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番外編 二人きりの研究室 |
シンクに山積みになった試験管やシャーレを見て、ランシュは途方に暮れた。 今日はユイとロイド先生の結婚記念日だ。ユイは何日も前から楽しみにしていた。 ランシュにも一緒に記念日を祝おうとお誘いがあったが、副局長に補佐を頼まれたとウソをついてお断りした。 データの上では家族になったとはいえ、ラブラブ夫婦の記念日を邪魔するほど野暮じゃない。 副局長のフェティには事後承諾で研究室を訪れた。すると、口裏を合わせる代償として片付けを命じられたのだ。 口実に使った遠心分離器は絶好調で、バイオ専門のフェティを機械工学専門のランシュに補佐できる事など何もない。それこそ洗い物の片付けくらいしか。 大きくため息をついて、ランシュは白衣の袖をまくった。 フェティは部屋の奥でコンピュータに向かい、資料を作成している。佳境だった研究はすでにめどが立って、成果物を整える段階にあるらしい。 そのため連日深夜まで研究を補佐していた助手たちもすでに帰宅している。夜も更けた静かな研究室には、フェティとランシュの二人だけがいた。 洗い物を片付けながら、ランシュは素朴な疑問を口にする。 「これ、いつからため込んでるの? 今日一日でこんなに汚したわけじゃないよね?」 普段は副局長としてそれなりの礼は尽くしているが、二人きりになるとランシュはフェティに対して敬語ではなくなる。子どもの頃からの付き合いだからだ。 専門も違うので仕事上での付き合いはほとんどない。けれど、あまり人と拘わらないようにしていたランシュに対して、フェティはおかまいなしに拘わってきた。 そのせいで、ランシュにとっては腐れ縁的友人のようなものだった。 フェティは振り向きもせず平然と答える。 「三日くらいかしら?」 その背中に向かって、ランシュはイヤミを言ってみた。 「誰だっけ? 今日の事は今日片付けろって、局長に毎日小言を言ってる人は」 「局長の仕事は毎日片付けてもらわないと皆が迷惑するけど、そこが片付いてないのは私にしか迷惑にならないからかまわないのよ」 やはりロイド先生の言う通り、口でフェティに勝てそうな気がしない。シンクの中で器具を種類ごとにまとめながら、聞こえるようにつぶやいてみる。 「洗い物を放置して、危ない細菌とか繁殖したらまずいんじゃないかなぁ」 「あぁっ! それで思い出したわ!」 突然、大声を上げて振り向いたフェティは、ランシュの手前を指差した。 「そこの殺菌装置に入ってる奴も戸棚に片付けておいてね」 「はいはい」 どうやら危ない細菌関係はすでに殺菌済みらしい。 半ば諦め気分で投げやりに返事をしながら、ランシュは洗浄装置の扉を開く。中にはすでにぎっしりと先客が詰まっていた。 「……ねぇ、これも三日前からここに入ってたの?」 「そうかもね」 「助手に片付けてもらおうとか思わなかったの?」 「みんな忙しくてそんなヒマなかったのよ」 研究室内にある殺菌洗浄済みの器具は、あらかた使い切ってしまったのではないだろうか。 ランシュはとりあえず洗浄装置と殺菌装置の中にある器具を戸棚に片付ける。空になった洗浄装置の中にシンクにある器具を詰め込んでいると、フェティがやって来た。そばの壁にもたれてランシュの作業を見つめる。手伝う気はないらしい。 「見張ってなくてもちゃんと片付けるから、作業が終わったんなら帰ってもいいよ。オレは朝までここにいるし」 「私の研究室に部外者をひとり残して私が帰るわけにはいかないわ」 確かにそれは管理責任者として問題がある。しかし――。 「オレと二人きりで一晩過ごすのはまずいんじゃないの?」 「どうして?」 薄々感じてはいたが、フェティはランシュの事を昔と同じ小さな子どもだと思っているようだ。ランシュの内蔵センサが感知するフェティの生理反応から、不安や緊張は一切感じられない。 きょとんと首を傾げるフェティに、ランシュは呆れたように言う。 「だって、フェティ恋人がいるんでしょ? たとえ何もなくても、男と二人きりで一晩過ごしたって知ったら、その人が気を悪くするよ」 するとフェティはおもしろそうにクスクス笑い始めた。 「笑い事じゃないと思うけど」 小馬鹿にされたような気がしてムッとするランシュに、フェティは笑いをこらえながら弁明した。 「それって三年前の話でしょ? あれ、ウソよ。恋人なんていないわ」 「へ?」 三年前、ランシュがまだ科学技術局内で生活していた頃、フェティに恋人がいるという噂で局内が大騒ぎになった事がある。 なにしろフェティは抜群のプロポーションを持つ美女だ。密かに憧れている男性局員も少なからずいた。だが、頭が切れる上に生真面目で厳しく冗談が通じない事でも有名だった。そのため浮いた話は全くなかったのだ。 