罫線上の絆

夜羽



 1、手を取り合って

 たとえば中等部から上がってきた生徒であったなら、高等部に存在する姉妹の誓いに夢見ることは、そう珍しいことではなかった。むしろ大半がそうだといえる。
 山百合会の三年生たち、すなわちロサ・キネンシス、ロサ・ギガンティア、ロサ・フェティダ、といった面々に憧れるのは当然のこと。素敵なお姉さまに指導を受けたい。未来を夢想しがちな年頃にとって、高等部に進学することは、すなわち新しい生活の始まりであった。
 中等部の学舎、その一階の通路は大勢の生徒が通り抜けていく場所だ。廊下の掲示板には、週に一度、新聞部発行のリリアンかわら版が貼られ、まだ見ぬ高等部の情報を逐次仕入れることができるようになっていた。数枚の写真からも窺えるその華やかさ。記事の端々から覗ける輝かしい世界。
 上級生たちの麗しきお姿に思いを馳せて、ため息を漏らすこともしばしば。
 リリアン女学園は、他の学校に比べればわりあいに閉鎖的な環境である。幼稚舎から一貫して教育を受けてきた生徒にとって、学園内にある変化など些細なことでしかない。
 とはいえ箱庭で育つ彼女たちにも――いや、だからこそ好奇心というものが肥大する。なまじ真っ直ぐな道があるために、うわさ話などは大きな楽しみのひとつになる。
 ドラマチックなできごとの中心に来るのは、やはり個性に恵まれた人物ばかりだ。話題に上る一握りの生徒たち。彼女たちの活躍を目にしては胸を躍らせながら、何の疑問も無くマリア様のお膝元で過ごしていく日常。たとえ平凡な自分とは無関係な輝きでも、遠巻きに見ることによって、平和な日々に満足することができる。
 そういった中心から外れた、いわゆる平均的な生徒のなかにも、やはり変わり者はいるものなのだ。例を挙げればキリがない。単純な意味合いでも、複雑な見方にしても、環境の有無に関わらず、適宜、多岐に渡る人材というものがすくすくと育つらしい。
 その変わり者であるところの山口真美は、几帳面な性格で、しっかりものであった。
 人当たりも悪くない。積極性という観点で見れば、まあそれなり、といったところ。どちらかと言えば地味。普段の生活で派手な行動を起こしたことは今までなかったし、これからも無いだろう。少なくとも中等部のころからの友人たちが認識する限りにおいては、それは間違いないことだった。
 つまり、真美は、いつでも隙がなかった。
(たぶん、私は冷めているんでしょうね)
 その事実を真美は自覚している。何かに夢中で打ち込むこともこれまでなかった。別に器用貧乏というわけではないけれど、何かに心酔したり、熱中したりといった感覚がよく分からないのである。
 今までがあまりに恵まれていたおかげかもしれない。そんなふうにも思う。自分に欠けているものも分からないくらいに。自分が持っているものも知らないくらいに。求めているものなんて、真美はほとんど考えたことがなかった。
 思い返せば、くだらない時間を過ごしてきたものだと気づく。たぶん、本気で怒ることもしてこなかった。だって先が見通せてしまうから。予測できてしまうから。割に合わないことはしない。怒った後の結果なんて、身を以て知る必要はなかった。深い部分に干渉すれば、気まずさとか、虚しさとか、嫌な気分ばかりがわき上がるもの。
 本気で怒ったらだめだ。ふざけて、適当に流して、今までの通りに過ごせばいい。関心など持たなくていい。傷つく必要なんて無い。本気でつきあうこともなくていい。何も知らないまま幸せに過ごせたならそれでいい。だって、そのほうが楽なんだから。
 だって、このままならずっと――幸せなんだから。
 いつでも冷静でいるとは、そういうことなのだ。それも完璧ではないから、そんな自分にもひび割れが生まれる。虚しさが漏れだすのは当然のことかも知れなかった。それでも別に良かった。学校生活を平和に過ごす分には、何ら問題はないのだ。
 高等部の華やかな世界を、そこにいる人々を、アイドルのように感じて、熱中するというのは苦手だった。友人たちが自然にそう思えるのは知っていた。けれど興味はあっても、陶酔したりはしないのが真美だった。
 そんな彼女も、高等部の校舎を目にしてからは、どうにもそわそわして落ち着きがない。
 居るべき場所が無いことに今更のように気づいたのである。中等部のころならば苦もなく見つけだせた、静かで、居心地の良い空間はもう見あたらない。
 何もせずに感じられていた小さな満足。勝手に流れていく時間を意識せずに過ごせる幼さ。それすらもどこかへ行ってしまった。何かしなければ。それだけが思考を空回りさせる。けれどどこに手を伸ばせばいいのかが分からずに、真美はぼんやりとしていた。
 高等部に入って、山百合会の面々に懸想できる友人たちが、ひどく羨ましくなった。真美にはできないことだ。そういった欲求は湧いてこない。
 よく考えてみれば、姉妹という関係にも、それほど憧れを憶えなかった。
 これから先、お姉さまと呼べるような相手が、果たして自分にはいるのだろうか――現実を見据えた疑問が、生まれた。いっそ疑惑と言っても良い。自分に対するものと、リリアンの高等部という環境に対するもの、ふたつの疑念だった。
 どうでもいいと思っている人間では、必要以上の好意には応えられない。つかず離れずのような関係性。孤独でいてもかまわないと思えってくれる相手。溺愛されるような人物を相手にしても、真美では妹は勤まらない。愛情というのは、一方向では意味がない。自分と相手、その双方が与え合うものだ。少なくとも、真美はそう考えた。
 だからだろうか。ある種の退屈が真美の周囲で漂っている。
 なんとなくつまらない。なんにもないことがつまらない。何かやっていたいという焦燥があるのに、何もやりたいことがない。
 小さな虚無感が、胸に染みとなって広がっていった。埋めるための何かを探して、突き動かされるように校舎を見上げる。
 夕陽に赤々と照らされた学舎の窓には、未だ教室に残って騒いでいる同級生たちがいた。彼女たちが話している内容など聞かなくても分かった。入る部活をどうしようとか、山百合会の幹部の話題とか、そんなことに決まっているのだ。真美も気にならないわけじゃない。だけど何かが違うのだ。真美がやりたいことは、もっと――
 何かが、じりじりと胸の裡で焦げ付くようだった。
 本当の自分は、冷静なんかじゃないのだ。真美は自覚をかき消すために、くちびるを噛んで否定した。実際に隙が無い人間であったなら、こんなふうに思い悩むことはないではないか。
 何か小さなことでいい。変わるきっかけを見つけたなら、多少強引にでも付いていってやろう。
 真美は、意地を張るのが好きだった。やっかいな性質だとは自分でも理解しているが、今更それを直すつもりもない。運動能力はからっきしでも、根性には自信があった。そして気力は体力をときに凌駕するのだ。意地は、貫き通してこそ。
 七三に分けた髪を弄びながら、真美は高等部の校舎から目を離した。振り返り、マリア像に視線を向けた。
 奇跡とか、縁とか、そういうものを頭から否定したくなかった。だって本当にあったら、それはきっと嬉しいことだから。
 なにせここはリリアン女学園なのだ。マリア様の思し召しくらい、期待しても罰はあたるまい。
 新学期が始まってもう二日も経ったのに、ぜんぜん楽しくなくて。だから、このままこうしているつもりはまるでなかった。これだと思うものがあれば、なんでもよかった。
 ただ、出逢いが欲しかった。
 真美の一年生としての生活は、ゆるやかな退屈から始まった。

 始業式から数日が過ぎて、波乱も無いままに時間が流れていく。
 ゆっくりと、ゆっくりと。
 春の柔らかい光が降り注いでいた。空気はひんやりとしていた。内側に喧噪と静寂を取り混ぜたような校舎から、真美は出ていった。
 淡い緑の木々の隙間をすり抜けて歩いていると、楽しげな歓声が遠くから聞こえたり、慌ただしい足音が脇を通ったり、真美と同じ新入生のお喋りが耳に届いたりした。この気分は自分自身の問題だと分かってはいたが、それでも真美は羨ましかった。
 さてと、どうしよう。
 新入生の放課後は、どうやら部活動の選択でみな忙しいようだった。何もやりたいものがない以上、もちろん帰宅部を選ぶのが真美にとっては正しい選択である。
 中等部にいたころも、やりたい部活は特になかった。体力には自信がない。運動部は端から諦めていた。嫌でもどこかに所属しなければならなかったから、適当に文芸部あたりを選んでいた記憶が蘇る。その部活も決して嫌いではなかったが、熱心とはいえない部員だった。
 クラブハウスの方向に目を向けてみた。コンクリートの建物の上には、鮮やかなスカイブルーが広がっていた。澄んだ空気に、立ち止まって息を吸い込む。
 何度も、笑顔で歩く生徒の姿ばかりが視界を横切った。みな生き生きとしていて、その顔は希望に満ちている。
 そんな陰のない表情を見てしまうと、なんだか悔しくて、情けなかった。なによりも、もどかしかった。何もせず、ぼんやりとしているだけな自分が。
 知らず力が入ってしまい、手元でくしゃりと音が鳴る。はっと気づいて握りしめた手を開くと、しわだらけになった校内新聞があった。持っていたことすら、今のいままですっかり失念していた。
 教室から出て、昇降口近くの靴箱で、帰り際に配られていたものを受け取ったのだ。
 すなわち、新聞部発行のリリアンかわら版である。
 全ての部活紹介が載っていて、その部の特徴やら部長のコメントやらが、紙面をびっしりと埋め尽くしている。演劇部に写真部にテニス部に茶道部に剣道部に……
 見るのも一巡し終えた。だからといってさしたる感慨はなかった。入らないと決めた部活ばかりが載っているのだから、単なる確認作業である。多少気になることがあって、二巡目、三巡目と注意深く読んでいく。
 が、やっぱりなかった。
 真美は、ここに来てようやく、中等部にはなくて、高等部にだけ存在する部活の存在に初めて気づいた。だけど、何故かリリアンかわら版には紹介記事が一切なかった。
 目を皿のように、という比喩のままに四巡目を始めた瞬間、影が差した。
 くしゃくしゃなリリアンかわら版から顔を上げると、そこにいたのは上級生。リリアンでは意外に珍しい、ポニーテールの、気の強そうな、カーディガンを肩にかけたまま鬼のような形相をしている人物であった。
 真美は少し怖かったけれど、動揺をわざわざ顔には出すようなことはしない。視線の先は真美の手にあるものだ。見ていることに気づいて、彼女は相好を崩した。
「ごきげんよう。何かご用ですか」
「ええ、ごきげんよう。あの、そんなに熱心に記事を読んでどうなさったのかしら」
「いえ、ミスがあるような気がして」
 真美は、目の前の人物にそんなことをさらっと答えてしまった。笑顔が凍り付いているように見えるのは、きっと気のせいなんかじゃなかった。
「ミス、ですって」
 硬直した原因はその単語が耳に届いた瞬間だろう。
「どこに、かしら」
「あの、この部活紹介には新聞部が載ってなくて」
「――あ……、だから今年は新入部員が全然こな――じゃなくて」
 とまで声を漏らしてしまってから、眼前の女性はごほんと誤魔化すように咳払い。
「いいえ、これは……その……新聞部の紹介はこのリリアンかわら版そのもの、ってことなのよ!」
 力説されてしまった。かえって嘘くさい。
「でも」
「新聞部の部長が言うのだから間違いないわ」
 真美は、やっぱり嘘だな、と確信した。
 それから耳にした言葉をオウムのように繰り返す。
「新聞部の部長」
 どうやら二年生のようだ。さきほどまで読んでいた校内新聞のおかげで、部長が三年生ばかりでないことは理解できた。部活によって引退の時期が違うのかもしれないが、とにかくこの女性は二年生で部長になったらしい。こんな嘘を付く理由も思い当たらない以上、もしかしたら本当なのかもしれない。一応、信じてみる。
「……ええ、築山三奈子と言うの。あなた、お名前は?」
「山口真美です」
 真美は答えてから数秒後、しまったと思った。三奈子が、にやりと笑ったのを見たからである。嫌な予感というのは、かなり高い確率で当たるものだ。
「――ねえ、あなた」
「嫌です」
「……そ、即答しなくても」
「無理なお願いごとでなければ聞きます」
 む、と腰に手を当てて考え込む三奈子。上手い説得の言葉を探していたようが、結局はストレートな言い方をしてきた。
「新聞部に入らない?」
「一日、考えさせてください」
「……普通は、ちょっと迷ってから考える時間を欲しがるものなんだけどね」
 苦笑いして言われてしまい、真美はそれもそうですね、と答えた。
 答えを引き延ばすための返答だった。しかし、そういった種類の返答を即答されたのは初めてだったようだ。唖然とした表情。それから油断したことを恥じるようにポーカーフェイスを無理矢理作った。
 一部始終を真美は鼻先で見ていたわけで、だからもう遅いのだが。
 ゆるゆると言葉を紡ぐ。
「さっきは部室がどこにあるのか、探していたんですけれど」
「それじゃあ」
 三奈子は、ぱぁっと顔を輝かせた。真美は「でも」と先に三奈子が言おうとした台詞を遮った。
「少し、出鼻をくじかれてしまったので、入部は考え直させてください」
 真美はその原因であるところの人物に対して、まっすぐに理由を告げる。
 三奈子の方も、さきほどのやりとりを忘れていなかったようだ。刹那、目が泳いだ。なのに間をあけることなく微笑んだ。内心、気にくわない下級生だと思っていることだろう。
「ふふふ、真美さんたら、お冗談が上手ね」
 新入部員に飢えているのは間違いなかった。そうでなければ、こめかみにうっすらと青筋が浮かんでいるというのにこうも自制しないはず。予想するに、新聞部の部員があまりに少ないとか、もしくはどんなに多くても人手が足りないとか。
 実のところ、この時点で真美の気持ちは決まっていた。そのうえで三奈子の表情を観察しながら、笑顔で言葉を付け加えるだけにとどめた。
 子供じみた嫌がらせみたいだ、と真美は自分自身で感じた。
「いえ、まぎれもなく本音です、三奈子さま」
「……そ、そう」
「では、ごきげんよう」
 言い返せなかった三奈子に頭を下げて、振り返った。背中に受けた視線も気にせず、前に向かって歩き出す。
 真美自身は不作法な新入生を気取るつもりはなかった。ほんの少しだけ、冷静さの仮面が崩れていた。それは真美にとって新鮮で、驚くべきことだった。


