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5.



 ロイドの鼓動が聞こえる。規則正しく、穏やかに。優しく頭を撫でる、サラサラという音も耳元で響く。それ以上に、自分の鼓動がうるさく聞こえているような気がしてならなかった。
 気持ちが落ち着いてくると、自分からしがみついた手前、離れる機会を完全に逸していた。
 おまけにロイドの腕の中は、暖かくて心地よくて、離れがたくもあった。
 結衣が機会を窺って悶々としていると、ロイドが頭を撫でる手を止め、静かに問いかけた。
「落ち着いたか?」
「うん……」
 ロイドの声をきっかけに、結衣は俯いたまま、ゆっくりと身体を離した。取り乱してしまった事と、泣きはらした顔を見られるのが照れくさくて、ロイドの顔をまともに見ることができなかった。
「戻ろう」
 そう言ってロイドが通路に足を向けた時、結衣は思い出して地面にしゃがみ込んだ。
「待って、ロイドが……」
「オレが?」
 怪訝な表情で振り返るロイドに、結衣は両手の平に乗せた小鳥を差し出した。
 地面に叩きつけられた小鳥は、そのまま動かなくなっていた。
 小鳥を受け取って眺め回すロイドを見上げて、結衣は再び涙ぐむ。
「この子、私の命令を聞かなかったの。どうして?」
「どんな状況だった?」
 結衣が先ほどの状況を説明すると、ロイドが理由を教えてくれた。
「絶対命令のせいだ」
「人を傷つけてはいけないっていう、あれ?」
「あぁ。同時に人が危険な目に合っているのを見過ごしてもならない。こいつは、おまえが襲われていると判断したんだろう。だが、相手が人間だから傷つけるわけにはいかない。せいぜい邪魔するくらいしかできなかったというわけだ」
「直せる?」
 結衣が上目遣いに見つめると、ロイドは口の端を上げて、額を叩いた。
「誰に向かって言っている。オレが作ったんだ。メモリがやられてなけりゃ、元通りになる」
「よかったぁ」
 結衣が安堵の息をつくと、ロイドは少し目を細め、小鳥を白衣のポケットに収めた。そして思い出したように、反対側のポケットを探ると、掴んだ物を結衣に差し出した。
「おまえ、これが何かわかるか?」
 ロイドの手の平の上には、明らかに携帯電話と思われる物が乗っていた。
「ケータイ?」
「やはり、そうか」
 結衣はそれを手に取り、開きながら尋ねる。
「あなたが作ったの?」
 訊いた後で、すぐに違うとわかった。そこに書かれているメーカー名や文字は日本のものだ。
 電源を入れてみると、待ち受け画面が表示された。バッテリは切れていない。つまり、この携帯電話はつい最近クランベールにやってきたという事になる。
 結衣は驚愕の表情でロイドを見つめた。
「どうしたの? これ」
「ブラーヌから貰った。昨日ベイシュヴェルの遺跡で拾ったそうだ」
「その遺跡、日本に通じてるの?!」
「それがニッポンの物なら、そういう事になるな」
 ブラーヌが言うには、遺跡の装置が活動期に入っているという。本来なら、あと二、三年先のはずだ。何が原因で早まったのか、ブラーヌにはわからないらしい。
 遺跡の装置は三十年に一度、三十日間稼働が活発になる。普段の十〜二十倍の頻度で装置が稼働し、光を放つ。この動作が何を意味するのかはわかっていないが、装置が稼働する間隔は、各遺跡ごとに一定となっている。ラフルールは一時間間隔、ベイシュヴェルは五時間間隔といった具合である。
 それぞれの遺跡は稼働間隔がまちまちで、時々周期的に稼働時間が一致して、一斉に光る時がある。その時は時空の歪みが最大となり、遺跡は異世界への通路を開く。
 過去、遺跡の活動期には、よく物が消えたり、現れたりしたという。人が現れたりするのは稀だが、何例かあるらしい。
「あいつ、そこまでわかっていながら、オレに一言も教えてくれてないんだ」
 不愉快そうに顔をしかめるロイドに、結衣はため息混じりに言う。
「あなたが、訊かないからじゃないの?」
「あいつと同じ事を言うな」
 すかさずロイドが額を叩いた。
「とにかく、おまえが攫われそうになったという事は、誘拐の線は、ほぼ消えたと見て間違いない。まぁ、身代金の要求も犯行声明もないから、元々、可能性は薄かったが。逆に遺跡の活動期が早まったせいで、最悪のケースが浮上してきた」
「王子様が異世界に飛ばされたかもしれないって事?」
「あぁ。今回の事も含めて、陛下にご報告申し上げる。おまえはまた研究室でおとなしくしてろ。今度はローザンのいう事聞けよ」
「うん」
 ふたりは王宮内に入り、そろって研究室に向かった。



