触れられない距離



 玄関で靴を履いていると、かすかな衣擦れと足音を感じて、母が近づいてくるのだと気づく。
 少しだけ急いで靴を履き終えると、志摩子は家の中へ振り返った。
「お母さま、どうかなさいましたか?」
 母親の意図を察して、志摩子から用件を促す。出掛けの挨拶はもう済ませていたから、志摩子を追いかけるように玄関に顔を出した母には、何か理由がある筈だった。
「志摩子、今日帰りに尚(ひさし)のところへ様子見に行ってくれないかしら。今電話かけたら今日は早めに帰るって言っていたから」
 尚は母の弟、志摩子の叔父にあたる。歳の離れた姉弟で、母にとってはもう一人の子供のような存在であり、志摩子にとっても、叔父というよりも歳の離れた兄のような人だった。
 優しくて物知りで、そしてダメなお兄さん。
「はい。──お兄さまにお伝えしておくことありますか?」
「どうせ遅くなるだろうから、尚に車で送ってもらいなさい。その時に会って直接言うから」
 母の言葉にこめられたものの多さに、応えるのに遅れて、それから少し困った顔で口を開く。
「あまりお兄さまのこと叱らないでくださいね」
 困るのは、どうせ遅くなるだろう理由と、叱らないでくれという自分の発言が矛盾するから。
「あの子、小さいころはよく気のつく、聞き分けの良い子だったのよ……」
 母が、そして姉が過去形で言う。
「お兄さま、聡明な方ですよ」
 すらすらとそう言えたのは、本当にそう思っているから。とりあえず、間違ったことは言っていないから。
「あの子の困ったところは、直して欲しいところ全部、あの子判ってやってることよ」
 多分、それが一番の問題だった。
 文字通り呼吸を合わせたように、母娘が小さくため息をつく。




 担任の山村先生に立ち寄り許可をもらいに行くと、場所や目的を言う前にいつものところねと笑われる。
 確かに場所柄、学校帰りに寄るかたちになることが多いのだが。
 叔父のマンションは、リリアン女学園を挟んで志摩子の家とは反対の方角にある。ギリギリ23区内という場所で、その意味では志摩子の家よりもリリアンに通いやすい環境にある。
 いっそ叔父の家からリリアンへ通えばいいんじゃないかと思うこともある。そのほうが面倒を見られるのだし。
 口にしたことはなかったが。
 築二十年以上になる、コンクリート打ち放しの四階建てのマンションの、三階に尚の部屋がある。有名な建築家が設計したものだと叔父に聞かされ感心したこともあったが、今ではただの道楽としか感じられなくなっていた。動いている時はうるさいのに、ドアの開閉時に何秒か無音で静止するエレベーターへ乗っているうち、古さに起因する不安のほうが強く心を占めるようになって。
 今日も意味の判らない静止の後、無事開いたエレベーターのドアをくぐって、廊下の突き当たりにあるドアへ向かう。東の角部屋が叔父のささやかな城だった。
 古くて鳴るのか怪しく感じてしまうドアベルのボタンを押すと、すぐに鍵の開く音がして、金属製の無機質なドアが開かれる。
 ボロボロのスウェットの上下。頭にタオル。左手にゴミ袋。
 見事なお掃除スタイルだった。
「ああ、志摩子ちゃんいらっしゃい」
 笑いかける叔父に自然と笑顔を返して、それから頭を下げる。
「こんにちは、尚お兄さま。ご無沙汰していました」
 一月ほど前に来ているのでご無沙汰していたかどうかは微妙だったが、少なくとも志摩子にとっては、この叔父と会わない一月は長い時間だった。
 様々な意味で。
 日本人の規格からするとやや大きな体ゆえに、窮屈そうに尚お兄さまが廊下に少し引っ込み、それに合わせて志摩子は玄関に入ってドアを閉める。
 1LDKだったが、尚は一部屋をベッド付きの物置にしてしまっているため、実質十一畳のワンルームに近い使い方をされていた。玄関を入ってすぐ横にあるドアがトイレとバスルームになっていて、正面が寝室兼物置へのドア。突き当たりを曲がって廊下を進むともう一枚ドアがあり、そこから先がLDKになる。
 まず、手近なところから『始める』つもりで、バスルームのドアを、断りを入れてから開ける。
 とりあえず予想された洗濯物の山はない。
 尚が自慢げに言う。
「朝、姉さんから電話あったから、洗濯物全部持って会社行って、コインランドリーで洗ったんだ」
 志摩子には、自慢できない話に聞こえた。
 でも、お風呂場もトイレも洗面台も見た限り綺麗にしているようなので、言わないでおく。
