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長文セレクション

髪は長い友だち
スクランブルゴルフコンペに行ってきました
フィルムカメラがなぜ面白いかに関する逆説的な考察(長文)
散歩中に雨に降られるということについて
久々に散歩 | 虫の話の続き | テントウムシの夢 | テントウムシの夢・続き

※ これらは「3行日記」の過去ログからの抜粋です。



髪は長い友だち
  2008/09/06
ここ5〜6年悩まされてきた顔面ケイレンですが、ここ数ヶ月はけっこう症状が和らいでいます。というか、ほとんどピクピクしない日のほうが多いです。このまま治っていくんですかね。Webで片側顔面ケイレンに関する説明を読むと、「顔面を動かす神経と血管との間にクッション様の物質をかます手術をしないかぎり治らない」なんて書かれていたので、これは意外です。

なんで良くなってきたんでしょうね。最後の、「髪が伸びたから」は、まあ関係ないでしょうが…。でも以前、「髪を伸ばして後ろできつく束ねたらあるいはピクピクしなくなるのではないか?!」と真剣に考えたこともあったっけ。人間切羽詰まると妙なことを思いつくものです。わらにもすがるとは、このことですね。

ところで髪と言えば、ここ1年くらいで髪の量が増えました。特に頭頂部。これはバセドーが治ってきたせいでしょう。うれしいことです。なにしろ、「髪は長い友だち」って、昔から言いますからね!

 髪は 長い 友だち

ここまで書いて思い出しました。あれはそう、忘れもしない、えーと? いつだったっけ? 思い出せません。まあとにかく、小学か中学のころですね、たしか。学校でせっせと漢字を覚えていたころのことです。

なにしろ漢字って数が多いですからね…。大人になって新聞だの2ちゃんだのをきちんと読むためには、小学生のころに毎週こつこつと漢字を覚えなければいけないわけです。そりゃもう大変ですよね。常用漢字だけで2000近くあるんですからね。JIS第一水準と第二水準を合わせたら6000以上ですよ。そんなの1日1つずつ覚えたって16年かかります。九九なんて目じゃないですよ。

そう、今じゃこうしてパソコンでポンポンポンとキーを押して変換したら漢字になってくれて便利ですけどね。昔は手で書かなければなりませんでした。漢字ドリルなんてものもありましたね。

今の若い人は知らないでしょうね…。今でこそ、パソコンでチャッチャッチャと入力して印刷ボタンを押せば、プリンタがインクだかトナーだかで勝手にそのとおりの字を形成して出力してくれますが、昔はぜんぶ手作業だったのです。漢字ドリルを使いましてね。平らな板に漢字形の穴を彫っていくんです。そこにインクを埋め込みましてね。バレンでこすって紙に転写するんです。いわゆる凹版印刷ですね。注意しないといけないのは、漢字ドリルを使うとき、ちゃんと左右反転モードにしておかなければならないということです。でないと、刷り上った漢字が左右逆になってしまい、社長に大目玉をくらいます。「大」とか「目」とか彫ってるうちはいいですが、「玉」の時点でアウトですからね。実際、左右対称な文字のほうが少ないんです。現実は過酷ですよ。

というわけで、昔はそれはそれは、大変だったのです。

まさか今の話信じた人はいませんよね。

さて、ええ、何の話でしたっけ? ああ、漢字をせっせと覚えたという話でしたよね。

そう、あの、小学時代の血も涙もないスパルタ教育で、毎週毎週新しい漢字を覚えてはテスト、覚えてはテストを繰り返し、

テストで間違えようものなら「覚えるまで書け! 100回書け!」と居残り勉強させられ、

100文字書くころには日も暮れてカラスも山に帰り、

私もようやく家路につくものの夕食の時間に間に合わず、熾烈な兄弟間の食物争奪合戦に不戦敗して結局夕食抜きの憂き目、

しかし漢字を覚えるためには糖が必要ですから、親が戸棚にしまって鍵をかけて電気を消しておいた、そんなとらやの羊かんに目を付け、サムターン回しで戸棚を開けて(どういう戸棚や)みごと羊かんゲット、糖を補給して再び明日の漢字テストに備える私だった…

かどうかは記憶にありませんが、そのくらいはやっていたはずですね。でなければこんなに覚えられたはずありませんからね。おかげで私もついには、

 「マーボ」と書いて「しろ」とルビをふる

といった高度な文字遊びができるまでに成長したわけです(↑漢字使ってないやん)。

しかしこれから始める話は、私がそうやって成長を遂げる以前の話です。

って、まだ話続くの?

