『祐巳の すごい 虐待』

takataka



 場所はおなじみ薔薇の館。
 三年の薔薇さま方が進路の説明会で欠席なのをいいことに、紅黄白薔薇のつぼみとヘルプの一年坊二名を加えての秘密会談が行われていたさなか。
 議題は”三年生の送り出しについて”。
 話を切り出したのは誰だったか、いまさらそんなこと言っても仕方がない気がするが、とにかく前薔薇さま方を送り出したときの思い出話になったのだ。祐巳の勘違いから一年生三人が隠し芸を披露することになった顛末。
 志摩子が環境委員会の仕事で遅れていたので話はもっぱら祐巳と由乃のかけ合いですすみ、それを一年坊が拝聴するというかたちとあいなった。
 白薔薇のつぼみ乃梨子ちゃんは志摩子の姿を想像してはわりと遠慮なく大笑いして――志摩子さんが見たら真っ赤になってうつむいてしまうに違いない――由乃の手品には『私だったらもっと完璧にやってのけますわっ』と言わんばかりにつんと澄ましてみせる瞳子ちゃん――まずい、由乃さんが噴火寸前だ――そこで雲行きを危ぶんだ祐巳が場の空気を和らげようとみずから自爆するかたちでおのれの芸、あのどじょうすくいを必死でおぼえた顛末を面白おかしく語ってみせたわけだが。

「なんてことを!!」

 棒立ちになって今まさに絶望真っ只中の、可南子。
 まずい人に火をつけてしまったわけで。
 あいたー、と片手で顔を覆ったが、覆水盆に帰らず。なんでこうなるかなあ。祐巳は自分のうかつさを呪った。可南子ちゃんという人はどういうわけか祐巳に大してえらく買いかぶった見方をしていて、一度は現物とのギャップゆえ嫌われかかったのだけど、最近ようやく慣れてきてくれたのに。

「そんな……そんなこと、ありえません! あの祐巳さまが、リリアンのシンボル、美の化身、この乾ききった現代に降臨なさったマリア様の現し身であるべき祐巳さまが」

 がたん、と椅子を倒して床に崩れ落ちる。

「鼻につっかい棒してドジョウ掬いだなんて!」
「可南子ちゃん、私つっかい棒まではしてないしてない」
「ああ! 目を閉じればまぶたに浮かんでくるようですわ……鼻腔と下唇にマッチを突っ立ててアホそのもののブタっ面でタヌキ踊りを舞い踊る祐巳さまのおろかしい姿! なんて……おいたわしい……」
「可南子ちゃん、もしかしてわたしのこと嫌い?」
「もしかしなくったって嫌いです! そんなの……そんなの、私の祐巳さまじゃありません!」
「あら、祐巳さまがいつから貴方のものになったんですの? 勘違いもはなはだしいですわ」

 助け舟は意外なところからやってきた。

「瞳子ちゃん!?」

 目をキラキラさせてにじり寄る祐巳。

「そうなんだ……私、瞳子ちゃんが歩み寄ってくれるの待ってたよ。祐巳、うれしい」
「そっちも勘違いなさらないでくれませんこと! 私はこういう勝手なこと言う方、好きになれないだけです!」
「いいのいいのみなまで言わなくて」
「ひっ! 擦り寄らないでいただけます!?」
「ま、それは冗談」

 ぱ、と放してやると、きーっとばかりに歯をむき出して威嚇する瞳子。

「祐巳さんも一年の扱いうまくなったよね……」

 由乃は黙って観察していた。祐巳さん強くなったなあ、いろいろあったし。お姉さまとのこじれも後輩とのいざこざものりこえて、いまや姉妹も持たずして一年生二人を下っ端に持つ身だ。

(私、ちょっと負けてるかも)

 相手が親友祐巳さんとはいえ、ちょっと対抗意識。江里子さまから姉妹決めを迫られていることもあって、後輩関係ではちょっとあせっていた。それに生来の負けず嫌い。

(そうよ、このまま負けっぱなしじゃいられない)

「可南子さん、お立ちなさい!」

 一同おや、と由乃に注目。
 そうそう、今こそ先輩の威厳って奴を見せてやるときだ。
 
「いつまでそうして自分の中の祐巳さん像を押し付けつづけるつもり? 祐巳さんはちゃんと自分の意志を持つ生きた人間なのよ。何もかも貴方の想像どおりのわけないでしょう?」

 しん、と静まり返る室内。
 親の仇みたいな目で由乃さんを見上げる可南子ちゃん。
 ふん、と腕組みの由乃さん。
 そして、当事者でありながら宙に浮いてしまっている祐巳。

「由乃さん、そんな、あんまり追い詰めちゃ……」
「祐巳さんは黙ってて! 一度きちんと言わないとわからないのよ」
「きちんとなら私が言うよ。私のことだから、ね?」
「いいの!」

 これはまずい。どういうわけか由乃さんは本気だ。他人事なのに。
 あわあわと助けを求めて部屋を見回す祐巳。
 乃梨子ちゃんはといえば、我関せずとばかりにお茶すすってる。ああ、こういうときこそ冷静に事の成り行きを見れる人に介入して欲しいのに。