 もっとも、ほかに言うべき事があるのだが。
「お兄さま、アイロン掛けなさったりは──」尚の表情で理解する。「──そうですよね」
 愚問だった。
 仕事柄、スーツじゃなくてもいい日というのが多いらしく、それゆえワイシャツ等アイロン掛けが必要な衣類が少ないのは確かだったが、やらなくていいという訳ではない。
 そして叔父はやらない人だった。
「お部屋ですか?」
 洗っただけでたたんであるかどうかも怪しい衣類の在処を訊ね、怒られた子供のように無言で頷く叔父の仕草を肯定と、部屋へ入ることへの許可と受け取って、志摩子はバスルームを出、寝室兼物置のドアを開ける。灯りを点ける。
 ほぼ正方形の六畳間。四方の壁は、ドアとクローゼットがある場所以外、すべてが本棚で占められている。窓も本棚に隠され、その機能を果たすことはない。部屋の中央にベッドが置かれ、そのベッドをコの字型に本棚が取り囲む。その為、床は通路としての機能しか持っていない。
 より言葉を正確に使うならば、今現在、通路としての機能も失いつつあった。
 床──通路に積まれた本が、志摩子の行く手を阻んでいる。一月前に全ての本を本棚に収め、掃除機を掛け、水拭きををした床──通路が、本に埋められている。背の高い叔父ならば跨いで進めるのだろうが、志摩子には無理だった。ゆえに、クローゼットへはたどり着けなかった。
「ほら、あのね、古本屋に持って行く本をね、選別したりしてて……」
 それは、本を通路に積む理由にはなっていなかった。言っている本人も判っているようだったが。
「今日は本をかたづけましょう。時間もあまりありませんし、洗濯物はクリーニング屋さんに出してください」
 少しだけ、残念そうに言う。
 志摩子は叔父の服にアイロンを掛けるのが好きだった。いつもだらしない格好をしているお兄さまが、自分の手でパリッとして見えるようになるのは充実感があったし、そもそも単純に、お兄さまの身につけるものを触っているだけで暖かい気持ちになれたから。
 ただ、本をかたづけるのも同じくらい好きな作業だった。
 叔父の本棚は、背表紙を眺めているだけで楽しい。そこにはその人の読書傾向への興味だけでなく、知らなかったもの、未知のものへの好奇心をくすぐられる感じの、そんな高揚があったから。
 例えば、『分裂病の精神病理』『トポロジーの世界』『スペイン内乱』『寄生虫学入門』『磁気冷却の可能性』『エリック・サティの生涯』『社会契約論』『サンカとマタギ』『アマゾン河の博物学者』『鼻行類』が、同じ棚に並んでいる。ジャンルも判型も無視して。整理されていないのは、単純に叔父のやる気の問題だったが。
 ただ、叔父の本棚の本質は、むしろ別の部分にある。
 『新建築』『日本カメラ』『広告批評』『stereo』『ニュートン』『アクアライフ』『月刊天文』『ナショナル・ジオグラフィック』『Mac Fan』『航空ファン』『月刊むし』『月刊アスキー』『ねこの手帳』『美術手帖』『モーターマガジン』『キネマ旬報』『盆栽世界』『数理科学』『Knife Magazine』『秋桜友達』『月刊GUN』『Forbes日本版』『鉄道ジャーナル』『トランジスタ技術』『歴史民俗学』──雑誌類専用の棚にある一部である。さすがに全部を買い続けるのは読む意味でも保存する意味でも不可能で、バックナンバーが揃っているものは稀だった。が、一千冊は超えている。雑誌を乱読し、さらに捨てないのは、雑誌は数十年寝かせることで価値が出るという叔父の哲学に依っている。当然、古本屋でも古い雑誌を買い求め、既に廃刊になっている『航空情報』や『MACLIFE』、雑誌名が変わった『サイエンス』、雑誌名が『科学朝日』から変わった後、休刊になった『サイアス』も両方、さりげなく並んでいる。ただ、週刊誌だけは量が膨大になってしまう為、泣く泣く捨てていた。
 そして、叔父の本棚の容積をもっとも圧迫しているのが、図鑑類だった。いわゆる図鑑マニアであり、動・植物図鑑から女子校制服図鑑まで、和書洋書の境なく集めていた。同じ図鑑でも新種が発見されたり新しい学説で内容が変わったりしたものがあれば、新旧を買い揃える。むしろそういう内容の変更を押さえるのがこだわりらしかった。
 ちなみに、女子校制服図鑑には私立リリアン女学園のセーラー服も載っている。
