前へ 目次へ 第2話へ
7.



 ロイドは研究室に戻り、明日からやって来るローザンのために、データや資料を作業しやすいように整えた。本体の調査に入ろうかとも思ったが、今から始めると中途半端でキリが悪い。
 それに東屋の穴の事で、ユイに忠告を与えなければならない。それを思うと気が重かった。
 ロイドは早々に作業を切り上げ、研究室を出た。
 夕食を終えて自室に戻ったロイドは、ソファに腰掛け、ぼんやりした。
 ユイが寝てしまう前に、話をしに行かなければならない。
 ユイの身の安全を確保するためとはいえ、行動範囲に制約をかければ益々嫌われるのではないだろうか。
 そんな事を考えて、二の足を踏んでいる自分に気付き、途端におかしくなった。
 ロイドは笑いながら立ち上がった。
「マイナス八がマイナス九になったところで、大差はない」
 ユイには最初から嫌われている。好感度は元々マイナスだ。
 一服して心を落ち着かせてから、ユイに話しに行こう。部屋の隅でタバコに火を付け、ロイドはテラスに出た。
 手すりにもたれ、上向いて煙を吐き出す。見上げる空は、今夜もよく晴れている。
 ゆうべユイが、しきりに星空を眺めていた事を思い出した。ニッポンでは星空は見えないのだろうか。
 二口目を吸い込んだ時、隣の部屋のガラス戸が開く音がした。ユイがテラスに出てきたようだ。
 ロイドの存在に気付くと、ユイはこちらに向かって近付いて来た。
 まさかそんなわけはないだろうが、ユイがまだ怒っているのか確かめたくて、軽く冗談を言ってみる。
「何だ? オレの部屋に忍んで来るつもりだったのか?」
 ユイは軽く受け流した。
「違うわよ。あなた、タバコ吸うの?」
「たまにな」
 ユイの機嫌はすでに直っているようだ。少しホッとしつつ、彼女の側に小鳥がいない事に気付いた。途端にロイドは不愉快な事を思い出した。
 自室前に置かれた机の上の灰皿に、タバコをもみ消しユイを手招いた。
「あ、そうだ。おまえ、ちょっと来い」
 キョトンとした表情で、側まで来たユイの額を強めに叩く。
「誰が、エロ学者だ。変な言葉を教えるな」
 ユイは額を押さえながら、目を見開いた。
「あの子、しゃべったの?!」
「エロ学者って、呼ばれたぞ」
「ずるい! 私はしゃべったの聞いた事ないのに!」
 どうやらユイは、小鳥がしゃべるようになった事を、知らなかったようだ。悔しそうにしているので、つい、からかってみたくなった。
「おまえ、昨日からずっと電源入れっぱなしだろう。あいつは眠らないからな。おまえが眠っている間も、勝手にいろんな事を学習している。しゃべるようになったから、おまえの寝言を復唱するかもしれないぞ」
 笑いながらそう言うと、ユイは頭を抱えて叫んだ。
「そんなの、困る――っ!」
「だったら、夜は電源切っとけ」
「あ、今は切ってる」
 そしてユイは、夜景を見るために外に出てきた事を告げた。夜に小鳥がどこかに飛んでいったら、捜すのが大変なので置いてきたらしい。
「夜景か。運がよければ、おもしろいものが見られるぞ」
 ロイドが手すりに縋って王宮の外に目を向けると、ユイも隣に並んでラフルールの街に視線を移した。街の中をしきりに眺めているので、指摘する。
「街の中じゃない。外だ」
 ユイが顔を上げたと同時に、ラフルールの南東にある、こんもりとした森から、天に向かって青白い光が放たれた。
「今の何?」
 興奮して尋ねるユイに、ロイドは笑って答える。
「運がよかったな。朝話した遺跡だ。時々ああやって光を放つ。昼間に光る事もあるが、夜の方がわかりやすいな。ちなみに今のは、オレが拾われた遺跡だ」
「え? そうなの? また光らないかな」