ていうか、まだぜんぜん本題に入ってないし(がーん)。

どうしよう…。いくらなんでも長すぎますよね。3行超えてるし(とっくにそうだろう)。いま思い出したけど、ここは3行日記なんですよ。さすがにこれはやりすぎですよ。

しかも、ここまで引っ張っといて何ですが、本題も別に大した内容じゃないんですよね。言わば、内容が、ないよう、という…。

・・・・

さてみんながあきれて帰ったこのあたりで、いよいよ本題行きますか。

上述したような激動の漢字戦国時代のさなかのこと。あるとき私は「髪」という漢字を覚えました。「髪」、みたいな画数の多い漢字を覚えたということは、もうそんなに子供じゃなかったと思います。たぶん10代前半くらいですかね。

さて漢字を覚えたら、週に一度かそこら、覚えた漢字のテストがあります。そのテストの直前のことでした。クラスメイトの1人が、「髪は長い友だちなんだよ!」と言い出したのです。

聞くと、「髪は長ーい友だち」という、TVコマーシャルがあるのだそうです。彼女は、「だから髪は、長いって書いて、3本線書いて、友って書くんだよ」と言います。

私は「髪」という漢字を眺めてみました…。



左上の部首は、「長」ではありません。形状が少し違いますね。



念のため明朝体でも見てみましょうか。やっぱり違いますね。



そこで私は彼女に言いました。「形が違うよ」

しかし彼女は言い張ります。「いや、だって、TVで言ってたもん。TVで言ってたから、長いっていう字なんだよ」

ところで私も当時はまだ疑うことを知らない純粋な人間でした。どう見ても違うけど、彼女がそこまで言い張るのなら、まあそうなんだろうなーと思ったのです。

だからテストのときには書きましたよ。長い(シャッシャッシャ)友だち、って!!







×くらいました。(どーん!!!)



スクランブルゴルフコンペに行ってきました
  2008/12/14
ここしばらく更新をサボっていたのは単純に怠慢からであって、別に風邪をひいたとか変なものを食べて寝込んだとかいうことはありません。体調は良好です。現に先日、定期的な検査のために病院に行きましたが(まだ行ってるんですよ…。「もう来なくていいからね」ってそろそろ言われてもいい頃だと期待してるんだけどなかなか言われません)万事順調で血液検査の所見も問題ナシです。まあ、コレステロール値はあいかわらず高めですけどね。これについてはまたそのうち書くとして…。

今回重い腰を上げて、というかむしろ腰を下ろして、長文を書くことにしたのは(いきなり長文宣言ですかそうですか)、スクランブルゴルフのコンペに参加したので、そのご報告をしないといけないな、と思ったからです。

スクランブルゴルフというのは…、

ゴルフに興味のある方ならすでにご存知だろうし、ゴルフに興味のない方はそんなこと知りたくもないだろうから、ことさらに説明しませんが、早い話、1組4人(あるいは3人、あるいは2人)のチームで、一番いいボールを選びながら、全員同じ場所からボールを打っていく、というものです。

結局説明するんなら、変な前置きせずに説明しとけって言いたいですよね。

さて。

ゴルフを始めて5年目を迎えた我々は、このところあまりラウンドに行っていませんでした。

練習の回数も減っています。最初の頃の情熱が薄れて、モチベーションが下がってきてしまったのです。モチベーションが下がってみてハッと気がつけば、ラウンド代というのは決して安くはありません。そして、ここだけの話、最近は収入が途絶えがちです…。仕事がないときは時間はあるがお金がない、の法則のとおり、時間が余っていても、仕事が来るアテがなければ、ラウンドにポンポンとお金を使う気には到底なれないのです。

そして、ラウンドをしないと、ゴルフに対するモチベーションは、ますます下がってしまいます。まさに負のスパイラル。

こんなことではいけない…。

と思って、たまにラウンドに行くこともありました。しかしそのたびに、ちっとも上達していない自分をゴルフ場の中に発見するのです。実際、ラウンドが終わってスコアを数える私の自尊心はズタボロです。皆さんご存じないでしょうが、waka-yはけっこう自尊心が強いのです…。

なぜ自尊心(そして、場合によっては胃腸の良好な状態)を危機に晒してまで、ゴルフをしなくてはならないのでしょうか?

