――「由乃が叱ります!(むしろ八つ当たり):改造後」――


















 今さらだけれど、私は負けず嫌いだ。やるからには本気でやらないと意味がないと思っているし、基本的には何事も勝利を目指して目指していく。たとえどんなに差が開いていようと、諦めることは、何があっても絶対にそれこそ地球滅亡なんてスケールの問題が起こらない限り、やらない。
 だから令ちゃん。うかうかしてちゃダメよ?


 私はいち早く着替えを済ませ、道場の板をゴシゴシとやっている。まだ初夏なので、濡れた雑巾も朝の道場の床もひんやりとして心地よい。
 バケツに雑巾を突っ込みギュッと絞る。足元が濡れて滑った、など練習中では言語道断なので水気をすっかり無くしきるまできっちり絞る。ギュッと。続いてそのまま雑巾を床に押さえ込み、両足の脚力で勢いよく駆けながら拭く。一休さんといえばわかるだろうか。珍念でもいいけれど。
 少し離れたところで支倉令――令ちゃん――もまた私や他の部員と同じように雑巾がけをしている。ダッダッと勢いよく道場の床を一休さんしていく令ちゃんは流石にさまになっていた。すでに息が荒い私と同じ数だけ往復しているのに少しも疲れた様子がない。本当に体力あるわ、などと考えながらぐっと歯を食い縛る。
 私と令ちゃんがどれだけ往復しているかはしっかりと覚えている。ゴールしているタイミングを見ればやや私先行で、体力を見れば令ちゃんが圧倒的有利だった。
 体力だけじゃない、剣道じゃ今の実力にしても、経験にしても、私と令ちゃんの間には、埋められないほどの大きな実力差があるなんてことは百も承知だ。
 でも、だからといって泣き寝入りは嫌だし、そもそも剣道部に入った理由に、令ちゃんと肩を並べる、という大前提がある。
 大きく実力差が開いているからこそ、小さな事からでも差を埋めないといけないし、だとしたら雑巾がけだって馬鹿にはならない。小さな事ですら勝てないのなら追いつけるわけなんてない。勝つべし。  打倒支倉令を掲げたからには、生半可な妥協は禁止も禁止、絶対禁止だ。
 呼吸が整うのも待たずに、再び一休さん。すぅっ、と息を吸い込み、一気にダッシュ。
 うおお。なんて声が気を抜けば口から飛び出してくるだろう。息つらいしフトモモ張ってくるし、胸がギュッとなってくる。なんで道場こんな広いよ。長すぎると内心愚痴をこぼす。
 やっとの思いで端に辿り着いた時には、野球のヘッドスライディングのような姿勢で倒れこんでしまうくらい疲労困憊している。
「……つらっ」
 多分、じゃなくて確実に。私が休みたいと言えば令ちゃんは休ませてくれるだろう。いや、令ちゃんだけとは言わず、この部に関係するほぼ全員が、喜色満面で道場から追い出し、笑顔のままに帰宅を勧め、ついでと言わんばかりに退部届を渡せとペンを持たせてくれる。

   ――それが私のためだ、とか信じて疑ってないのだから本当に困る。

 だから私は弱みを見せられない。手を膝につかないし、下も向かない。へばるくらいなら、倒れるくらいまでにやってへばってやるのだ。いらぬお節介も、余計な気配りも付け込ませない。
 今私は一番楽な姿勢。思わず眠りの世界についてしまいそうなくらいに心地よい。そこからまずは抜け出さなくてはならない。
 問題など何もない。私は私の体を信頼している。「ストレッチマラソン筋トレ同好会」を経た私はこの程度の一休さんなど苦になるはずもない。

 ――よし。私の腰。そしてふくらはぎ。そしてフトモモよ。へこたれるんじゃない、ガッツだ私のマッスルボディ。

「よっしゃ」
 腰。
 ふくらはぎ。
 おしりもパンパン。
 前方の令ちゃんは息も乱さず、淡々と床を蹴っている。出来るやつには分かるまい。出来ない方からしたらこれは本当に疲れるのだ。でもだからと言って、気持ち的にはそれほど辛くはない。
 病院で寝たきりだったのに比べれば、いや比べるまでもない。







