奴らは仏の顔を三度舐めてニヤリと笑う

竹仙人




「ごきげんよう」
「あ、優先輩、ごきげんよう」
「ごきげんYO!」
「ごきげんうるわしゅうっ、皆様方」
「ごきげん」「よう」

 字面だけ見れば気持ちさわやかな朝の挨拶が、どんよりとした曇り空にこだまする。
 お釈迦様のお庭に集う漢たちが、今日も三蔵法師のような穢れきった笑顔で、それほど背の高くない門を通り抜けていく。
 未だ女体を知らない心身を包むのは、学ラン。
 ズボンのベルトはやや緩め、すず黒い制服の前は全開で、ワイワイガヤガヤと歩くのがここでのたしなみ。もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった生徒は日常茶飯事だ。
 私立花寺学院。


 中略。


「……気持ち悪いからやっぱやめよう。アリスは似合ってるけど」

 上から数えて、柏木優、有栖川金太郎、小林正念、高田鉄、薬師寺昌光&朋光。で、最後に異論を唱えたのが、生徒会長の俺。さっきの、男がやると気持ち悪いことこの上ない挨拶を地で行く女子高、私立リリアン女学園に同級生の姉を持つ、早生まれのタヌキ顔。本名は福沢祐麒だけれど、なぜが生徒会のメンバーからはユキチで通っている。それもこれも柏木さんちの優ちゃんのせいだ。ちなみに姉は祐巳。

「ほら、そうやっていつもユキチは反抗的なんだな」

 登校中に買ってきたとか言って、風船をぷっぷく膨らませながら、その合間に言葉を飛ばしてくる器用さ。成績優秀スポーツ万能文武両道喧嘩上等品行方正、などなどのキワドイ謳い文句が全部似合う柏木先輩略してすぐタンは、教師受け後輩受けしそうな立ち居振る舞いとは裏腹に、生徒会メンバーからはひたすらキモがられている。
 なぜかって、変態だから。
 「俺のことはすぐタンでいい」って真顔で言い切るくらいの変態だから。
 これ以上ない明瞭さ。
 もちろん、本人の前では誰一人そう呼ばない。
 陰では思いっきり呼んでいるあたり、凄く嫌だったりするけど。

「第一、俺らがリリアンの真似してどうしますか。男の園にごきげんようって、アリスがボーズ頭にして押忍押忍言ってるくらいミスマッチじゃないですか」
「そうかな正念、本当に君はそう思うか? それは心の底からの叫びなのか? 実は一ミリく
らい、これ流行ると楽しいかも、とか思ったりしてないかな?」
「そりゃ、一ミリくらいは。でもそういう娯楽感覚の期待って、いざ実現したらひたすら寒いってのが相場じゃないですか。現にこのメンバーだけでやっても、ユキチも寒そうだし、俺もそうだし」
「いやいや、ユキチは表向きは嫌がっていても、実はもう心底気に入ってるに違いないから」
「気持ち悪いって言葉をどう曲解したらそんな結論が出せるんだよ、あんたは」
「愛情の裏返し。お気に入りほど辛く当たってしまうという一種の天邪鬼だな」

 勝ったとばかりにあはは笑いするこの人は、いつか殴り倒したい人リストの筆頭だ。
 こうと決めたらあの手この手で実行に移す人だから、役員総出でストップかけても収まるかどうか。

「まあ、正念とユキチが素直になれないのは分かった。だが、アリスはOKだろう?」
「うん……まあ」

 躊躇いがちに頷くアリスにとっては、ジレンマだろう。自分にとってはそうなって欲しいが、俺たちまでそれに倣うとなると、今朝のような挨拶が日常になってしまうんだ。はっきり言
て犯罪寸前。すぐタン、今日はいつもに増して脳みそ緩んでるんじゃないか。春でもないのに。

「鉄はどうだ? そのマッソーから爽やかな朝の挨拶が発せられる姿を想像してみろ。はっきり言って俺はもう、どうしようもないね」
「柏木先輩がどうしようもないのは皆知ってますから」
「つれないこと言うなあ。舌入れるぞ?」
「入れなくていいですから」
「つまり、要はそのミスマッチ加減が俺の琴線をくすぐってやまない、ということさ。どうだ鉄? 高田鉄」

 俺や小林の横槍にしっかり反応しながら、それでも鉄に対する追求は余念がないあたり、認めたくないけれど、この人はすごく頭がいいと思う。ものすごく馬鹿だけど。
 で、鉄は、少しも悩まないでこう答えた。

「俺、リリアンで女子たちとこの挨拶を交わしたいなあ。俺の筋肉から飛び出す言葉たちとのささやかなコミュニケーションを、こう。お近づきの印にプロテイン配ったりしてさあ」
「オーケー、分かった。ユキチ、ちょっとこいつ部屋の外に出しとこう」
「はい」

 こういう時は素直に言う事を聞く。中空を見つめながら内なる世界へと旅立ってしまった鉄を、申し訳なさなんかこれっぽっちも感じずに、廊下へと蹴りだす。顔面から突っ込んで床にぶつかる寸前まで、彼はとても幸せそうだった。

