心に違いない。
「ゴロンタは元気にしているのかしら」
「この頃姿は見てませんし、噂も聞きませんけれど。便りがないのがいい便りともいいますし。静さまも、ゴロンタとお呼びになるのですね」
「あの人がそう呼んでいたから」
 風が舞った。斜塔から吹いてきたのだろうか、いや地中海からかもしれない。イタリアらしい高い太陽に育てられたそれは、とても穏やかな気配をまとってくるくる回る。この風が大陸を越えることはあるのだろうか。
 わからないが、風は届くだろう。
 志摩子さんをうながして、公園の芝生にお邪魔することにした。上手いことに木陰がさしているので、ほどよい涼しさの中で私たちは共通の事柄に思いをはせたに違いない。彼女が躊躇いがちに口を開いた。
「聖さまは」
「変に気を使わなくていいのよ」
「すいません」
「気を使わないでったら。あなたはたまに、そういうところがあるから心配。無用な心遣いは副作用も備えているの。だからこの先も、ちゃんと考えて処方しなさい」
「はい」
「それであの人が?」
「変わらず元気です」
「よかった」
 風よ。
 極力、あなたを思うことはしなかった。未練という感情に、もしかしたら手を伸ばしてしまうと考えたから。
 私がこの道を選択したとき、見送ってくれたあなたの気持ちに反してしまう。
 未来へと続く道は幾通りもあり、しかし一通りしか歩けないこの道程ならば、決して鳴らしてきた足音に耳を傾けはすまい。
 大事なのは今で、明日へと続く足跡を刻むこと。佐藤聖という名の貴方は、私にそれを望んでいるに違いない。
 少しだけ喉に渇きを覚えた。懐かしさと唾を一緒くたにして飲み込んで、誤魔化してしまった。
 不意に花の名を呼ばれた。
「あの、もしかしてロサ・カニーナでしょうか」
 声の主は、志摩子さんと同じ藤組の子だろう。残念ながら名前は覚えていない。
「ごきげんよう。あの、私選挙演説のとき遠くから見てまして、その」
「そう、見ていてくれたの。ありがとう、と心から」
 選挙を見ていた、のならば勝者と敗者が親しげに話しているのはやはり違和感があるものなのだろうが、それでも他に何人もの生徒たちが私に声をかけるためにやって来てくれた。
「静さま、お会いできて光栄です。声楽のお勉強、頑張ってください」
「ありがとう。とても力になるわ」
 今。私は心の底から、この一本を選んだことを誇りに思う。すでに遠きリリアン、けれどこんなにも私を覚えていてくれた人たちがここに。
 おぼろげな思い出であろうと、彼女たちの中でロサ・カニーナという花びらが残っているという、そのことに私は自分で驚くほどの充実感を覚えた。

「祐巳さんたち、もうそろそろ到着するかしら」
 私は呟いて時計を覗き込んだ。一時二十分になろうかという時間であった。
「藤組の自由時間は何時までだったかしら?」
「二時です」
 あと四十分ほどでこの逢瀬は終わるということ。惜しくも悲しくもない。今生の別れではないのだから。
「予定では、祐巳さんたちもここに合流するのでしょう?」
「はい、そういうことになってますが……」
「あなたたちを、是非招待したい場所があったのに。もし間に合わないのであれば、私たち二人で洗礼堂に行きましょうか。祐巳さんたちには悪いけれど、あなたはもうすぐ行かなくてはならないのだから」
「まあ。どこですの?」
「ほらそこの」私は指をさした。「あの丸い形をした建物。洗礼堂よ」
 なぜそこなのか、彼女にはわからないだろう。理由を聞かれたけれど、私は首をふって拒んだ。
 ピサへと寄る、と知ったときから彼女たちには洗礼堂を案内しようと考えていた。にわかには信じられないほどに美しい共鳴を繰り返すかの造りを、きっと気に入ってくれるに違いない。贈り物は趣向を凝らすほどに、楽しいのだから。なのにネタをばらしちゃうなんてそんな無粋なこと――大事なプレゼントを、わざわざ包み紙を破いて手渡す人がどこにいて? 