さあ、そこでスクランブルゴルフです。

一番いいボールを選ぶのですから、当然トラブルは少なくなり、良いスコアが出ます。ヒッカケ、ダフリ、チョロ、池ポチャがなかったことになり、また、(飛距離の問題で)自分が普段打てないような位置からボールを打つことができます。このルールだと、ボールの行方が定まらない人でも、自分のボールを泣きながら追いかけ続ける必要がないため、あせらずにラウンドを楽しむことができます。このためスクランブルゴルフは、一般に初心者向きのゲームであると言われています。

とすると、中〜上級者であるwaka-yには必ずしも向いていないかもしれません。


マーボ「こいつ一回しばくか」 ユズ「言わせておけばいいでちゅ」

まあ、それにしても、スクランブル形式は(誰かがいいボールを打ってくれるので)気軽にプレーできてなかなか楽しめました。実際waka-yは、ラウンドが終わったときの感想として、いけしゃあしゃあとそのように述べたものですが、他の人の感想を聞くと、意外と「チームプレーなので個人のときにはない責任を感じた」っていうのが多かったです。

うーん、これが、本物の中〜上級者との意識の差ですかね!

ときに、今思ったんですが、ダブルスのスクランブル対決なんていうのも面白いかもしれません。というわけで、やの氏&waka-yチームと勝負したいというチームを募集します。かかってこいやあ! (スコアの牽引については、おまかせしましたよ>やの氏)


フィルムカメラがなぜ面白いかに関する逆説的な考察(長文)
  2009/04/30
前回「フィルムカメラの面白さのポイントは、写真1枚あたりのコストが高いこと」と書きましたが、それはいったいどういうことなのでしょうか。「それはいったいどういうことなの?」という質問コメントがつくのを今か今かと待っていましたが、もう待ちきれません! waka-y自ら、質問を発することにしましょう。

「写真1枚あたりのコストが高いと、なぜ面白くなるの?」

そして、waka-y自らこれに答えようではありませんか。

しかし、これがまたけっこう奥の深い話なのです…。伝えるのはなかなか難しいかもしれない。となると、またしても長文の予感ですね…。思うんですけど、長文はいけません。長文は。なにしろ、

 文章は短く簡潔に!

がモットーの私ですからね。この精神は、ここの「3行日記」というタイトルにも大変よく現れていると思います。長文はよくありません。なぜ長文がいけないのか。それは、長文は多くの人々を苦しめるものだからです。

この世界には、文章があふれかえっています。すでに、その供給は需要を超えているのではないかとすら思われます。人々は、時勢についていくために新聞を読み、一般常識と教養と話のネタを仕入れるために雑誌を読み、知識を身に付けるためにいろいろな本を読んで勉強します。

そんなこんなでただでさえ時間がないのに、その上なぜ、waka-yの文章など読まなければならないのでしょうか?(え、別に読んでない? ですよね…)

そもそも長文は、その見た目だけで人々を圧倒します。ちょうど、拒食症で苦しんでいる人の目の前に、山盛りの料理を並べるようなものですね…。今の世の中、情報に飢えている人なんてそうそういません。情報は多すぎてうんざりするくらいです。そんなところへさらに、大きな段落のブロックをどーんどーんどーんといくつか並べてやれば、それはもう人々を辟易させ、その場から一刻も早く逃げ出さなければと思わせるのに十分です。

思うんですよ…。なんでアメリカ人ってあんなに長い文章を書くんでしょうね。しかも、段落を切りません。全然途切れない文章をほとばしるままにダダダダダとマシンガンのように書き連ねるのです。結果として、1ページまるまる、すき間なく文章で埋まっていたりします。一瞥しただけで、日本人ならたぶんノックアウトですよ。だって相手は英語ですからね。1文だって恐ろしいのに、段落ごと束になってかかってこられたら、もうギャフン! ギャフン! ギャフン! ですよ。せめて段落はちょくちょく切ってほしいですね。そのほうが見た目に優しいと思います。本当に、

段落は、こまめに切ったほうがいい。

そう思います。

まあ、

切りすぎも、

よくないでしょうがね。

にしても、英語ネイティブの人には、ああいう文章ギッシリは別に脅威じゃないんですかね…。日本語ならまだいいと思いますよ、段落が多少長くても。だって日本語は、ひらがな、カタカナ、漢字が混ざっていて、見た目に楽しいですからね。でもって、「読み手に脅威を与えない、かな、カナ、漢字の最適なバランスとは」とかいう研究テーマを思いつく余地もありますしね。そういう点で、日本語は本当に素晴らしいと思います。

しかしそんな日本語であっても、やはり長文はよくありません。

その昔、ピタゴラス学派の人たちは、人々にピタゴラスの定理を広めるために、次のような図を描いてただ一言



「見よ!」とだけ言ったとか、言わなかったとか(どっちやねん)。

私もこれを見習うべきかもしれません…。つまり、日記には猫の写真でも載せて、一言



見よ!