 木曜日の朝はこうして朝練が義務付けられているのだけれど、練習内容は道場の掃除。以上、だったりする。
 あとは自己練で、ランニングしたければすればいいしストレッチをしたければする。防具を装着して練習してもいいけれど、着て脱ぐのに結構時間がかかるから朝から本格的に打ち合ったりする人はいない。せいぜい素振りしたり、姿勢やフォームをチェックしたり、間合いを計ったりがほとんどだった。
 私の場合、まずは息を整える事が先決だった。すでに息が上がっているなんて私一人。息がひっきりなしに口から出たり入ったりしている。今ならば、馬鹿馬鹿しいわね、といわれれば素直にそうですねと同意できる。一休さんで息絶え絶えだなんて、ほんとに――
「馬鹿馬鹿しいとは思わない?」
 ああ、だからといって言われて許せる相手とそうでない相手がいることくらい、当然だと思うのだ。
 人間は皆平等だなんて言うけれど、好き嫌いの区別をつける権利くらいあるだろう。
「別に、全然、思わない」
 というわけで馬鹿馬鹿しいと言われて許せない部類の筆頭である、田沼ちさと嬢に見事に言われて私はムッとして言い返した。息整ってないけれど。
「無理しなくてもいいわよ」
 ええい、と大の字からぐったりとした体を持ち上げる。無理するなと言われれば無理しなくてはならないのが人の情というやつである。
「なんでそんなにムキになって張り合おうとするのかしら。朝からバテバテで」
「ふん、当然の努力よ」
「私に対する?」
「あら。それは少し自意識過剰なんじゃなくて?」
「そうよね」
 わかってるわ、とちさとさん。思うに彼女は私の考えをよく読んでくれるので話がポンポンと進んでいく。実は相性がいいと気付いたのはここ最近のこと。 彼女はそのまま、でも、と続ける。
「いくらなんでもあの令さまに追いつけると思うの? どれくらい差が開いているのか分かってないんじゃないかしら。かたや県内でも名の知れた段持ちの部長。かたやハンデを全身にたっぷり抱えて途中入部の初心者。大人と子供くらいの差よね」
「頼んでもいないのにわざわざ変なことベラベラ話さないでちょうだい。大体私は、はなっからお姉さまに追いつこうだなんて思ってないし」
「ふむ?」
「当然、勝つつもりでやってるの」
 でました、といった感じでちさとさんは顔を歪めた。ええ、わかってますわかってます。わかってるから皆まで言うな。それは精一杯の強がりだなんて私自身知ってるし、とうてい不可能に近いって事ぐらい、言われなくたって自分の体の筋肉とか押してみれば一発でわかる。
 だけれどそれは、不可能に近いってだけで、やっぱり不可能ではないのだ。ところがどっこい、気持ちのところで諦めてしまったら、出来ることも出来なくなるし、「ほとんど出来ない」が「完璧に不可能」になってしまう。だったら、無理、という部分には目をつぶって、ずっと前の背中だけを見てればいい。前だけ見てればいいのだ。
「呆れるわほんと。石の上にも三年って言うけれど……でもそんな慎ましやかな姿勢に感じられないのはなぜかしら」
「なによー」
「んー。何だかあなたが頑張ってる姿って、仔猫が親猫に、ちくしょー、って八つ当たりしてるように見えるからかな?」
 なんじゃそら。私は仔猫か。心の中で小さく反論をする。ふふっ、と一人勝手に笑いをこぼしながら、ちさとさんは私を引っ張り起こして背後に回る。
「さ、足伸ばして」
 そしてそのままぐぐっ、ぐぐっ、背中の上にのしかかってくる。いわゆる伸身体前屈。
「ぐおー」
 のしかかってくる体重が増えてくるにつれ、足の裏側の筋やら筋肉やらが悲鳴を上げる。体の固さは、入部したての頃よりは大分マシになったけど、それに合わせてちさとさんの要求レベルも上がっているのだから苦しさは変わらない。いたた、いたいそれ以上はいたい。
「まだまだー。まずはそのかったい体をほぐさないと追いつけるだなんてとてもとても」
 剣道部に入り、それなりに話すようになってから、彼女は私の操縦を上手くなったと思う。自分で言うのもなんだけど。

 ――追いつけるだなんてとてもとても、だと?

