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第1話 魔性の唇

1.



 深く息をついて椅子の背にもたれると、ロイドは大きく背伸びをした。自分の吐息の音が、やけに大きく聞こえたような気がして、室内の異様な静けさに気付いた。
 ひとりきりの静かな研究室は、やけに広くも感じられる。
 窓の外に目をやると、朝から降りしきる雨が、景色を滲ませていた。
 細かい雑音が雨音にかき消され、じっとしていると室内には雨音の他には、メインコンピュータの低い駆動音しか聞こえない。
 ふと、窓辺に置き去りにされた椅子に、目が止まった。
 ほんの二ヶ月前まで、毎日そこにあった姿を思い出す。
 作業の合間に様子を窺うと、絵本をめくっていたり、退屈そうに小鳥を撫でながら外を眺めていた横顔が思い出される。
「ユイ……どうしているかな……」
 転送間際、見つめる瞳が涙で濡れていた。また泣いているんじゃないだろうか。それとも案外立ち直りの早い奴だから、自分の事などすっかり思い出にしてしまって、ケロリとしているかもしれない。
「だとしたら、ちょっと不愉快だな」
 ロイドの事を頑固者呼ばわりしていたが、ロイドに言わせれば、ユイも充分頑固者だ。なにしろ、最初からちっとも言う事を聞かなかった。
 おまけにそれが、予想外の反応となって返ってくる。ユイのそういうおもしろさに、最初は興味を引かれた。
 そしてなにより、あの唇に魅せられた。