とだけ書くのが、最も洗練されたスマートなやり方かもしれません(もっともこの場合は人類の英知に何一つ貢献しませんがね)。

本当に、毎日それだけのほうが、いいような気もします…。そうすれば、私も長文を書くために頭を悩ませなくてすむし、読者の方もそんな長文を目にすることで悩まされずにすむし、ネットワークに余分な負荷をかけないから、たぶんエコです。

それにしてもまさか皆さんは、私が「写真1枚あたりのコストが高いとなぜ面白くなるのか」と誰も質問してくれなかったことに逆ギレして、腹いせに、こんな横道に逸れた話をダラダラ続けているのだ、などと思っていないでしょうね?

もちろんそんなことはありません。すぐ横道に逸れるのは、それがwaka-yの本質だからです。

waka-yのネイチャー、と言ってもいいでしょう。

にもよく言われます。「君はなぜいつも、何か1つのことを始めると、それが終わらないうちに、別のことを始めるのか」

なぜでしょうか。それは私にとって明白です。つまり「物事は、構想を練っているときが一番面白く、実行でそれをなぞるのは退屈な作業でしかない」からです。このため、ある構想を実行に移す段になると、つまらなくなって、別のことを考え始めるというわけです。

文章を書く、という行為にも、似たところがありますね…。頭の中で考えている間はとても面白くて、その面白さに自分でもwwwwwwwというくらい面白いんですが、こうしていざ実際の文章に表してみると、陳腐で、くだらなくて、たぶん他の誰かがとっくの昔に同じようなことを書いたんだろうな的な、愚にもつかないものに思えてきます。

現実化、ということには、そのような残酷な面があるのです。

写真についても同じようなことが言えます。撮っているときは「今すごくいいの撮れちゃったんじゃないの? これってもしかして、すごい傑作なんじゃないの〜?!」と思ったとしても、実際そうなっていることは稀です。自分が思っていること(理想)と仕上がり(現実)の間には、かくのごときギャップがあるのです。

しかし近年、カメラの高性能化が、そのギャップを小さくしました。そしてデジカメ時代になり、高性能だけでは足りない部分を数撃ち作戦でカバーすることによって、撮影に成功する確率が一段と上がりました。1枚あたりのコストが安いこと、そして撮れる枚数にほとんど制限がないことが、これを可能にしたのです。

ですから、あまり深く考えなくても、シャッターボタンを押すだけで、つまみ食いをするかのごとく手軽にじゃんじゃん写真が撮れるのです。

でもちょっと待って? それでは、私の大好きな、「構想を練る」時間がほとんどないではありませんか!

さあ、そこで、フィルムカメラです。フィルムカメラは1枚あたりが高くつくので、嫌でもいろいろ考えなければなりません。何を撮るのか。どう撮るのか。光の具合は…。構図は…。そもそもこれは、本当に撮る価値があるのか?

あれこれ考えた挙句、結局撮らないこともよくあります。でも、それでもいいじゃないですか。貴重な1枚を撮るためにシャッターボタンを押すことのできる瞬間を探しながら過ごす時間も、それはそれで、楽しいものですよ。

ここまで読んで「フィルムカメラの良さがちょっとわかったような気がする」という方が一人でもいたら、私もこんな長文を書いた甲斐があったというものです。まあ、途中、明らかに無駄な部分があったような気もしないでもないですが。

でもね、フィルムカメラの良さを伝えようと思うなら、本当は、こんな文章を長々と書くのでなく、それこそ、フィルムカメラの良さをまんべんなく盛り込んだ素敵極まりない写真を撮って掲載し、一言「見よ!」とだけ言ったほうがいいんでしょうね…。そんな素敵な写真を撮れない人間の悲しさと言うべきか。では皆さん良い写真ライフを。


散歩中に雨に降られるということについて
  2009/07/12
キノコの話を首を長くして待ち望んでいる方には大変申し訳ありませんが、キノコの話はしばらく延期になりそうです。

代わりに、上のタイトルどおりのお話をしようと思います。

言っておきますが、長文です。

散歩中に雨に降られるということについて、何をそんなに語りたいのか、と疑問に思われる方もいるかもしれません。しかし私は、ふらふらと散歩に出かけた先で雨に降られた、しかも傘がない、という状況ほど情けないものはない、ということを、声を大にして人々に伝えたいのです。

