痛い罪と甘い罰

文月 十一郎



 三月にもなると、薔薇の館がなんだか広く感じられる。三年生の薔薇さま方はめったに姿を現さなくなり、もうすぐ新しい薔薇さまとなられる蕾たちは、顔を出してもすぐに用事で外に出てしまったりと非常に忙しい。

「ごきげんよう。遅くなりました」
 祐巳が薔薇の館の二階に入ると同時に、祥子さまが席を立った。
「ああ、祐巳、ちょうどよかったわ。今日は私、家の用事でどうしても早く帰らなければならないの。だから来てくれて申し訳ないのだけど、今日の会議は中止にします」
「そ、そうですか……」
 土曜日に会議があるときは、掃除が終わった後、薔薇の館に集まることになる。当然まだお昼ご飯は食べていないから、薔薇の館での会議がてら昼食、という事が多かった。それはすなわち、数少ない、祥子さまと一緒にお昼を食べることのできる時間なわけで。
「わざわざ走って来たみたいなのに、ごめんなさいね」
「え、私、走ってなんか」
 とっさに言い訳をする。本当は早くここにたどり着くために少し駆け足で来たんだけど。
「そのせいで、タイが曲がっているわよ」
「あっ……」
 祥子さまは、祐巳の首の後ろに手を回すと、そのままセーラーのカラーを撫で、胸の手前でタイを結び直した。
 どうやら祥子さまには祐巳が走ってきたことはお見通しらしい。
「それじゃあね。皆様、ごきげんよう」
「ごきげんよう、お姉さま」
 祐巳の目の前で、ぱたん、と静かな音を立てて扉が閉まる。祥子さまの階段を降りる足音が少しずつ小さくなるのを聞き届けてから、祐巳は「はぁ〜」と盛大なため息をついた。
「そんなに落ち込まなくてもいいじゃない」
 と、部屋の中から声をかけられた。振り向くと、由乃さんと志摩子さんが座っていた。
「あ、ごきげんよう、由乃さん、志摩子さん。もう来てたんだ」
「来てたんだって、最初からいたわよ。やっぱり祐巳さん、祥子さまのことしか見てなかったのね」
「そ、それは、その……」
 今日は由乃さん、ちょっとご機嫌ななめらしい。そんな由乃さんの厳しい追求に言葉をつまらせる祐巳。ほんと、こういうときに機転が利かない自分がちょっと情けない。その隣を見ると、志摩子さんがそんな祐巳を見て苦笑していた。
 その志摩子さんが、祐巳が席に着いたところで声をかけた。
「祥子さまね、祐巳さんが来るまで待っていたのよ」
「そうなの?」
「ええ、『祐巳はまだ?』とか『祐巳の掃除の担当はどこなの?』とか何度も聞かれたもの」
「用事があるのは本当みたいだけどね。その証拠に、ほら」
 由乃さんが指さしたのは、先程まで祥子さまが座っていた席のテーブルの上。そこには、祥子さまが飲まれたとおぼしき紅茶の入ったティーカップが、ちょこんと置いてあった。
「用事が急ぎじゃないのなら、紅茶を飲むぐらいのことはしても間に合うでしょうに。よっぽど急ぐ用事だったのね」
「それなら私たちに言伝てを頼んでも良かったのに。よっぽど祐巳さんに直接言いたかったみたいね」
「言いたかったというか、タイを直したかったというか」
 そんな祥子さまの様子が祐巳の頭の中で思い浮かぶ。何より、わざわざ自分のために待っていてくれた、というのが嬉しかった。
「ま、会議は中止だけど。せっかくだからみんなでお昼していきましょう」
「そういえば由乃さん、令さまは?」
「部活の方で用事があるんだって。もともと今日は来れないって言ってたから」
 なるほど。由乃さんがちょっと不機嫌なのはそれが原因か。
「祐巳さん、何か飲む?」
 志摩子さんが立ち上がってキッチンのほうに向かった。
「えっとね……」
 ふと、隣に置いてあるティーカップが目に入る。そういえば、これ、祥子さまの飲みかけなのよね……ということは……。
「祐巳さん、それ飲んだら、間接キス、だなんて思ってないでしょうね」
「!!! そそそそそんなこと」
「顔に出てたわよ」
 うぅっ、そんなに分かりやすいのだろうか。
「……とりあえず、祥子さまと同じ、セイロンティーにしておくわね」
 志摩子さんが、また苦笑しながらそう言った。