「そうですね……皆さまには幻滅いたしました」
「!」

 可南子の言葉に色めき立つ由乃。

「ここにきて、皆様を近くで拝見して……最初のうちは仕方なく来ていた反面、内心うれしくもあったんです。祐巳さまには幻滅してしまったけれど、他の薔薇さまやつぼみのみなさまがたはさぞかし美しくエレガントな方がたに違いない、そんな皆さまとご一緒できるなんて……と。
 黄薔薇革命で美しくも儚い自己犠牲の精神をしめされた黄薔薇のつぼみ。
 マリアさまの生まれ変わりのように美しくきよらかな白薔薇さま。マリア祭の時は不覚にもほろりとしたほどですわ!」

 ぽりぽり、と後ろ頭をかく乃梨子ちゃん。お、照れている。

「でも! そんな私の期待はすべて裏切られました。内弁慶の時代劇マニア! それに寺の娘の銀杏フェチ! 私の思っていた薔薇さま方は、そんな方々じゃないんです」
「誰が時代劇マニアですってええ!」

 たけり狂う由乃さんが怖かったので、何とか冷静な視点を引き込もうと祐巳は乃梨子に耳打ちした。

「いいの乃梨子ちゃん? 志摩子さんのことあんなふうに言われて」
「うーん、事実ですから。寺も銀杏も。フェチかどうかは知りませんけど」

 乃梨子はお姉さまのことであっても実にクールだった。

「あー、もう! ストップ!」

 やむにやまれず、祐巳は角突きあう二人の間に割って入った。

「祐巳さん! これは私とこの子の問題よ!」
「祐巳さまは黙っていてください!」
「待って! ひとつだけ! ひとつだけ、言わせて欲しいの」

 今までに見たこともないような真剣な祐巳の姿に、可南子ははっとして身を引いた。
 祐巳の瞳はいま、可南子だけを見つめている。
 一度はあこがれの頂点にいた祐巳さまが、いま自分だけのことを見つめてくれている。そのことだけで、可南子はぞくぞくするほどうれしかった。
 ――もうこの人には何も期待すまいと決めたのに、悔しくなるほど、素敵。

「祐巳さま……」
「可南子ちゃん。ひとつだけ、聞きたいんだ」

 いま、薔薇の館のすべてが息をひそめて見守る中――。









「なんで黄薔薇革命知ってんの?」









 がちゃーーーーーーーーーん。

「え! 何っ、どうしてみんなそこで転ぶの? だっておかしいよ可南子ちゃん一年だもの! 去年いなかったはずでしょ!? 私何もおかしいこと言ってないよね?」

「祐巳さん、さすがだわ……」

 机に手をついてやっこらさっと起き上がった由乃さん。だいぶメンタルダメージ食った様子だった。

「ま、いいわ」
「由乃さんわかってくれたの? よかったぁ」
「わかるわけないでしょ!」
「思ったんですけど」

 全員がおや、と注目した。それまで沈黙を守っていた乃梨子が、すっと手を上げている。
 祐巳の瞳が感動に潤む。やっとこの場を納めてくれそうな人が――。

「ここまで来ちゃったらお互い引き下がれないですよね、由乃さまも可南子さんも。お二人でひとつ勝負してみたらどうですか」

 ――ダメな方向にー!!
 祐巳はもう泣いちゃおうかなと思った。

「勝負?」

 由乃はふ、と不敵に笑った。

「いいわね、それ」
「可南子さんはどう?」
「よろこんで」

 余裕の笑みを浮かべる可南子。

「それじゃ、それぞれペナルティを考えてください。何か罰ゲームがあったほうが盛り上がりますし」
「ちょっと、乃梨子ちゃん……」

 あわあわと乃梨子の発言を押さえようとする祐巳。

「いいじゃない祐巳さん、白黒はっきりした方が。私の条件はこうよ。もし私が勝ったらそのときは――。
 顔面にでっかく『貞』て書いて校内一周してもらうわ!」

 ずぎゃあああああん。
 由乃さんの背後に雷光が見えた。
 硬直する祐巳。

「そして井戸から這い出したところを記念写真! どう、それでも受けられて?」

 薔薇の館にいやーな空気が流れた。
 祐巳は少し後ろ暗い気持ちだった。
 ついこの間も、背後霊のように祐巳の後ろに可南子が写りこんだ写真を見ながら蔦子さんとささやきあったものだ。

「怖いよね」
「貞子っぽいよね」
「ぷっ……蔦子さんそれ反則、って言うか的確すぎ」
「来る〜きっと来る〜♪」
「あっはっはー」

 乃梨子は冷めかかった紅茶をすすりながら考えた。可南子のクラスでのあだ名がまさしく『貞子』だっていうのを祐巳に教えてあげようかどうしようかと。そして、それはやっぱり可南子もそうとう気にしていて……。
 ちらり。
 こわ!
 江里子さまほどではないものの真ん中で分けた広い額にごっつい青筋が!
 切れかかっている可南子は今にも井戸から這い出さんばかりの形相だった。こんなんがブラウン管から出てくるの見たら呪われてなくてもショック死間違いなし。

「いいでしょう」

 おや、快諾?