「で現在、反対2か」
「そういう事なんで、やめときましょう。喜ぶのって柏木先輩くらいですから」
「そうかな。どう思う、朋光昌光?」
「いいと思う」「すごくいい」
「あ、被らなかった」

 図体だけでかくてその性癖には未だ謎が多い二人の先輩は、頬を赤らめながら親指を立てた
。すぐタンも同じように親指を立てて見せる。
 傍目からだと、そのツーカーぶりにグッジョブって感じだが、前歯ではなく目の奥が輝いてるあたりによからぬものを感じずにはいられない。
 まあ、早い話が、

「買収しましたね?」
「いや、朋と昌は真性なんだな、これが」
「真性だったんですか」
「真性だね」
「じゃあ不問とします」

 何の真性なのか、具体的には訊かないでおく。小林も聞きたくないって顔をしている。

「で、現在賛成2、反対2だが…………ぶっちゃけ決まりでいいべ?」
「いや、いきなりぶっちゃけないでください」

 そしてなんで唐突に訛り出すんだろうこの人は。それも、『…………』のところで前髪をファサってかき上げて、その辺の女子なら悩殺モノの流し目で。女子なんて街に繰り出さないと見かける事もできないけれど。
 いや、顔はいいんだ、この人。顔どころかステータスは完璧なんだ。
 ……唯一、性格を除いては。

「考えてもみろ。みんな気持ち的にはGOサインじゃないか。心底嫌がってるのがユキチと正念だけで、俺は言わずもがな、アリスもどちらかと言えば前向き、朋と昌もイケイケ、鉄なんか既にイってる。これだけの条件が揃って、果たして君たちにこの結論を覆す術はあるというのか!」
「いや、それは……」

 信じがたいというか信じたくないが、確かにこの場では俺たちが少数派だった。という事は、このまま黙っていればごきげんよう制度が可決されてしまう。かと言って全校生徒にアンケートを実施しようものなら、それこそすぐタンの思う壺だ。絶対的な差を持ってして俺たちが希少種だと証明されてしまう。いやさ、すぐタンって学校掌握してるから。生徒会から引退しても、大学生になっても、相変わらず強い強い。
 瞬時に小林とアイコンタクトを取る。どうする? 劣勢は揺るぎない。この際可決されるのには目を瞑るか。俺たちだけでも逃れられれば。交換条件か。いや待て。それよりも、根本的問題を解決していない。そういえば。

「そもそもにして、なんでリリアンの挨拶を真似ようなんて考え付いたんですか」

 理由あってこその案。理由なくして案は可決されない。これは条理だ。

「決まってるだろう。可愛いからだ。理由なんてそれだけで十分だろう」
「男ども可愛くしてどうすんだアンタ」
「萌えるのさ」

 これは不条理だ。
 そういやこの人ゲイだった。
 が、しかし、すぐタン個人の感情のみで学校全体の制度を決められてしまうのはいち生徒会としてあまりにもアレだったから、そこを突いてとことんまで追求してみた。ささやかな抵抗と知りつつも。
 すると思いのほか、根底の動機は真面目だった事が判明した。
 すぐタンの千秒を超えようかという熱弁を要約すると、次のようになる。

「要するに、アレですか。この前の祥子さん昏倒事件によって本格的に祥子さんの男嫌いを改革しようと思い立ったけれど、祥子さんには意見どころか毛嫌いされてて近寄れないから、それならば原因だったこっちの高校を根っこから変えてしまえばいいじゃないか、と。そういうことですか」

 祥子さん昏倒事件とは、文化祭の一件。街中でこっちのメンバーと偶然を装って会おうとしたら、ショックで引きつってしまってその場はお流れになった、という事件だ。あっちはあっ
ちであの後色々大変だっただろうけど、見ただけで引きつけ起こされたもんだから、こっちも
こっちで色々大変だった。一体誰が原因だったのか、追求合戦が唐突に始まったあの直後。「
小林だろう」、「ユキチは平気らしい」、「日光月光先輩がデカすぎるから」、「ほんとにデ
カすぎるから」、「ていうかデカいんだよ!」、「でくの棒と呼んでくれ」、「いや鉄のマッ
ソーぶりに惚れたんじゃないか」、などなど。
 結局あの時一番後ろでガチョーンをしていた柏木先輩のせいということで落ち着いた。「くそ、古すぎたか……」としきりに反省しているすぐタンは、どこまでも馬鹿だった。

「いいかいユキチ、考えるんだ。さっちゃんは、リリアンで十七年間過ごしてきた。という事は、リリアンの形式、リリアンの空気、リリアンの全てが体に染み付いていると言っていい。寧ろさっちゃんはマリア様だ。さっちゃんは美しい。俺の未来の妻、さっちゃん。嗚呼、さっちゃん、サッチャン!」
「先輩、色々とずれてます」
「……おっと、失礼。つい、ついね。で、結論としては、俺たちがそういう意味でリリアン生に近づけば近づくほど、さっちゃんも平気になるだろうってことさ!」
「なるほど!」

