9:ミルフォード・トラック
(2003年4月16日〜19日)


(4月16日)… … …

 ゆうべからけさにかけても雨は降らなかった。天気予報が当たらないというのは、この国にもあてはまるようだ。
 しかし、風は強い。黄金色の葉をつけたポプラの木が大きく揺れている。

 今回のミルフォード・トラックは、3泊とも山小屋泊で、テントはいらない。テントの他に必要ないものをまとめ、キャンプ場のコインロッカー(NZ$5)に預けることにした。少々身軽になって出発だ!

 DOCで最新の天気予報を見ると、雨はあすまで。その後は、晴れてくるという。クライマックスのマッキノン・パスは3日目だから、ちょっと運が向いてきたのかもしれない。
 バスは、定刻通り10時前にDOC前を出発し、ティ・アナウ湖の東岸を北上。乗客は、ティ・アナウ・ドーンズで残らず、船に乗り換えた。

 まだ、雨は降り出していないが、トレイルヘッドへ向かう船の上から虹が見える。ボクの頭の上でも、いつ降り出してもおかしくない状況のようだ。
 キャビンの中では、コーヒーが無料でふるまわれている。湖面を渡る風で冷え切った体には、とてもありがたいサービスだ。

 船をおり、トレイルヘッドに立ったのが昼前。正味1時間ちょっと歩いただけで、クリントン・ハットに着き、あっさりと一日の行程を終えた。
 ここまでは、ほとんど平坦。車が通れそうな広いトレイルは、森の中をぬってつけられている。山と言うよりは、本当に散歩道といった感じだ。トレイル脇のシダとカーペットのようなコケ、そして川の水の美しさが、なによりも印象的だった。

 なお、ミルフォード・トラックは、トレイルヘッドまでのバスや船、そして山小屋全てが完全予約制だ。歩くペースは様々だが、同じ日にスタートした人は、毎晩必ず同じ山小屋に泊まることになる。
 当然、きょう同じ船に乗っていた人は、すべて、クリントン・ハットに泊まるものと思っていたら、例外があった。

・サワリだけを歩いて、すぐに船にのって戻る日帰り客
・食事からシャワーまで豪華ホテル並みの山小屋に泊まる客
が、いることを知ったのだ。
 前者には、ガイドに連れられた日本人の中高年が多かった。後者は、ボクらと住む世界が違うような金額を支払っていることをあとになってガイドブックで知った。


(4月17日)… … …

 予報通り、夜通し叩きつけるような雨が降った。これぞフィヨルドランドの雨の迫力!
 幸い、朝には小雨程度に弱まり、なんとか歩けそうなくらいに持ち直してくれた。ホッとひと安心。

 湿気充満の森の中では、メガネは間違いなくくもりっぱなしのはず。こんな時のための切り札!使い捨てコンタクトレンズを装着する。
 小雨、強風、寒さ、の三重苦の中、出発。氷河で削られた広々としたまっすぐ続く谷をひたすら進む。見どころは、断崖絶壁から垂れ下がる滝と、川の透明感。しかし、この天気の中では、写真もほとんど撮れず前進あるのみ。
 時折日が射すが、雨がやむとサンドフライが寄ってくるので、曇りなら、いっそ雨のほうがいいかもしれない。

 午後1時過ぎには、こんや滞在するミンタロ・ハットに到着。ガイドブックには、6時間の行程とあったが、出発してから到着まで、5時間ちょっとしかかからなかった。ボクだけが速いのでなく、普通のペースでこれくらい。随分余裕をもって表示してあるようだ。

 谷を行く平らなトレイルは、結構退屈だったが、途中、知り合ったスペイン系アメリカ人のホゼと友達になった。彼もひとり歩きで外国人。なんとなく話しやすい親近感があった。

 ここで、山小屋の暮らしについて、簡単に触れよう。
【寝る】ベットは、完全予約制ゆえ全員にいきわたる。寝台車の2等寝台のようなもので、マットレスがあるだけだが、日本の山小屋よりは圧倒的に快適。山小屋というより、外国のユースホステルのドミトリーのようなイメージだ。シュラフや枕がわりになるものを持って行く必要あり。夜中は真っ暗なので、ヘッドランプなど個々で明かりを持つべし。
【食う】キッチンつき。ガス、水もあるので、食材とコヘル(鍋)あれば好きなものをつくることができる。マッチかライターも必要だが、誰かに頼ることもできる。売店はなし。
【出す】清潔なトイレつき。トレイルの途中にもあるので、ちゃんとしておけば、外ですることもなく4日間を過ごせるだろう。
【監視の目】管理人常駐。接する機会は、チケットを渡す時と、夜(大体7時ころ)のお話タイム。宿泊客を集めて、規則の説明や自然の話などをしてくれる。英語がわかれば楽しいだろう。この管理人のことをワーデンという。
【快適】キッチンに薪ストーブあり。雨で濡れても乾かせる。


