――「由乃が叱られます:改造前」――

























 病室というのはとても退屈な空間なんだ、というのは世間一般の認識で、私もその点に関してはとても同意できる。

 ――ここは、つまらない。

 私は「仕掛人・藤枝梅安」を閉じて枕もとの棚にやった。その棚にはすでに池波正太郎シリーズでタワーがそびえている。およそ十五冊。我ながらよく読んでいると思う。
「疲れた?」
 令ちゃんはリンゴを剥く手を止めて言った。私は首を振った。
「飽きただけ」
 池波正太郎は面白いけど毎日読んでいると流石に飽きが来る。下の売店にある本は他に何があっただろうか。女々しいやつはいらない。渋くて、力一杯人が動く小説。ハードボイルド、ってあっただろうか。大沢在昌、北方謙三、船戸与一とかが読んでみたい作者だけれど、どうだろうか。
「少し寝なよ。ずっと本読んでるじゃない」
「うん。ねえ令ちゃん。新しい本が、欲しいんだけど。本屋寄る用事があったら、ついでに買ってきて欲しいんだ」
「いいけど、読みすぎじゃない? 疲れるよ」
「大丈夫だから、ね? お願い」
 私がお願いをすると、令ちゃんは笑って頷いてくれる。いつもそう、令ちゃんは私にとっても優しい。
「ん、わかった」
 でもそれは、やっぱり私が病弱だからなわけで。
 私が健康体で、思いっきり体を動かしても大丈夫で、心臓も元気だったなら、令ちゃんは本を買ってきてくれるだろうか? 
 甘えるんじゃない。とか、自分で買って来い、とか言ってくれそうだ。買ってくれるとしても、ちょっとごねたり。
 それは私にとっては素晴らしく魅力的な空想だった。買ってきてくれて良いじゃないかと私は拗ね、馬鹿馬鹿しいと令ちゃんは機嫌が悪くなり、私はさらにケチと逆切れする。二本の立派な足がるんだから自分で歩いていったらいいじゃない、と令ちゃん。面倒くさいんだから仕方がないじゃない、と私。なにそれ、私はあなたの奴隷じゃないのよ。どうしてそうツンケンするの、お願いしてるだけじゃない。その言い方が気に食わないのよ。じゃあ最初からそう言ったらいいじゃない。いま言いました。ムカツク。表出な。上等よ。
 私は思わずクスクスと声を出して笑ってしまった。
「どうしたの由乃」
「ううん、ふふ、なんでもない。ちょっと、ね」
 昔からいつも一緒、家も隣同士の従妹同士で、姉妹以上に暮らしてきた二人だから、取っ組み合いの喧嘩の一つでもしてそうだけど、どう記憶を手繰り寄せてもそんな思い出は一つもない。それはやっぱり、私が体が弱いからだ。
 令ちゃんにばれないように、私はこっそりと溜め息を吐いた。なぜ? と思う。こんなんだから、私は令ちゃんの優しい所しか知らない。厳しい所も、気に食わないところも、全然知らない。不満はあるけれど、それはやっぱり私が原因なわけだから八つ当たりというやつなのだ。
 私は、もっともっと色々な令ちゃんが知りたい。優しい一面だけじゃなくて、弱い所とか、そんなのを。
 考えていると、窓の外でびゅうっと風が音を立てた。今はもう三月だけど、冬の名残はそこここにまだ残っている。今日も曇りで、気温が低いから冬っぽい。窓の外、木の枝が揺れていた。
「ねえ」
 ん、とリンゴの皮をゴミ箱にドサドサ捨ててから令ちゃんがこっちを向いた。私は窓の外に指をさした。
「あの木があるじゃない。まだ、枝にはいっぱい葉がついているけど、でもね、あれはもうすぐ全部散ってしまうの。そうするとね、私も一緒に死んじゃうんだ」
「馬鹿なこと言わないで」
 別に怒りもせずに令ちゃんはリンゴの乗ったお皿をテーブルの上に乗っけた。
「どうして? 絶対ないって言える?」
「ねえ、お願いだからそのイタズラは止めて。前も言ったじゃない、ありえないって知ってても、ちょっとはドキッとするんだから、ね?」
 ちょっとお手洗い、と言って令ちゃんは病室を出て行った。つまんない。全然面白くない。いっそ、叱ってくれればいいのに、と思う。やっぱり窓から見えるのが、杉の木っていうのがダメなんだ、とさらにこの病室が嫌いになる。
 検査入院はあと一週間の予定で、今日も含めてあと四日続く。嫌過ぎ。だけどけどま、それもこれも退院日が高等部の入学式に重なってるという事で、ちょっとチャラになる。
 当日は、退院したそのままの足で向かうんだ。