 おしゃべりをしながらお昼を食べているうちに、気がつけば随分と時間が経っていた。
「じゃ、そろそろ帰ろうか」
「そうね。でもその前に」
「片づけなくっちゃね。カップ洗い、誰がやる?」
 由乃さんが尋ねる。三月とはいえまだ水は冷たいので、誰もやりたがらないのがこの皿洗いだった。
「じゃぁ、いつも通りジャンケンで」
 由乃さんが「せーの」と声をかける。
「ジャン・ケン・ポン!!」
 由乃さんはチョキ、志摩子さんはグー、そして祐巳が出したのはパーだった。
「あい・こで・しょっ!!」
 続いてもう一度手を出す。今度は由乃さんはパー、志摩子さんもパー、そして、祐巳はグーだった。
「……ってことは、私ですか。とほほ……」
「祐巳さん、代わる?」
「だめよ、志摩子さん。勝負に情けは無用っ!」
 由乃さんがまた時代のかったセリフを言う。きっとまた何か時代小説にはまっているんだろう。
「いいよ、私が負けたんだし。志摩子さんたちはゴミのほう、お願いしていい?」
「ええ、こっちは任せて」
 祐巳は、流しに向かうと、蛇口をひねった。まだ冷たい水が勢いよく流れていく。
「うう、やっぱり冷たいなぁ……」
 飲み終えたカップを軽く水で流して、それからスポンジに洗剤を付けてこする。自分の飲んだカップと、由乃さんのと、志摩子さんの。そして、祥子さまの──。
 手に取った祥子さまのカップをスポンジでこする。祥子さまのカップは、真っ白な薄手の磁器で、淡いピンクの薔薇があしらわれていた。
(やっぱり、一緒に帰りたかったな……)
 祥子さまが待っていてくれたのはそれは嬉しいんだけど。一言ふた言話して(あとタイを直されて)別れるのと、一緒に歩いて、一緒にマリア像の前でお祈りして、駅まで一緒にバスに乗って駅で別れるのでは、一緒にいる時間がだいぶ違うのだ。
「でも、お家の都合じゃ仕方ないか……」
 そんなことを考えてたら。
「祐巳さん、ゴミ捨て終わったわよ」
 由乃さんに後ろから声をかけられて。
「えっ、あっ、わっ、わっ、わっ」
 つい手を滑らせてしまった。
 そして、祐巳の手の中にあった祥子さまのカップは。
 そのまま重力に引かれて、薔薇の館の床に激突した。

 ガシャン!!

「あ…………」
「え…………」
「うそ…………」
 言葉がとぎれる。三人とも、その場に立ち尽くしていた。

「祐巳さん、大丈夫?」
 最初に復活したのは、意外にも志摩子さんだった。
「怪我とかしてない?」
 志摩子さんは祐巳の手をとって、手のひらを上に向けさけた。
「うん、私は大丈夫。……手に洗剤付いちゃうよ、志摩子さん」
「あ、ごめんなさい。ちょっと慌てちゃって……」
 そう言いながら、祐巳の手を握りしめる志摩子さん。う〜ん、洗ってる最中だったから、手、泡だらけなのに。
「見事に割れちゃったね……」
 由乃さんは、床に落ちたカップの残骸をしげしげと眺めていた。カップは三つほどの大きなかけらに割れていた。他にも小さなかけらが散らばっている。
「これ、もしかして、祥子さまの?」
 由乃さんが祐巳の方を向いて言った。コクン、と軽くうなずく祐巳。
「それって、たしか前に、祥子さまのお気に入りだって、聞いたことあるわ」
 志摩子さんに言われるまでもなく、そのことは祐巳もよく知っていた。
「ごめんっ、祐巳さんっ」
 突然、由乃さんが深々と頭を下げながら言った。
「へ? 由乃さん?」
「だって、私が声かけた時、すごくびっくりしてたじゃない。それで、驚いて落としちゃったんでしょ?」
「でも、それは、単に私の不注意だし……」
「でも、私が大きな声で呼ばなければ……」
「……もう割れちゃった物は仕方ないわよ。月曜日、祥子さまにちゃんと謝りましょう?」
「祥子さま……怒るよね?」
「怒るわよね……たぶん……」
 祥子さまに叱られるのも、それはそれで悪くないのだけど、やっぱり、できるなら叱られずに済ませたい。
「う〜ん……」
 しばらく沈黙が続く。
「よし! 新しいカップを買いに行こう!!」
 沈黙を破ったのは由乃さんの一言だった。
「祐巳さん、志摩子さん、これから時間、大丈夫?」
「えっ、うん」
「私も大丈夫だけど」
「なら、三人で探しましょ、これと同じカップ。K駅のほうまで行けば売ってるんじゃない?」
「って、今から?」
「そうよ。善は急げってね。さ、祐巳さん、早く洗い物終わらせちゃって。私と志摩子さんで、割れたカップは片づけておくから」
「う、うん……」
 こうなった由乃さんを止める手段は祐巳にも志摩子さんにも無い。
 こうして、祐巳たち三人は、急遽、K駅まで買い物に出かけることになったのだった。