 そんなことを言われりゃ、頑張るほかあるまい。タップしようとした掌をグッと握り締めた。
 さて、さきほどの彼女のセリフには一つ間違いがある。石の上にも三年? 残念ながら、目標は三年後を待たずして卒業してしまう予定なのだ。部活の引退を迎えるまでを設定するのなら二年もない。難儀な話だ。
「おりゃっ」
「ぎゃっ」
 ゆえにこの仕打ちにも、まぁ、我慢しよう。お互い色々と因縁もある仲なので容赦の欠片もないが、ありがたいといえばありがたくもあるし。だからといってこのまま引き下がるのも私らしくない。いつか、今まで喰らったダメージの合を三倍にして叩きつけてやる、と息も絶え絶えに誓う。






「そういえば」
 朝練はそのまま何事もなく終わり、更衣室。胸のタイをクリクリと結びながらちさとさんが言う。
「今日の午後練の内容知ってる?」
 私はというとようやくダメージから回復しかけていて、汗を拭き終えて髪の毛を整えていた。編み編みしながら答える。今日は土曜日だから明日は日曜日。
「いつも通りじゃないの? ウォーミングアップして、技の確認して、懸かり稽古」
 懸かり稽古というのは、力の劣る人が強い人に向かってパンパンとぶつかっていき、受ける側の人は隙をみて打ち込むけれど積極的には手を出さない、そんな練習法。一番弱い子から、ほどほどに弱い子、中くらいに強い人、強い人へと段々挑戦していく形になる。下級生が上級生や先生に向かって打ち込む姿勢は本気そのもので、中々実戦的な練習だと思う。基本的にはいつも練習の最後はこれで終わるるんだけど今日は違うらしい。
 ちなみに私も、つい先週「ストレッチマラソン筋トレ同好会」を返上し、剣道部として晴れて竹刀を握ることを許された。
 といっても今言ったウォーミングアップから懸かり稽古へのメニューはまだこなしたことがない。  それはしっかりと試合にも出れる正規部員のメニューで私はまだ素振りという基礎訓練が残っている。というわけでやっぱり結局、「素振り同好会」止まりの扱いなわけだ。
「やっぱり知らなかったのね」
「勿体ぶらないで教えてよ」
「地稽古」
「ジゲイコ」
 あー。あれだ。この前一回令ちゃんに前聞いたことがある。えーと。
「試合形式の練習ね」
 そう、それだ。
「今言おうと思ってたのよ。人のセリフ取ってから。いじわる」
「まぁいいけど……ところで、相手は事前に決めておくようになってるんだけど、良かったら私と組まない?」
 つい私も相手を選ぶの忘れちゃったから、と。パッと私は手を伸ばしてストップのジェスチャーをする。
「待って頂戴ちさとさん。わたしゃまだ予備軍止まりのへなちょこですぜ。実戦形式だなんてとてもじゃないが」
「ところがどっこい由乃さん。地稽古に関しちゃ下手も上手も関係なし。むしろ下手くそのための登竜門と呼べる催し」
 ちっちっと指を振ってちさとさん。最近、この人の評価が私の中でぐんぐんと上がっている。丸っきり全部好きなわけじゃないけど、ああ、噛みあうなぁって思う時あるもの。絶対この人時代劇とか好きだとも思うし。今度さり気なく「鬼平犯科帳」のネタを振ってみよう。「一本眉」とか好きそうだ。
「というわけで、そろそろ打ち合ってもいいんじゃないかと思うわけ。試合に近いことを経験してみるのも大事じゃないかな。まぁいきなり地稽古というのもチャレンジャーだけど」
 願ってもないお誘いではある。けどなんだかなぁとも思う。こういう誘いに喜々として飛びつくのはちょっと制御がかかる。
 ちさとさんだから、ではなくてやっぱり私が弱いから。
 私の練習にはなっても誰の練習にもならない、というのはちょっとどころかかなり気が引けたりする。
「気使わなくてもいいわよ。こう見えても私だって中々相手が見つからないんだから。つまりは、そういうこと」
 苦笑いしながら、白い腕をぐっと力んで見せてくれた。力こぶは出ない。つまりは、そういうことらしい。
「うーん。せっかく誘ってくれたんだから、それじゃ」
 よろしく、といいかけたところでガチンと口を閉じた。

 ――もしかして、そうこれは、あれだ。千載一遇のチャンス。

 ピンときた。
「ううん、お誘いはありがたいんだけどちさとさん」
「……本気?」
 私の企みを悟ったのだろう、ちさとさんがなんともいえないリアクションをする。だがもう時すでに遅し。彼女も何も言わない。私がこうと決めたから動かないなんてことは、黄薔薇革命を知るリリアン女学生なら常識だ。
「だって、チャンスだもの」
 令ちゃんの家は剣道の道場があるから、入部してから私はちょくちょく令ちゃんに教えをもらっていた。姿勢をピンとしろ、とか、声が大事なんだ、とか結構矯正されて今ではイッパシの自信がある。
 しかし、令ちゃんと今まで一度もまともに打ち合ったことはない。部活では言うまでもないけれど、支倉家の道場ですら、だ。
 そんな私にとって、これは、待ちに待ったチャンス以外のなにものでもないのだ。