 鼻にしこたまティッシュ詰め込んで戻ってきた鉄が、ハァハァ言いながらガクガク頷いている。見ていて気持ちいいものではないので、今度は二人で蹴り出して鍵を閉めた。

「まあ、柏木先輩の我侭じゃないことはわかりました。でもですね、ハッキリ言っちゃいますと」
「ああ」
「余計引きますよ、それ」
「ふっ、ユキチも正念も、物事を一側面からしか捉えてないんだな」
「いや、捉え方の問題じゃなくて……そうなのか?」
「別に引かれたって構わないじゃないか。俺は引かれない方に賭けている。でも、引かれたっていいんだよ」
「たとえ引かれてもその努力が大事、とか言わないでくださいよ。女の子のデリケートな心をどうこうしようって話なんですから」
「違うな、正念。成功すれば、さっちゃんと花寺の生徒は打ち解ける事ができて万事OK。仮に失敗しても。失敗しても、だよ? その時はさっちゃんの拒絶反応が見れるじゃないか。あのきっつい目でギャースカ騒がれるもよし、前みたいに引きつけ起こすのもよし、今回は……そうだな、失神までいくと最高だね。罵詈雑言も捨てがたいんだけど」

 この人、ゲイだけじゃなくて、SでありMであったようだ。脱がされるのは好きじゃないけど、罵られるのは大好きってクチ。それは祥子さん相手だからかもしれないけれど、とにかく

 こんな歪な思想のもとに打ち出された案など、当然却下すべきであり、可決されるべきではない!

「わかりました」

 俺より先に、小林が口火を切った。このイカレた先輩に、理詰め男小林が、今まさに正義の鉄槌を下す。

「そういう事でしたら、喜んで賛成しましょう」
「正念ならきっと分かってくれると思ってたよ」

 がっちりと握手する二人。
 はい。ええと、少数派どころか四面楚歌になってしまいました。

「小林、お前Sだったのかよ!」
「悪い、ユキチ。実を言うと俺、罵られたいんだ」

 好みは人それぞれ。性格も人それぞれ。性癖だって人それぞれ。そこに文句をつけるのは筋違いだって、分かってる。
 でも、でもさ。そんな個人の欲望を満たすために学校規模の案を可決してしまっていいのか。そう言うと、今や全員敵となったみんなは、合言葉のように祥子さんのためだから、という。学校に挨拶が浸透するよりも早く、このメンバーで近いうちにまたリリアンに突撃かましそうだ。

 怒鳴り散らしてすっかり枯れた喉で、夜、祐巳に「先に謝っとく」と言って頭を下げた。
 祐巳は、何のことだか分からないって顔をしてた。



 ▽△▽


「ごきげんよう」
「ごきげんよん」
「ごきげんよろしくて?」
「ごきげんだぜ」

 一週間足らずですっかり定着してしまいました。
 生徒会長の俺を除く全ての生徒が、朝、さわやかな挨拶を木霊させる。
 俺の立場上、すれ違った生徒からは大体声をかけられるわけだけど、普通に「おはよう」と返すたびに、指差された挙句にひそひそ話までされる。
 実権のない生徒会長なんてこんなもんだ。
 人とすれ違うたびに気力を奪われながら、何とか生徒会室まで辿り着いても。

「ちょっと昨日、ブリッジしながら考えたんだけれど。ユキチ、聞いてくれる」

 ドアを開けた途端、中央の長テーブルに乗っかって三点倒立しているすぐタンに声をかけられてしまう。朝からついてない。というかこの人、大学生のくせに、なんで朝からこんな所に居るんだろう。

「まだその癖直ってないんですか。またキモがられますよ」
「いや、案外、首を鍛えるのにいいんだよね。ブリッジ」
「趣旨違ってるじゃないか」
「で、考えたんだけど」
「はあ」

 すぐタンは、寝る前に目を瞑って考え事をする習慣があるんだけれど、考え事をする時にブリッジするという悪癖も併せ持っている。生徒会の親睦会だか避暑会だか名目は忘れたけれど、すぐタンの別荘に泊まりに行った時に目撃した。日光月光先輩が面白がってお腹の上に乗っても気付かないくらい集中できるそうだ。ブリッジで。

「挨拶だけ真似ても、それではリリアン生には程遠いと思うんだけど、どうだろう?」
「どうも何も、そんなこと最初っからそうだろう」
「だよね。ユキチはやっぱり賢い」
「考えたことって、それだけですか」
「うん、で、これだけじゃさっちゃんのためには役に立ちそうもないからさ」

 ようやく自分のしている事の馬鹿さ加減に気付いてごきげんよう制度を撤廃させてくれるものかと思いきや、このアホたんはとんだご英断をしてくださった。

「リリアンのリリアンたる所以、姉妹制度を真似なくちゃね」
「いたらんこつせんちゃよか!(訳:余計な事しなくていい!)」
「……ユキチって九州男児? すごいナチュラルだったけど」
「いや……」

 ときどき、興奮すると地方の方言が混じってしまう。自分でもよく分からない。

「朋光と昌光、正念とアリスの同意は得られたよ」
「いや、俺いま初めて聞いたんだけど。それにいつそんな話をしたんだ」
「昨日」
「昨日って」
「鉄は反対してたが、ユキチはどうだ。これって結構いけると思うけど」
「いけるのか……?」

