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3.



 ラクロット氏を見送った後、ロイドは再び結衣の側に戻ってきてしゃがんだ。
 自分の理解の範疇を超えている事態に、半ば放心状態で結衣はロイドに尋ねた。
「私、日本に帰れるの?」
「現時点では、何とも言えない」
「やけに冷静なのね。この国ではよくある事なの?」
「過去に何度かあったらしい。それにオレの研究課題のひとつでもあるしな。おまえにはしばらくの間協力してもらう」
 ロイドは先ほどラクロット氏に話した事を結衣にも告げた。
 結衣を転送してしまった原因が判明するまで、この装置は使えない。また誤動作を起こしては困るからだ。
 王子の捜索は、引き続き転送できない機能縮小版の検索マシンで行う事になる。だが、機能が縮小されている分、正規版に比べておそろしく時間がかかる。そのため、人による捜索隊も結成された。
 王子の不在を公にするわけにはいかない。捜索隊も信頼できる少数精鋭となる。こちらも時間がかかる事は必至だ。
「そこでだ。殿下が見つかるまでの間、うり二つのおまえに身代わりを演じてもらいたい」
 有無を言わさぬ命令口調にムッとして、結衣は間髪入れずに拒否する。
「無理よ! 王子様って男でしょ? 私は女なのよ」
「確かにそのようだな……」
 ロイドは結衣の胸の辺りを見つめた。そして、
「体型的には大して問題ないと思うが……」
と言うと、指先で結衣の胸をツッと撫でた。
 ショートパンツと、ノーブラにキャミソール一枚のお昼寝スタイルの結衣は、生の胸を撫でられたような衝撃に背中の真ん中に悪寒が走った。
「触らないでよ、エロ学者!」
 咄嗟に胸をかばってロイドを叩こうとしたが、ヒョイとよけられ空振りに終わった。
 悔しいのでロイドを睨んでわめく。
「どうせ胸小さいし、背高いし、男と変わらないわよ! 昔から、何食べてそんなに大きくなったの? とか、毎日牛乳飲んでるの? とか、聞き飽きてるわよ! 牛乳なんて大嫌いよ!」
 ロイドは呆気にとられて結衣を見つめ嘆息した。
「話が飛躍しすぎてるぞ」
 そして、そう言った後、クスリと笑う。
「そうか、背が高い事を気にしているのか。殿下と同じなら、オレにはちょうどいいけどな。あんまり小さいとキスをするのも一苦労だ」
 呑気に笑うロイドに、結衣は一気に脱力して肩を落とした。
「あなたの女の好みなんて、どうだっていいわよ」
「まぁ、体型はともかく、その声は何とかしないとな」
「だから、無理だって言ってるでしょ?」
「オレにかかれば無理ではない」
 ロイドはニヤリと笑い、ポケットからピルケースを取り出した。フタを開け、中から直径二〜三ミリの銀色の粒を指先でつまむと、結衣に差し出した。
「こいつを飲め」
 結衣は顔を近づけて、ロイドの指先を見つめる。
「何? これ」
「声帯の振動を制御するものだ」
 結衣は腕を組み、眉間にしわを寄せると、苛々したように言った。
「学者語でしゃべらないで。わかるように説明して」
 ロイドは面倒くさそうにひと息つく。
「これを飲めば、女の声が男の声に変わるんだ。わかったらさっさと飲め」
 そう言って、銀の粒を結衣の鼻先に突きつけた。
 結衣はその手をはたくと、ロイドを睨んだ。
「イヤよ! あなたの作ったものなんて信用できない!」
「誰に向かって言っている」
 怒りにも似た不快感を露わにして、ロイドが結衣を睨め付ける。その静かな迫力に気圧されて、幾分畏縮しながらも結衣は反論する。
「だって、この機械だって壊れてたじゃない」
 両手を広げて指し示すと、ロイドは額に手を当て目を伏せた。
「壊れてたわけじゃない。誤動作は想定外の外的要因によるものだ。オレが欠陥品を作ったのでも、今日初めて動かしたのでもない。これまでは正常に作動して、それなりの実績もある。でなければ、大切な殿下の御身の捜索にこの装置を使用する事を陛下がお許しになるわけないだろう」