「お姉さま、地稽古の相手は決まってらして?」
 放課後、山百合会の雑務が山積した状態で、小休止として紅茶で一服を入れていたとき私は切り出した。
 なになに、といった感じで周囲から視線が注がれる。
「私は、いつも部長に相手してもらうことになってるんだけど」
 嫌な話題に食いつかれたくないのか、令ちゃんはカップを片手にしれっと言った。きっと内心、あちゃーとか思ってるに違いないけど。
「あら、私は初耳」
「そうね、地稽古なんて久々だし」
「少なくとも、私が入部してからは初めてね」
「色々と忙しい時期を挟んだからね」
「誰でも参加できるのよね?」
「そうね。やる気と相手さえいれば、だけど」
「ねぇ、その試合の組み合わせなんだけど、それはもう、どうやっても動かない決定事項なの?」
「別にそれは個人個人で決めることだから。私と部長のペアを聞いてるんなら、決定事項というわけじゃないけれど、約束事ね。これでもやっぱりエースなわけだから、部長くらいしか相手にならない。あっちもおんなじ」
「ふうん」
 ダメだ。かなり警戒しているらしく中々ガードを崩さない。感情の波を膨らませずに話を進めていかれては、付けこむ隙を見つけるのは難しい。
 困ったなー、と思っていると隣りで祐巳さんが、なになに、と言った感じで首を伸ばしてきた。
 申し訳ないけれど祐巳さん。この島津由乃の顔に免じて使われてください。
「地稽古、って練習がちょっとね」
「地稽古って?」
「うん、なんていうか、試合形式の練習でね。皆が見ている中で三本ずつ勝負していくの」
「へー。なんだかキツそうだね」
「けどね。私は相手が決まらなくって、困ってるんだ。なんだか余り物になっちゃいそう。今回はちょっと諦め風味、かな?」
「でも、大事な練習なんでしょ? 参加できなかったら」
「そう。また他の人たちに水を空けられちゃう」
 サンクス、ロサ・キネンシス・アンブゥトン。目で合図した。どういたしまして黄薔薇のつぼみ、と口元の笑みで返って来る。うーん、持つべきものは友達だ。
「もう他の方は空いてないの?」
 おぉ。向かいの志摩子さんまでフフフと微笑みながらの助け舟。
「ええそれが、私途中入部だし、正直言って一番弱いの。誰でも普通は、自分と同じくらいか、差があってもちょっとくらいしか開いていない人とペアを組むんだけれど、私の場合は、ほら」
「まぁ、それはかわいそう。どうにかならないのかしら」
「うーん……私と仲が良くて、下手くそを相手にしても嫌な顔してくれない、出来れば強い人としたいんだけど」
「まぁ、それって」
 二人して、わざとらしい、ゴホン、という咳払い。
 令ちゃんからは見えない、右目でウィンクをした。志摩子さんもうっすら微笑みながら、ちゃっかり机からは小さく二本の指が頭を出している。やっぱり見えないようにピースをしている様子。うーん、持つべきものは友達だ。
「というわけでお姉さま。明日の地稽古、私と組んでいただきたいの」
 先代薔薇様には遠く及ばないけれど、それでも中々の連係プレーじゃないだろうか。外堀内堀と攻めていくこのやり方はすでに様々な面で、有用性が実証されている。令ちゃんも渋そうな表情だ。
「私は、三年生としての立場もあるから、由乃を特別に優遇したり出来ないよ」
「心外。優しくしてくれ、って頼んでるわけじゃないわ。いつも通り、おもいっきりやってくれたらいいの」
「おもいっきりって言われてもね、レベルというものがあるじゃない」
「私みたいに、弱い相手と竹刀は交えたくない?」
「い、いや、そういうわけじゃなくて」
「それに、ずーっとって言う訳でもなし。今日一回、一回だけよ」
 それなら良いでしょう? と手を合わして頼み込む。そこまでしても令ちゃんはやっぱり渋い顔だ。
「こんなに頼んでもダメ? お姉さま」
「ダメっていうか……部長との約束を、軽々と破ることなんて出来ないよ」
 ふむ。
「部長とは今まで何回手合わせを?」
「……さぁ。もう大分一緒に竹刀を振ってきたからね」
「一回くらい大丈夫じゃないかしら」
「私が決めることじゃないよ」
「じゃあ、部長が決めることなのね」
 しまった、ってそんな顔を今さらしてももう遅い。部長とは入部のさいに出来たコネがある。頼んで頼めば何とか捻じ込める可能性はある。……例の一件で以来私に関しては慎重論を唱えているようだからつらい相手だけど、やるだけやってみよう。
 引きとめようとする令ちゃんの声も聞かず、私は部屋を飛び出そうとした。
「お待ちなさい」
 と。
 やむなく、ビスケット扉のノブを握ったところで急ブレーキ。祥子さまの声って、問答無用の強制力があるって前々から思っていたけど思ったとおり、見事に止まった。
 さて、祥子さまは令ちゃんのフォローに回るつもりなのだろうが、こっちだって負けられないのだから悪いけど勢いで勝たせてもらう。くるっ、と振り向いて笑顔で返した。
「はい、何か御用でしょうか。祥子さま」
「どこに行く気?」
「お話を聞いていらしたならご理解いただけると思いますけど、三年生で剣道部の野島部長にお話がありまして」
「ふむ。じゃあ三年生の教室へと行こうとしていたのね?」
「そうなります」
「祥子……あの」
 テーブルの下、令ちゃんが申し訳無さそうに手を合わせているのが見える。三年生対二年生の構図へと持ち込みたいようだ。情けないぞ支倉令、下級生相手に援軍を頼むなんて。なんだそのへっぴり腰は、こら。
 援軍である祥子さま。『お願い』を聞き入れたのかどうか知らないが、頷きながら微笑んだ。
「由乃ちゃん、三年生の教室に向かう必要はないわ」
「それは私に地稽古に出るなと言う意味でしょうか? いくら祥子さまでもこれは私とお姉さまの、剣道部での問題ですので」
「あら。なにか勘違いしているようだけど」
 フッ、という感じで祥子さまは何が面白いのか、もう一度口元で笑った。
「剣道部の部長とは、私が先約があるの。竹刀の補充がしたいから予算の兼ね合いで」
「……はぁ」
「だから、もうそのまま武道場へ向かって良くってよ。部長には私から話を通しておくから。今日の練習、令はあなたとペアを組むことになった、って」
「ちょっ、さっ、祥子っ!」
 顔面蒼白の令ちゃんを尻目に、祥子さまは得意げに微笑みながら、私に悪戯っぽくウィンクをしてきた。つまり、今日この場に令ちゃんの味方はただの一人もいない、ということだ。
「祥子……あんまりだ……」
「あら? 私はあくまで合理的に話を進めたいだけよ? 剣道部に悪意はないし、そもそも私は由乃ちゃんの言伝をするだけ」
「祥子さま、ありがとうございます!」
 うん、と満足げに微笑んで、隣りの乃梨子ちゃんに、お茶をもう一杯と頼む祥子さま。

