23:険しすぎる道のり
〜デナリ・トレッキング5日目〜
(6月9日)


 川の流れの音、小鳥のさえずり、テントを照らす朝日。完璧な朝だ。

 朝食はカーリックピラフ。それができるまでの間、濃くて熱いコーヒーをたっぷりと飲んだ。そんなボクの視線の先にあるものは、テレビでも新聞の活字でもない。マッキンリーだ。幸せとはこんな時にこそ使う言葉だ。
 ボクが今いるユニットを、1日の滞在で通過しなければならない。前のユニットで1日多く過ごしたツケがあるからだ。きょうは、再びパークロードを南から北へ越える。
 澄んだ水から1リットルの水を濾し、8時45分、西へ向かい歩き始めた。

 広い河原を、マッキンリー・リバーは何本にも枝分かれしてボクの前に立ちはだかる。そんな流れをたびたび渡るのが億劫になり、ブッシュの中へルートをとった。
 かといってブッシュが、特段歩きやすいというわけではなく、小さな枝を腕で掻き分けて進むうちに、アンカレジで買ったばかりのジャケットは汚れ、傷つきはじめている。おまけに、視界が悪く、クマとの突然の出会いの恐れもる。ビジターセンターで見たビデオにあったように、ボクは大声を出しながら進んだ。
クマ〜、出でこ〜い!」「怖くねえぞ〜!」「くそ〜っ」とか、ほとんど負け犬の遠吠えだ。

 ちなみに、北海道の山でよくみるクマよけの鈴は、持ち主が歩いている限りずっと鳴りっぱなしであるため、自然の音に溶け込んでしまい、クマにとってはインパクトがないという。加えて、鳥の声などに間違えることもあるらしく、最悪、グリズリーが襲ってくることもあるというのだ。
 クマを追い払うには、時折出す大声が一番効果的らしい。

 空は、薄い雲に覆われている。とりわけいい天気、というわけでもないが、水色の空も見えていて、おとといまでに比べると、開放感に満ちている。
 天気がよくなってきたせいか、蚊がひどい。半端じゃない群がり方だ。頭に防虫ネットをかぶった。防虫剤は、肌にとまったり、射したりする頻度は少なくなるが、群がってくるところまではとめられず、うっとうしさは変わらない。初夏のウイルダネスでは、防虫ネットは必需品だ。

 西へ1時間半ほど歩いたあと、進路を北に変えた。深い森の向こうに見えている小高い丘に目的を定め、パークロードを目指すためだ。
 地図では、等高線が数本横切っているだけで、その間隔もあいている。そこに道があれば、その傾斜などほどんど気にならないような斜面であるが、フカフカの森の中を歩いて行くのは気の遠くなるような作業だ。腰丈ほどの木々の間に、突然、幅5メートルほどの透明な水の帯が横たわっていることも何度かあった。深さは腰くらい。渡れそうな所を探すため、右へ行ったり、左へ行ったり…。30キロのザックを背負ったまま助走をして飛び越えたりもする。
 これは、普段われわれが言うところのトレッキングとは全く違う次元の遊びといえる。

 そんな苦難の道のりを2時間ほど歩き、12時過ぎにパークロード手前までやってきた。
 ツンドラはいっけん乾いているようでも、腰掛けると、スポンジから水がしぼり出されるように、冷たさがしみてくる。しかし、ここは小高い丘で、なんとかその冷たさを感じずに済むところがありがたい。蚊の群れは強烈だが、今は、とくかく横になれることが安らぎだ。

 パークロードを北へ越えると、そこからは、これまで以上に湿ったツンドラに変わる。地図を見ると、水色のシミのように、池が点在している。これまで以上の困難な道のりとなる。
 まだ昼を回ったばかりで、暗くなるまでは半日以上もの時間が残っている。今いる所から、約3マイルほど北に見えている標高800メートルほどの小高い山の上を目的に定めた。

 平らな河原を歩くことが多かったこれまでに比べると、小高い丘の上から、うねるように見えている緩やかな起伏の大地は、これから歩く所を見通すことができて、なんとなく気分がいい。地図と地形を何度も何度も見比べた。
 緩やかな谷へいったん下り、そのあと緩やかにに登ったところあたりで、今夜テントをはることになるだろう。

 あちこちにカリブーの落とし物が目立つ。角だ。このまま帰るのなら、持って帰って飾り物にしたいくらいに立派なものがあちこちに落ちている。この付近は、カリブーの移動ルートになっているのだろうか。こんな歩きにくいツンドラの大地を、カリブーはどの程度、苦しく感じているのか。それとも、平然と歩いているのだがろうか。
 ヒザを高く上げて歩き続けていたせいか、モモのつけねに痛みを感じるようになり、左足を引きずるようにツンドラの中をモクモクと歩き続けた。

 そして、ツンドラでの困難は前進することだけにとどまらず、水を得ることもままならない。小さな池はあちこちにあるのだが、どれも茶色く淀んでいる。この色はフィルターで濾してもとれず、そのまま飲むにはかなり抵抗がある。が、これしか水がない。
 今夜は、山の上でのキャンプだ。濾した茶色い水をボトルに満たして、バケツにも持てるだけ水を入れて、最後の登り坂に取り付いた。ここでも当然登山道はなく、自分で右に左にスイッチバックを切りながら高度を上げていった。

 そしてようやく広く平らな頂上に着いた。と思ったら地図がない。落としたのか。ヤバい。地図がなければ前へ進むことができない。心当たりはあった。
 水をたくさん入れたバケツを持つために、それまで手に持っていた地図をポケットに入れて、ここ1時間ほど歩いてきたのだ。途中、ブッシュの中を歩いたため、木の枝か何かにひっかけて落とした可能性が高い。  探しに戻ったことは言うまでもないが、トレイルのない斜面、実際に歩いてきた道をちゃんと辿っているかわからないのだ。これでは、落とした地図を見つけることはできない。

 まったくトレイルのないウイルダネスは困難の連続だ。

 地図で、ウイルダネスでは非常に重要な装備であるだけでなく、ずっとそれに頼って歩いてきたものにとっては、心から信頼できる数少ないパートナーでもあるのだ。そんなふうに思うと、涙が出てきそうなくらい寂しく心細くなった。
 ヤブの中を二往復ほどすると、なんとか地図を見つけることができた時は、本当に心から胸をなでおろした。

 困難は、まだまだ終わらない。蚊だ。
 長袖、長ズボン、そして防虫ネットをかぶっているため、直接肌にとまることはないが、平手でパチッと太ももを叩くと、一度で10匹くらい退治できる。恐るべき効率ではあるが、裏を返せば、それほど蚊は濃密に存在していて、いくら退治しても、その勢いが衰えることはない。
 食事も頭にかぶったネットの隙間から口に運ぶ。
 蚊は、何が嬉しいのが、熱いラーメンの中に次々と突っ込んでゆき哀れにも死んでゆく
 さらに、テントの中に入っても、雨のようにパチパチと壁に体当たりしてきて、この音もイライラの原因だ。
 さらに悪いことは重なるもので、白夜であるがために、蚊も24時間休みがない。せっかくマッキンリーを中心にしたアラスカ・レンジの大パノラマが広がっているのに、カメラを構えても、レンズの前を頻繁に蚊が横切っていて、シャッターチャンスがまるでない。

 長く歩いた疲れも加わって、大展望をさほど楽しむこともなく、明るいテントの中で長い一日を終えた。午後11時を回っている。


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happy trail