 そして、再び銀の粒を結衣に差し出す。
「こいつも、一年かけてオレが自分の身体で臨床試験を行っている。人体への実害も常用による弊害もない事は立証済みだ。安心して飲んでいい」
 結衣が少し安心しかけた時、ロイドが余計な一言を付け加えた。
「もっとも、オレが試したのは男用だから女用のサンプルは欲しかったところだ」
 途端に結衣はロイドを睨むと益々頑なになった。
「私を実験台にしようとしてたわね?! 絶対、飲まない!」
「男用も女用も高低の設定が違うだけで、基本仕様は一緒だ」
 ロイドがいくら取り繕っても、結衣はもう聞く耳持たない。
「絶対、イヤ!」
 結衣が言い放つと、ロイドはうんざりしたように顔をしかめて小さく舌打ちした。そして、いきなり結衣を押し倒した。
 小さな悲鳴を上げて床に背中をつけた結衣が、抗うように伸ばした両の手首をロイドがすかさずつかまえる。大きな身体でのしかかられ、身体全体で押さえ込まれ身動きができなくなった。
 ロイドはつかまえた結衣の両手首を左手ひとつで掴むと、頭の上で床に押さえつけた。
「イヤッ! 放して!」
 今にも陵辱されそうなこのシチュエーションに恐怖して叫ぶと、結衣は目の前に迫ったロイドの顔を涙目で睨んだ。
 ロイドは空いた右手で銀の粒をつまみ、結衣の目の前に差し出すと冷ややかに命令した。
「口を開けろ」
 結衣は銀の粒をチラリと見た後、目と口を同時に固く閉じて横を向いた。
 再びロイドの舌打ちが聞こえ、乱暴にあごを掴まれると無理矢理正面を向かされた。目を開くと不機嫌そうなロイドが見下ろしている。
「なんとしても、飲んでもらう」
 憮然としてそう言った後、ロイドは意地悪な笑みを浮かべた。
「両手がふさがってるからな。口移しだ」
 ロイドは舌を出すと、舌先に乗せた銀の粒を結衣に見せつけた。
 思わず逃れようと抵抗するが、相変わらず身動きができない。近付いてくるロイドの顔を正視できず、結衣は目を閉じて叫んだ。
「イヤ――――ッ!」
 叫んで開いた口の中に何かが飛び込んできた。どうやら結衣の口の中にロイドが銀の粒を吐き出したらしい。
 予想外の事態に結衣は、咄嗟に目を開き息を吸い込んだ。その拍子に飛び込んできたものが、喉の奥へゆっくりと滑り落ちていく。吐き出そうと頭を少し持ち上げたところを、ロイドが手の平で口を塞いで頭を床に押しつけた。
 少しの間そのままで、ウーウーうなる結衣をロイドは黙って見下ろした。そして、
「そろそろいいか」
と言うと、結衣の拘束を解いて身体を起こし床の上に座った。
 結衣も起き上がると、首を押さえて咳き込んだ。
「ったく、手間を取らせるな」
 面倒くさそうに言うロイドを、結衣は涙目で睨む。
「なんて事するのよ! ひとの口の中に!」
「おまえが口移しはイヤだと言うからだ」
「あなたの唾液まみれのものを放り込まれたら口移しと変わらないじゃないの! っていうか、吐き出したもの飲まされるくらいなら口移しの方がマシよ!」
 拳を握りひざ立ちで怒鳴る結衣を見て、ロイドはニヤニヤ笑う。
「なんだ、オレとキスしたかったのか。それは悪い事をしたな」
「どういう思考回路してるのよ!」
「超優秀な思考回路だ。丁重に扱えよ」
 そう言ってロイドは自分の額を指先でコツコツ叩いた。その横っ面を思い切り張り倒そうとして、またしても空振りに終わった。
 結衣は諦めて床に座り込むと首を押さえた。
「もぉ〜。なんか喉に引っかかってるしぃ〜」
「それは好都合だ。その感覚を覚えておけ。飲み下さずに喉に引っかけるんだ。明日から毎朝飲む事になるしな。まぁ、飲み下しても胃酸には耐性があるし勝手に声帯まで移動するんだが、その分起動までに時間がかかる」
「毎日……?」
 また訳のわからない説明をするロイドに文句を言おうとして出した声が自分のものではなかった。
「えー? 声がヘン。何? これ」
