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5時10分起床。結局、夜通しクマの気配を感じることはなかった。 テントから離れた所に置いておいたベア・キャニスターもクマにいたずらされた様子はない。ゆうべ、このベア・キャニスターの上に、小枝を集めて「クマ」という文字を作っておいたのだが、それがそのままになっていたということは、誰にも手を触れられていない!という証である。
そんなわけで、ひと安心。まだ射すような痛さのない朝の日射しを全身に浴びて、ハーフ・ドームを正面に眺めながら朝食を楽しんだ。こんな贅沢な朝食があるだろうか! これこそ、ウイルダネスの醍醐味だ! 水浸しのトレイルを迷いながら歩いてきたものだけの特権だ! クマに対する恐怖はまだまだ払拭されたわけではないが、これが野生の中の暮らしの緊張感だと思うと、新しい価値観がボクの中で産声をあげたような気がした。 といってもそれが、ボクの不安をすべて解決してくれたわけでは当然ない。実際、クマとの接近を体験したわけではないし、ひとりの時にその威嚇にどう対処できるか、という不安はまだまだ大きい。ジョン・ミュア・トレイルを歩く約30日間、そのプレッシャーに耐えられるかということは未知数である。 クマは人間の存在に気づくと逃げ出す、と言われているが、それを体験として知っておきたい、という気持ちが今のボクはとても強い。これが、今回、ヨセミテを訪れた一番の目的でもあるのだから。 きょうはこのあと、きのう来た道をヨセミテ・ポイントまで、まず戻る。見通しのいい崖の近くではキャンプが禁止されているので、近くでそれに相応しい場所を探さなければならない、という作業もある。 ゆっくりと撤収を済ませ、テントサイトをあとにしたのは、9時を回ってからだった。
距離は短いとはいえ、残雪の上や、冠水のトレイルを避けながら、岩や倒木の上を歩く行程は、かなりの体力を消耗する。もちろんクマに対する精神的負担も無視できない。どこからか、頻繁にポキポキと木の枝が折れるような音がしているが、音のほうを怖くて振り向くことができないくらいに、ボクはウイルダネスにおびえていた。そんな気持も、ヨセミテ・フォールまであとひと息、という所まで戻ると、薄れ始めた。ボクは、トレイルからはずれ、巨大な花崗岩の上にだらしなく横たわって、開放感を満喫した。この岩から続く斜面の下のほうでは、ヨセミテ・フォールに続くヨセミテ・リバーが流れていて、その音が心地よく耳に届いている。 「開放感」という言葉を、なんとなくつぶやいてみた。 どれくらい休んだかわからないくらい長い間、ボクはそこに横になっていた。その間、すぐ近くを通り過ぎた日本語を話すハイカーに反応することもなく、岩に張りついたように動けなかった。 ヨセミテ・ポイントにつく前、ヨセミテ・リバーで2リットルの水を濾した。流れの迫力に圧倒され、川岸でのこの作業はかなり怖かったが、今夜のキャンプのためにはしなければならない作業だ。 午後2時前にきょうの全行程を終え、まだまだ時間はある。 ここでもボクは日陰にだらしなく横になって、ヨセミテ・バレーの展望や、目の前を行き交うツバメの風を切る音を耳にしながら、ハイ・シエラの自然を全身に受け止めている。 そこから20分ほど歩いて崖を離れた。テントを張る場所を探すためだ。
ゆうべ、ボクがテントを張ったイーグル・ピークの近くから、ちょうどこの辺りに光が見えていた。きのうのキャンプの痕跡があるのではないかとも思ったのだが、ウイルダネスでは、痕跡を残す行為そものもが禁止されているので、見つかるはずはない。適当な平らなところを見つけて、早々にテントを張った。夕暮れ。雪のハイ・シエラの山並がピンク色に変わった。日の出や日の入りの頃の風景は何度見ても飽きない。これさえ見ることができれば、それで充実した気分で一日を終えることができる。 すぐ近くにヨセミテ・バレーへ下るトレイルがつけられているせいか、きのうの夜ほどの緊張感や恐怖はなかった。9時過ぎに就寝。 |