 ユイはまだ興奮冷めやらぬ様子で、目を輝かせたまま、再び遺跡の方角を見つめる。子供のようにわくわくしている様子がおかしくて、ロイドは声を上げて笑った。
「一度光ったら、しばらくは光らない」
「しばらくって、どれくらい?」
「数時間か、長ければ数日だ」
「じゃあ、本当に運がよかったんだ。もっと、しっかり見とけばよかった」
 ユイは心底ガッカリしたように、手すりに縋って項垂れる。
 遺跡が光るのは、別に珍しい事じゃない。ユイが異世界人だからかもしれないが、これに興味を持つ女の方が珍しい。
 ため息をつくユイを横目にロイドがクスクス笑うと、ユイが訝しげにこちらを向いた。
「何?」
 ロイドは笑顔のまま答える。
「やっぱりおまえ、おもしろい奴だな。予想通りかと思えば、予想外だし、オレのいう事はちっとも聞かないし。おまえほど逆らう奴は他にいないぞ」
「……え……」
 苦笑と共にユイは絶句した。
 ユイと話していて気が付いた。触りさえしなければ、ユイは嫌悪感を露わにしたりはしないようだ。こんな風に雑談だけしていれば、ユイに嫌われている事を忘れそうになる。
 忘れてしまう前に、本題に入ろう。
「足の傷は大したことなかったらしいな」
「うん」
 ロイドは眉間にしわを寄せて、ユイを睨む。
「余計な事はするなと言っただろう」
 ユイはキョトンと首を傾げた。
「え? 何の事?」
 とぼけているわけではなさそうだ。自覚がないとすると、余計に始末が悪い。
「ラクロットさんから聞いた。おまえ、殿下の行動を探っていたらしいな」
 指摘されて、ようやく気が付いたのか、ユイは途端にうろたえた。
「でも、今回はたまたま……」
 ユイの言い訳を、ロイドは遮る。
「たまたまじゃない。あの後、調べに行ってみたら、細工の跡があった」
「え?」
 ユイは絶句してロイドを見つめた。
 ロイドは東屋の調査結果と、誰かが殿下を落とそうとしていた可能性をユイに告げた。それはユイの身も危険だという事だ。
「王宮内の探検はもういい。明日からはなるべくひとりになるな。オレの目の届く場所、研究室にいろ。いいな」
「わかった」
 返事は素直にしたものの、ユイが素直にいう事を聞くかどうかは、甚だ疑問が残る。かといって、ユイが一人にならないように、ついて歩くわけにもいかない。
 どうにかしてユイの身を守る術はないか、ロイドは考えあぐねていた。
 少ししてユイが、ロイドを上目遣いで見つめながら、恐る恐る告げてきた。
「あの……。ジレットに正体ばれちゃったんだけど……」
 そっちはそれほど重要ではない。
「あぁ、それもラクロットさんから聞いた。あの方は大丈夫だろう」
 ロイドが平然と返すと、ユイは面食らったようにつぶやいた。
「え? それだけ?」
「何だ?」
 ロイドが尋ねると、ユイは苦笑しながら答える。
「だって、誰にもばれないようにしろって言ってたから、ばれたらお仕置きでもあるのかと……」
 名案を思い付いた。
 ロイドはニヤリと笑いながら手すりから離れ、ユイの方に一歩踏み出した。
「お仕置きを期待してたのか?」
 お仕置きなら、ユイの嫌がる事をしてもかまわない。
「期待してないから。ないなら、なくていいのよ」
 ユイも何かを察したらしく、ロイドが近付いた分だけ後退する。話をはぐらかそうというつもりか、彼女は突然話題を変えた。
「ジレットから聞いたの。王子様の秘密って、目に見えるもので、見たら驚くものなんだって」
 だが、その手には乗らない。こちらには最優先事項がある。
「まるで謎々だな。漠然としすぎている。お仕置きを帳消しにできるほどの情報じゃないぞ」
 言ったと同時にロイドは、素早くユイの腕を掴んで引き寄せた。倒れ込んできた彼女を、両腕の中に閉じ込める。