 次の日、令ちゃんは本を買ってきてくれたけど、大沢在昌でも北方謙三でもなくて、なんか少女っぽいのだった。どうやらパラパラ読んで、お気に召さなかったらしい。人が死んだりするのは嫌だそうだ。いくらなんでも神経質すぎると、私はちょっと声を荒げていった。
「だいたいっ……けほっ」
 咳。ああ、と私は頭を抱えたくなった。また寝たきりだ。熱が出て、咳が止まんなくて、頭が痛くなって、変な薬をたくさん飲んで、またお粥ばっかりで、令ちゃんが泣くんだ。
 ほら、もう泣いてる。少女小説を買ってきたせいだとか自分を責めるんだろう。そんなことあるはずないのに。
 そんな風に泣かないで。もう声も出ない。咳ばっかりが出てくる。そんな風に泣くと、私はまた私が嫌いになっちゃう。
 謝らないで。謝らないで令ちゃん。





 熱は、二日目になってようやく下がった。そしてまた、痩せちゃった。
 しかも、最悪なことに私の入院はさらに一週間伸びた。今日の入学式も、当然出席できない。
 令ちゃんの晴れ姿を私は、見ることが出来ない悔しさを抱えて、病院で鬱々としているしかなかった。いつの間にやら枕もとにはハードボイルドがズラリと揃っているけど、正直もうどうでもいい。
 外も見たくないからカーテンも閉めた。どうにもならないくらいイライラが募る。ベッドの固さも、枕の大きさも、カーテンの色も積みあがった本もお昼のお粥もみんな気に食わない。予定通りなら今日の朝一番退院で、そのままリリアンに直行する予定だったのに、あっちのハンガーには私の制服がかかっているけど、持ってきただけムダだった。服だけじゃない、わくわくしてた気持ちもうきうきしていた気持ちも取り返しのつかないムダだった。ムダムダ。
 ああ。あれを着て、令ちゃんの晴れ姿を見て、マリア様の前で一緒に写真を撮る予定だったのに。
 窓の外は晴れている。きっと最高の写真写りになっていたに違いない。一生の思い出に出来たのに。
「一生の思い出……」
 つまりそれは、死ぬまで大切にしまっておける宝物、ということで。
「そうね、そうよね」
 一生の思い出になるのだ。一生の。つまり、そう、ちょっとくらいのリスクを背負ってでもチャレンジする価値はある、ということ。
「……よし」
 決めた。もう決めた。もう知らない。私でも止められない。
 立ち上がり、ハンガーを手にとった。しばらくお風呂に入ってないのが恨めしいけど、今だけは目を瞑ろうか。
 パジャマに手をかけた。ええい忌々しい病院服よ。