(4月18日)… … …

   小屋の中は暖かいが、外はキンキンに冷えている。今にも冬がやってきそうな空気の冷たさの中、いたずらもののキーアの元気なことといったら、うらやましくなるばかりだ。

 雨は降っていないが、天気はイマイチ。向かうマッキノン・パスは雲の中だ。
 こんな時でも、もう一日ここで泊まろう、という柔軟な対応は許されない。雨が降ろうが風が吹こうが、こんや、この小屋には別の客が泊まり、ボクが泊まるべき小屋は、この先のダンプリン・ハット以外にはありえないのだ。
 トコロテン式に、人はトレイルを歩き、山小屋を通過してゆく。

 ちなみに、このトレイルは一方通行である。人とすれ違うことがないトレイルなんて世界中を探してもここだけではないだろうか。

 きのうまでの平坦な道から一変して、きょうは、激しく登って豪快に下るのだ。
 どんどん高度をあげていくと、氷が現れた。まわりの草が全て凍っているのだ!
 歩いているからいいようなものの、立ち止まったら、手足はビンビンにしびれてくるに違いない。疲れない程度に、人間蒸気機関車のように、体から熱と湯気を出しながら、せっせと峠を目指した。

 なんでこんな所に来たんだ〜!と、絶叫したくなるほどに、マッキノン・パスは、猛烈な風が吹き荒れていた。あたりの枯れ草は真っ白。ほとんどエビのシッポ状態だ。当然、あるべき大パノラマもなし。
 放っていたら、耳は凍傷や霜焼けになるに違いない! タオルをギリギリを巻いた。「ジーザス!」と何かに祈っているものもいる。

 そんな八甲田山のような尾根を歩いていると、小屋が見えてきた。
「これで助かるか…」と、そこに転がり込むと、きのう仲良くなったアメリカ人のホゼをはじめ7人ほどが、暖をとっていた。暖かい紅茶ももらい、生き返った気分だ。
 予報だと、きょうは天気が回復に向かう。おのずと、期待は高まるのだが…。

 期待通りに絶景が広がった。雲が切れると、きのう歩いてきた広々とした谷が、眼下に広がった。息が止まるような絶景だ。霜で覆われた台地と、澄んだ青空が、小屋の暗さに慣れた目には、余りにまぶしすぎる。
 風は猛烈に強いが、その風に流される雲を見ていると、まるで遊覧飛行をしているように平衡感覚を失う。ピーカンの晴天では、味わえないような自然の醍醐味を十分満喫して、反対側の谷へと下り始めた。

 谷に向かうトレイルは、これ以上、寒くなる心配はない。時間の経過とともに、雲が次々と稜線から剥されて、雄大な景色が広がり始めた。
 さらに、あちこちから「シャリシャリ」というなんとも耳に心地いい音が聞こえている。いったいなんの音だ…。正体は氷だ。
 気温の上昇とともに、草を覆っていた氷が、はがれ始めたのだ。強い風に草が大きく揺れるたびに、むき出しの岩の急斜面の上を、氷が滝のように音をたてて落ちている。それが、日射しを反射して、ナイフのように鋭い輝きを放っているのだ。
 めまぐるしく変わる天気と気温が作り出したなんとも不思議で幻想的な現象だ。

 そして、小屋に落ち着く前に、もうひとつのクライマックがボクらを待ちうけていた。
 サザーランド・フォールだ!
 この滝の落差は580m、世界中でもトップクラスを誇るスケールだ。

 重い荷物を置いて、ちょっとわき道にそれて行くその滝には、誰もが童心にかえれるような開放感があった。
 パンツ一丁になって滝の裏側をひとまわりしてくる元気な中年や、手を取りあって滝に打たれているアツアツの若いカップルを見て、みんなで笑い転げていた。さらに、そのしぶきにかかる豪快な虹が、タイムトリップの演出に抜群の効果を発揮していた。本当に、夢のようだ!
 ミルフォード・トラックのクライマックスでもある3日目は、寒さあり、氷あり、風あり、光あり、青空あり、夢あり…。なんでもありの長い一日だった。

(4月19日)… … …

「世界一美しい散歩道」と謳われていても、単なる一本のトレイルではないか、と、ちょっとクールに見ていたが、やはりミルフォード・トラックは素晴らしい
 景色もさることながら、きちんと整備された山小屋やトレイル。特に、ピカピカに磨かれているキッチンなどは使うのが惜しいくらいだ。
 ふとした時に、日本の避難小屋の状況やトイレのことが頭に浮かび、残念な気分になってしまった。

 きょうは、ほとんど平坦なコースだ。ミルフォード・トラックの終点であるサンドフライ・ポイントまで、船の時間に間に合うように歩けばいい。
 ここ数日の経験から、ガイドブックに載っている標準タイムは、かなり余裕を持って書かれているようなので、きょうもゆっくりと歩いても問題ないはずだ。

 と、余裕を持って歩きだしたものの、強烈なサンドフライの群れに悩まされっぱなしだ!
 立ち止まって、休憩などしようものなら、顔やら腕やら、露出した皮膚ならどこでもおかまいなし!といった具合に襲ってくる。
 ひたすら歩き続けて、終点の密閉された避難小屋に着くまでは、生きた心地がしなかった。
 余りに早く歩きすぎてしまって、1本早い船に乗って、ミルフォード・トラックの4日間を終えた。


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