「そろそろだとは思うんですけど」
 志摩子さんがそう言った途端、聞き覚えのある声がした。ある意味一番楽しみにしていた声である。噂をすればというけれど、やはり彼女はここぞという時をわきまえているのだと、感心してしまった。
「まあ、祐巳さん」
 私は振り返らなかった。芝生に腰を下ろしたまま、立ち上がろうとする志摩子さんに向けて私は小さく呟いた。
「しー」
 そして人差し指を立てて唇に添える。
 秘密。
 はにかんで、そして私も笑みをたたえて、駆け足が近づいてくるのを心躍る気持ちで待った。
「ごきげんよう」
 息を弾ませて、その声。懐かしくて、笑みを誘わずにはいられないその仕草。半年前と同じ、あどけない横顔。
「ごきげんよう」
「藤組も来てたんだ」
「ええ。祐巳さんたちは、サン・マルコ美術館の後に来たのでしょう? 私たちは、まずこちらから来たのよ」
「そうなんだ」
 弾んだ息がようやく戻りそうなのか、右手を胸に当てて軽く深呼吸をする彼女は、けれど半年前よりは大人びた横顔をしている。
 きっとたくさんの小さくて、大きな事件があったに違いない。そのたびに彼女は道を選んできた。
 時につまづき、時に立ち止まったこともあるかもしれない。人々に教え諭され、なんとか暗がりを抜けたのかもしれない。
 でもそうして笑っているのなら、多分あなたは後悔のない一本の道を選べている。選んでいく。
 ほほえましい気持ちで見つめていると、何気ない仕草でこちらを向いた。
 不思議そうな顔をしている。あれ? といった顔だ。
 告げる。
「ごきげんよう。祐巳さん」
 目まぐるしく、楽しく表情をくるくる変えて、実に彼女らしい慌て方を見せてくれた。ロサ・カニーナ、と叫んだのは祐巳さんと一緒にやってきた島津由乃さん、武嶋蔦子さん、山口真美さんの三人。三人とも顔と名前が一致する有名人ばかりで少し助かった。
「静さまっ!? どうしてっ」
 まさかお化けや幽霊の類ではないか、と確かめるように祐巳さんは座り込んで私の肩をポンポンと叩く。
 しかしなんとも当たり前のことを聞いてくれる。あなたたちに会いに来た以外、目的があろうか。
「それにしても、よくスケジュールがわかりましたね」
「情報を漏らしてくれたペンフレンドがいるのよ」
「ペンフレンド? それってもしかして」
 四人そろって、示し合わせたのかといぶかしんでしまうくらいにはっとしたリアクションをしてくれた。私と志摩子さんがしているとは思ってもいないのだろう。私とあの人が、と思うのがやはり自然な考えなのだろうか。
「志摩子さんよ」
 期待通り、再びええっ、とサービス精神満点に驚いてくれた。志摩子さんにも、私たちが文通をしていることは黙っているほうが面白い、と伝えておいてよかった。こういう反応をイタリアの地で見るのは中々難しい。
 しかしやはり、蟹名静と藤堂志摩子の関係はやはり少々奇妙に映るのだろう。言い方は悪いけれど、この二人の間には因縁に似たものがあったことは間違いない。ただその因縁というものは、運命という呼び方にすげ替えることも出来るものなのだ。その関係を朗々と語るに意味はなく、周囲の耳を気にすることもない二人だから、往々にして周りとのギャップは出てくる。それを面白がることが出来る私にとっては楽しみなのだけれど。
「ちょっとよろしいですか」
 不意に挙手が出た。
 新聞部の山口真美です、という前置きのあとに佐藤聖がイタリアに来ていると噂が立っているが何か知らないか、と質問を受けた。私に思い当たる節はないので、志摩子さんに振る。
「聞いている?」
「いいえ?」