 研究室に戻ると、結衣の姿を見た途端、ローザンが駆け寄ってきた。
「ユイさん! よかった、無事だったんですね」
 心底安心したような笑顔を向ける彼を見て、本当に悪い事をしたと、結衣は深く反省した。
 研究室に帰る道すがら、結衣はロイドが助けに来てくれた時の経緯を聞いた。
 怪しい青年と共に結衣が研究室を出た後、ローザンはまず貴賓室の使用状況を確認した。もしも、青年が本物の使いだった場合、いきなりラクロット氏に真相を告げては、内密の接触を断りもなく暴露してしまう事になるからだ。
 ところが確認の結果、貴賓室を使用している者はいないという。ローザンは慌てて廊下に出たが、すでに二人の姿は見えなかった。
 結衣の通信機に発信器の機能がついている事を思い出したローザンは、ロイドに居場所の確認方法を訊く事にした。
 ローザンの通信を受けたロイドは、ちょうど王宮に帰ってきたと同時に、結衣の通信を受け取り、研究室に急いで戻った。結衣の居場所を確認し、警備隊に連絡して、ロイドは馬車置き場に向かったという。
 ローザンの機転がなければ、ロイドの帰りが遅れ、結衣は連れ去られていたかもしれない。
 頭を下げて礼を述べる結衣に、ローザンが恐縮していると、ロイドが話に割って入った。
「悪いがローザン、大至急調べて貰いたい事がある。十日前からこっちで全遺跡の稼働間隔と、その最小公倍数だ。あと、できれば各遺跡の平均稼働時間も」
「はい。さっき見てたデータでいいんですよね?」
 ローザンがそう言って、まっすぐ見つめると、ロイドはなぜか気まずそうに目を逸らす。
「あぁ。オレは陛下のところへ行ってくる。それでまた、ユイを頼んでいいか?」
 ロイドがローザンに対して下手に出ている。お願いをしている姿が意外で、結衣は目を見張った。
「はい。今度こそ、安心して任せてください」
 ローザンが笑顔で答えると、ロイドは益々気まずそうに俯いた。
「すまない。……さっきは悪かった」
 ロイドは絞り出すようにそれだけ言って、研究室を出て行った。
 自分のいない時、二人の間に何があったのだろう。
 結衣は呆気にとられてロイドを見送った後、ローザンをまじまじと見つめた。ふと、ローザンの左の頬がうっすらと赤くなっている事に気付いた。
「もしかして、ロイドに殴られたの?」
 厳しい表情で尋ねる結衣に、ローザンは頬を押さえて軽く答えた。
「あ、ばれちゃいました? わからないように、すぐ冷やしたんですけどね」
 苦笑するローザンに、いたたまれなくなって、結衣は俯いた。
「ごめんね、わたしのせいで。後でロイドに言っとくから」
「気にしないでください。ぼくの責任でもありますし、ロイドさんの気持ちもわかりますしね」
「だって……」
 顔を上げて食い下がる結衣に、ローザンは静かに、けれど強固な意思を持って言う。
「本当に気にしなくていいんですよ。それに珍しいものが見られたから、ぼくとしては、ある意味満足しています」
「珍しいもの?」
 不思議そうに首を傾げる結衣に、ローザンはにっこり笑って答えた。
「はい。あんなに取り乱したロイドさんは、初めて見ました」
「……え……」
 うろたえたのは何度か見た事がある。けれど、いつもは横柄で強引で、本気か冗談かわからない、人を食ったような態度のロイドが、取り乱したとなると確かに珍しい。結衣にはとても想像できなかった。
 顔を引きつらせて絶句する結衣を見つめ、ローザンは静かに微笑む。
「きっと、ロイドさんはユイさんを大切に思ってるんですよ」
「それは……」
 結衣の顔は苦笑に歪む。
 大切に扱われているような気がしない。いきなり押さえつけて得体の知れないマシンを無理矢理飲まされたし、いつも強引に唇を奪われるし。
 大切に思われているのだとしたら、それは多分――。
「王子様が見つかる前に、身代わりの私がいなくなったら、困るものね」
 結衣の言葉に、ローザンは眉をひそめると、非難するように冷たく言い放つ。
「本当に、そんな理由だと思ってるんですか?」
「え……違うの?」
 結衣が力なく問い返すと、ローザンは大きくため息をついた。
「ぼくが口出しする事じゃないと思うんですけど、こんなにも伝わってないとなると、他人事ながら切ないですね。はっきり言わないのも悪いんでしょうけど」
 何をブツブツ言っているのかよくわからず、結衣が黙り込んでいると、ローザンが探るように見つめながら問いかけた。
「ユイさんは、ロイドさんをどう思ってます?」
「ど、どうって、どう?」
 唐突に脈絡のない事を訊かれて、結衣は思いきり動揺する。その様子にローザンは納得したようににっこり笑った。
「あ、やっぱりそうなんだ」
「やっぱりって何が?」
 ローザンの指摘にさらに動揺が広がり、顔が熱くなってくるのを感じた。
 ローザンはにっこり微笑んだまま、意味不明な宿題を出した。
「絶対にそんなはずはないと思い込んで、心にフィルタをかけてませんか? まずは、そのフィルタを取り払って、ロイドさんを見てあげてください。ぼくの言った事の意味がわかると思いますよ。自分が殿下の身代わりである事は棚に上げて考える事をお勧めします。じゃ」
 言うだけ言うと、ローザンはコンピュータの方へ歩いて行った。
 結衣はローザンの背中を少しの間見つめていたが、窓際の椅子に戻って、ひざの上に絵本を乗せた。
 見るともなしに絵本の表紙をぼんやりと眺めながら、ローザンの出した宿題に取り組んでみる。
 思い返せば、ロイドの思っている事など、深く考えた事はなかった。
『学者の考えている事はわからない』
 これがローザンの言う、心にかけたフィルタの一番大きいものだと思う。
 わかるわけはないから、実際にはロイドを見ないで一般論と自分自身の思い込みで片付けていた。
 こう思っているのだろう、こう考えているに違いない――と、思えばいろんな事を勝手に決めつけていたような気がする。
 ローザンは王子の身代わりである事は棚に上げろと言う。そう言えば今朝、ロイドは結衣を王子だと思った事はないと言った。そしてその後、彼が自信満々で言った言葉を思いだし、結衣の心臓は跳ね上がる。

