【リリアン女学園高等部】
梅雨の時期、と呼ぶには少し早い六月中旬。
バスから降りた瞬間、蓉子は下腹部に違和感を感じた。マズイ、と思いながらやや早足でリリアンに向かう。昨日の晩から体調がすぐれなかったから、そろそろだろうと思っていたが予想よりほんのわずかに早かったらしい。
「ごきげんよう」
挨拶を交わすのも辛いが無碍に無視するわけにはいかない。声を掛けてくる下級生に返事をしつつ蓉子は校門をくぐった。マリア様へのお祈りもそこそこに校舎へと向かう。靴を履き替えるのももどかしく手近なトイレに飛び込んで一息吐く。洋式の便座に腰を下ろすときわずかな目眩があったが、何分かじっとしていれば落ち着いてくれた。
必要な処置だけ施して手を洗う。正面にある鏡をみながらため息を吐く。
(汚しちゃうなんて、不覚だわ)
もう何年か付き合っていることだというのに、みっともないことだ。落ち込んでいた気分がさらに暗くなる。差し当たって必要なものは一限目が終わってから購買で手に入れることにして、蓉子はトイレを出た。あとで薬も飲んでおいた方がいいだろう。
登校してくるリリアンの生徒たちをみながら、みんな自分より軽いのだろうかと思う。もちろん体重の話ではない。
教室へと廊下を歩きながら雲が増えてきた空を眺める。もしかしたら午後から雨が降るのかもしれない。天気予報を見逃していたことにもいまさらながらに気付いて蓉子はまたブルーになる。傘は持ってきていなかった。
(――最悪)
BlueDayは二日目が一番きつい。蓉子はいまから明日のことまでも憂鬱になった。
§
昼休み、薔薇の館を訪れると、祥子が青い顔をして弁当箱を見つめていた。また好き嫌いが始まったのかな、と蓉子は思ったがどうもそうではないらしい。蓉子が来たことに気付いてお茶を入れようと立ちあがりかけた祥子を自分でやるからと制する。
祥子の隣に弁当箱を置いて蓉子はポットから急須にお湯を注いだ。ちょうどその時ビスケット扉が開いて黄薔薇ファミリーが顔を見せた。挨拶を交わして、自分の分だけだった急須にお湯を足す。令が「私が…」と言ってきたので場所を譲ってテーブルに戻った。
(少しは良くなられたみたいね)
江利子と話し中の黄薔薇さまを見て少し安心する。肌の青白さは隠せないものの眼鏡の奥にある優しそうな瞳には元気そうな光がある。これで江利子も少しは肩の荷が降りるだろうか。
祥子と並んで椅子に座り、お弁当箱の包みを解く。横目で祥子を窺ってみたがどうも元気がない。顔色が悪いと言うほどではないが頬からは血の気が失せているようにもみえる。
どうしたの、と聞くと、
「いえ、なんでもありません」
と答えが返ってくる。
これはもしかして――。自分の事を鑑みて蓉子は祥子の耳に囁いた。
「祥子も――あの日?」
祥子はちょっとだけ頬を染め、小さく頷いた。
なるほど、姉妹揃って憂鬱なわけだ。
「お姉さまもですか?」
「そうなの」
嫌になるわね。って言って蓉子は箸を取った。実際あまり食欲はないが食べないわけにはいかないだろう。こういうとき空腹でいることは症状を悪化させるだけなのだ。それにいくらかは口に運ばねば症状を緩和してくれる薬も飲むことができない。令がお茶を運んできてくれたのでひとくち頂く。喉から流れ込んだ暖かい液体が蓉子をほんの少し温めてくれた。
隣でふたたびため息が洩れた。蓉子は湯飲みをおいて囁く。
「少しでも食べた方がいいわよ」
「え、ええ」
歯切れの悪い返事が返ってきた。よほど重いのだろうかと思う。
テーブルの向こう側では黄薔薇ファミリーが可笑しそうに笑いを零していた。なんとまあ対照的な図だろう。江利子を挟んで歓談する黄薔薇さんたちは久しぶりの勢揃いだけに話の種も尽きないらしい。
「あら、みなさん。ごきげんよう」
「ごきげんよう」
やがて紅薔薇さまが白薔薇さまを伴って姿を現した。このふたりはつぼみの頃から仲が良かった。下手をすれば妹や姉といるよりもふたりで居るときの方が多かったかもしれない。お姉さまは昔のことをあまりお話ししてくれないのでふたりがどのような経緯で仲良くなったのか蓉子も知らない。そもそも蓉子と聖を妹に選んだ理由だってふたりは一向に話してはくれなかった。まあ白薔薇さまは冗談交じりに聖のことを「顔で選んだ」って言っていたけど。