「その代わり、もし私が勝ったら――」

 ニヤリ、と凄絶な笑みを浮かべる。

「この私を、黄薔薇のつぼみの妹にしていただきます!」

 なっ……なんだってえーーーーー!
 乃梨子を除いた全員が驚愕のあまりMMR。

「祐巳さまの妹、と言うとでも思いました? 私はそれでもいいですけど、それでは由乃さまへのペナルティにはなりませんから。姉妹探しでお困りでしょうし、ちょうどいいんじゃありません?」
「可南子さん! それは……あまりにも……」

 さすがの瞳子さえ言葉を失っている。

「……いいでしょう」

 これまたニヤリ、と由乃さん。まずい、姉妹問題をつつかれて完全に火がついた。

「ちょっちょとまってよ、これって、私のことなんでしょう? そんな風に私を抜きにして話進めないでよ!」

 何とか止めなくちゃ。可南子だって元はといえば無理やりに祐巳が引っ張り込んだのだ。そこをさらに抜き差しならない状況に追い込んでしまうようなことになったら、さすがに悪い。
 それに由乃さんだって、いくら妹問題で悩んでいるとは言ったって、さすがに可南子ちゃんはいただけないだろうに。下手すれば瞳子以上に水と油って気がする。キャラかぶってるわけでもないところがなおさら始末が悪い。
 第一、そんなぎすぎすした薔薇の館で今後一年間を紅薔薇さまとして過ごさなければならないかもしれないこの自分はどうなるのだ。いくらなんでも居心地悪すぎる。
 志摩子さんや乃梨子ちゃんだっていい迷惑だろう。ここは自分が何とか取り持たないと。

「もちろんよ祐巳さん。いいわね、可南子さん」
「望むところです」
「祐巳さんには勝負のジャッジをしてもらうわ。それでいいでしょう」
「だからそうじゃなくてー!」




「勝負その壱、クイズDE真剣白刃取り!」

 由乃が持った竹刀をぱしぱしと手のひらに叩きつけつつ言った。

 がたん、と椅子を蹴って乃梨子が立ち上がる。

「まさか……あの……リリアン名物の」
「ご存知ですの乃梨子さん?」

 瞳子を振り返って、乃梨子はまくし立てた。

「かつて戊辰戦争の硝煙さめやらぬ明治国家では、華族の子女から宮廷の女官を選ぶさいに、なぎなたの訓練をさせていたといいます。そして真剣白刃取りくらいできないようではとうてい宮さま方のそばにお仕えすることはかなわなかったとか。
 戦前のリリアンでは、体育の授業でふつうにやっていたそうです」
「な、なんですって!?」
「校史編纂委員会篇『リリアン女学園創立百年史』より」
「うるわしの百合の園にそんな厳しい過去があったなんて……」

 ゆらりと床に崩れ落ちる瞳子。
 乃梨子はその打ちひしがれた姿を見ながら思った。

(泣かないで瞳子……リリアンの創立は明治三十七年。いいかげん戊辰戦争なんて年じゃない。今とっさに考えた大ウソなんだよ)

「ここに私が部活で使ってる竹刀があります。これを青眼に構えて、面一本振り下ろす! もしも真剣白刃取りでとらえられることなく一本決めることができたら、クイズに答える資格を得られます。出題内容は祐巳さんカルト! いいわね」
「面白い。いいでしょう」

 竹刀を突きつける由乃に不敵な笑みでうなづく可南子。
 いましも闘いのとき来たる! ってところで祐巳がおそるおそる挙手した。

「えーごめんなさい、一個だけいいですか」
「なに、祐巳さん」
「どうして私は二人の間で面と小手つけて座らされているんでしょうか」
「だって、面一本受けるの祐巳さんだもの。祐巳さんが取れなかったら、回答権」
「あー、なるほど」

 ぽんと膝を打って。

「ってちょっと待ってよ! 二人の争いでしょ? 何で私が叩かれるの!」
「何言ってるの祐巳さん。自分で言ったでしょう『私を抜きにして進めないで』って」
「いや、そうは言ったけど! だからって思い切りメインに据えなくても!」
「祐巳さんを巡る争いなのよ? なら二人の間に祐巳さんが入るのは当たり前でしょ?」
「そんなあ」
「それに祐巳さま、こうは考えられませんか?」乃梨子がそっと耳打ちする。「愛情が試されてるんだって。本当に祐巳さまのことが好きなら、力いっぱい振り下ろしたりできないはずです。だから竹刀を受けるのはその気になれば簡単なはず。祐巳さまにも選択権はあるんですよ」
「でも……」
「由乃さまの思いつきなんです。可南子さんに先に叩かせて、もし叩けなかったら由乃さまが叩いて回答権を得る。もしも可南子さんが叩けたら、大岡裁きに持ち込んで勝つつもりで」