 古本屋へ持って行く本を入れるための本棚というものが、志摩子の提案で設けられていて、床──通路に積まれた本はとりあえずすべてそこへ収められる。ただ、床──通路に本が積まれた理由の一つは、そこからあふれたからなので、まず叔父が本棚から玄関の床へ本を運ぶ。
 どのみち、床に積むことになるのだ。根本的な問題──収容能力の限界──がそのままなので。
「何度も言うようですけど」玄関へ本を運び帰ってきた叔父に、本を並べる手を止めずに、志摩子が告げる。「先のことを考えておくべきだと思います」
 このペースで集め続ければ、早晩、限界がくるのは判っていた。本人も。結論を先延ばしにしているだけで、引っ越すか本を手放すか、大きく分けてこの二つしか選択の余地がないことも判っていた。
「──本棚増やそうかなぁ……」
「そういうことではなくて」
 叔父の冗談──と言い切れないのんきな発言に、志摩子は少し泣きそうな顔になる。
「ああごめん志摩子ちゃん、考えてる考えてる、雑誌手放すから──ただ、どれを手放してどれを残すかを決めるのが難しくて先延ばしになってるだけで」
 ちゃんと考えているんだと言う叔父。でも、そのことは志摩子も判っていた。自分の思いつくようなことはお兄さまはとっくに考えている。問題は、判っているのにやらないことだった。
「──お兄さまの蔵書には興味深いものも多いですし、そこから形作られた知識の広さと深さにはいつも驚かされます。お兄さまのそういうところを、私はずっと尊敬していました。
 今も尊敬しています」
 志摩子が言外に含ませ口にしなかった、お兄さまに対する否定的な言葉。それは、お兄さまのために口にしなかったのではなく、自分の心が痛くなるから言えなかった言葉だった。
 人を悪く言うことは、それだけで心の負担になった。ましてや、尊敬もしているし親愛の情も感じる相手であれば、なおさら。
 志摩子は、そういう子だった。
「そうだね。うん、次に志摩子ちゃんがくる時までに半分にしておくよ」
 そう言って、お兄さまが本棚から何冊か抜く。それで床の本をすべて収容するスペースはできそうだった。
「あの、でしたらお兄さまの都合のよろしい時に私、お手伝いにきます」
 少しだけ焦りを見せて、志摩子がそう口にする。
「いいんだ。こうしていつも世話してもらってるのだって、申し訳ないくらいなのに」
 別に、突き放された訳ではなかった。その言葉に拒絶の意図はなかった。
 もし仮に、そう読み取ることがあったとしたら、それは多分、聞き手の心にある不安がそうさせるのだ。
 怒らせたかもしれない。嫌われたかもしれない。悪く言ってしまったから。言っていないけれど、言ってしまったから。
「私、お兄さまのお世話を嫌だと思ったことはありませんっ」
 めずらしく余裕のない、年相応の態度で、叔父の言葉を否定する。
「ありがとう。でも、手伝いにはこなくていいからね。きてもらっちゃうと、志摩子ちゃんがくる時までって約束が守れないから、ね」
 時々、この人が自分より年上なんだということを実感する時がある。志摩子は思う。例えば、今。本当に自然に従わされる。その目の優しい光とか、声音とか、さりげない、けれど選ばれた言葉とか、それを差し入れるタイミングで。
 この人は、普段自分のことも満足にできない子供のような人は、本当に頼りたいと思うその時に大人になる。
 自分はこの人に嫌われてなんかいないんだと、そう思える。勝手に不安になっていただけだって、自分の心の弱さが目隠しして、この人の優しさを見せなかっただけなんだって、そう思える。
 素直になれる。
「──ごめんなさい、お兄さま」
 お兄さまが苦笑する。
「志摩子ちゃんは自分に厳しすぎるよね。それと、僕に甘すぎる」
 そう言って、手に持っている本を玄関に積みにいくために踵を返す。
 志摩子も床の本を手早く本棚に収めて、叔父の後を追った。
 寝室兼物置の整理はとりあえず終わったので──本当は掃除機を掛けてベッドのシーツも代えたかったが──部屋の灯りを消してドアを閉める。本を置いて、代わりに玄関に置いていたゴミ袋を手に戻ってきたお兄さまと目で話して、LDKへ向かう。
 奇跡的に何も物を置いていない廊下を進み、突き当たりのドアを開ける──。
 しばらく、志摩子は動けなかった。
 だから、志摩子の後ろについていたお兄さまも立っていた。
 思いつくだけの言い訳を考えていた。
「どうして」
 志摩子がつぶやき、そして応える者はなく、また沈黙が生まれる。
 何というか、そういう部屋だった。