私が言わなければ、他にこれについて言う人はいないかもしれない。

いま私は、訳のわからない使命感に取りつかれています。

散歩、と言って…、そうですね、おそらく読者の皆さんの多くは都会に住んでらっしゃるでしょうから、散歩中に雨に降られてもそれが何か? と思われるかもしれません。しかし私の言う「散歩」とは、街なか、つまり雨に降られても逃げ込めるお店や傘を買えるコンビニがすぐに見つかるような場所を歩くというものではありません。戻っても進んでもおそらく500メートル以上はそういった類のものが見つからないであろう、というシチュエーションを頭の中に思い浮かべてください。

これは、電車から降りて駅を出てみたら雨だった、しかし傘がない、という状況とは性質が全く異なります。濡れるのは同じですが、駅であれば、その人の陥った状況は誰の目にも明らかです。このような不運に見舞われた人は、空を見上げ、手を差し出して手のひらに雨を受け、ため息を1つついて、やおら決然とした足取りで歩き出します。それは人生の一面を象徴するひとコマであり、よくある日常を切り取った1つの短いストーリーであり、絵になる光景であるとすら言えます。しかし雨に降られたのが、ハイキングコースでも何でもない、目的地も何もない散歩途中の適当な場所となると…。なんでその人はそんなところで雨に濡れているのか、意味がわかりません。

この微妙な点がおわかりいただけるでしょうか…。この場合、その人にはそのような状況に身を置かなければならない必要性も必然性もまるでなかった、ということが、事態をより間抜けなものに見せています。

たとえるなら、エサも何もついていない釣り針にかかってしまった魚のようなものですかね。

わかりにくいたとえですね…。意味もなく困った状態に陥る、ということを表現したかったのですが。

そういえば、話はちょっとずれるけど、私はときどき自分の結婚を振り返って、自分はエサのついてない釣り針にかかった間抜けな魚のようなものだったな、と思うことがあります。

どう考えても、釣り針にエサはついていませんでした。

この場合エサというのは、そうですね、たとえば、

「必ず君を幸せにする」

といったような、プロポーズの言葉でしょうか。

しかしもし実際私が万が一こんなことを言われた日には(誰にも一度たりとも言われたことはありませんが)、ロマンチックな性質を大昔にどこかに置き忘れてきてしまった私ですので、と考えて「?????」となってしまうかもしれません。そしていま私の頭の中に浮かんでいるのは、「われ鍋にとじ蓋」という言葉です。しかしこの話を続けるのはやめましょう。やめたほうがいい。必ず墓穴を掘るという予感がします。なんでこんな話を始めたのかな。

話を戻して…。

そうだ! もっといいたとえを思いつきました。

私は以前、そう、忘れもしない2007年10月13日(←いま過去ログを検索した)、散歩をしていてイノシシに遭遇しました。幸い危険な状態には全くならなかったのですが、もしそこで、イノシシに激突されて死んでしまうようなことがあったら…。死んでしまうという、そのこと自体も非常に残念なことではありますが、なおいっそう悪いのは、その死がまるで無意味な死であるということです。だって私には、そこを通らなければならない理由も目的も何一つなかったんですからね。

実際そのときイノシシから離れようと努力しながら、私は頭の中で、死んでしまう可能性そのものよりは、むしろその無意味さ、というか間抜けっぽさについて、心配していたと思います。

散歩中に雨に降られるというのはもちろん、「イノシシによる激突死」よりは数段マシな出来事です。しかし間抜けっぽさはあまり変わりません。

言いたくありませんが、私は過去、散歩中に雨に降られて、小さな川にかかった橋の下の狭いスペースで雨宿りをした経験もあります。

そういう状況がどんなに情けないものかわかっているので、以後は万全の用意を忘れないように心がけてきました。

なのに先日、またやってしまったのです。

その日は家を出たときは晴れていたのに、1時間もすると雨が降ってきてしまいました。このときはやの氏も一緒でしたが、二人とも傘を持っていません。普段はちゃんと持っているのにこういうときに限って、そう、こ う い う と き に 限 っ て、二人とも持っていないのです。ブームはとっくの昔に過ぎ去っていますが、マーフィーの法則は今も私たちの心の中に生きています。そして雨の中、道端の木の下で雨宿りをする私たちに残された選択は、(1)雨が止むのを辛抱強く待ち続ける、(2)びしょぬれになるのを厭わず歩いて家まで帰る、の2つであるかのように思われました。

(ちなみに、(3)タクシーを呼んで乗って帰る、という選択肢はありません。そんな余計なお金をかけるわけにはいきません!)