 ああ、子供の手を両方から引っ張らせて先に放した方が……って奴、なるほど、時代劇好きの由乃さんらしい。つか、由乃さん意外とずっこいなあ。

「でも、それだと私は少なくとも一回は叩かれる計算だよね」
「そこで祐巳さまの真の実力の見せ所です。竹刀を掴んでしまえば叩かれません」
「あ、そうか」

 よーしがんばるぞ、と意気込む祐巳からそっと身を離し、売られる子牛を見送るような気持ちで乃梨子は合図した。

「はじめ!」

 可南子が竹刀を青眼に構える。みようみまねだが、長身もあいまってかなり迫力があった。

(でも、可南子ちゃんあれほど私のこと崇拝してたし……当てるつもりでも、手加減くらいは)

「きぇぇぇえええええええーーーー!」

 がんっっ。

「い……た……」

 ぱたん、とよこざまに倒れる祐巳。竹刀といってもしょせん竹の棒、授業で使うような指示棒の太めの奴ではたかれる位の感じを想像していたのだが。

「どうした祐巳さん? 大丈夫?」
「鈍器……がんって、がんって……」

 よしよし、と手を伸ばす由乃に切れ切れの声で返す。
 素人さんに大上段に振りかぶって打ち込まれた竹刀の一撃は結構きつかった。

「まあ、面付けてても直接頭にあたらないってだけで、衝撃そのものはそのまま伝わるからね……」

 よしよし、と転げまわる祐巳の頭をさすってやり、キッと可南子に厳しい目を向ける。

「待ちなさい可南子さん! あなた、祐巳さんを叩いたわね。そんなことで祐巳さんを愛してるといえるの?」
「愛ゆえです!」

 可南子はびしっと言い切った。

「愛あればこそ、時にははげしくぶつかり合うときもあるんじゃありませんか!」
「それが自分勝手な愛だっていうのよ! ごらんなさい、祐巳さんのこのありさま! これでもあなたの愛は本物だと言えて?」
「じゃあ、由乃さまは祐巳さまを愛してるんですか?」
「え……いや、あのえと、そう正面から聞かれると、困っちゃうな……」

 なぜ照れる。

「そりゃたしかに親友だけど……私には、その、ほら、令ちゃんいるし……」

 乃梨子はこの話題は流すことにした。

「それでは問題です。去年のバレンタインに祐巳さまが紅薔薇さまにプレゼントしたチョコは全部でいくつ」
「二十個」

 即答。
 床に転がったままの祐巳が、うえー、という顔をした。

「なんで可南子ちゃん、知ってるの」
「愛ゆえですわ」

 可南子は頬を染めて照れた。

「愛があるんだったらも少し手加減してくれたって……」
「ざんねん、はずれです」

 乃梨子はこともなげに切って捨てた。

「ど、どうしてですの? さっきの祐巳さまの言葉、お聞きになったでしょう?」
「質問をよく聞いてください。私、去年の紅薔薇さまって言ったよ。去年の紅薔薇さまはどなたでした?」

 くっ、と可南子が息を詰まらせた。

「少なくとも祥子さまじゃないよね、残念でした」

 よしよし、お前ええ奴やないかいとばかりにちょいちょい乃梨子を突っつく由乃。

「さすが一年にして白薔薇のつぼみにおさまるだけはあるわ。ナイス!」
「そうでしょうか」

 乃梨子の反応はうすかった。
 頭を抱えて転げまわる祐巳に、由乃はぽんと手を置く。

「さ、起きて祐巳さん。今度は私の番」
「そんな……由乃さんまで私のこと叩くんだぁ」
「大丈夫大丈夫。大岡裁きで行くから。面一本と見せかけて『できない……祐巳さんを叩くなんて!!』と、こうよ!」

 さっき乃梨子ちゃんが言ってたあれか! 祐巳の瞳が感涙にうるむ。

「由乃さん……」
「祐巳さん……」

 ひしと抱き合うつぼみが二つ。美しいんだかなんなんだか。

「ちょっと、やるんなら早くしてくださいませんか!?」

 じれた可南子の叫びに、由乃はとよーしとばかりに腕をまくり、ぺぺっと両手に唾をした。……ほんとにやると汚いので、格好だけ。

「行くわよ祐巳さん」
「いつでもどうぞ!」

 カマーンとばかりに両手ブラリ戦法の祐巳。取る気まったくなし。

「はじめ!」
「ちぇすとぉーーーーーー!」







「ご、ごめんなさい祐巳さん、つい! 昨日読んでた幕末物思い出して、薩摩示現流でがつーんと!」
「ちょっと瞳子さん! 祐巳さまの周りにチョーク線なんか引かないでくださる?!」
「あら、でも鑑識が来るまで現場を保存しないといけませんわ」
「さて問題です」乃梨子はいつだってマイペースだ。「バレンタインデーあとのデート。祐巳さまが紅薔薇さまと待ち合わせしたのは?」
「K駅! 忘れもしないあの記憶……令ちゃんめー!」

