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7.



 すでに日が沈み、夕闇の迫る研究室は益々暗くなってきた。ひとつだけ点いた灯りの下で、結衣はロイドの頭を胸にかかえて、先ほど彼がそうしてくれたように、優しく頭を撫でていた。
 蜂蜜色の髪は、見た目が人形の髪のようで、硬くごわごわしているのかと思ったら、案外柔らかく手触りがよかった。
 しばらくそうしていると、ロイドがポツリとつぶやいた。
「おまえ、ホント胸小さいな」
「……え……」
 思わず手を離して一歩下がると、ロイドはメガネをかけて結衣を見上げながら更に言う。
「最初、ゴツッて、肋が当たったぞ。女の胸に抱かれてるような気がしない」
 結衣はムッとして眉を寄せると、ロイドの頭を小突いた。
「悪かったわね!」
 ロイドはニヤニヤしながら、両手をこちらに向けて握ったり開いたりしてみせた。
「オレに任せてみろ。ひと月で三倍にしてやるぞ」
 怪しい投資ビジネスにでも勧誘されているような気がして、結衣は大きくため息をつく。
「……その手つき、やめて」
 だが、ふと好奇心に駆られて、ついつい問い返した。
「ねぇ、それって本当に大きくなるの?」
 ロイドは腕を組んで、大真面目に答える。
「さぁ……。ここまでささやかな胸に出会ったのは初めてだからな。これまでに顕著な成果が現れたのを実感した事はない」
「だったら、三倍になるかどうか、わからないじゃないの」
 結衣が肩を落として、ため息混じりに言うと、ロイドはニヤリと笑って再び両手をにぎにぎする。
「生体実験を試みるなら、協力するぞ」
「結果がどう転ぶかわからない生体実験は、許可しないんじゃなかったの?」
「局長権限で特別に許可する。人体に悪影響がない事はわかっているからな」
「そういうの職権濫用って言わない? 形が悪くなったらどうするのよ」
「まず形がなければ、悪くなりようがない」
「形ぐらいあるわよ! 失礼ね!」
 頭を叩こうとしたが、いつものごとくヒョイと避けられて空振りに終わった。
 結衣はいつものロイドに戻った事にホッとしながらも、不愉快そうに小鳥を呼び寄せる。
「もう! 落ち込んでるのかと思って心配して損した。ロイド、おいで!」
 手の平に飛んできた小鳥を見て、もうひとつ疑問が湧いてきた。
「そういえばさっき、私、思い切り襲われてた気がするんだけど、この子どうして、あなたの邪魔しなかったの?」
 ロイドは机に片手で頬杖をつくと、横目で結衣を見上げて口の端に笑みを浮かべた。
「おまえが嫌がってるように見えなかったんだろう」
「そ、そんな事ないわよ」
 結衣が焦って否定すると、ロイドは更に目を細めて意味ありげな視線を注ぐ。
「そうか? 放心してる時、艶っぽい表情してたぞ」
 一瞬にして顔に血流が集まってくるのがわかって、結衣はクルリと背を向けた。
「お茶、淹れてあげる」
 そう言ってスタスタ歩き始めると、後ろでロイドのクスクス笑う声が聞こえた。
 艶っぽい表情って、いったいどんな顔していたんだろうと思うと、恥ずかしくてしょうがなかった。
 研究室の隅にある給湯コーナーの灯りを点けてお茶を淹れながら、結衣はチラリとロイドの様子を窺った。彼は机に向かってノートパソコンを操作し始めていた。頭が働くようになったらしい。
 結衣はホッとひと息つくと、お茶を持ってロイドの側に戻った。
 お茶を机の上に置き、いつもはローザンが座っているメインコンピュータ前の椅子を引いて、ロイドの隣に座った。
 覗き込むと、画面にズラズラと文字を打ち込んでいた。何が書いてあるのかはわからないが、ただの文書のように見える。
「何やってるの?」
 結衣が尋ねると、ロイドは手を休めてお茶を一口すすり、こちらを向いた。
「頭を整理しようと思って、やる事リストを作っている」
「え……こんなにあるの?」
 改めて画面を見ると、画面の上から下まで数十行に渡って、文字がびっしり並んでいる。
「細分化して書いてあるだけで、大きく分けたら二つだ。これまでの作業で今後も継続するものと、今後新たに行うものだ。新たに行うものは装置の改造が主だからオレがやるしかないが、継続作業の方はローザンに手伝って貰うつもりだ」
 ローザンはこれまで、人捜しマシンの誤動作の原因を探るため、マシンの稼働ログや検索結果データの解析を行っていた。