 男同士で契りなんか交わしたら……

『ユキチ先輩、第二ボタンほつれてるっスよ』『あ、本当だ』『ちょっと上着俺に寄越してください、縫いますから』『いやこれくらい大丈夫だって』『いいからいいから』『悪い』『もう、俺が居なきゃダメなんスから、先輩は!』『そういうお前もズボンのチャック開いてるぞ』『うわ、先輩スケベ! もっと早く言ってくださいよ……』『いや、だってさ、言いづらいじゃん』『ぁ、先輩……ジブン、ジブン……っ』

「ああああああああ!!」

 頭の中でシミュレートしてみても、801スパイラルなキワドイ映像しか浮かばなかった。こんなモノを自分が想像したという事実だけで胸の奥がグラグラ煮立ってきて、勢いで、さっきから逆さま状態のすぐタンの尻に十六文キックまでかましてしまった。

「これこそあんたくらいしか悦ばないだろ!」
「いい尻……じゃなくて蹴りしてるよ、ユキチ」
「うあうあうあうあああああ!!」
「痛っ、痛い、けどイイっ、でも痛いっ。ユキチ、落ち着け! じゃないと俺が興奮する」
「俺の頭の中に変な虫が巣食って……畜生っ、ダメだ、俺もうダメだ……」

 この変態と二人きりの空間にいたら、いずれ精神を破壊し尽くされてしまう。
 さっさと本題、本題を解決……本題? 本題ってアレか。

「そんな制度、却下に決まってる! 男しか居ないのに気持ち悪いだけだろ!」
「だから、ユキチは物事を一側面しか捉えてない」
「他に何をどう捉えろって言うんだよ」
「何もリリアンのように、恋人ないし夫婦のごとくベタベタしろなんて言ってないだろう? 
真似るって言っても、どうしても男女の差は出てしまう。だから、花寺なりにアレンジメントする」
「先輩が特定の後輩にロザリオを渡して、あたかも姉妹のごとく教育する……これをどうアレンジするって言うんですか」
「だからさっきまで、それを考えていたんだ。名称はさしずめ兄弟制度ってところかな。先輩が好きな後輩を指名して……仏像を渡して、後輩が受け取れば成立」
「仏像はないだろ、いくら仏教系だからって」
「うん、それもそうだ。じゃあ男子校らしく、先輩が後輩に勝負を挑んで、先輩が勝ったらめでたく兄弟成立。弟は兄の言うことに絶対服従」
「それじゃ、ただの学校公認の個人専属パシリだろう!」
「それを言っちゃお終いじゃないか、ユキチ。だったらリリアンだって、学校認定の似非恋人だろう。リリアンみたいな女同士なら、恋人のような関係が自然であるわけだ。じゃあ、男同士で自然な関係ってのは? ……答えは簡単。ずばり、パシリ」
「親指立てられてもさ……」
「それに、あれだろう。リリアンで妹を持たない姉や、姉を持たない妹が居るように、ここでもけっして強制はしない。強ければ誰にも従わなくていいが、弱ければあっさりと服従させられる。実に男子校らしいじゃないか」
「うまいこと言って騙されてる気がするんだけど」
「うん、考えすぎは良くないね。じゃあもうぶっちゃけ、ユキチも賛成でいいべ?」
「……いいですよ。その代わり、状況次第ではすぐ撤廃させますから。俺が」
「いい、いいよ、その気概。俺はそこに惚れたんだよ、ユキチ」

 自分の肛門が目と鼻の先にあるような格好でそんなイイ顔をされても。
 もう話す事はないと言うかわりに、俺は無言でドアに手をかけた。
 覗き魔は小林だけだった。



  ◇◇


「そういえばさ」

 夕食を終え、どこの家も押し並べてコメディアンが素っ頓狂な声を上げる番組を眺めているような、一日のうちで最もまったりとした時間帯。
 福沢家もそのご多分に漏れず、居間ではお父さんが枝豆片手に野球中継を見ながら時折何事か呟き、台所ではお母さんが鼻歌交じりに洗い物をしている。
 そんなありふれた家庭の風景はしかし、子どもたちの居ない一階でしか見られない。
 応援しているチームがホームランで失点をし、お父さんが舌打ちをしたのと時を同じくして、二階の、祐巳の部屋。
 配られたプリント類を鞄から取り出して一通り目を通しているところに弟の祐麒が訪ねてきて、向かい合って座り、既に顔見知りとなったお互いの学校の生徒会メンバーの話題を交換しあう。同級生である姉弟の情報交換という、そう滅多に見られない光景のさなか。
 きっかけは、祐麒がふと祐巳に問いかけた言葉だった。