 その日ロイドは、副局長にやかましくせっつかれ、ようやく重い腰を上げて科学技術局に戻ろうとしていた。
 メインコンピュータの電源を落とし、窓の戸締まりを確認して、王宮内の研究室を出ようとした矢先、レフォール殿下の世話係ラクロット氏が、血相を変えて飛び込んできた。
「ヒューパック様、殿下は……!」
「殿下は朝おいでになりましたが、今こちらにはいらっしゃいません」
「それでは、やはり……」
 ラクロット氏は途方に暮れたように頭を抱えた。その様子にただならぬものを感じて、ロイドは問いかけた。
「殿下の身に何か?」
「王宮内のどこにも、お姿が見えないのです!」
 ラクロット氏によれば、殿下は午後から、国王陛下との会談の予定があったという。時間が来たので、ラクロット氏が部屋へ知らせに行ったところ、部屋の中に殿下の姿はなかった。
 ラクロット氏は王宮内を駆け回って、殿下の行方を捜し回った。しかし使用人の一人が、昼食後に自室に入るのを見たと言うだけで、どこにも姿が見えない。
 そして、昼から出かけると聞いていたが、もしやと思いロイドの研究室にやってきたという。
「この事、陛下には?」
「いえ、まだ」
「では、ご報告申し上げた方がいいでしょう。私も一緒に伺います。何か力になれるかもしれませんし」
 ラクロット氏を促して、ロイドは共に国王陛下の元へ向かった。
 ご報告申し上げた結果、陛下の提言によりロイドの広域人物捜索装置で、殿下の捜索を行う事となった。そのためロイドは捜索責任者に任命され、指揮を執る事となる。
 何者かに連れ去られたにしろ、ご自身でお隠れになったにしろ、まだそれほど遠くへは行ってないはずだ。
 ロイドはラクロット氏と共に研究室へ戻り、メインコンピュータと広域人物捜索装置の電源を入れた。
 ラクロット氏から提示された殿下の写真と身体特徴データを入力し、装置の検索設定を行う。とりあえず居場所を特定するため、転送機能はオフにした。
 準備が整い、ロイドは早速検索ボタンを押した。装置がうなりを上げて、検索を開始する。
 作動直後、異変が起きた。
 装置のガラスの筒の中が、突如、眩しい光に包まれたのだ。これは転送の時に起こる現象だ。
「何?! バカな!」
 ロイドは慌てて数歩下がると、筒の天辺にある転送合図のランプを見上げた。ランプは点灯していない。
「どうかしたんですか?」
 ラクロット氏が不思議そうに尋ねながら、歩み寄って来た。ロイドは即座にそれを制する。
「来ないでください! 危険です。下がって! 装置がおかしい!」
「え?」
 ラクロット氏は言われた通り、急いで部屋の隅まで下がった。
 やがて筒の内部の、光が収束を始めた。
 ロイドはモニタ画面にチラリと視線を送る。検索は終了し、画面には検索結果が一件表示されていた。
 筒の内部に視線を戻すと、光が消えた床に、黒髪の人物が横たわっていた。レフォール殿下のようだ。
「殿下!」
 ロイドの声に、背後からラクロット氏が心配そうに尋ねた。
「殿下はご無事なのですか?」
「確認してきます。そこで待っててください」
 そう言って、もう一度筒の中の人物を眺め、ふと気付いた。
「ん? ラクロットさん、どうやら殿下ではないようです。ちょっと見てきます」
 ロイドは筒の入口を開け中に入ると、横たわる人物の側にしゃがんだ。
 下着同然の薄着を纏った身体は、殿下よりもはるかに細く、胸まで薄っぺらいが、どうやら女のようだ。だが顔の造作は、まるでクローンのように、殿下に瓜二つだ。
 ロイドは思わず、間近でその顔を覗き込んだ。
 すると、殿下にそっくりな女は、薄目を開いて、すぐに慌てて閉じた。
「殿下ではないようだが……。それにしてもよく似ている。……って、おい! さっき目を開けただろう」
 ロイドが額を叩くと、女は額を押さえて横向きに転がった。そして飛び起きざまに、悪態をつく。
「あなた誰?! ひとの部屋で何やってんのよ、変態!」
 目を開くと更によく似ている。だが声は、やっぱり女だ。それはともかく、見ず知らずの女に、変態呼ばわりされる謂われはない。
 ロイドはもう一度女の額を叩くと、冷ややかに言い放った。
「ねぼけるな。どこがおまえの部屋だって? よく見ろ」
 変態だと思った相手に、いきなりケンカを売るか? 悲鳴を上げて、相手がひるんだ隙に、逃げるのが常套手段だろう。変わった女だ。
 女は辺りをキョロキョロと見回した後、再びロイドに尋ねた。
「ここ、どこ? どうして私、こんな所にいるの? それにやっぱり、あなた誰?」
 ロイドは名乗り、ここに至った経緯と、装置の説明を女に話した。女は一応納得したようだ。そして、とぼけた事をロイドに訊く。
「で、クランベール王国ってどこの国?」
 この女、どこの田舎者だ。それともまだ、ねぼけてるのか? ロイドは呆れて、女に言う。
「世界一の大国を知らないとは、おまえどこの辺境からやって来たんだ」
 女はムッとした表情で眉を寄せると、ロイドを睨んだ。
「ニッポンよ。それに世界一の大国ってアメリカじゃないの?」
 聞いた事のない国名に、ロイドは首を傾げた。
「ニッポンにアメリカ? どっちも聞いた事ないな」
 ロイドの言葉に、女は更に反論する。
「私だってクランベールなんて聞いた事ないわよ。どこにあるの? 地図見せて」
「やれやれ」
 どこから来たんだか知らないが、世界を知らないとは困ったもんだ。
 ロイドはため息と共に立ち上がり、装置の外へ出た。
 机の引き出しを探り、地図を見つけ出すと、ロイドはそれを持って再び装置の中へ戻った。女の目の前に、地図を広げて突きつける。
「真ん中の一番大きい大陸がまるごとクランベールだ。で? ニッポンはどこだ?」
 地図を凝視して、女の瞳が困惑したように揺れる。そして、つぶやくように問いかけた。
「これ、世界地図?」
「あぁ。世界地図も見た事ないのか?」
 呆れたように嘆息するロイドに、女は叫ぶように反論する。
「だって! 私の知ってる世界地図と違うんだもの!」
「はぁ?」
 ふざけているようには見えないが、何を言っているのかわからない。
 女がロイドの前に、手の平を広げて差し出した。
「書くものちょうだい」
 ロイドは白衣の胸ポケットから、メモ帳とペンを取り出して女に渡した。彼女は床の上にメモ帳を置いて、そこに何やら絵を描いている。
 出来上がった絵をロイドの前に広げて、女が指で指し示した。
「ここがアメリカで、ここがニッポン。私の知っている世界はこうなの!」
 これが世界? まるきり違う世界地図を、ロイドは見つめる。
 ウソを言っているようには見えない。全く迷うことなく、この地図を描いたところを見ると、でたらめでもなさそうだ。
 そして、ふと思い出した。以前、自分の育ての親に当たる考古学者ブラーヌが、過去に何度か異世界の人間が現れた事があると言っていた事を。
 ロイドはガシガシと頭をかきむしった。
「面倒な事になったみたいだぞ」
「どういう事?」
 自分が知らない世界にいる事を、この女は把握していないようだ。
 装置の故障で勝手に転送機能が作動しただけかと思ったが、そんな単純な事ではなさそうだ。装置に誤動作を起こさせる、何らかの要因があったとしか思えない。
 それを説明すると、女はやっと事の重大さに気が付いたらしい。呆然とした表情でつぶやく。
「異世界……?」
「そうだ。おまえは異世界から来たんだ」
 そう言ってロイドは立ち上がり、装置の外へ出た。
「ラクロットさん、まずい事になった」
 装置に誤動作を起こさせた原因が判明するまで、あの装置を殿下の捜索に使用するわけにはいかない。
 再び誤動作を起こして、また関係のない人間が、どこからか現れては益々面倒だ。
 となると、転送機能のない機能縮小版の装置を使用するしかない。それだと時間がかかりすぎる。何日もかかるかもしれない。
 同時に人による捜索隊も、結成した方がいいだろう。
 だが何日も殿下の姿が見えないと、不審に思われてしまう。それについて、ロイドは名案を思い付いた。
「何かあったんですか?」
 不安そうな顔で問いかけるラクロット氏に、ロイドはにっこり微笑んだ。
「大丈夫です。装置が誤動作を起こしたようです」
 そしてロイドは、ラクロット氏に先ほど考えた事を告げ、捜索隊の結成を頼んだ。ラクロット氏は返事をして、ロイドが思った事と同じ不安を口にする。
「殿下が何日も不在だと、不審に思われませんか?」
「彼女に協力してもらいましょう」
 ロイドが装置の中の女を目で示すと、ラクロット氏はそちらに目を向け、驚いたように言う。
「彼女? 女性に殿下の身代わりを頼むのですか?」
「大丈夫です。私に考えがあります」
 ロイドはそう言うとラクロット氏に、ラフルールの空港と港、街道の出口に見張りをつけるように指示を出した。そして国王陛下への事情の説明と拝謁の許可、殿下の服を一式持ってきてくれるように頼んだ。
 ラクロット氏は了承し、足早に研究室を後にした。
 ラクロット氏を見送り、ロイドは女を説得するため、装置に向かった。
 装置の誤動作の原因が判明しない限り、この女を元いた世界へ帰す方法など、わかりはしない。という事は、しばらくここに、いてもらう事になる。
 野放しにして殿下と同じ顔で、その辺をうろつかれては困るからだ。
 どうせタダ飯食わせるなら、存分に協力してもらおう。それに、試してみたい事がある。
 ロイドは白衣の上から、ポケットの中のピルケースを、そっと確かめた。




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