 リリアン女学園の最寄りのM駅から、上り方向に一駅。K駅は、私鉄との乗換駅ということもあって、その周辺はたくさんの店で賑わっている。若者向けの店が多いため、リリアンの生徒もよく遊びに来ていた。
 数週間前、祐巳と祥子さまのファーストデートが行われた場所、でもある──。
 それはともかく。
「やっぱりいつ来ても混んでるわね、ここは」
「志摩子さん、こういうところ苦手そうだもんね」
「嫌いじゃないのよ。でも、もう少し人が少ないとお買い物しやすいかなあ、って」
「で、どのあたりを見るつもりなの? 由乃さん?」
 K駅周辺は、大きなデパートが数軒、それから小さいお店が数限りなくある。まぁ、多少大げさかもしれないけど。
「とりあえず、デパートに行ってみない? 祥子さまのカップだし」
「そうだね。じゃぁ、北口の方から行ってみようか」
 駅ビルを出る。この間祥子さまと行ったファッションビルはパスして、西の大通りを渡る。それからちょっと北に行ったところにそのデパートはあった。
 入り口の案内板を確かめる。
「えっと、ティーカップって、どこで売ってるのかな……」
「7階に、『家庭用品・寝具・インテリア』ってあるわね。そのあたりじゃないかしら」
「よしっ。とりあえず行ってみよう!」
 由乃さんを先頭に、エレベーターで一路7階へ。志摩子さんの言った通り、そこには食器や台所用品が数多く並べられていた。
 いたんだけど。
「ねぇ…………」
「あら…………」
「なにこれ…………」
 高いとは思ってたけど。
 カップ一つで1万円とか2万円って、どういう世界のお値段なのよ。そりゃ確かに高級そうだけど。正直、その違いがよく分からない。
「なんか、私たち、場違いじゃないかしら……」
 志摩子さんが小声でつぶやく。たしかに、一介の女子高生が気軽に買えるお値段ではない。
「まだリリアンの制服着てるからマシよ。世間的にはお嬢さまって思われてるはずだし」
 とか言いつつ、由乃さんもすっかりお嬢さまモードが抜け落ちている。
 たしかに、祥子さまみたいな正真正銘のお嬢さまもいますけど。少なくとも福沢家は(貧乏ではないにせよ)ごく普通の庶民だ。
「でも、店員さんも寄ってこないし。やっぱり冷やかしと思われてるんじゃ……」
「そうね……。とりあえず、ここに同じものはないみたいだし、次の店、行ってみようか」
「うん……」
 祐巳たちはすごすごとデパートを退却し、その近くにあるもう一軒のデパートに入った。
 でもそこも同じような感じで。1万円とか2万円とかするカップが、平気で並べられていた。
「お手を触れないでください、ってのがそもそも違う世界よね……」
 何かもう、すっかり毒気を抜かれてしまった感じで由乃さんがつぶやいた。
「あんな高いカップじゃ、気軽にお茶飲めないわよね」
 祐巳たちはデパートを出た。狭い通りを、少し強い風が吹き抜けていく。
「このあと、どうする?」
「そうねえ……。他にもいくつか、食器とかインテリアみたいなの扱った小さいお店があったはずだから、行ってみない? デパートほど高くはないと思うし」
 由乃さんの提案で、祐巳たちはそれからK駅周辺の商店街を練り歩くことにした。
 まずはデパートのすぐ隣の、雑貨とか文房具のお店とかがいろいろ入ったビル。エスカレーターで4階に上がって、食器売り場に行ってみる。
「さすがにさっきみたいなすごい値段のは無いわね」
 志摩子さんが少しほっとした様子でつぶやく。
「逆に、なんかすごく安く見えるわ。……祐巳さん、どう? 祥子さまのカップ、見つかった?」
「え……、ううん。ちょっとここには無いみたい」
「そうね。じゃ、次の店、行きましょ」
 ビルを出て、少し南のアーケードに入る。K駅の周りでも一番にぎわっている通りだ。
 入ってすぐのところに目当てのお店はあった。
「ここにあるといいわね、祐巳さん」
「うん……」
「祐巳さん?」
 志摩子さんが心配そうな表情で、祐巳の顔を覗き込む。
「祐巳さん、どうしたの? なんか、元気ないみたい」
「大丈夫? 具合でも悪いの?」
 由乃さんも尋ねてきた。
「ううん。そういうんじゃないの。あのね……やっぱり、ちゃんと言ったほうがいいのかな、って思って」
「祐巳さん?」
「月曜日、ちゃんとお姉さまに『私が割りました』って言って、謝ったほうがいい気がするの。許してもらえるかは分からないけど……」
「でも、せっかく来たんだし」
「うん、ごめんね。由乃さん、志摩子さん。でも、たとえ同じカップを見つけても、それはまったく同じ物じゃないし。それに……お姉さまに、嘘はつきたくないの」
「祐巳さんってば、そんなに祥子さまのお叱りを受けたいわけ?」
 確かに、「叱られたくない」って気持ちでここまで来たわけだけど。
 その場で叱られるのと、これから先もずっと「お姉さまに嘘をついた」って気持ちを抱えて過ごすのと。どっちが苦しいかって言ったら、多分後者だと思う。
 だって、今でもこんなに辛いんだから。
「ごめんね、由乃さん」
「まさか、本当は叱られたいとか思ってるんじゃないでしょうね」
「え、そ、そんな……」
 お姉さまがお叱りになっている姿を思い浮かべる。……それは、怖いけど、……でも、やっぱりちょっと素敵だったりする。
「あーっ、もうっ! こんなところでラブラブモード入らないでよっ!」
「わっ、え、いやっ、その……また、顔に出てた?」
 だけど、由乃さんはそれには答えずに。
「まったく、祐巳さんが落ち込むの見たくなかったから連れてきたのに! 無意味だった訳?」
「よ、由乃さんっ」
 志摩子さんが由乃さんを軽くつつくと、由乃さんは、はっとした顔で、志摩子さんを見て、それから祐巳の方を見た。
「えっと……祐巳さん。……迷惑、だった?」
 いつもイケイケな由乃さんが。なんだかすごくおどおどと、そう言った。
 ちょっと珍しいかも。なんて思いながら。
「ううん。だって、私のためにしてくれたんでしょ。すごく、嬉しい」
 そう言いながら、由乃さんの手を、ぎゅっと握った。
「……ありがとう、祐巳さん」
 握り返してくる由乃さんの手の暖かさが、嬉しかった。