 ――ナーイースー!
 
 早速、がっくりとうな垂れる令ちゃんを引っ張り起こしてビスケット扉を開けた。
「二度手間って、私嫌いなのよ」
 決め台詞も流石に優雅だ。
 薔薇の館を後にし、もつれた藻みたいにフニャフニャした令ちゃんを引きずりながら急ぐ。
 途中、祥子さまと何かあったのか聞いてみた。
「うん、なんていうか……ここ最近、祐巳ちゃんとベッタリね、とか言って遊んでたから……はぁ、言わなきゃ良かった」
 あらら。そりゃどうしようもないわ。





 すっかり着慣れた袴にちゃっちゃと変身して、私は道場でストレッチをしているみんなの中に加わった。部長もまだ来ていないから、スタートが少し遅れてしまったようだ。その部長も、10分もすれば駆け足でやってきた。早速令ちゃんを呼び出してコソコソと相談しあうけれど、まぁ八方塞りに違いないので二人してその急角度に落ちた肩にも納得できる。祥子さまとの口約束ほど、死守しなければならないものはないだろう。
 集合して、挨拶。そのまますぐに練習が始まって、部員全員が一斉にバラバラと感覚を開けて並び始める。
 やがて素振りが始まって、威勢のいい掛け声がただっ広い道場の中に響くようになった。
 部員の手前もあるらしく、令ちゃんも一応は元気に声を張り上げいるけれど、やっぱりまだまだ本調子じゃない。気の毒かもしれないけど、申し訳ない気持ちなんて微塵もない。自分が上手くなろうと思うのなら、周りに多少の迷惑をかける覚悟が必要だと思うのだ。それはやっぱり仕方のないことで、いずれどこかで埋め合わせをしてバランスを整えてあげたらいい。今は、私は私のために動くのだ。