辛抱強さをさして持ち合わせていない我々がいよいよ(2)の選択肢を採用し、雨の中へ踏み出そうと心を決めかけたそのとき!

「良かったらこれをどうぞ。返さなくていいですから」

と声がして、向かいの家の方が、ビニール傘を差し出してくれたのです。

思いがけず現れた第4の選択肢…。本当うれしかったです…。

そう、私は最初から今日の日記に、このことが書きたかったのです。しかしいざ書き出してみたら、全然別のことを書いてしまったというわけです。

作文の先生がいたら、すごい勢いで0点つけそうな、要点のわからなさ。

まあいいです。0点が怖くて日記が書けるか。私もそのうち何か人の役に立つことをしようっと。では皆さん良い散歩ライフを。


久々に散歩
  2009/08/12
昨日は久々に散歩に出ました。通りがかった神社に、こんな(↓)ねじねじの木があって、驚きました。



ビャクシン(イブキ)という木だそうです。なんでこんなねじねじなんだろう。面白いですね!

※以降、虫が嫌いな方は読まないほうがいいかもしれません。

さて、私が散歩に出るのには、たいがい気晴らしとか、土地調査とか、野草観察とか、鳥見ポイント探索とか、いろいろな目的が欲張りにも盛りだくさんなのですが、今回はそれ以外に、「あわよくば夏眠しているテントウムシを見つけて観察する」という目的もありました。

聞くところによると、テントウムシって、真夏はどこか目立たないところ(草のかげとか?)でみんな休んでいるらしいんですよ。夏は暑くてやり切れないから、眠った状態でしのぐんだそうです。

きっと、春のうちにたらふくアブラムシを食べて、夏を乗り切る力を蓄えるんですね。

え、テントウムシは本当にアブラムシを食べるのかって? 食べる食べるって聞くけど、自分の目で見ないことには信じられない? 本当に食べるというのなら、その様子を見てみたい? そうですか、そこまでおっしゃるのなら仕方ありません!(誰も言ってねーよ) 下は、アブラムシを食べに来たナナホシテントウの写真です。この場にいきなり載せるのもアレなので、リンクにしておきますね。↓

ギシギシにたかるアブラムシを食べに来たナナホシテントウ

こうやってリンクにされると気になりますよね。虫嫌いな人も、怖いもの見たさでこれをクリックして、自分の好奇心の強さを悔やむがいいですよ。まあでも、この写真は実際のところそんなでもありません。個体数の上でも密集度の上でも、もっとすごい光景を見たことがあります。残念ながらそのときはカメラを持っていなかったので、写真は撮れませんでしたが…。お見せできなくて残念です。見せられても迷惑でしょうが…。

さて、ギシギシという植物は、春から夏にかけて、道ばたや原っぱでよく見かけます。


ギシギシ

そして春の間は、多くのギシギシが、黒いアブラムシにギッシリ取り付かれています(←その名もギシギシアブラムシと言うらしい)。皆さんもそういう光景を目にしたことがおありかと思います。毎春毎春、ギシギシは、アブラムシにビッシリ取り付かれて、なすすべもなく汁を吸われ続けるわけです…。

そしてそこへ、テントウムシがやって来る。アブラムシは俊敏に逃げる手立てをほとんど持たない虫ですから、どんどん食べられます。どんどん食べられても、そもそも殖えるスピードが並みじゃないので(雌単独で、コピペのように殖えるらしい)、いなくなることはありません。一部がどんなに無抵抗に捕食されようが、その他が生き延びればいい。そういう戦略なんですね…。

で、テントウムシですが、これを捕食する鳥とかはいないらしい。どうやらすごく不味いみたいで、あんなに目立つ赤い色をしているのも、「オレはめっちゃ不味いからな! 気ィつけろや!」という警戒色の意味らしい。

ギシギシはアブラムシに汁を吸われ続け、アブラムシはギシギシの茎が真っ黒になるまで殖える。テントウムシはそんなアブラムシを食べ放題食べながら、あまつさえ、その場で交尾したりしているんです。

恐ろしい…。恐ろしい光景ですね…。お釈迦様が蓮の間から下を覗くと見える地獄というのは、もしかしてこんな感じだったんですかね。

と、まあ、そういうわけで、私はこの春、かなり密集したナナホシテントウをギシギシの上に目撃しました。しかし夏眠なら、もっと密集しているかもしれません。今回の散歩では残念ながら見つけられませんでした。なかなか見つけるのは難しいと思います。でも一度、見てみたいんですよね。