 乃梨子は心の底から情けなさそうな顔をした。

「どうして同じパターンに引っかかるんですか」

 ――。

 お嬢さま学校として知られる私立リリアン女学園。
 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻させないように、ゆっくりと歩くのがここのたしなみ。
 もちろん、大マヌケこいたからといって場所もあろうに薔薇の館で、

「しまったあーーーー!!」

 などと絶叫するなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。
 でも今日だけちょっと例外。

「だって、だってつい全力でひっぱたいちゃったから取り乱してて! ね、いまのなし!」
「仕方ないですね、じゃあ次の勝負行きましょう」
「まだやるの?」
「場所を変えますから」




 放課後のプールは人気もなく、しんと静まりかえっていた。
 普段水泳部が使用しているのだが、今日は大会だとかで全員出かけているらしい。
 そして、そのかたわらにあるシャワー室が勝負の舞台だった。

「勝負その弐! 祐巳さんをどれだけ愛してるか熱湯コマーシャル!」
「まさか、それは……あのリリアン名物の!」
「知ってらっしゃるの乃梨子さん?!」

 ムンクの叫びよろしく頬に手を当てておどろく瞳子。

「かつて弾圧を受けていた隠れキリシタンは、幕府の警吏によって過酷な拷問を受けていたといいます。その辛苦の時代をしのんで、火傷一歩手前の熱湯を浴びて、当時の信者の苦難をわが身に味わう……その浴びていた時間の分だけ、マリア様への信仰の深さを示すことができる行事として、かつてのリリアンでは盛んに行われていたといいます」
「でも、いまはそんな行事ありませんわ」
「TV番組にパクられたんでやめたんだって。山百合同窓会編集委員会篇『100周年記念文集・百合の花束』より」
「そんなにもきびしい信仰があったなんて……」

 しなしなと床にくずれる瞳子に、乃梨子は心のなかで呼びかけた。

(泣かないで瞳子……そもそもTVにパクられたとか言ってる時点であやしいと思わなくちゃ)

「熱湯の中にできるだけ長い時間浸かってもらい、その長さのぶんだけ祐巳さんに対する思いのたけを存分にアピールできる勝負よ。いいわね可南子さん」
「同級生とはいえ、祐巳さまの素晴らしさをひとつも理解していないあなたに負けるはずありませんわ!」
「ふっ、甘いわね……祐巳さんと私の思い出のメモリー、とくと聞くがいいわ」

 思い出のメモリーって重複してるなあ、と思いながら、乃梨子はシャワー室のカーテンを引いた。

「えーと、熱湯風呂が用意できなかったので熱湯シャワーで代用します。こちらに氷の入ったバケツも用意してありますので、はり切ってどうぞー」

 と、ぴょこんと飛び出たツインテールの人がまたもそろそろと手を上げた。

「しつもーん」
「はい祐巳さま」
「……なんで私一人だけ水着なんですか」

 学校指定のスクール水着を着た祐巳は、季節がら寒さに震えて何度も足踏みしていた。二の腕なんか鳥肌立ちまくり。

「だって熱湯かぶるの祐巳さまですし」
「えええ!? だってこれ二人の勝負じゃないの?」
「だから! 今度は祐巳さんの選択が重要なの。祐巳さんがどっちのためにより多くの時間熱湯に耐える事ができるか、そこが肝心なんだから」

 由乃が首を突っ込んできた。

「でも……」
「いい祐巳さん! もちろんわかってると思うけど、ずっと仲良しでいようって言ったよね! あれもともと祐巳さんの方から言い出したことだからね! 別れろ切れろは芸者のうちにいう言葉だよ!」
「意味わかんないよ由乃さん」
「祐巳さま! 嫌がる私を体育祭がらみの賭けでがんじがらめにして、まるで女郎蜘蛛が獲物をとらえるように無理やりにこの薔薇の館へ連れ込んだこと、お忘れじゃありません? ああ……もがけばもがくほど堕ちてゆく快楽の罠……。忘れようとしても思い出せない甘美な思い出の数々」
「それ妄想だってば! 特に後半!」
「さあ、それではまず祐巳さまには練習で一回熱湯を浴びていただきます」

 乃梨子はとにかくマイペースだった。

「レディ・GO!」

 おりゃー、とばかりにシャワー室に放り込まれる祐巳。すばやく水道をひねる乃梨子。
 しゃー

「ぎゃうっ」
「あら、怪獣の赤ちゃんかしら?」
「祐巳さんのそれ、久しぶりに聞いたなあ」
「あっつっっ……」

 ものすごい悲鳴をあげてシャワールームを飛び出す祐巳、大慌てでバケツから氷をすくって体にかける。

「いや、これ熱いって! 熱すぎだって! 乃梨子ちゃん、調整おかしいよ」
「ごめんなさい祐巳さま。Hの方しか回してませんでした」
「それガチンコで熱湯だよ! 火傷しちゃうよ」