 お仕置きがイヤで、ユイがいう事を聞くのだとしたら、それでもかまわない。たとえそのせいで、修復不能なまでに嫌われたとしても、ユイを守る事が出来るのなら。
「放して!」
 案の定ユイは、抵抗して身をよじる。ロイドはユイが身動きできないほど、きつく抱きしめ、耳元で囁いた。
「放さない。お仕置きだからな。おまえ、オレに触られるのがイヤなんだろう?」
「イヤよ」
 間髪入れずに、ユイは即答する。
 分かっていた事とはいえ、直接本人の口から聞かされると、かなり痛い。
 ロイドの口元から、諦めを含んだ笑いが、フッと漏れた。
「はっきりと言うんだな。じゃあ、イヤな事されたくなかったら、今度こそはオレのいう事を聞けよ。明日からはオレの側にいろ。側にいれば、必ず守ってやるから」
 ユイが抵抗を止めたので、ロイドは少し腕の力を緩め、顔を上げた。
 抵抗は止めたものの、緊張は隠せない。伝わるユイの鼓動は早く、見上げる黒い瞳は小さく揺れていた。
 ユイの温もりが、自然にロイドの表情を緩める。
 ユイがいう事を聞いてくれたら、お仕置きの必要もなくなる。これほど間近でユイの顔を見る事は、二度とないのかもしれない。そしてこの温もりに、心安らぐ事も。
 黙ってロイドを見つめていたユイの瞳に、涙が溢れて頬を伝った。
 こんな顔を見たくはなかった。足元が揺らぎそうなほどの絶望感を覚える。
 暴れて罵られるよりも、静かに泣かれる方が辛い。
 これ以上触れるべきではない。すぐにでもユイを解放するべきだ。頭では分かっていても、この温もりを少しでも長く感じていたくて、腕の力を緩めるのが精一杯だった。
「泣くほどイヤなのか?」
 ロイドは静かに問いかけながら、親指の腹でユイの頬をそっと拭う。ユイは嗚咽を飲み込んで、短く答えた。
「……違う。なんでもない……」
「なんでもないのに泣くのか。やはり変わった奴だな、おまえ」
 そう言いながらロイドは、ユイの頭を撫でた。
「オレが嫌いなら、それでかまわない。だが、今度だけはオレのいう事を聞いてくれ。いいな」
 祈りにも似たロイドの懇願に、意外にもユイは少し笑って答えた。
「何度も言わなくてもわかってるわよ。それに、あなたの事、嫌いじゃないわ」
 ロイドは思わず目を見張る。我が目と耳を疑いたくなった。
 この控えめな笑顔は演技ではない。間違いなく自分に向けられている。そして、心底嫌われていると思っていたのに、ユイは嫌いじゃないと確かに言った。
 好きだと言われたわけではない。マイナスがゼロに変わっただけだ。たったそれだけで、舞い上がりそうなほど嬉しくて、知らず知らずに顔がほころんだ。そして思考回路は完全に麻痺した。
「そうか」
 嬉しさのあまりロイドは、涙に濡れたユイのまぶたに軽く口づけた。
 そんな事をすれば、再びマイナスに転落するかもしれない。心の奥で鳴り続ける警鐘を無視して、ロイドはメガネを外した。
 ユイが咄嗟に閉じた目を、ゆっくりと開いた。
 脳の指令も、もはや行動を制御できない。
 ロイドはユイにゆっくりと顔を近づけた。ユイは抵抗するでもなく、ぼんやりとロイドを見つめる。
 唇が触れ合いそうになる間際、わずかばかり残っていた理性が、ユイに尋ねた。
「逃げないのか?」
 ロイドを見つめたまま、ユイはキッパリと答える。
「逃げても無駄だから」
「だったら、目を閉じろ」
 ユイは素直に目を閉じた。承諾の意を受けて、ロイドは行動を再開した。
 もう二度と触れる事が叶わないと諦めていただけに、ユイの唇はより一層甘さを増していた。
 頭の芯が痺れるような、ユイの唇の甘美な魔力に、ロイドは完全に虜となった。



(第1話 完)




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