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蚊の羽ばたく音で目が覚めた。というよりもひと晩中、ずっと、ぶ〜んという、あの不快な音がボクの体全体を震わせていた。 シュラフの中で目覚めると、視界全体に広がるのはテントの黄色い壁だ。その壁には、背筋が寒くなるほどの蚊が群がっている。せっかく、マッキンリーの大展望ともいえる眺めのいい小高い丘の上にテントを張ったのだが、すぐに外に出ようとはいう気になれない。 朝からいきなり体がだるいのは、きのう、歩きすぎたせいだけでなく、白夜の寝不足のせいだけでもなく、この蚊の存在も大きく影響しているに違いない。しかし、ここデナリの蚊は、ニュージーランドで悩まされたサンドフライよりも、刺された時のかゆみがあまりないのが救いである。 きょうは、この丘から100メートルほど下って、同じくらいの高さの丘に向けて登ってゆくという、いっけん楽な行程のようであるが、きのうまでのことも思うと、きょうもハードな一日になりそうだ。 まだ、グリズリーを一度も目にしていないので、一度くらいは見てみたい、という気もあるが、今のところは、まだ、現れないで欲しい、というのが本音かもしれない。 午前8時、防虫ネットなど完全防備をして撤収を終え、大地に横になりまったりする。過酷な一日の始まりの前の安らぎのひと時だ。 デナリを歩き始めて一番の鮮やかな晴天。蚊の存在さえなかったら、思う存分写真が撮れるのに…、と残念に思う。 20分ほど歩いて広々とした丘の端に立った。これから下ってゆく谷が見おろせ、その谷の底に大きめの池がふたつ。その向こうに、登って行く丘が見えている。トレイルがあればあっという間の道のりなのに…。 12時前にその池のひとつにたどり着いた。さっそく水づくりを始める。水際から見ている分には、透き通って見えるのだが、フィルターを通してボトルに入れると、茶色く紅茶のように色がついている。濾した水はそのまま飲むためのもので、これとは別に紅茶を沸かし、それも飲み水とする。 こんなふうに、飲み水と紅茶をつくるのに約1時間を要した。 さて、これからは登りだ。 膝丈のブッシュの急斜面をスイッチバックを切りながら登り続ける。 岩や固い土の急斜面なら、まっすぐ登って行けそうなのだが、思い切り足が沈むツンドラの斜面であるため、実質、急斜面と同じである。 疲れて横になると、南東に向いている斜面であるため、直射日光をまともに受けて強烈に暑い。地面からも天からも体力を吸い取られていっているようだ。 そんなこんなで斜面を登りきると、時刻は午後1時を回っていた。あとは、ほとんど平坦な所を西に1マイル程度進むだけだ。 そこは、東西にのびる平坦な丘の西のはずれて、そこからは、ワンダーレイクが見おろせるはずだ。展望を楽しみながらゆっくりと過ごせる。 平坦な1マイル。それに費やした時間はなんと1時間半。これがデナリのウイルダネスだ。もちろん、途中、休憩をした時間も含まれいるが、休憩なしで歩いたところで、この時間をさほど短縮することはできない。それほどツンドラは、バックパッカーから体力を奪うのだ。ツンドラだけではない。初夏の日射し、グリズリーに対する精神的プレッシャー、これらも体力を奪ってゆく。ボクの味方になるものは何ひとつないのか…。 味方といえるものは、目の前に広がる雄大な風景か。 きょうテントを張った場所は台地の西の外れ。ちょっとだけ歩けば、ワンダーレイクが眼下に見おろせ、その向こうにはマッキンリーという贅沢な風景だ。 これを見るために、ボクはこのデナリを訪れたのかもしれない。そう思うと疲れが体から抜けたような気がした。 夕方5時を回り、空模様があやしくなってきた。パラパラと雨粒が落ちてきた。結局、すかっと晴れたのは午前中だけだ。 このトレッキングをふり返ってみても、たとえ雪や雨が降らない日でさえ、薄い雲が広がっていることが多く、まっ青な空に浮かびあがったアラスカ・レンジを見られたのも、きょうが初めてだった。時折、雲に隠れてしまったが、常にマッキンリーの勇姿を眺めながらアラスカのツンドラを歩けたこの3日間は幸運だったのかもしれない。 |