 真っ赤になったひざに手でがしがしとぶっかき氷をかけ、さらにスクール水着の胸元を引っぱって氷を詰め込む。
 ぱんぱん、と乃梨子が手を叩いた。

「はいはい可南子さん、それに由乃さま。見世物じゃありませんから下がって下がって」
「眼福ですわ……」
「うーん、蔦子さんがいればなあ」

 それだけはやめて、と祐巳は心のなかで叫んだ。

「それでは気を取り直して、まずは由乃さまのぶんから」

 こんどは両手でHとCを調節しつつ、乃梨子は水道栓を回した。

「がんばって祐巳さん! いまこそつぼみの団結を見せるときよ!」
「やめてー! 出してー!」

 どこから持ってきたのか、お風呂用のかき混ぜ棒で祐巳をシャワー室に押し込む由乃。

「ちょっと、あれズルじゃありませんこと?」
「まあ絵的に面白いんでよしとします。……瞳子、うらやましい?」

 微妙に指くわえ状態になっていた瞳子が真っ赤になって反論する。

「なっ……なにをそんな! この私があんなヨゴレ芸人みたいなことできると思って?」
「でも祐巳さま、今日の主役だよ。目立ってるよね」
「う……」
「うらやましい?」

 瞳子は「ちょっとだけ」と指先でほんのちょっと隙間を作った。

「ああ……」

 熱湯の中で身もだえしつつも、祐巳は思った。

(私、いま、TV的にすっごくおいしい位置にいる……)

 リリアンの放送部が写真部や新聞部ほど活発でなくてよかった。もし蔦子さんや真美さんクラスの子が放送部にいたら、この一連のシーンはきっちり編集されて受け狙いのわざとらしいテロップとか入れられてリリアンの昼休みをいろどるに違いない。
 題して『薔薇さま底抜け大放送・オレたちつぼみ族』とかそんな感じで。
 心なしか慣れてきたようで、そんなに熱く感じなくなってきた。

「熱い熱い熱い! やめて由乃さん! いやー!」

 でももう少し熱がっておこう。この状態もう少し……あれ?

「なんか冷たくない?」

 間違いではない、ひやりとした感触のすぐあとに。

「やだちょっと冷たい! 水水水! 乃梨子ちゃん止めてー!」

 シャワー室から解放されたあとも、祐巳はバスタオルに包まって真っ青な顔で捨て犬のようにがたがた震えていた。

「どうも元のボイラー止められちゃったみたいです」
「そうか、今日は水泳部は大会行ってるからなあ」
「これじゃ無理ですね……それじゃこのゲームは無効ということで」

 これでやっとこの勝負から解放される……。祐巳はほっと胸をなでおろした。
 みんなで薔薇の館に戻って、あったかい紅茶でも飲もう? この冷え切った体をあっためれば、もう少し優しい気持ちになれると思う。それで由乃さんと可南子ちゃんも仲直りできるよ。

「じゃ、みんなで薔薇の館にもどって……」
「第三ゲームですね」
「まだやるの!?」

 乃梨子はひたすらマイペースだった。




 ふたたび薔薇の館。

「その参! 祐巳さん好き好きドリーム野球拳!」

 由乃がちょっと赤面しつつがつーんとぶち上げる。

「これはまさか……リリアン名物、ガチンコ野球拳!」
「知ってらっしゃるの乃梨子さん!?」
「戦中、学徒動員を前にしてリリアン内に結成された慰問部隊、その名もやまゆり部隊! 彼女たちは厳しくなる戦火の中、出征していく学徒兵にせめてもの慰めとして、野球拳を披露したんですって……もちろん寸止めなしのガチで!」
「な、なんですってええええーーー!」
「そして迎えた終戦。役目を終えたやまゆり部隊は新たに生徒のまとめ役として生まれ変わったそうよ。それが今の山百合会なんですって。リリアン学園終戦記念文集『嗚呼やまゆりの塔』より」
「そんな悲しい歴史が、この学園に隠されていただなんて……」

 よよと泣き崩れる瞳子。

(瞳子……もう少し歴史の勉強した方がいいよ……?)

「質問なんだけど……」
「はい祐巳さま」
「なんでわたし一人、お立ち台に立たされているのかな?」

 すべてをあきらめ悟りきった表情で、祐巳は色紙等で派手派手しく飾りつけたお立ち台の上にたたずんでいた。

「説明が必要ですか?」
「ううん。でも、ひとつだけ言うなら、勝利条件がよくわからないかな」
「最終的に祐巳さまを一糸纏わぬ生まれたままの姿にしたほうが勝ちです」
「それって最後の一回しか意味ないじゃない」
「そうですよ?」

