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4.



 部屋に戻ったロイドは、後ろ手でガラス戸を閉じた。そのまま戸に縋って大きくため息をつく。
「まずった……」
 ユイの反応は確かに予想外だった。そしてそれは後悔と共に、軽く自信を喪失させるものだった。
 ロイドは俯いたまま、手の先を唇に当てた。
「……オレ、キスは上手いと思ってたんだが……」
 ロイドのキスに、女はみんなうっとりとした。怯えられたのは初めてだ。
 ロイドはガラス戸に縋ったまま、ズルズルと腰を落として床に座った。立てた両ひざの上に両腕を投げ出し、ぼんやりと中空を見つめる。再び大きなため息が漏れた。
 小鳥ロボットは、どうやら気に入ってもらえたようだ。しかしロイド本人は、拒絶されてしまった。
 子供には見えないし、下ネタにも動じないユイが、まさかキスを知らないとは思わなかった。
 怯えるほど衝撃を受けたとすると、手なずけるどころか、よけいに反抗心を煽ってしまったのではないだろうか。
 ユイに拒絶されてしまった事に、ロイド自身も少なからず衝撃を受けている事が、自分でも不思議だった。
 あの反抗的な態度や、すぐに手が出るところを見ると、元々好かれてはいないはずだ。それが決定的になっただけで、どうしてこれほど落胆するのだろう。
 考えても分からない事は、考えない方がいい。
 ロイドはおもむろに立ち上がると、部屋の隅に置かれた机の引き出しからタバコを取り出した。口にくわえて火を付け、テラスに出る。
 殿下の部屋に目を向けると、灯りが消えていた。ユイはもう寝たようだ。
 ひと息大きく煙を吸い込む。たまにしか吸わないので、久しぶりに吸うと頭がクラクラした。
 酒を飲むより、よっぽど思考力が低下する。これでもう、余計な事に考えが巡らない。
 頭の芯が痺れるような、この感覚は何かに似ている。そう思って、ふと思い至った。
 ユイの唇だ。
 思い出した途端、また欲しくなった。
「……やばい。あいつの唇、中毒性がある……」
 もう一度、ユイとキスがしたい。
 けれど拒絶されてしまった以上、それは叶わぬ夢なのかもしれない。
 好奇心に負けた己の軽率さを、ロイドは激しく後悔した。



 翌朝ロイドは今日のマイクロマシンをユイに飲ませるため、テラス経由で再び殿下の部屋を訪れた。
 ゆうべ拒絶されてしまったので、また苦労して飲ませる事になるかもしれないが、飲ませないわけにはいかない。
 ガラス戸が少し開いたままなのに驚きつつ、外から声をかけた。返事はない。
 リビングを裸でうろついているかもしれないと言っていたので、何度か「殿下」と呼んでみた。しかし返事はない。
 ねぼけていたら自分の事だと分からないのかもしれない。仕方なく「ユイ」と呼んでみた。だが、やはり返事はない。
 ロイドは開いた戸の端から、カーテンをよけて恐る恐る中を覗いた。灯りが消えたままの薄暗いリビングに、ユイの姿はない。
 少しホッとしたと同時に、まだ寝ているのかと呆れた。そろそろ朝食の時間だ。ラクロット氏が呼びに来る。
 ロイドは部屋に入り、真っ直ぐ寝室に向かった。
 寝室の扉も少し開いていた。扉をノックして声をかけたが、相変わらず反応がない。
 いい加減苛ついてきて、ロイドはポケットからピルケースを取り出した。中から変声機の姉妹品、拡声器のマイクロマシンを指先でつまむ。口に入れようとして、ふと部屋の中に視線を移した。
 床の上に靴を履いたユイの足が見えた。不審に思い、マイクロマシンをしまうと、取っ手を少し引いて中を覗く。
 床の上にへたり込んで、ベッドに縋ったまま、ぐったりとしているユイの姿がそこにあった。