突然の恋人発覚に、相手は誰だと皆が思ったが、それをフェティに問い質す勇気のある者はいなかった。局長じゃないかと囁かれた事もあったが、それは局長が全力で否定した。おまけにフェティのあしらい方をその恋人に教わりたいとまで言っていた。 友人のような関係にあったランシュにも、相手の見当はつかなかった。もっとも、その頃のランシュは、命の終わりに焦っていたので、子どもの頃のようにフェティと親しく話す事もなかったのだが。 結局フェティの恋人は謎のまま、噂はいつしか下火になっていった。 「なんでそんなウソが噂になったの?」 「だって結婚させられそうになったんだもの。だから恋人がいますって断ったら噂になっちゃったのよ」 言いふらしたのは幹部局員のひとりらしい。彼の知人を結婚相手としてどうかと紹介されそうになり、咄嗟についたウソだったという。 相手は上司だ。そうでも言わなければ、断るのは困難だろう。 「そういう人ってどこにでもいるんだね。先生も王宮にいた頃、貴族のご婦人からやたらと結婚相手を紹介されてたらしいよ」 「放っといて欲しいわ。私は結婚よりやりたい事いっぱいあるのよ。そのうち気が向いたら結婚するわよ」 「えぇーっ? フェティって一生気が向きそうにない気がする」 「どういう意味よ。とにかく、そういう事だから安心して」 ニッコリと笑うフェティを見て、ランシュは内心大きなため息をつく。それのどこが安心できるのだろう。 フェティは気付いていないのだろうか。かえって歯止めがなくなってしまったという事に。 ランシュは濡れた手を拭いて、フェティに歩み寄る。うっすらと笑みを浮かべて彼女の正面に立った。 子どもの頃は見上げていたフェティの顔が、今は見下ろせる位置にある。これほど近くでフェティの顔を見るのは、大人になってからは初めてだった。 澄んだブルーの瞳がまっすぐにランシュを見上げる。相変わらずフェティの生理反応は穏やかだった。 「フェティは安心しない方がいいよ」 フェティのもたれた壁に両手をついて、腕の間に彼女を閉じ込める。 微かにドーパミンが上昇。何? その好奇心。 「オレが男だって事、忘れてない? 恋人がいないなら遠慮しなくてもいいんだよね?」 そう言いながら、ゆっくりと顔を近づける。フェティは真顔のまま黙ってランシュを見つめていた。 唇が触れあいそうになってもフェティは微動だにしない。心拍数は少し上昇しているものの、まったく動揺していない。むしろ自分の鼓動の方がうるさい。 ランシュは少し身を引いて、目の前で問いかけた。 「どうして逃げないの?」 「逃げて欲しかったの?」 逆に問い返されて、ランシュはうっかり本音を漏らす。 「だってちょっと脅かそうと思っただけだし、この先はデータがないっていうか……」 フェティは上目遣いにランシュを見つめてフッと笑った。 「十年早いわね。データを整えて出直していらっしゃい」 そう言ってランシュの腕をギュッとつねった。 「いったぁ」 腕の間から抜け出したフェティは、背中を叩いてランシュをせき立てる。 「ほら、悪ふざけはそのくらいにして、さっさと片付けて」 「わかったよ」 フェティにつねられた腕をさすりながら、ランシュは渋々片付け作業に戻った。 やはり子ども扱いされているようだ。 器具を片付けながら、ふてくされたようにつぶやく。 「十年経ったらフェティはおばさんになってるよ」 「あなただって充分におじさんでしょ?」 十年後、フェティは四十歳、ランシュは三十一歳になっている。確かにおばさんとおじさんだ。 フェティと出会った頃には、そんな先の未来を考えるだけ愚かな事だった。十年後の未来を想像できる幸せをランシュはかみしめる。自然に頬が緩んだ。 「ねぇ、フェティ。もし十年経ってもフェティに恋人がいなかったら、オレが恋人になってあげようか?」 「あら、嬉しい。じゃあ私は、焦って結婚相手を探さなくていいのね」 ニッコリ笑って躱すフェティをランシュも苦笑しながら見つめる。 焦る気なんか、全然ないくせに。――そう思ったが黙っておいた。 きっとフェティにとって、ランシュの言う事など子どもの戯れ言にしか聞こえないのだろう。ランシュにしても、そんな事は承知している。今のような友達関係の方が気楽なのだ。 恋人はともかく結婚相手となると、自分の秘密を明かさなければならないだろう。 それを思うと、もう子どもじゃないからこそ、女性との付き合いは慎重にならざるを得ない。 だがフェティなら、昔ランシュをかわいそうな実験サンプルではなく、人として認めてくれたように、今のランシュも受け入れてくれそうな気はする。 もしも十年後、フェティと共に歩む人生が待っているとしたら、それも悪くはないなとランシュは思った。 (完) |
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