 何言ってらっしゃるんですか? とでも言いたげな顔で乃梨子は答えた。

「じゃあ、最初にじゃんけんして勝ったほうが勝ち、とかでも」
「それじゃ数字は稼げませんから」

 数字って何のことだよー、と抗議する祐巳に背を向け、乃梨子はカセットデッキに手をかけた。

「ではミュージック・スタート」

 野ぁ球ぅーすぅるなら、こういう具合にしなしゃんせ♪ と軽快な音楽とともに由乃と可南子は激しくダンシング。

「二人とも振りつけ完璧すぎ! なんで? 練習してたの? もしかしてこれが目的だったの? 私ハメられてる?」

 祐巳の抗議も燃える二人の勝負師には届かなかった。
 ううっ、もう帰ろうかなぁ。

「アウト! セーフ! よいのよい!」

 いよっしゃぁー、と勝ち鬨を上げる由乃、がっくりと膝をつく可南子。
 この盛り上がりを前にして「私もう帰る!」とはいえない祐巳だった。

「そ、それじゃ仕方ないから、一枚……」

 もぞもぞと足に手をかける祐巳を、鋭い二対の瞳がつらぬいた。

「ダメ! 靴下は一番最後!」
「そんなぁ」
「祐巳さま、どれでもいいから早く脱いでください」
「そんなこと言ったって……」
「それでは失礼して」

 乃梨子はえいやっと何かを握った手を振り下ろした。
 とたん、スポーンと天井めがけて吹っ飛ぶセーラー服。
 いやあああ、としゃがみこむ祐巳に、一瞬期待の目を向ける二匹のケダモノ。
 だが、その顔は失望にいろどられることとなった。

「ババシャツ……なんてこと……あこがれの祐巳さまが……」
「ちぇ、祐巳さんババシャツ愛用者かぁ。残念」
「だって今日寒かったんだもん!」

 ババシャツゆえあまり意味はないのだが、祐巳は胸を隠してしゃがみこんだ。

「なんでーっ?! ここの制服ワンピースなのに」
「祐巳さま、これをお探しですか?」

 乃梨子の手には見おぼえのある制服が掲げられていた。まぎれもなくワンピース。

「先ほど更衣室でちょっとすりかえておいただけですから、ご心配なく。あとでお返しします」
「そ、そんなあー!」
「でもなんで服が飛びますの?」

 瞳子が素朴な疑問を口にした。
 乃梨子に視線を走らせると、ちらちらと手を動かしてみせた。指の先からかすかにきらめく細い線が数本見える。
 釣り用の細いテグスが伸びていて、たどっていくと天井の鉤型フックを経由して祐巳の服の各パーツへと伸びていた。

「こんなこともあろうかと、ちょっと仕込みを」
「いつの間に……おそろしい子!」
「で、これは瞳子に任せます」
「え? わ、私に?」
「私ちょっと用があるから。がんばってね、瞳子」

 乃梨子は釣り糸の束を押し付けるが早いか、さっさとビスケットの戸を出て行った。
 そして瞳子の手の中に、祐巳の全衣服の運命を握る鍵が。
 両のドリルをふるふると震わせながら、瞳子の視線は手中の釣り糸と半剥き状態の祐巳の間を行き来する。

(ごくり……)

 瞳子の喉の動きを見て、祐巳はびくり、と身を震わせた。

「さあ、それではお二方、張り切ってまいりますわよ!」

 超やる気。

「助けてー!」
「ミュージックスタート!」

 もう、何しても無駄かもしれない。祐巳は次第次第に悟りの境地が見えてきた。いっそ祐麒と入れ替わって明日から花寺通ってやろうかってほどに。
 こうなったらもう踊っちゃえー、こんちくしょう。
 由乃さんや可南子さんほどじゃないけど、祐巳も踊りに関してはひとかたならぬ自信があった。少なくとも安来節は完璧にいける。

「あうと! せーふ! よよいのよい!」

 視界のはしにかすかに拳を振り上げる可南子と頭を抱える由乃が見えた気がした。でももうどっちでもいいや、どうせ剥かれるの私だし。




「どうしたの乃梨子、そんなに急いで」
「とにかく大変なんです」

 志摩子は薔薇の館の一階で胸をおさえ、息を整えた。
 環境委員会を終えてやっと薔薇の館に行けると思ったところに、いきなり乃梨子が迎えに来たのだ。それも、妙に目を光らせて。
 階段を上がると、ビスケットの扉を通してかすかににぎやかな曲が聞こえてくる。それに激しく動き回っているのか、古い木造の床がぎしぎし言っていた。

「これはいったい――」

 未知の現象がいま、薔薇の館で起きているらしい。
 志摩子はごくりと息を飲み、恐れおののきつつもその白い手をそうっとノブに伸ばして。

「えい!」

 がちゃり。

 うっわー。
 志摩子は、ひくっとしゃくりあげたまま、あたかも大理石の彫像のように固まった。
 すげえ光景がー。

 お立ち台の上に目を光らせ、かぶりつきで鑑賞する可南子が。
 蔦子さんよろしく指で枠作って構図を見る由乃が。
 超ノリノリでえいやー、と何かを引っ張っている瞳子が。
 そして、Oh! モーレツとばかりに足の間を押さえる祐巳の姿があった。
 その信じがたい光景の中、ふっとんだ祐巳のスカートがひらひらと舞って、落ちた。
 下は毛糸のパンツだった。