なぜ密集したテントウムシに興味を持つのか。これには、怖いもの見たさもありますが、他にも取るに足らない理由があるのです。それは、子供のころに見た、ある夢です。

しかしこの手の話を続けていいものか。すでに、これまでの記述で、(もし存在していたとして)女性の読者がだいぶ逃げていったと思いますよ。やっぱ良くないわ、虫の話は。

とか言っちゃってー! もう遅いわな。書いちゃったもん。そんなわけで、続く(かも)。


虫の話の続き
  2009/08/17
性懲りもなく虫の話の続きです。

しかし私は何も虫が好きだというわけではありません。どちらかと言えば好きではありません。虫の集団とか、むしろ怖いですよ。私ばかりではないと思います。人々が「美しい自然」と言う場合、意図的にか無意識にかわかりませんが、ほとんどの場合、そこから虫は排除されているのではないでしょうか。でも「虫の惑星」という言葉に表されるように、虫はこの地球上では無視できない勢力です、虫だけに!

・・・・

なんでしょうね。今日はせっかく張り切って長文を書こうと思っていたのに、出鼻をくじかれた感じがします(自分でくじいたんだろーよ)。

気を取り直して、えー。

虫が苦手なのは私ばかりではありません。やの氏も好きではないようです。

(※虫が嫌いな方はそろそろ注意しましょう)

先月半ば、一緒に散歩したときのことでした。

私たちは小さな川(というか水路)沿いを、木や草やアマガエルを観察しながら歩いていました。蝶も飛んでいました。蝶も虫ですけど、蝶はいいんですよ、別に。


シロツメクサとヤマトシジミ


ネムノキとキチョウ

と、まあ、いろんなことに感心しながら歩いていたんですが、ふと上を見ると、たぶんミズキか何かの木だと思うんですけど(樹木の種類わかりません><)、その葉っぱにですね、

(※虫が嫌いな方、引き返すなら今だ!)

えー、たぶんカメムシの仲間かと思うんですが、1cm弱くらいだったかなあ、そのくらいのサイズの緑色の虫が、葉っぱの裏に、ギッシリついていたんですよ!

葉っぱ1枚あたり20匹くらいはいましたかね。そんな虫の集合を見たのは初めてだったので私は非常に驚いて、

「うわー、何何何これー。何て虫?」
「何してんのかなー。暑いから寝てるのかな?」
「何匹くらいいるのかな。あっ、見て見て! こっちの葉っぱにもいる! あ、こっちにも! あっちの木にもいるよ!」

と、少し前を行くやの氏に向かっていろいろしゃべっていたんですが、彼ときたら私が何を言っても

「んー」

と生返事で、下を見て歩きながら何か別な被写体を探しているんですよ。

私はピーンときましたね…。彼は、不愉快なものを見たので、それに関する会話を避け、その光景を記憶にとどめまいとしているのです。やの氏は、嫌なもの、あるいは嫌なことを見たり聞いたり経験したりすると、それに関する思考を一切停止することによって、それを脳内から締め出してしまう。そしてついには完全に忘れてしまうという、驚くべき特技を持っているのです。

でも残念でしたね。私がこうして書いてしまいましたから、これを読めば、きっと思い出すであろうのみならず、二度と忘れられないでしょうよ。

やの氏には悪いけど、妻というのはそういうものなので、仕方がありません。男の人がせっかく気持ちよく忘れていることを、数日後、あるいは数ヶ月後、あるいは数年後に

「そういえばあのとき…」

と持ち出して、決して忘れさせないのです。だからみんな気をつけたほうがいいと思います。まあ、気づいたときには、もう遅いでしょうがね。

何の話だっけ?

ああ、虫の集団ですね。私としても正直、カメムシはちょっと怖かったですよ。しかしあれがもしナナホシテントウだったらどうでしょうね? 1匹1匹はまずまず愛らしいナナホシテントウですが、集団だとどうか?

私は前回、子供のころの夢うんぬんと書きましたが、実は、それがまさに、そういう夢だったのです。ナナホシテントウがズラリと並んでいたんですよ、夢の中で…。続きは次回。


テントウムシの夢
  2009/08/18
「テントウムシの夢」、と言ってもですね、

 脱皮して飛べるようになったら、あの輝くお日様のもとに行くんだ!

と夢見続けていたテントウムシがあるときついに成虫になったので、さっそくお日様に向かって飛んでいったところ、お日様に近づきすぎたため、黒焦げになって死んでしまいました。おわり。

とかそういう話をしたいわけではありません。というのも、「夢」というのは将来の希望とか野望といった意味ではなく、普通に、睡眠中に見る夢のことですからね。かと言って、

 テントウムシはコメツキバッタの夢を見るか?