 新聞部の朝は早い。
 特に三奈子の朝は、下手な運動部の人間よりもよほど早かった。
 西に新事実が浮かび上がれば朝ご飯を摂ることも忘れて、食らいつくように記事にする。東に山百合会が親睦のために会合を開けば、薔薇さま方に表から裏から交渉して記事にする。南に何も事件が無ければ、数日張り込んでうわさ話を集めて記事にする。
 記事は自ら転がり込んではこないのだ。三百六十五日、一日一歩、二日で三歩、とにかく歩いて走ってかけずり回って、幸せを探しに行くのが必要なのだ。
 幸せというのはもちろん、衝撃的なスクープのこと。
 新聞部はリリアンにとってなくてはならない存在――とは三奈子の弁である。面白い記事を書くことと、徹底的な取材をすることにかけて、現在の新聞部で三奈子の右に出るものはいなかった。これは自称だけではなく、周知のことである。
 部員の誰もがスクープを求めて取材する記者の役回りを負う。そして現在のところ自分が最も実力のある人材であるという自負が、三奈子にはあった。
 部長が三奈子へと代替わりしてから、新聞部の活動が活発になったことは事実なのである。その最も顕著な例は、山百合会への熱烈な取材活動にあった。強引と言い換えてもいい。
 先代までが気後れしてしまっていた薔薇の館の人々たちにも、三奈子は恐れることなく挑んでいく。実際のところ、ロサ・キネンシスが好意的に受け入れてくれるから、多少の無茶も利くようになったこともある。ともあれ、三奈子が部長になって以降、リリアンかわら版の記事に、山百合会についての内容が多くなったのは確かだ。
 そして、リリアンかわら版は生徒たちにとても喜ばれているのだ。目覚ましい活躍は読者の求める情報を提供できている。一部の生徒には煙たがられてでも、新聞部のエースとして素晴らしい実績を収めている。
 三奈子は遠慮も躊躇も臆面さえ無く、胸を張って語ることが出来た。
 読者のニーズに応えてこそ新聞は華。
 そう、三奈子は新聞部の極めて優秀な部長であり、編集長であり、記者なのだ。
 だから面白そうな人材の電話番号は暗記しているし、取材メモには部活動、クラスの主要人物などの情報がびっしり、ぎっしり、隙間もなく書き込まれている。あちこちをかけずり回って、頼み込んで、泣き落として、多種多様な手段を使って手にしたこれらの情報は、すべて記事のため。さらに付け加えるなら三奈子の好奇心のためであった。
 知りたかった。そして皆に教えたかった。
 素晴らしい記事を生み出すためなら、たとえ火のなか、水のなか、ついでとばかりの薔薇の館のなかさえも。
 三奈子のリリアンかわら版にかけてきた時間を糧にして、当然の如く生まれたものたち。すなわち完璧な記事!
 最高のインタビュー! 何より早い情報! そして誤謬無き真実をここに!
 すべてはリリアンかわら版に注ぎ込まれる情熱と共にあった。
 そんな三奈子の朝といえど、自然に眠気が消えるわけではない。
 寝ぼけ眼をこすりながら、机の上で作業を続ける。どれほど校正に気を遣っても、そう簡単に誤字も脱字も消えてくれない。虱を潰すには、虱潰しにするしかないように。誤字や脱字を修正するためには、一文字一文字きっちり見ていかなくてはならないのだ。
 今朝のうちに、記事の最終チェックを終わらせたかった。なにせ今週は、これからが期待できる新入生への突撃取材がわんさか溜まっている。特に、野球でいえばドラフト会議で全球団から指名されそうな人材がいっぱい。監督は山百合会の幹部だろうか。とにかく、彼女たちの情報はとっくに集まっているのだ。三奈子としても、彼女たちのインタビューは喉から手が出るほど欲しかった。
 たとえばその人柄から振る舞いから、すでに衆目を集め出している藤堂志摩子。ロサ・フェティダ・アン・ブウトンと親しいという島津由乃。おそらく山百合会と深く関わるであろう彼女たちとは、早々にコンタクトをとらねばならない。
 読者が読みたいのは、知りたいのは、彼女たちのようなスターなのだから。
 だからせっせと記事を書くのである。なにはともあれ事件の渦中、話題の中心は常に彼女たちが先頭を切ることになるのだ。三奈子はそう確信している。
 同じように朝から顔を出していた部員のひとりなど、目に隈を作ってまで今週のリリアンかわら版を完成させようと躍起になっている。
 休みも返上して必死の作業。この時期を過ぎればしばらくは大きな行事もないし、それなら根性入れてこの記事を増ページで、というのが新聞部員、全員一致の意見だった。いま部室にいるのは作業が残っている二年生の三奈子と佳也子の二名だけだ。
 先代の部長を始めとして、三年生たちは基本的にもう手を出さない。別に手を出しても誰も文句は言わないし、物好きな三年生は卒業するまで頻繁に顔を出すのだが、やはり大学受験などで忙しくなる以上、部活ばかりに力を入れているわけにもいかない。
 しかし、この時期は人手が足らないことが分かっているので、例外的に放課後などは善意で手伝ってくれるのが慣習だ。しかし三年生は当然ながら仕事が早い。すでに作業の残りは二年生の担当分のみになってしまっていた。
 ちなみに昨日、真美に指摘された部分は今週の埋め草として、半ページ使って大々的に載せることにした。気取られないように豪華にしておいたのは秘密である。
(あの新入生、やっぱり来ないかしらね)
 三奈子はペンをあごに当てながら、ぼんやりと天井を見上げた。かぶりを振って、すぐさま机に向かった。
 春といえど朝は寒くて、指先と、文字が小さく震えた。さきほどまで行っていたチェックとは別に、ちびちび書き始めた記事だった。しばらく黙々と文字を連ねていく。あとでワープロで打ち直すから、いくらか雑な書き方で大急ぎ。
 背後では小型の印刷機とデスクとその他の機器のせいで狭苦しい部室。がたんごとんとプリンタがやかましい音を立てている。
 振り返ればどこにでも紙が散乱しているし、ゴミ箱にはねじこまれたレポート用紙がいつしか積もって山と化している。そもそも部屋が魔窟と呼んでも差し支えない状況で、なのに誰も紙くずを拾う様子はなかった。どこに置いても同じことだと悟って――もとい、開き直っているのかもしれない。慣れない人間が踏み込めば、あっという間に埋もれそうだ。掃除する手間暇があるなら、その手と労力を記事につぎ込め、といったところだ。猫の手も借りたい。新入部員は喉から手が出るほど欲しい。おまけに手練手管で部員を集めたい。
 無意識のうちに、中空に三奈子の手が伸びていた。当然、そこには何もない。
「あの、新聞部の部長さんいらっしゃいますか」
 ドアの向こうから、あまり抑揚のない声が掛けられた。部員で三奈子の同級生、佳也子は怪訝そうな顔をするが、三奈子には聞き覚えがあった。
 真美だ。
 なぜか間違いないと思った。昨日、ちょっと話しただけなのに。
「今忙しいから勝手に入って」
「はい」
 真美は躊躇せずに足を踏み入れてきた。へえ、と三奈子は関心してしまう。この部室に来ても驚かないなんて、相当肝が据わっている。
 薔薇の館とは対照的に、雑多で足の踏み場もないこの部室。もっと簡素な言葉にすると、汚い部屋なのだが。
 現場で揉まれたこともないお嬢様育ちには、なかなか入るには険しい場所のはずなのだ。三奈子の内部で、真美の評価が上方に修正された。
「ごきげんよう」
「ええ、ごきげんよう。何かご用?」
「ごきげんよう、ええと、初めまして、よね?」
 三奈子と佳也子で、交互に声を掛ける。すると真美は、ふたつの質問への返答の意図で首を縦に振った。
「それで用は」
「入部届けを出しに来ました」
「そのようね」
 至急の文章の校正作業は終わっていたから、三奈子は多少余裕ができていた。まだ三十分くらいは時間がある。休憩も兼ねて、話してみることにした。
「あなた、姉はいる?」
 げほげほっ。三奈子の背中で、佳也子がお茶を吹いた。咳き込んでいる。
「騒がしいわよ、佳也子さん。あなたが動揺するようなことじゃないでしょ」
「そうですけれど……どうしましょう」
「何か言いたいことがあるなら、どうぞ」
「……なんでもないですわよ。まあ、私が口を出すことでもありませんから」
 佳也子も自分の作業が終わったので休憩していたらしいが、三奈子が真美に向けて、これから何を言うのかに気づいたらしかった。やはり新聞部の記者として鍛えられた洞察力は、しっかりと備わっているのだ。まったくもって勘のいいことである。
「いえ、いませんが」
 何のことか分からないだろうに、真美からはさらりと回答が帰ってきた。
「それはラッキーだったわ」
「部長」
 佳也子が呼び方を変えて、三奈子を窘めようとした。顔には苦笑が浮かんでいた。
「あ、佳也子さん、お茶をくださる?」
 三奈子がにやり、と笑みを返すと、佳也子は困ったようにポットに向かった。言っても聞かないことを悟ったのだ。部室の奥のほうに消える。間もなく来客用のカップを手に戻ってきた。真美は渡されて、どうも、と頭を下げた。
「そのへんに勝手に座りなさいな」
「はい」
 頷いて作業用の机の前で、椅子に座った。
「私はなんだかおじゃま虫みたいね。しばらく作業引き継いでやってますわ」
 佳也子が申し出てくれたので、記事の方をありがたく任せてしまった。それから真美に正面から話しかける。
「入部動機は?」
「楽しそうだったからです」
「……嘘ね」
 きらん、と三奈子は目を光らせた。嘘と、とりあえず決めつけて。
「本当の理由は?」
「いえ、本当なんですけど」
「嘘よ」
「本当です」
 はぁ、とため息を吐いて、真美に向かって手をのばす。三奈子が見つめて、何か言おうとする。真美は見上げて、その途端、ゆっくりと肩を掴まれた。
「分かったわ、ええと……山口真美さんだったわね。――この際、もし万が一、あり得ないと思うけれど、そういうことが億に一つ、兆に一つの奇跡のように起こったと仮定しましょう」
 三奈子の目は、笑っていなかった。
 休憩に入った途端、気が緩んで、ネジが一本外れたらしい。
「でも嘘ね?」
 目の前では、三奈子が凄絶な笑みを浮かべている。真美は逃れようとしてみるが、肩に食い込んだ指はがっちり固定されていて、当分は動きそうになかった。
「……あの」
「ええ、大丈夫よ。私は怒ったりしませんから。おそらくあなたは、私の生命を狙った暗殺者とか、もしくは我が新聞部の秘密を探り出そうとするスパイね? そうなのね? やっぱりそうだったのね? ええ、分かってます。分かっていますとも。ここ最近の活動がちょっと過激だからってそんな私に嫉妬して送り込まれたのね? こんな部室に躊躇無く踏み込んできたことも証拠よ。そう、そうに決まっているわ」
 仕方なく、別の方向に顔を背けることにした。無関係なフリをして黙ったまま作業している佳也子がそこにいた。資料を片づけている最中だったし、止めてくれる気もないようだ。真美は流暢にも絶え間なく生まれ続ける疑心暗鬼を、完全に聞き流して佳也子に問いかける。
「……この方、いつもこうなんですか?」
 三奈子の演説はまだ続いている。
「まあ、いつもってわけじゃないわ。ただ、部長もここんとこ疲れ溜まってるから、落ち着くまで待ってちょうだい。ええと、真美さん? ごめんなさいね。あと三奈子さん、あまり一年生を弄ぶのはよくないんじゃないかしら」
「それもそうね」
 佳也子はフォローに回る役らしかった。でも今にも逃げだそうとしていることを、真美は見逃さない。面倒なことになりそうだったが、どうにかする手段も思い浮かばない。
 嫌な予感がした。
 その通りになった。
「――にならない?」
「は?」
 三奈子も落ち着いてきたらしく、トーンを落とした声が聞こえた。
「聞いてる?」
「すみません。よく聞こえませんでした」
 真美の目を見て、はっきりと言う。どこまでが本気で、どこからが冗談なのか。
 今までの暴走はわざとなのか。真美にはよく分からない。
「じゃあ、もう一回言ってあげるわ。入部を許可します。それであなた、ついでに妹にならない?」
 分からないが、三奈子に圧倒されていたのは確かだ。さすがに思考が停止して、真美はのろのろと首を戻した。
「えっと、三奈子さま?」
「ついでに、私の妹にならない?」
 繰り返された。それは重要なことではなかろうか。というか、こんなにあっさりと提案されることじゃない気がする。思考停止からようやく抜け出して口を開いた瞬間、三奈子は真美の言葉を遮るようにして続けてきた。
 もう佳也子はドアから抜け出していた。真美は取り残されて、部室に三奈子とふたりきり。逃げられもしないし、そもそも逃げるつもりなど毛頭なかった。
「考えておいて」
「理由は」
 問いを紡ぎながらも、真美にはもう答えの予想が付いていた。よく聞く一目惚れとか、三奈子が考えているのは、そういうものじゃないなんて分かり切っていた。
 姉妹になるために必要なことなんて、それほど多くはない。姉になろうという意思と、妹としてロザリオを受け取る意思。このふたつで十分なのだ。
 断ることも、受け入れることも、真美の意思次第でどうにでもなる。しかし実際に断った妹というのは、真美も今までほとんど聞いたことがなかった。そして目の前にいる三奈子の性格が、どうしてだか、手に取るように理解できた。これから告げられるだろう言葉が、真美の頭のなかに自然と浮かんだ。
 投げかける言葉とは裏腹の、穏やかな三奈子の笑顔。ああ、このひとはこんな顔もできるんだ。真美は顔に出さないように笑った。
 なんだか楽しくて、心のなかだけで、笑った。
「理由はね――戦力になりそうだったからよ」
 まるで容赦のないそんな答えは、真美が考えていた以上に気持ちのいい返答だった。
 考える暇を与えてもらったが、昨日の放課後とは違って、真美はあっさりと答えを返した。決めるとか、迷うとか、受けるとか、そういうことは考える必要などなかった。
 断ることは、たやすかった。真美はこれでも、意地を通すほうなのだ。
 けれど、こくり、と真美は頷いた。逆に、三奈子の方が驚いてしまったように見えた。
「あ、あら……本当に?」
 勢いで言ってしまったことに真面目に返されたみたいな、狐につままれたような顔。
「三奈子さまは、疑り深いんですね」
「いえ、まさかこうもすんなり行かれてしまうと、私としても心の準備が」
「自分で仰っておいて今更『やっぱりやめた』とかは無しでお願いしたいものです」
「……ぐ」
「三奈子さま、覚悟を決められまして?」
 真美は、そんなふうに問いかける。うっ、とたじろぐ三奈子。
「え、ええ」
「なら、決まり」
「そういえばまだ言ってなかったけど、新聞部はものすごく大変よ」
「大丈夫です。がんばりますから」
 脅しをかけるような声色にも、涼しい顔で答えを投げ返す。真美の嫌がる顔が見たかったらしくて、三奈子は矢継ぎ早に言葉を添えた。
「ふふん、本当に大丈夫かしら。予想してるよりもずっと時間をとられるから、学園生活のほとんどを部活に捧げる覚悟はあるのか、って聞いてるのよ」
「ええ、もちろんです、お姉さま」
 そう呼ばれた瞬間、三奈子は不思議そうな顔をした。一瞬遅れて自分のことだと気づき、動揺を隠そうと声を荒げた。
「ロザリオは今、渡すわね」
「私は、放課後でもかまわないのですが」
「今渡すと決めたのよ」
「今知ったのですが、お姉さまはものすごく強引です」
「それがこの新聞部部長、築山三奈子の取り柄だもの」
「分かりました。ではこれから、ご指導ご鞭撻のほど、どうかよろしくお願いします」
「それじゃあ、真美」
 制服の内側に手を入れて、三奈子はチェーンを外した。
 今のいままで作業していたせいか、インクで黒く汚れた手で、銀色に輝く小さなロザリオを取り出した。首にかけられるかと思ったが、ゆっくりと差し出されるのを、真美はじっと見ていた。
 汚れるのはかまわなかった。
 だから真美は静かに手を伸ばす。繋がった瞬間、三奈子の手は、ほんの少し冷たかった。軽く握りしめると、同じくらいの力で握り返されて。
 離れたとき、真美の手のひらにロザリオが置かれた。
 姉妹の儀式というより、信頼を誓った握手にも似ていた。なのに姉から妹へ受け継いでいくものも、そこには含まれている。
 言葉が聞こえた。見上げた顔には、不敵な笑みが浮かんでいた。
 そのときこそ、空っぽだった真美の胸の中に、何か熱いものが生まれた瞬間だった。

「――新聞部へようこそ、真美」





 2、優しさの感触

 真美は思った。
 没原稿をくしゃくしゃにして頭を抱えるのは新聞部員の宿命のようなものである。
 宿命だと言い切れないのが悲しかった。
 たったいま紙屑と化した元原稿から目をそらすために、かるく視線を上げる。隣の写真部と新聞部を遮る壁がよく見えた。安普請というわけでもないのだろうが、やけに薄い。ここで声を張り上げるような真似はしてはいけないと三奈子が主張するので、基本的に小声でしゃべることになっている。基本的には。当人がノリノリだったりすると原則なんて無いようなものになるのであまり意味はないし、明文化されているわけでもないから、文句を言われる筋合いもない。ただ、真美は規則を守るタイプであるから、黙って作業している。
 鉛筆のコツコツという音や、ボールペンのインクが出なくて紙に押しつけてぐりぐりしている動作、原稿が進まなくて暴れそうになっている部員を他の部員が止める姿などは、ある種、新聞部の名物であるかもしれない。今日締め切りの担当分が白紙なら、まあ、確かにそうしたくなる気持ちも分からなくもない。少なくとも、真美は入部して初めて見た。引きずられてどこかへと消えていくのは慣習なのだろうか。連行する側が黒服だったら笑えたのに。というのが真美の感想なのだが。
(――って、もしかして退出する、させるフリしてサボったんじゃ……)
 はっと気づいたが、影も形も見えなかった。戻ってくるのはいつになるやら。
 兎にも角にも、室内は静かだった。詰まっているときというのは、静けさでさえ気に障るものだ。真美は声に出さずに唸っていた。
 休憩を兼ねて作業を中断する。今日までのことに思いを馳せることにした。三十分ほど同じ体勢でいただけなのに、なぜこんなに疲れているのやらさっぱりだった。
 だからこの行為は、俗に言う現実逃避である。
 真美が新聞部に入部してから、すでに二週間の時が流れていた。
 中等部のころと比べると、やはり勝手が違うことが多々ある。いちいち挙げるのはキリがないが、予想が外れるのは意外にも楽しい。
 良い悪いは別として、大きく想像と異なっていたことがあった。それは、姉妹がそれほど始終べたべたしているわけではない、ということだ。真美が知らないだけで、これはその姉妹ごとでまるで違うのかもしれなかった。
 早々と姉妹の契りを交わした。その事実を取り上げれば、おそらく真美も特殊な部類に入る。ただし、最も早くロザリオの授与を行われていたらしい、と話題に昇る人物は他にいた。
 島津由乃である。
 彼女の場合、高校の入学式を休んでしまったが、自宅で寝ていた由乃に、支倉令がロザリオを握らせたそうだ。入学前や入学式の最中に受け渡すような姉妹がいなければ、最短記録なのは間違いない。
 一週間ほど前に行った取材の際、ロサ・フェティダ・アン・ブゥトンは、穏やかに、その様子を粛々と語られたのであった。
 内容から真美が察するところ、それはそれは微笑ましいエピソードである。派手さには欠けるであろうが、情景の美しさで勝る話はそうは無い。
 三奈子の手によって、記事はこんなふうに書かれていた――なんと素敵な姉妹の儀式であろうか。これこそまさに想いが通じ合っているからこそ、そのような形でやったのだ――とかなんとか。過分な誇張が混じっているかもしれないが、大筋はそんなところだった。
 由乃が風邪を引いたとのことで、取材当日は欠席していた。そのため令のインタビュー内容のみを参考に、三奈子が記事に書き起こしたのである。美談に過ぎる気はしたが、イメージはぴったりだ。特に問題はあるまい。
 ロサ・フェティダは、そのブゥトンからプティ・スールに至るまで安泰。こんなフレーズを最初に言い出したのは誰だっただろう。真美もそのことに異論はないが、同級生にあたる由乃を見ていると、いささか違和感を覚えなくもない。
 外から見る限り、理想的な姉妹に見える彼女たち。
 支倉令と島津由乃のような姉妹の姿が、リリアンで一般的なのかどうか、そこまでは分からない。分からないが、他の生徒から姉妹についての様々な話を聞くにつけ、自分たちは少し違う、と真美は思うのだ。それが良いとか悪いとか、そういうことではない。姉妹という形とは微妙に異なる、三奈子と真美にとっては自然な関係。
 ロザリオを受け取って以来、真美はとりとめもなく思考を続けている。
 妹として姉である三奈子に対し、どうやって接し、つきあっていけば良いのだろう。たとえば取材の最中や、友人と話しているとき、あるいは記事を書きながら、ふっと考えてこんでしまうことがあった。なんだかんだ言いつつも、真美は真面目なのである。
 また、新聞部の活動を始めてから強く実感したことがあった。
 それは「時の流れるのは早い」という言葉だ。中等部のころは、一日があんなにも長かったと感じていたのに。最近の、あっという間に過ぎ去っていく時の流れ。毎日、真美は置いて行かれそうにな気分を味わっている。
 何をするにも時間が足りない。部室で記事を書いているだけで、いつの間にか外は暗くなっていて。あれやこれやと考えを巡らせているうち、家に帰らなければならなくなる。
 気持ち次第で時間の速度は変化するというけれど、まさにその通りの現象だった。
 楽しいひとときほど、一瞬に思える。
 時期がらなものもあって、毎日欠かさず、他の部員たちと顔を突きつけ合わせてああでもない、こうでもないと言い合っている昨今。部長である三奈子が作業しているときに、妹が何もしないわけにはいかない。そうなると、作業量がだんだんと増えていく。作業が増えれば慣れるのもそれなりに早い。慣れれば先輩と負担を分散できるようになる。
 このような経緯のうちに、真美は二年生と同じ仕事をこなすようになってしまった。誰に言われたわけでもない。単なる役割分担の結果であった。
 高等部に上がってから時間も経っていないのだし、いくらなんでも、いきなり即戦力とはいかないのが実情であろう、と真美は思う。思うのだが。
 考えているうち、はたと我に返った。作業を再開する。
「佳也子さま、この構成はこれで良いのでしょうか」
「問題無しですわね。それより真美さん、ここはこんな感じでどうかしら」
「ええと、もう少し表現を和らげたほうがいいと思います。佳也子さまの取材内容だと、この方が見栄えしますし」
「そ、そう?」
「はい」
「やっぱり頼りになりますわぁ」
 真美としては、まだ仕事覚えるだけで精一杯、なつもりだった。――のだが、二年生の部員にはすでに一人前扱いされていて、少し困ってしまう。聞きに行った先で必ず意見を求められるというのもどうなのか。
「真美さん真美さん、この内容は」
「先生方の許可が欲しいところです。ええと、とりあえず部長の指示を仰いでからのがよろしいでしょうね」
「分かりましたっ」
 一週間前に入部した、他の一年生にまで頼られている始末。たかが一週間違うだけ……のはず。それなのに、現実はこうなのだ。
 机に戻っていく同級生の姿に、はたと思い至る。時計を見る。真美は近くにいた先輩へと問いを投げかけた。
「あの、うちのお姉さまはもう取材に出かけたでしょうか?」
「……はてな。知香さん、三奈子さん今日見た?」
「えっと、部長はホームルーム終わってすぐ、今年の演劇部の活動方針を聞きに行かれたんじゃなかったかしらね」
「あの、演劇部に向かったんですね?」
「そうだけど……どうなさったの? 真美さんたら、そんな怖い顔して」
「はあ」
「何か言いにくいこと? 気にせず仰いなさいな」
 それでは、と真美ははっきりくっきり喋った。
「お姉さまは本日の四時に、ロサ・キネンシスに取材の約束を取り付けてあったはずなのですけれど」
 唐突に、静寂が新聞部部室内を隅から隅まで凍り付かせた。
 どうやら他の部員たちも、この会話に聞き耳を立てていたらしかった。そうでなければ、いきなり全員の動きが止まるなどとは考えられない。
 盗み聞きは新聞部員が知らずに会得するスキルである。主に三奈子が得意としている。
「……」
「……」
「たったいま、ものすごく不穏で危険な発言が耳を通り抜けていったような気がするのですけれど、できればもう一度、仰っていただけないかしら」
 嫌な沈黙の中で、知香がなんとか勇気を振り絞って聞いた。
 返ってきた真美の答えは、全く同じ言葉だった。
 できれば聞きたくなかった、と真美以外は後悔した。聞いてしまった知香も含めて、そう思わずにはいられなかった。
「お姉さまは本日の四時に、ロサ・キネンシスに取材の約束を取り付けてあったはずなのですけれど」
 真美は律儀に繰り返した。数秒、先輩たちは沈黙していた。
 世の中、知らずに済めば幸せで済んだこともある。この場合、聞かなきゃ良かった。部員たちの見解は、皆一様であった。全員一致の表情は、分かりやすいことこの上ない。
「……ろ、ろさ、きねんしすに?」
 震える声で一年生が聞き返してきた。
「はい、薔薇の館で」
「蓉子さま、とですって?」
 不安な声で二年生がつぶやいた。独り言のようだったが、真美は答えた。
「はい、今日の放課後。四時なので、あと十五分ほどで約束の時間です」
「真美さん、ど、どどど、どうしましょう」
「――急いでお連れする以外にはないように思いますが」
 先輩方は焦った。
 山百合会の幹部を相手に、三奈子さまがドタキャンなんてしてしまったなら、それはまさしく新聞部存亡の危機である。実際にはそこまでいかないと分かっていても、薔薇さまを怒らせるようなことがあってはならなかった。これからのためにも。
 山百合会の幹部が、それもロサ・キネンシスが直々に取材に応じてくれるというのだ。こんなチャンスはそうそうこない。不思議と薔薇の館には近寄りがたい迫力があるし、大きなイベントはしばらくないのだ。この時期にはのどから手が出るほど欲しい取材の機会。まさに砂漠に投げ入れられた水の入ったペットボトル。干からびそうな現状では、これほど潤うものもない。
 なのに、あの編集長はどうしてこういうタイミングで、こんな大ポカをしてしまうのか。真美は頭を抱える代わりに、足早に歩き出した。振り返って固まっている四人に頼む。
「部長を急いで連れ戻してきますので、何かあったら誤魔化しておいていただけません?」
「何か、って」
「間に合わなかった場合、ロサ・キネンシスがお怒りになられるかもしれません」
 そんなことはまずありえないだろうけど、と真美は思うのだが。
 一年生の部員たちはおびえている。
 二年生の部員たちは、聞かなかったことにしようと目をそらしている。露骨に耳をふさいでいる者もいた。
 都合の悪いことは見聞きしなかったことにする。これは、新聞部員が上手く活用すると三奈子のようになれる素敵スキルその二であった。
 この場合、まったく無意味なのだが。
「真美さん、は、早く部長をお連れしてっ」
 想像するだにおそろしかったようで、部室にいた三名の先輩は蒼白な顔になっていた。怒らせてはまずい方と正確に認識しているのだ。一年生は、現実逃避のためにせっせと仕事に向かうことにしていた。着手しているのは、ロサ・キネンシスへのインタビューが失敗に終わった場合を想定した、穴埋め記事の作成である。これは、ある意味で正解の選択肢なのかもしれなかった。失敗を予定している以上、この上なく方向性は間違っているのだが。
 真美はすでにドアまで移動していたから、一応、振り返って皆を見る。
「それじゃ、いってきます」
「――いってらっしゃいませ」
 と、二年生の部員は全員、火打ち石でも持ってきそうな勢いでお見送りしてくれた。
 仕事しろよ、と真美はほんのちょっぴり、先輩共を睨んだ。