 結衣の声を聞いてロイドが目を見張った。
「驚いたな。声まで殿下にそっくりだ。骨格が似てるからかな」
「王子様ってこんな声なの?」
「あぁ。立ってみろ」
 そう言ってロイドは立ち上がった。言われるままに結衣が立ち上がると、ロイドは頭の天辺から足の先まで、結衣の姿をしげしげと眺めた。
「声も顔も背格好も、ほぼ見分けが付かない。おまえの方がかなり細いが、服を着たらわからないだろう。おまえ、もう少し太れ」
 相変わらずの命令口調に結衣は不愉快そうに眉を寄せ、腕を組むとロイドを睨んだ。
「どうして私が王子様の体型に合わせなきゃならないのよ」
「抱き心地が悪すぎる。小骨が刺さってしょうがない」
 ロイドの言葉がまったく王子とは関係のない事を意図していたのを知り、先ほどのしかかられた事を思い出して、結衣は真っ赤になって怒鳴った。
「あなたに抱かれるつもりないから! ひとの事をイワシの煮付けのように言わないで!」
 ロイドは額に手を当て嘆息した。
「その声で女言葉はよせ。殿下がご乱心あそばされたかと思われるだろう」
「この薬、効果はどのくらい続くの? 毎日飲んでたら効かなくなるんじゃない?」
「それは薬じゃない。人の話は真剣に聞け。薬が都合よく移動したりするわけないだろう。声帯に取り付いて声帯の振動を制御するマイクロマシンだ」
 不愉快そうに無言で睨む結衣を見て、ロイドは言い直した。
「声帯に取り付ける、ものすごく小さい変声機だ。作動時間は約十五時間」
 機能についてはわかったが、何の役に立つのかよくわからない。今回はたまたま役立っているようだが。それが気になったので尋ねてみた。
「どうして、こんなもの作ったの?」
「男が女の声になったらおもしろいと思わないか?」
 頭の中を木枯らしが吹き抜け、カラスが一声啼いたような気がした。
 どうやら元々自己満足のおもちゃのようだ。そのおもちゃにロイドは一年かけて臨床試験を行ったと言っていた。改めて学者の思考回路はよくわからないと結衣は思った。
 少しの間、絶句してロイドを見つめた後、結衣は大きくため息をついた。
「言っとくけど私、王子様の身代わりをするとは言ってないわよ」
 結衣がそう言うと、ロイドは下からすくうようにあごを掴んで、その顔を覗き込んだ。
「おまえに選択の権利などない。拒否するなら監禁するぞ。この顔で国内を自由にうろつかれては困るからな」
「別にそれでもいいわよ。ご飯は食べさせてくれるんでしょ?」
 結衣はロイドを見据えて不敵に笑った。そうそう脅しに屈してなどやらない。
 だが、ロイドも負けず劣らず不敵の笑みを見せる。
「タダ飯食えると思うなよ。生体実験のサンプルくらいは覚悟しとけ。だが、夜にはかわいがってやろう」
 そう言うと、結衣の髪をひとつかみ持ち上げて肩の上にパラパラと落とした。
「この、エロ学者!」
 結衣は、あごを掴んだロイドの手を振りほどいて逃れた。ロイドは腕を組むと勝利の笑みを浮かべる。
「殿下の身代わりを演じるなら、王宮内でのおまえの自由は保証しよう。何が得策か、バカじゃなければわかるだろう?」
 結衣はふてくされたような表情で上目遣いにロイドを見上げた。
「わかったわよ」
 承諾したと同時にロイドが結衣の額を軽く叩いた。
「だったら、言葉に気をつけろ。女言葉は使うな。おまえは今からレフォール=ドゥ=クランベール殿下だ。おまえの正体を知っているのは、オレと陛下とラクロットさん、それから殿下捜索隊の五名だけだ。他の者にはばれないように気をつけろ」
 額を押さえながら結衣はロイドに尋ねた。
「じゃあ、教えて。王子様ってどんな人? 性格は? 言葉遣いは? 立ち居振る舞いは? どんな仕事をしているの?」
「それについてはラクロットさんに一任してある。後でしっかり教わっておけ。最低限テーブルマナーくらいは完璧に覚えろ。殿下の仕事は公式行事への参列と王族や貴族との会合会食以外、普段はこれといってないからな。公式行事は当分予定なしだか、会合会食はいつあるかわからない。あらかじめ予定されている公のものはつい先日終わったばかりだが」