「祐巳のお姉さまって、祥子さんだよな」
「そうだよ」

 超がつくほど大好きなお姉さま。あらためて確認するまでもなく、祐麒も知っている事だ。
 となると、何か別の話題へ移るための伏線なのだろう。

「島津さんは、支倉さんだったよな」
「うん、そうだけど」
「で、藤堂さんは姉で、二条さんが妹と」
「まあ、ね」

 一体、何なのだろう。山百合会の姉妹関係を復唱した時点では、まだ祐巳の頭には次の話題が連想されない。花寺の方にどこか間違って覚えている人が居るのだろうか。それとも、祐麒が忘れかけているのだろうか。幾つか想像するも、どれも違いそうだ。
「うーん」
 しかしそれきり、祐麒は唸りながら考え込んでしまった。姉妹制度が、とか、先輩後輩の関係は、とか、口の中でもごもごと洩れる声は断片的に聞こえてくるが、肝心の話を途中で止められては察することもできず、祐巳も目を点にするしかない。
「えっと、なに、それでなんかあるの?」
「あるっちゃあるっていうか、ありそうだ、というか」
「もったいぶらないで教えてよ。よく分からないけど、それ言いに来たんでしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ」
 やがて意を決したのか、一度頭の中で情報を整理する、と言って少しの間うんうん唸ってから、ようやく祐麒の口から真相が語られた。
「リリアンってさ、ほら、あるじゃんか」
「あるって言われても、いっぱいあるよ。マリア様の像もあるし、銀杏の木もあるし」
「いや、姉妹制度、っていうの? 先輩が特定の後輩を妹にして、指導するとかいうあれ」
「姉妹? うん、それはリリアンにあるね」
 他の学校は知らないけれど、このような制度を敷いている学校が他にあるとは考えにくい。少なくとも、知っている範囲では、なかった。
「でさ、一応ほら、リリアンと花寺って親しいじゃないか。文化祭もそうだし」
「うん」
 で、結局なんなのか。
 回りくどい言い方が続くので、祐巳もだんだんと苛々してくる。
「……小林の奴がさ」
「え、小林君?」
「うん」
 この流れで急に固有名詞が出てきたので、関係ない話題になったのかと一瞬思ったが、それは違った。
 次の一言で、全てが一気に繋がった。

「花寺にも作ろう、って言うんだよ。姉妹制度を」
「えーっ」

 それだけでも目を見開いて驚いている姉に、実は小林君ではなく、かの柏木優の手によって、作ろうどころか、既に施行されてたりします――とはさすがに言えなかった。


 花寺学院にも姉妹制度を作る。
 祐巳の頭の中で、五回ほどそのフレーズが行ったり来たりして、ようやく考えが纏まった。

「えっと、花寺って男子校じゃないの?」
「っ」

 思わず、飲んでいた麦茶をバフゥと噴き出しそうになる。差が広まったと思っても、まだまだこの姉は健在だ。

「ばか、ほんとに姉妹のわけないだろ。こっちは男子校だから、兄弟だよ。兄弟制度」
「あ、そっか。……え、でもなんで?」
「リリアンを見習いたい……らしい」

 現在、祐麒に与えられた至上命令は、何とかして祥子を花寺学院に連れてくる事。来るように仕向けさえすればどんな手を使ってもいい、とすぐタンに言われて、こうして祐巳を頼って部屋までやって来たところだった。
 しかしいざ会って話すと、どうやって祥子を花寺まで出向かせればいいのか、いい案が何も浮かばない。部屋をノックする前に何か考えていたが、それもどこかに飛んでいってしまう始末。結果、苦し紛れに現状をかいつまんで説明しながら必死に模索、という流れに落ち着いてしまった。

「でさ、赤薔薇である祥子さんにいろいろ助言を聞けたらな、ってことなんだけど」
「そっか、そういうことなら……」
「あ、たんま。それでお願いってのが、祥子さんを花寺まで連れてきて欲しいんだ」
「え……花寺まで直接? そっちじゃないと駄目なの?」
「いや、考えたんだけどさ」
 思いついたままに喋る。ええい、なるようになれ。
「この前の文化祭で祥子さん、前より断然男慣れしたよな。でも、ああいったお祭りって気分がちょっとハイになってるから、またあらためて来てもらうのもどうかな、って思って。どのくらい慣れたのか確認するのにもいい機会じゃないか」
「うーん、そうかもしれないけど。でも、もう大丈夫だと思うよ?」
「そこはホラ、最後の確認の意味も込めてさ。言っちゃなんだけど、祐巳が祥子さんの男嫌いっぷりを直々に確認できる機会ってそう無いだろ。二人で男と会う予定でもない限り」
「そりゃあ、ね。でも祐麒、やけに押すね」
「まあ、祥子さんのことはついでだし。で、実を言うと、こっちはそれで毎日のように会議会議で、リリアンに行けそうにないんだ。だから来てくれると助かるんだけど……なんかそっちにばかり負担かけちゃう話だから、祥子さんって理由でもつけないと祐巳、動いてくれそうにないだろ」
「あ、失礼。私だって鬼じゃないんだから、ちゃんとそう説明してくれれば相談に乗るのに」
「ごめん。で、どうだろう。祐巳と祥子さんと……あんまり大勢でなくてもいいんだ」
「そう? じゃあ、私とお姉さまだけでもいいの?」
「うん」
「でも一応、みんなに相談してみるね。乃梨子ちゃんとか、花寺に興味あるみたいだし」
「頼むよ。もちろん多いに越したことはないから」
「分かった。あ、曜日は? 指定とかある?」
「いや、何曜日でもこっちは大丈夫。ただ日にちは近いうちだと助かるかな。そっちに合わせるから、決まったら言ってくれよ」
「うん、じゃあそれで」
「よし……じゃあ俺、寝るから」
「おやすみ」
「おやすみ」