 お見送りの効果があったのかどうか。
 演劇部の部室ではなくて一瞬焦ったが、体育館で見つかった。他の場所でなくて、本当に良かった。出てきた瞬間の三奈子を、どうにか捕まえることが出来たのは僥倖。すれ違いにでもなっていたらと思うと、さしもの真美も安心を隠せない。
 安堵の息を吐くのもそこそこに、三奈子に近寄った。
「失礼します」
 勝手に三奈子の手を掴んで、真美は歩き出す。
 当然、妹にこんな真似をされた三奈子は、むっとした顔になる。それが見えても、真美は足を止めない。
「真美、いきなりどうしたのよ」
「今日の放課後に予定していた、取材の約束をお忘れではありませんか」
「取材? 取材って……あ」
 完璧に失念していたようで、さぁぁっと顔から血の気が引いていく三奈子。関係者でなければ愉快な光景だったかもしれない。真美は呆れるでも怒るでもなく、ただ前を見た。静かな口調で姉に告げる。
「お姉さまは、一度何かに集中すると、他のことがおろそかになるように思います」
「う」
 と、小さくうめいて黙り込んでしまう。二週間も一緒にいるのだから、真美にだって三奈子のことが少なからず理解できてきたのだ。反論が返ってこなかったところを考えると、自身でも分かっていたに違いない。姉が気分を害しただろうと分かってはいたが、真美は続けた。
「フォローはしますが、もう少しお気を付けください」
 詰まるところ、真美は三奈子のことを真美なりに心配しているのである。情熱があるのは分かるが、行き過ぎてしまうこともありうる。大きな失敗をする前に、できれば自分で軌道修正をかけてくれるのが一番いい。
 必要が無くなって、真美はゆっくりと手を離した。涼しい風が、少し汗ばんだ手のひらを撫でていった。歩みをゆるめると、三奈子は速度を合わせて、真美の横に並んだ。
「お姉さま?」
「……まったくもう、しっかりしすぎの妹ね」
 肩をすくめて、苦笑い。
「まあ、それでこそ選んだかいがあるのだし、最初から分かっていたつもりだったけど――あなたって本当に遠慮が無いわね。まったく可愛くないったらありゃしない」
「はい」
 即答で返した。
「お姉さまが、こういうのを望んでおられるのかと思いまして」
「真美らしいわ」
 不意に、三奈子の歩く速度が変わった。置いて行かれそうになって、真美も足を速める。
 もうすぐ薔薇の館が見えてくるはずだった。時間は大丈夫だろうか。校舎に掛かった時計を見上げようとした瞬間、三奈子に手を強く握りしめられる。
 その手の感触に、真美の心は弾んだ。そんなふうに感じるなんて思いも寄らなかった。でもそういうこともあるのだろう、と真美は黙って握り返す。
「時間が無いみたいね。急ぐわよ」
 さきほどのお返しとばかりに、いきなりだった。放心しかけていた真美は、抵抗するまもなく、ぐいっと引っ張られた。
「――はい」
 走り出した三奈子の隣りで、真美も必死に足を動かした。約束の時間に間に合わせなければならないとはいえ、運動が苦手な真美にはたいした距離でなくとも、なかなかに大変だった。
 薔薇の館の入り口につくと、どちらからともなく手を離す。その場で息を整えていると、玄関の扉が開いた。出てきたのはロサ・キネンシスだった。笑顔で告げられる。
「ようこそ、三奈子さん」
「は、はい。あの……遅れてしまったでしょうか?」
「いえ、約束の時刻丁度よ」
 もうそんなに時間が経っていたのかと、真美はひとりで驚いてしまう。三奈子といえば、ほっと胸をなで下ろしていたところだった。ポニーテールが一緒に上下した。
 約束したのは三奈子だけだし、真美にはロサ・キネンシスに面識があるわけでもない。姉が紹介しなかった以上、中に入らないことにした。分を弁え、見送りだけにとどめる真美。
 案内されて、三奈子は館へと入っていく。
 真美と三奈子のあいだには、一本の線があった。見えない線が。
 時の流れるのは本当に早いもので、特に、楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。真美には今までの会話が一瞬に感じられた。でも、たった一瞬では足りないとも思った。
 自分たちのような姉妹では、こんなふうに手を繋ぐ機会はそうは無い。でも、自分から線を踏み越えてまで、それを言う気にならない。
 だから。
 扉が閉まる直前。姉の背中に向けて、真美はそっとつぶやいてみる。
 決して聞こえないように、扉の閉じる音にかき消されるくらい小さく。――もう少し、手を握っていたかった、なんて。





 3、ガラスの靴を求めて

 新聞部の活動にも慣れてきた。真美がそんな思いを強めていたころのことだ。
 朝に部室に詰めていると、気になるニュースが飛び込んできた。部員の姿は真美の他に数人がいるだけだった。ドアから入ってきた人物に道をあけると、彼女は真美へと一直線に向かってきて、饒舌にしゃべり倒してくれた。
 途切れることもなく、長々とした話が終わるまで真美は動けなかった。聞き流すわけにも行かず、どうにか内容を聞き取ることを努力する。
 終わった。
 真美が息を吸い込む。気が付くと彼女の顔も近づいていた。
「――聞いてる? 真美ちゃん」
 情報を持ってきたのは三奈子のお姉さまにして先代の部長、八河梢だった。眼鏡をかけたその顔には、幸せそうな笑顔が浮かんでいた。梢のウェーブがかった髪の毛の先が、真美の鼻先にかかっている。だが逃げるわけにも行かず、真美はなんとか頷く。
「はい。小笠原祥子さまが、とうとう妹をお選びになったという噂のことですね」
「違う違う。妹を選ぼうとして、また、逃げられたらしいのよね」
「えっと」
 それは初耳である。
「ちょっと前、ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンとロサ・ギガンティアが志摩子さんを取り合って、祥子さんの方が振られてしまったでしょう?」
「それでお姉さまが無理やり取材を敢行しようとして、祥子さまの冷たい視線を受けてすごすご帰ってきた事件でしたっけ」
「……ああ、三奈子でも無理だったの」
「仕方ないので、分かっている事実だけを紙面には載せましたが、結果としてご本人たちのインタビューはひとつもいただけませんでした」
 肩をすくめる。なぜか、ふたり同時に。
「でしょうね。もしかしなくても、真美ちゃんはその結果を予測してたんじゃなくて?」
「多少は」
「多少かしら。うぅん、そんな三奈子に気を遣わなくてもいいのに」
「いえ、運が良ければ、志摩子さんやロサ・ギガンティアにはお話を伺えるかもしれないって思ってましたから。結局無理でしたけど」
「なるほどね」
「……それで今回の情報は出所はどこなのでしょうか。山百合会内部の、それも薔薇の館で起こったという出来事なのに、こんなに早く噂が広まっているのはおかしいです」
「おかしくないのよ。噂広めてる本人に聞いてきましたからね」
「それは、どなたでしょう」
 はて、と首を傾げる。
「ロサ・ギガンティアと、ロサ・キネンシスのおふたり。ロサ・フェティダには出会えなかったから直接聞いたわけではなけれど、どうやら薔薇さま方が率先して噂をばらまいてらっしゃるようね。三年生のあいだでは、その一年生とやらが話題を独占してるのよ」
「なるほど。たしか、名前は福沢祐巳さんでしたっけ」
「ええ。そんなお名前だったわ」
「梢さま、情報の裏、本人にとってきます」
 真美が腰を浮かせようとした瞬間、背後でがたがたと椅子が動く音がした。
「私も」
「では私も」
 二年生の先輩たちも気になっていたのだ。ここぞとばかり着いてくる気満々である。新聞部に在籍している人間の九割は、まずもって好奇心の塊ばかりであるから致し方ない。
「今から行ってもダメでしょうから、お昼休みにしたらいかがかしら?」
 梢が引き留める。すでにスカートはかぼちゃ状態で、ダッシュの用意までしていた部員が盛大に転んだ。校舎は走ってはいけません、と梢が笑った。
「梢さまがそう仰るのなら」
 他の二年生に手を貸してもらって、床から起きあがりながら知香が頷く。
「ところで真美さんは、その福沢祐巳さんのことを知ってらっしゃらない?」
 と、佳也子が問いかけてくる。真美はすでに椅子に座り直していた。
「はい。同じクラスではありませんし、接点もないので」
 横から知香が補足する。
「部長もそのお名前を聞いたとき、狐につままれたようなお顔になっておられましたし」
「狸に化かされたような顔だったんじゃ」
 これは佳也子。
「どっちも同じようなものですわね。まったく、これだから」
「な、なんですって。あなた、狸に化かされたこともないくせにっ」
「知香さんこそ狐につままれたこともないでしょう?」
「あります」
「あるんですかっ」
 知香と佳也子が言い争う体勢になる。それ以外の部員は、興味津々の格好で耳を澄ませている。
「ええ。あれは私が四歳の頃でしたわ。空から不思議な柱状の光が降りてきて――」
 梢が止めた。
「そこまで。思い出話はいいから、知香さん、ちょっとお黙りなさい」
「うー……はい」
 真美としては続きが知りたかったのだが、梢が止めてしまった以上、そこを曲げてまで聞くわけにもいかなかった。柱状の光が降りてきて知香がどうなったのか。ものすごく気になるではないか。そこからどう狐につままれた話に繋がるのか、考えを巡らせていた。しばらく考えたが全く想像がつかなかった。
 後輩の葛藤を知ってか知らずか、佳也子が話に割り込んで先に進めてしまった。
「では、お昼休みに一年桃組で待ち合わせましょう」
 新聞部に桃組の一年生はいなかった。考えるのを諦めて、待ち合わせに了承する真美。
「分かりました。では行くのは誰にします?」
「一年生なら真美さんがいるとやりやすいと思いますわ」
「私はともかく……あまり大人数では先方に迷惑になりません?」
「それもそうですわね」
「そうでしょうか」
「当たり前です。あなたたち、何人で行くつもりなの?」
 元部長の問いかけで、顔を見合わせる新聞部員一同。よく見回してみると、いつの間にか部長以外の全員が揃っていた。その全員がお互いの顔をまじまじと見ていたことから、一人の例外もなく同行したがっているのが分かった。記者としては当然の、好奇心に突き動かされているのだ。真美以外の一年生の三人までもが目を輝かせている。
 真美を除いて、すでに皆が立ち上がっている。ため息を小さく漏らす梢。
「まったく……いくら気になるからといっても、少し落ち着きなさいな」
 がちゃり。ドアが開いて、三奈子が入ってきた。
 注目が一身に集まった。三奈子自身も注目を集めようと大声で叫ぼうとしていた。
「……みんな聞いてちょうだい! スクープよ! あのロサ・キネ――」
「はいはい、分かったから三奈子も落ち着きなさい」
 ぎょっとした顔になる三奈子。いきなり現れた自分のお姉さまの顔と、発せられた言葉に反射的に声を飲み込んだ。梢の後ろから部員たちが、一糸乱れず三奈子を凝視する。不気味な光景ではある。
 妙にシュールな動きで、カクカクと顔を上げた。
「お、お姉さま?」
「そ。三奈子の大好きなお姉さまです。福沢祐巳さんを探しに行きたいなら、お昼休みになさい。あと、あまり相手に迷惑が掛からない程度に、ちゃんと取材の交渉を先にすること」
 梢が三奈子に近寄った。
「で、でも」
「でもじゃありません。私のいうことが聞けないの? 三奈子」
「分かりましたっ。分かりましたから脇は、脇はや、やめ――」
 真美たちは見ないことにした。誰もが無言だったが、心は一つだった。部室から足取りをそろえて、三奈子を残して部員は全員退出した。
 クラブハウスを背にして、解散。
 外に出るとバラバラと別れていく。授業開始にはまだ時間があるとはいえ、立ち話を十分もしていたら確実に遅れる。用事が無ければさっさと教室に戻るべきだった。
「では、後ほど」
「はい。たぶん、私とお姉さまともうひとりくらいが限界でしょうから、……七恵さんによろしくお願いするということで」
「わ、私?」
 指名したのは真美の同級生、七恵であった。
「一年生の方が良いかと」
「よろしいのでしょうか」
「みなさまには我慢していただく、ということで」
 ちらり、と横目で見ると、泣き真似をしている二年生の方々が文句をつけてきた。
「ひどいっ、真美さんのけちんぼっ」
「鬼ですわ。鬼ですわ。鬼ですわーっ」
 楽しげな口調で、口々に非難する。顔が笑っていた。
「私たちだって楽しみにしていましたのに」
「まったく横暴です。誰に似たのか」
「あら知香さん、それはもちろん三奈子さんに決まっているじゃありませんか」
「それもそうでした」
「なら仕方ありませんわね」
「仕方ありません」
「仕方ありません?」
 なぜか疑問系だった。
「はっ、気づいてしまったのですが……ど、どうしましょう」
「真美さんが」
 祈るように。
「すごい目で」
 伏し目がちに。
「私たちを見てらっしゃるのですが、――たすけて七恵さん」
「え、えっ?」
 完全に呆気にとられていた一年生へと矛先が向かった。
 真美がため息をこぼす。一年生をからかっていた二名に、面倒そうに口を開いた。
「……佳也子さまも、知香さまも、あまり遊び過ぎないことをお勧めしますが。できれば、その……可及的速やかに」
「それもそうですわね」
「ということで七恵さん、ごめんなさいね。おふざけが過ぎました」
「ごめんなさい」
「あ、いえ」
「それはそうとして、どうなさったの真美さん。そんな強ばったお顔で。それに、可及的速やか、って何か理由でもおありになったの?」
「知香さま、……後ろをご覧になってください」
「はぁ、うしろ、ですか」
 後ろを見て、いる人物を確認して。
 合計、二動作のあと。
「……ひぃっ!」
「ひとの顔を見て悲鳴をあげるなんて、はしたないですわね」
 梢がにこにこ笑っていた。笑っていたから佳也子は逃げることにした。
「……あら、もうこんなお時間。早く教室に向かわなければなりませんわ。ええ、もう一秒たりとも猶予などありませんので失礼しますわね。ではごきげんよう、みなさま」
「そうね、もうこんなお時間ね。でも佳也子さん」
「な、なんでしょう?」
 笑っているだけで、答えない梢にあたふたとする佳也子。それを見て、横から知香も言い訳を始める。
「ぶ、部長……いえこれは、一年生と心を通わすためのコミュニケーションでありまして」
「知香さん、私はもう部長ではありませんよ。それに、コミュニケーションに一番手っ取り早い方法がありますから、実践してあげましょうか。ほら、さきほど私が三奈子にやっていたやつ」
 そういえば、と真美は気づいた。梢がすでにここにいるのに、三奈子が部室から出てこない。そろそろ動かないと朝のホームルームの時間に遅れてしまうはずなのだが。
「あの、お姉さまは」
 少々怖かったが、問いかけてみる。
「三奈子なら今、部室でぐったりと」
「……」
「ではなくて、ぐっすりと寝ているから安心して」
 ああ、それなら安心――
 できるわけがなかった。
「……いえ、寝てたらマズイのでは」
「冗談だから安心なさい。そろそろ出てくるわよ。ああ、佳也子さんも知香さんも、花寺の生徒会長についての特集組んでおきなさい」
「は、はいっ」
「分かりました……です」
「そろそろ行くわ。ああ、私がいなくてもしっかりやるのよ?」
「それはもう」
「必死でやりますから、ご安心くださいませ」
 言われるまでもなく、表情が必死だった。
「まあ、これからもちょくちょく顔は出しますから。みんな、がんばって活動してちょうだいね。では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 挨拶を交わし、梢は去った。二年生たちの肩からは、ほっとしたのか力が抜ける。
「……あー、吃驚しましたわね」
「本当です。……心臓に悪いったら」
「梢さまってそんなに怖いのでしょうか」
「というか、あの方は怒らないから」
「ええ、だから怖いわ。真美さんも想像してごらんなさい。昔、微笑みながら『これは没ですから、全部書き直してちょうだいね』と私は言われたし。いつも通りの顔と口調であれは怖いですわよ。しかもマジなんですから、そのあと三回修正させられましたし」
「私なんて、昼休みに『印刷が間に合わない? では、職員室にあるコピー機をたった今から借りましょう。全部使えばあっという間でしょう? 大丈夫。今なら先生方は一人残らず出払っていますから安心ですよ。ふぁいとっ』と笑顔でしたもの」
「鬼部長ですわね」
「ええ、まさしく鬼部長です」
 うんうん、と頷く二名。同じ恐怖を分かち合った者同士で、何か通じ合うものがあるのだろう。真美は背後に迫っている人物に気づいたが、自分たちだけの世界を作っている先輩を慮って沈黙を守った。
 意訳すると、真美が放置したため、声を掛けられるまで二年生ふたりは後ろにいた彼女に気づかなかった。
 地獄の底から聞こえてくるような声が予鈴に重なって響いた。もう時間がない。
「だぁれが鬼部長ですって?」
「ひっ」
「まったく、佳也子さんも知香さんも口が軽いわね」
 慌てて振り返る。梢ではなかったことに、佳也子は神に感謝した。丁度、傍にはマリア像があったので手を合わせておく。
「って、三奈子さんでしたのね。良かったわ。梢さまだったらどうしようかと」
 知香の言葉に、三奈子は渋面を作って悶えた。梢、という名前に反応したのだ。ついさっきまで脇をくすぐられていたことが原因だった。
「……」
「あら、三奈子さん、どうしたのそんな切なげな思い出し笑いをして――ああっ、いったいどこへっ」
「真美さん、ほら」
 三奈子を指して、知香が言った。
「こんな三奈子さんを見れば、梢さまがどれだけ怖い方か、分かるでしょう?」
 顔を真っ赤にして、しかも思い出し笑いを必死にこらえている三奈子を真美はじっと見た。しばらく見ていた。穴が空くほどしつこく見つめた。
 が、
「……いえ、全然分かりませんが」
「そう。それは幸せかも知れないわね……」
「そんな遠い目をして語られましても」
「はっ、もうホームルームの時間ですわね」
「え」
「ということで私たちはもう行きます。真美さんは、がんばって、というか積極的に、というか、死ぬ気で福沢祐巳さんからお話を伺ってきてくださいね。ではごきげんようっ」
「あ、はい。ごきげんよう」
 二年生たちは、そのまま去っていった。
 結局、梢がどう怖いのかは、真美にはさっぱり分からなかった。足早に教室に向かう真美の隣では、同じ一年生の七恵が震えていた。
「どうなさったの」
「さ、さきほどの梢さまのお話が怖くて!」
 泣きそうな顔だった。口元を手で押さえてうっすらと涙を浮かべながら、自分の教室に向かって、無音で走り去っていった。
 止める間もなかった。残像のような涙の軌跡が宙に溶けて、跡形もなく消えた。
「いや、だからどうして」
 真美にはどうしても分からない。しかも、ホームルームに遅刻して怒られのだ。納得行かない。未だ、柱状の光と狐の謎すら答えが出ていないというのに。
「だからなんで……っ」
 答える声はなかった。