 それから、三人で、いろいろなお店を見て回ることにした。アクセサリー、洋服、本、CD。
「ねえ、どこかでちょっと休憩しない?」
 志摩子さんの提案で、近くの喫茶店に入った祐巳たちは、そこでまたしばらく話し続けた。
 ふと時計を見ると、時計の針は5時を過ぎていた。
「うわっ、もうこんな時間だ」
「そろそろ帰ろっか」
 支払いを済ませて外に出ると、既に空は夕焼けを通り越して暗くなり始めていた。
「今日は楽しかったわ」
 駅に着いて、電車を待っているときに、志摩子さんが言った。
「こうやって三人で出かけることって、あまりなかったでしょう。だからかな。最初の目的とは違っちゃったけれど、すごく楽しかったわ」
「うん、私も。また来ようね、志摩子さん、祐巳さん」
 そんなことを話しているうちに、電車がホームに滑り込んできた。
 祐巳と由乃さんはM駅で降りた。志摩子さんはさらにその先まで行くから、一緒にいられるのは一駅だけなのがちょっと残念だった。



 そして月曜日の放課後。祥子さまはいつものとおり薔薇の館にやって来た。既に祐巳も志摩子さんも由乃さんもいる。令さまも来ていたので、三年生の来なくなった現在、事実上のメンバー全員が揃ったというわけだ。
「祐巳、紅茶を入れてちょうだい。そうね……ダージリンはまだあったかしら」
 鞄を置いて、椅子に腰掛けながら祥子さまは言った。
「お姉さま、その事なんですけど……」
「なぁに? ダージリン切れてるの? なら……」
「いえ、違うんです。お姉さまのカップ、ありましたよね。いつも飲んでる」
「ええ。あのカップがどうかしたの?」
「……ごめんなさい! 私、あのカップを割ってしまったんです!」
 祐巳は深々と頭を下げながら、祥子さまにその事を告げた。
「……何ですって」
「申し訳ありません。先週の土曜日に、カップを洗っていたとき、ついうっかり……」
「うっかり、カップを割ってしまったと言うの」
「は、はい……」
 祥子さまは。意外にも……と言っていいんだろうか。とにかく、例のヒステリー状態にはならなかった。でも、その目は冷たく祐巳をにらんでいた。
 たぶん、祥子さまは、本気で怒っている。
 祥子さまはしばらく祐巳のことをにらみつけてから、口を開いた。
「あのカップはね、お姉さまにいただいた物なの」
「お姉さまって……紅薔薇さまに?」
 頭から血が引いていくのが自分でも分かった。
 例えば、もし私がお姉さまからいただいた物を失くしたり壊したりしたら……。それは、もう、ものすごい罪悪感に襲われるに違いない。そして、それを他の人に壊されたりしたら。もちろん、知らなかった、で済むはずは無い。
「それをあなたは……」
 ガタリ、と音を立てて祥子さまが椅子から立ち上がる。
「待ってください、祥子さま! あの時、私が急に声をかけたせいで祐巳さんは驚いて、それで」
 それを見た由乃さんが必死な顔つきで訴える。隣で令さまが止めようとしているのがちらっと目に入った。だけど。
「あなたには関係ないわ。私は祐巳と話してるの」
 祥子さまはまったく意に介さないといった風で、由乃さんの言葉を切り捨てた。さすがの由乃さんも言葉に詰まる。
「祐巳」