 口内マシンガンのトリガーにかけられた指を外して、姉の部屋から出たところで、祐麒の唇は自然に綻んだ。これでよほどの事が無い限り、近いうちに約束は取り付けられるだろう。これですぐタンの毒牙に掛かる事はなくなった。肉体的な圧迫は無いが、そういった場合は精神的にネチネチと来るのだ。他のどの面もそうだが、攻撃の多彩さが特に抜きん出ている人だから。
 ミッションコンプリート。
 土壇場にきての起死回生の閃きぶりに、自然に手が握り拳を作っていたり、頬がだらりんと緩んだりもしたが、数メートル先の自室のドアを開ける頃には、その緩みも歪な形に歪んでいた。
 まるで、気付きたくない事、忘れようとしていた事に気付いてしまったかのごとく。
 夕食時、父が野球中継を見る前に眺めていた天気予報で、向こう一週間雨は降らない、なんて言っていたのを思い出した。

 今夜はやけに星が遠い。
 もっかい謝っとくべきだったかな、なんて思いながら、祐麒は諦めたように口元を緩めて、床に着いた。


 ◆◆


「さすがに男の園にお呼び立てした以上、出迎えは必要だと思いまして。いや、リリアンまで出向くに比べたら全然近いですし、ちょうど会議も一段落ついたところでしたから、脳の休憩の意味も込めて、俺たちが案内しますよ」

 山道の手前から合流し、山百合会のメンバーを引率する、小林正念。と福沢祐麒。
 是非にと申し出た乃梨子に、それに引きずられる形で志摩子。祥子は祐巳に説得された形で了承し、みんな行くならば、と黄薔薇姉妹も連れ添いで。結局山百合会の一同が揃い踏みする形で、花寺学院の敷居を跨ぐ事になった。

「いやでも、まさか皆さんが来てくださるとは思いませんでしたよ。コイツ、祐巳さんに押し付けて後は何もしてない、なんてのたまうもんだから」

 饒舌に喋り続ける正念とは対照的に、祐麒は挨拶してから一言も口を聞いていない。話しかけられれば答えるが、顔は伏せ気味で、ずっと物思いに耽っている様子だ。

「先日は花寺の皆様に足を運ばせてしまったので。気になさらないでください」
「いやあ、あの時も今回も、ものを頼む側はこっちでしたからね。そういう時は頼む方が足を運ぶのが常識、なんですが……今回は本当にありがとうございます。助かります」
「個人的にも、もう一回花寺に来たいと思ってたんです」
「乃梨子さんにはもちろん、誕生仏の案内を。学校の方には既に手続き取ってありますから、自由に見れますよ」

 花寺での文化祭の時には、残念なことに見そびれてしまったらしい。かと言って手続きを取って他の日に押しかけようにも、男子校に単身乗り込む勇気はさすがの乃梨子にも備わっていない。
 リリアンの一人一人の質問に正念が答えるという流れを維持したまま、一同は校門までの道のりを歩むが。平日の放課後なので、部活動に所属していない生徒と何度かすれ違う。

「ごきげんよう」
「ごきげんよっス」
「ごきげんよう!」

 そのたびに、やけに元気のいいごきげんようが返ってきて、リリアン側は当座は面食らったが、こちらの挨拶に合わせてくれているのだろうと結論して、気にせずに歩き続けた。
 程なくして、校門へと着くと。

「やあ皆さん、ごきげんよう。お久しぶり」

 出迎えに、すぐタンの爽やかな笑顔。祥子の顔が一瞬引きつったが、持ち直してすぐタンから視線を外す。
 外したところに、何か異様な光景が飛び込んできた。

「……あれは、何をなさっているのかしら」

 似たような体格の男子生徒が二人、校庭の隅の方で向かい合っている。それもただならぬ雰囲気というか、何か格闘系の構えで。遊びの雰囲気ではなかった。
 皆が注目した瞬間に二人同時に動いて、瞬きしている間に、片方の放った蹴りが、もう片方の腹に沈んでいた。やや間を置いて、その場に崩れ落ちる生徒。ギャラリーは十人前後居るが、誰も歩み寄ろうとしない。
 しかし、すぐタンも正念も祐麒もまるで意に介せずに、来客用昇降口へと案内しようと歩き出していた。

「ねえ、あれって喧嘩かイジメじゃないの? 生徒会が放っておいていいの?」

 これには堪らず由乃が喰らいついたが、正念はニヤリと笑みと浮かべて親指を立てるわ、祐麒は力なく首を横に振るだけだわで、なんともはや。
 残ったすぐタンが、ちょっとした解説をしただけだった。

「島津さん、あれは喧嘩ではないし、ましてイジメでもないんだ。寧ろ校則に則った、神聖な儀式なんだよ」
「儀式……あれが? 思いっきり蹴ってたのに」
「そういう愛の形もある」
「なんか誤魔化されてるような……」
「その辺の説明もしなくちゃいけないから、まずは会議室へ行こう」

 初めて祐麒が先導して、女子六名に男子三名の総勢九名は、残りの役員が待つ会議室へと向かうのだった。
 すれ違った生徒は例外なく、こちらより先にごきげんようと挨拶してきた。