などと論じてみたいわけでもありません。そもそもこの場合「テントウムシの」の「の」は主格を表す「の」ではなく、連体修飾節を構成する「の」ですから、「テントウムシの」の部分は、「夢」がどのようなものかを説明しているのであって、夢を見る主体がテントウムシだと言っているわけではありません。では主体は何か。ここでは省略されていますけど、「私」です。つまり、上のタイトルは、「私が見たテントウムシの夢」という意味なのです。日本語って難しいですね。

いつも思うんですが、なんでこう無駄な前置きをしなけりゃならないんでしょうね。

本題に入りましょう。私が見たテントウムシの夢とは…。

この夢を見たのは、物心ついてまもなくだったかと思います。おそらく、5歳より以前に見ています。なぜそう言えるのか。それは、私がこの夢を見たのは、茨城県取手市に住んでいたときのことだったからです。私は5歳までの数年間、取手に住んでいました。それより以前は東京にいたらしいですが、記憶がありません。私の最初の記憶は、取手でのものです。

幼いころの記憶について考えるとき、私はいつも不思議な気がします。つまり、私はいつから私だったのか? と思うのです。物心つく前の私も、連続して私だったに違いありません。それどころか、生まれる前の私、母親のおなかの中にいた私も、連続して私だったはずです。自分じゃまったく覚えがありませんけどね。そして、それより少し前には、私は存在していなかった…。

そんなことがありうるでしょうか?

ていうか、この世はそんなことばかりなんでしょうが…。

まったく、わからないことだらけですよ。今でさえ、そう、物心ついてから数十年たった今でさえ、こう思うのです。今では私は私かもしれない、しかし、私はどこまで私なのか? と。

だって、私は私のことを知っているつもりでも、本当に知っているのかと言えば、かなりあいまいな気がしますものね。たとえば、毎晩毎晩夢を見るわけですが、なんでそんな夢を見たのか、自分ではわからないことのほうが多いのです。よくヘンテコな夢を見て、…

って、夢?

ああっと! そうでした。夢の話をしていたんでした。またやっちゃった。話を無駄に引っ張ってしまった。しかも挙句に、本題が実はたいした話じゃないという…。

しかしまあ、これはいつものことですから、読者の皆さんは気にもなさらないと思います。にしても長くなりました。というわけで、たいした話じゃないんだけど、続きは次回。


テントウムシの夢・続き
  2009/08/20
昨日はゴルフのラウンドに行きました。1年ぶりくらいだったかな。それで、やの氏は80を切ったのに、私は2年前とぜんぜん変わらないスコア…。すっかり打ちひしがれてしまったので、日記の続きを書く気力もわきませんでした。

 打ちひしがれたwaka-yの図 → ○| ̄|_

しかし丸1日たって元気が出てきました。なので、続きを書きますかね、チャッチャッチャと。

私が物心ついてまもないころに見たテントウムシの夢というのは、おそらく、私がこれまでに見た、記憶にあるうちで最も悪い夢・ワースト3に入る夢だったと思います。幼い私にとってもかなりインパクトがあったので、その後ずっと覚えていたんでしょうね。

舞台は、当時住んでいた家から少し北に行ったところにある、土手のような斜面。高台との段差の斜面だったかな、確か。芝か何かが植えられていて、たぶんそこは、私たち子供の遊び場の1つになっていたのでした。

その斜面、です。

夢の中では、その斜面が、ナナホシテントウで…、バレーボールサイズの巨大なナナホシテントウで、縦も横もビッシリ埋まっていたのです。

そして私は、その斜面をよじ登っていかなければならなかった…。

なんという恐ろしい夢でしょうか。

しかし現在の私の関心事は、その恐ろしさではなく、なんでそんな夢を見たのかな、ということです。何かそれに類したものを、夢を見る前に、実際に見たのでしょうか。TV、絵本、あるいは現実世界で…。

最近になって、テントウムシが集団になることがある(らしい)と知った私は、こう思ったのです。ひょっとすると幼い私は、ナナホシテントウの夏眠だか冬眠だかを、実際に目にしたことがあるのではないか?

テントウムシの夏眠を見てみたいと思ったのは、そういう理由もあったのです。まあ、見たところで、何か思い出すということもないでしょうがね。

にしてもナナホシテントウの夏眠は、もうそろそろ終わってしまったかもしれません。昨日もラウンド中に、芝の上を歩いているナナホシテントウを見ましたから…。

もうすぐ秋。暑さももうちょっとの辛抱、ってことですかね。


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