「私も聞いていないわ。来ているんだったら、連絡をくれたっていいのに。私の家の住所も電話番号も教えてあるのよ」
 言いつつも私は、もしイタリアに来ているとしても連絡はくれないだろう、となんとなく想像した。気が向いたらひょっとするかもしれないけれど、気が向かなければ電話すらない。そういうのを、とても自然で、気遣いすらいらないという間柄と受け取ってもバチは当たらないはず。否定されない限り、私にはそう思っていい権利がある。この場合は、否定しないあの人が悪いのだ。
 さて、とスカートについた芝生を落として私は立ち上がった。
 では、愛しの後輩たちに、私に出来るせめてもの贈り物を贈ろう。なにぶん、拙いもので恐縮ではあるけれど。
 チケットを買い、仲良くそろって中へと入る。白い石柱が正しく並び、天井も高いので雰囲気は自然と厳かなものとなる。実際この洗礼堂の造形は非常に美しく、ゆえに木霊す不思議が生まれたのだろうか。
 しかし大きなお風呂場、とはよく言う。祐巳さんに感想を聞いたところ「大きなお風呂場みたいですねぇ」とずれていると思わせて心地よいほど的確な感想を述べてくれるのだから、飽きない。
 やがて全ての扉が閉じられて、内部は薄暗い密室となった。ガイドの女性が洗礼盤の方に進み出て、辺りが静まるのを待ってから、ポンと手を叩いた。
 過ぎては戻る音の波。打ち消しあい、高め合い、響きは石の音色を宿して反響しあう。祐巳さんが目を輝かしてこちらを見た。まことに、大きなお風呂場である。うなずいて私も微笑んだ。
 ガイドが「ラ」を二度、三度と発する。跳ね返る音は質が少し変わるので、二度目三度目の音と巧みに混ざり合い彩られた和音は綺麗なものだった。拍手が巻き起こる。それに乗じて、私はガイドの元へ行って、自分が声楽を学んでいる学生であること、後輩に披露したい曲がある、と告げると快く舞台を譲ってくれた。
 場が静まるのを待って、私は天井に向けて音を発した。跳ね返る音色の変質を考えると、どうも当てはまる曲が思い浮かばなかったので、即興で編んでいくしかない。響かせて音色。空間に、私の唄が染みていく。ああ。唄に心を染みこませる。ならば聞く人の心にも染みるかもしれない。反響するの私の唄だった誰かの唄に、新しい私の唄を重ねる。重なり合ったソとシとレ。響いて。
 唄の終わりと音の終わりにはわずかな時差があった。頭を下げる、と同時にばれてしまわないようにこっそりと手の平の汗を拭いた。全ての音が消えてしまうと、次には轟くような拍手の音で埋め尽くされた。中には握手を求めてくる大袈裟な人までもいる。
「何ていう曲ですか」
「即興。既製の曲で、綺麗に響き合うのを思いつかなかったの」
 言いながら、表へと出た。途端にパシャリと写真を撮られる。武嶋蔦子さんである。洗礼堂の中は撮影禁止となっているわけじゃないけれど、フラッシュやシャッター音で邪魔をしたくはなかったのだろう。仁義を心得た子だ。
「一度やってみたかったのよね」
 小さく舌を出していった。
「あなた方をだしにしたのよ」
 言いながら、手の平の汗をもう一度ぬぐった。静さま、汗が。なんて言われたものなら、格好付けたいままでの全部が台無しなのだから。
 確認すると時刻は一時四十分。どうやら桃組の子達は斜塔へと上る時間になったらしく、いそいそとスリルを味わいに駆けていった。
 再び私と志摩子さんの二人。彼女ももう行かなければならない、とのこと。
「素敵な唄でした」
「ありがとう。実は少しだけ緊張してたの、ってあなたにだけ言うけれど」
「聞き惚れてしまいました」
 お手紙、書きますね。ごきげんよう。そういい残して彼女は藤組の集合場所へと歩いていった。