「早い話が、さっちゃんのためなんだ。生徒の自主性や精神面を鍛えるという名目でもある」
「祥子のため……? ……どこが?」

 手っ取り早く現状を理解してもらうために、二人一組になってそれぞれ案内役を一人つけ、校舎を一通り回ってきてもらった。一番早く回り終えた由乃、令のペアが、すぐタンとアリスから説明を受ける。

「兄弟制度って言って、特定の男子生徒と勝負して勝ったら、学校公認の弟にできるの。たとえ相手が先輩でも、勝ちさえすれば弟にできるっていうから、自由度はかなり高めなのよ。あまり度を過ぎた命令はできないけれど、主に兄のお手伝いをしなければならない……要約するとこんな感じかな」
「えっ、じゃあ、さっき回ってるときアリスの5メートル後ろをピッタリくっついてきた、学ラン着たプロレスラーみたいな人って……」
「うん、つい先週私の弟にした五所川原為蔵くん。視覚的に邪魔だから、生徒会の仕事のときは外で待機してもらってるんだけど」
「アリス……けっこう言うね」
「あ、あと、下克上制度って言って、何ヶ月に一回かイベントもあるよ。兄に再戦を申し込む弟っていう図式の兄弟対決で、もし弟が勝ったら、兄弟の立場が逆転するっていう。もちろん授業潰してはできないから、放課後に当事者と暇な生徒だけ集めて、ってことになると思う。でも、きっと盛り上がるよ」
「……一個訊いていい? その為蔵君とアリスの対戦って……」
「私の得意分野で、ちょっと卑怯だと思ったけど、あっちも同じだったみたいだから……えっと」
「まさかあの図体して、少女漫画の読んだ数勝負とか?」
「いや、令ちゃん、やっぱり裁縫勝負でしょ」
「ふふ。アリスは勉強も得意だけれど、もっと得意な分野がある」

 すぐタンが笑う。
 アリスもえくぼをつくって、可愛らしく笑う。
 学ラン脱いだら、きっと誰も男だなんて分からない。アイドル系って例え、あながち外れじゃないどころか言い得て妙だ。
 そんなアリスの口から出た言葉が。

「……あの、純粋な殴り合い、なんだけど……変かな?」
「……殴り合い?」

 殴り合い。暴力。肉弾戦。喧嘩。言い方は色々あるが、どんな単語に置き換えても、アリスの外見、背格好からはまったく想像つかないわけで。
 思わず、二人そろって聞き返してしまう。

「……うん」
「ちなみにその勝負には、僕が立ち合った。幾ら儀式とは言っても、一歩間違えるとただの喧嘩になりかねないからね。まあ、勝負にすらなってなかったってオチがついたけど」
「勝負、にすら?」
「なってない?」

 黄薔薇姉妹、揃って唖然呆然。
 ……色仕掛けでも使ったんじゃない。とか何とか、ヒソヒソと。

「アリスは何より実戦慣れしてるからね。部活などで体だけ鍛えてる連中には、サシじゃまず負けないだろうな」
「ルールの無い肉弾戦は、ココとココさえ使えれば、体格差は結構埋められるから」

 胸と頭を指しながら、ほややんと笑う。頭脳と度胸ってことか。剣道部のエースこと令は若干引き気味で、逆に由乃は興味深そうにふんふんと頷く。
 そこに、乃梨子志摩子ペアが、正念に連れられて戻ってきた。
 珍獣博物館にでも行ってきたように、おぼつかない足取りで。

「えっと……前にも増して賑やかな印象が」
「調理室からすごくいい匂いが漂ってきたけど……料理部なんてあったんだ」
「あ、そこはまだ説明してませんでしたね。えっとつまり、その兄弟制度ってサシで戦うわけじゃないですか。ここで当然、申し込む側と申し込まれる側って立場が分かれるわけでして。不利な勝負を申し込まれた時は、拒否権が発生するんですよ。たとえば体しか能のない人が記憶力勝負を挑まれたって、勝てるわけない。だから自然と、拒否されない条件……似たようなスキルを持つ人同士が争うって流れになるんです。ちなみに俺は、一年の学年トップらしい坊やに数学勝負で勝ちました。さっきの料理は……きっと得意な奴が争ってるんですね。ああいう時に進んで審査員になれば、美味いメシにありつけますよ」
「はあ」
「案外理に適ってるんですね……」
「そりゃ、僕が作ったからね」

 ふふんと胸を張るすぐタン。その笑顔がふとブレたかと思うと、残像だけ残して床に顔面から突っ込んでいた。ちょうど戻ってきた祥子に蹴り倒されたんだと皆が理解して、そそくさと席を空ける。祐巳もお姉さまからきっかり二メートルほど距離を置いていた。案内役だった祐麒も同様に。
 
「……す・ぐ・る・サン? 説明していただけるかしら」
「おー、蹴られた、久しぶりにさっちゃんに蹴られた、それも尻を。痛気持ちいいって言葉、今ようやく理解できた気がする」
「私って割と、身内には手加減しないタイプよね、祐巳。優さんも当然、知っていて?」
「あはは、何年の付き合いだと思ってるんだい。さっちゃんのことなら、尻毛の数から尻の穴の皺の数に至るまでまでボフゥ」