 運転手さんにお金を払ってタクシーを降りる。お金は、本を買うからと余分にもらってたからなんとか片道分は払うことが出来た。帰りは、怒られるだろうけど一緒に帰らせてもらおう。どうせ今ごろ病院じゃあたふた言ってるだろうから下手な嘘など吐かぬがマシ。書き置きはセオリー通りしてきたし今のところ計画通り。
「……さて」
 腕時計を見た。そろそろ入学式も半ばだろう、という辺り。新入生が自由になるまでもう少し余裕がある。狙うは入学式の終了直後。式自体は結構どうでもいい、令ちゃんが前で朗々と喋るわけじゃないし、人がたくさんいるのに見つけるのだけでも大変なものだ。叔父さんと叔母さんに見つかる可能性もあるし。カメラは叔父さんが持ってるだろうけど、もしなかったのなら誰か適当に声をかければ借りればいい。頼めば郵送してくれるはず、ここはリリアンなのだから。
 時間を有効活用するために、しばらく高等部の敷地の中をブラブラすることにした。どうせ生徒は全員式場に集まっているのだろうし、気をつければ先生にも見つかるまい。あと一年すれば通うことになる場所、365日前に下見をしたとしてもバチは当たらないだろう。マリア様もお許しくださるはず。
 銀杏並木の下、雨で出来た水たまりを踏ん付けないように、ちょこん、ちょこんと気を付けながら歩いた。
 白い、古いお御堂さまをながめる。
 マリア様の像で手を合わせる。
 温室。
 そして薔薇の館。素敵な雰囲気を漂わせている建物だと思った。古いから、っていうのもあるけれど何だか、やっぱりちょっと品を感じる。
「あー、なんていうのかしら。そうそう、不可抗力。どっちに行ったらいいのかわからないどうしよう困ったわここは何かしら」
 というわけでお邪魔することにした。こんな時でもなければ、一生入れないかもしれないのだ。
 薔薇様は、薔薇様の妹しかなれないのだもの。私は令ちゃんとスールになることは間違いないのだから、令ちゃんが薔薇様になるしかない。流石に、ムリだろう。
「というわけで、失礼します」
 ガチャ、と思ったより大きな音をさせながらドアが開いた。まずは頭を突っ込んで、人がいないか確認する。薔薇様なら入学式に参加遊していらっしゃるに違いないだろうから大丈夫だろうとは思うけど、一応ちょっとビクビクしつつ入る。
 バタン。
 中は、少し暗めで落ち着いた雰囲気がしている。窓から差し込んでくる燦々とした陽光が、聖なる象徴画を思わせる。流石に、薔薇の香りまではしてこないけど。
 あまりガソゴソやって盗っ人じみたことやるのも気が引けるから、階段だけ上がらせてもらった。
 ギシギシ、ギシギシと派手に音を立てるものだから笑ってしまう。真ん中くらいまで進んだ階段をもう一度下まで下りて、再びギシギシ言わせながら昇る。
 もう一度、もう一度。いつか踏み抜けるんじゃないかと思いながら、私は階段をギシギシ言わせた。
「楽しいなこれ」 
 何度繰り返したか、ちょっと足元がふらついてきたのでいい加減やめることにした。病み上がりで、病んでる途中なのだからムリは禁物。息を整えて、ゆっくりと階段を上がった。
 そして大きなビスケット扉。中にはなにがあるのだろうとわくわくさせる。
 私はギュッとノブを握って、

 ――――あれ――――

 放した。
 何か、フッと頭のなかをよぎった気がした。いつか、中を堂々と見れるような。
 まさかね、と笑う。自分で、薔薇さまになれるかも、なんて自信過剰じゃない。第一私の努力なんて関係ないし。

 ――でも、やっぱりここは夢の場所には違いない。

 夢のような場所、ここを令ちゃんと一緒に歩きたい。一緒に、横で手をつないで。
 だったら、今ここで無粋な現実にしちゃう必要は、どこにもない。
 階段を下りていく。ギシギシ音を立てて歩く。いつか、この階段を一緒に。
 外に出るのは、どこかやっぱり夢の終わりに似ていた。夢が醒めるのに似ている。私は一度振り返って薔薇の館を見上げた。夢の場所。もう一度来れる日が、やっぱりする。多分誰でもそう思うに違いない。
 そろそろ時間だろう。私は会場へと歩いていく。





