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デナリに夜はなかった。夜通し明るく、夕方がいつか、明け方がいつなのか、頻繁
に目覚めていたにもかかわらず、全くわからないうちに朝を迎えた。こういう状況
だから「朝を迎えた」という表現も相応しくないのかもしれない。起床は4時40分だ
。 きのうに比べて、雲が多いのが気になる。撤収を進めているうちに、積雲が多くな り、瞬く間にほぼ全天を覆ってきた。きのう見た予報だと、あす、あさってにshowerがあるとのこと。あすは、今回の7日間のトレッキングの中では、一番標高の高 い所を歩くので、天気の崩れは展望を奪われるばかりか、雪の可能性もあり、それが残念でもあり、不安でもある。 7時過ぎ、ビジターセンター前のシャトルバス乗り場に行くと、すでに長蛇の列。 しかし、その列は、一般の観光客用のもので、ボクらバックパッカーのためのキャン パーズバスはガラガラ。日本の街の中を走る乗り合いバスのような大きさの中にわず かに4人の乗客を乗せただけで出発した。料金は変わらないのに、すしずめ状態の一 般のシャトルバスの乗客に申し訳なく思うほどののんびりして、ゆったりとした車内 だった。 ここで、デナリのハイキングのスタイルを簡単に説明しよう。 デナリには基本的にトレイルがない。エントランス周辺には少しあるようだが、デナリを訪れる大部分の人が目指すマッキンリー周辺には全くトレイルがないのだ。人工的な道はナショナル・パーク内を東西に走るパークロードのみ。そのダートロードをシャトルバスが往復している。 ハイキングをするものは、そのシャトルバスに乗り、自分が歩きたい所へと向かう。降りたい所をドライバーに告げ、バスを止めてもらう。定期的にバスは休憩をとるので、そこで歩き出すことも可能だ。 バスを降りたパークロードからは、トレイルがないので地図とコンパスをたよりに踏み跡すらない大地を進んでゆく。つまり行く先は無限、行き方も無限なのだ。生き方が無限にある人生の縮図のような放浪のスタイルなのだ。 帰りは、パークロードに戻り、シャトルバスに拾ってもらい、ビジターセンターへと戻って行くことになる。 もちろん、こんなサバイバルのようなスタイルではなくてもデナリを楽しむことができる。シャトルバスに乗って往復するだけでも、野生動物に出会えたり、雄大な景色を満喫しできたり、ツンドラ歩きの体験もできたりする。むしろこういった人が大部分であるため、キャンパーズバスはガラガラで、一般のシャトルバスが超満員、といった状況になっているのだ。 さて、出発だ。 こういった観光地にありがちな、運転手の自己紹介から旅は始まる。名前はビル、 彼からひととおりの注意事項が与えられる。運転中は動くな、シートベルトをしろ、 動物がいたら写真を撮る時間を与える、など。 アンカレッジからのバンと同じように、ここでも本当にアットホームな雰囲気があ り、それがウイルダネスを前にした緊張感から、ほど良くボクを開放しれくれた。
30分余り走ると、遠くにマッキンリーが見えてきた。バスから降りると風が冷たい。南東の風だ。低気圧が近づいているのか、あすに向けての天気の崩れは間違いないようだ。サベッジ・キャンプグラウンドで二人乗り込み、乗客は6人に増えた。 サンクチュアリ・リバーを通過。歩いて渡れそうなくらい水が少ない。河原にわず かに雪が残る。 サンクチュアリ・キャンプグラウンドを過ぎたところで、2頭のカリブーをみつけ バスが止まる。 テクラニカ・リバーに沿って進むうちに、巻層雲が多くなる。 テクラニカ・キャンプグラウンドを過ぎたところに休憩所があり、そこの温度計は 華氏55度、約12℃を指していた。 ポリクロームのレストエリアでは、猛烈に風が強い。本格的な天気の崩れの前兆か もしれない。 けさのビジターセンターの予報はscattered rain。雨ではなくて、にわか雨とい うことは、この南よりの風をあわせて考えると、低気圧の暖域による雨の可能性が高 い。ならば、このあと、さらに風が強まってきて、今夜のキャンプに向けて、標高を 上げるよりも、低い所を歩いたほうが懸命かもしれない。 視界が遮られるほどに、砂ぼこりがまきあげられている。 ポリクローム・エリアで二人降りて、乗客は再び四人に戻った。 昼前の11時40分。約4時間で終点のアイルソン・ビジターセンターに着いた。本来 ならシャトルバスは、この奥のワンダーレイクまで行くものもあるのだが、まだ本格 的シーズン前ということで、シャトルバスは、ここで全て折り返してゆく。 風が非常に強くて、日射しもない。マッキンリーは巻雲と巻積雲の白に溶け込み、 輪郭ははっきりしない。これから、グリズリーの待つウイルダネスに向かって歩いて 行くと思うと不安は大きくなるばかりだ。あと一日早くここへ来ていれば…、と少しの後悔が 浮かぶ。