 祥子より一瞬早く、祐巳と祐麒と由乃と令の足の裏がすぐタンのあらゆる部位にめり込んでいた。もちろん祥子の足も、遅れてめり込んだ。品のいい形をした鼻っ柱がマイナス角度に凹むくらい。

「女性の前でナチュラルに下品な単語出さないでもらえますか」
「俺はもうやることやったんだから、残りはあんた責任持って説明してくれよな」

 敵味方問わず敵に回してしまったすぐタンへの救いの手は、まだ残っていた。
 それまでずっと腕組みして瞼を伏せていた高田鉄が、すごい勢いで席を立ったのだ。
 パイプ椅子が派手な音を立てたため、自然に皆の注目を集める結果となる。

「リリアンの皆さん、優先輩のことはそれくらいにしてやってください!」
「ばか、鉄。お前まで何言ってんだ。ていうかお前反対してたじゃないか」
「ユキチは少し黙っててくれ」
「……ああ」

 兄弟制度に最後まで反対していた鉄が、なぜここにきてすぐタンの味方をするのか。祐麒の頭は疑問符でいっぱいになり、リリアン側も鉄の真っ直ぐな視線に戸惑いを隠せない。
 やがて、大きく深呼吸をしてから、鉄は言った。

「優先輩なんかほっといて、長年に渡って育て上げた俺の愛しいマッソーたちと会話してみませんか」

 言うが早いか上着を脱ぎ捨て、タンクトップ一枚になって上腕から胸部にかけてをプルルン、プルルン。ついでにもひとつプルルンルン。
 二秒後、彼はお空にかっとんでいきました。
 とても幸せそうな顔でした。

 仕切り直し。

「優さん、私のため、と仰いましたよね? どういうことか説明してもらえますか」
「花寺の生徒をさっちゃんが好きになってくれるように、と思ったんだ。私服姿だったとはいえ、会った瞬間意識無くされた身にもなってくれよ。あれでみんな気にしてね。だから、まあ、考えた末に出した結論が」
「ええ」
「花寺の学風を、リリアンに近づけよう、って。そうすればさっちゃんも、花寺の生徒は平気になるだろう? 僕はね、さっちゃん。せめて花寺の男くらいは平気でいて欲しかったんだ」
「優さん……」

 いつになく真摯に返答をするすぐタンに、祥子の右手がゆっくりと伸びる。
 途中でゆっくりと握り拳を作った右手は、そのままゆっくりとすぐタンの下腹部あたりに位置をとって、目にも止まらぬ速度で真上に発射された。
 小笠原式あっぱぁかっと(対柏木専用)発動の瞬間だった。

「あれのどこがリリアンだって言うの?! 校舎の中外問わずに妙ちくりんな勝負は繰り広げられているわ、ごきげんようはやたらバリエーション豊かだわ。あまつさえ、言うに事欠いてそれが神聖な儀式ですって? まるで論外よ。私だけならいざ知らず、リリアン全てを侮辱するような制度は即刻廃止して」
「いやそれが、そう上手く物事は機能しないんだよね」

 どうやら本人にもどこかズレてきている自覚はあったらしい。
 ただ、それが矯正出来なかったと。

「リリアンのいい所を見習おうにも、もうオリジナリティ詰め込んで発展しちゃってるからな。これを長年続けさせるにはどうしたらいいか、って問題が残ってるから、その辺を聞いておきたいなーと思ってさ」
「帰ります。祐巳、行くわよ。令も志摩子も、早く」
「あ、待ってお姉さまっ」
「ちょっと祥子、もうちょっと話くらいしても」
「これ以上ここで話すことなんて何もないわ。祐麒さん、こんな脳の膿んだ親戚がでしゃばってしまってごめんなさい。あなたたちの生徒会は、あなたたちのものだから」
「ちなみに山百合会を見習って、生徒会をウミウシ会って名づけてみたんだけど。さっちゃん、ウミウシ好きだったろ」
「余計なことは言わないでいいから、とっとと家帰ってママンのおっぱいしゃぶり付いてクソして寝ろ」
「うわ、さっちゃんキレた。何年ぶりだろ」

 まさに問答無用の祥子節。もうすぐタンを振り返る事もなく、ただ背筋を伸ばして真っ直ぐに昇降口へと向かった。途中でごきげんようと挨拶されても笑顔で応えるあたり、怒りのボルテージがメーターを振り切った祥子は底知れない。

 結局その後、すぐタンが関わらなくなっても兄弟制度は苦言を呈される事もなく、地味に生徒間に定着していったそうな。
 花寺の伝統兄弟制度、と呼ばれるのは、この十年後の事である。

 嵐が去った会議室では、こんな会話がなされていた。

「さっちゃんの罵詈雑言……あー、駄目、たまんない」
「柏木先輩、羨ましいなあ。俺も罵られたかった……」
「ああ、プロテイン配り忘れたっ」
「私ちょっと、為蔵と自由組み手してくるから……」

 私立花寺学院。
 基本的にアホの巣窟であった。


あとがき