――たとえ百万人の殿下のクローンの中に、おまえが紛れ込んでいても、オレは見分ける自信がある――

(それって、私は特別だって事?)
 そう考えた途端、今までのロイドの言動のあれこれが、ひとつの色に染まっていく。
 結衣はおもむろに立ち上がると、ローザンの側まで小走りに歩み寄った。
「ローザン、ひとつ訊きたい事があるんだけど」
「なんですか?」
 ローザンは椅子を反転させて、結衣を見上げた。
「私の唇って、魔性を秘めてると思う?」
「へ?」
 ローザンは面食らった表情で一瞬絶句した。そして、すぐに意味ありげに微笑んだ。
「あぁ。そんな事を言った人にとっては、そうなんでしょうね」
 ローザンは結衣をチラリと見上げた後、おもしろそうにクスクス笑いながら、コンピュータの画面に向き直った。
「ぼくの言った事の意味、わかったみたいですね」
 きっと、おもしろいほどに赤面しているのだろう。自分でも分かるくらいに顔が熱い。
 結衣は火照った頬を両手で押さえて、元の席に戻った。
 ロイドは王子を好きだから、あるいは、結衣の反応をおもしろがって、からかっているだけだから、そう思っていたから、案外冷静でいられたのに。
 今度キスされたら、冷静でいられる自信がない。
 気持ちを落ち着かせようと、結衣は絵本をパラパラめくった。けれど、文字が読めないので、ちっとも絵本に集中できない。集中できない焦りが、益々心の動揺を煽り立てる。
 突然、研究室の扉が開き、結衣は弾かれたように顔を上げた。
 視線の先にロイドの姿を認めて、結衣の鼓動は高鳴る。
「ユイ、陛下がお召しだ」
 そう言いながら、ロイドはまっすぐこちらに歩いてきた。
 全然心が落ち着いていない。目の前までやって来たロイドの顔を見る事ができず、結衣は俯いた。
「おまえ、顔が赤いぞ。熱でもあるのか?」
 額に触れようと、伸ばしたロイドの手を避けるように、結衣は素早く身を引いた。そして、ロイドを見上げると適当な出任せを言う。
「なんでもないの。ちょっとエロい事を考えて、恥ずかしくなっただけだから」
「は?」
 ロイドが怪訝な表情をする。あまりにも適当すぎる出任せに、自分でもげんなりした。
 すると、ロイドがニヤリと笑い、身を屈めて囁いた。
「考えるだけじゃなくて、体験したくなったら、いつでも協力してやるぞ」
「えええぇぇ――っ?!」
 結衣が思い切りのけぞって叫ぶと、ロイドは目を細くして、額をペチッと叩いた。
「いいから、さっさと行ってこい。陛下をお待たせするな」
 結衣はハッと我に返り、ロイドの後ろに目を向けた。扉の側にラクロット氏が控えていた。
「行ってくる」
 結衣は立ち上がり、ラクロット氏に駆け寄る。そして、一緒に国王の元へ向かった。




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