 足の踏み場はあった。ただ、けもの道ができていた。キッチン、机、テレビの前、そしてドアをつなぐ道。その道からダイニングテーブルが外れているのは、ダイニングテーブルの上下に物の山ができていて、テーブルとしての用をなさなくなっているからだろう。ちなみに、二脚の椅子の上下にも、物。
 ダイニングテーブルがその機能を失っているということは、別の場所で食事を摂っているということで──心なしテレビの前の床に人が一人座ってお皿とかを置けそうなスペースが空いていた。本来、そこにはニーチェアという折りたたみ式の座り心地のよい椅子が置かれているのだが、今それは折りたたまれ、壁に立て掛けられている。
 ようやく、志摩子が部屋へ足を踏み入れる。本能的に西側のキッチン方面を避け、東側の机のある方へ進む。
 北側の壁に、1000枚以上収容可能なCDラックと、数百本収容可能なビデオラックに挟まれるように、叔父の机がある。パソコン本体が机の下にあり、机上にはキーボードとマウスが二組ずつと、プリンタ、スキャナ、ルータ、ノートパソコンが二台、フリーマウントアームにつけて使っている液晶ディスプレイが三台。それと音楽を聴くためのCDプレーヤーとアンプ、スピーカーが数台ずつ積んである。が、それでも物書きをするには充分なスペースが取れるような、広い机だった。過去形。
 現在、マウスの周囲にわずかなスペースが覗くのみで、あとはもう本や雑誌やCDが積み重なり、その上にヘッドホンとヘッドホンアンプにつながるコードが二組ほどのたくって、さらなる乱雑さを演出していた。
 机の端にある雑誌などは床に落ちそうになっていたり、すでに落ちていたりする。はじめから落ちることを前提に、落としてはまずいCDなどを中央に置いている辺りが、問題の根の深さを表している。片付ける気がないのだ、最初から。
 ただ、叔父の机がこうなるのはいつものことだった。
 それよりも、机の横、CDラックの前のスペースに広げられた電子部品の数々だった。
「──お兄さま」
 LDKに入って初めて、志摩子が口を開く。
「えーと、デュアルプロセッサのパソコンってどういうものなのかなって、ちょっと、興味あって」志摩子が何を訊きたがっているのか、訊かなくても判っているので、先回りして答える。「あ、プロセッサとマザーボードだけだよ買ったの、レジスタードメモリ持ってたしリタンダント電源持ってたしほかのパーツはサーバ用じゃなくてもいいから余ってるパーツでなんとかなったし」
 レジスタードメモリというのは、簡単に言うと、普通の人が使うものではなかった。そしてリタンダント電源というのは、普通じゃない人でもまず使わない類の物だった。
 それらをあらかじめ持っていて、かつ余っているパーツでパソコンが組めてしまう環境。
 でも、志摩子はそれだけを見て言っているのではない。
 机の上の二組のヘッドホン。一つはゼンハイザーのHD580というヘッドホンにヘッドマスターというヘッドホンアンプの組み合わせで、もう一つがSTAXのSR−007とSRM−717の組み合わせ。志摩子も両方の音を聴かせてもらった時に、CDにはこんな綺麗な音が入っていたのかとびっくりしたのだが、あとで値段を聞いてもっと驚いた。合計で35万。そしてCDプレーヤーやスピーカーも同じような値段らしかった。さらにそれらの電源は直接コンセントから取っているのではなく、安定化電源という装置を経由させているのだが、言えないような値段らしく、教えてもらっていない。
 叔父は、興味のあることには、お金を惜しまない人。そして本棚を見れば判る、興味の幅のとても広い人。
 だからこそ、心配なのだ。
「失礼なことお訊きしますが、幾らくらいお使いになりましたか?」
 お兄さまは、そーっと指一本を立てた。
 三台のデスクトップパソコンが稼働している状況で、さらに新しいパソコンを作るために、十万円。
 志摩子が雑誌をまとめ始める。立ち尽くしていても仕方がない、というよりも何かしていないと悲しい気分になってしまうから。
 志摩子の行動に反応してお兄さまもてきぱきとCDをまとめてラックに入れていく。
 机上の雑誌が終わると、今度は床の雑誌を集める。
 振り返れば、南側──窓側の隅に本や雑誌やビデオやゴミや何だか判らないモノが吹き溜まっている。
 CDを片付け終わり、次いで持ってきたゴミ袋に吹き溜まりのゴミを入れる作業に移った叔父の横で雑誌を集める。
