私のマリアさま
文月そら
じっと、マリアさまを見つめる。
瞳を閉じ、手をあわせる。
『マリアさま、今日も一日私たちを見守ってくださいませ』
いつものようにマリアさまの微笑を心に描きつつ、祈りをささげていると、不意に一つの記憶が浮かび上がってきた。
心の奥底。全体にモヤがかかったような曖昧な印象のただよう時代。
その中にくっきりと浮かび上がる、一つの遠い記憶。
幼い頃、夏の休暇中は一家で別荘に行くのが、毎年の恒例だった。
そこには、高原のひんやりとした空気と、神秘的な林。そして何人かの幼馴染がいて、私はいつも、そこへ行き、彼らと会えることを楽しみにしていた。長い付き合いでもあったし、家庭環境が似ていたりもしたので、普段の友達相手には話しづらいことも、そこでは自由に話せた。
中でも、貴恵子さん、菊代さん、ゆかりさんの三人は、私の幼馴染であるが、同時にライバルでもあった。
京極家、綾小路家、西園寺家と比べると、我が松平家はそれほど大きな家ではない。無論、小笠原家とは比べようもない。
そして、やや家柄の劣る私は、時に格好の標的ともなったのだ。
貴恵子さんがフランスで洋服を買ったと聞けば、イタリアで服を買ってもらったし、ゆかりさんがイギリスでアクセサリを買ったと聞けば、スイスに出向いて買ってきたりもした。
だが、根本的に財力が違う。張り合っても限界は当然存在した。
貴恵子さんは言ったものだ。
「ごめんなさいね、とうこさん。みせびらかすようなまねをしてしまって」
当時の私はよく泣いた。
そんな、ある日ある時。
力なくリビングの床にしゃがみこみ、悔しくて泣くばかりだった私に、祥子お姉さまは「とうこちゃん、きいて。とうこちゃん」と、優しい言葉をかけてくれた。
だが、私は一向に泣き止もうとはしなかった。多分甘えていたんだと思う。クリーム色のカーディガンの袖を涙でぐちゃぐちゃにしながら、なおも泣き声を上げていた。
その時。
「とうこちゃん! ききなさい!!」
びくっ!
泣き崩れながらも、どこかで祥子お姉さまの優しい言葉を期待していた私は、祥子お姉さまの一喝を受け、恐ろしさで一瞬にして涙をひっこめた。
『まさか、さちこおねえさま まで、わたしをいじめるの?』
怯えた瞳で見上げる私を、未だ厳しい目で見おろしつつ、祥子お姉さまは、口調だけ幾分緩め、こう続けた。
「……いいこと? ないていてはダメ。こんなとき そういうすがたが いちばん あいてをよろこばせるの。
わらっておあげなさい。ほほえんでおあげなさい。
ほこりをうしなわないことが なによりのはんげきになるのよ」
純白のワンピースを身にまとって微笑む、祥子お姉さまの姿は、幼心にも気高く、そして美しく映った。
何かが、かちりと音を立ててつながった気がした。
それから私は、貴恵子さんたちの挑発にのらなくなった。
ほんとうに、負け惜しみでなく、心の底から、見栄の張り合なんてくだらないって、思えるようになった。
それは、張り合い負けたとき、いつも私を慰めてくれた言葉と、一言一句変わりはしなかったけれど、意味は全然違った。
祥子お姉さまは特別な人だ。
私に『誇り』というものを教えてくれた人。
こんなことを言っては、敬虔なクリスチャンである友人たちを激怒させてしまうだろうけれど、私にとってのマリアさまは、いつも祥子お姉さまの顔をしていた。
毎朝、毎夕。私はマリアさまを拝むたびに、祥子お姉さまとお話をしていた。私のマリアさまがみていてくださると思ったら、大抵のことには耐えられた。
祥子お姉さまにスールが出来たと聞いたとき、私は嫉妬した。
と、同時に興味を持った。
あの祥子お姉さまが「たった一人」に選んだ相手とは、一体どんな人物なのか。
去年のヴァレンタイン。たまたま高等部にいって祐巳さまを目にした私は、正直失望した。
容貌はかわいいほうだと思う。でもそれだけだ。
普通だ。普通すぎる。
オリエンテーションのステージ上でもおどおどしてるし、実際ゲームが始まっても、全く落ち着きというものがない。
なんだかへらへらふわふわしていて、祥子お姉さまの気高さのかけらも、彼女の裡には感じない。
これなら、一時期お姉さまのスール候補として話題になった、藤堂志摩子とかいう人のほうがまだマシだったなどと、罰当たりなことも思っていた。
祥子お姉さまは、なにか重大な勘違いをしているに違いない。