「いいえ。次は私の番よ」
 木陰のベンチに腰を下ろして、ハンドバッグから葉書を一枚取り出した。そのままバッグを下敷きにして、そらで覚えている番号と住所を書き込んだ。
「さて、何を書こうかしら」
 ペンを握り思った。この葉書が届くのは、彼女が帰宅した翌日、といったところだろう。なら書くのは一つしかない。
 二度目の時差ぼけはどう? ――書き始めはするりと出てきた。 


 ピサ駅の階段を上って行く。三時になろうか。ほのかに夕暮れの気配が辺りに漂い始めていた。
 あの後、真っ青な顔で斜塔から出てきた祐巳さんとしばらく話した。
 どうやら祥子さんにお葉書を出したいようで一枚譲ってあげ、なぜか切手の分のお金だけは返してもらった。時に強情なところがある、けれど人間悪癖の一つや二つなければいけない。
 いい姉妹だと思う。葉書に、ごきげんようお姉さま――チャオ・ソレッラと記した微笑ましいエピソードがそれを如実に語っている。
「姉妹。スール。ソレッラ」
 羨ましい、という気持ちはあまりない。私と福沢祐巳とも藤堂志摩子とも違う人間なのだから、比べることは全くの見当違い。それもまたあり得たはず、ありえなかった道だから。
 ちょうど列車が到着したのか、下車した人々が流れになってやってきた。脇に避けて、不意に日本語が聞こえた。
「ちょっと佐藤さん、そんなに急がないで」
「早く早く」
 どこか懐かしい感じの声。そしてその声を私が聞き違うはずがない。
 私は愚かだった。風が大陸を越える必要などない。
 二歩三歩、それだけを越えればいい。私は振り返らなかった。風は届いたのだから。
 二度目のキップを買い、再びサンタ・マリア・ノヴェッラ駅に戻ってみると、時計は四時の辺りを指していた。多くの観光客の流れに身を任せ、ホームの出口へと向かう。通りがかったときに何気なく目をやった駅員室の脇のベンチに、アンジェラが座っていた。特に驚くことはなかった。なんとなくいるのではないか、という予感はあったのだ。
「他に用事はなかったの?」
「I say,I stay here」
「Yes……そうね、確かに」
「フィアンセ?」
 アンジェラが何時間も前のことを再び蒸し返した。けれど冗談めかした風ではなく、なぜか真摯な瞳に少々気おされた。
「違う。フィアンセじゃないわ」
「じゃあ友達?」
 少し、浮き足立った気持ちだった。彼女にだけ話すのならば、このちょっとした嘘くらいマリア様もお許しになるだろう。
「いいえ。私の姉妹たち」
「姉妹たち?」
「ええ」
「そう。楽しかったのね、シズカ。いい顔してるもの」
 グラッツェ。告げてからしばし私は久しぶりの再会たちを彷彿した。楽しかった。そう、楽しかったのだ。
 一も二もなく、楽しかった。朝から浮き足立つくらいわくわくしていたのを、今なら認めてもいい。グラッツェ、リリアーナ。そして愛しの白い薔薇。今日だけのソレッラ。
「けれどアンジェラ、あなたはどうして」
「私が、あなたに用がある、と言ったのを忘れた?」
「そういえば」
 とぼけた私にずいっと近寄り――模範的に――軽く足を踏みつけて――とても模範的に――忌々しげに耳元で囁いた。
「フラれたのよ。ワイン飲むから、あなたも一緒よ」
 私の返答など気にもしないのか、強引に手を掴んで歩き出したアンジェラは、人並みをかきわけて一直線に石畳を踏んでいく。ここでも一つの選択肢。明日の予習をするか、彼女に付き合ってつらい半日を過ごすか。けれどどちらの道も途切れることなく先へと進んでいくのなら、今は傷心した彼女の影を踏むという道も悪くはないかもしれない。

 私は今、フィレンツェの風の中。