 お昼休みになり、一年桃組の前に集合した真美たちだったのだが、行く手を阻むように人混みの壁が存在していた。
 予想外の事態に、顔を見合わせる一年生。部長の三奈子は一瞬だけ怯んだが、野次馬に負けるわけにはいかないとばかりに、混雑へと大きく足を踏み入れる。
 まず先陣を切ってかき分けていった三奈子の後を、真美が着実に追いかける。七恵がぴったりと背中から着いてきた。
 ようやくたどり着いた教室の扉の前には、真美たちもよく見知った顔が出てきたところだった。
 一年生にしてすでに写真部のエース、武嶋蔦子であった。扱いづらいという理由から三奈子は彼女を苦手としていたが、真美にとっては、わりと気の合う人物である。むしろ仲がいいといっていいくらいだ。被写体の追い方と、取材の取り付け方が似ているのだろう。もっと単純には、趣味が合う。そういうことだ。
 蔦子の隣りには、居場所が無さそうにしている小柄な一年生。三奈子たちを不安そうに見つめる同級生の姿があった。困ったなあ、といった表情が張り付いている。あまり目立たない感じがあったため、三奈子の目には留まらなかったようだ。
 こっちに気づいて、蔦子がかるく微笑んできた。
「あら、ごきげんよう。あなたもこちらのクラスだったの?」
 と、三奈子。むろん、くだんの人物の情報を仕入れようという腹だ。好意的な笑顔を浮かべてはいるが、精神状態は狩人のそれに近い。油断させて獲物を手にする気分なのだ。
「ごきげんよう、新聞部の皆さま。今日はいかがなさいまして?」
「福沢祐巳さんのインタビューに参りましたの。ちょうどよかったわ、呼んでくださる?」
 三奈子の問いに返ってきたのは、蔦子の友好的な笑みだった。真美は黙っていた。目の前のふたり、何やら考えてることは同じのようだ。
 蔦子が教室に顔を向けた。視線が上へ下へ右へ左へ彷徨った。
 しかし、いくらなんでも、祐巳は天井にはいないだろう。三奈子は気づいていないから、真美は無言を保った。
「えっーと。祐巳さん、祐巳さんは……っと」
 教室内はどこも同じように、日頃から見慣れた風景が広がっている。お昼の準備をしている姿ばかりだった。取り立てて特異なものは無い。
「あ、あそこにいるの、祐巳さんかしら?」
 眼鏡がきらり、と光った。指さした場所は一番奥の何人かが話し込んでいる席だった。三奈子の視線もその方向へと釣られて動く。ふたりのやりとりを聞いていた真美は、口を出しかけてやめた。
「呼んでまいりますわ。どうぞお待ちになって」
 ええ、と三奈子がじっと同じ方向を見たまま頷く。他の席には目もくれない。インタビューの内容を組み直しているのかもしれなかった。
 真美は、やっぱり黙っていた。
「そうそう――ナツメさんはお急ぎでしたわね? どうぞお先にいらっしゃって」
 蔦子が隣の一年生に振り返って、そう言った。三奈子は早く案内なさい、といった目の色になっている。
「は? ……あ、はい」
 目をぱちくりさせて、それから首肯。
「では、お先に」
 蔦子と、真美や七恵にまで会釈すると、そそくさと遠ざかっていった。
 三奈子が教室内に目を向けているあいだ、真美はいまの同級生をじっと見ていた。蔦子が教室内へと入っていく。三奈子がその帰りを今か今かと待つ。その様子がなんだかおかしくて、でも笑ってしまうことを必死に押さえる真美。
 七恵が聞いた。
「あの、真美さん、なんで笑っていらっしゃるの」
「いえ、ちょっとね」
「でも、福沢祐巳さんってどんな方なんでしょうか。楽しみじゃありません?」
「どうやら礼儀正しい方のようです」
「え、真美さんはその祐巳さんのことをもう知って」
「それより、部長が」
 話しているうちに、蔦子が戻ってきたようだ。何やら三奈子と言い争っている。
「――ごめんなさいね。人違いだったようですわ。もう教室にはいらっしゃらないみたい」
 蔦子さんたら演技派ですね、と真美は内心で感心する。ナツメさんの意味も分かった。しかしおそらく取材の交渉をしても、積極的に了解してしてくれさそうな相手だったから、あえて沈黙を守っていることにしたのだ。
 相手が確認できたから、真美としては満足だった。この際、三奈子の満足は考えない。七恵の満足は度外視の方向である。
「そう。邪魔したわね。……いまどこにいるか分からない? いえ、彼女がいきそうな場所で構わないのだけど」
「……えーと」
 蔦子は考え込むような素振りをして、
「分かりません。お役に立てなくて申し訳ありませんでした」
「いえ、それなら仕方ないわ」
 仕方なくなさそうに未練たっぷりの声。それで帰りかけた三奈子の気を引くように、背を向けたところで、蔦子はまた口を開いた。
「あ、でも」
「どこか知ってるの?」
「ああ、いえ。探すのなら薔薇の館なんていかがでしょう?」
「そう。武嶋蔦子さんありがとう。考えてみましょう」
 わざわざフルネームで言ったのは、おそらく嫌味のつもりだ。
 薔薇の館の内部に勝手に立ち入るわけにはいかない。そこでインタビューをさせてもらおうなどは、さすがの三奈子でも考えの外である。無断で侵入していいなら、最初からそうしているのだ。しかも、許可をもらえるとも思えない。
 蔦子もそれを分かっていて、その上で言ったことだと三奈子は気がついたのである。
 ぞろぞろと歩き出す三人。教室にいないのは間違いない。祐巳の居場所は結局分からなかった。三奈子は不機嫌を顔に出した。
「……さて、蔦子さんは協力してくださらないようですし。今から手あたり次第探しだしたとなると、私たちはお昼ご飯を食べ損ないます。それを考慮していただいたうえで、どうしましょうか、お姉さま」
「あのね、真美、そんな回りくどい言い方しなくてもいいから、おなか空いたって素直に言いなさいっ」
「いいえ。部長が草の根分けてでも祐巳さんを捜したいのであれば、私は協力する所存で」
「嘘ね?」
「半分ほどですけどね」
「……まあ、いいわよ。ここで解散でも。七恵さんもそれで良ければ。インタビューできないのに、ここに留まっている理由なんてないんだし」
「あ、じゃあお言葉に甘えさせていただきます」
「では、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 足早に去っていく七恵。楽しげな足取りと、普段の態度などから向かう先を考慮すると、どうやら彼女にも、三奈子の知らないうちに姉ができたらしい。
 微笑ましいことである。祐巳が見つからなかった苛立ちは、考えているうちにあっさりと収まった。
 横に目を向ける。真美の顔があった。
 ため息一つ。
「……真美、どこかで一緒に食べましょうか?」
「私はかまいませんけど」
「どこにする?」
「では、私の教室で」
「一年生の教室ねえ。まあいいけど」
 会話しながら移動した。教室に入ると、適当な席に座る三奈子。
 ふたりとも昼食はパンではなく、弁当だ。三奈子が自分の包みを開くと、簡素な弁当箱が現れた。中身は見なくとも分かる。ノリ弁。
 一方、真美といえば、それなりに豪華。夕飯の残りも入っているようだが、ノリ弁よりもおかずは多かった。
「ふうん、真美もお弁当なのね」
「はい。お姉さまこそ」
 会話が途切れて。
 しばらく、黙々と箸を動かす。
 半分ほど食べ終えたところで三奈子が窓に目をやった。空に広がる青と、ゆっくりと流れる雲だけがあった。穏やかで、澄んだ空だった。
「いい天気ね」
「はい」
 不思議に思って真美が様子を見守っていると、不意に三奈子が口を開いた。とりたてて普段と変わりない口調だった。
「ねえ、真美はどうしてロザリオを受け取ったの?」
「姉妹になりたいと思わなければ、受け取っていません」
 即答する。
「……質問を変えるわね。断ろうとか思わなかったかしら」
「どうしてですか」
「祥子さんが妹にと選ばれたという彼女が、どうして断ったんだろう、って思って」
「それは……」
 どうしてなのだろう?
「志摩子さんの場合には、まだ分かるのよね。あのロサ・ギガンティアらしいと言えば、らしいし。それで妹に選んで、選ばれて、そんな感じなんだもの」
「祐巳さんの場合には違うと?」
「だって、断る理由がないじゃない」
「まあ、確かにそうですけど」
「普通の生徒なら、素晴らしいお姉さまに選ばれたことを喜びこそすれ、そのロザリオを拒否などしないでしょう?」
「するかもしれませんよ」
「そうかしら」
「はい」
「どうして?」
「合わないと思ったなら、たとえそれが誰であろうと、断ることも必要だと思います。たぶん彼女の場合は、何か断る理由があったんじゃないでしょうか」
「そういうものかしらね」
 真美は、話を逸らすことにした。
 どうしてなのだろう? 三奈子が不安がっているように見えてしまったのは。いまさらのように、あの出逢いを後悔でもしているのだろうか。
 こういう姉妹だから、繋がりが不安定に思えるのかもしれない。絆など無いようなものに感じるのかもしれない。
 真美にできることは、こうして話すことだけだった。
「お姉さまはどうでした? 梢さまからロザリオを受けとったときのご様子は」
「……あまり思い出したくないわね」
「聞きたいです」
「真美、こういうときだけ猫なで声しないっ」
「聞きたいですぅ」
「……コワイからもうやめて。お願いだから」
「聞きたいですぅっ」
「性格悪いってよく言われない?」
「はい。なぜか言われます。言うのはお姉さまお一人ですけど」
「そ」
 またしばらく静かに橋を動かす。冷めたご飯が固くなっていた。真美が先に食べ終えた。立ち上がって自分の席に向かい、魔法瓶とコップをふたつ持ってくる。
 お茶を入れた。自分の分はプラスチックのコップ、紙コップは三奈子の前に。三奈子も食べ終えたところだった。ごちそうさまでした、と手を合わせる。
「ありがとう」
「いえ」
「ふぅ……お姉さまにロザリオを受け取った記憶ねえ。あんまり思い出したくないんだけれど、それでも聞きたい?」
「はい。とても」
「たいしたことじゃないわよ。私が記事書こうとして、それを部長だったお姉さまに止められて、そのときにお姉さまから頂いたの」
「なぜ思い出したくないのでしょうか」
「叱られてた直後だったから泣いてたし……って、真美、今聞いたことは即刻忘れなさい」
「分かりました。そういうことにしておきますから」
 忘れるわけがなかった。
「頬が引きつってるわよ。……とにかく、忘れなさいよ」
「善処はしますけど」
「善処じゃなくて、絶対に忘れなさい」
「まあ、それは脇に置いておきまして。それより……お姉さまはそのとき、嬉しかったんですよね?」
「まあ、そうね」
「断ろうとか思いました?」
「……」
「いいえ。まったく」
「なら、きっとそのときのお姉さまと同じです。私が受け取った理由は」
 呆気にとられたような顔で、妹を見る三奈子。
 姉の表情に向かって、微笑みもせず真美は続けた。
 照れ隠しも幾分あった。
「安心してください、お姉さま。ロザリオを受け取ったのは私の意思ですから。姉妹になったことを後悔などしていませんから」
「……そう」
 ん、と三奈子は伸びをして、教室の窓からまた空を見上げた。
 青空が、まぶしかった。
「さて、そろそろ私も教室に帰るわね」
「はい」
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 そうして真美と別れた。三奈子は小さく息を吐き出して、自分の教室へと歩き出す。
 その放課後、掃除を大急ぎで終わらせた三奈子だったが、祐巳はすでに劇の練習に出ていたため、インタビューすることができなかった。
 残念無念であった。


 次の日になって、祥子が新聞部を訪ねてきた。
 用件は、祐巳に対する取材を止めて欲しい、という内容だった。三奈子は当然ながら反論した。しかし提示されたのは魅力的な条件だった。
 美味しい内容だったため、欲と目論見が拮抗して迷った。
「……だから、祐巳の代わりに私が取材を受ける、と言っているのよ」
「ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンが自ら?」
「ええ。おととい、薔薇の館で何があったかを全て教えてあげましょう」
「本当にっ?」
 三奈子、当然ながら喜色満面であった。
 祥子は長い黒髪をなびかせながら、静かに語ったのであった。
「ただし、それについてひとつ、条件をつけさせてもらいますわ――」


「――それで? 条件を飲まされてしまったのですか、お姉さま」
 後から聞いた真美が、冷たい視線を投げかける。受け止めた側の三奈子は、うろたえながら反論しようとした。
「し、仕方ないじゃない」
「で、条件はいったい」
「祐巳さんと祥子さんの賭けのことがあるから、劇が終わるまでは記事にしないこと、よ」
 深々と嘆息されてしまった。
「……つまり全貌がつかめたのに、今すぐに公表はできないわけですか」
「そうだけど……できるだけのことはやったわ」
「できることしかやらなかった、の間違いでは」
「……真美」
「全く、お姉さまらしくもない」
「でも、ロサ・キネンシス・アン・ブゥトンにあんなふうに迫られたら、どんな要求も呑まざるを得ないじゃない……真美は知らないでしょうけど、祥子さんって怖いのよ」
 げっそりした様子を見せる三奈子に、真美は肩をすくめた。
「いいんじゃないでしょうか、取材させてくれたのでしたら。推測混じりの情報よりも、正確な記事を書けるのなら私はいっこうに構いませんから」
 その言葉を皮切りに、周囲がにわかに騒がしくなった。
 二年生の部員たち。プラス遊びに来た元部長の会話が背後から聞こえる。
 ひそひそ話のフリをしていた。
「……ばしっ、と言われましたわね」
「言われてますねー」
 フリだけだった。
 あからさまに聞こえよがしにしゃべっているのが、三奈子にだって分かるほどだ。しかし、怒鳴りつけたくとも梢が混じっているためにそれもできない。あまりにも状況は不利だった。
「ああ、部長が叱られてますわ」
「叱られてますわね」
「叱られているのでしょう」
「叱られているのです」
「真美さんはしっかりしてらっしゃるから」
「ええ、部長は良い妹をお持ちになられました」
「本当に」
「素晴らしいことですわ」
 褒め称える部員たち。ここで声を張り上げる元部長、梢。
「三奈子が、こんなにも素敵な妹を持ってくれて私は嬉しいわ」
 からかい半分の言葉だが、梢の本音でもあった。
「まあ、そういうわけだから」
 真美が言葉の先を続ける。
「結果以外は先に書いておけばいいわけですね」
「そ。というわけだから――あなたたちも作業に戻りなさい」
 二年生たちを威嚇する梢。蜘蛛の子を散らすように逃げていった。梢は立ち上がって、真美に向かって話しかける。
「それじゃあ、私も帰るわね」
「もうお帰りになられるんですか」
 真美も腰を上げた。
「いつまでも元部長がいてもしょうがないでしょ。それより真美ちゃん、頑張ってね」
「はい。出来る範囲で」
「よしよし」
 梢はドアを開けて、自然に出ていった。真美が見送っていると、いつの間にか真後ろに突っ立っていた三奈子が背後霊のような声を出した。
「真美、シンデレラの練習の様子、見てきてちょうだい」
「いいんでしょうか」
「良いに決まってるじゃない。福沢祐巳に関しての取材はともかく、山百合会主催の演劇のほうは祥子さんとは約束してないわよ? だから大丈夫に決まってるわ。ええ、大丈夫だから信じなさい。彼女、今ごろはダンス部と一緒にいるころかしらね。さ、早く行ってきなさい」
「本当に大丈夫なのか、不安ですけど」
「とにかく、写真のひとつも撮ってくるのよ。練習風景とか、その他いろいろと。ああ、特に薔薇さまたちを中心にね」
「分かりました」
「あ、真美」
「はい? なんでしょうか、お姉さま」
「カメラは持った?」
「はい」
「取材メモは?」
「一応」
「どこの部か聞かれたら、ちゃんと――」
「ちゃんと?」
「……写真部って答えるのよ?」
 自信満々でそんなことを告げられた。真美は声を低くして質問する。
「お姉さま、やっぱり大丈夫じゃないと思ってません?」
「気のせいよ」
「まあ、いいですけど」
「気にする必要はないわよ。大丈夫。自分の力を信じなさい」
「むしろこの場合、お姉さまを信じたいのですが」
「真美、スクープが逃げるわよ!」
「必至に目をそらしながら言わないでください」
 ようやく諦めたのか、真美と目を合わせた。
「くっ。この私が汗水垂らして祥子さんの前に立ちふさがったというのに!」
「冷や汗の間違いでは?」
「そうとも言うわね。ま、なんでもいいからネタ集めしてきなさい。編集長命令よ」
「分かりました……から、こっち見ていってください」
「さっきもいったけど、何かあったら写真部のフリするのよ?」
「そんなに念を押さなくとも、別にお姉さまの名前なんか出しませんから」
「そ、そう?」
「はい。じゃあ、行って来ます」
 なんだか妙なことになったような気がしないでもないが、山百合会主催の劇が終わるまでに、三奈子が記事を書けばいいのだ。真美は、材料集めだけに専念することにした。
 たまにはこういう余裕のある状態というのも、良いものだ。
 今頃は帰り支度をしているであろう出演者たちを探して、真美は暗くなり始めた空を見上げながら、ぼんやりとそんなことを思った。