「……ぉ……お、おやめになってぇぇぇ!!」




「足痛い……」
「私は平気よ。剣道部だし」
「ほんとですか由乃さま」(ちょん)
「いっ……くうぅ……」
「あら? 剣道部の方は正座には慣れているのでは」
「反撃」(ちょん)
「ひぃっ……な、何をしますの、黄薔薇のつぼみともあろう方が」

 まだ張り合ってる由乃と可南子。

「私は無関係なんですっ。被害者なんです。なのに白薔薇さまったら……」

 ハンカチ片手に涙ふりしぼる瞳子。こちらも足を宙に浮かせたまま耐えていた。

「なんで私まで……」

 祐巳も当然巻き添えを食った。被害者なのに。

「でも、志摩子さんが怒ったところってはじめて見たな」

 祐巳の言葉にうんうん、と全員がうなづいた。一年二年雁首そろえて、志摩子が怒ったところを見るのははじめてだったのだ。
 いろいろ意外な点があった。一度怒り始めるとけっこう長いとか、こんこんと言い聞かせるように説教するタイプなんでなかなか解放してくれないとか。しかも説教の最中に自分で自分の言ってることにあらためて怒ってみたりして、けっこう堂々巡りしてたし。
 おかげで全員足しびれまくり。

「あれだね。志摩子さん怒らせちゃダメだね」

 しみじみと言う由乃の言葉には全員うなづくまでもなく激しく同意した。




 ひとしきりお説教したあと、

「乃梨子、ちょっと」
「はい」

 志摩子に連れられて、乃梨子はビスケットの戸を出た。

「説明してちょうだい。あなた途中までいたんでしょう?」
「はい。はじめは可南子ちゃんが例によって不満ばっかり言ってたんですけど、そこに由乃さまが絡んじゃって。このままじゃ雰囲気悪くなるばっかりだと思ったけど、祐巳さまじゃその場を収められませんでしたから。
 このままお二人を放置しておくわけにも行かないし、せっかくだからマリア祭の裁判の意趣返しをちょっとだけ、と思って」

 くすっといたずらっぽく笑って、乃梨子は志摩子の腕にすがりついた。

「三年生の薔薇さま方がいらっしゃらなかったのだけがちょっと残念かな。首謀者はあの方々なのに。ねえ志摩子さん、志摩子さんにも見せてあげたかったよ」

 ほめてほめて光線を発しながら擦り寄ってくる乃梨子を、志摩子はぐい、と引き離し、ぽん、とファイルで叩いた。

「え?」

 驚きの目で見上げる乃梨子。
 志摩子のマリアさまのようなおやさしい面持ちが、きゅっと引き締められている。

「乃梨子。私、そんなことは望んでいなくてよ」

 ――お姉さまにこんな顔をさせてしまうなんて。乃梨子は思ってもいなかったほどの罪悪感を感じた。
 お姉さまはいつだってマリアさまのような慈愛に満ちたお美しいお顔をしていなければならないのに、それを私が乱してしまった。
 深い後悔が押し寄せた。鼻の奥がつんと痛くなった。利口なふりをしていて、私はなんて馬鹿なことをしてしまったのだろう。

「どうしてはじめから呼んでくれなかったの」
「でも……志摩子さん、忙しそうだし、邪魔しちゃいけないと思って……」
「委員会なら、またあとで埋め合わせはつくわ。そんなことより、私がいないときに薔薇の館で何かあったら、貴方が責任を取らないといけないかもしれなくなるじゃないの。そんなのは、絶対だめ」

 ぎゅ、と抱きしめる。

「私はあなたのお姉さまなんだから、なんでも一人で済まそうとしないで、お姉さまの仕事、させて頂戴」

 志摩子が去ったあとも、乃梨子はぽーっと立ち尽くしていた。
 叩かれたところが、抱きしめられた胸が、腕を回された腰が、熱い。
 お姉さまに叱られちゃった……。
 ときおり、紅薔薇に叱られている祐巳さまが恍惚の表情を浮かべているのを見て、マゾ? とか思ったけれど、今はその気持ちがわかる。
 これが、お姉さまに叱られるってことなんだ……。
 ぽーっとその場に立ち尽くしていた。




 あれでよかっただろうか。
 一日たったあとも、志摩子はそのことばかり気にしていた。
 祥子さまを意識して、少しだけ怒ってみた。今まで人のことを叱ったことがなかったものだから、普段から何かと怒っていらっしゃる祥子さまの真似をさせていただいたのだけれど、きびしすぎてはいなかっただろうか。
 乃梨子に会うのが少しだけ、怖い。
 なんてこと思いながらビスケットの戸を開けると。

「私、お姉さまに叱られちゃった……」
「いいかげんにしてくださらない乃梨子さん! 今朝からその話ばっかり三十回以上聞かされてるんですけど!?」
「まあそう言わずに聞いてよ。可南子ちゃんも」
「もう結構ですわ!」
「私、お姉さまに叱られちゃったんだー……」

 妹がすっかりダメな人になっていた。


あとがき