あるいは、騙されているのか。
落胆と同時に、私の中に新たな目的が浮上した。
それは。
祥子お姉さまの目を覚まさせること。
私の祥子お姉さまを、とりもどすこと。
そのためなら、どんなことでもすると心に誓った。
高等部に入学して、実際に祐巳さまに会っても、私の印象は変わらなかった。祥子お姉さまに頼りきりの凡人。それが私の祐巳さまへの印象だった。
だから、お祖母さまの件で祥子お姉さまが、学園から距離をおかざるを得なくなったとき、思いっきり揺さぶってやった。
親戚であること、後輩であること、旧知の仲であること、可愛がられていること、そして最後に、情報を握っていること。
有利になる条件はすべて使った。
萎れた祐巳さまを見て、一度は勝ったと思った。
あとは、祥子お姉さまに、私を認めてもらうだけ。
……でも、そうは問屋が卸さなかった。
祐巳さまは突然謎の復活を遂げ、一度は逃げ出した薔薇の館に復帰し、あろうことか、祥子お姉さまの留守を守るためと称して、私まで巻き込んでしまった。
そして結局、祥子お姉さまは、祐巳さまのことしか見ていなかった。
そのことを、思いっきり痛感させられただけだった。
今年の夏、カナダに行く予定だった私の耳に、祥子お姉さまが祐巳さまを別荘にお招きになる、という話が飛び込んできた。
脳裏をよぎったのは、泣いている小さな女の子。
「お父様。私、今年はカナダでなく、やっぱり別荘に行きたいのですけれど」
気づけばそう切り出している自分がいた。
泣き顔をみたかったのか、みたくなかったのか。
今でも、この時自分が何を考えていたのかは、よくわからない。
京極の曾お祖母さまのお誕生日パーティーに姿をあらわした祐巳さまは、やっぱりへらへらしていた。
あれだけ忠告したのに。全く信じられない。
どこの誰が、わざわざ罠が用意されていると分かっている場所に飛び込むものか。しかも、完全な敵地に、なんの用意もなく。
私なら、こんな見え見えの誘いは無視する。
祥子お姉さまなら、充分な備えをもって打破するかもしれない。
でも。
祐巳さまは、どちらも選ばなかった。
多分、音楽を演奏するということ自体、事前には知らなかったのだろう。それは音楽のプレゼントと聞いた時の、祥子お姉さまと祐巳さまの動揺した様子を見ていればわかる。
祐巳さまは、どちらも選ばなかった。
祐巳さまが選んだのは。
ただ、曾お祖母さまのお誕生日をお祝いするということ。
物凄い衝撃を受けた。
私なら、この、自分を潰すために設けられた場で、負けないことばかりを考えただろう。実際私は、楽器も演目も一番得意なものを選び、隙を見せないことを最大の目的として、この場に参加していた。
私は忘れていた。
多分、会場の多くの人が忘れていたと思う。
これは曾お祖母さまのお誕生日のお祝いだったのだ。
ごく当たり前で、ごく普通のこと。
でも、私には、全くそれが見えていなかった。
祐巳さまと、祥子さまの「マリア様の心」を聴きながら、私は涙が止まらなくなった。聞き慣れた歌詞、聴き慣れたメロディ。これはこんなに胸に迫る曲だっただろうか。もう、ステージが見えない。挙句、嗚咽まで漏れそうになる。耐え切れなくなった私は、誰にも気づかれぬよう、会場を後にした。
祐巳さまは普通だ。
普通だけど、なんだかヘンだ。
思考と行動がほとんど直結している。裏というものがまるでない。
コトに当たっては正攻法。それ以外何もない。
『誇り』の道は、覚悟を決めて耐え抜く道だ。そして、必ず最後に打ち勝つ道だ。
私はその道を歩む祥子さまの背中を、必死で追いかけてここまできた。
祐巳さまは全然違う道を歩いている。徹底的な自然体。守りも攻めも、勝ちも負けもしない。
ただ、祐巳さまはいつだって祐巳さまであるだけだった。
何故だろう。
最近、マリアさまの顔が、妙にへらへらしてみえることがある。
「……何故かしらね、本当に」
「えっ? 何かおっしゃいました? 瞳子さん」
となりで一緒に手を合わせていた、敦子さんと美幸さんが、顔を上げてこちらを見ている。どうやら驚かせてしまったようだ。
「なんでもありません。……さあ、あまり時間もありませんし、急ぎましょう?」
返事を待たずに、私は校舎へと歩き出す。
追いかけてくる友人たちのほうを振り返るついでに、もう一度マリアさまを見る。
……やっぱり不思議だ。
ああいうマリアさまも悪くないなって、私今思ってる。