 数日の後、行われた山百合会主催の劇、シンデレラは大成功に終わった。
 さらに後日、祥子と祐巳が姉妹の契りを交わしたことについても、リリアンかわら版で大きな特集を組むこととなった。
 これらの特集は好評を博し、新聞部は名声と満足を得た。
 その後、突如、黄薔薇革命が発生することになる。騒動が収束するまでのあいだ、寝る間を惜しんでという比喩が真実に変わるほど、激務に部員たちが追われ続けたのは――周知の事実であった。





 4、机上同盟

 噂は、新聞部が情報を入手し吟味するまでに掛かった時間と、同じくらいの早さで走り回った。いや、更に早い速度で広まっていた。ひとたび加速のついた噂は止まるということを知らなかった。
 三奈子が話題の小説を入手した時点で、すでに噂は足を止め、大きく成長する段階に入っていた。これはまずい。リリアンかわら版で急いで記事にしなければ。いくら試験勉強で忙しいからといって、情報収集をおろそかにしていては築山三奈子の名が廃る。
 話題は生ものであり、情報は早さが生命だった。
 そして噂の中心は、最も生徒たちが求めている人物のこと。すなわち、ロサ・ギガンティアだというのである。これを逃すことなどできやしない。そんなことは決まっていた。コスモス文庫。須加星。いばらの森。さてさて内容は――と読んでみた。ん、と思った。
 読み進めているうちに、冷や汗が、一筋たらりと三奈子の額を流れ落ちる。
 そして読み終わった。落ち着くために息を吸い込んで、吐きだして、また内容に目を通す。三奈子は慌てていた。記憶にある、一年前のロサ・ギガンティアと酷似していた。
 試験勉強など脇に置いて、こちらに専念しなければならないと思った。すでに出遅れ気味なことは承知してはいるが、それでも放置するわけにはいかなかった。
 誰が書いたのか。それは確信できない。証拠がなければ記事にするわけにはいかない。
 そうして三奈子は去年のある出来事を思い出す。クリスマスの直前だっただろうか。新聞部で記事の担当だったとき。たしかに、これに似た話を聞いたのだ。
 あのときは記事にすることを梢に止められた。その判断は、いまのロサ・ギガンティアを見ると、やはりお姉さまが正しかったのだと三奈子は思考する。
 いばらの森を書いたのは、ロサ・ギガンティア本人だろうか。それとも、違うのだろうか。少し前、黄薔薇革命と題して記事を書いた。そのおかげで、山百合会幹部たちや先生たちにこっぴどく絞られた経験が頭をよぎる。あれはやりすぎたと三奈子も思っているのだ。その反省の記憶は、一年前、佐藤聖さまのことを記事にしようとして、お姉さまに諫められたことまで思い出してしまう。
 タブー。
 噂。
 三奈子が知る、あのころ聞いた噂はすべてが真実だった。書くわけにはいかなかった。あのころのロサ・ギガンティアを知っている人間は、その話をすることを禁忌とした。端から見ていても痛々しかったという、そのころの姿を忘れようと。
 しかし。
 書きたい。書いちゃいけない。書きたい。みんなが知りたいことがそこにあるのに、書けないなどということがあっていいのだろうか。いや良くない。決してそんなことは許されるべきではない。
 矛盾する思考の狭間で、三奈子は迷っていた。理性がブレーキを利かせている状態だった。今日を逃せば、もう間に合わないだろう。話題の最中に記事を刷ることはできなければ、意味がないのだ。多くの生徒の手にリリアンかわら版を行き渡らせるには、それ相応に印刷の時間というものがある。
 この小説が出版されたのがロサ・ギガンティアの手によるものだとすれば、そのへんの事情を山百合会の関係者は知っていそうではある。特に口を割りそうな可能性のある一年生、つまり祐巳に聞き込みをすることにした。手頃な人物を狙うのは、情報収集の常套手段であった。
 三奈子が廊下にて協力を求めると、知らないという答えが返ってきた。しかもロサ・ギガンティア当人に邪魔をされた。ついでとばかりにプレッシャーもかけられてしまった。直撃取材としては、完全に失敗である。余計なツッコミまで頂いてしまっては、もう手も足も出ない。
 運に見放されているような気さえした。
 証拠もなく記事にするわけにもいかないし、でも書きたいし。ああ困った。どうにもこうにも身動きがとれないのは辛い。
 仕方ないからと、三奈子は部室で会議を開くことにした。話を聞きに行っているあいだに部員は集まっているはずだ。やはり、この噂をみすみす見過ごすようなことはできない。三奈子は自分自身のために、この記事にこだわっていた。
 ドアを開くと、注目を一気に集める羽目になった。
 同級生の佳也子さんが、開口一番、
「部長、どうしましょう」
 どうしましょう、が口癖な佳也子は、とりあえず放置する。
「ええと、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 部員に挨拶を交わしながら、三奈子は視線を動かしていった。真美の前で止まって、目を合わせた。
「ねえ、白薔薇事件のことなのだけど」
 三奈子が勝手に命名したのだが、真美も理解したらしくすぐさま反応が返ってきた。
「お姉さま、話題の本は」
「持っているわよ」
「では、このことを記事にします?」
 前置きのひとつも入れて欲しいものだったが、ずばずば言うのは真美らしい。何より先に本題を切り出されてしまった。しかたなく三奈子は本音を漏らす。
「私は、記事にしたいわね」
「私は反対です」
 と、すぐ真美が言ってくる。まったく、一筋縄ではいかない妹である。
「いま記事にするには、取材が十分じゃないのは分かっているはずです」
「それでも今書かないと記事が、スクープが腐るわよ!」
「これを書いた人物が、実際にロサ・ギガンティアだという確固たる証拠はまったくありません。別人と考えたほうが自然ですし」
「真美、この内容は読んだのよね」
「はい」
「どう思ったのかしら。違和感無かった?」
「ロサ・ギガンティアに抱いていたイメージとそれほど乖離していません。ですが、この筆者の方はロサ・ギガンティアとは違う方かと。二年生の方々に先ほど教えていただきましたが、それでも、たぶん無関係のような気がしますし」
「……」
「……」
 沈黙で、机を挟んでにらみ合う姉妹。新聞部以外では、こんな姉妹のやりとりは、あまり見かけない光景であろう。世の中には枕を投げつける妹もいるから、特に不思議でもない。部員は見慣れたもので、すでに観戦モードに入っていた。
「……今日はいつもより一段と激しくやってるわねー」
「部長が不利でしょう」
「そうかしら」
「ええ、いつも通りに。さ、取材行って来ましょう」
「あっと、担当分の記事はどうしたのよ。締め切りは昨日のやつ」
「知香さんこそ、何も書くことがないから、ってコラムを書いてくるって仰ってませんでしたか。たしか今日が締め切りの。チェックした覚えがないのですけれど」
「ああ、どうしましょう……三奈子さんも真美さんも……」
「あのう、そこでおろおろしてないで、佳也子さんは一年生の取材に同行してあげてくださいません?」
「え、あ、じゃあちょっとおいとまさせていただきますね」
「佳也子さま、先に廊下に出てますから」
「で、白薔薇事件はどうしましょう。三奈子さまと真美さんが、なにやら膠着状態になっていらしゃいますが」
「放っておきましょう」
「よろしいんでしょうか」
「ええ、お二人とも自分の担当記事はとうに書き上げてますから。好きにやらせておいて……それより知香さん、コラムは」
「うふふ」
「いや、うふふじゃなくてですね」
 こちら側とあちら側では、空気の温度がまったくと言って良いほど違っていた。
 三奈子たちの姉妹げんかにも似た意見の応酬が始まってから、まったりと自分の仕事をするわけにもいかず、所在なさげにひとり、またひとりと出ていった。
 出ていった最後の一人、佳也子さんがドアを閉めた音に、静かに入ってきた誰かの足音が重なった。そのとき緊張状態が崩れた。先に口を開いたのは三奈子のほうだった。
「証拠がこれであれば、噂は的を射ているのではなくて?」
「憶測で記事は書かないのが鉄則では」
「それは原則よ。噂は噂として載せればいいの」
「しかし、この場合、状況次第によってはロサ・ギガンティアに迷惑がかかります」
 三奈子の方が先に、言葉に詰まった。
 真美とこういった形の口論になると、三奈子には勝った覚えがただの一度もなかった。真美は毎回正論ばかり吐くし、揚げ足取りがやたらと上手いのだ。どうも姉としての威厳が失われている気がしてしかたない。
「――すでに、先方は迷惑してると思いますけど」
 嘆息つきで真美が付け加えてきた。その声に含まれたものに気づいて、三奈子は弱気な相づちをうってしまう。
「そう、でしょうけど」
「ロサ・ギガンティアご本人に、きっぱりと否定されていたじゃないですか」
「……な、なぜそれを」
 祐巳に協力を求めてる最中、指導室から出てきた聖に釘を刺された瞬間のことだ。三奈子の渋面を見るも、真美はだめ押ししてきた。
「生徒指導室で、盗み聞きしようと耳を押しつけていらっしゃるお姉さまの姿を、見るつもりは無かったのですが、遠目に見えてしまったので、僭越ながら、私は近寄ることもせず、他人のフリをさせていただきました」
 一言一句を強調された。ひどい妹もあったものである。
「――そこから見てたの」
「はい」
「くっ」
 負けた。
 理屈で押し切られた。いや、理屈というわけではないのだが、とにかく記事として載せるわけにいかない理由を明言されてしまった。
 これでは、もう反論できない。本人がきっぱりと否定してしまった以上、もはや記事にしても求心力は薄れている。しかし、これだけの話題性のあるニュースに新聞部が関わらないというのは、納得できなかったのだ。どうにかならないものか。声を張り上げようとした刹那、背後から呆れたような声が掛かった。
「いいかげんになさいな、三奈子」
「……」
 三奈子が振り返ると、そこには先代部長である梢の姿があった。三年生になって部長を引退してから以降、確かに他の三年生よりも顔を出す比率は高いけれど。なぜ、このタイミングで来てしまうのか。
 三奈子の愕然とした顔。ちょっと泣きそう。
「お、お姉さま。なぜここに」
「一週間前にも来たじゃないの。それに、元新聞部なんだから別に構わないと思うのだけれど……三奈子は何か不満?」
「そんなことは、ありませんけど」
「それに、どうしたのよ。私に来られると何か不都合なことでもあるのかしら。可愛らしいお顔と、頭のしっぽがひねくれてるわよ。……あ、真美ちゃん、ごきげんよう」
「ごきげんよう、梢さま」
「なにやら二人が楽しそうだったから、お話に割り込むのが躊躇われてしまったのだけれど……邪魔をしてしまったのならごめんなさいね」
 お姉さまには、三奈子といえど頭が上がらない。
 本来、こういうものが普通の姉妹の姿のはずなのだ。なのに真美といえば可愛げも欠片もなく三奈子に牙をむいてくるのであった。三奈子はそう考えてしまい、腹立たしさが不意に湧き出す。
 リリアンは上下関係が厳しいのである。間違っていることにまで、盲目的に従う必要はないとしても。
「いえ、助かりました」
「というかお姉さま、私たちのどこが楽しそうに見えたのでしょうか」
「まるで昔の三奈子を見ているようだったのよね」
 梢の言葉に、三奈子は過剰に反応してしまった。
「そ、そんなことありませんっ」
 強がる三奈子。しかし、これが何より失敗だった。
「あらあら……でも、そんなことはあります。自分の意志を貫く、という姿勢のことを言っているのよ。それともなあに、三奈子は真美ちゃんほど頑固じゃないとか、仕事に熱心に取り組んでいないとか、才能がないとか自分で思っているのかしら。そんなことはないわよね? 私の妹ですものね? ええ、あるわけがないに決まっているわよね?」
 自己完結されてしまった。しかも非常に返答に困る発言だ。半年ほど前に梢のことを真美に紹介してからというもの、どうもやりにくさが増した気がする。
 真美が、小さな声で質問した。
「私、頑固でしょうか」
「そうね。三奈子と同じくらいには」
 真美の質問にも、さらりと答えている梢。三奈子はこの時点で敗北を悟った。ここから形勢が逆転する可能性は、万に一つもなかった。
 この負けは、記事の不掲載が決定したことを意味する。
「そうですか」
 そして、そう言われても怒らない真美。嫌な感じに通じ合っているふたりだった。三奈子は自分の姉と妹を見て、形容しがたい気分を味わっていた。
「真美ちゃん、ほら」
「……えっと、梢さま?」
「三奈子を見てごらんなさい」
「あ」
 なんだというのか。三奈子を見ると、梢がやけに楽しそうに微笑んだ。真美は目を丸くしている。ふたりの視線が向かう先は、三奈子の顔に集中していた。
「お姉さまっ」
「三奈子、嫉妬しなくても真美ちゃんを取ったりしないから大丈夫よ」
「はい?」
「あら、自分で気づいてなかったの? こっちをあんなうらめしそうな目で見るんだもの。よっぽど真美ちゃんのことが好きなのねえ」
「えっと、梢さま」
「なにかしら真美ちゃん。ああ、そう言われちゃうとやっぱり恥ずかしいのかしら? とっても初々しいのね。うぅん、そんなところも三奈子と似てるわね。そう思わない?」
「そういうことではなく」
「三奈子は素直じゃないから、あまり口に出して言わないかもしれないけれど――大丈夫よ。ちゃんと愛されてますからね。ほら、この顔を見れば一目瞭然」
 たじろぐ三奈子。
「いえ、そういうことでもなくてっ」
「あら、これも違った? では何かしら」
 考え込みそうになる梢に、真美がぽつりと考えを告げた。
「私ではなく、梢さまを取られると思って、なのでは」
「……」
「……」
「そういうことだったの? 三奈子」
「え、いや、聞かれましても」
「まあ」
 まあ、で梢の動きが止まった。しょぼんとした雰囲気に切り替わる。つかつかと足音を立てて近寄ってきた。梢は何も言わないで、三奈子の背後に回った。
 ポニーテールを触られ、三奈子はされるがまま言葉を待つしかなかった。
「……じゃあ、私のこと嫌いなのかしら?」
「いいえ、嫌いなわけが」
 微笑まれた。何かたくらんでいそうな笑みだった。
「良かったわ。なら真美ちゃんのこと、好き?」
「はぁ」
「好きなのよね?」
「ええと、その、妹ですから」
「そんな理由は認めませんからね。私は真美ちゃんのことを、あなたが好きかどうか聞いているのよ。ちゃんと質問に答えなさいな。それともなに? 妹じゃなければ好きじゃないから、っていう意味? まさか、そんなことは無いでしょう?」
「嫌いだったら妹になどしませんっ」
 耳元でささやかれて、悲鳴のように叫ぶ。もがいているが、三奈子は逃げられない。
「もう一声欲しいわ。こう、もうちょっとうきうきしながら声に出してくれないかしら」
「はい、真美のことは好きです! ……ああもう、これでよろしいですか、お姉さま」
 完全に姉のペースに巻き込まれているのは自覚している。だが、三奈子はこの姉に逆らえないのであった。いつの間にか部員たちの姿はどこにもなかった。巻き込まれるのが嫌だったのだろう、とようやく思い至った。
 つまり、ふたりは逃げ遅れたのだ。特に三奈子は。
 そして今更分かっても、もう遅かった。
「よろしい」
 ぽんぽん、とかるく頭を叩かれた。梢に完全に子供扱いされている。
「それでお姉さま、……今日はどういうご用で」
「三奈子の顔を見に来ようかと思って。ほら、ここのところ、あなたったら試験勉強で忙しいとかで教室に会いにも来てくれないんだもの。寂しかったのよね」
「……う、でも」
「でも、じゃないの。いい? 私が部長を引退してからこっち、三奈子といつでも一緒にいるというのはできなくなっているんだから、どちらかが積極的に行動に移さなければならないのよ。分かる? 分かるわよね? そう、分かればいいの」
「それは分かりますけれど」
 言い返せなかった。すでに気持ちで負けているのだ。
「なら話は早いじゃないの。姉と妹は仲良くしないとだめでしょ。はい、三奈子はさっさと手を出して。ほら、ここ」
「え」
「真美ちゃんも」
「梢さま」
 握らされて、握手。
「よし。ここ。仲直りはこれでよし。……いいわね?」
 顔を見合わせる。
 すでに三奈子は完膚無きまでに毒気を抜かれていたし、真美は事態が流れるままにしようと思っていたから問題はなかった。そもそも梢にはふたりとも逆らえそうになかった。
「それでいいの。ええ、ふたりとも素直で大変よろしい」
「根本的な問題が解決してませんっ」
 三奈子が噛みつく。が、次の真美の言葉で、困ったような顔になった。
「どうしてそんなにこだわるのでしょうか」
 言い返せない三奈子。
「ほらほら三奈子。もう、おやめなさい。あんまり気にしてるのは体に悪いわよ? そんなことだから、このしっぽがぴょこぴょこ揺れるのよ」
 また手を伸ばして、遊ばれそうになった。
「それは関係ないですっ」
 三奈子はなんとか逃げた。距離を取って真美を盾にすると、梢はほほをふくらませた。
「ええっ、てっきり……三奈子はこの髪型で健康状態を測っていると思っていたのに。なんて妹なのっ。私の思いやりを返しなさいっ」
「……お姉さま」
「冗談に決まってるでしょ。三奈子ったら、そんな泣きそうな顔しないの」
「してませんっ」
「ほんと、素直じゃないんだから」
「お姉さまっ!」
 真美の後ろで叫んでいる三奈子に、梢は優しい声で語りかける。
「まあ、一年前のことがあるからって、そんなに気にしなくても良いのよ」
「――っ! ……気にしてなんか、いません」
「なら……いいけど。納得がいかない?」
「いいえ」
「そうかしら。本当に?」
「はい。大丈夫ですわ」
 目を細めて、まじまじと三奈子を見ている梢。
 憮然とした表情でそっぽを向いた妹に、梢は近づいて、包み込むように抱きしめた。
「……止めてもらえて良かったわね」
「お、お姉さま!」
 顔を真っ赤にして抜け出そうとする。
「ふふふ」
「ああもう、私、ちょっと取材に行って来ますからっ。どうぞ真美とごゆっくり!」
 怒ったように見えるが、その実、拗ねた声だった。梢から離れた三奈子は、乱暴にドアを開いた。慌てながら廊下へと出ていく。ドアの向こう側で乱れた足音が遠ざかっていった。
「行ってらっしゃい」
「あ、お姉さま、行ってらっしゃいませ」
 開け放たれたドアが、ゆっくりと閉まった。大きな音がした。
 戻ってくる様子は無かった。
「逃げたわね」
 と、梢。
 三奈子に対してはあまり遠慮せずつっこみを入れる真美でも、三奈子のお姉さまに立ち向かうだけの勇気はなかった。そもそも反抗する理由もないわけで。
 梢とふたりきりになってしまって、何を言って良いやらと困る。
「最近、どう?」
「ロサ・ギガンティア関連の噂を記事にするかしないかで部長と私がもめている以外、特にこれといって問題もなく、おおむね普通です」
「分かりやすい返答、ありがとう」
「でも、お姉さまがまだ諦めてらっしゃらないような気が」
「ううん、おそらく大丈夫でしょうね。三奈子も記事にしない方がいいってことは自分で理解しているはずだから。少し、昔のことがあるから意地を張っているだけなのよ」
「昔のこと?」
 真美の訝しげな表情には反応せず、梢は別の話題を振った。
「……ところで次の部長は、やっぱり真美ちゃんかしら」
「おそらく、そうです」
「即答ね」
「いえ、誰もやりたがっていないようなので。順当にいけば私みたいです」
「あらあら。まあ、真美ちゃんが一番似合ってるような気はするわねー」
「そんなことは」
「あるわよ。三奈子みたいに強引じゃないし、今すぐ変わっても大丈夫じゃない?」
「お姉さまは、まあ、確かに強引ですけど」
「否定しないのね」
「だって強引ですし」
「……ふうん」
 表情を見て、何やら思案する梢。
「真美ちゃんって、わりとミーハーだったりする?」
「ミーハーかどうかは、よく分かりませんけど」
「言い方が悪かったわね。何かに惚れ込むタイプじゃないかしら?」
「ええと」
「具体的に言うと、ある一定のものに対して憧れを持っているのに、素直に接することができないような」
「それって、すごく抽象的です」
「でも、私の言いたいことは分かったんでしょう」
「多少は」
 感心したようにうなずいた。
「意外。三奈子のこと、尊敬してたりするんだ」
「尊敬とは少し違いますけど……分かります?」
「これでも三奈子のお姉さまですから」
 にやり。
「本人はまったく気づいてないと思うわよ」
「できれば」
「言わないわよ。安心して」
 これまでは梢が三奈子の手綱を握っていたから、あまり問題起きなかったのだろうな、と真美は思った。
「うん。分かるわよ」
「梢さまも?」
「きっと、自分に無い部分を持っている人間に対して、無条件で惹かれるようなものなのでしょうね」
「でも、私たちの場合は、そういうのじゃなくて――」
 真美の言葉の後半を、梢が引き継いだ。
「――でも、姉妹になったじゃない。もしかしたら三奈子より、むしろ私と似ているのかもしれないわね」
「はあ」
「他の姉妹とは自分たちが何か違うって思ってる?」
「少しは」
「まあ、みんな千差万別。いろいろな関係があるから一概にはいえないものよ。山百合会の連中……もとい、方々なんか極端もいいところよね。だから面白いのだけど」
「あの方たちのも、素敵な関係だと思いますけど」
「ふふっ、別に否定してるんじゃないわよ。ああいうのを見ていると、自分たちみたいなのもアリなんだって思わない?」
「まあ」
「……さっきの話、気になる?」
「無論です。気にならないわけがないじゃないですか」
「そう。じゃあ、話してあげましょうか」
「よろしいんですか?」
「次期部長にも聞いてもらおうかと思って」
 そんなふうにいって、笑った。
 優しげに、口を開く。
「たしか一年ほど前のことよ。ロサ・ギガンティアが髪を切るその少し前……聖さんがブゥトンだったときに、三奈子がひとつ、記事を書こうとしてね」
「はあ」
「いろいろあって、それを書くか書かないかで喧嘩したのよ」
「三奈子さまと梢さまが、ですか」
「そ」
「どうして」
 梢は、長い髪をかきあげて、うーん、と考え込んだ。どう言って良いのか迷っている。真美は顔を伏せた梢が話し始めるのをじっと待っていた。
 しばらくすると、梢は真美の顔を見つめた。
「――ひとが苦しんでいることを、書いてしまうことがいいのか悪いのか。……読者がどんなに知りたくても、書いちゃいけないことってあるじゃない? そういうことを書こうとしていた三奈子を叱りとばしちゃったのよ」
「はい」
「そのとき、読者が求めたものは分かっていたわ。噂は噂以上のものではなかったし、内情を知っているひとは、みんな黙っていたから。新聞部も多少は分かってはいたけれど、そのときメインで記事を担当していた三奈子には書かせなかった」
「書かせなかった、って」
「部長だった私が止めたのよ。誰かが傷つくと分かっていて書くべきではないと判断したわ。少なくとも、読者のために記事を書くのであればね」
「……読者が求めていても?」
「だって、うちの新聞部はリリアンのみんなのために、リリアンかわら版を発行してるのだから。傷つけることが分かっていて、それを広めるような真似はしてはいけない。でしょう?」
「はい」
 ついと遠い目をした。
 梢は、細い腕を近くの机に伸ばす。指先で表面に付いた小さな傷に触れた。
 落書きだろうか、真美からは遠くてはっきりとしないが、傷は数個の文字が刻み込まれたもののようだった。
「この言葉、私が一年生だったときにはもうあったから、最初に刻みこまれたのはそれより前になるわね。新聞部もけっこう歴史が長いみたい。机に文字を彫り込むみたいな、お茶目な人間がいても別におかしくはないし。こういうのって、普通の学校みたくていいわよね。リリアンじゃ、あんまり机に落書きする子っていないじゃない?」
「そういうものでしょうか」
「そういうものです。真美ちゃんも、そのうちやっちゃいなさい。きっと良い思い出になるわよ。バレなければの話だけど」
「バレたら怒られるじゃないですか」
「元部長が許可するからいいのいいの。……まあ、冗談はこのくらいにして。それでね、私が三奈子を叱ったときのことなんだけれど――」


