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番外編・二人きりの記念日 |
終業時間を知らせる合図が、科学技術局内に鳴り響く。もっとも、この合図を聞いて、帰り支度を始める者は、ほとんどいない。 皆、夕方の休憩時間を知らせる合図くらいに思っているようだ。科学者たちは、熱中すると時間を忘れる者が多い。時々現実世界に引き戻すために、合図を鳴らしているらしい。 一時期は目が回るほど忙しかった局内も、今はすっかり落ち着いている。ランシュが正式にロイドの助手として職場復帰してから、ロイド自身の仕事も随分と楽になった。 いつもはもう少し遅くまで残っているのだが、今日は早く帰らなければならない。出がけにユイが、なるべく早く帰ってきてと言ったからだ。 理由は教えてくれなかったが、滅多にわがままを言わないユイが、そういう事を言うからには、何か大事な事に違いない。 それを踏まえて、今日片付けなければならない仕事は、定時までに片付けた。残っているのは、明日でもかまわないものだけだ。 副局長がいたら文句を言われるかもしれないが、彼女はこのところ自分の研究が佳境に入っていて、ロイドの尻を叩きに来る回数がいつもより減っている。 見つかる前に部屋を出ようと、定時の合図と共にロイドは席を立ち、白衣を脱いだ。 ランシュも共に帰ってくるように言われていたので、研究室に迎えに行こうとすると、本人が局長室にやってきた。白衣を羽織ったままで、全く帰り支度をしていない。 ロイドが抗議するように、少し眉を寄せて見つめると、ランシュは申し訳なさそうに苦笑した。 「先生、オレ、今夜泊まりになりました」 「は?」 ランシュが言うには、副局長に補佐を頼まれ、一晩付き合わなくてはならないらしい。だが、副局長の専門はバイオだ。機械工学専門のランシュに、補佐など出来るのか疑問だ。 「おまえに手伝える事なんてあるのか?」 「研究の方は手伝えないんですけど、遠心分離器の調子が怪しいらしくて……」 今修理に出して何日も使えないのは困るし、かといって途中で壊れたらもっと困るので、その場合、応急処置を頼みたいという事らしい。 ロイドは大きくため息をついた。 「ユイには知らせたのか?」 「はい。そういう事情なら仕方ないって言ってました」 どうやらユイの用事は、二人揃ってなければならないわけではないようだ。 「久しぶりに二人きりの時間を楽しんで下さい」 笑顔で送り出すランシュに、忘れず夕食を摂る事を言い残して、ロイドは一人で科学技術局を出た。 人間なら一食や二食抜いたところで、身体が動かなくなる事はないが、ランシュはきっちり三食摂らないと、充電が必要になる。精巧な身体は、案外エネルギー消費量も大きいらしい。 充電は家庭用の電源で簡単に行えるが、そんなところを他人に見せるわけにはいかないのだ。 日暮れ前のラフルール商店街は、いつもロイドが帰る頃より開いている店が多い。人通りも多く、賑やかだ。 毎日前を通るのに、そこが何の店か初めて知った店もある。そんな店の一つ花屋の店先で、黄色い実を付けた鉢植えがロイドの目を引いた。近寄ってみると木苺のようだ。 ユイが庭に植えた木苺は、赤と青と黒だ。黄色は珍しい気がする。 形は小さい粒が密集した、赤い木苺と同じような形だ。まだ熟れきっていないだけで、その内赤くなるのかと店員に尋ねたら、元々こんな色だという。 珍しい木苺をユイに見せてやりたくて、ロイドはその鉢植えを購入して家路についた。 玄関を入ると、ユイが大きな腹を抱えて、笑顔で出迎えた。 以前は抱くたびに小骨が当たってしょうがなかったが、体つきも少し丸みを帯びている。本人以上に頑固で全く成長しなかったささやかな胸も、我が子のために見違えるほど成長していた。 ユイのように大きな腹を抱えた妊婦は、クランベールでは珍しい。 自然分娩は母子共に様々なリスクを伴うので、安定期に入ったら皆人工子宮に胎児を移してしまうからだ。 ロイドもそうするように勧めたが、ユイは「ニッポンのお母さんは、みんな自分のお腹で赤ちゃんを育てて産むのよ」と言って拒否した。 ブラーヌは相変わらず、遺跡を点々としていて家にいない。ランシュもロイドと共に、科学技術局に通うようになった。彼はなるべく早く帰らせるようにしているが、昼間一人になるユイに、何かあってはとロイドは心配だった。 だがロイドの心配をよそに、胎児は何事もなく順調に育っているようだ。 ユイは来月、検診の結果問題がなければ、出産に備えてニッポンに帰る。 医学的にはクランベールの方が進んでいるが、自然分娩に対応できる医師や看護師が、圧倒的に少ないのだ。 