「あら、祥子ちゃん、具合悪いの?」
それでも妹たちのことはお見通しらしい。紅薔薇さまが近寄ってきて小声で聞く。祥子は「大丈夫です」と答えていた。
やがて珍しく聖まで現れ、薔薇の館に久しぶりにメンバーが勢揃いした。
「珍しいわね、聖」
蓉子はやる気なさそうに座った聖に話しかけた。彼女の手には固定的ファンが付いているというマスタード・タラモサラダ・サンドが握られている。蓉子も一度食したことがあるが、あまりの辛さに易僻したものだ。
「……途中でお姉さまに見つかっちゃったからね」
「またあの娘のところに行くつもりだったの?」
聖は答えず、タラモサラダサンドにかぶりついた。令が紅茶を運んで来てくれた。
この話題はこれ以上この場で話すことでもないだろう。蓉子はそう思って自分の弁当箱に向かった。いずれ時が熟すはずだ。その時、ちゃんと話し合えばいい。その前に聖がちゃんとしてくれるならそれに越したことはないだろうし――。
「はぁ――」
ため息が聞こえてきた。見ると祥子は物憂げな表情でおかずを突いている。
彼女の弁当箱の中身は全然減っていなかった。
§
五限目を終えて、移動教室のため廊下を歩いていると偶然祥子たちとすれ違った。
祥子とそのクラスメイトたちが体操着に着替えているところをみるとこれから体育の授業なのだろう。向こうも蓉子の姿を認めて挨拶してきた。
「ごきげんよう、紅薔薇のつぼみ」
「ごきげんよう、みなさん。これから体育の授業かしら?」
「はい」
「そう、頑張ってね」
「紅薔薇のつぼみはお裁縫ですか?」
蓉子の抱えている裁縫箱に気付いた一年生が聞いてくる。蓉子はそうよ、と答えた。
「二年生ではなにを作られるんでしょう?」
「今日からブラウスを作る予定なの」
なんだかよくわからない歓声が上がる。そんなに面白いこと言ったかな、と首を傾げたが、一年生たちは「ふりふりのフリル」がどうだとか「蝶の刺繍」がどうのと言い合っていて彼女のことなどもう忘れてしまったみたいである。それにしても刺繍はともかく「ふりふりのフリル」はないだろう。もしかして彼女たちにはそういう趣味があるように見えるのだろうか?
なんとなく挫けた気分を拭えないまま、蓉子はひとり元気なさそうにしている祥子を手招いた。
「なんでしょう?」
「あなた、無理しちゃダメよ」
「ええ、大丈夫です。今日は大人しく見学するつもりですから」
「そうね。そうなさい」
では、と祥子は頭を下げてから、騒ぎ続けているクラスメイトを促して歩いていった。
その後ろ姿を見送りながら、蓉子は祥子もクラスメイトと馴染んでいるんだなと安心した。
昔の祥子を知っている人間は彼女のことを丸くなった、と表現していると聞く。それはあながち間違いではないのだが、彼女がひとの輪に入ろうとし始めたのは、性格の変化によるものではない。その理由は恐らく当の祥子と、蓉子だけが知っている秘密だった。
六限目の始まりを告げる予鈴が鳴った。蓉子は教科書と裁縫箱を抱え直すと、家庭科室へと急いだ。
§
その知らせがもたらされたのは六限目の授業を終え、教室に戻ったときだった。
HRが始まるまであと数分もないという時間。がらりと開けられた扉から現れたのは担任の女教師ではなかった。
「紅薔薇のつぼみっ」
廊下から声が聞こえた。蓉子が首を回らすと『ミスターリリアン』と形容される支倉令が肩で息をしていた。
どうやらマナーも忘れて走ってきたものらしい。外見とは裏腹に中身はお行儀のいい女の子。そんな令が走ってまで伝えようとするとはいったい何事だろうか。
蓉子は息を切らせている令のもとに近寄った。令の近くにいたクラスメイトが彼女の背中をさすってくれている。
「令? どうしたの、そんなに慌てて?」
「蓉子さま……大変です……」
息を継ぐ。
「落ち着いて、令」
「祥子が……」
「え?」
それを聞いて蓉子の顔が一瞬止まった。
「祥子が倒れました」
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