 十分ほどで、机の周囲はパソコンのパーツ類以外、収まるべきところに収めることができる。逆に言えば、それだけの時間でできることをやらないでいたということだった。
 部屋の東側半分の片づけがとりあえず終わり、次は西側。キッチンとダイニングテーブルのある側。志摩子が見て見ぬふりをしていた方。
 そして、ダイニングテーブルの上を、あらためて、しっかりと見る。思わず悲鳴を上げた。
「お兄さまっ、食事をする場所に土を置かないでください!」
 せいぜい二人で使うのが適当な広さのダイニングテーブルの上に、プラスチックの容器があり、その中身が土だった。
 そして、その周りに無造作に置かれた厚手のビニール袋の中身が土だった。
 正確には、焼赤玉土、富士砂、腐葉土が二種類にピートモスの袋と、一度徹底的に洗った富士砂の袋があり、それらを混ぜたものがプラスチックの容器の中身だった。机の上にはその他に計量カップと、素焼きの2.5号鉢と3号鉢、固形肥料、PH試薬等が無造作に置かれていた。
「ごめんっ、片付けるから、約束するから、今日は──三日くらいはこのままにさせてっ」
 反省しているのかしていないのか判らない台詞を口にして、お兄さまが懇願する。
「理由をお聞かせください──水槽が増えていることと関係があるんですよね?」
 言いながら西側の部屋の端を見る。北側の壁にキッチン、南側には本来窓があり、それらに挟まれた西側の壁には、以前から60センチレギュラー水槽──幅60センチ、奥行き30センチ、高さ36センチの水槽──が一本、水槽台に載せられていて、叔父が水草水槽を造っていた。その水槽が、水草水槽に直射日光はいけないという理由で遮光性のシートで塞がれた窓のある、南側の壁側に移動していて、その隣に、三段の水槽台が新たに設置されていた。60センチレギュラー水槽用と幅と奥行が同じ台。その一番上と真ん中の段に、30センチの水槽が二本ずつ、つまり四本の水槽が並んでいた。本来そこは天体望遠鏡がぽつんと置かれている場所だったが、それは水槽と場所を入れ替えている。ちなみに、その天体望遠鏡は40万円以上する。
 一言で言えば、お兄さまが『また』買ったのだ。
「あの、クリプトコリネの水上栽培をしたくなって──クリプトコリネって水中だと花をつけることってあまりなくて、あ、まったくないってことじゃないんだけど、でも圧倒的に水上栽培かそれに近い方法で栽培したほうが花をつけるんだよ──志摩子ちゃん水草綺麗だって褒めてくれてたし……」
 語尾の曖昧さがどういう意味を持っているのかは計りかねたが、とにかく、新しいことに強く興味を持ってしまったのだということは、よく判った。
 そして、今回の部屋の荒れ様の原因がこれだということも。叔父は自分の机が物で溢れると、テレビの前の椅子へ居場所を移す。その周辺の床が物で溢れると、ダイニングテーブルへ移動するのだが、今回、まずダイニングテーブルが使えなくなり、食事の場所としてテレビの前が使われてしまい、結果として机が物で溢れると、それ以外の床に物が散乱することになったのだ。
 でも、それは片付けない理由にはならないが。
「──お兄さまがなさりたいことをなさるのを非難しているのではないんです。それはお兄さまも充分お判りのはずです」
 志摩子はふと、出掛けに母の言った言葉を思い出した。直して欲しいところ全部、お兄さまは判ってやっている。
 お兄さまのやることには意味がある。少なくとも、お兄さまのそれは明確だし、説明されると志摩子にも納得できるものが多い。
 昔、お兄さまの語りかける言葉は、志摩子にとって、暗闇を照らす明かりのようなものだった。
 まるで魔法の呪文の様に、今まで見えなかったものを見せてくれた。見えているのに気づかなかったものを気づかせてくれた。
 辞典は読むもの、図鑑は眺めるものだと言われ、実際に図鑑を眺めてみると、いつのまにか時が経つのを忘れていたことがある。辞典も何冊か読んでみて、それは気がつくと今の勉強の役に立っている。
 オーディオセットも、水草水槽も、天体望遠鏡も、純粋に綺麗なものを教えてくれた。
 世界は魅力に充ちている。そのことを、志摩子よりも遥かに知っている人だった。自分が面白味のない人間だという事を、この人のそばにいると思い知らされる。
 いつからか、心の隙間で息づいて、ふとした瞬間に頭をもたげる考えがある。
 この人の目に映る、魅力に溢れた美しい世界に、自分は住んでいるのだろうか?