 呼ばれるだけで小さく体が震える。祐巳は蛇ににらまれた蛙の気持ちが分かった気がした。
 でも、ここで黙ってちゃいけない。それは、たぶん一番良くないことだから──。
「ごめんなさい!!」
 祐巳は勢いよく頭を下げて、あらんかぎりの大声で──声になっていたかどうかは、いささか心許ないのだけど──そう言った。
「私がもっとしっかりしていれば……しっかりしなくちゃいけないのに。何をしても許されるはずは無いのは分かってますけど。でも……」
 あ、だめだ。涙がもう、止められそうにない……。泣いたって何にもならないのに。
 その時、祐巳の頭の上に柔らかいものが乗せられた。
「顔を上げなさい、祐巳」
 それは、祥子さまの手だった。まるで、子供をあやすかのような、優しい、温かい手。
 祐巳がゆっくりと頭を上げると、祐巳の前で祥子さまは優しく微笑んでいた。
「もういいのよ。あなたに悪気が無いことはよく分かったから」
「お姉さま…………」
「たしかにカップが割れてしまったことは残念だし悲しいけれど……。どんなものでも、いつかは必ず壊れてしまうわ。たぶん、それがちょっと早くなったのよ」
「それは……私のせいで……」
「でもね。私とお姉さまの絆は、カップが壊れても壊れることは無い。そう言いきれる自信が私にはあるわ。物はいつか壊れてしまうけど、繋がった心は、そう簡単には壊れないのよ」
 そう言ったお姉さまは、優しさと凛々しさを併せ持っている、祐巳の大好きなお姉さまの姿、そのものだった。
「祐巳とも同じよ」
「へっ?」
 突然話をふられて、頭が付いていかずに変な声を出してしまう。あぁっ、こんなシリアスな場面なのにっ。
「あなたと私の絆も、カップの一つや二つで消えてしまうほど弱いものではないはずよ。そうではなくて?」
「お姉さま…………」
 お姉さまが私のことを信じてくれている。その事がすごく嬉しくて、祐巳は知らないうちに涙を流していた。
「ばかね、泣くんじゃないの」
 祥子さまはそう言いながら、祐巳の涙をそっとハンカチで拭ってくれた。



 その日の帰り道。
「ところで祐巳」
「なんですか、お姉さま」
「カップを割った罰はきちんと受けてもらいますからね」
「えぇっ!?」
 さ、祥子さまの罰って……うう、何をされるんだろう。できるなら、痛いのとか苦しいのはやめてほしい……って、それじゃ罰にならないか。
「そうね……今度の日曜日、買い物に付き合いなさい」
「え?」
「え、じゃないわよ。祐巳がカップを割ったんですからね。祐巳が私のためにカップを選ぶのは当然じゃない?」
 それって……日曜日に、お姉さまと一緒に、お買い物に行ける、というわけですか?
「何ぼおっとしてるのよ。置いていくわよ」
「は、はい! あの……それで、いいんですか?」
「いいも何も。私がそう決めたのよ。これは祐巳への罰なんですからね。きちんと受けなさい」
「はいっ! よろこんで!!」
「……喜んで罰を受ける人がどこにいるのよ」
「あ、そ、そうですね。言われてみれば……。あれ、じゃぁこういうときは……」
 祥子さまはクスッと笑って、
「じゃぁ、それも、日曜日までの宿題ね。ちゃんと考えておくのよ」
 そう言ったのだった。


- fin -

あとがき