第4話へ 目次へ

終章




 周りから音と光が消えている事に気が付いて、結衣は顔を覆っていた手を外した。
 ゆっくりと辺りを見回し、見慣れた光景にホッと息をつく。日本の自分の部屋に無事帰ってきたようだ。
 足元には一ヶ月前に寝転んでいたお昼寝マットが敷かれている。その上に土足で乗っている事に気付いて、思わずわめいた。
「あーっ! 靴脱いで来ればよかった!」
 慌てて靴を脱ぎながら、クランベールよりもひんやりした空気に、ひとつくしゃみをして、窓際の天井付近を見上げ、ガックリと項垂れた。
「やっぱ、エアコンつけっぱなし……」
 だが、ふと違和感を覚えた。一ヶ月も行方不明になっていたのに、部屋の様子が変わっていない。誰かが捜しに来たなら、エアコンがついているのも妙だ。扇風機は止まっている。
 外は日が傾き始めていた。いったい、今はいつなんだろう。
 結衣は床に転がしておいた携帯電話を拾って開いた。バッテリが切れていない。
 そして、待ち受け画面に表示された日付を見て驚いた。結衣がクランベールに転送された日だったのだ。時間が三時間経過しているだけだ。
 狐につままれたような気分になって、結衣が呆然と座り込んでいると、背後で耳慣れた声が聞こえた。
「ふーん。ここがニッポンか」
 振り返ると、先ほど結衣が現れた場所に、ロイドが立っていた。
「ロイド?」
 結衣が立ち上がると、ロイドは嬉しそうに笑いながら歩み寄って来た。
「待たせたな。迎えに来たぞ」
 結衣は慌てて、ロイドを押し止める。
「キャーッ! 靴のまま歩き回らないで! 靴脱いで!」
「なぜだ」
 ロイドは立ち止まり、不思議そうに首を傾げる。
「一般的な日本家屋は、九十九パーセント土足禁止なのよ」
「面倒だな」
 ブツブツ言いながら、靴を脱ぐロイドに結衣は言い返す。
「私にしてみれば、家の中で靴を履いてる外国人の方が不思議だわよ」
 靴を脱いで、結衣の広げた新聞紙の上に置くと、ロイドは部屋の中を見回してぼやいた。
「なんで、この狭い部屋に何もかも詰め込んでるんだ。少し他の部屋に移せばいいのに」
「私の部屋は、ここしかないのよ。王宮と一緒にしないでちょうだい」
 結衣が腕を組んで苛々したように言うと、ロイドはそれを無視して、いきなり結衣を抱きしめた。
「会いたかった」
 相変わらず、唐突で脈絡がない。結衣は諦めたように、軽くため息をついた。
 突然ロイドが身体を離し、結衣の両肩を掴んで、睨みつけた。
「おい。どこのどいつだ」
「は?」
 何を怒っているのか分からず問い返す。するとロイドは声を荒げた。
「おまえの首筋に、こんな跡をつけた奴だ」
「えぇ?!」
 結衣は慌ててロイドを振りほどき、洋服ダンスの横にある姿見を覗き込んだ。
 確かに左の首筋に、赤紫の跡がある。それで王子もローザンも、エロい想像をしたのだと悟った。
「あーっ! もう、こんな目立つところに!」
「だから、誰なんだ!」
 結衣の後ろに立ったロイドが、鏡の中の結衣を睨む。結衣も鏡の中のロイドを見て尋ねた。
「知ってどうするの?」
「決まってるだろう。一発殴ってやらないと気が済まない。そして、そいつの前で、おまえはオレのものだと見せつけてやる」
「そう。じゃあ、教えてあげる。そこにいるわよ」
 結衣は鏡の中のロイドを指差した。しかしロイドは、動じることなく言い返す。
「ふざけるな。オレのわけないだろう。あれから三ヶ月経ってるんだ」
 結衣は振り返って叫んだ。
「私はさっき帰ってきたのよ! でなきゃ、三ヶ月も王子様の服を着てるわけないでしょ?」
 ロイドは黙って結衣の姿を見つめた後、表情を緩めた。
「そうか。オレか。時間がずれてたみたいだな。検討事項に上げておこう」
 そう言ってロイドは、メガネを外しながら結衣を抱き寄せた。
「ちょっと! いきなり何?」
 結衣が抵抗すると、ロイドは鏡の中の自分を見つめてニヤリと笑った。
「もちろん。見せつけてやるんだ」
 そして結衣に口づけた。
 少ししてロイドが唇を解放すると、結衣は大きくため息をついた。
「なんか、こんなに早く会えるんだったら、ゆうべ泣いて損した気分」
「気にするな。今夜改めて泣かせてやる。オレの寝室で」
 ロイドは耳元に顔を近づけ、囁いた。
「この間の続きだ」
 結衣は背筋がゾクリとして、思わず平手を振り下ろした。
「この、エロ学者!」
 パンと派手な音がした。てっきり避けると思ったのに、またしてもヒットしてしまった。
「あ、ごめん」
 痛そうに顔を歪めたロイドの頬に、結衣はうろたえながら手を添えた。ロイドはムッとした表情で、その手首を掴む。
「本気で泣かせてやりたくなった。来い! 帰ったら寝室直行だ」
 結衣の手を引いて、ロイドは現れた場所に戻り、ポケットからリモコンのようなものを取り出した。
「あ、ちょっと待って!」
 結衣はロイドに手を掴まれたまま、床に転がったリモコンを拾い、エアコンの電源を切った。
「逃げないから、ちょっと離して」
 ロイドが手を離すと、部屋の隅に避けられていたテーブルの上で置き手紙を書き、携帯電話を重し代わりに置いた。
「なんだ?」
「帰ってくる時、また時間がずれてたら、みんなが心配するから」
 結衣は二人分の靴を持って、元の場所に戻り、ロイドの腕に掴まった。
「行くぞ」
 ロイドがリモコンのスイッチを押すと、二人の身体は光に包まれ、すぐに忽然と部屋から消えた。



 誰もいなくなった結衣の部屋に、レースのカーテンの隙間から西日が差し込む。
 オレンジ色の夕日が、テーブルの上に置かれた結衣の手紙に、スポットライトを当てた。

”クランベールに行ってきます”



(完)


第4話へ 目次へ
  あとがき  


Copyright (c) 2009 - CurrentYear yamaokaya All rights reserved.