「うん、人に迷惑をかけないようにしないと──少なくとも、志摩子ちゃんに片づけを手伝ってもらってるようじゃダメだよね」
 迷惑であるが故に視界に入る、整理されていない物の山や、足に当たるから気づく、床の読み終わった雑誌と、自分の存在は変わらないのではないか。
「やりたいことやるには、やらなくちゃいけないことをやらないと──そういうの見えなくなっちゃうからね、僕は」
 世界の魅力に取り憑かれてしまっている人の、つまらないものを見る暇のないこの人の目に、自分はちゃんと映っているのだろうか──。
 志摩子が叔父の言葉への受け答えを曖昧にしたまま、新しく増えた水槽の前へ足を向けたのは、何かから逃げたかった心の表れだったのかもしれない。
 三段の台の、一番上に置かれた二本の水槽は、志摩子には背伸びしてやっと真横から覗けるくらいの高さがあった。水槽の底に黒い砂が薄く敷かれ、その上に素焼きの3号鉢──1号で直径3センチなので9センチ──が四つ、等間隔で置かれている。
「左のがアフィニス。前からあったやつを、水草水槽から鉢植えにしてみたの。まだ完全に水没させてるけど、少しずつ水深を浅くして水上栽培に移行させようと思ってる。右のやつがヌーリー。それも前からあったやつ。少しずつ水位下げようとしてるのも同じ」
 志摩子の後ろに立って、お兄さまが説明してくれる。
 志摩子はその下の段に視線を移す。少しかがまないといけないが、こんどはちゃんと鉢植えの様子を見ることができる。
 30センチの立方体の水槽の、真ん中にぽつんと、3号鉢が一つだけ置いてある。そして、その小さな鉢からやっとはみ出すくらいの大きさの葉を七、八枚広げた、見ようによっては雑草としか思えないそれ。
「左のがストリオラータ。綺麗な虎斑でしょ。右のアウリクラータも、多分照明のせいで薄くなってるんだと思うけどいい斑が入るんだよ」
 葉に入った模様のことを『フ』というんだと以前、教えられたことを思い出す。『トラフ』というのは虎縞のような斑のことらしかった。
 何となく、下の二つがやけに大切にされている気がして──相手が叔父であるという必然性により、ある考えに行き着く。
「お兄さま、こういうものはお幾らくらいするものなんですか?」
 一瞬、お兄さまが答えに詰まる気配がした。
「ああ、えーと──二株で六万円くらい……」
 高いと予想はしていた。だから訊ねたのだから。だが、返ってきたのはあまりにも予想を超えた答えだった。この数センチの水草と、その金額が、志摩子の中でどうしてもつながらなかった。
 志摩子にしてはめずらしく、余裕を感じさせない所作で振り返る。
「あの、念のためお訊きしますが──いえ、やっぱり結構です……」
 少し混乱している自分を意識する。だが、混乱している理由が判らなかった。
 さっき見た組み立て途中のパソコンが頭に浮かび、そして水草だけでなく当然、育成用の水槽や機材も新しく買っているのだと思い至り、自分の心を波立たせるものの正体がおぼろげに見えた。
「──お兄さま、半年ほど前に母とした約束のこと、憶えていらっしゃいますか?」
「うん──貯金だよね……」
 すぐに答えが返ってきたことに少し安心して、でもその口調にやはり不安になる。
「お母さまに尚お兄さまの様子を見てくるように頼まれているので──こういうプライバシーに立ち入るようなこと、半人前の私が訊くべきではないですが」
 直接訊くことはやはりはばかられ、だからそれはお兄さまに甘えた問いだった。察して、答えてくれという。
 叔父は、気持ちやしがらみや世の中の仕組みや、そういう後ろにある、目に見えないものが見える目を持っていた。そして志摩子に優しかった。
 だから、答えるのに少しためらったのは、何を訊かれているのか判らないのでも、答えたくないと思ったからでもなく、その答えが志摩子を悲しませるだろうと判っていたから。
 貯金──正確には預金残高。
「二千円──くらい……かな……」
 束の間、焦点が定まらず揺れた視点が、叔父の瞳を再び捉えて。