色々と病院を当たってみたが、皆一様に人工子宮に移す事を勧めた。自然分娩にこだわる意味が分からないと。 ロイドにしても意味は分からないが、頑固なユイの意思を曲げさせる方が困難なのだ。 ラフルールから遠く離れた田舎町には、対応できる病院があったが、あまりにも遠すぎる。 局長のロイドが、私事で何日も局を留守にするわけにもいかない。かといって、クランベールの勝手が分からないユイの両親やソータに付き添いを頼んでも不安なので、ユイの提案で実家に帰る事になった。 ニッポンの産婦人科医院は、どこでも対応できるらしい。人工子宮などないという。 挨拶のキスを終えると、ユイは目ざとくロイドの持った鉢植えに興味を示した。 「黄色い木苺だ。珍しいだろう」 そう言って差し出すと、ユイは目を輝かせて受け取った木苺を見つめた。 「ホント。かわいい。これ、私にくれるの?」 「あぁ」 「ありがとう。明日、庭に植えるわね」 ユイはラッピングされた鉢植えを抱いて、嬉しそうに笑った。想像以上の好反応に、ロイドもすっかり気をよくする。 一旦二階に上がり、荷物を置いて再び一階に戻って来ると、食卓の上にはいつもより豪勢な料理が並んでいた。そして食卓の中央には、赤いソースで”2”と書かれた、巨大なケーキが鎮座していた。 それを目にしたロイドは、その時初めて、ユイが早く帰ってきてと言った理由を悟った。 今日はユイが定めた結婚記念日だった。 ラフルールの役所に届けを出して、正式に結婚したのはランシュがやって来た頃だが、ユイはニッポンで結婚式を挙げた日を結婚記念日だと決めている。 数ヶ月のズレがあるので、去年はすっかり忘れていて、不機嫌にさせてしまった。 今年もあやうく、不機嫌にさせてしまうところだった事は黙っておこう。 先ほど木苺の鉢植えに想像以上の好反応を示したのは、記念日の贈り物だと思ったからだろう。 たまたま目について買ってきた事も、黙っておく事にする。 ロイドが席に着くと、ユイは照明を暗くして、ケーキに二本の細いローソクを立てた。ロイドがそれに火を点ける。二人の周りを、オレンジ色の柔らかい光が包んだ。 ローソクの炎の向こうで、ユイが微笑みながらグラスを掲げた。 「二人の結婚記念日に乾杯。これからもよろしくね」 「あぁ。こちらこそよろしく」 互いに笑みを交わして、グラスを傾ける。 そしてそれぞれ一本ずつ、ローソクの炎を吹き消した。 照明を元に戻し、いつものように食事を始める。 「ランシュがいなくてもよかったのか?」 ロイドが尋ねると、ユイは少し気まずそうに苦笑した。 「うーん。本当はいて欲しかったんだけど、もしかしたら気を遣わせちゃったのかなって……」 ランシュは今日が結婚記念日だと知っていたらしい。 数日前からユイが少し浮かれ気味で、やたらとロイドの仕事の状態を尋ねたりしていたからだ。ロイドにはユイが浮かれている事は分からなかったが、ランシュはセンサで心理状態を察知しただろう。どうして浮かれているのか訊かれたので答えたという。 「夕方に連絡があった時、オレの事は気にしないで久しぶりに二人きりの時間を楽しんでねって言ってたの」 ロイドも帰り際に同じ事を言われた。案外、副局長に補佐を頼まれたというのも、方便だったのかも知れない。 思わず頬が緩む。二人とも騙されたフリをしていようと、示し合わせた。 食事を終え、二人で後片付けを済ませ、リビングに移動する。ソファに座ると、ユイは鉢植えの木苺を観察し始めた。 黄色い実は、まだ一つしか実っていない。他は花びらを落としたばかりの青い実か、白い花ばかりだった。 「たくさん花が咲いてるから、いっぱい実が付くといいわね。どんな味がするんだろう」 「食ってみればいいだろう」 「え? だって一つしかないし。半分こする?」 「そんな小さいもの半分にしたら味が分からなくなるぞ。オレはいいから、おまえが食え」 「うん。じゃあ、食べてみる」 ユイは慎重に木苺の実を枝から外し、嬉しそうに口に放り込んだ。 「あ、甘酸っぱい。でもラズベリーみたいに独特な風味がなくて、私、こっちの方が好きかも」 益々嬉しそうに笑うユイを見て、ロイドも少し興味が湧いてきた。 「オレにも味見させろ」 ユイを抱き寄せ口づける。口の中に少しだけ、甘酸っぱい木苺の味が広がった。 ユイが身重なので、キスだけというのは物足りない気もするが、せっかくランシュがくれた時間だ。 彼の厚意に甘えて、今夜は新婚の時のように、二人きりの時間を存分に楽しもうとロイドは思った。 (完) |
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