   ――それに、いまだに私を神経質に扱う、令ちゃんにも問題があると思う。

「集合! 集合して!」
 練習も折り返し、というところで部長の号令がかかった。いよいよだ。
「久しぶりの試合形式だから、みんな集中してやってね! 怪我人は絶対ゼロで。手を抜けというわけじゃなくて、打たれるほうも上手に打たれること。いい!」
 部長が大きな声で打ち合うペアを読み上げていく。読み上げられた人もまた大きな声で返事をする。格闘技って、こういう気合みたいな声を出すのが私はとっても好きだ。
 どんどんと名前が読み上げられていき、12組目。
 不意に部長が言い淀んだことで私は察した。やけパチな部長の声は、私の予感を確信にさせる。
「えー、と……えーい。支倉令! 島津由乃! 以上12組っ!」
 祥子さま、ありがとうございます。心の中でお礼を言っておいた。明日また言うけれど、どうしても今言いたい。
 ありがとうございます。
 ざわざわ。予想通り、私と令ちゃんの名前が読み上げられた途端、どよめきが起こった。でも予想は半分だけ正解で、残りの半分は外れだった。なんというか、ひがみというか妬みというか、否定的な雰囲気じゃなかった。どちらかというと、

 ――由乃さん大丈夫かしら。
 ――怪我しなければいいけど。
 ――きっと令さまがほどほどに手加減してくださるわよ。まさか本気でなんて……

「本当にやるとわ……」
 こっそり耳打ちするようにちさとさん。
「やっぱりあなた、今まで猫被りすぎよ。すごい大胆ね、騙されてたほんと」
「お褒め頂きどうも。……ねぇ、なんだか、雰囲気おかしくないかなぁ」
「妥当でしょ? くれぐれも怪我だけはないように、というのが全員一致の意見だわね」
 私の複雑な心境をよそに、何列かに並んでテープで線の引かれた試合場を囲む。私もなるべく空気に慣れたいから、ちさとさんと一緒に最前列に並んだ。
「さぁ一組目! 開始線へっ!」





 試合はどんどんと進んでいく。同級生も後輩も先輩も、皆真剣にぶつかり合っている。かけ声とかもぐわんぐわんいうくらいに響いている。勝った方はそりゃ余裕綽々な表情で、負けた方も心底悔しそうな顔をする。
 レベルがどうとか難しいことはわからない。正直言ったら、私だってこんくらい出来るだろ、って感じがする。ふーん、みたいな。
 実際やれといったらどうか。まぁ待ちなさい、あと三組だ。お膳立ては整っている。本日地稽古最後の対決は、三年生「支倉令」対二年生「島津由乃」、新聞部が嗅ぎつけたなら一面トップ間違いナシの、注目黄薔薇対決だ。
「一本。それまで」
 あと二組。あー、わくわくしてきた。
「なんだか、本当に嬉しそうね」
「あらちさとさん、当然でしょ。初めての試合なんだから」
「あーまぁ、その気持ちは分からないでもないけど。でも相手が、ねぇ」
 一本。それまで。
 あと一組。
「多分ね、あなた令さまの本当の強さ知らないからそんなに嬉しそうなのよ。マジ、が付くくらいなんだから」
「マジ、ねぇ……」
 ちさとさんまでこんなことを言う。
 ええい、ビビってたまるもんですか。いきなり腕がもう一本生えるわけじゃなし。やるからには当然勝つ!
「それじゃ、二人とも防具着て、開始線へ」
 ちさとさんに手伝ってもらいながら面を装着する。令ちゃんはさっさとつけ終えて、いつでも来いな臨戦態勢に入っている。
「よし、紐締めたわよ。多分どうしようもないと思うけど、頑張ってね」
 ポンと背中を押してくれながらちさとさん。私は、ちょっと面が苦しくてすぐに返事が返せなかった。
 あとでしっかりお礼を言っておこう。あとで。今は、勝負に集中。
 目の前を見据えた。膝をつき、竹刀を持っているだけでなのに、物凄く大きく見える。
「ふぅっ、はぁっ」
 深呼吸。部長の指示に従い、開始線へ。なんだか力が漲ってくる。絶対こういう戦いの雰囲気、私好みだ。
 対戦相手は目前。4メートル先。歩いて歩いて歩いたら触れる。近いのか遠いのかよくわからない。

   ――いざ、尋常に。

「始めっ!」

 ――勝負ッ! 