「ユイ! どうした?」
 ロイドは早足でユイに歩み寄った。ベッドに片手を付いて顔を覗き込み、目が点になった。
 どう見ても、ただ眠っているようにしか見えない。額に手を当ててみたが、熱はないようだ。
 安心してホッと息をついた時、ユイの目の縁に涙の跡を見つけた。
(泣きながら、眠ってしまったのか……)
 自分のキスにそれほどショックを受けたのかと思うと、ロイド自身も胸が痛んだ。
 気が強く、陛下の前でも物怖じしない奴なので、すっかり気配りを忘れていた。
 勝手の分からない異世界に、たった一人でいきなり放り込まれて、心細かっただろう。その不安な気持ちは、ロイドも知っている。
 二十七年前、薄暗い遺跡の中にたった一人で佇んで、酷く心細かった。
 当時の記憶はほとんどないが、その時の不安な気持ちと、差し出されたブラーヌの手が光のように感じられた事だけ、鮮明に覚えている。
 あの時のロイドのように小さな子供ではないが、ユイも心細い事に変わりはないだろう。
 自分のマシンの誤動作に巻き込まれたからには、ユイを無事に元いた世界に帰す義務がロイドにはある。いつになるか分からないその時まで、ユイが不安で健康を害したり、自暴自棄になったりしないように配慮が必要だったのだ。
「ホント、悪かった」
 ロイドはユイの頭をそっと撫でた。
 ピクリと肩が動いて、ユイがうっすらと目を開いた。ロイドは手を引っ込め、今来たかのように装い声をかけた。
「そういう寝方をするのはニッポンの習慣なのか?」
 悲鳴と共にユイは飛び起き叫んだ。
「誰?!」
 あまりの騒々しさに、ロイドは顔をしかめながら、ユイの額を叩いた。
「ねぼけるな。それとも一夜にしてオレの事を忘れたのか?」
 ユイはロイドを見つめたまま、ぼんやりと考え込んでしまった。
 まさか本当に忘れてしまったわけではないだろう。ロイドは少しイタズラ心が湧いてきて、片手でメガネを外しながら顔を近づけた。
「思い出させてやろうか?」
 途端にユイは、ハッとしたようにロイドを突き放して叫んだ。
「覚えてるわよ! ロイド=ヒューパック!」
 するとユイの声に呼応するかのように、ベッドの上で小鳥がピッと鳴いた。
 ロイドはメガネをかけ直し、小鳥に目を向ける。
 ユイがロイドの名を呼んだ時に、小鳥は返事をした。という事は――。
「おい。あいつにオレの名前をつけたのか?」
「え?」
 ロイドが問いかけると、ユイはキョトンとした後、おずおずと小鳥に手を差し出した。
「……ロイド、おいで」
 小鳥はピッと一声鳴くと羽ばたいて、差し出したユイの手の平に着地した。ユイは苦笑してロイドを見上げる。
 一連の様子から、どうも自分で意識して名付けたわけではない事が分かった。小鳥を触りながら、自分の悪口でも言っていたのではないかと思うと、その原因が自分にある事は棚に上げて、ロイドは不愉快になった。
「どういうつもりだ」
 ムッとして見下ろすロイドに、ユイは苦笑したまま答える。
「この子私の命令を聞くんでしょ? あなたに命令してみたかったのよ」
 咄嗟の出任せにしては、上手い言い訳だ。ロイドは冷ややかに笑うと、さらに問い詰める。
「ほおぉ、どんな命令をするつもりだ」
 ユイは不敵な笑みを湛えて、ロイドを指差し小鳥に命令した。
「ロイド! このエロ学者をやっつけて!」
 ユイは絶対命令の事を知らないようだ。ニッポンにはそういう法律はないのかもしれない。
 返事をしただけで動かない小鳥を、ユイは不思議そうに見つめる。
 我が子の攻撃を避けられた事に安堵して、ロイドは大声で笑った。
 人工知能搭載のロボットは、決して人を傷つけないように、最優先の絶対命令を焼き付ける事が法律で義務づけられている。人を傷つけるための、ユイの命令は無効なのだ。それを説明し、
