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5時40分起床。けさまでクマの気配はなく、とりあえず安心した。 さすがにヨセミテ・バレーのような暑さはなかったが、シュラフの中の体は汗ばんでいる。気温だけでなく、やはりクマに対する恐怖の気持が体の中にあって、その緊張感が汗になったのだろうか。 7時を回ってテントサイトにも日が射してきた。きょうもいい天気だ。しかしヨセミテ・バレーのビジターセンターで見た天気予報では、きょう、サンダー・ストームの予報が出ていた。もう賞味期限切れの予報かもしれないが、いちおう頭の片隅にとどめて行動することにしよう。 ク、ク、ク、クマが出た! リトル・ヨセミテ・バレーから20分ほど歩いた所の緩やかなスイッチバックの途中。前を歩いていた女性二人の掛け声に目を上げてみると、そいつがいた。 ボクから20メートルほど離れた斜面の上を、ボクの進む方向とは反対方向にシナモン色のクマは向かっている。女性の「ストップ!」というボクに対する掛け声が彼に届いているのは間違いなかったが、彼はその声に全く反応することなく歩いていた。次元の違う世界にいるようだ…。立ったら2メートルほどはありそう。すごい迫力…。すごい存在感だ。ボクは立ちすくむしかなかった。そのまま、彼が森の中に消えてゆくまで見つめていた。消えてゆく、といっても、下草のない見通しのいい森であるから、かなり遠くまで、長い時間、彼を見守っていた。 これがクマを目の前にした時の緊張感か…、といったような特別な緊張感や危機感はなかったが、この出会いが余りに突然で、衝撃的で、ボク自身の感覚が麻痺したような感じになり、その場から動くことができなかったのかもしれない。不思議な感覚だ。 クマはこの森の全ての生命の頂点に君臨しているのだ…。あとから思うと、そんなふうに感じて、そのことをすぐに消化するためにボクには時間が必要だったのかもしれない。
もし、女性の掛け声がなかったら、ボクはきっとクマの存在に気づくことなくそこを通り過ぎていたはずだ。そう思うと、近づいていたが気づかなかっただけ…という、クマとのニアミスは結構あるのかもしれない。ハーフ・ドーム・ジャンクションだ。ここは、ジョン・ミュア・トレイルとハーフ・ドームへ向かうトレイルの分岐点に当たる。歩き始めて1時間足らず。暑くてTシャツ1枚になる。 時折、残雪の上を歩きながら高度をあげてゆく。ハーフドームの横顔が見えてきた。ヨセミテ・バレーから見る横顔とは、反対側の横顔だ。蚊が群がってくる。トレイルはほとんど雪の下に隠れていて、ボクがたどっているのは、トレイルではなく誰かが歩いた足跡だ。 9時10分。歩き始めて2時間余りが経過した頃、ハーフ・ドームのツルツルの花崗岩の急斜面の真下にたどり着いた。 「こんな所、よく登っていくなぁ〜」と、あきれるほど、これから行くトレイルは、とんでもない斜面につけられている。というより、決してこれはトレイルなんかではない!
ツルツルの花崗岩の急斜面に、ドリルかなんかで無理やりに穴をあけて、そこに立てられた鉄柱がケーブルで結ばれていて、頂上へと続いている。ボクらは、足ではなくて、そのケーブルを握って、手を使って頂上へと向かうことになる。そこに置いてある幾つかの革の手袋がそれを物語っている。見あげると、花崗岩の白と青空で、目を手のひらで覆ってしまうほどの眩しさと迫力だ。 9時45分。ハーフ・ドームの頂上。絶景だ。 ケーブルを頼りに高度をあげ、最後は残雪の上をたどってついた頂上は、言うまでもなく絶景だ。目の前にはヨセミテ・バレー。振り返るとクラウド・レストがそびえている。今、登ってきたばかりの急斜面のケーブルには、ハイカーが数珠繋ぎだ。そして、飛行機雲は手が届くほど近い。強い日射しに耐えられず、岩の窪みに身を隠した。日陰を抜ける涼しい風に、ハイ・シエラを実感。そして、目の前に虹が見えた。
ヨセミテ・バレーでは、強烈な迫力で存在感を主張しているヨセミテ・フォールも、ここハーフ・ドームの頂上から見ると、遠くにかすかに見える森の中の点でしかない。そのヨセミテ・フォールの飛沫が空に向けて舞い上がり虹色に輝いている。これには感激した。ここに来るまで、ネバダ・フォールやバーナル・フォールにかかる豪快な虹を見たが、それとはまったく次元の違う感激だ。 広大な森の中に点のように見える飛沫に虹がかかるには、その飛沫と、ボクと、太陽が、ある特定の位置関係にならないと実現しない。どの程度の確率でこの幸運と巡り会えるのかはわからないが、この虹を見たことで、ハーフ・ドームの頂上まで登ってきたことが、何倍も、何十倍もの価値があるように思えた。
下りは、けさヨセミテ・バレーを出発してきたであろう多くの日帰りハイカーとすれ違いながら歩いた。午後4時。リトル・ヨセミテ・バレーのテントサイトに戻ると、遠くで雷鳴が響いた。同時に風が強まり、森が揺れる音はマーセッド・リバーの激流のようにボクに恐怖を覚えさせる。揺れる木々からは枝が落ちてきて、それが時折ボクのテントを叩く。 抜けるような朝の青空。昼、モクモクと積雲が湧き、夕方にサンダーストーム…。典型的な夏のシエラだ。雷雨がこのリトル・ヨセミテ・バレーを襲うことはなかったが、シエラの夏の表情を垣間見たようで、ボクは気分よくウイルダネスの2日目を終えた。 |