 私の座右の銘は先手必勝。とうぜん、一発目から仕掛けていくつもりだった。
 けれど。
「いやああっ!」

 ――う、あ……

 聞いたこともないような令ちゃんのかけ声で、私はそれまで考えていた作戦も何もかも、綺麗に消し飛んだ。
 迫力で、息が詰まった。一瞬、目の前の人が誰かと疑った。竹刀の先端がやけに近く見える。目がじくじくとする感じ。今すぐ、背を向けて逃げ出せばどんなに――
 音が、先だった。
 グラリ、と揺れた時にはなぜだか尻餅をついていた。はぁ? と誰かに問いたくなる。お尻は床の冷たさを伝えて、ひんやりと冷えて、同じく床についている左手は防具をつけているから感覚はよくわからない。そんなどうでもいいことがまず頭に浮かんだ。
 何が起こったのか、自分では全く把握できていない。
 ただかすかに、頭の中がキーンとしているだけ。
 とりあえず立ち上がった。一歩二歩三歩。大体それくらいの距離に令ちゃんはいて、さっきの構えのまま何も変わっていないように見える。
 私は自分の竹刀を探そうとした。まだ右手が握っていることを忘れていた。防具の頭頂を竹刀で叩かれた、ということにようやく私は気付くことが出来た。
 面を叩かれたのだ。防具の中は、まだ共鳴している。
 大丈夫。と私は何とか自分に言い聞かせる。まだ何もしていない。声にびっくりして、逃げ出したいなんて臆病になっちゃったから、隙を突かれたんだ。もう今は気を引き締めているから、大丈夫。面を叩かれたって、死ぬわけじゃない。
 二本目。
 今からが本番。思い出せ。一つ一つ。まず視線。まっすぐ相手を見て、姿勢は背筋をピンと伸ばす。竹刀の持ち方は。うん、覚えている。右手はしっかりと握って、左手は柄を握りこむように。先端は、ピッタリと相手に合わせって、誰かが言ってた。足の運び。床をこするようなすり足。次は、次は――
 攻撃。攻撃は、声から。
「やあっ!」
 後ろ足を思い切り蹴って竹刀を面に向かって振り下ろす。振り上げた時にはもう当たらないと分かった。
 どうして、令ちゃんの竹刀はこんなに大きく見えるのに、令ちゃんはあんなに遠くにいるのだろう。  竹刀は空ぶる。
 たたらを踏んだ私目がけて令ちゃんが竹刀を振り下ろす。
 目を開けたまま打たれることの出来る人がこの世にいるんだろうか。目をつぶっている間に、数える暇もない連撃が頭を叩いた。
 もう一度、キーンという共鳴。
 痛みは感じない。打たれた部分にに違和感があるけれど痛みじゃなくてジワジワとした変な感じになっている。
 震えるまぶたをなんとかこじ開けると、令ちゃんが横からペタペタと私を追い越して振り返るのが見えた。打ち込んだ勢いで私の後ろにまで駆け抜けたようだ。私の方は、一度も見ようとしない。
 すぐに三本目が始まった。
 頭の中がボーっとしている。自分が何をしているのかもよく分からない。
 ただ、じっとしているとまた叩かれるんだという事だけがはっきりとした事実だった。
「やあっ!」
 竹刀を振り回す。当たれ、と思うだけでは当たらない。令ちゃんは遠い。
 腰が引けてるのが自分でもわかる。自分で、自分に言い聞かす。何も出来ない。それはわかってる。
 だから、目だけ開けて、全部見ろ。全部見ること。目をそらさないこと。それだけは絶対にやる。
 そう、決めた。
「えいっ!」
 足を目一杯大きく動かして、竹刀を振り回して、近くに寄ろうとする。触れそうもないくらいに遠かった令ちゃんの姿が、何とか触れそうな距離になって、次の瞬間にはすぐ目の前でドカンと大きくなっていた。
 竹刀が叩かれた。
 手にビリビリとした感触が伝わった時には、再び手にパシンという痛みが走って面に二度の衝撃が来た。
 カランという音がして、それが何の音か考える前に私は床に膝をついてしまった。気付けば私は竹刀を持っていなかった。カランという音は、こぼした竹刀が床に響いた音なんだろうな、とぼんやり考えた。
 呆気に取られた。自分が弱いことなんか百も承知だ。ただ、令ちゃんは強いんだということを身をもって理解した。
 ああ、私の従妹でお姉さまで、大好きな人は、こんなにも力強い。
 悔しくて、嬉しくて、私は今すぐ令ちゃんに抱きつきたくなった。
「一本、それまで」