 指定していないのに結衣を転送してしまった原因を探るためだったが、結衣が現れたのはマシンによる転送ではなく、遺跡の装置によるものである可能性が高い。
 現時点でローザンの解析結果から転送機能のバグは発見されていないし、ロイドによるマシンそのものの調査からも不具合は発見されていない。
 この事実から転送機能にバグはないものと結論し、データ解析は打ち切る事とした。
 手空きになったローザンは、今までロイドが行っていた捜索隊の捜索結果と機能縮小版マシンの捜索結果確認等を行う事になるらしい。
「あなたは何するの?」
「正規版装置の改造だ。異世界検索対応に変更する」
 平然と答えるロイドに、結衣は目を丸くする。
「そんな事できるの?」
「遺跡の同期時に検索かければ、可能な事は実証されている」
「実証?」
 いつの間に調べたのだろうと不思議に思って結衣が首を傾げると、ロイドはまっすぐ見つめてあごをしゃくった。
「おまえだ」
「え?」
「おまえが現れた時の検索結果に、この世界にはありえない位置座標が記録されている。しかも装置はそれをエラーとして処理していない。装置の誤動作はこの部分かな」
 人捜しマシンは元々、検索対象範囲がクランベール大陸全土をカバーする範囲に限定されている。それ以外の範囲を指定すればエラーとなり検索は行われない。
 特に範囲指定がない場合、大陸全土が検索対象となり、それ以外の範囲は検索しないので、記録に残る事自体おかしいのだ。
「その誤動作は放置して大丈夫なの?」
「かまわない。異世界対応に当たって、範囲の限定は解除する。問題なのはそれに伴う処理速度の低下だ。範囲が広がれば、それだけ検索に時間がかかる。異世界が検索可能な時間は十秒だ。ソフト、ハード共に高速化が必要になる」
 範囲が広がると遅くなるなら、範囲を狭くすればいいのではないかと思い、結衣は提案してみた。
「この世界以外を対象範囲にすればいいんじゃないの?」
 ロイドは少し笑って首を横に振った。
「それは更に時間がかかる」
 結衣がキョトンとすると、ロイドは説明した。
 キー項目の設定されたデータベースに、キー項目を指定して検索をかけるなら有効な場合もあるが、キー項目以外を検索条件に指定すると、否定条件の指定は全件検索より時間がかかるものらしい。
 おまけに王子の捜索はデータベースの検索ではない。キー項目などあろうはずがない。
 これまでの対象範囲は検索の終了条件だ。終わりがどこにあるのかわからない異世界の範囲を終了条件に設定するのは不可能なため、全範囲を検索するしかないという。
 一体どういう理屈で「範囲指定あり」が「範囲指定なし」より時間がかかるのか、結衣にはさっぱりわからないが、とにかく無理だという事らしい。
 結衣は眉間にしわを寄せて、頭をかかえた。
「なんかよくわからないけど、大変そうな気がする」
 その様子を見て、ロイドはクスリと笑うと事も無げに言う。
「やる事自体はそれほど大変じゃない。だが悠長に試行錯誤を繰り返しているヒマはない。あさっての二十時までには、できるだけ高速化しておかなければならない。ほとんどぶっつけ本番だか、それまでは異世界を除く全世界を対象にしてテストするしかないな」
 結衣にしてみれば大変な事のように思えるが、ロイドにとっては大して大変でもなさそうだ。なのにどうして、さっきはあんなに余裕をなくしていたのだろう。少し気になったので、思い付く事を訊いてみた。
「ねぇ、王様に何か言われた?」
 脈絡のない質問に、ロイドは不思議そうに結衣を見つめる。
「いや、労をねぎらっていただいた」
 そう言った後、思い出したようにクスクス笑った。
「おまえと同じ事おっしゃってたぞ。おまえなら、きっと成し遂げるだろうって」
 結衣は思わずため息をつく。
 それはかえってプレッシャーかもしれない。結衣の言葉ならただの励ましだろうが、王の言葉だと期待に応えなければならない気にさせられる。
 だが、ロイドが王に信頼と期待を寄せられているのは、今に始まった事ではない。気弱になる原因としては弱い気がする。
 ”投獄”も気になる。もしも王の期待に応えられなかったら、投獄されるって事だろうか。
 異世界の検索で王子が見つからなかったとしても、今と変わらない。むしろロイドを投獄してしまっては、今後の捜索作業には大きな痛手となるはずだ。心に余裕をなくしていたから、そう思っただけだろうか。
 結局、納得できる投獄の理由を思い付かないので、結衣は別の事を考えた。
 もしも王子の不在がこのまま続いたら?