 ――三奈子は、梢を呆然と見上げていた。
 思えば、それが梢が三奈子を叱りつけた最初で最後のことだった。いつだって梢は優しくて、三奈子はそれに甘えていたから。
 だから放心して、視線が定まらなかったのだ。信じられない、と。
 あまりのことに三奈子は息をすることすら忘れて、ひたすら目の前の梢を見ていた。見つめ返してくる瞳は、責めているようには思えない。しかし、梢の強い視線は変わりなく三奈子を突き刺していた。
 不意に、三奈子の目から涙がこぼれた。
 いつのまにかあふれ出して、知らないうちに頬を濡らした。
 ふたりで黙ったまま、見つめ合っていた。
 三奈子は泣いていたから、梢の顔が歪んで見えて、なぜか微笑みながらも、梢までが泣いているように思えた。
 梢と三奈子の他には、誰の姿もない。あたりはひどく静かだった。もう校舎に人は残っていないだろう。部室の窓から覗ける景色はやけに薄暗く、寂しかった。
 梢がゆっくりと口を開いた。
 悲しげに、辛そうに、震える声を隠そうともせず、ただ真摯な瞳で。
「新聞部の人間はね、全員がひとつの目的のために戦う仲間なの。リリアンのみんなを喜ばせるために、楽しんでもらうために、真実を書くの。だから力を惜しまずにがんばれるんでしょう? 違う? ねえ、聞かせて。あなたは何のために記事を書いているの? あなたは、これまで、何のために記事を書いてきたの?」
「……それは読者のためで、みんなが、求めているもの……を」
 鳴き声混じりの、途切れ途切れの三奈子の言葉。
「なら、誰も求めないものは書かないの? たとえば読者が望まないものが、真実だったとしたら――あなたは何も考えずに嘘を書くの? 嘘を書いて、三奈子は満足なの?」
「……でもっ、じゃあ……じゃあ、どうしたらよろしいんですか……」
「それはあなたが考えなさい。私たちは、新聞部のみんなは、あなたを信頼してる」
 三奈子は目を伏せた。
「部長は、私が間違っていると……?」
「いいえ」
 息を呑んで、顔を上げて、三奈子は声を出した。
「ならっ」
「でもね三奈子、他人が立ち入るべきでないことも確かにあるでしょう? 記者は、常に自分の良心に問いかけていないと、いつか必ず誰かを傷つけてしまう。そんな立場なのよ。読者のためだというのなら、読者に喜んでもらうことは、決して言い訳にはしてはいけないの」
「わ、私は……」
「そうやって間違えないように、そして止めるために私たちはいるのよ。ひとりで何かをやるほど難しいことはないわ。どんな人間でもひとりでは辛いから。どれほど完璧な人間でも、ひとりでは魔が差すこともあるから。でもね――」
 三奈子を抱きしめて、優しく、伝えた。
 手を握りしめてあげると、求めるように力がこもった。
 ゆっくりと、手のひらを開かせて、ロザリオを渡す。
「――誰かが支えてくれれば、一緒にいれば、そして助け合っていったなら、どんなことでもできるのよ。姉妹になりましょう? 私は、あなたを妹にしたい」
「梢さま……」
「違うでしょう? さあ、言ってごらんなさい」
「お姉さま……お姉さまぁっ――」


「――とまあ、こんなことがあったわけね」
「……あの三奈子さまが」
「驚いた? ねえ、驚いたでしょ?」
「そんな楽しげに聞かれると返答に困ります」
「ま、けっこう意地っ張りな子だものね。泣いてるところなんてそのとき初めてみちゃったんだけど、それがもう可愛いったら。つい、ロザリオ渡しちゃったわよ」
「……つい、で渡されたんですか」
「私も、それまでは妹なんて持たないとばかり思っていたのよねえ。でも、これは、って思う相手を見つけちゃったから」
「……それで、仲間?」
「そ。後ろからついてくるんじゃなくて、一緒に横を歩ける仲間。そもそも、妹にするにしたって、三奈子は我が強いから大変だったのよ。手が掛かるのなんのって」
「分かります」
「やっぱり分かる?」
「心底痛感してます」
 梢は声をあげて笑った。しかし手を握りしめ、でも、と頭を振った。
「でも――そこが可愛いのよ」
 力説された。真美は頷くわけにもいかず、次の言葉を待った。
「あの子、よく無茶もするけど、根はいい子だから……」
「それは、よく知ってます」
「それならいいの。真美ちゃん、三奈子が暴走しそうになったら徹底的に、ね」
 微笑みながら、そんなことを言われてしまう。なんだかんだいって、さすが新聞部の元部長らしい迫力だった。よく、分かっている。
「ああ、そうそう」
 振り返れば、当たり前のことを言うような笑顔があった。
 なんでもない言い方で、うっかり聞き流してしまいそうなくらいに気楽な声。
「真美ちゃんって、なんだかんだいって三奈子と似てるのよね。あの子が一年生のときも、そんなふうに悩んでたから」
「は」
 予想外の言葉で、驚いた。
「んー、なんていえばいいのかしら。何か求めているものに対して、自信や、冷静だとか、打算だとか、そういうのをなんにも考えなかったら、あなた達に残るのは結局は情熱なのよ。他に理由なんていらなくて、ただ手探りで不器用に動いてるみたいな感じよね。三奈子と真美ちゃんは、根っこの部分が似ているのよ」
「それは」
「でも、似てるってことは違うということなんだものね。ふたりは違うから、三奈子が簡単に乗り越えられたことが、真美ちゃんには難しくて。でも真美ちゃんがまるで悩みもしないことで、三奈子はつまづくのかもしれない。まあ、惹かれ合って繋がった姉妹って、わりとそういうところがあるんだけど。三奈子って、周りから見られているほど強くはないから」
「否定はできないです」
 真美は肯定したくなかったから、こんな言い方になった。梢は満足げに笑った。
「素直なお返事、たいへんよろしい。真美ちゃんの方が三奈子より強いわよね。きっと」
「いえ。お姉さまの方が強いと思います」
「ふふ。あの子の場合は、融通が利かないっていうの」
「……融通?」
「そ。強引さのわりに、上手くことを運べない」
「確かに」
 そう考えれば、その通りではあった。
「真美ちゃんは融通が利くから、あんな無茶はしないでしょうけれど」
「それも、そうですけれど」
「ときには、器用なだけじゃダメなこともある」
 梢の穏やかな声は、それゆえに鋭く胸に突き刺さった。それはひどく残酷な言葉だった。聞きたくなんてなかった。けれど真美は、大人しく耳を傾けざるを得ない。分かっているのだ。気づいているのだ。三奈子と真美の距離が、いつまでも平行線をたどるまま、まるで近づいていない理由など。
 どちらも、最初に定めた線を越えては踏み越えようとしない。踏み込めない。新聞部の部長と、その戦力という関係性は、未だに有効だった。
 ノイズが真美の思考をかき乱した。
「どんなに言葉を尽くしても、伝わらないことってあるでしょう? でも、言葉にしなくたって伝わることもあるのよね。三奈子は誤解されやすいけれど、あの子の書く記事って、ちゃんと読めば読者のために努力していることは、きっと誰かに分かってもらえる。真美ちゃんが分かってくれたみたいにね」
「私は、でも」
 確かに、最初に三奈子の書いた記事を読んだとき、これが求めているものなのだ――真美はそう思った。三奈子と出会ったとき、言葉を交わして、勧誘されて、部室に行って。
 そして、求められていると思った。それだけで初めは満足だった。
 求めること。求められること。互いに何を考えているかなんて、分からない。誰も他人の思考など覗けない。
 ならば、何のために真美はいるのだ。三奈子の傍に居る理由は、真美にあるのか。
 あの情熱に、真美の存在はは必要だろうか?
 何分か前に梢の発した言葉は、ごく僅かだが間違っている。真美は三奈子より強いわけではない。思い悩む内容を誰かにはき出すような人間ではないから、他人には分からないだけなのだ。
 三奈子以上に、孤独に耐えられない。
 隙の無さはそれを隠すためのものだった。三奈子は真美のことで悩んだりはしない。しかし真美は三奈子のことで考え込む。
 その事実を、梢は知らない。
 三奈子にロザリオを渡されたとき、真美はただ嬉しかった。そして真美が強くなろうと思った瞬間でもあった。
 真美は、三奈子のようになりたかった。三奈子の記事を読んで、このひとを越えたいと考えた。そのときに生まれたたった一本の線は、未だ、真美と三奈子の間に横たわったままだ。踏み越えることは本当に容易いというのに、真美は翻弄され続けている。
 何のために。
 答えのでない問いかけに煩悶する真美を見透かすように、梢は告げる。 
「情熱が誰かを傷つけてしまうこともあるから、それを止めるために仲間がいるのよ。三奈子はワガママだから、そういうのが顕著なのよ」
「情熱、ですか」
「想いって言い換えてもいいかもしれない。想いは自分の内側ではなくて、外側の何か、誰かに向かうものだから。記事に想いを込めれば、それは強い意志で作られることになる。でも、やっぱり記事が人に見せるものである以上、誰かに影響を与えるものなのよね」
「はい」
「それを、私たちはときどき忘れてしまいそうになる。相手がいることを意識していれば決して書くべきではないことだって、何かの拍子に書いてしまうかもしれないわ。昔、三奈子がやろうとしたことみたいに」
 真美は、疑問を口に出した。
 ずっと感じていたことだったが、問うためには勇気が必要だった。
「お姉さまは、周りに誰もいないように感じていた、と?」
「そういう感覚が希薄なのかもしれないわね。私が止めなかったら、きっとあのときだって三奈子は書いていたでしょうから」
 梢の答えで、真美はひとつの手がかりを掴んだ気がした。
 三奈子が求めていることは、真美が求めているものとは違うものなのだ。互い違いのパズルのピースのように、違うからこそ意味がある。
 真美の表情に、梢はさらに続けた。
 グラン・スールとして、一番下の妹へと何かを託すかの如く。
「たとえば、真実ってものは見方で変わることもあるのよね」
「そうでしょうか」
「そうよ。事実はひとつかもしれないけれど、ひとのこころなんてものはころころ変わるものだし、測るための基準なんてないんだから。プラスにとるか、マイナスにとるか、強いか弱いかで見え方も違ってくる、それくらいの違いしかないの」
「記事は、事実を書くことが基本だと思います」
「でも面白くするために脚色することはあるわ。問題にならないなら、いくら虚構が混ざっていたところでかまわない――とまで言わないけどね」
 梢は、あえてそう言ったのだ。三奈子のやったことを指しているのだと分かってしまって、真美からは、かばうような言葉も出せない。
 間違いは、間違いとして指摘しなければならなくて。そして、受け入れるだけが優しさではなかった。
「何かあったら、支えてあげて」
「はい」
「前だけ見てるぶん、三奈子は足踏み外しやすいから。何かしでかすかも知れない。そのときどうするかは、あなた次第よ」
「はい」
 真美の返事を聞き届けると、たおやかに振り返り、梢は部室から出ていった。
 室内に残った静寂に、真美は黙考する。
 無音のさなか、優しさだけが、残り香のように漂っていた。



 三奈子は記事に出来なかったことが悔しかったが、それ以上に安堵もした。
 梢の言うとおり、確かに真美が止めてくれて助かった。あのまま記事にしてしまいたい欲求があったからだ。
 それから、この件については、真美は何も言ってこなかった。結果的に文句を言われることは出来なかったから当然なのだが、しつこく追求してくるかと思っていたので三奈子としては拍子抜けだ。変わりなく接してくる真美に対し、三奈子も特に攻撃的になったりはしない。つまりはいつも通りの会話を交わすに留まったのである。
 他の部員たちが担当分を仕上げたので、三奈子ひとりで残ってチェック作業を進めていた。これが終わったら早く帰るつもりだった。
 窓の外は、風がびゅうびゅうと吹きすさんでいる。寒そうなことこの上ない。嘆息して、手早く明日印刷できるものと修正が必要なものを分けていく。
 一段落したところで、思いも掛けない人物が新聞部の戸を叩いた。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう。新聞部になんのごよ――」
 何のご用でしょうか、と聞きかけて硬直する。
「――って、あ、あの。シスター・上村、何か」
「あら、あなたは築山三奈子さんね。用も無いのに訪ねてはいけないのかしら」
「そんなことはありませんけど……」
 目の前にした学園長に、内心、びくびくしていたりする三奈子。何かやってしまっただろうか。記憶にある限り、最近は問題になりそうなことはやっていない。やっていないはず。やっていないと思う、のだが。
 学園長の出方を窺う。余計なことを言ってしまわないように気を付けないと。
「そんなにおびえなくても、たいしたことじゃないから大丈夫ですよ。ただ、コスモス文庫を出している宮廷社の電話番号を、あなたならお知りではないかと思いまして」
「いばらの森の件、ですか?」
「そのとおりです」
「電話番号ですね……あの、いまその本はお持ちでしょうか」
「はい、一応。買ってきていただいたものですけど」
「それでは、ええと、このあたりに編集部への連絡先が載っていたかと」
 本を借りて、ぱらぱらとめくる。目当てのページを見つけると、開いたまま学園長へと差し出した。
「……ああ、本当ですね。わたくしったら、こんなところにあったのも気づかなかったなんて……これは失礼しました。お手数おかけしてすみませんね、三奈子さん」
 何のために、そんなことを聞いたのか。三奈子の頭の中で想像がぐるぐると渦を巻いて、ひとつの結論をはじき出した。
「あの、失礼ながらお聞きしてもよろしいでしょうか」
「ええ、かまいませんよ」
「これを書いた人物に何かお心当たりでも?」
「そうですね。まあ、それをいまから確かめてみようかと思っているんですよ」
 懐かしむように、語った。
「それでは、三奈子さん、ごきげんよう」
「あ、はい。ごきげんよう」
 シスター・上村は柔和な笑みを浮かべて、ドアから静かに出ていった。その後ろ姿を見送る三奈子。そして、あっ、と気づいた。
 それは数日後、祐巳が気づくことと同じことだったけれど。今はまだ誰も知らない、いばらの森の、登場人物たちの未来。
 茨が守った小さな蕾が、いつしか大きな花を咲かせたような、奇蹟とすら思える出来事。
 しかし、三奈子はそのことを記事にすることはなかった。