 静かに、志摩子は語りかける。
「もし私が思い違いをしていることがあったら、その時はすぐに正してください。物の道理を判っていないと思われたら、その時はどうぞご指導ください」
 その、抑えた理性的な物言いが、言われた方にはむしろ重かった。
「──昔から、お母さまはお兄さまのことをとても大切になさっています。お兄さまの大学受験の時に、電話の前から離れられなくなっていらっしゃったことを憶えています。でも当のお兄さまは飄々となさっていて──だからこそ周りが気をもむんだなって、最近判るようになりました。
 お兄さまはいつも楽しそうです。それは得難い長所だと思います。ですが、周りの者にとって、その美点は時に小さくない不安を抱かされる欠点に変わるんです。
 お兄さまは、真面目に将来の事を考えていらっしゃるのかって。
 ですから、お母さまは貯金されるようにお兄さまにお願いしたんです。それが、形として見えるもっとも判りやすい真剣さだからです。特にお兄さまは経済的な面でも趣味を優先なさっているようなところがおありなので。
 その時、お兄さま約束なさいましたよね? 毎月一万円は貯金する、自動車ローンの支払いを除いたボーナスの残りの半分は貯金する──間違いないですよね?」
「──うん」
「約束通りに貯金なさっていたら、今どのくらい貯まっていなければいけないんですか?」
「──二十万くらい……」
「パソコンと水草で今月、幾らぐらいお使いになりましたか?」
「──二十万……くらい……」
 それは、予想していた答えだった。予想していたからした質問だった。
 それなのに、感情がざわめく。
「どうして──どうしてお兄さまはご自分がなさった約束も守れないんですか!」
 抑えていた言葉が溢れた。
「お兄さまにとって、お母さまや私の願いなんて些末なことなんですか? お兄さまの将来のことを心配するのは迷惑ですか?
 それとも、そんな心配そのものが的はずれなんですか?」
 目に、抑えきれなかった涙が浮かんだ。
「そんなことない、姉さんにも志摩子ちゃんにも感謝してるんだ」チガイマス「僕なんかとっくに見捨てられてていいのに」チガイマス「それでも心配してくれる人がいるのは」チガイマス「それだけで」チガイマス「ありがたいことだから」
 チガウンデスッ
「お兄さまは判っていらっしゃいません!」
 ドウシテ、ワカッテクダサラナイノデスカ?
「お母さまは──私は、感謝して欲しいのではありません。見捨てるなんて、どうしてそんなことおっしゃるんですか──」涙がこぼれた。「──私はただ、お兄さまに立派な方になっていただきたいんです。お兄さまはそれだけの聡明さをお持ちだから。非凡なものをお持ちだから──お兄さまはもっと評価される努力をするべきなんです……」
 聡明な人なのに。言わなくても、ほとんどのことを察してくれる人なのに。
 なのに、どうしても伝わらないこともあった。
 無力感に、口を開くことができなくなって、言葉が途切れる。
 沈黙が生まれ、空気に溶ける。
「例えばね」
 かすかに、沈黙を揺らして。
「ネットで夜更かしして、倒れ込むようにベッドに入るんだ。眠くてもう目蓋を開けてられないくらいの状態。そして、眠りに落ちる寸前に、どうしてか、『もっけの幸い』のもっけって何だろうって疑問が浮かんでしまう。
 そうなると、もう、眠れなくなるんだ」
 寂しげに。
「深夜にさ、本棚の前行ったり来たりして、何冊も引き抜いて床に積んで、ずっと調べてるんだ。最初の疑問は途中で別のものに代わっていたりして。結局それに終わりなんてなくて。途方に暮れて。薬飲んだり。薬も飲み方があって、次の日仕事なのに早朝に飲んだら起きられなくなるから。かといってあらかじめ飲んでも、本当に気になることがある時はチエノジアゼピン系もベンゾジアゼピン系も効かないことが多いし。あ、酒石酸ゾルピデムは使ったことないな。でもとにかく、薬使って眠れない時が一番きついの判ってるから、薬に頼ることも躊躇する感じで。
