【リリアン女学園高等部】
「祥子の習い事はすべて辞めさせました。これからは山百合会の仕事を押し付けるつもりです」
紅薔薇さまは瞼を瞬かせた。
薔薇の館には三人の薔薇さま方と江利子、それに令がいて、それぞれがそれぞれの表情で蓉子を見つめている。
「祥子ちゃんは納得したの。それで」
「もちろんです」
「そう――」
紅薔薇さまは柔らかく微笑む。
ちょっとだけ苦笑が混じっているように思うのはたぶん蓉子の気のせいじゃない。
「なにがあったか知らないけど。あなたの妹をするというのは大変ね」
私なんかにはとても無理そう。そう言って紅薔薇さまはからからと笑った。
「怖い怖いお姉さまを持った可哀想な孫はこのお祖母ちゃんが可愛がることにしましょう。それでバランスがとれるだろうから」
「あまり甘やかさないで下さいね」
「大丈夫よ」
紅薔薇さまは言う。
「あなたたちはわたしが嫉妬したくなるくらい素晴らしい姉妹なんだから」
§
帰り道。
蓉子は久しぶりに紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)――お姉さまと銀杏並木を歩いていた。
薔薇の館での話を終えたあと、蓉子はお姉さまとふたりで居残っていくつかの仕事を終わらせた。このところようやく山百合会の仕事も遅れを取り戻しつつある。夏休みに入れば本格的に学園祭の準備に入らないといけないけど、このペースで行けば問題はないだろう。
「お姉さまはお疲れではないですか?」
蓉子は隣を歩くお姉さまにそう声をかけた。このところの激務は蓉子ですら疲労を感じるほどだから、紅薔薇さまたるお姉さまはその比ではないだろうと思ったのだ。
「大丈夫よ。わたしは丈夫さだけが取り柄だから」
そう笑ってくれたお姉さまは蓉子の髪をさらりと撫でて笑う。そういえばお姉さまは蓉子のような髪が欲しかったと言われたことがあった。自分の髪はまとまりが悪くて毎朝苦労するから、と。その点、蓉子の髪は艶があって素直そうだって。だから羨ましいって。
そんなものだろうか、と蓉子は思う。蓉子はお姉さまの編み込みをしている長い髪も嫌いではない。
(そういえば)
ふと、蓉子は疑問に思った。
お姉さまはどうして蓉子を妹に決めたのだろう。高校入学組のお姉さまは、蓉子が高等部に入ってくるまでまったく面識がなかった。祥子と蓉子のように中等部からその存在を知っているのとはかなり趣が異なる。
こればかりは考えても判るものじゃない。だから蓉子は聞いてみることにした。
「妹にした理由?」
「ええ」
そうねえ、お姉さまは夕焼けに染まる空を見上げた。つられるように蓉子も見上げてみる。
カラスの群れが高い空を悠然と横切っていくところだった。コツコツとアスファルトを叩く靴音。お姉さまと蓉子では音の調子がちょっとだけ違う。蓉子の音はハッキリした感じだけど、お姉さまのはどこかぼんやりした風味。まあ、お姉さま自体わりとぼんやりしてる方だから、と失礼なことを思う。
「ああ、思い出したわ」
お姉さまはそう言って蓉子を見た。
思い出したって事は、いまのいままで忘れてたのだろうか。しかしお姉様の声はどこか照れのようなものが混じっていたように蓉子には思えた。
「あのね」
お姉さまは言う。
「あなたが新入生代表だったから」
「――っ!」
愕然。
蓉子は思わず立ち止まってしまって、まじまじとお姉さまの顔を覗き込んだ。四月の、信子さんと話していた内容が蓉子の頭の中を駆けていく。あれって、本当だったの?