5、虚構の剣、真実の声

「――というわけで、黄薔薇さまの恋は現在もつつがなく進行中である。我がリリアン女学園高等部の学校新聞『リリアンかわら版』はこの号外にて、前号掲載の小説『イエローローズ』における騒動の顛末を記すものである」
 ひとつのスクープがあった。三年生たちはもうすぐ卒業を控え、日々を和やかに、あるいは慌ただしく過ごしているころ。ロサ・カニーナの事件では、蟹名静嬢に衆目のほとんどを完璧に奪われたと言って良い。話題の中心の座を持って行かれたのだ。ヴァレンタイン企画はかなり盛り上がったが、新聞部としてはまだ不満が残る。追跡取材もそれなり、といったところだった。
 つまり、このころは派手な出来事がまるで無かったのである。
 そんなときに手に入れた情報から派生したこの騒動。
 それが事実なのか、それとも何らかの見間違いなのか。部員たちと三奈子が、数個の目撃情報を得て、なんとか組み立てた推理により、ひとつの小説が制作された。
 執筆者は築山三奈子。この小説、イエローローズは、見事リリアンかわら版に掲載される運びとなった。噂は噂を呼び、話題はリリアン女学園高等部の噂を一息で塗り替えた。
 真美は小説を書くことに反対したが、それを三奈子は押し切ったのだった。
 その結末がこれだった。三奈子の目論見は、完全に失敗したのである。
「……とまあ、こんな感じでよろしいでしょうか。お姉さま、チェックだけお願いします」
 三奈子の手によって書かれた小説の経緯と、ことの顛末、更に読者へのお詫びを加えたものを、たったいま真美が書き終えたところだ。
 小説イエローローズではないが、ドキュメンタリー風にしてあるのは、三奈子が前回やってしまったことをうち消すために気を遣ってくれたのだ――などと、三奈子自身が思ってしまったのは、真美に対していささか幻想を抱きすぎているのだろうか。
 三奈子はこの号外に関わるわけにはいかなかった。
 ロサ・フェティダこと、鳥居江利子が夜間に兄弟とデートしていたことから、学園長室でプロポーズするに至るまで。三奈子が書いた記事もどきからは、かけ離れた結果だった。推測と事実は、まるで違うものだったのだから。
「――いいと思うわ。真美、お疲れさま」
 ひどく落ち込んだ声だった。それはそうだろう。部長権限で押し通した結果が、あんなことになったのだ。
 三奈子でなくとも、打ちのめされるのは当然のことだった。そもそも三奈子以外、誰もあのようなことはやらないとはいえ。
 憶測で記事は書いてはならない。それは、原則だ。この原則が守られていない記事には、真実は期待できないのだ。
 だから、と小説という手段を使った三奈子に生まれたのは満足感などではなく、苦々しい後悔の念だった。結局、何事もなかったから良かったようなものの、あのまま学園側がデートクラブ云々といった内容と信じ込んでしまったなら。
 事態が大きくなった際は興奮で薄れていた罪悪感。事実を突きつけられた今になって、鎌首をもたげ、三奈子に巻き付いて、きつく締め付ける。三奈子にしたって、何もロサ・フェティダに迷惑をかけたかったわけではないのだ。しかし面白おかしく囃し立てることを、無責任な手段で、自分勝手な考えで、極めて性質の悪い心根で行った。三奈子の心情がどうあれ、その事実が変わるわけではなかった。
 ペンは剣より強いと言われるほどに、その影響力は強いのだ。そもそも読者を騙したようなものだ。それに気づいた三奈子は、自分で自分を責めていた。
 止められなかった? ――いいや、自分が正しいと思っていたから。
 何のために? ――読者のために。
 それは、本当だろうか? ――その答えは出てこなかった。
「正しければいいってもんじゃないって、分かってたのに」
「お姉さま」
「読者のせいにしちゃ、いけなかったのに」
 なんという傲慢さだろう。自分が情けなかった。泣きたいほど、嫌になった。黄薔薇革命のときとはわけが違う。やってしまったことも、それに対しての気持ちも。
 三奈子は、自分から騙そうとしたのだ。
 憶測でしかないと分かった上で、それが正しいと確証もないのに信じ込んで、欺くために小説として書いたのだ。誰かが傷つくかなど考えもせずに。読者を偽ったのだ。
 なんのためにスクープを追い求めていたのだろう。真実を読者に提供して喜んで貰うためではないか。自ら今までの努力を全て否定するような行為を、やってしまったのだ。
 なんて愚かなことを。少し考えれば分かることなのに。あまりに馬鹿馬鹿しいく、笑いすら零れてきそうだった。三奈子が今までやってきたことのツケが、こうして巡り巡って回ってきただけのことだ。何もかも自業自得なのだ。
 みんなは止めてくれていたのに。ちゃんと、制止してくれたのに。真美だって、こんな記事にするべきではないと忠告してくれていたのに。
 誰のせいでもない。すべて三奈子ただひとりの責任だった。その結果がこれだ。記事のふりをしたこの小説を書いている高揚感で、部員たちの不安げな顔にもまるで気づかなかった。
 でも、そんなことは全部、言い訳なのだ。
 分かっている。
 分かっているけれど。
 書いている最中、あんなに孤独だったではないか。胸の詰まるような息苦しさで、心臓は早鐘を打つようだった。その動悸を誤魔化すために一心に文章を綴っていたのではなかったか。自分すら偽って書いていたのではないか。
 そんなことは、分かっていた。
 分かっていたのに。
「あーあ、本当、馬鹿みたいなことしちゃったわ……」
 三奈子は、自嘲せずにはいられなかった。毒の混じった声に、真美は何も言わず三奈子を見つめた。
 いつだって、三奈子は自信満々だったのだ。落ち込んだ三奈子に、部員たちは掛ける言葉など見あたらなかった。誰より責めているのが三奈子自身なのだから、誰にも、どうにもできなかった。
 行くところもなくて、三奈子は新聞部の部室でぼんやりとしていた。ただ、真美だけが寄り添うように、隣りで黙って記事を書いていた。
 窓から覗く景色は秋から冬の色へと変わっていた。空は曇っていて、青もどこかくすんで見えた。
 さきほど記事を書き終えた真美が、顔を伏せて黙り込んでいる三奈子を、じっと見つめている。きっと周りからクレームでも来ているのかもしれなくて、真美は文句のひとつも言いたいのだろう。
 周囲の人間にまで三奈子の気分が移るから止めてほしい、とか。落ち込むならさっさと家に帰るなり、外に行くなり、とにかく部室にいないでほしい、とか。しかし、三奈子の知る真美ならば、そんなことを思っているならさっさと言うはずだった。
 三奈子は自分の思考が悪い方へ、悪い方へと傾いていることに気づいた。自虐的になっている自分も気にくわなかったし、こういうときに黙っている真美に苛立ちをぶつけたくなって、なんとか自制する。そこまで落ちぶれてはいないと自分に言い聞かせて我慢する。
 そして突如、疑念が、三奈子の胸の奥の深い部分から湧きだした。ひとたび吹き出れば、その想いは、三奈子を支配するほどに強いものだった。
 今まで、自分はちゃんと読者のことを考えていただろうか? 一年前のロサ・ギガンティアの噂のときだって、梢に止められなければ同じようなことをしようとはしていなかったか? いったい何のために記事を書いている? 自分は、どんな記事が書きたかったのだ?
 いっそ他人から糾弾されるよりも鋭い、自らの内部に凝った暗い澱を見たことで生まれた自責の念。これこそは、断罪の声だった。
 消せない汚れのごとく、胸の底に溜まった濁り水。水面をのぞき込めば、映り込んだ顔は霞み、歪んでいる。告解など望むべくもなかった。
 ガラスの檻の如く、黒曜石の暗く透明な柵が、三奈子を思考の闇に閉じこめていた。
 後悔。
 みっともなく泣いてしまいたかった。ため息も漏らす気力さえ尽きていた。黙ったまま石になりたい。何もしたくない。三奈子は考えることを止めたかった。けれど、思考が止まることはなかった。
 今の自分は、どれほどひどい顔をしているのか。鏡を見たくないほど、悲惨なことになっていることだろう。きっと、ブサイクなことこの上ないに違いなかった。
 よろめきながら立ち上がって、三奈子は短く告げた。リリアンかわら版を、早いうちに届けなければならない。
「薔薇の館に行ってくるわ。これでいいかどうか聞いてくる。よければすぐにプリントアウトするかから、真美、できれば用意しておいてくれる?」
「……はい」
 声が沈んでいる、と三奈子は思った。果たして三奈子と真美の、どちらがより悲壮な声だったのか。それすらもよく分からなかったけれど。
 ただ、靄がかった目の前の暗さだけが、三奈子の憂鬱を映し出している。


 ドアを抜ければ、三奈子はひとりっきりになる。
 眩暈がした。
 足下が揺れていた。こんなにも落ち込んだのは、たぶん初めてのことだった。大スクープを取り逃がしたときの悔しさとも、単なる取材ミスで記事がガタガタになった情けなさとも違う、最悪の気分。
 空気の冷たさが不快だ。時間が胸の痛みを加速させていく。
 身動きするたび、喉から溢れそうになる苛立ち。
 何がどう悪かったのか。明確に分かっていることがひとつの救いであり、より一層自分を責めたくなる理由でもあった。
 孤独に押しつぶされそうだった。クラブハウスの入り口を抜け、ふらつく足を真っ直ぐに薔薇の館へと向ける。動きが鈍かった。足が鉛で出来ているような、という形容が当てはまる重さ。
 際限なく暗い感情が積もっていく。わけもなく叫びたくなる。振り返っても、整然とそびえ立ったクラブハウスは崩れたりしないし、三奈子の過去が消えることもありえなかった。
 校舎の隣りを歩いて、昼休みを楽しげに過ごす生徒たちの声を聞く。下を向いたまま進んでいった。顔を上げる気にはならなかった。前を見ることすら面倒だった。
 どれほど歩いただろうか。気が重い。ずっしりと背中から押しつけられているようだ。まだ着かないのか、と三奈子は思ったが、時間にしたら十分も歩いていなかった。
 いつもは気が付けば知らないうちに到着しているほど近い距離のはず。館までの距離が、やけに遠かった。ふと気づくと、真っ直ぐ歩いていたつもりが、歪んだ曲線を描いている。真美の書いた原稿のコピーを手にしたままで、校門の方向へと逸れていたのだ。
 いっそこのまま出ていってしまおうか。
 三奈子が思いついた瞬間、靄が広がっていた視界の足下だけが、急激にぱぁっとクリアになった。わざわざそこだけが選ばれたように、目に入る。
 上履きを履いたままでは、帰ってしまうこともできない。
 みじめ過ぎる。
 顔を上げた。マリア像がいつも通りにそこにあった。穏やかな顔をした聖母に見つめられているうち、三奈子は顔を背けそうになって、こらえた。
 祈る。たとえ届かなくとも。三奈子は目を瞑り、静かに祈った。リリアンに通う全ての人間が敬虔であるとは言い難いが、それでも皆、毎朝しっかりと手を合わせている。無論、三奈子も例外ではない。この行為で赦されるなどとは思わないが、それでも優しく見守られているという感覚は、形の無い不安を少し軽くしてくれた。
 これほど熱心に祈ったことは初めてかも知れない。
 祈るのを止めた。前を見て、薔薇の館へと足を向ける。
 しっかりと目的地を見据えて歩けば、あっという間に着いてしまう。きっと、たどり着くことを避けていたのだ。三奈子は自分を鼓舞しようとしたが、盛り上がるような言葉が頭の中からは、すんなり出てこなかった。
 扉の前で立ちすくむ。恐れることなどない。そんなことは分かっているけれど。
 二階の人影を見上げたまま、三奈子は動けなくなった。普段なら理由がありさえすれば、堂々と入り込んでいる場所だというのに。
 三奈子は、館の前でうろうろとさまよっていた。躊躇しては決死の表情になって、扉の前に立っては離れて。そんな間抜けなことを何度か繰り返して、立ち止まる。
 息を吸い込んだ。
「ご、ごめんください」
 ようやく言葉が出た。張り上げるつもりだったのに、出たのは弱々しい声だった。
 扉が内側から開かれる直前だったから、聞こえたのかどうかはよく分からない。出てきたのは祐巳だった。
 おや、という顔になってから、祐巳の笑みが正しく向けられた。
 三奈子はどもった。普段の不遜は見る影もない。
「こ、これをロサ・フェティダに見ていただきたくて、持ってきたのだけれど」
「あ……はい。リリアンかわら版の号外ですね」
「第一稿だけど、これでよろしければそのままプリントアウトするわ。よろしいかどうか、伺っていただける?」
「分かりました。ロサ・フェティダに伝えておきます」
「よろしくお願いします……あ、祐巳さん」
「え。あ、なんでしょうか、三奈子さま」
「山百合会の方々に、ご迷惑おかけしました。ごめんなさい。それじゃっ――」
 頭を下げて、三奈子は逃げるように背中を向けた。
 原稿を受け取った祐巳の視線は決して責めるものではなかったけれど、でも、だからこそ逆に三奈子には辛かったのだ。
「あの、ごきげんよう」
 背中に掛かった祐巳の声に、三奈子は逡巡して、振り返った。
「……ごきげんよう」
 それだけ告げて、祐巳の顔も見ず、部室に戻るために歩き出した。
 今から部室に行っても、すぐ昼休みは終わってしまうだろう。もう真美があそこにいる必要はない。だとしても、三奈子は部室へと向かった。
 道のりは来たときと同じ。原稿を渡したことで、微妙に気が楽になったのか、三奈子の時間の感覚は元に戻っていた。苦しさは、いとも簡単に増殖していく。
 忘却も出来そうにない。 
 あっという間に着いた。足早に玄関口から中へと。
 薔薇の館のような古さとは違うが、クラブハウスの建物にも年月を経て作られた色というものがある。コンクリートに覆われた外見に比べ、内部は意外にも人間味に溢れているのだ。クラブごと荷物が廊下に飛び出ていたり、連絡用の掲示板が大量にあったりする。部室周辺となると特徴がはっきり分かれていて、場所によっては一目で活動内容が分かる場所も多い。
 過去の新聞部は、常時、雑多な荷物に埋もれている部室だった。紙束や機材、没原稿を投げ捨てた際にゴミ箱に入り損ねた紙屑の山など、数え上げればきりがない。真美が入部してからは、整理整頓が週に数回、確実に実行されていた。
 現在は、以前とは比べ物にならないほど綺麗な室内である。
 今、戻ってきた三奈子がドアを開き、部室に足を踏み入れると、室内の雰囲気に戸惑った。最初に感じたのは一抹の寂しさだった。
 真美はもう帰った。当たり前だ。昼休みもそろそろ終わるうえに、三奈子が戻ってくるかどうかも分からない。それで待っていてくれるなどと思うほうがおかしい。整然と並べられた書類や原稿の白さが、どこか冷たかった。人間がいない部屋から音などするわけもなく、三奈子の周囲で空気だけが揺らいでいる。
 空に雲があったとしても、昼である以上はそれなりに明るい。窓から差し込んだ薄い光が三奈子の視界を広げた。
 誰もいない部室なんて見慣れていた。三奈子は部長なのだ。誰よりも先にこの部屋に来ることが多い。全員が帰ったあとに一人きりで残ることだってよくある。取り残されたような感覚など、今まで受けたことの無かった場所だ。静かで、誰もいないだけの部室なのだ。
 それなのに。
 ここで一人で立ったまま、呆然としてしまった。
 誰もいない。ただそれだけのことを意識した途端、寂しさは膨れあがった。
 三奈子は、見捨てられたような気分でいた。もの悲しさが部屋には漂っていた。単に部員はお昼休みを堪能しているだけで、真美だって普通に作業を終えて教室に戻っただけだ。それだけのことだ。……ただ、それだけのことなのに。
 別の階にある部室だろうか。遠くの喧噪が風に乗って、三奈子の耳に届いた。とても楽しそうな騒がしさと、はしゃいでいる声だった。
 なのに、三奈子は泣いてしまいそうになる。言いようのない不安にくじけてしまいそうだった。自分はこんなに弱かっただろうか。自問しても、答えは出そうにない。こんな負け犬みたいな自分は知らない。
 三奈子は自分の机の前で座った。机の上には何も乗っていなかった。壁に掛かった時計を見上げた。あと十分ほどで昼休みは終わる。教室に戻るのも億劫だった。
(いっそのこと、さぼっちゃおうかな……)
 何もやる気がない。三奈子がほおづえで机に肘をつけた。それから気怠げに、腕に顔を埋めた。背後で音がしたような気がしたが、きっと空耳だろう。
「お姉さま、帰ってらっしゃったんですか」
「え」
 慌てて体を起こすと、そこには真美の姿があった。三奈子は、自分がドアを閉めていなかったことにここで初めて気がついた。
「……ま、真美? どうして」
「どうしてと言われても困りますけど」
 腰に左手を当てて、右手はあごに。ふーむと考える素振り。
「待っていれば、お姉さまが戻ってくるかな、って」
「でも、今までどこにいたのよ」
「……おトイレに」
 一瞬、沈黙する。
「そ、そうだったの」
「はい。それでどうでした?」
「何が」
「ロサ・フェティダには許可いただけました?」
 今思い出したかのような口調に、三奈子も同じテンポで返した。
「薔薇の館にいなかったけど、放課後に読んでもらえると思うわ。早ければ明日中には返事をもらえるでしょうね」
「分かりました。じゃあ、そろそろ教室に戻りませんか? あと五分ほどで授業が始まってしまいますし」
「……ええ」
「お姉さま」
 三奈子の様子に腹が据えかねたのか。真美がじっと睨んできた。
 ため息を一つ、大きく吐かれた。
 呆れられているようだった。
「……ね、真美」
「なんですか」
「私、引退しようかしら」
 三奈子は、さきほどまで頭の隅で考えていたことを口にしていた。
「……は?」
 予想外の言葉だったのだろう。真美はぽかんと口を開けて、まじまじと三奈子を見つめていた。
「新聞部の部長、真美に明け渡そうかな、とか思ってるのよね」
「ちょ、ちょっと待ってくださいっ」
 真美が激しく動揺したのを見て、三奈子は暗い興奮を覚えていた。いつか真美を驚かせてみたいとずっと思っていたが、こんな形になってしまうなんて。自分自身にも呆れながら、三奈子は小さく嘆息をこぼした。
 それでも、言葉は止まらなかった。
「ほら、今回の……いろいろと迷惑かけちゃったから、責任を取るみたいな意味合いで」
「お姉さま」
 落ち着きを取り戻し始めた真美は、冷たい視線を投げかけてきた。
「いいのよ。真美。馬鹿な姉だと笑ってやってちょうだい」
「自虐は似合いません」
「真美も、そのほうがいいでしょう?」
「……もう、時間です」
 時計を指さした。
「お姉さま、放課後、時間をいただけますか」
「どういう意味」
「私につきあってください。平たく言うと、デートしてください」
「……な」
 絶句。
「私たち、姉妹になってから、そんなことをまともにした覚えが一度もありませんし、良い機会ですから。校門で待ち合わせましょう。ちゃんと来てくださいね」
 早口に言って、部室から出ていった。
 走らなければ授業の開始に遅れる時間だ。いや、走っても間に合わないかもしれない。
「……真美」
 ひとりきりで取り残された部室は、さきほどよりも広く感じた。
 今度こそ、三奈子は本当に孤独だった。
 寂しさではなく、悲しさがわき上がった。
 取り返しのつかないことをやってしまったのだと、三奈子は思った。真美は諦めたのだろうか。見損なったのだろうか。この情けない、どうしようもなく愚かな姉を。
(――とうとう見捨てられて、ロザリオを突き返される、とか)
 最後に姉妹らしいことをして、それを思い出にするつもりかもしれない。
 そんな言葉が不意に思いついた。頭の中で渦を巻く想像は、こびりついてしばらく消えそうになかった。
 お腹が鳴った。お昼ご飯を食べていなかったことに、今更に気づいた。それが切っ掛けで三奈子は我に返った。結局、全力で走ったが授業に数分ほど遅れた。真美が間に合ったのかどうかは、よく分からなかった。
 午後の授業には、まったく集中できなかった。


