マリア祭が終わり、新入生歓迎式を控えた昼休み。中庭へとつながる渡り廊下を歩いていると、呼び止める声が聞こえた。
「紅薔薇さまっ!」
それが一瞬自分の事だと気づかなかったのは、まだその呼び名に慣れていないから。
振り向くと、午後からの歓迎式を手伝ってもらう放送部の下級生が立っていた。
「ああ、ごめんね。今、そっちの方に行くところだったの」
言って、用件を伝える。
「よろしくね」
最後にそう付け加えて微笑むと、
「は、はい!紅薔薇さまもがんばってください!」
その放送部の生徒は顔を真っ赤にして、小走りで去っていった。
(そんなに慌てなくてもいいのに……)
なんてことを考えながら、わたしはぼぉっとその背中を見送ってしまった。
「あらあら。紅薔薇さまったら、おもてになること」
ふいに脇から、からかうような声が。そこには誰もが認める写真部のエース、ついでに今は写真部の部長でもある武嶋蔦子さんがカメラを片手に立っていた。
二年近く付き合ってきたので、さすがにその神出鬼没ぶりにももう驚くことはない。
「冗談はやめてよ。単に歓迎式の用件の伝達をしてただけじゃない」
苦笑して言う。
「そうかな。今の子、ずいぶん嬉しそうだったよ」
「もう、蔦子さんったら。それより蔦子さん、歓迎式の取材で忙しいんじゃなかったの?」
「あっちの方は写真部の下級生にまかせてあるんだ。私はリリアンかわら版用に、山百合会1日密着取材中」
し、知らなかった。
「去年と違って、今年は特別なイベントはないと思うけど……」
「そんなんじゃないって。山百合会の記事が載ってる、ってだけで喜ぶ生徒ってたくさんいるんだからさ」
カメラをこっちに向ける。
「――特に紅薔薇が人気あるみたいだよ」
ついでのように付け加えると、カシャっとシャッターを押した。
「えっ。ちょ、ちょっと蔦子さん」
「ところで。そろそろ、新入生歓迎式が始まる時間じゃないかな」
こっちの言葉をさえぎって、コンコン、と腕時計のレンズを叩いた。
「ああっ!こんな話している場合じゃなかったんだ!」
あわててわたしは、お聖堂へと向かった。
お聖堂の扉の前には、すでに皆勢ぞろいしていた。由乃に志摩子、つぼみたちに、手伝いの生徒もいる。
「ごめんなさい。放送部と最終打ち合わせをしてたら遅くなっちゃった」
言って、走ったことで乱れた息を整えた。
「おそーい」
両手を腰に当てて由乃が言う。由乃は、可憐な外見とは裏腹に最近ますますそのパワーが増してきた気がする。
「本当は、ちょうど今わたしたちも来たところなの」
志摩子がやわらかく微笑んだ。志摩子のおっとりさにもさらに磨きがかかってきたような。
二人とも胸に薔薇の生花を挿している。
「どうぞ、お姉さま」
妹が、胸ポケットに赤い薔薇を挿してくれた。
お礼といってはなんだけど、わたしも妹の胸元にあるサーモンピンクの薔薇の位置を直してあげた。
「そろそろ開会の時間ね」
由乃が言った。
ふと思いついて振り向くと、わたしは後ろに寄り添っていた妹の手をそっと握った。
目を閉じて、数瞬気持ちを落ち着かせる。――妹は、何も聞かずにもう片方の手も合わせてくれた。
その温もりに、大事な行事の前、手を握ってきたお姉さまの顔を思い出した。
お姉さまの声が、頭の中で聞こえる。
(紅薔薇さまが言っていたわ。包み込んで守るのが姉。妹は支えなんですって――)
そのとおりだ、とわたしも思った。
「ありがとう。もう大丈夫よ」
扉に向き直る。由乃と志摩子にうなずき、わたしは扉を開けた――。
「それで、新入生歓迎会は無事に終わったのね?」
お姉さまは、ほっとしたように言うとティーカップを口もとへと運んだ。
気持ちの良い五月の風が、手入れの行き届いた庭を吹き抜けていく。
――ここは小笠原邸。式典が終わったら来るように、祥子さまから厳命されていたのである。
駅前に待ち構えていた小笠原家の黒い車に乗せられ、ここに到着したと同時に祥子さまに庭へと連れ出された。備え付けられたテーブルと椅子には、紅茶とお菓子がキチンと用意してあった。
お姉さまが手ずから淹れてくれた紅茶を飲みながら、わたしは今日一日のことを報告することになったのだ。
「祐巳のことを信用していないわけじゃないの。でも今日は、祐巳の紅薔薇として初めての大仕事でしょう?」
クスクス笑って、祥子さまは言葉を続ける。
「もう気になって気になって、今日一日勉強が手につかなかったわ」
その後もわたしたちは新年度が始まってからのお互いのことについて語り合い、小笠原家の車で自宅まで送り届けてもらった頃には、もうとっくに日が暮れてしまっていた。
夕食を取り、入浴も済ませて、ようやく自室でホッと息をつくことが出来た。
(そういえば、最近妹と話す時間がほとんどなかったなぁ)
なんせこのところ歓迎会の準備で忙しく、やっと終わったと思ったらお姉さまからの召集があったのだ。
(そうだ!)
ガサゴソ。鞄からアドレス帳を取り出す。山百合会の連絡簿とは別に、アドレス帳には大事な人たちの電話番号を書いてある。
一番上にはもちろん祥子さまの番号が。
(お姉さまの次に番号を書いてあると知ったら、あの子どんな顔をするかな?)
そんなことを考えながら、電話の子機をとり番号を押す。
数回の呼び出し音の後、「はい――」と、電話に出る声が聞こえた。
わたしは、赤薔薇さまとしてとっておきの声を出すため、すぅっと息を吸い込んだ。