 外は、しんとしていたさっきとは全然違い、たくさんの親子連れで溢れていた。さぁ、さっさと令ちゃんを見つけなくてはならない。私が病院から抜け出した、なんてばれたら面白くない。ばれるのは写真を撮ったあとでいい。
 私は背の高い、ショートカットという目立つ格好を目指してウロウロし出した。令ちゃんお手製のストールを羽織っているから、ぱっと見て中等部の学生とはばれるまい。
 温室を過ぎ、お御堂を過ぎ、キョロキョロと探していると、

 ――いたいた。

   ちょうどマリア様の像の辺りに、ショートカットの背の高い、いや、もう令ちゃんで間違いなかった。令ちゃんがいた。
 嬉しくて、私は重い足で走って、令ちゃんの腕にしがみついた。
「令ちゃんっ」
「うわっ」
 不意打ちだったから、さしもの令ちゃんもちょっとふらついて、倒れそうになったから慌てて引っ張り戻す。
 ばっ、と振り向いた令ちゃんは、考えていた通り、ひどく驚いた顔をして、立ち止まった。  「なんで?」
 ぼんやりした背の高い令ちゃんと、背が低いけどにこにこした私とではひどく対照的だろう。周りからは、どう見えるだろうか。
「なんで、由乃がいるの?」
「うん。私、どうしても令ちゃんの晴れ姿を見たかったの。そして、一緒に写真を撮りたかった」
 写真を撮りたい、今にして思えば、写真なんかどうでもいいのかもしれない。タイを結んだ令ちゃんを、誰よりも早く褒めてあげたかったんだ。
「令ちゃん、高校生になったね。おめでとう」
 私はとっても嬉しくなって笑った。心の底からの、おめでとうを言えた気がする。
 けれど、決して令ちゃんは笑っていなかった。
「なによ、それ」
「……令ちゃん?」
「一緒の思い出なんて、やめて」
 令ちゃんは、両手を強く握り締めて、震えていた。私は、何か悪いことでもしたのだろうか。
 何をどうすればいいのか、束の間見失って言葉を探していると、令ちゃんの大きな声でびっくりとした。
「ねえ、こんな無茶して、もしものことがあったらどうするの? ねえ!」
 顔を真っ赤にして怒っている。なんていうか、そんなことを言われるとは思っていなかったから、ただ単純に喜んでくれると思っていたから、それはあまりに予想外だった。
 まさか、令ちゃんに拒まれるなんて。
「無茶じゃないもん、私今日は具合が良かったから」
「もしものことがあったらっ!」
 令ちゃんの目には涙が浮かんでいた。まるでヒステリーのように声を張り上げる。
「由乃が、一緒の思い出のために来たんだって言うなら、私は、もしそれで由乃に何かあったら、一生どころか、死んでも悔いが残る……もしものことがあったらっ!」
 ざわざわなんて、周りの声も気にならない。私は頭に言葉も浮かんでこない。
「だからお願い、ね? もう……」
 令ちゃんは最後には泣き出して、もう何を言ってるのかわからなかった。
 私も悲しくて泣いた。とても悲しかった。令ちゃんを悲しませたということが、そう、なによりも。
 二人して、マリア様の御前で顔をくしゃくしゃにして、どうにも出来ないやるせなさに、どうにも出来ないまま押し流された。

   ――ああ、私は……

 令ちゃんにしっかりとおめでとうを伝えることが出来なかった。
 とてもとても、それは悔しいことだった。
 叔父さんと叔母さんがそのあとやって来て、事情を言ったら叱らないでくれた、でもやっぱりムリはするなと言い添えて、タクシーで病院へと向かった。
 その日、私はもう令ちゃんとは話さなかった。病室へと戻り、一言だけ。
「ありがとう、由乃」
 そう言ってくれた。

























 ――その言葉、私は笑っていって欲しかったんだ。


















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