5:ウイルダネスへ
〜ハーフ・ドーム往復1日目〜
(5月22日)


 さあ、いよいよウイルダネスへの旅立ちだ!
 きょうから2泊3日で、ハーフ・ドーム往復のトレッキングなのだ。本来なら日帰りも可能であるが、この旅の目的が、クマに対する緊張感に耐えられるか! という予行演習みたいなものであることに加えて、のんびりと過ごそう、という気持ちから、ゆったりとした行程にしてみた。

 それに、4月の大雪のせいで、ハイ・シエラのトレイルのほとんどはまだ雪の下にある。つまり、大急ぎでハーフ・ドームを往復したところで、他に行くところがない、という事情も、のんびり行程の理由のひとつだ。

 こんなふうに書くと、シエラ・ネバダは、やっと雪解けの季節、やっと春! といったイメージで伝わってしまいそうだが、すでにヨセミテ・バレーは夏のように暑い
 3シーズン用のシュラフで目覚めた今朝のボクは、汗びっしょり。テントの外に出ると少々ひんやりもしたが、ここから歩いていけるような距離に雪が残っているなんて、なかなか実感として伝わってこなかった。

 ただ、それは、ボクの思考がこの雄大なシエラ・ネバダについて行けてないだけであって、これから目指すハーフ・ドームは、正真正銘、まだ冬から目覚めたばかりだ。
 ハーフ・ドームは、ツルツルの岩山で、最後の急斜面を登るには、そこにつけられているクサリに頼らなければならないのだが、冬の間は撤去されてしまうそのクサリが、きのうの段階ではまだつけられておらず、ハーフ・ドームは、夏の観光客を迎える準備ができていなかったのだ。
 しかし、ウイルダネス・センターのレンジャーによると、今週末のメモリアル・デイの連休をめどに、あす金曜日につけられるとのことで、ボクは今年最初のハーフ・ドームからの絶景を堪能できるというラッキーに恵まれることになった。

 きょうは、ここヨセミテ・バレーとハーフ・ドーム頂上のほぼ中間点にあたるリトル・ヨセミテ・バレーまで行ってキャンプをする。一気に1000メートルほどの標高を登らなければならず、少々なまった体で約30キロの荷物を背負ってそこに挑むことに不安はあったが、午前8時、キャンプ場をスタートした。
 きょうも暑くなりそうだ!

 きょうの行程は、ずっとマーセッド・リバーに沿うトレイルだ。この川は、ハイ・シエラの雪解け水を集めて、ヨセミテ・バレーを下る。さすがに雪解けの季節だけあって、その迫力は半端ではない。ちょっとした地震が起こったら、津波でトレイルが水浸しになるのではないかと心配になるほどに、川の水は溢れそうなくらい岸に迫っていて、流れは速い。
 トレイルヘッドから30分ほどで、川の右岸から左岸に渡るための頑丈な橋の上に立った。観光シーズンともなれば、この橋の上では大勢の観光客が立ち止まってカメラを構える。日本でいえば上高地の河童橋のような所か。
 きょうは平日で、まだ本格的なシーズンでないうえ、朝早い、ということで、ボク以外に誰もいないが、そこから見えるバーナル・フォールは、急流の飛沫と眩しい逆光に霞んでいて、この風景をたれ流しにしておくのは、本当にもったいなく思う。それくらい美しく、豪快なのだ。

 この橋を越えるとすぐに、トレイルが枝分かれする。右はジョン・ミュア・トレイル。左は、ミスト・トレイルだ。この二つのトレイルは、ちょっと先で合流することになるので、どちらを歩いてもいいのだが、今度来る夏には、ジョン・ミュア・トレイルを行くことになるので、今回は、ミスト・トレイルを行くことに、迷わず決めた。そのトレイルで、ボクはずぶ濡れになってしまった。
 というのも、バーナル・フォールの飛沫が、このミスト・トレイルに、まるで大雨のように降り注いでいたからなのだ。

 ミスト・トレイルは、バーナル・フォールの直下につけられていて、夏の暑い時期などは、霧雨のような滝の飛沫を浴びながら歩けるとても気持のいいトレイルだ。しかし、この時期はその飛沫があまりに多すぎた。あとで、ガイドブックを見ると「大きな荷物を背負ったバックパッカーには勧められない」といったようなことが書いてあった。
 このトレイルを、ボクのように30キロもの荷物にザックカバーをつけて喘ぎながら登るのは、愚かな行為以外のなにものでもないのだろう、とボク自身、登り終えたあとに思った。

 びしょ濡れになったボクは、当然、乾かす作業をしなければならず、その場所は、おのずとバーナル・フォールの上ということになる。全身を干しながらも、時折、恐る恐る下を覗き、滝にかかる豪快な虹を写真に撮った。そして“錦鯉”とデカデカと書かれたTシャツを着た西洋人に写真を撮ってもらった。昼に近づき、初夏の日射しは強烈にボクの肌に刺さってきた。

 その後、もう一度マーセッド・リバーの右岸に渡り、石のスイッチバックを登るとネバダ・フォールの頂上だ。午前11時20分。トレイルヘッドのハッピー・アイルをスタートして3時間半ほどがたっていた。ここまで来たら、きょうのテントサイトのリトル・ヨセミテ・バレーまでは平坦な道のりで1時間もかからない。ゴロンと日陰に横になってマッタリモードにはいった。

 リトル・ヨセミテ・バレーのテントサイトは、あまりいい感じではなかった。どういうふうにいい感じではなかったかというと、針葉樹の森の中で、森そのものも、木があちこちで倒れていて、その倒れかたが自然なのか、人の手によるものなのか、何か意図があるのか、よくわからず、決して美しいという感情が湧き上がってくるような所ではなかったからなのだ。日射しが射し込んでくるわりに開放感があるわけでなく、風が吹かないために、さわやか、といった山独特の気持良さがない。イメージと現実とのギャップが大きすぎた。

 洗濯をした。暑さのせいか、あっという間に乾いてくれた。先に着いていたバックパッカーが「ここに昼頃クマが出た」と教えてくれた。怖いことを言ってくれるではないか。早いところ、クマを体験しておきたい気持ちもあるが、正直なところ「怖い」というのが今の気持ちだ。クマよ、もうちょっと待っててくれないか。
 午後の大部分の時間は、枯れた松葉の上に横になり読書をしたが、この間、薄いウエアを通して伝わってくるチクチク感がとても心地よかった。

 夕闇が迫ると、このテントサイトは、ヨセミテ・バレーのキャンプ場と同じくらいの賑わいになった。食事のいい匂いも漂っている。これをクマがほっとくはずはない。ボクのテントは、キャンプ指定地の一番奥のはじっこだ。真っ先にクマが訪問してくる可能性もある。ちょっと怖い気もするが、クマが匂いを忠実にたどってくれれば、ボクのところにはやってこないはずだ。まだ明るさの残るうちに、シュラフにもぐった。


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happy trail