 担当場所の掃除を終わらせ、急いで校門に向かう。
 真美はすでにそこにいた。暇そうに三奈子の来るのを待っているようだった。
 三奈子はポニーテールを揺らしながら、速度をゆるめる。制服のままなのはこの際仕方ないだろう。真美が着替えてくることを望んだなら、それくらいは了承するつもりだったが。
「ごきげんよう、お姉さま」
「ごきげんよう」
「ちゃんと来ていただけて嬉しいです」
「そう……」
 会話が止まる。真美は一歩前に踏み出した。三奈子の手を取った。
「お姉さま。まずは、喫茶店にでも行きませんか」
「別に、構わないわよ」
「では決まりですね」
「あっ」
 引っ張られて、つんのめりそうになる。真美はくすりと笑った。
「まったく、いきなり引っ張らないほしいわねっ」
「早く行きましょう?」
「はいはい」
 楽しげな真美の声に、三奈子は面食らっていた。今までこうも素直に、妹として振る舞ったことがあっただろうか。なかったかもしれないし、あったかもしれない。三奈子の記憶にある限り、無かったように思う。でも。
 これはまるで、仲の良い姉妹の姿ではないか。性に合わないったらありゃしない。
 昼休みに三奈子が考えた、最後の思い出のためのデートという予測を裏付けるような、いつもと違う真美の様子。気分は際限なく沈んでいった。
「真美、なんか楽しそうね」
「三奈子さまは、楽しくありませんか?」
 お姉さま、ではなく三奈子さま。
 別に強制しているわけではなかったが、小さな言い回しが、やけに三奈子の気に障った。真美が離れたがっているように感じてしまうのは、些か考えすぎかもしれないけれど。
 表情に浮かんだ翳り。真美は気づいたが、それには触れずに喋った。
「お姉さまって、思いこみがやたら激しいですよね」
 ぐさりと敏感になっていた胸の奥に、いきなり突き刺さった。悪気は無いのだろうが、にこやかに語られてしまって、三奈子は歯を食いしばって耐える。怒らない。怒らない。
「それは私が単純って言っている、そう思っていいのよね?」
「はい」
 即答された。さすがに腹が立った。
「良い方向にも悪い方向にも、一度思いこむと信じ切っちゃって誤解しやすいその癖、早いうちに直したほうがいいと思います」
「それは自覚してるわよ」
 不機嫌な声になっても、仕方ない。三奈子は隣りを歩く真美を横目で見た。
 三奈子は、いつの間にか喧嘩腰で話している。真美までが普段と違って挑発的だった。
「本当でしょうか?」
「ええ」
「私が楽しそうにしていると思います?」
「楽しいんじゃないの? 明るい声だし」
「もちろん」
 あはは、と真美は笑った。笑い声が聞こえなくなった。
「怒ってますよ」
 じろり、といつもの表情より険しい顔で、三奈子は睨まれた。
「楽しくしようと思っている横で悲惨な顔されてたら、誰だって嫌です」
「……う。そりゃそうだけど」
「世界の終わりが来たみたいな顔でじぃっと部室にいられても困ります」
 反論できなかった。三奈子はうつむいた。真美はさらに続ける。
 線を踏み越えようとしているという自覚があった。
 我慢ならなかったのだ。
 もう一歩近づいて、真美は三奈子の腕を取った。
「おおかた、お姉さまのことだから……『このデートで楽しく過ごしたフリして、綺麗なままの思い出ってことにして、真美は後でロザリオを私の顔面に叩きつけるに決まってるわ!』とか考えてたんじゃないですか?」
「なぜそれをっ……って、少し違うけど、ど、どうして」
「お姉さまのことくらい、分かりますよ」
 飄々と語られてしまった。
「だいたい、私がそんなに素直に見えるんですか?」
「……は?」
「お姉さまは私を甘く見すぎです」
「で、でも」
「さあ、喫茶店に入りましょう」
「真美」
「今日は一日、つきあって貰いますから。覚悟してください」
「……分かったわよ」


 外は寒く、喫茶店に入ってすぐ、真美は珈琲を、三奈子は紅茶を頼んだ。
 ただ何もせず、お喋りをして過ごしていた。
 運ばれてきた珈琲に口を付け、真美が窓に目を向ける。陽は沈み、あたりを染める夕暮れが、赤さを増していく様子が見えた。
「追跡取材なら、よく一緒に尾行してここも来たけど……」
「そういうの無しで来たのは、初めてですよね」
「まあ、そういうものだけどね」
「そういうものですか」
「そうよ。新聞部たる者、スクープ探してなんぼ。何か記事になりそうなもの見つけたら、とりあえず追いかけながら考えなきゃいけないでしょ」
「ですね」
 妙な沈黙があった。カップを傾け、三奈子が紅茶を飲む。
「ねえ、真美」
「なんですか」
「珍しく、回りくどいわね。何か言いたいことがあるなら早くいいなさいよ」
 真美がカップを持ち上げたときの、珈琲の薫りが心地よかった。緊張で乾いた喉を潤してから、おそるおそる口を開く。
「引退するって、本気ですか」
「そう、ね」
「三年生になっても、卒業するまでは部に籍を置いていても問題ないのに?」
「……記事」
「記事?」
「記事が、書ける気がしないのよ。また、同じこと繰り返しちゃいそうで」
「お姉さま」
「こんなこと初めてなのよ。だから、ちょっとね」
「……そうですか」
 それで黙った。ずずぅ、と啜る音。向かい合ったふたりは、互いに視線を下に落としていた。
 店内にいる他の客たちは、リリアンの制服を着たふたりを気にしていないようだ。
 三奈子はぼんやりと別のことを考えた。買い食いは校則で禁止されていなかっただろうか。よく、覚えていない。
 真美は深く息を吐いた。
 もどかしさがあった。手を伸ばせば届くような場所にいる三奈子。なのに声が届かない気がする。間を保たすためにカップを置いて、窓に目をやった。
 人波が流れていく。
 そのなかに、不意に、見覚えのある顔を見つけた。
「あれって……ロサ・フェティダなんじゃ」
「え」
 三奈子が息を呑んだ。慌てて真美の視線の先を追った。真美は手で指し示した。いずこかへと遠ざかっていくロサ・フェティダと、もうひとり。遠目だから確実とは言い難いが、あれは花寺の非常勤講師、山寺先生のようだった。
 立ち上がりかけて――三奈子はそのまま動けなくなった。いつもの三奈子なら、すぐさま会計をすませ、とうに店を出ていた頃だ。考える暇もなく走って追いかけていたはずだった。しかし、今は腰を浮かせた体勢で凍り付いている。
 迷っていたからだ。
 三奈子は窓から顔を逸らした。真美と視線があった。
 真美は、自分から目を合わせた。
「追いかけましょう」
「でも」
「ちゃんとした取材なら、かまわないはずです」
「……私は」
 真美は、深々とため息を吐いた。
 目を背けようとする三奈子に向かって、告げる。
 ずっと、それ以上踏み込まなかった線を、真美はとうとう越えたのだ。
 声に険しさはない。
「まったく、お姉さまらしくもない。お姉さまは、どうしたいのですか」
「あ……」
 自分は、どうしたいのか。
 三奈子には、やりたいことがあったのだ。素晴らしい新聞を作ること。リリアンの読者たちを喜ばせること。真美に勝てないと思わせるような記事を書くこと。
 何のために。
 そんなもの、決まっている。
 三奈子自身がやりたかったからだ。誰かのためと称して誰かのせいにしない。自分のためだなんて驕りもいらない。失敗のひとつやふたつでこの気持ちを止められるわけがなかった。諦めるなんて、今までやってきた全てのことが意味を失ってしまうところだった。
 間違えたことを悔やむのなら、もう間違えなければいいのだ。
 それだけのことを、なんで自分は一人で馬鹿みたいに考え込んでいたのだろう。
 答えは、こんなにも近くにあったというのに。
「私は、いつだってお姉さまの味方です。さあ、いつまでもぐずぐずしてないで、しっかりしてください!」
 真美の声は小さかったが、それ以上に力強かった。
 短く叱咤された三奈子は一瞬、体を震わせた。
 真美がそう言ったことに、心から驚いたのだ。そして、とても嬉しかったのだ。声に込められた想いが伝わったような気がした。気のせいだろうか。ただ、三奈子は気のせいではないと思った。それで十分だった。真美の声で、自分から動くことができたのだから。
 妹に向けて、こくり、と頷いた。
 枷が外れたような、呪いが解けたような、そんな軽快な動きで歩き出す。
 背中に掛かる声は、あまり感情の篭もっていないように聞こえた。それなのに、ひどく優しい響きだった。
「会計は私が済ませておきますから、どうぞお先に」
 紙を手に真美も立ち上がる。レジに向かい、自分の姉の後ろ姿を見送った。


 三奈子はロサ・フェティダに追いついた。その姿を、真美は遠くから見守っていた。
 長い時間を引き留めるつもりは無かった三奈子は、見たところアンバランスなふたりに対して、直撃取材の形でいくつか質問するだけにとどめた。
 夜の帳は降りていて、すでに陽は完全に沈んでいる。
「……待っててくれたの?」
 質問には答えず、真美は問い返した。
「どうでした?」
 夜道を先に歩き出す真美。三奈子が普通に答えながら、横に並んだ。
「快く取材を受けてもらったわよ。まあ、山辺氏が答えた内容を、ロサ・フェティダが面白がってたから、問題は無いでしょうね。謝罪記事の文面も、あれでよろしいそうよ」
「分かりました。明日中に印刷します」
「よろしく」
 黙ったままで、駅への道をゆっくりと行く。
 月は柔らかい光を発していた。道を挟むように備え付けられた電灯のおかげで、足下もあまり暗くなかった。
 風の音が耳に届く。まだ春と呼ぶには早すぎる季節。寒さが和らぐわけではないが、三奈子は真美との距離を縮めた。
 傍らで顔を赤くしているのは、きっと、真美の見間違いではない。
 駅まではそれほど遠くないから、すぐに着いてしまう。三奈子は自分から真美に話しかけることにした。
「ねえ、真美」
「はい?」
「あなた、私のこと、嫌いじゃないの?」
「まだそんなこと仰ってるんですか」
 呆れたように言われてしまった。
「いつだったか、梢さまも言ってましたけど……私たちは、きっと似ているんです。素直じゃなくて、不器用で、やりたいことには何より真剣になる。そういう人間なんです」
「言うわね」
 苦笑いして、先を促す。
「嫌なことはやりませんよね。お姉さまだってそれは同じでしょう? お姉さま、かなりワガママですから」
「嫌になるくらい率直ね」
「はい。だから、私がロザリオを受け取った。その事実を信じていただければ、十分じゃありませんか?」
「……そう。そう、よね」
「でも同じではないから、誤解することだってありますよね。人間なんてみんな、結局はひとりひとりが違うんですから。完全に分かり合えることなんて、ないから」
「そうかもしれない、けれど」
「だから、私は、きっと仲間が欲しかった」
「仲間?」
「ひとつのことに、真剣に協力しあえるような仲間が、欲しかったんです」
「それで、ロザリオを受け取ったの?」
「最初は別に、誰でも良かったんです。そういう繋がりもあるんだって、単なるシステムなんだって思っていましたから」
 声もない。
「戦力になりそうだったから――そんな理由でも、私は嬉しかったんです」
「そう、だったわね」
「ここのところ、ずっとお姉さまらしくなかった」
 三奈子は、じっと見つめた。
「私は、お姉さまの力になりたかった。こんなに手間の掛かるお姉さまだとしても、私にとっては仲間だったから」
「……ええ」
「三奈子さま」
 真美が、呼び方を変えた。すぅと息を吸い込み、落ち着いた声で告げてきた。
「負け犬のような引退の仕方をされるのであれば、ロザリオをお返しします。私は、お姉さまには胸を張っていてほしいから」
「……真美」
 昔、梢が語ってくれた言葉。今、真美に伝えられた言葉。
 揺れない真美の声に、三奈子は耳を傾ける。
 三奈子はロザリオを受け取ったときを思い出していた。いつかの記憶。一人きりではないのだと、最初に教えられたあの日の思い出。
 忘れていた。初めて知った。どちらだろうか。どちらでもないのかもしれない。
 分かることは、ひとつだけ。
 叱られるということは、誰かが叱ってくれるということだった。自分の間違いを止めてくれる誰かがいてくれる。それは、なんて素晴らしいことなのだろう。
 三奈子は泣きたくなった。
 今はただ、嬉しくて。
「まだ、まだ引退はしないわよ。ええ、そう、未熟な妹に任せておけるもんですかっ」
「……お姉さま」
「分かってるわよ。その……ありがとう」
 照れくささを隠すように、そっぽを向いて、三奈子は言った。
 
 駅前に着いて真美と別れる。家に帰るために、三奈子は別方向に足を踏み出した。人混みを嫌って、淋しい空間へと逃げまどう。
 真美の姿も見えなくなると、三奈子はひとりきりになって。
 三奈子の周りだけ、人の流れから抜け落ちたように空白があった。
 なのに部室で感じたあの寂寥は、もう、どこにもなかった。





 6、継承

 ロサ・フェティダの騒動から、ほんの少しだけ経ったある日のこと。
 真美が部室に入ると、すでに三奈子がいた。他の部員たちの姿もあった。三年生の卒業を明日に控え、二年生たちの多くは物思いにふけっている。仕事も手についていない。
 物事には終わりがあり、日々は、こうして収束してゆく。 
 真美は問いかけてみた。どうしても気になったのだ。姉が卒業するというのはどういう気持ちなのか、と。
「……そうね、寂しいわよ」
 あっさりとした言葉が帰ってきた。しかし素朴な答えは、真美の胸に響いた。


 卒業式の当日は、慌ただしかった。三奈子のお姉さま――梢を見送ったあと、薔薇ファミリーの取材も行くことになっていたからだ。
 梢と話している最中、三奈子は泣かなかった。
 真美は邪魔をしないように、少し離れた場所にいた。会話の内容はよく聞こえなかったけれど、きっと良い記事を書くとか、そういうことを言っているようだった。
 三奈子は、梢から手を差し出された。
 その手を握りしめて、妹は卒業した姉に向かって微笑んだ。歩き出した梢の姿が視界から消えるまで、三奈子はじっとその背中を見つめていた。
 真美は黙って、ふたりの姿を目に焼き付ける。
(――お疲れさまでした、梢さま)
 心のなかでそう告げて、梢が歩いていった方向に頭を下げた。
 真美の元に急いで走ってくると、三奈子は叫んだ。
「じゃあ、取材に行くわよ!」
 名残惜しそうな様子は見せなかった。目は潤んでいたが、泣くのは必死に堪えていたのだ。これから山百合会の人々の見送りにも行くのだから、我慢したのだろう。
 早く行かなければならなかった。
 息を切らせて真美たちがたどり着いたときは、まだ集まっている最中だった。全員が一緒の場所に来た。その場には武嶋蔦子もいた。
 真美も、三奈子も、何もせずに見学していた。何かハプニングが起きれば儲けものだし、何も起きないならそれはそれでかまわない。口も挟まず、薔薇さまたちの様子を見ていた。
 思い出話に花を咲かせながら、蔦子に写真を撮ってもらっている。三奈子が口を挟みたがっているのは分かったが、真美は視線で止めた。
 途中、蟹名静が現れたが、穏やかなままに別れた。
 マリア像の前で、蔦子が写真を撮り終えると、三奈子がとうとう我慢できなくなって飛び出した。真美は楽しげに、彼女たちを見回している。
「あのっ、リリアンかわら版卒業記念号もお送りしますから」
 蓉子が笑った。
「……そっちは別の意味で楽しみね」
 周りの面々は、興味深そうに見物していた。三奈子は勢い込んで言葉を続ける。
「薔薇さま方。あの、いろいろとご迷惑かけてすみませんでした。でも、薔薇さまたちと同時期に高等部ですごせて、私すごく幸せでした」
 言い切ったと同時に、涙が出てきた。感極まったのだ。
 さきほど梢と別れたときに我慢していたものも、一緒にあふれ出したのかもしれない。泣きたいと思って泣いたわけではなかったから、三奈子は慌てた。
「あらっ? えっ? 私ったら何?」
 ごしごしと袖で拭いた。しかし、涙は止まる様子がなかった。
「やだ、ごめんなさいっ」
 そう言って、逃げ出した。
 聖が不思議なものを見たように何かつぶやいていたが、真美は三奈子らしい、と思った。走り去った三奈子の後ろ姿は、なかなか面白かった。
「ほんと、申し訳ありません。最後の最後まで」
 軽く頭を下げる真美。
「あんな編集長ではご心配と存じますが、新聞部が一丸となっていい新聞を作ってお送りいたしますので。今日のところはお許しください」
 ぺこり。
 語った言葉は本心だ。
 それから、真美は三奈子を追いかけるために歩いていった。その場にいた全員一致の想いなど、まるで知る由もなく。

 部室に戻ると、真美が思ったとおり、三奈子はそこにいた。
 机に向かっていた。
 背中だけが見えている。震えているようだった。
 リリアンかわら版卒業記念号は、三奈子と真美が担当だった。
「……真美、手伝ってちょうだい」
 真美はずっと、その言葉を待っていた。三奈子の声が湿っているのは、たぶんひとりで泣いていたからだ。涙でインクが滲むほどに。真美にまだ泣きやんでいないところを見られてしまうくらいに。抑えられなかったのだ。
 だけど素直な言葉を受け取って、真美は、強く頷いた。
「はい」
 仲間だから。
 確かに、手を取り合っていける相手だから。
「最高の記事に、するのよ」
「はいっ」
 三奈子は、ぽつりと漏らした。意地っ張りな人間だから、照れずにこんなことは言えないのだ。それでも、まだ涙声のままで、顔を真っ赤にして、三奈子は言ったのだ。
「真美には期待してるから、一緒に頑張りましょう」
 そんなふうに言われたのは、たぶん初めてで。
 いつまでもお互い、素直になれない姉妹のままだろうけれど。
 だから真美は、「ありがとうございます」なんて、口には出してやらないのだ。
 でも。
(――記事を書こう。言わない分の、感謝の心まで詰め込んで)
 書き綴るこの記事にこそ、想いは強く受け継がれていく。
 真美がロザリオを受け取って、姉妹の契りを交わしてから。差し出された三奈子の手を取った、あの瞬間から――ずっと、三奈子も、真美も、ひとりではなかった。
 傍らにいるのは、信頼すべき姉妹だった。
 紙面で争うべき相手だった。
 そして、同じ道を歩く仲間だった。

 これまでも。
 ――きっと、これからも。



 (了)