「そういう邪な野望は捨てて、せいぜい”オレ”をかわいがってくれ」
と言うと、ユイは不服そうに、頬を膨らませて見上げた。
 小鳥に攻撃命令を発したという事は、相変わらず彼女には嫌われているようだ。だが、ゆうべの怯えた様子は、すっかりなくなっている。安心したと同時に、ユイの立ち直りの早さに驚いた。
 突然ユイが立ち上がり、詰め寄ってきた。
「ちょっと! どうしてあなたがここにいるのよ!」
「鍵どころか戸が開いていたぞ」
「だからって勝手に入ってこないでって言ったでしょ? しかも寝室まで入ってくるなんて、どういう神経してるのよ!」
 あれだけ散々呼んだのに起きない、おまえの神経の方がどうかしている。そう思ったが、神経を疑われたままでは不愉快なので、ロイドはここに至るまでの経緯を説明した。
 ユイは気まずそうに、ロイドを上目遣いで見上げた。
「……ごめん、まぎらわしくて」
 案外素直に謝った事が意外だった。
「何か用だったの?」
 ユイの問いかけに、ロイドはピルケースを取り出した。マイクロマシンを指先につまんで、彼女の鼻先に突きつける。
「口を開けろ。今日の分だ」
 抵抗するかと思ったが、ユイは素直に口を開いた。開いた口の中に、マイクロマシンを放り込む。
 口を閉じたユイが、マイクロマシンの与える違和感に、少し顔を歪める。それが消えたのを見届けて、ロイドは話しかけた。
「レフォール殿下、喉のお加減はいかがですか?」
 ユイはロイドを見上げて、少し微笑んだ。ユイのこんな表情が自分に向けられるのは、初めてのような気がする。少し嬉しくなった時、ユイが口を開いた。
「あぁ、もう大丈夫だ」
 それを聞いて、高まりかけていた気持ちが、一気に冷めた。そうか。殿下の演技だったんだ。
 ユイが自分に笑いかける理由などない。ロイドは淡々と用件を伝える。
「では後ほど、朝食後にでも私の研究室にお越し下さい。お渡ししたいものがございます」
「わかった」
 ユイの返事を聞いて、ロイドは部屋を出て行こうとした。それをユイが引き止めた。
「あ、ロイド、ボクの朝食を三十分遅らせてくれるようにラクロットに伝えて。昨日、風呂に入ってないんだ」
 ユイは殿下になりきっている。ロイドは振り返り、恭しく頭を下げた。
「かしこまりました」
 思った通り、言葉が直れば、容易に区別できそうにない。ロイドは身体を起こし、フッと笑った。
「なかなか、やるじゃないか」
 ユイは少し得意げに胸を反らす。
「まぁね。腹括ったの。ちゃんとやるから、そっちもさっさと王子様を見つけてよ」
「御意」
 ユイのたくましさに感心しながら、ロイドは軽く手を挙げて、殿下の部屋を後にした。
 自室に向かいながら、なんだか胸の中がモヤモヤして、ロイドは眉を寄せた。
 ユイの言動に一喜一憂している自分に気付き、苛ついた。
 ユイを手なずけようと思ったのは、今後の作業に支障を来しては困るからだ。それは成功したとは言えないが、ユイは殿下の身代わりを務める事を決意したらしい。それだけで八割方、問題はないはずだ。
 なのに自分自身が嫌われたままな事に落胆している。
 ロイドは自室の前で立ち止まった。ガラス戸に映った自分の姿を見つめて問いかける。
「……もしかして、惚れたのか?」
 口に出した途端、鼓動が跳ねた。
 先ほど向けられたユイの笑顔と、なまめかしい唇、その感触が一瞬にして脳裏に浮かぶ。
 もう一度、あの笑顔を見てみたい。そしてもう一度、ユイを抱きしめてキスしたい。
 好奇心とは違う欲求が、ロイドの胸中を満たした。




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