「やだ、そんな顔しないでよ」
お姉さまは蓉子の呆然とした表情を見て、クスクスと笑いを洩らした。三歩だけ先に進んで、編み込みの髪を踊らせるようにくるりと振り返る。それから「冗談よ」と付け加えてまた笑った。
(なんだ、冗談か)
ほっとすると同時にでもムクムクと怒りも湧いてくる。ないとは思うけど、そんな冗談言い触らされたら、信子さんに言った蓉子の言葉も嘘になってしまうじゃないか。そりゃお姉さまには関わりないことではあるのだけれど。
憤然としていた蓉子に、お姉さまは欠片も気付くことなく「でもね」と言葉を続けた。
「その冗談も、半分はホントなの」
「え?」
半分。半分とはどういう意味だろう。
しかしそんな疑問はお姉さまが口にした次の言葉にあっという間に押し流された。
「今年の山百合会――というか三薔薇さまはね。例年と比べてもそう悪くはないと思うんだけど、白薔薇さまを除けば役不足の感は拭えないわよね。特に紅薔薇さま(ロサ・キネンシス)のわたしとか」
「お姉さま、なにを…?」
なにを言い出すのだろう。蓉子はお姉さまの真意が分からなくて混乱する。そんな蓉子を優しく見やりながら、お姉さまは薄く笑った。
「気付いているのでしょう。このところの山百合会が混乱してるのはわたしの所為だって」
「そんな……」
「いいの。判ってるんだから」
蓉子の台詞を押しとどめるようにしてお姉さまは首を振った。
「黄薔薇さまはほら、もともと身体が丈夫な方じゃないから学校だってお休みがちでしょう。それなのに山百合会の幹部になってしまって彼女もかなり責任を感じてるの。生徒会の選挙の時ホントはあの娘、薔薇さまになんてなりたくなかったのよ。自分の身体の所為で責任を果たせないって言ってたから。でも他になり手もいなかったからお姉さまに言われて仕方なく黄薔薇さまになったの」
それは蓉子も聞いたことがあった。
禅譲を拒んだ黄薔薇さまはお姉さま(前黄薔薇さま)との姉妹関係の解消まで考えていた、と。
「そんな状態だったから彼女にはそんなに無理をさせるわけにはいかないじゃない。だから言ったのよ。『やるべきことはやってもらうけど、あなたが出来ない分はわたしと白薔薇さまがカバーする。だから一緒に山百合会を背負っていこう』って。――でもやっぱり現実は厳しかった」
お姉さまは一旦そこで口を閉ざした。言葉を調えるのに必要な沈黙。
遠くからサイレンの音が聞こえてきて、お姉さまはふたたび語りはじめる。
「白薔薇さまはさすがによくやってくれてるけど、二人分をこなそうってのはさすがに厳しいわよね。聖ちゃんもあんまりお手伝い出来ないみたいだし、江利子ちゃんはお姉さまのことが心配で仕事が手に付かない感じだし」
でも、とお姉さまは言う。
「一番ダメなのはわたし。紅薔薇さまなのになにも出来ない情けないわたし」
ぽろり、とお姉さまの瞳から流れ出す雫があった。
「祥子ちゃんが倒れたのだってホントはわたしの所為。蓉子がわたしのフォローに回ってたから、蓉子は自分の仕事が出来なかったのよね。それで蓉子の分の負担が彼女にも行ってしまった――」
「違います。あれは私がやらせたことで……」
蓉子は慌てて口を挟む。しかしお姉さまは聞いてくれなかった。
「いいの。わたしはわたしの能力の限界ぐらい知ってる。蓉子がいなかったらわたし自分の仕事だって捌けていないもの」
「お姉さま……」
泣くお姉さまに蓉子は掛けるべき言葉を持ち合わせていなかった。どうしてこうなったのだろう。蓉子はただ、自分を妹に選んでくれた理由を聞きたくなっただけだったのに。お姉さまを泣かせたいと思った訳じゃないのに。
お姉さまは頬に流れ出す涙を指で拭った。そして呟く。
「自信……なかったんだ。ホントに」
自分がやっていけるのかなって。お姉さまは寂しそうに笑う。
「わたしは先代の紅薔薇さまからも怒られてばかりいた不肖の妹だった。紅薔薇のつぼみ(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)のとき、あなたの新入生代表挨拶を見て、わたし、自分が恥ずかしくなった。わたしはあんなに堂々と挨拶なんて出来なかったもの」
「お姉さまも、新入生代表挨拶を?」
ええ、とお姉さまは頷く。
「そのとき思ったの。もしあなたがわたしの妹になってくれたなら、こんなわたしでも紅薔薇さまをやっていけるかもしれないって」
「だから私に声を?」
「そう。あなたはわたしにとって憧れだったの」
だから――。
「あなたがロザリオを受け取ってくれたときは嬉しかった」
涙を流すお姉さまはあの時のことを思い返しているようだった。
蓉子がロザリオを受け取ったのは、断るのは悪いという思いと、世話好きな性分が疼いたからにすぎない。考えてみればこれまであまり姉妹らしいことはしてこなかったように思う。まさかここまで自分が必要とされていたなんて。
「ごめんね、蓉子。迷惑をかけるね」
「お姉さま、私、そんな風に思ってもらってたなんて少しも……」
「いいの」
お姉さまは蓉子に最後まで言わせてはくれなかった。
「あなたは良い薔薇さまになれる。祥子ちゃんもきっとそう。あなたたちはわたしなんかとは比べものにならないぐらい素晴らしい薔薇さまになれるわ。だからわたしは――」
紅薔薇さまは呟いて、蓉子を抱きしめてくれた。
暖かな涙が蓉子の頬に流れて、胸の中まで暖かくなって。
――そんな妹を持てたことが嬉しい。
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