ビジターセンターの中の掲示で基本的なデータを確認。それによると、きょうの日の出は 3:50 日の入は 12:01 だ。夜の長さは4時間弱で、1日につき4分弱くらいずつ昼が長くなっているという。 ビジターセンター前で勇ましい?記念撮影をしてもらい、強風に激しくはためく星条旗に見送られてマッキンリー・リバーに向かって歩き始めた。12時15分、デナリのウイルダネスへの記念すべき第一歩である。 ウイルダネスは想像以上にタフだった。単に標高差数十メートルを下って河原に降りただけなのだが、やっと芽吹き始めたばかりのブッシュを掻き分けての前進は、どんな登り坂のトレイルよりも消耗した。わずか30分歩いただけなのに…。 足跡すらないブッシュの中を進んでいると、岩がゴロゴロしていて油断していたらつまづいてしまいそうなラフなトレイルでも、トレイルがあることだけで本当にありがたいことを痛感する。これから一週間は、こんなトレイルのない、というよりも足跡すらないブッシュの中や、ツンドラを進んで行くのだ。 本当に歩けるのか、一週間、体が持ってくれるのか…。恐ろしい。
マッキンリー・リバーの上流のジョージ・クリークの河原を歩く。時折、激しい風が巻き上げた砂ぼこりが、竜巻に吸い込まれて行くように踊っている。左手は広々とした河原、右手には絶壁がそそりあがり、その中腹にはシャトルバスが通るパークロードが刻まれているはずだが、見あげてもその存在を確かめることはできない。人工物は、何も見えなくなった。風が強く、歩いても歩いても体の芯でわずかに熱さを感じるだけで、皮膚はひんやりと冷えたまま。空は高層雲に覆われ、太陽の位置がかろうじて確認できる程度で、日射しはない。心細い。 河原を1時間半ほど歩いて午後2時を回った。日没まであと10時間。とは言うものの、そろそろテントを張る場所を探したい。 しかし、パークロードの真下を流れるこの河原でテントを張ることはできない。なぜなら、テントをはる場所は、シャトルバスが走るパークロードから半マイル以上離れた所で、なおかつシャトルバスから見えない所でなければならないという規則になっているからだ。 パークロードを南から北に横切って少しでも高い所に行こう。河原を離れ、ブッシュの急斜面に取りついた。が、そこに待っていたものは…。 クマの掘り返しだ。初めは雪解けに伴うちょっとした土砂崩れだと思っていたが、どう考えてもそれでは不自然なほどの豪快な穴が開いているのだ。「怖い」という次元を遥かに越えて何も怖く感じないくらいの感覚だ、としか表現できない。息が切れるのも忘れて、両手両足を総動員して崖を駆け上がった。 崖の上でツンドラに変わった大地は、より一層ボクの前進を妨げる。スポンジの上を歩いているような感覚だ。モモを思い切り上げなければ足を前に運ぶことができない。おまけに、目の前に突然1メートルほどの深い穴が現れたりして、水溜りもあちこちにある。パークロードまでは直線距離で1マイル足らず。トレイルがないので足元の条件さえよければ目的地に直進することができるのだが、ツンドラはそれを許さない。実際に歩く距離は、おそらく直線距離の倍以上はあるはずだ。この1マイル足らずの前進に1時間近くを要してしまった。
パークロードに出て、平らな道のありがたみを改めて強く強く実感した。パークロードから緩やかに北に登って、ようやくテントを張れそうなところを見つけた。小高い丘になったその場所から北を見おろすと、凍ったムース・クリークが東から西へ向かっている。東には、標高1500メートルほどの山がそびえ、同じくらいの高さのマウント・ガレンがムース・クリークを挟んで北に居座っている。天気次第で、あす以降はこのマウント・ガレンを目指すことにしよう。 風に吹き飛ばされそうになりながら、テントを張り終えた。 ウイルダネスでは、何から何までがひと仕事だ。 食事用の水は、北側の斜面を緩やかに下ってムース・クリークに求めた。100メートル程度の距離だが、その途中にも、ちょっとしたブッシュがあり、そこを掻き分けて進むときにバケツの水の半分ほどをこぼしてしまった。汲みに戻ろうなんていう気はまったく起こらない。おまけに水は氷河に源を持つ水であるため、灰色に濁っている。米を炊けば飯は灰色に仕上がるし、飲み水をつくると、フィルターはあっという間に目詰まりを起こす。 そして、くつろぐにも、テントの中に飴玉ひとつ持ち込むことができない。グリズリーが匂いにつられてやってくるからだ。 まだ明るい夕方8時、テントの中に身を横たえた。 |