 ――私の令ちゃんは、こんなに強い――






 剣道は武道。礼儀は忘れずに。何か色々と爆発したい気持ちを抑えて、私は礼をした。
 そして、ありがとうございました、と言うや否や、なんと令ちゃんはその場で防具をどかどかと脱ぎ捨てて、ダッシュで道場の外へと飛び出していった。皆が呆気に取られる。私はちさとさんに面を外してもらうと、あとを追った。
 道場の外、渡り廊下を支える柱にもたれていた。息を荒げながら座っていた。顔には汗がびっしりと浮かんでいる。
「由乃……」
 私に気付いて、ちょっと横にずれてくれる。空いたスペースに、私はちょこんと座った。
「ねえ、令ちゃん。本気でやった?」
「ん? うん……だからさ、すんごい疲れた」
 はぁ、と溜め息をこぼす。
 くすぐった気持ちになった。令ちゃんの肩に頭を乗っけた。ちょっとおかしな構図だけど、嬉しくて――多分令ちゃんも嬉しくて――クスクス笑った。
 私は、なんで試合前にあんなにわくわくしたのか、ようやく理解した。それは、令ちゃんの新しい一面を、見つけることが出来る喜びだった。優しいところじゃなく、厳しい一面を、私はとうとう知ることが出来た。

 ――こんなに、うれしいことはないかもね。

 しばらくそうしていると、落ち着いたのか、溜め息のくせにやけに力のこもった溜め息を吐いて、令ちゃんが言った。
「面を打った時、由乃が死ぬんじゃないかって思った」
「それは」
「ありえないなんて知ってるよ。でもやっぱり思うよ仕方がない。手術が終わってまだ一年も経ってないのよ。今まで何年隣りにいたと」
「うん。でも本気でしてくれた」
「あぁーキツイ地稽古だった……先輩にボコボコにされた時よりキツかったかも。精神力をつける、なんてこの前言ってたじゃない? 衆人環視の中だから地稽古だけは手が抜けない。自分のプティ・スールを本気で打てない部のエースなんかありえないもの。逃げたくなるのを、なんとかこらえた」

   ――私も、同じ気持ちだったよ。全力で受け止められない妹なんて……

「私もずっと逃げたかった。絶対目だけはそらさない、って頑張ったよ。怖かったけど、でも私の令ちゃんだもの」
「うん。由乃も、私の由乃だよ」
 まったく、姉バカで妹バカで二人して従姉妹バカで、救いようがない。
 でも対等で。
 こういう関係を、私は望んでいたのかもしれない。

 ――……さて。

 胸いっぱいに空気を吸い込んで、おもむろに私は立ち上がって、自分でもびっくりするくらいに、大声で叫んだ。
「こらーーっ!!」
 精一杯の声。お腹にぐっと力を込めて叫んだからもうひねりだしたという感じ。令ちゃん、付いてこれないのか、キョトンとしている。
 多分、こらー、の意味が理解できないに違いない。当然だけど。
「よ、由乃?」
 目がテンだ。そんな風な顔を見ると、余計楽しくなる。
「手加減ナシにやったでしょー!」
「はぁ?……え、ええっ!」
 私が何に対して怒っているのか、何とかわかってくれたようだ。もう置いてきぼりにする勢いのまま一気にまくし立てる。
「私が剣道始めてどれくらいか一番良く知ってるくせにっ。それなのにあんなに容赦なくボコボコにしてくれちゃって。さいってー!」
  「ほ、本気でやらないと」
「別に三本とも全部全力でやる必要なんかないじゃない。チャンスもくれずに三本あって三本とも思いっきりやってくれちゃって、一本もまともにできなかった!」
「せ、精神力を……」
「後輩を一方的に叩きのめすのが何の精神力よっ! 全然まだまだね! 令ちゃんの体力馬鹿! 馬鹿! アホタレ!」
「ああ……ダメ。由乃、今日は反論する元気ないわ。もう疲れ果てて……」
「そう? それじゃ」
「うん、満足するまでどうぞ……」
「いい機会だわ。令ちゃんには前から言っておきたいことがあったのよ。だいたい――」

















 ――私のトンチンカンなお説教は、青空とマリア様が見てる中、もうしばらく続くのだった。
























 島津由乃、黒星スタート。














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