 確かに自分のテーブルマナーは怪しいかもしれない。しかも、この国独自のマナーがあるかもしれないし。そう思うと、本来なら味わう事のない豪華な宮廷料理を口にする機会が与えられたのだとしても、かえって気が重かった。
 それにしても毎日会食という事はないだろう。普段の王子は何をして過ごしているのだろうか。同じようにしていなければならないはずだ。尋ねるとロイドは軽く答えた。
「王宮の敷地内に居さえすれば、何をしていてもいい。二、三日は王宮内の探検でもしたらどうだ?」
 結衣は少しの間目を見開いて絶句した後、気を取り直して再び尋ねた。
「王様の仕事の手伝いとかしないの? それに探検してて、うっかり会議中の部屋とか開けちゃったらどうするの?」
「気にするな。そういう事をなさった事もあるらしい」
「……バカ王子?」
 結衣が呆れたようにポツリとつぶやくと、ロイドは意味ありげにクスリと笑う。
「世を忍ぶ仮の姿だそうだ。探検に飽きたらここにいてもいい。殿下はよくここにお見えになった」
 それを聞いて結衣は内心ホッとした。ロイド自身は気に入らないが、王子のフリをしてばれないように緊張しているよりは、事情を知っているロイドのそばにいる方がまだマシだ。
「わかった、そうする。髪は? 切らなきゃダメ?」
「いや、後ろで束ねておけばいい」
 こちらもホッとした。特に思いがあって伸ばしているわけではないが、こんな事で切れと言われるのも不愉快だ。
 寝る前に外して手首に通しておいたヘアゴムで髪をまとめていると、先ほど出て行った初老の紳士ラクロット氏が帰ってきた。
「ヒューパック様、殿下のお召し物をお持ちしました」
「ありがとう、ラクロットさん。陛下の方は?」
 ロイドが服を受け取りながら尋ねると、ラクロット氏は少し頭を下げた。
「いつでも、よろしいそうです」
 頭を上げたラクロット氏は、髪を束ねた結衣を見て少し目を見開いた。それを見たロイドがイタズラっぽく笑うと結衣に耳打ちした。
「ラクロットって呼んでみろ」
 結衣は少しロイドを見た後、言われた通りラクロット氏に呼びかけた。
「ラクロット」
「こ、これは……!」
 途端にラクロット氏は思いきり動揺してのけぞった。
 ロイドは声を上げて笑うとラクロット氏に言う。
「これなら問題ないでしょう? 当分時間が稼げそうです。彼女も快諾してくれました」
 誰が快諾したって? 無言で睨むとロイドは受け取った服を結衣に突きつけた。
「向こうの部屋でそれに着替えてこい。これから陛下に拝謁賜る。くれぐれも粗相のないようにな」
 口を開こうとした結衣に、ラクロット氏がニコニコと笑いながら話しかけてきた。
「あなた様がご協力下さって助かりました。正直、女性には無理ではないかと思っていたのですが、さすがはヒューパック様。感服いたしました」
 人の良さそうなラクロット氏の笑顔に毒気を抜かれ、脅迫されて渋々承諾したとは言えなくなった。ラクロット氏は笑顔のまま自己紹介する。
「私はレフォール殿下のお世話をさせていただいております、エンディ=ラクロットと申します。これより、あなた様を殿下とお呼びさせていただきます。ですが、差し支えなければ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」
 ラクロット氏に尋ねられ、ロイドが今気がついて結衣に問いかけた。
「そういえば、名前を聞いてなかったな。何という?」
 結衣は憮然として、英語風に名乗った。
「結衣よ。ユイ=タチカワ」
「ユイか。一応覚えておこう。呼ぶ事はあまりないと思うがな。”レフォール殿下”」
 そう言うとロイドは笑って結衣を見つめた。




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