「このまま何年も王子様が見つからなかったら、私、ジレットと結婚しなきゃならないのかな」
 結衣が何気なく疑問を口にすると、ロイドは穏やかな表情を湛え、抑揚のない声で言う。
「そうなるだろうな」
 結衣は思わず笑顔を引きつらせた。
「だって女同士よ? できるわけないのに、今度は世継ぎが生まれないって問題になるんじゃないの?」
 ロイドは表情を変えることなく、機械的に言う。
「子供なんかどうとでもなる。禁忌のクローン技術を使えばな。殿下の体細胞と遺伝子情報は科学技術局に保管されている。偽者が現れたりした時の科学捜査のためだ。局長のオレが許可すれば利用は可能だ」
 結衣は眉をひそめてロイドを見つめたまま、一瞬絶句する。感情を殺したロイドに違和感を覚えながら、立ち上がって叫んだ。
「そんなのジレットがかわいそう! ジレットは王子様が好きなのに!」
 ロイドは相変わらず穏やかな表情で結衣を見上げ、静かに問いかけた。
「他人の事より自分はどうなんだ? この先、もしかしたら一生、耐えられるのか?」
 考えてなかった。この先一生、クランベールで王子の身代わりをするなど。
 呆然と立ち尽くす結衣を見つめて、ロイドの表情が少し動いた。淡い笑みを浮かべると再び問いかける。
「オレと一緒に逃げるか?」
「え?」
「何もかも放り出して、何もかも失ったオレと一緒に」
 時が止まったかのように、二人で見つめ合ったまま微動だにせず沈黙が続いた。
 少ししてロイドが目を逸らし、低くくぐもった声で笑った。
「本気にするな。そんな事をしても、のたれ死ぬだけだ。おまえはちゃんとニッポンに帰してやる。最初にそう言っただろう」
「うん……」
 少しホッとして結衣は気の抜けた返事をする。それから、ふと思い出して尋ねた。
「でも、どうやって? 見当がつかないって言ってたじゃない。ついたの?」
「あぁ。遺跡の同期を利用する。おまえのいた場所の座標はわかっているんだ。装置の転送機能を拡張して、逆転送可能にすればいい。同期の最後の一回はおまえを帰すために使う」
 毅然として見上げるロイドに、結衣は身を屈めて詰め寄る。
「でもそれじゃ、それまでに王子様が見つからなかったら?」
 ロイドはいつものように自信満々で言う。
「誰に向かって言っている。オレは諦めない。必ず殿下を見つけ出して、おまえをニッポンに帰す」
 投獄の意味がわかった。
 王子が見つからないまま、結衣がクランベールから姿を消せば、いずれ王子の不在が公になってしまう。捜索責任者である上に、独断で結衣を逃がした事が知れれば、ロイドは何らかの罰を受けるだろう。
 かといって、三十年に一度のこの機会を逃せば、この先三十年は結衣をクランベールに縛り付けてしまう事になる。
 時間はあと二十日しかない。ロイドは自分の働きに左右される結衣の行く末を案じて、思い悩み心を乱していたのだろう。
 そして多分、王子が見つからなくても、結衣を日本へ帰す決意を固めてしまったようだ。
 気がつかなければよかった。こんなにも大切に思われている事に。
 横柄で強引でセクハラなだけの奴でいてくれたら、何も気にせず喜んで日本に帰れた。こんなに気遣って貰っているのに、自分は彼に何もしてあげていない。何もできる事がない。
 黙ってロイドを見つめる結衣の頬を涙が伝う。ロイドは少し驚いたように尋ねた。
「どうした?」
「なんでもない」
 結衣が小さな声でやっと答えると、ロイドはフッと笑って立ち上がり、結衣の頭をかかえるようにして抱き寄せた。
「また、なんでもないのに泣いてるのか」
 ロイドは結衣の頭を撫でながら、優しく諭すように言う。
「心配するな。おまえは必ず守ってやる。前にも言っただろう?」
 ロイドの優しさに涙が止まらなくなり、結衣は彼の胸に顔を伏せてしがみついた。
「優しくしないでよ」
「わかった。激しい方がいいんだな?」
「バカ。エロ学者」
 耳元でロイドがおもしろそうにクスクス笑う。
「私、あなたに何もしてあげられない」
「おまえにはエネルギーを貰った。オレはきっと成し遂げられる。おまえの胸は確かに小さいが、すごく温かかった」
「小さくて悪かったわね。他に言う事ないの?」
 ロイドの抱きしめる腕に力が加わった。
「あ…………もう少し太れ」
 一際強く抱きしめた後、ロイドは身体を離した。
「オレは、もうしばらくここで設計をする。部屋に戻るなら送っていこう」
 結衣は涙を拭いて、ロイドを見上げた。
「ここにいる。邪魔しないから。一緒にいたい」
 ロイドは目を細めて頷いた。
「わかった。好きにしろ」



 その日の夜、結衣は時々テラスに出てみたが、ロイドの部屋の灯りは遅くまで消えたままだった。




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