 志摩子ちゃんは知識が豊富だって褒めてくれるけど、それは僕の能力でも努力でもなくて、この性質で培われただけのものなんだ。
 僕の知識には目的がない。目的がないから際限がない。僕がそれしかしないのは、多分、そういうことなんだ。他の事をする余裕がないんだ、今の事しか考える余裕がないんだ──眠るために」
 寂しげに、笑う。
「姉さんが、志摩子ちゃんが僕にどうして欲しいのか、判ってるんだ。どうすればいいのかも判るんだ。
 でも、どうしてもできないんだ。誰もができるようなことが、特に意識せずにやっているようなことが、僕にはどうしてもできないんだ」
 再び、沈黙が生まれる。志摩子に、その沈黙は埋められない。
 自分で埋めるしかないから。
「僕も苦しいんだ」
 ぽつりと、そう付け足した。




 叔父の車は、RX−7というスポーツカーだった。82年式(昭和57年式)だったが。ドアミラーではなくフェンダーミラーであることがこだわりの一つらしかったが、説明されてもいまいちよく判らなかった。唯一判ったのが、百万円で車体を買って百万円以上掛けて修復をしてまでこの車に乗る人は、酔狂だということだけだった。
 ただ、志摩子はお兄さまの運転する車に乗るのは好きだった。
 家路を急いでいるのだろう、甲州街道を下る車の数は多かった。しかし車の数に比して流れそのものは悪くない。
 信号が変わり、前の車のブレーキランプが光る。お兄さまは前の車の後ろぴったりにRX−7のノーズをつけ、シフトをニュートラルにしてサイドブレーキを引く。ヘッドライトを消す。
 志摩子はじっとお兄さまの左手の動きを見ていた。再び信号が変わって、お兄さまの左手がサイドブレーキを戻し、シフトを一速に入れる。滑らかに車体が動き出す。ヘッドライトを点ける。
 変速ショックなしに二速へシフトチェンジ、加速をやめたところで三速にして、車の流れに速度を合わせた走行になる。
 ほとんど会話はない。話すべき事柄が見つからない。
 信号につかまる。お兄さまの左手が機敏に動くのを見ている。
 走り出す。お兄さまの左手を見ている。
 無意識に手を伸ばした。シフトノブの上のお兄さまの左手。
「だめだよ」
 触れる直前に、優しく叱られる。
 顔を上げる。お兄さまは前を見たままだった。
「ごめんなさい。運転のお邪魔になるようなことを」
「そうじゃないよ」
 危険だから叱られたのだと思っていたので、否定され、思考が停止する。言葉も継げない。
 ──三等親だから
 つぶやきは、車の音にまぎれる。
 途切れた会話が、長い無言を挟んで、再び繋がる。
「──お兄さまは、私がシスターになりたいって言うの、一度も笑わなかったし、反対なさらなかったですよね。周りは誰も、本気にされなかったり、本気だと判ると決まって反対されたのに。
 それが、心の拠り所になっていたんだって、今になって思います」
 お兄さまの横顔を見つめる。
「どうして、反対されなかったんでしょう」
「無責任だからだよ。最初に聞かされた時は僕も未成年だったし」
 前を向いたまま、お兄さまが答える。
「では、今は反対なのですか?」
「僕はダメな大人だから。未だに無責任なままだよ」
 それは、反対しない理由ではなかったから。
「理由をお訊きしてもよろしいですか?」
 そう、志摩子が訊く。
 迷いなく、お兄さまが答える。
「理由なんてないよ」
 嘘だった。
「しいて言えば、反対する理由がないから」
 本当の理由は、絶対に口にしてはいけなかったから。だから、上手く嘘をつかなくてはならなかった。
「ただ──」
 前を向いたままで、志摩子の目を見ずに、お兄さまは嘘をつく。
「志摩子ちゃんが決めたら、それが最も大きな理由になると思う」
 志摩子もそのまま、お兄さまの横顔を見つめて、応える。
「そうですね──」言葉の途中で、視線を、膝の上に重ねた手の上に落とす。「──本当に、そうですね」
 前を走る遅い軽を抜くために、車線変更。
 ウィンカーリレーの音が、カチカチと車内に響く。



あとがき